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はてなキーワード: 教養主義とは

2024-10-08

ひがしやしき、オタクに刺さる。

おれがはてな匿名ダイアリーに「や、教養主義的なのって別に筋は通ってなくないスカ?」とかグチグチ書き連ねてるところ、彼の音楽では「うわさの本物のアレはまあいうほどでもないな 私だけのそれにまあとっくに出会ってたかルーブルのあれもでっかいスピーカーlowもいうほどではないな」と歌われる。

ある種の人間が抱えてるであろう気持ちを、中々言葉にならないけれど言いたくてたまらないようなものを、短くかっこよく言ってのける。好きなんだよそういうのが。蓋をしがちな心の大事な部分がくすぐられちゃうよ。

劇的でない生活への嫌悪フィクション永遠性や物語性への憧憬思春期とともに卒業しろとでも言われそうな心。

人とズレてることに強く苦しむ訳でもなく、これがオレだぜ!と強がって掲げる訳でもない。「まとも」でない自覚はありつつ、変わることを切望する訳でもない。諦念混じりの自嘲的な語り口で内省的な心情を綴る。でも時々熱いものもある。

そこにオタクワードを散りばめて、共感性というかオタク的内輪感を高める。

生活感のある言葉で描かれる感傷ワンルームセックスタバコ的な「エモ」って、自分の中の社会性の顔色を伺って小馬鹿にする姿勢を取りつつも、そういう退廃的なものにはちょっと良さを感じてしまう。そこでオタクにとって遥かに身近なモチーフを持ち出された上、内向きのめんどくさい目線から放たれたらもうね。「こういうのちょっと恥ずかしいかな」とか思う余裕なんて吹き飛んでしまう。

自負にせよ羨望にせよ専門家信仰選民意識のようなものが高まって、最近じゃインターネットで「オタクですらない何か」とでも自虐したり揶揄されるような内省的な生き物にとても刺さる。「オタク」という言葉の芯に内向きな精神性を感じている人間に。

熱心にコンテンツ摂取してるかどうかはあまり重要問題じゃない気がする。

最初に聴いた時は、ひでえ歌声だと思った。低く濁ったオタクボイス。

Twitterの近隣フォロー圏内局所的に流行っているのか数年ほど前から名前を聞いていて、試しにと聴き始めた気がする。

アマチュアというかインディーズというか、そういう人の曲を聴くのってなんかオシャレっぽいなと思ってしばらく聴いてた。

ラップって言うけど、コテコテの感じではない。時々韻踏んでるなって所はある。あとたまに来る畳み掛けるようなフロウ気持ち良い。

声については慣れた。志村正彦と違って特に魅力だとは感じないけど。低い声、オクターブ上の高い声、その両方が使い分けられてる。高い方が入ってると比較的聴きやすい。でもポツリと呟くようなフレーズに使われがちな低いオタク声の方がエンパシー高まる気がする。

音楽的な面白さはよく分からない。

ただやっぱり言葉自然と耳に引っかかる。

よっぽど繰り返し聴いてるんでもなければ、おれあんまり音楽聴いてて歌詞が耳に入ることないんだけど。やっぱラップってそこが大事なんかな。

ちょっと前にキタタツヤが取り上げてたらしいけど、おれはキタタツヤをよく知らんのであんまりピンと来ない。

君が永遠でとても嬉しかった

もういない人に言ってもしょうがないんですけどね

talking病気がちガールを夏

人生ちゃんは続くらしい

今夜、すべてのyoutubeliveで

辺りが好きですね。

2024-09-04

きじゃない(嫌いという訳ではない)音楽聴くのってなんかしんどい

BGM的に耳へと入ってるくる分には別に良いんだけど、腰を据えて聴くとなるとなんかさっさと飛ばして好きな曲聴きたいよって気分になってくる。

サブスク時代弊害とかよく言われてるけど、ブッコフで少ない小遣い叩いてCD買ってた頃からそうだった。まあレコードとか録音技術のない時代にまで遡ればその言い分が更に相似形に存在するのかもしれんけど。

5秒聴いてハマらない曲は最後までハマらない。稀に耐えながらも聴いて好きになる事もあるけど。

技巧や目新しさとかそんなもの置いといて、ハマる曲を聴いた時は雷が落ちたように心が震える。

映画アニメクライマックスに来るようなライブシーンでいまいち盛り上がり切れないのが寂しい。

それまでの物語にお膳立てされて非常に昂ぶっているのに、肝心の音楽にノリ切れないとちょっと冷めてしまう。その手のシーンで音楽的にも物語的にも最高潮共鳴をする体験がしてみたい。

