はてなキーワード: 二束三文とは
グッズ厨の間で時々浮上する話題がある。
「推しのグッズを定価未満で買い取りたいなんて言う奴がいる。これは自身の推しの価値を下げる行為である」
某匿名掲示板でもこれに対する肯定意見は多いけれど、敢えて言いたい。
今日はこの声について考え、発言者たちが目指しているものについて考察した。
1)求めた人の支払った金が向かう先はどこなのか?
普通に考えれば公式だが、この主張をする人々は「Twitterやフリマアプリ、中古屋などで本来はブラインド(キャラを選べないもの)であったグッズを購入する場合」について言っている場合が多いので、その場合という前提で言っている。
すると当然金の行き先は、グッズ出品者の個人または中古屋となるわけで、公式には1銭も入ってこない。
これは悪ではない。手放す側は求めてもいないものを選べずに購入させられているのだから。
新品未開封であれば、中古で買ったなどと一目で見分けられる人間はいないだろう。
むしろ、そんな人がいたら怖い。エスパーかストーカーのどちらかだ。
3)上記2点を踏まえた上で、何故定価未満購入を希望することはいけないのか
彼らの主張を順に追ってみることにしよう。
例えば私はジャワティーがめちゃくちゃ好きである。これの定価は150円くらいであるようだ。
そんな私がネット通販などでまとめ買いをし、1本100円くらいで買ったとしたらどうだろう。
尋ねれば、大体の人が「賢い買い物をした」と答えるだろうと思う。
私は同じ値段で沢山ジャワティーが手に入ればもちろん嬉しい。
そう、グッズのことでないのなら「安く買いたい」と発言する事に対して何ら咎めるものはいないのである。
(ここで『でもダイヤモンドを300円で買いたいって言う人間は~』などという極端な例を引っ張り出してくるアホは置いておいて)
しかし推しのグッズに関して「同じ値段で沢山の推しグッズが欲しい」等と発言すれば、掲題のようなことを主張する輩が湧いてくる。
何故、キャラグッズなどのコレクターズグッズに限って、こんな事を言い出す人間がいるのか。
②愛がない
ただ近頃多くRTされているブラック企業に関するツイートをいくつか目にしている人は、気付いたかもしれない。
そう。精神論を持ち出す=明示できる根拠がない ということなのだ。
「ヤバい企業の紹介文には『やる気』『熱意』という言葉がある」
これは具体的に我が社はこんな風に働きやすいのですよ!という例が出せないからである。
これと同様、定価未満で買い取りたいというのは悪だとするその主張に、明確な理由などないのである。
もしもあるのならはっきりと言っていただきたい。無理だろうが。
4)この主張が目指すもの
この主張が広まり一定の理解を広範囲から得ることで、得をするのは誰だろうか。
そう、まず第一に「需要が低いグッズをなんとか売りさばきたい」人達である。
安く買おうとすることは悪だと擦り込むことで、安く買える方へ流れる人間を食い止め、そんな彼ら相手に「余分な」ものをさばき、1円でも多く原価を回収したい。
そのために、こんな声を広めておく。
自分は需要が低いグッズを、定価未満でも手に入るグッズを定価で買っている。
周囲からすごい!さすが!などと言われるが、そんな事を言う人達は今後とも貴方をご利用させていただきますよと腹の底で嗤っていることだろう。
需要が低いもの、俗に低レート推しと言われる人達は、こんな声に負けないで欲しい。
好きなものを同じ値段で沢山欲しいと思うのは、当然のことだ。
安く買えるのなら、積極的にそれを目指そう。
そしてこの主張を振りかざす連中はとりあえず消えろ。
東京とかに密集して暮らし、家事の分担で喧嘩し、子ども預けて育てんのも一苦労じゃ。
わしは大黒柱が二人分稼いで仕事と家とを分業で守っていくんがええと思っとる。
嫁がバリキャリで働きたい言うならええが、派遣で二束三文で働いてた事をかんがえるとよっぽど贅沢な暮らしができとるし、わしも稼いだ金を使う暇もない荒んだ私生活から解放された。
じゃから最近はバリキャリの女性を支える男性がおってもええと思えてきよった。
フレンズはそれぞれ得意なことが違う。
ええ言葉やと思う。
お金を稼ぐのが得意なフレンズがお金を稼ぎ、家事が得意なフレンズが家事をする。
過去にも罷免される恐れがある判決には定年前の裁判官が割り当てられます。
この判決が出るまでは「なあなあにして騙される馬鹿が受信料を支払ってきた」で通して
民法・メーカーもカモが支払ってるのは自分の意志で支払ってるからと認識していた。
それは「契約の自由」が憲法で保障されていることを知っている限り
それについては話す気力もない。
今まで「騙されるやつが悪い」から「TVを持っていたら全員支払う義務がある」に転じてしまった。
つまり地上波に繋がるTV持ってるだけで今まで支払ってなかったやつも支払い義務が発生してしまったわけ。
そうなると特にTV見てなかった人や興味の薄い人の行動って何だと思う?
