はてなキーワード: 教養主義とは
ひがしやしき、オタクに刺さる。
おれがはてな匿名ダイアリーに「や、教養主義的なのって別に筋は通ってなくないスカ?」とかグチグチ書き連ねてるところ、彼の音楽では「うわさの本物のアレはまあいうほどでもないな 私だけのそれにまあとっくに出会ってたから ルーブルのあれもでっかいスピーカーのlowもいうほどではないな」と歌われる。
ある種の人間が抱えてるであろう気持ちを、中々言葉にならないけれど言いたくてたまらないようなものを、短くかっこよく言ってのける。好きなんだよそういうのが。蓋をしがちな心の大事な部分がくすぐられちゃうよ。
劇的でない生活への嫌悪。フィクションの永遠性や物語性への憧憬。思春期とともに卒業しろとでも言われそうな心。
人とズレてることに強く苦しむ訳でもなく、これがオレだぜ!と強がって掲げる訳でもない。「まとも」でない自覚はありつつ、変わることを切望する訳でもない。諦念混じりの自嘲的な語り口で内省的な心情を綴る。でも時々熱いものもある。
そこにオタクワードを散りばめて、共感性というかオタク的内輪感を高める。
生活感のある言葉で描かれる感傷。ワンルーム・セックス・タバコ的な「エモ」って、自分の中の社会性の顔色を伺って小馬鹿にする姿勢を取りつつも、そういう退廃的なものにはちょっと良さを感じてしまう。そこでオタクにとって遥かに身近なモチーフを持ち出された上、内向きのめんどくさい目線から放たれたらもうね。「こういうのちょっと恥ずかしいかな」とか思う余裕なんて吹き飛んでしまう。
自負にせよ羨望にせよ専門家信仰や選民意識のようなものが高まって、最近じゃインターネットで「オタクですらない何か」とでも自虐したり揶揄されるような内省的な生き物にとても刺さる。「オタク」という言葉の芯に内向きな精神性を感じている人間に。
熱心にコンテンツを摂取してるかどうかはあまり重要な問題じゃない気がする。
最初に聴いた時は、ひでえ歌声だと思った。低く濁ったオタクボイス。
Twitterの近隣フォロー圏内で局所的に流行っているのか数年ほど前から名前を聞いていて、試しにと聴き始めた気がする。
アマチュアというかインディーズというか、そういう人の曲を聴くのってなんかオシャレっぽいなと思ってしばらく聴いてた。
ラップって言うけど、コテコテの感じではない。時々韻踏んでるなって所はある。あとたまに来る畳み掛けるようなフロウも気持ち良い。
声については慣れた。志村正彦と違って特に魅力だとは感じないけど。低い声、オクターブ上の高い声、その両方が使い分けられてる。高い方が入ってると比較的聴きやすい。でもポツリと呟くようなフレーズに使われがちな低いオタク声の方がエンパシーは高まる気がする。
よっぽど繰り返し聴いてるんでもなければ、おれあんまり音楽聴いてて歌詞が耳に入ることないんだけど。やっぱラップってそこが大事なんかな。
ちょっと前にキタニタツヤが取り上げてたらしいけど、おれはキタニタツヤをよく知らんのであんまりピンと来ない。
もういない人に言ってもしょうがないんですけどね
人生ちゃんは続くらしい
今夜、すべてのyoutubeliveで
辺りが好きですね。
好きじゃない(嫌いという訳ではない)音楽を聴くのってなんかしんどい。
BGM的に耳へと入ってるくる分には別に良いんだけど、腰を据えて聴くとなるとなんかさっさと飛ばして好きな曲聴きたいよって気分になってくる。
サブスク時代の弊害とかよく言われてるけど、ブッコフで少ない小遣い叩いてCD買ってた頃からそうだった。まあレコードとか録音技術のない時代にまで遡ればその言い分が更に相似形に存在するのかもしれんけど。
5秒聴いてハマらない曲は最後までハマらない。稀に耐えながらも聴いて好きになる事もあるけど。
技巧や目新しさとかそんなもの置いといて、ハマる曲を聴いた時は雷が落ちたように心が震える。
映画やアニメのクライマックスに来るようなライブシーンでいまいち盛り上がり切れないのが寂しい。
それまでの物語にお膳立てされて非常に昂ぶっているのに、肝心の音楽にノリ切れないとちょっと冷めてしまう。その手のシーンで音楽的にも物語的にも最高潮の共鳴をする体験がしてみたい。
教養主義というか本質主義的な人にしてみれば、良い音楽を理解できないのは然るべきリテラシーがないからとか言われそうだけど。
でもやっぱ刺さる曲を聴いた時のあの震えって理解するとかしないの問題じゃないような気がしてならない。なんか理屈で解剖出来ない神秘のようなものを信じたい気持ちもあるのかもしれない。