教養主義というか本質主義的な人にしてみれば、良い音楽理解できないのは然るべきリテラシーがないからとか言われそうだけど。

でもやっぱ刺さる曲を聴いた時のあの震えって理解するとかしないの問題じゃないような気がしてならない。なんか理屈で解剖出来ない神秘のようなものを信じたい気持ちもあるのかもしれない。

それもまあ分析するだけのリテラシーを持ち合わせてないだけで、実は好き嫌いを分かつ要素やシステムが明確にあるのかもしれんけど。

2024-06-21

月がデカくて白くて明るかったんでしばらく歩きながら仰ぎ見てた。

いつも思うけど、光り輝く月の美しさそのものには2秒で見飽きてる気がする。

頑張れば30分くらいは見てられるし、もっと本当に頑張れば夜が明けるまで耐えられるとは思う。

でもそれは月をダシにした連想ゲームだったり、ボーッと眺めながら「自分にも自然の美しさを愛でる雅なところもあるじゃないか」という感傷に浸っていたり、

もはや月すら関係のない考え事を始めたりして過ごしているんだと思う。

団子積み上げてワチャワチャするんじゃなく一人でしっぽりと月見してるような人(いるのか?)って、おれが速攻で手放すような感情最後までとは言わずとも数秒よりはずっと長く保ち続けているんだろうか。

これは月に限らず絵とかでも同じ事を思う。

あっちはハナから教養主義的な連想ゲーム意匠探しが楽しみだったりもするんだろうけど、そういうのを超えた「絵の魔力」みたいな事を言う人もいるし。

「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌い多数決しかないのではないかという結論に至った。

この服はなぜ良いのか?

着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快問題だ。

かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。

いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快問題だ。

いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快問題だ。

もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。

いずれの評価軸も快不快好き嫌い問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。

いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。

ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在説明がつかない。

ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威大衆意見は必ずしも一致しない。それなのに権威意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。

謎すぎる。

世界共通自然法則支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的感覚があるのだろうか。

それはまああるか。

様々なノイズを除去しながら、そういった本質的ものを見極めて評価対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。

ただ人類共通感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。

アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?

宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?

多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断基準提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。

論理的分析してみた所でそれが良いかいか論理ではなく基準問題なので、共感の方が重要に思える。

基準に沿った判断合理的にやっていけるけども、基準のもの妥当性はより上位の基準しか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。

これなら原則として良い悪いが好き嫌い多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。

哲学世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。

2024-06-15

映画を観ていて新鮮な感情を抱く事がなくなってきた。

ガキの頃にスターウォーズマトリックス観た時の「かっけぇ……」って気持ちがある訳でもない。

テーマ琴線に触れる作品もあるけど、それも目から鱗が落ちるような体験というよりは自分が大切にしているものを改めて確認するに留まっているような気がする。

惰性で観てる感がある。

それでもSNS見てるよりは楽しいかもしれない。

いやどうなんだろう、配信で観てるとすぐスマホポチポチ始めちゃうし。

この間映画館でゴジラ観た時は中々かっこいいじゃんと思ったけど、それもなんかプリミティブな感性が揺さぶられる感じではない。

映画館のフカフカ椅子デカスクリーンと迫力ある音響怪獣映画代表シリーズを観る贅沢、的な楽しみ方をしている。

それこそ、例えば純粋デザインが好きなだけじゃなく「あのブランドの服を着ている自分」だとか「あの有名人と同じ服を着ている自分」という体験も込みで喜びを感じてるような。

他の作品との関連性だとか、社会の風潮とこじつけてみたりだとか、そういう教養主義的な楽しみ方に走る人の気持ちも分かる。

2024-04-25

例えばビールが嫌いだって言うと、それは本当の味を知らないからだ的な事を言う人が割といる。美味しんぼの読みすぎだろ。

まずビールという大枠が嫌いなんであって、その範囲内で上に行こうが右に行こうがビールとして認識し得る味である限り全部嫌いなんだよね。好きな人からすれば割と大きな違いかもしれんけど、ビールの味がする限りは全部ビールだし全部嫌いなんだよ。

好物ならまあ更に細かいニュアンスを探っていくのが楽しいって気持ち分からんでもない。おれは好物でも大枠さえ好きならもうそれで満足だけど。

バラエティ番組とかでもたまに試されてるけど、好き嫌いを超えて人を感動させる味はグルメ漫画世界しか存在しないと思う。貧乏舌が悪いんだ、受け手が間違ってるんだっていう教養主義めいたようなアレもおれはあんまり好きではないね。単なるポジショントークだけど。

