身近に、手弁当で辺野古や高江に通う一般沖縄県民が複数名いて。自分も辺野古のテントに行ってみたことが1度ある。
活動とか運動とか苦手でどうにも近付けないけど、辺野古に新基地は許さない、オール沖縄ってやつにシンパシーを感じている。
自分の周囲を見渡すと、多分これが平均的な沖縄人。いや辺野古のテントまで行ってるしな、私は左寄りだと認めよう。
けど、その手前のところにいるのが平均的な沖縄人の感覚なのは確か。
基地賛成もいる、ってよく言われるけど。
こんな揉めてもいいことないからそろそろ折れたら?しょうがないじゃん国には敵わない、素直に従った方が。中国怖いしさ。ってところ。
これを賛成とか呼ぶなと思う。諦めだ。
一方。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-383010.html
https://m.youtube.com/watch?v=xFoNoGtJq1E
こういう運動論を見せつけられると。
こういう活動家の手法なしに、市民運動は成り立たないのだろうか。
手弁当で仕事しながら休みに通う人だけでは、反対運動にはならないのか。数にはならないのか。
こうやって数になるから報道されて、こういう問題があることを世に問うことができるわけで。
なんか極端なところに引っ張られて、沖縄自体は置き去りにされてるんじゃないかって恐怖。
“普通の”沖縄人の悲しみ、危機感は、“普通の”日本人にはもはや届かないんじゃないか、って絶望。
遅レスだけどたまたま目に入ったので “普通の”沖縄人の悲しみ、危機感は、“普通の”日本人にはもはや届かないんじゃないか、って絶望。 確かにアイデンティティとか抽象的なこ...