それもまあ分析するだけのリテラシーを持ち合わせてないだけで、実は好き嫌いを分かつ要素やシステムが明確にあるのかもしれんけど。
月がデカくて白くて明るかったんでしばらく歩きながら仰ぎ見てた。
いつも思うけど、光り輝く月の美しさそのものには2秒で見飽きてる気がする。
頑張れば30分くらいは見てられるし、もっと本当に頑張れば夜が明けるまで耐えられるとは思う。
でもそれは月をダシにした連想ゲームだったり、ボーッと眺めながら「自分にも自然の美しさを愛でる雅なところもあるじゃないか」という感傷に浸っていたり、
もはや月すら関係のない考え事を始めたりして過ごしているんだと思う。
団子積み上げてワチャワチャするんじゃなく一人でしっぽりと月見してるような人(いるのか?)って、おれが速攻で手放すような感情を最後までとは言わずとも数秒よりはずっと長く保ち続けているんだろうか。
これは月に限らず絵とかでも同じ事を思う。
あっちはハナから教養主義的な連想ゲームや意匠探しが楽しみだったりもするんだろうけど、そういうのを超えた「絵の魔力」みたいな事を言う人もいるし。
「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌いの多数決でしかないのではないかという結論に至った。
この服はなぜ良いのか?
着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快の問題だ。
かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快の問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。
安いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快の問題だ。
高いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断が快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快の問題だ。
もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。
いずれの評価軸も快不快、好き嫌いの問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。
いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則を所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから、感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。
ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在の説明がつかない。
ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間は多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威と大衆の意見は必ずしも一致しない。それなのに権威の意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。
謎すぎる。
世界共通の自然法則に支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的な感覚があるのだろうか。
それはまああるか。
様々なノイズを除去しながら、そういった本質的なものを見極めて評価の対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。
ただ人類の共通の感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。
アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?
宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?
