自分が考えていたネタのどちらかをここに納めようと思ったが、そのうちの一つだけ愚痴らせてもらう。
まだ大学生という身分ではあるのだが、大学自体に行くことそのものを疑問に感じながらも結局のところ親が主導権を握っていることをいつも思ってる。
今日はそんなことを書き留めたい訳ではない。
自分は20代であるものの、「いつまでも絶えない30~50代くらいが想像する若者のレッテルは何故生まれてしまうのか」を最近無駄に考えていた。
しかし、「若者」とはいってもどこぞの綺麗な表紙で飾られているような清楚な若者ばかりではないのだ。
喋りや風貌からして融通の利く有能そうな奴もいれば、明らかに口だけは達者で具体的な中身がボロカスみたいな奴だっている。
そこで自分が見ている部分では、性格が合わなさそうな相手だとしてもどのような意見を持っているのかを確認している。
今の就活状況は某アニメーション映像みたく、グループディスカッションを行いながら共同で作り上げることが多くなっているかもしれない。
自分も何回かやってみたが、正直言って他力本願で他人に頼り、その内容をまるで自分がやったように自己満足している状況しかなかったように思える。
そういった経験から感じたのは、「若い人で限定した場合に集団の中で使えそうな駒がいれば、そいつに全て人任せにして得た利益を同じく貰おうとしている」という考察に至った。
何故若い人がマスコミによってあたかも中身のない無能な馬鹿みたいにされているのかがなんとなく理解してきたのだ。
「若者が馬鹿だと玩具にされる→あまり具体的なプロセスまで組み立てる思考を停止させている→そのことから現実問題に置き換えると、できそうな奴に全て用件を投げ捨てて楽をしている」ということであるのかもしれない。
これはあくまで自分がそういった人物としか当たらなかった運の悪さなのかもしれない。
だが、もしこれが1つの講義として成り立つのであれば、日本の教育は先進国の中で遅れていると言われたらその意見に同意するだろう。
大学自体がこういった双方で行う講義を積極的に盛り込むのであれば、学生側がただの談笑するレベルで進むようなことは時間と金の無駄だ。
前期でもグループワークの授業を取ることになったが、選考の仕方がコンピューターで分けただけという馬鹿馬鹿しい話だったし、志望動機は長々と打ち込めずたった1コースごとに3,4行程度だけというこの始末。
そう思うと教員はそこまで学生を見る暇もないし、説教や反省させるような態度を取るようであれば、そのようなリスクを生まないよう選考することが一番の回避策だったはず。
こうなるとバブルの時に大学を作り過ぎてしまったツケがだんだん悪化しているのかもしれない。
学歴として早慶クラスの学士博士を取得したとしても、Fランク大学で教授としていること自体に意味があるのか。
そもそも研究機関である大学なのに特に文系学部に関しては研究成果が公開されないのだろうか。
個人的な意見としては、大学として本当に機能しているのは理系の学部と十分な研究費用や材料が存在する上位の大学であると思う。
そして、一番の問題として進学することが当たり前の世の中で、何故小さな頃から勉強以外で自信の持てる個性を身につけさせないのかということである。
日本は同調、集団社会であること自体変わらない。欧米や欧州のような確立されたシステムの中で自らのキャリア構造を若いうちから立てられるチャンスが存在する。
しかし、今の日本は子供を産んだ時点からレースが始まっている。それは「受験」である。
小学校から始まり、幼稚園ではしつけや漢字を読ませるなどのことを徹底している。
このことから子供たちにとってはそれが当たり前の日常ではあるが、逆に親はどういったものを彼らに与え、何を見せているのだろうか。
最近朝のニュース番組を見ていたら、親がある日本古来の物語の一部分を子供に向かって言うと、残りの部分をスラスラと答えていた描写があった。
日本では教育施設、機関に行かせることが中学まで義務付けられている。
そして最終的な目標が受験とされている世の中で、学校に対して縋っている、甘えているのかもしれない。
学校に行けばやりたいことが見つかるのであれば、子供がが成人になるまでに彼らのやりがいが感じられる選択肢を助言することも一つの教えではないのか。
神経質な感じではあるが、自分としては金と空気を読む力さえあれば生きていけるのならそうしたい。