舌をメシに媚びさせたくない。メシの方がおれの舌を揺さぶってみろって思う。そういう願望がある。これはこれでグルメ漫画の読み過ぎな気もする。

あと本当の味ってなんだよ。

ポテンシャルを最大限に引き出した味(誰の好み基準で?)が本当の味なら、身近で一般的に親しまれる代表的なそれだって本当(元来)の味だろ。

2024-03-04

教養について勘違いしている人が多すぎる

教養がどうの、古典がどうのと話題になっているけど、正直教養を身に着けて役立つかどうかなんてなんの役にも立たない。それが勘違いの原因。

教養本質は「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」ってことだぞ。

まり前提となる知識をどれぐらい共有してるかを判定する装置だ。

例えば雑談の中で「お前それwwwこち亀の『どれもおなじじゃないですか』みたいなヤツだよwww」っていって相手に伝われば「あぁ、コイツこち亀ネットミームに最低限は強いんだな」って判定できるからそっち方向の語彙をつかったりネタを振ったりできる。

からなければそういう話は使えないなってなる。

そういうものの判定装置なわけ。だから漫画でも古典でもアニメでも教養があると言っていい。

ただし、いわゆる『教養』ってのは戦前高等学校由来の「教養主義」に基づくものから話がややこしいわけ。

こいつらはエリートだったからやたらと古典外国文学に詳しかった。だからそういうのに精通しているのが「教養」だと誤認された。

でも本質はさっき言った通り「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」だから高等学校エリートガキの間限定教養古典外国文学だったわけ。

それを理想化してしまったのが間違い。

から教養かいってマウントをとるヤツは無視していい。

一方でいろんな人とコミュニケーションをとってみたかったら広く文化学問を齧っておいた方がいい。それが結局「教養」になるだろう。

2024-01-05

背景の知識やら物語だとか、他人解釈だとかを仕入れエンタメ芸術作品を鑑賞する教養主義的なのって無粋だろと思ってた、というか今でも割と思ってる。

じゃあ何でもいいじゃんって話になるから

楽しめないのは感性リテラシーが乏しいから、とか言い出したらもう何でもアリじゃん。盆栽を退屈となじるのがそうなら、大怪獣のあとしまつをこきおろすのも同じことじゃん。

他人の(主に否定的な)感想解像度が低いとかいって小馬鹿にしてる人をインターネットで見るけど、そのご立派な解像度で以てして道端の石ころに宇宙歴史ロマンでも感じてろ、勝手に感動してろクソボケがって思う。

それは話が違うだろ、イイものはイイんだ。変な意地張らずに認めろよ、って感覚的な話だったらまあ分かるけど、それは別に何の理屈にもなってない。

物差しを決めてあとは理詰めでイイものを決めたとて、その物差しのもの妥当性を問うたらやっぱり感覚的な話になってくるだろうから。その道の専門家が良しとしたからイイってのも何の理屈にもならないし。

別に全てに理屈を立てなきゃいけない道理なんかないけど、それならそれでオレは教養を以てしてロジカルに、的確に作品と向き合ってるぜ、みたいな事はあんま言えないんじゃねって思う。そんな事言ってる人はあんまおらんか。

今手元にある事実を元に組み立てた理屈では説明がつかないけど、もしかしたら本当にイイもの定義づける何かがこの世に、というか人間の頭の中にあるのかもしれない。絶対的ではなくとも、傾向レベルでは見える事くらいなら現時点でもあるのかもしれない。それが何かはあんま知りたくないなって思う。

知ったら脳ミソだけ残して幸せ汁に浸すのが至上の幸福だと言われて否定のしようがなくなってしまう気がする。

まあでも教養主義的な鑑賞を実践してみるとやっぱり面白いのは面白い映画小ネタに気がついたりだとか、他の作品からの影響を感じ取ってみたりだとか程度でも面白さは結構高まる

でも額縁解説じゃなくて絵で感動させてくれよ、言葉の先でおれの琴線をバシバシ叩いてみてくれよ、心を激しく揺さぶってみてくれよって気持ちがある。

巨人肩に乗るなんて言うけど、今や人間寿命に対して巨人デカすぎなんじゃないかって思う。巨人肩に乗ってみるのもいいけど、自分目線でも見たいし。自分目線じゃ何も見えないかもしれないけど、一生巨人の肌ばっかり見つめながら肩目指して登っていく羽目になるかもしれない。バランスって事なんだろうけど。

2023-11-29

記録用に使ってたfilmarksに感想を書くようになった。一口コメントから始めて長々と書くことも増えてきたけど、文章ディスクリプション、解釈感想の三つに分けるとして、おれの「感想」部分は「好きだった」くらいしか言ってないような気がする。

ここの流れが分かりやすくまとまってる感じがした。全体的にこういう雰囲気が特徴的、印象的だった。あのキャラクター達の関係性はこんな風だった。このキャラクターはこんな象徴を背負っていそうだ。通底してこんなテーマを感じた、と単なる事実やその解釈をつらつら書いた挙げ句「そこが好きだった」で終わり。あとはどこそこが「かっこよかった」くらい。