多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断の基準を提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間が権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。
論理的に分析してみた所でそれが良いか悪いかは論理ではなく基準の問題なので、共感の方が重要に思える。
基準に沿った判断は合理的にやっていけるけども、基準そのものの妥当性はより上位の基準でしか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。
これなら原則として良い悪いが好き嫌いの多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。
哲学の世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。
ガキの頃にスターウォーズやマトリックス観た時の「かっけぇ……」って気持ちがある訳でもない。
テーマが琴線に触れる作品もあるけど、それも目から鱗が落ちるような体験というよりは自分が大切にしているものを改めて確認するに留まっているような気がする。
惰性で観てる感がある。
いやどうなんだろう、配信で観てるとすぐスマホポチポチ始めちゃうし。
この間映画館でゴジラ観た時は中々かっこいいじゃんと思ったけど、それもなんかプリミティブな感性が揺さぶられる感じではない。
映画館のフカフカの椅子とデカいスクリーンと迫力ある音響で怪獣映画の代表格シリーズを観る贅沢、的な楽しみ方をしている。
それこそ、例えば純粋にデザインが好きなだけじゃなく「あのブランドの服を着ている自分」だとか「あの有名人と同じ服を着ている自分」という体験も込みで喜びを感じてるような。
例えばビールが嫌いだって言うと、それは本当の味を知らないからだ的な事を言う人が割といる。美味しんぼの読みすぎだろ。
まずビールという大枠が嫌いなんであって、その範囲内で上に行こうが右に行こうがビールとして認識し得る味である限り全部嫌いなんだよね。好きな人からすれば割と大きな違いかもしれんけど、ビールの味がする限りは全部ビールだし全部嫌いなんだよ。
好物ならまあ更に細かいニュアンスを探っていくのが楽しいって気持ちも分からんでもない。おれは好物でも大枠さえ好きならもうそれで満足だけど。
バラエティ番組とかでもたまに試されてるけど、好き嫌いを超えて人を感動させる味はグルメ漫画の世界にしか存在しないと思う。貧乏舌が悪いんだ、受け手が間違ってるんだっていう教養主義めいたようなアレもおれはあんまり好きではないね。単なるポジショントークだけど。
舌をメシに媚びさせたくない。メシの方がおれの舌を揺さぶってみろって思う。そういう願望がある。これはこれでグルメ漫画の読み過ぎな気もする。
あと本当の味ってなんだよ。
ポテンシャルを最大限に引き出した味(誰の好み基準で?)が本当の味なら、身近で一般的に親しまれる代表的なそれだって本当(元来)の味だろ。
教養がどうの、古典がどうのと話題になっているけど、正直教養を身に着けて役立つかどうかなんてなんの役にも立たない。それが勘違いの原因。
教養の本質は「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」ってことだぞ。
つまり前提となる知識をどれぐらい共有してるかを判定する装置だ。
例えば雑談の中で「お前それwwwこち亀の『どれもおなじじゃないですか』みたいなヤツだよwww」っていって相手に伝われば「あぁ、コイツはこち亀かネットミームに最低限は強いんだな」って判定できるからそっち方向の語彙をつかったりネタを振ったりできる。
分からなければそういう話は使えないなってなる。
そういうものの判定装置なわけ。だから漫画でも古典でもアニメでも教養があると言っていい。
ただし、いわゆる『教養』ってのは戦前の高等学校由来の「教養主義」に基づくものだから話がややこしいわけ。
こいつらはエリートだったからやたらと古典や外国文学に詳しかった。だからそういうのに精通しているのが「教養」だと誤認された。
でも本質はさっき言った通り「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」だから、高等学校のエリートガキの間限定の教養が古典や外国文学だったわけ。
一方でいろんな人とコミュニケーションをとってみたかったら広く文化や学問を齧っておいた方がいい。それが結局「教養」になるだろう。