「よし、TV捨てるか」
今まで見てなかったし今後も見る予定がないのでTVを捨てるという選択。
ただし、これはTVさえ用意すれば相変わらずNHKが見れる環境なので厳密には契約を結ぶ必要がある。
これは一軒家で増えてきた。
そもそも受信しないってやつ。
子どもがいる家庭でも今の子どもはネットでiPadでYoutube見せてた方がはるかに食い付きがいい。
子ども番組なら専用チャンネルがあるネトフリとかAbemaとか見せればいい。
これは物理的にその家ではNHKを見ることができないのでこの場合は支払う義務は発生しない。
余計なストレスを減らすため工事費を減らすためにもこの判断は今後一軒家に増えると思われる。
個別にTV回線を引くかどうかを選べるようになるかもしれない。
さて、こういった一連の動きでどうなるかというと
単純にTVを買ってくれなくなる。
こうなったからだ。
新居のためについでに買っておくかという選択肢から外す理由ができてしまった。
NHKに受信料払うくらいならネトフリに加入した方が安いしいつでも番組が見れるからな。
絶対数そのものが減ると広告主はTVから別のメディアに変えていく理由ができてしまう。
ただでさえTVは昔のメディアなのにさらに受信料合法化ときたもんだからユーザーの受けは悪くなる一方。
いくら視聴率が高くても絶対数が少なければ広告効果なんて得られない。
先に動いたのはメーカーだった。
これは地上波が映らないのでTVという扱いではなく業務用ディスプレイという扱いだ。
しかしネットにつなぐことができてオンラインの動画を映し出す操作が可能。
これでホテルはNHKの受信料を免れることができる、という意味を示したいのがろう。
「NHKの電波を受信できた時点で支払い義務が発生する」のだ。
つまり映らないディスプレイだけだったとしても、もっと言えば何もモニターが存在していなくとも、
それについての反例は既にいくつか出ている。
NHKだけ映らない機器設置の男性に受信料1310円支払い命令 東京地裁「機器取り外せる」 男性が反論「今度は溶接して司法判断仰ぐ」
https://www.sankei.com/affairs/news/160720/afr1607200032-n1.html
NHKだけ見えないテレビが開発 それでも「受信料払う義務あり」らしい
https://www.j-cast.com/2015/04/13232888.html?p=all
つまり受信料逃れのために業務的にこのディスプレイを買ったところで、司法では負け確なのだ。
つまりTVメーカーは合憲判断で受けたダメージをこの商品で解消することはできない。
今のところ民法が「合憲判断」について何かリアクションしたという話は聞かない。
俺がTV業界のドンなら一刻も早く受信料合憲判断を撤回させなければならないと行動を起こすが、
実際はメタボ気味で金も力もない中年なのでこうして外野根性で経過を見ているに過ぎない。
とにかく、今後家にTVを置く理由がどんどんなくなってくるわけだが
今まで「カモが徴収されている」という情強とは違い、「支払わなければ違法」扱いされる状況になってしまった。
TVを捨てるのは対策とは言えないが、ユーザーレベルでこの完全ではない対応策は水面下でどんどん広がると予想される。
未来、1,2千人規模にまで下がったメディアにスポンサーはまだ魅力を感じてくれるのだろうか?
そもそもの話をすると、なぜNHKは最高裁に合憲と認めさせるところまで行ってしまったのか?
そんなことをしてしまえば、TV廃棄やアンテナの除去を社会に引き起こしてしまう、という予測はできなかったのだろうか?