他の映画を持ち出した例えも割と多い。あそこがあれっぽくて「かっこよかった」とか。そういう楽しみ方も結構大きいかもしれない。

たまに自分の根源的な価値観に近しい部分の琴線に触れると、あのテーマに対してこういう描き方をしているのが好きだった。自分がこう思っていた事を改めて確認した/こんな側面もあるのかもしれないと思った、とかクドクド書いてる事もある。それはもはや解釈を超えて全体的に感想と言えるかもしれない。

まあ無限にある要素の中から特定の部分に目が行ったというだけでも、そこには自分感性というか琴線のようなものがある程度は反映されてるかもしれない。でも大体観客が注目するのって似たような部分だしな。

おれの感想はここが、ここがという「点」ばかりを見ている感じもする。例えば芯となるテーマについて、それをより効果的に印象づけるシーンや制作の背景、実際の社会情勢を関連づけながらいかに良かった/イマイチだったか書ける人っていうのは、点ではない全体的な見方が出来るんだろうなって思う。

そういう感想を読んでこじつけじみてるな、とかメタ情報に引っ張られ過ぎじゃない?とか思う事もあるけれど、少し憧れがある。

己の感性に耳を傾けるばかり鑑賞に限界を感じ始めたら、そういう教養主義的な鑑賞をするのもありかもしれないなって思った。今よりもっと点が繋がって見えるかもしれない。でも今はあまり肩肘張らず、素朴に楽しみながら自分の好きなものを確かめたい気持ちの方が強いかもしれない。

2023-11-28

海外特に英語圏って日本90年代以降に捨て去った衒学趣味(よく言えば教養主義)みたいなものを未だに持ち続けてるんだよな

90年代流行ったエヴァlainのようなやたら難解かつ衒学的なスタイル日本では馬鹿にされるようになった

難解そうに見せて気取ってるだけで結局中身なんかねーじゃんってのがバレてしまったわけだ

その反動として今のアニメが行き着いた先というのが、なろう系のような安直さをこれでもかと言わんばかりに露骨に表出させた作品の数々だ

下手に賢ぶった小難しい作品なんてイキってるだけでダサい。中身なんて最初からないんだから安直何が悪い?という開き直り合理主義の極みである

(なおこれにはイキリの代表であるヤンキー文化の衰退とも関係があると思われる)

一方で海外で高く評価されているアニメ基本的に難解という評価を受けているものが多い

例えばエヴァAKIRAlain天使のたまごなど

特に後者三作は海外での人気のほうが高いくらいだ

アニメ以外でもその傾向はうかがえる

例えば日本ネット右翼といえば反知性主義の極みともいうべき存在であるが、英語圏ネット右翼はその真逆と言ってもいい

彼らの主張は煎じ詰めれば日本ネット右翼とさしてかわらない

では何が違うのかといえば、彼らは難解な哲学思想をやたらと引用して自身の主張を補強したがるという点だ

ナチスニーチェ引用して自己正当化を図ったのは有名だが、彼らは今でもそういうことをやっている

とはいえ自分に都合のいいように解釈を歪めたりするので、pseudo-intellectual(疑似知性=知的に見せかけているだけ)と呼ばれたりもする

結局のところ、自分の主張に説得力をまとわせるための飾りであって、本質的には中身なんてないのである

でもさあ、面白いじゃん

もう一度ああいもの流行ってほしいよねって話でしたおしまい

2023-11-25

母はコロッケソースをつけない。どうかしてんじゃねえのかコイツはと思っていたけど、街の肉屋で買って食うコロッケソースなんかつけなかったと言っていて、初めてなるほどなって思った。

でもこれは別に理屈が通っているというより、母個人感性はアテにならんけれど一定程度の範囲で受容されている(た)食文化には何らかの権威正当性見出しているというだけの話のような気もした。

おれは教養主義というか権威主義的なものが大嫌いだし美味しんぼ受け売りを語る奴は全員死ねと思ってる。まず個人の快不快ありきだろうと常々思っている、と信じていたけれど結局は権威あやかってる自分を恥じた。

2023-11-21

ここ数年くらいか話題作やビッグタイトルは大体映画館で観てるけど、劇場映像に震えた体験ってあんまりないような気がする。作品として面白いと思うのとはまた別に

この間観たゴジラ迎撃シーンが、音楽と相まってトップになるくらいかもしれない。ゴジラに何の思い入れもないけど、カ、カッケェ……って前のめりになった。それかバルト9の一番デカスクリーンで観た、エヴァのアディショナルインパクトクラクラするような感じか。