背景の知識やら物語だとか、他人の解釈だとかを仕入れてエンタメや芸術作品を鑑賞する教養主義的なのって無粋だろと思ってた、というか今でも割と思ってる。
じゃあ何でもいいじゃんって話になるから。
楽しめないのは感性やリテラシーが乏しいから、とか言い出したらもう何でもアリじゃん。盆栽を退屈となじるのがそうなら、大怪獣のあとしまつをこきおろすのも同じことじゃん。
他人の(主に否定的な)感想を解像度が低いとかいって小馬鹿にしてる人をインターネットで見るけど、そのご立派な解像度で以てして道端の石ころに宇宙の歴史とロマンでも感じてろ、勝手に感動してろクソボケがって思う。
それは話が違うだろ、イイものはイイんだ。変な意地張らずに認めろよ、って感覚的な話だったらまあ分かるけど、それは別に何の理屈にもなってない。
物差しを決めてあとは理詰めでイイものを決めたとて、その物差しそのものの妥当性を問うたらやっぱり感覚的な話になってくるだろうから。その道の専門家が良しとしたからイイってのも何の理屈にもならないし。
別に全てに理屈を立てなきゃいけない道理なんかないけど、それならそれでオレは教養を以てしてロジカルに、的確に作品と向き合ってるぜ、みたいな事はあんま言えないんじゃねって思う。そんな事言ってる人はあんまおらんか。
今手元にある事実を元に組み立てた理屈では説明がつかないけど、もしかしたら本当にイイものを定義づける何かがこの世に、というか人間の頭の中にあるのかもしれない。絶対的ではなくとも、傾向レベルでは見える事くらいなら現時点でもあるのかもしれない。それが何かはあんま知りたくないなって思う。
知ったら脳ミソだけ残して幸せ汁に浸すのが至上の幸福だと言われて否定のしようがなくなってしまう気がする。
まあでも教養主義的な鑑賞を実践してみるとやっぱり面白いのは面白い。映画の小ネタに気がついたりだとか、他の作品からの影響を感じ取ってみたりだとか程度でも面白さは結構高まる。
でも額縁や解説じゃなくて絵で感動させてくれよ、言葉の先でおれの琴線をバシバシ叩いてみてくれよ、心を激しく揺さぶってみてくれよって気持ちがある。
巨人の肩に乗るなんて言うけど、今や人間の寿命に対して巨人デカすぎなんじゃないかって思う。巨人の肩に乗ってみるのもいいけど、自分の目線でも見たいし。自分の目線じゃ何も見えないかもしれないけど、一生巨人の肌ばっかり見つめながら肩目指して登っていく羽目になるかもしれない。バランスって事なんだろうけど。
記録用に使ってたfilmarksに感想を書くようになった。一口コメントから始めて長々と書くことも増えてきたけど、文章をディスクリプション、解釈、感想の三つに分けるとして、おれの「感想」部分は「好きだった」くらいしか言ってないような気がする。
ここの流れが分かりやすくまとまってる感じがした。全体的にこういう雰囲気が特徴的、印象的だった。あのキャラクター達の関係性はこんな風だった。このキャラクターはこんな象徴を背負っていそうだ。通底してこんなテーマを感じた、と単なる事実やその解釈をつらつら書いた挙げ句「そこが好きだった」で終わり。あとはどこそこが「かっこよかった」くらい。
他の映画を持ち出した例えも割と多い。あそこがあれっぽくて「かっこよかった」とか。そういう楽しみ方も結構大きいかもしれない。
たまに自分の根源的な価値観に近しい部分の琴線に触れると、あのテーマに対してこういう描き方をしているのが好きだった。自分がこう思っていた事を改めて確認した/こんな側面もあるのかもしれないと思った、とかクドクド書いてる事もある。それはもはや解釈を超えて全体的に感想と言えるかもしれない。
まあ無限にある要素の中から特定の部分に目が行ったというだけでも、そこには自分の感性というか琴線のようなものがある程度は反映されてるかもしれない。でも大体観客が注目するのって似たような部分だしな。
おれの感想はここが、ここがという「点」ばかりを見ている感じもする。例えば芯となるテーマについて、それをより効果的に印象づけるシーンや制作の背景、実際の社会情勢を関連づけながらいかに良かった/イマイチだったか書ける人っていうのは、点ではない全体的な見方が出来るんだろうなって思う。
そういう感想を読んでこじつけじみてるな、とかメタ情報に引っ張られ過ぎじゃない?とか思う事もあるけれど、少し憧れがある。
