最近、公共の場における(いわゆる)萌え絵についての議論が盛んだ。
風潮として議論がもりあがってる背景は主に三つあると思う。
一、日本でも一般レベルでフェミニズムが意識されるようなり、ああいうのものが「女性に対する抑圧」であると認知されるようになったため。
二、特に twitter でマイノリティの声(とそれに対するバックラッシュ)が広まりやすくなったため。
欧米なんかではそもそも歴史を通じて公共の場に性的なイメージがあまり氾濫してこなかった。
なぜかといえば、キリスト教は性愛やセクシャルなものに対してとても潔癖な宗教で、そういうものを基盤に文化を作ってきた人たちはそもそも「えっちな絵を描いてそれを世間に出しちゃいけないんだ」と自制が働いていた。フリーセックスの時代を経てさえそうだった。エロ絵文化がないではなかったが、それはあくまで秘すべきものだった。
だから、ラリー・フリントというおじさんが高級誌気取ってる『プレイボーイ』につばはいてお下劣なエロ雑誌を創刊したときは大変な大問題になって、「表現の自由」論争が沸き起こった。
そこへきて日本は他力本願の宗教の国だから、エロを抑えるのはお坊さんに任せていればいい。
嫌悪するにしろ称揚するにしろ、庶民はエロに対する政治的な定見など持ってない。
西洋のエロ絵に対する嫌悪には良くも悪くも宗教的な裏打ちがある。だから保守勢力(マジョリティ)を説得しやすいし、そのためにエロ絵擁護派はカウンターカルチャー側に位置していきた。
日本人にはエロ絵の感情に対する何のバックボーンもない。ただ、「その人がえっちなのを嫌悪している」か「その人がえっちなのを好き」か、それだけだ。完全に感覚。だから、互いに互いを説得しにくい。嫌悪側はフェミニズムの議論を援用して、擁護側は70年代的なフラットな表現の自由を標榜して、それぞれぶつかりあうが、そのどちらも西洋からの輸入品で、結局は自分の感性へのお仕着せでしかない。
宗教は無根拠であるけれど、それ自体がなぜか強力な根拠となりうる不思議な道具だ。
こういう方面の文化は、結局ロジックよりそうした宗教的文化の気分の勝負になるんだと思う。
日本はなんとなくのアニミズム=自然っていいよね=セックスって自然だよね=セックスで溢れてて何が悪い? という土壌が保存される。
事実これまではそうなってきた。
裏を返せば、ここに至るまで揺り戻そうとする力があまり働かなかった。
実は文化の隆盛を決定づける大きな要因は政府と法だ。法で規制されると文化は意外にもろい。
政教分離を謳われながら、キリスト教の団体は古くから西洋国家の主要なロビイング団体であったわけで、政府としてはそういう人たちの意をくまねばいけなかった。ただしい清い方向にふらないといけなかった。
もちろん日本にも宗教団体を背景とする政治団体やロビイ団体がいくつか存在するけど、それらはあまり庶民の性規範にあまり興味を持たない。
日本の不幸(あるいは幸福)は、その性的放縦を増幅させるだけの表象文化レベルの高さを持ってしまったことになる。
この世をエロ絵でうめつくす土壌と技術を兼ね備えた国は歴史上、まだ日本以外に登場していない。
これから日本の規範や法がどういう方向へ動くのかはまだわからないけれど、あと四五年は肌感覚でdisったり擁護したりみたいな実のない喧嘩が続くんだと思う。実のない喧嘩自体は悪いことじゃない。そうやって問題が認知され、議論の場が醸成されていくのだから。