スパイダーバース2の、逆さのNYを眺めるシーンとかも綺麗だな〜とは思ったけど、インパクトがあるかと言われると微妙かもしれない。

シャイニングのアレとかマトリックスみたいな、印象的な画に出会えた!って気持ちになってみたい。

でもどうなんだろう。あの辺のもミーム化してたり、もう名作として確立された評価迎合しちゃってたりする所が多分にあるかもしれない。リアルタイム劇場で観てたら震えられたんだろうか。

レザレクションはあんまりだったな……

新しいものでも面白い作品は沢山あるし、体験してもいない過去を賛美して昨今はけしからんと叩くような懐古には走りたくないけど、やっぱ震えてえな。

ここが技術的にどうこう……みたいな知識ありきで舞台裏を勘ぐるような教養主義的なのじゃなくて、理屈抜きで震えてみたい。

2023-10-16

まらないものでも、楽しみしろを見つけようとすれば楽しめる余地はある。

まらないと思うのは、あなた感性教養が乏しく解像度()が低いからだ。

これってどう違うん?って思う。同じ事象を指してどちらにも言い換えられると思うんだけど。

キューブリック映画がつまらんとか言ったらそういうのがウジャウジャ湧きそう。

あの作品面白いと思えないのは、鑑賞リテラシーが低くどこに注目して観れば分からいからだ、とか。この映画の話はただの例えで、他の物事でも色々と。

まあ自分も好きなものが軽く扱われた(ように感じたら)そういう言葉が喉元までせりあがるかもしれない。私は社会性があるのでグッと堪えますけど、世の中失禁してしまう人の多いこと。

なんちゃらの影響がどうこうでどこそこが革新的でこういう特色が云々、みたいなどっかで仕入れたような受け売り諳んじる

どう感じるかの話をしているのに歴史の話を持ち出すのアスペでしょ。

受け手感性がとか言い出したら、じゃあ大怪獣のあとしまつがつまらないという人も全員感性が乏しいって事になりますね。

そうでないなら、オレの好きなものが嫌いな奴は感性が乏しい。オレの嫌いなものが嫌いな奴は正しい。その対象がつまらない。言ってることそういう事になりますからね。「教養」さえあればいくらでも楽しみしろは探せるはずなんだから

まあ教養主義というか権威主義というか本質主義丸出しな……どのような信仰をお持ちでも結構なんですけど、それをグイグイ押し付けられるのは甚だ鬱陶しいという自覚くらいはあって欲しいね

2023-10-14

どれそれがつまらんと言う人がいれば、教養が足りない。歴史を学べ。想像を膨らませろ。オマエは感性が乏しい。って吐き捨てに行く人がいる。インターネットでよく見かける。

全方位を貶す2ch脳みたいな奴もウザいけど、こういう連中もアレだなって思う。

言わんとしてる事は分かるけど。物事に楽しみしろ見出していけば人生割と楽しいけど、ただ偶然の出会いに身を任せて受け身でいるだけじゃそこまで面白くはないし。

ただ何を面白く感じるかは各々が決めればいいことだし、つまらないと思う気持ちは楽しむ気持ち等価だとも思う。

これを面白いと思えないオマエが間違ってる、みたいなのは余計なお世話だよなって。一般的感覚と照らし合わせるとズレてるかもね、くらいのことはあるかもしれんけど。

それがつまらないんじゃなくて、お前がつまらないだけ。みたいな事を言う人は多分に本質主義教養主義、権威主義的な考えを持ってる気がする。

情報無しに受け身でも楽しめるようなゲームエンタメ全振り映画よりも、知識コンパス言葉の先を行く表現物を鑑賞したり、自分の考えなり価値観なりを挟んだり照らし合わせる余地のあるモノを楽しむ方が素晴らしい、より優れた人生体験である、みたいな価値観が前提に置かれてる感じ。

まあ各々の中でそう思うのは勝手だけど。おれもそういう物事の方が生きている意義を感じられるし、自分という存在を確かにできる感じがする。でも別にそれがこの世界に用意された正解という訳ではない。

極端な話をすれば、じゃあその豊かな感性想像力、知識でもってしてその辺の石ころでも眺めながら一生諸行無常宇宙歴史にでも思い出を馳せてれば?そういう身近な喜びを無視して、わざわざ人の作った芸術作品なりで分かりやすく楽しみを得る事も受け手がショボいって事になるんじゃないですか?でもそうではないでしょ。見る側がつまらないとか言い出すと、突き詰めるとそういう事になってくると思う。

人が人を楽しませるために、相互的なものとして作り出した作品無為存在する自然物とではまた話が違うんだけど。でも説教マンって多分グランドキャニオン見たけどつまらなかった、みたいな人がいれば多分知識想像力がとか言い出すんじゃないかな。知らんけど。