己の感性に耳を傾けるばかり鑑賞に限界を感じ始めたら、そういう教養主義的な鑑賞をするのもありかもしれないなって思った。今よりもっと点が繋がって見えるかもしれない。でも今はあまり肩肘張らず、素朴に楽しみながら自分の好きなものを確かめたい気持ちの方が強いかもしれない。
海外、特に英語圏って日本が90年代以降に捨て去った衒学趣味(よく言えば教養主義)みたいなものを未だに持ち続けてるんだよな
90年代に流行ったエヴァやlainのようなやたら難解かつ衒学的なスタイルは日本では馬鹿にされるようになった
難解そうに見せて気取ってるだけで結局中身なんかねーじゃんってのがバレてしまったわけだ
その反動として今のアニメが行き着いた先というのが、なろう系のような安直さをこれでもかと言わんばかりに露骨に表出させた作品の数々だ
下手に賢ぶった小難しい作品なんてイキってるだけでダサい。中身なんて最初からないんだから安直で何が悪い?という開き直り(合理主義の極みである)
(なおこれにはイキリの代表格であるヤンキー文化の衰退とも関係があると思われる)
一方で海外で高く評価されているアニメは基本的に難解という評価を受けているものが多い
アニメ以外でもその傾向はうかがえる
例えば日本のネット右翼といえば反知性主義の極みともいうべき存在であるが、英語圏のネット右翼はその真逆と言ってもいい
では何が違うのかといえば、彼らは難解な哲学や思想をやたらと引用して自身の主張を補強したがるという点だ
ナチスがニーチェを引用して自己正当化を図ったのは有名だが、彼らは今でもそういうことをやっている
とはいえ自分に都合のいいように解釈を歪めたりするので、pseudo-intellectual(疑似知性=知的に見せかけているだけ)と呼ばれたりもする
結局のところ、自分の主張に説得力をまとわせるための飾りであって、本質的には中身なんてないのである
でもさあ、面白いじゃん
ここ数年くらいから話題作やビッグタイトルは大体映画館で観てるけど、劇場で映像に震えた体験ってあんまりないような気がする。作品として面白いと思うのとはまた別に。
この間観たゴジラの迎撃シーンが、音楽と相まってトップになるくらいかもしれない。ゴジラに何の思い入れもないけど、カ、カッケェ……って前のめりになった。それかバルト9の一番デカいスクリーンで観た、エヴァのアディショナルインパクトのクラクラするような感じか。
スパイダーバース2の、逆さのNYを眺めるシーンとかも綺麗だな〜とは思ったけど、インパクトがあるかと言われると微妙かもしれない。
シャイニングのアレとかマトリックスみたいな、印象的な画に出会えた!って気持ちになってみたい。
でもどうなんだろう。あの辺のもミーム化してたり、もう名作として確立された評価に迎合しちゃってたりする所が多分にあるかもしれない。リアルタイムに劇場で観てたら震えられたんだろうか。
新しいものでも面白い作品は沢山あるし、体験してもいない過去を賛美して昨今はけしからんと叩くような懐古には走りたくないけど、やっぱ震えてえな。
つまらないものでも、楽しみしろを見つけようとすれば楽しめる余地はある。
つまらないと思うのは、あなたの感性や教養が乏しく解像度()が低いからだ。
これってどう違うん?って思う。同じ事象を指してどちらにも言い換えられると思うんだけど。
キューブリックの映画がつまらんとか言ったらそういうのがウジャウジャ湧きそう。
あの作品を面白いと思えないのは、鑑賞リテラシーが低くどこに注目して観れば分からないからだ、とか。この映画の話はただの例えで、他の物事でも色々と。
まあ自分も好きなものが軽く扱われた(ように感じたら)そういう言葉が喉元までせりあがるかもしれない。私は社会性があるのでグッと堪えますけど、世の中失禁してしまう人の多いこと。
なんちゃらの影響がどうこうでどこそこが革新的でこういう特色が云々、みたいなどっかで仕入れたような受け売りを諳んじる。
どう感じるかの話をしているのに歴史の話を持ち出すのアスペでしょ。
受け手の感性がとか言い出したら、じゃあ大怪獣のあとしまつがつまらないという人も全員感性が乏しいって事になりますね。
そうでないなら、オレの好きなものが嫌いな奴は感性が乏しい。オレの嫌いなものが嫌いな奴は正しい。その対象がつまらない。言ってることそういう事になりますからね。「教養」さえあればいくらでも楽しみしろは探せるはずなんだから。
まあ教養主義というか権威主義というか本質主義丸出しな……どのような信仰をお持ちでも結構なんですけど、それをグイグイ押し付けられるのは甚だ鬱陶しいという自覚くらいはあって欲しいね。