2023-09-12

茂木健一郎さんの失言音楽オタクおじさんがションベン漏らして喜んでいる

失言が多いことで有名な茂木健一郎さんが

今時珍しい教養主義音楽観をツイッターで持ち出したので、

甲斐性無しの音楽おじさんたちが大喜びでモギケン不見識を指摘オナニーしている

今回のモギケン発言は言わばど真ん中に放り込まれスローボール

頭が悪くて見識がない音楽をたくさん聞いたことだけが自慢のおじさんでも迷わずフルスイングできるチャンスボールなのだ

おじさん達良かったねえ

普段は難しいことわからいから偉そうなこと言えないけど

たまにはインターネットで偉そうに他人不見識を指摘できる見せ場が貰えて良かったねえ

まるで幼稚園児のお遊戯会普段は目立たないおとなしい子の見せ場をみているような

そんな生ぬるい気持ちに包まれている

2023-08-01

anond:20230801111412

近い部分はあるだろうけど、教養主義 + 体育会系の悪い所集めましたみたいなのはあんまり見ない

2023-04-24

マンガを買うという行為結構難しい

日常的にマンガを読む人は感じないだろうけど、マンガを買うという行為結構ハードルが高い。

最近経験したので書いておく。

 

マンガ単行本というのを今まで買ったことが無かった。いや、AKIRAは買ったが大分前だ。

一方、無料で公開されてるWEBマンガ結構読んでいて漫画太郎や『アンテン様の腹の中』とか、漫画家の病気体験記とか楽しく読ませてもらっていた。

そこで虚構新聞を見るたびに広告が出て気になっていた『無能の鷹』のリンククリックしてAmazonで買ってみた。

めっちゃおもろいやんけ。美人で身のこなしもさまになっていて如何にも仕事が出来そうな女性社員が実はポンコツ仕事も出来ず仕事の話も出来ずに話にならない。

でもその天然ボケなのに威厳がある立ち振る舞いによってポジティブ勘違いされ組織としての仕事うまい方に転がるって話だ。

主人公の鷹野爪子が三浦瑠璃に似ている。

 

次に以前かなり人気があったブログデマこい」の作者が描いたという『女騎士経理になる。』を注文した。

これ読もうと決意して6年以上経ってるわ。

これも最高に面白かった。昔ネトゲしてた頃、中世ヨーロッパファンタジー文脈勉強していたので話の勘所が判って大変に面白い。

ファンタジー舞台はどっかの港町なのだが、これは中世近世を調べた事があればモデルイタリア都市国家フィレンツェジェノバベニスなどと判る。この頃複式簿記が普及し、同時に紙と株式会社持株会社という資本主義の原型が出来た。そこら辺の歴史会計史)を教養主義外連味なくプロットにしている。

同時に度々複式簿記実践が挿しはさまれるという流れだ。これ青色申告簿記勉強してる時に読みたかったぞ。

 

そんな風にマンガ熱に浮かれだした増田は街の本屋に出かけたのだ。

すると、どうやってマンガを買えばいいのかが全然判らぬ!

まず、『無能の鷹』と『女騎士経理になる。』の続巻がどこにあるのかが判らない。また、ネットちょっと読んで名前を知っているような本も全く見つからない。

探しているうちにすっかり疲れて何も買わずに店を出てしまった。

 

次に小さめのブックオフに行ってみた。

すると女戦士の方は見つかった。しかしそれ以外は見つからない。

 

家に帰ってから考えるに、どうも店が大きいと見つからないが小さいと限定的に見つかるという事のようだ。

それは察するに総当たりで探しているからでは?

 

という事で次は棚の並びの特徴を捉えることを目標にしてみた。

すると、ダーッと並ぶ棚は集英社講談社の大出版社単行本が並び、それが一番の売れ線らしいという事が判った。

そして自分が探しているようなマンガマイナーロングテールに属するものになり、それらは端っこや奥の方に追いやられて陳列されているのだと。

でも待てよ?奥付を見ると『無能の鷹』は講談社刊だ。なんで講談社のところにないのか…。

考えながら棚を観察するとマンガ雑誌の連載の有無で場所が決まっているらしいという事に気が付いた。講談社刊であっても連載物じゃない作品中小出版社のものと同じ扱いを受けるようだ。世知辛い

ここまで到達するのに2週間程度を要した。

 