どれそれがつまらんと言う人がいれば、教養が足りない。歴史を学べ。想像を膨らませろ。オマエは感性が乏しい。って吐き捨てに行く人がいる。インターネットでよく見かける。
全方位を貶す2ch脳みたいな奴もウザいけど、こういう連中もアレだなって思う。
言わんとしてる事は分かるけど。物事に楽しみしろを見出していけば人生割と楽しいけど、ただ偶然の出会いに身を任せて受け身でいるだけじゃそこまで面白くはないし。
ただ何を面白く感じるかは各々が決めればいいことだし、つまらないと思う気持ちは楽しむ気持ちと等価だとも思う。
これを面白いと思えないオマエが間違ってる、みたいなのは余計なお世話だよなって。一般的な感覚と照らし合わせるとズレてるかもね、くらいのことはあるかもしれんけど。
それがつまらないんじゃなくて、お前がつまらないだけ。みたいな事を言う人は多分に本質主義、教養主義、権威主義的な考えを持ってる気がする。
前情報無しに受け身でも楽しめるようなゲームやエンタメ全振り映画よりも、知識をコンパスに言葉の先を行く表現物を鑑賞したり、自分の考えなり価値観なりを挟んだり照らし合わせる余地のあるモノを楽しむ方が素晴らしい、より優れた人生体験である、みたいな価値観が前提に置かれてる感じ。
まあ各々の中でそう思うのは勝手だけど。おれもそういう物事の方が生きている意義を感じられるし、自分という存在を確かにできる感じがする。でも別にそれがこの世界に用意された正解という訳ではない。
極端な話をすれば、じゃあその豊かな感性や想像力、知識でもってしてその辺の石ころでも眺めながら一生諸行無常や宇宙の歴史にでも思い出を馳せてれば?そういう身近な喜びを無視して、わざわざ人の作った芸術作品なりで分かりやすく楽しみを得る事も受け手がショボいって事になるんじゃないですか?でもそうではないでしょ。見る側がつまらないとか言い出すと、突き詰めるとそういう事になってくると思う。
人が人を楽しませるために、相互的なものとして作り出した作品と無為に存在する自然物とではまた話が違うんだけど。でも説教マンって多分グランドキャニオン見たけどつまらなかった、みたいな人がいれば多分知識が想像力がとか言い出すんじゃないかな。知らんけど。
日常的にマンガを読む人は感じないだろうけど、マンガを買うという行為は結構ハードルが高い。
マンガの単行本というのを今まで買ったことが無かった。いや、AKIRAは買ったが大分前だ。
一方、無料で公開されてるWEBマンガは結構読んでいて漫画太郎や『アンテン様の腹の中』とか、漫画家の病気体験記とか楽しく読ませてもらっていた。
そこで虚構新聞を見るたびに広告が出て気になっていた『無能の鷹』のリンクをクリックしてAmazonで買ってみた。
めっちゃおもろいやんけ。美人で身のこなしもさまになっていて如何にも仕事が出来そうな女性社員が実はポンコツで仕事も出来ず仕事の話も出来ずに話にならない。
でもその天然ボケなのに威厳がある立ち振る舞いによってポジティブに勘違いされ組織としての仕事はうまい方に転がるって話だ。
次に以前かなり人気があったブログ「デマこい」の作者が描いたという『女騎士、経理になる。』を注文した。
これ読もうと決意して6年以上経ってるわ。
これも最高に面白かった。昔ネトゲしてた頃、中世ヨーロッパやファンタジーの文脈を勉強していたので話の勘所が判って大変に面白い。
ファンタジーで舞台はどっかの港町なのだが、これは中世~近世を調べた事があればモデルはイタリアの都市国家、フィレンツェ、ジェノバ、ベニスなどと判る。この頃複式簿記が普及し、同時に紙と株式会社、持株会社という資本主義の原型が出来た。そこら辺の歴史(会計史)を教養主義の外連味なくプロットにしている。
同時に度々複式簿記の実践が挿しはさまれるという流れだ。これ青色申告で簿記の勉強してる時に読みたかったぞ。
そんな風にマンガ熱に浮かれだした増田は街の本屋に出かけたのだ。
まず、『無能の鷹』と『女騎士、経理になる。』の続巻がどこにあるのかが判らない。また、ネットでちょっと読んで名前を知っているような本も全く見つからない。
探しているうちにすっかり疲れて何も買わずに店を出てしまった。
次に小さめのブックオフに行ってみた。
すると女戦士の方は見つかった。しかしそれ以外は見つからない。
家に帰ってから考えるに、どうも店が大きいと見つからないが小さいと限定的に見つかるという事のようだ。
それは察するに総当たりで探しているからでは?
という事で次は棚の並びの特徴を捉えることを目標にしてみた。
すると、ダーッと並ぶ棚は集英社や講談社の大出版社の単行本が並び、それが一番の売れ線らしいという事が判った。
そして自分が探しているようなマンガはマイナー、ロングテールに属するものになり、それらは端っこや奥の方に追いやられて陳列されているのだと。
でも待てよ?奥付を見ると『無能の鷹』は講談社刊だ。なんで講談社のところにないのか…。
考えながら棚を観察するとマンガ雑誌の連載の有無で場所が決まっているらしいという事に気が付いた。講談社刊であっても連載物じゃない作品は中小出版社のものと同じ扱いを受けるようだ。世知辛い。
ここまで到達するのに2週間程度を要した。
しかし未だ解明されていないのが、漫画家の病気ルポみたいな実録マンガがどこにあるか?だ。
本屋のマンガコーナーをぐるぐる回り続ける増田氏はやがて棚の下の方に「大判本」というジャンルを見つけた。
普通の単行本より一回り大きいので、高さが違う棚に入っている。
そして下の方にあるという事は売れ行きは良くないという事であろう。本屋によってはこの大判本は柱の影の凹みなどに棚があったりする。
更に気が付いたのは、連載物は巻数が多く、新刊が出てる限りは現役で、棚を占拠し続ける。
だが実録系は単発なので売り切りなのだ。元がマイナーで発行部数が少ない上に、配本があった時しか棚刺しされない。
それが売れたらそれっきりなので本屋で買うのは結構難しいらしい、という事に気が付いた。
ネットで見るとフラットに見えてしまうが実店舗ではヒエラルキーがある。増田が好むのは下層に近い。実録系に至っては一期一会で、偶然見つけた時に確保せねばもう出会いはないのだ。
ここまでに至るのに1ヶ月くらい掛かっている。
最初の右も左も分からずすごすごと敗退した時に比べたら大分成長したが、それでも未だに不如意な感覚はする。
東京に出てきて「中央線の黄色じゃなくてオレンジの電車に乗ればいいんだ」と覚えていたら深夜早朝に黄色電車が無くなって混乱みたいな事が良く起きる。
マンガを買う層と買わない層の間には結構深い溝があり、マンガの売り場は購買スキルがある人間に最適化されていると思われる。
シャバに出てもスーパーでの買い物が出来ずに他の客が買ったものを大量にかごに入れてるニキータになった気分である。
というのも、かなりの速読なので半日で10冊近く読んでしまうのだ。買う時に苦労するものを半日で10冊も減らしてしまうなど勿体なくて気軽に読めない。無くなったら「どのマンガが面白いのか」という新しいミッションエイムに立ち向かう事になるのだ。
『霞が関のリアル』という本を佐藤優氏(以下敬称略)が書評している。辛い評価を付けているが、少し前に読んだ身として、このレビューにはかなり問題を感じた。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/291751
なお、佐藤が取り上げている部分の内容は、https://www3.nhk.or.jp/news/special/kasumigaseki/article/article_190408.htmlにあたる(ウェブ連載を本にしているので、違いはあるのだろうが大筋は同じと思われる)。
佐藤は、東大法学部卒、国家試験に首位合格しながら官僚にならなかった、以下の青年の発言を引いている。
「官僚は最初の数年間は下積み時代っていうのがありますし、実際のいい仕事、意思決定に関われるのは8年目とか10年目の課長補佐以降だと聞いています。それまでの期間がもったいないですね。上の世代の人が下積みの重要性を言いたがるのは正直理解できません。むだに思える雑用に時間を費やしたくない。新卒という、ある意味社会の変化にいちばん敏感な時期の力を最初から最大限発揮していきたいし、そういう力を積極的に使っていこうという企業の中で成長したいんです。年功序列であったり、政治家の意見も聞きつつ空気を読んで判断しないといけないという霞が関の風土にも染まりたくない」
これに対して、
「国際的にも高度な専門知識、あるいはキャリア官僚として必要な知見と能力を身に付けるには、最低、10年くらいの下積み期間は必要」
とし、10年下積みもできないやつは官僚になるな、と主張する。こんな志の低いやつばかりで、日本の若いエリートは質が下がっている……というのが、佐藤のレビューの趣旨だ。