しかし未だ解明されていないのが、漫画家の病気ルポみたいな実録マンガがどこにあるか?だ。

本屋マンガコーナーをぐるぐる回り続ける増田氏はやがて棚の下の方に「大判本」というジャンルを見つけた。

普通単行本より一回り大きいので、高さが違う棚に入っている。

そして下の方にあるという事は売れ行きは良くないという事であろう。本屋によってはこの大判本は柱の影の凹みなどに棚があったりする。

そして実録マンガ系はこのジャンルなのだと。

更に気が付いたのは、連載物は巻数が多く、新刊が出てる限りは現役で、棚を占拠し続ける。

だが実録系は単発なので売り切りなのだ。元がマイナー発行部数が少ない上に、配本があった時しか棚刺しされない。

それが売れたらそれっきりなので本屋で買うのは結構難しいらしい、という事に気が付いた。

ネットで見るとフラットに見えてしまうが実店舗ではヒエラルキーがある。増田が好むのは下層に近い。実録系に至っては一期一会で、偶然見つけた時に確保せねばもう出会いはないのだ。

 

ここまでに至るのに1ヶ月くらい掛かっている。

最初の右も左も分からずすごすごと敗退した時に比べたら大分成長したが、それでも未だに不如意感覚はする。

東京に出てきて「中央線黄色じゃなくてオレンジ電車に乗ればいいんだ」と覚えていたら深夜早朝に黄色電車が無くなって混乱みたいな事が良く起きる。

マンガを買う層と買わない層の間には結構深い溝があり、マンガの売り場は購買スキルがある人間最適化されていると思われる。

シャバに出てもスーパーでの買い物が出来ずに他の客が買ったものを大量にかごに入れてるニキータになった気分である

 

因みにせっかく買ったマンガ本はと言えば、全然読んでいない。

というのも、かなりの速読なので半日10冊近く読んでしまうのだ。買う時に苦労するもの半日10冊も減らしてしまうなど勿体なくて気軽に読めない。無くなったら「どのマンガ面白いのか」という新しいミッションエイムに立ち向かう事になるのだ。

から大事積ん読したままである

2022-08-04

anond:20220804190947

芸術家教養主義者ほど発達障害ぽい人種はいないと思っているんだが、全く別の印象を持ってる人も相当数いるようだ

anond:20220804113148

コラージュサンプリングによる不可解さが面白みか、すごい納得したわ

からタツファンって悪い意味での教養主義というか、元ネタ知ってて当然みたいな、クラシカルオタク文化との相性がいいんだろうな

2022-02-02

教養主義って憧れる

ストイックでしんどそうだけど。

そのままのあなたでいいんですよ、個性教育ですよ、世界に一つだけの花ですよ

とか言って子供育ててたら単なる馬鹿になると思うんだが。

2021-11-20

金がなくて大学へ行けないって人間結構いるんだけど、そういう人間がいることを知りながら、「大学教養を積むべきだ」みたいな教養主義を持ち出す人間ってサイコパスなんですかね?

2021-07-17

anond:20210717134826

立花隆が死んでそういう教養主義時代も完全に終わったと思うがな。

お前が好きそうなタイプ人間の大半は現代ではディレッタントにすらなれない中途半端人間になってしまっている。世の中が細分化して深くなってしまたからね。

「それは本物ではない」という無敵ワードを出せば無条件勝利ということになって気持ちいいのだろうけど。

2021-07-11

佐藤優による曲解官僚

霞が関リアル』という本を佐藤優氏(以下敬称略)が書評している。辛い評価を付けているが、少し前に読んだ身として、このレビューにはかなり問題を感じた。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/291751

なお、佐藤が取り上げている部分の内容は、https://www3.nhk.or.jp/news/special/kasumigaseki/article/article_190408.htmlにあたる(ウェブ連載を本にしているので、違いはあるのだろうが大筋は同じと思われる)。

本の内容の曲解

 佐藤は、東大法学部卒、国家試験首位合格しながら官僚にならなかった、以下の青年発言を引いている。

官僚最初の数年間は下積み時代っていうのがありますし、実際のいい仕事意思決定に関われるのは8年目とか10年目の課長補佐以降だと聞いています。それまでの期間がもったいないですね。上の世代の人が下積みの重要性を言いたがるのは正直理解できません。むだに思える雑用時間を費やしたくない。新卒という、ある意味社会の変化にいちばん敏感な時期の力を最初から最大限発揮していきたいし、そういう力を積極的に使っていこうという企業の中で成長したいんです。年功序列であったり、政治家意見も聞きつつ空気を読んで判断しないといけないという霞が関風土にも染まりたくない」