だがこの青年は、はじめから第一線の専門家として活躍したいとは書いていない。形式的で無駄な雑用をしたくないし、若い時期の感性をきちんと使いたいし、意味のある仕事をして成長したい、という主張であり、まっとうと思える。ある意味ではそれも「下積み」であり、この青年が嫌がっているのは、もっと無意味で非合理的な「下積み」だろう。若手官僚が能力を活かして働ける環境になっていないのは確かだ(そのことは、この本でも繰り返し言われている)。だいたい、こういう状況が続いたために官僚の志望者が減っているという現状を、佐藤はどう考えているのだろうか。
佐藤は言及していないが、この後で青年には親類に官僚がいて仕事ぶりもある程度知っており、官僚を目指したと書かれている。だが、近年の霞が関の不祥事をみて、組織全体が振り回されることにげんなりして止めた、とある。分量の制約があるといわればそれまでだが、佐藤が取り出した部分だけ見ると、優秀だが志の低い学生が語っているようにみえる。
国家公務員試験は一定の準備と対策を必要とする試験で、どれほど優秀であっても、勉強せずに合格できるものではない。トップ合格であればなおさらだ。この学生に対して、佐藤は
「この青年は人事院から国家公務員総合職試験1位合格という通知書を用いて、コンサルタント会社か投資銀行のような年収の高い企業に入る道具にしようと考えているのだと思う。こういう志の低い者は、霞が関に来ない方がいい」
と評している。コンサルや外資に就職しようとするやつが、国家公務員試験合格をアピールポイントに使うようなコスパの極めて悪いやりかたをするとは思えない。邪推や侮辱の類だと思うし、そう思わせるような切り出し方をしているとも感じる。
この連載や本で取り上げられている事例の大半は、朝から夜中まで働かされ、しかも前時代的な慣習に絡め取られている霞が関の現状についてだ。政治家に小間使のごとく使われ、昔に比べてやりがいもない、そういう話ばかりだ。上の東大生の話も、それが知れ渡ってきたので優秀な人材が官僚を目指さなくなった、という文脈に置かれている。
そうした労働問題に全く触れず、「志の低いやつは官僚になるな」という主張に合致する例をなんとか引っ張り出してきた(上記の通り、合致しているとは思えないが)という事自体が、佐藤の考えを明確に示しているといえる。官僚の志に比べたら、深夜労働も、政治家の官僚への横暴も、意味不明な慣習もさほど問題ではないということだ。
佐藤がこのような評価をすることも、なんとなくわかる。佐藤の著作を読む限り、官僚時代は昼夜を問わず働いて活躍してきたようだし、政治家に尽くしてこそ官僚、という信念もあるのだろう。何の著作か忘れたが、「忙しいし徹夜したいところだが、なにかあったときにちゃんと頭が働くように毎日5時間は寝るようにした」という、一周回った社畜自慢に苦笑したことがある。
そういう彼にとって、「官僚が長時間労働で体調を壊す」「妊婦の官僚が夜中まで働かざるを得ない」「政治家の支持者の子どもの宿題を官僚がやらされる」というのは、べつに驚くことでもないし、問題にするようなことでもないのだろう。だが、そうした実情も知れ渡り、政治支配が強まって官僚の権限も減り、官僚を目指す若者は減っている。そうしたことを問題にしたこの本を読んで、「10年下積みできないやつは官僚を目指すな」と臆面もなく書けるというのは、どういうことなのだろうか。それによって状況は悪くなるとしか思えないが、後輩たちにたいしてそれでいいのだろうか。
一応書いておくが、私は別に佐藤が嫌いというわけではない。著書もなんだかんだで10冊近く読んできたし、官僚としては有能だったのだろうとは思う。『国家の罠』と『自壊する帝国』の2つは今でもおすすめできるし、
外交官時代のエピソードはなかなかおもしろい(「盛ってる」と思われる部分は多いが)。それを離れたビジネスや教養主義的な本は、薄っぺらくあまり見るべきところはないと感じるが、かといってひどい本というわけでもない(宗教系の本は未読)。
これまで佐藤の書く文章で、そこまで大きな違和感を覚えたことはなかったのだが、このレビューには佐藤のもつ官僚観が剥き出しで現れたのだろうし、それゆえに強く引っかかったのだと思う。こうした佐藤の官僚観は、とても認められるものではないし、一般的には「老害」と呼ぶのではないかと思う。