 これに対して、

国際的にも高度な専門知識、あるいはキャリア官僚として必要な知見と能力を身に付けるには、最低、10年くらいの下積み期間は必要

とし、10年下積みもできないやつは官僚になるな、と主張する。こんな志の低いやつばかりで、日本若いエリートは質が下がっている……というのが、佐藤レビュー趣旨だ。

 だがこの青年は、はじめから第一線の専門家として活躍したいとは書いていない。形式的無駄雑用をしたくないし、若い時期の感性をきちんと使いたいし、意味のある仕事をして成長したい、という主張であり、まっとうと思える。ある意味ではそれも「下積み」であり、この青年が嫌がっているのは、もっと無意味で非合理的な「下積み」だろう。若手官僚能力を活かして働ける環境になっていないのは確かだ(そのことは、この本でも繰り返し言われている)。だいたい、こういう状況が続いたために官僚の志望者が減っているという現状を、佐藤はどう考えているのだろうか。

内容を都合よくかいつまんで批判している

 佐藤言及していないが、この後で青年には親類に官僚がいて仕事ぶりもある程度知っており、官僚を目指したと書かれている。だが、近年の霞が関不祥事をみて、組織全体が振り回されることにげんなりして止めた、とある。分量の制約があるといわればそれまでだが、佐藤が取り出した部分だけ見ると、優秀だが志の低い学生が語っているようにみえる。

 国家公務員試験一定の準備と対策必要とする試験で、どれほど優秀であっても、勉強せずに合格できるものではない。トップ合格であればなおさらだ。この学生に対して、佐藤

「この青年人事院から国家公務員総合職試験1位合格という通知書を用いて、コンサルタント会社投資銀行のような年収の高い企業に入る道具にしようと考えているのだと思う。こういう志の低い者は、霞が関に来ない方がいい」

と評している。コンサル外資就職しようとするやつが、国家公務員試験合格アピールポイントに使うようなコスパの極めて悪いやりかたをするとは思えない。邪推侮辱の類だと思うし、そう思わせるような切り出し方をしているとも感じる。

佐藤があえてこの例を取り上げる理由

 この連載や本で取り上げられている事例の大半は、朝から夜中まで働かされ、しかも前時代的な慣習に絡め取られている霞が関の現状についてだ。政治家小間使のごとく使われ、昔に比べてやりがいもない、そういう話ばかりだ。上の東大生の話も、それが知れ渡ってきたので優秀な人材官僚を目指さなくなった、という文脈に置かれている。

 そうした労働問題に全く触れず、「志の低いやつは官僚になるな」という主張に合致する例をなんとか引っ張り出してきた(上記の通り、合致しているとは思えないが)という事自体が、佐藤の考えを明確に示しているといえる。官僚の志に比べたら、深夜労働も、政治家官僚への横暴も、意味不明な慣習もさほど問題ではないということだ。

佐藤経験との合致

 佐藤がこのような評価をすることも、なんとなくわかる。佐藤著作を読む限り、官僚時代は昼夜を問わず働いて活躍してきたようだし、政治家に尽くしてこそ官僚、という信念もあるのだろう。何の著作か忘れたが、「忙しいし徹夜したいところだが、なにかあったときちゃんと頭が働くように毎日5時間は寝るようにした」という、一周回った社畜自慢に苦笑したことがある。

 そういう彼にとって、「官僚長時間労働で体調を壊す」「妊婦官僚が夜中まで働かざるを得ない」「政治家の支持者の子もの宿題官僚がやらされる」というのは、べつに驚くことでもないし、問題にするようなことでもないのだろう。だが、そうした実情も知れ渡り政治支配が強まって官僚権限も減り、官僚を目指す若者は減っている。そうしたこと問題にしたこの本を読んで、「10年下積みできないやつは官僚を目指すな」と臆面もなく書けるというのは、どういうことなのだろうか。それによって状況は悪くなるとしか思えないが、後輩たちにたいしてそれでいいのだろうか。

増田佐藤氏にたいする評価

 一応書いておくが、私は別に佐藤が嫌いというわけではない。著書もなんだかんだで10冊近く読んできたし、官僚としては有能だったのだろうとは思う。『国家の罠』と『自壊する帝国』の2つは今でもおすすめできるし、

外交官時代エピソードはなかなかおもしろい(「盛ってる」と思われる部分は多いが)。それを離れたビジネス教養主義的な本は、薄っぺらくあまり見るべきところはないと感じるが、かといってひどい本というわけでもない(宗教系の本は未読)。

 これまで佐藤の書く文章で、そこまで大きな違和感を覚えたことはなかったのだが、このレビューには佐藤もつ官僚観が剥き出しで現れたのだろうし、それゆえに強く引っかかったのだと思う。こうした佐藤官僚観は、とても認められるものではないし、一般的には「老害」と呼ぶのではないかと思う。

2021-02-11

anond:20210211182928

このコピペ自体教養主義を礼賛してたかどうかということを言っているのではなく、このコピペ流行っていた頃の時代の空気感の話をしているのだ。

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