元々NHKは放送局を維持するための予算を毎年十分すぎるほどもらっている、全部税金だ。
その上でなぜ受信料を徴収する必要があるのか?というと謎でしかないが、単にボーナスのためで、謎でもなんでもなく、
最初から契約の自由を侵害していたがNHKのために可決されてしまった。
それが現代まで伝統として生き残ってきたわけだが本来なら表に出してはいけない問題であった。
細々と、よくわかってない弱者からボーナスを徴収していけばよかったはずである。
たぶん私は貧しいのだ
文庫本一冊買うのも躊躇する
買う価値があるのかと悩む
なのに一旦買ってしまうとこの先読むとも思えないのにいつまでも捨てられない
それでも定価で購入した金額から、たった一人購入者が挟まっただけでこうも価値が目減りするということが受け入れがたい
市場論理からすれば当然の話なのかもしれないが、理屈ではなく、辛い
私は何に金を使ったのだろう
思えば金の価値とは何だろう
例えば2000円の本を買ったとする
私がその本を読み終えれば、それを読むという体験の費用が2000円だったと考えられるのだろうか
その体験に2000円の価値があると考えるならば私がその本を読み終えた時点で既に2000円分は減価償却したということなんだろう
私は2000円分の体験ができる可能性に金を払ったということになる
ここで可能性と言っているのは、本の場合は自分で読み通すという作業をしなければその体験が保証されないからだ
買ったからと言って読み終わるとは限らない。読み終わるかどうかは購入者にかかっている
とにかく本を買うということは、それを読むという体験を買うということなんだろう
読んだ内容が自分の役に立つか、それも気になる
ただ読み終えるだけでは金を時間も労力も無駄になるように感じてしまう
読んだものが頭の中に定着して、その後の人生の役に立つようでなければ、読んだ体験は有意義なものだったとは言えない、と感じてしまう
やっぱりケチなんだろうと思う
こんなことをグダグダ考えていないでとっとと本を買って読んだほうが有意義な時間とお金の使い方ができるのではないかとも思う
だが、私は相変わらずこの問題の周りをぐるぐる回り続けて時間を無駄にしている
とはいえ限られた時間とお金をどの本にどれだけ費やすかが重要な気もする
そう思えば思うほど、また一歩が踏み出せない
ストラテラ、コンサータ、インチュニブ。こいつはドラクエの呪文じゃないぞ。俺たち発達障害者にとってのアルファでありオメガだ。辛いんだ。飲むとアドレナリンが胃の中で大暴れして、食事さえもできなくなる。
ぶっちゃけクスリの効果なんてろくすっぽ感じられない。健常者のフリがなんとか出来るって程度。なのにヤメたら元通り。あっという間に魔法が解けて、ただの落伍者にランクダウンだ。知的障害者ならまだいい。でも、俺たちは健常者と知的障害者の狭間に産み落とされている。社会からは見えない透明人間だから、いつだってセーフティーネットの濁りなき網からこぼれていく。
発達障害者には、常人にはない才能が備わっている、と人は言う。いわく、お前の内なる想像力を引き出せば、健常者どころか超人にだってなれる。いわく、お前は無限の可能性を秘めている。いわく、お前は磨かれていないダイヤモンドだ。シンデレラは意地の悪い姉を差し置いてプリンセスに、野獣は呪いが解けてイケメン王子に最後はなっただろう?You are エジソン and アインシュタイン and スティーブ・ジョブズ、blah blah blah…
ハイハイ、この話はもう終わり。そんな都合のイイ話、あるかってんだ。俺、本で読んで知ってるんだ。海馬とか側坐核とか、脳の一部が常人より小さいだけなんだろう?ようするにただの障害者なんだろう?
ある時、テレビで映画「フォレストガンプ」が放映された翌日、学校でセンセイが俺に言い放ちやがった。「お前は無能なフォレストガンプだな」って。その時は腹が立ったけども、よく考えたら当たってた。そうだよな、映画じゃ主人公のフォレストガンプは知恵遅れだけど、底抜けの優しさと脚の速さで皆から愛された。少なくとも才能があった。卓球だってアメリカ代表になるくらい強かった。
だが俺たちは?チートツールで隠しパラメータを読むまでもねぇ。当ててやるよ、顔面:E・体力:D・知能:D・幸運:E。ゲームならノータイムでリセマラ対象、競馬なら二束三文でデビュー前に売却さ。何かひとつは良いところがあるはずだって?残念、ギリギリ正常であり、かつ真に何の取り柄もないナチュラルボーンの無能だ。
生まれてこのかた、あらゆるコミュニティーで必要とされたことがねぇ。唯一慰めてくれる親は日に日に年老いていく。クラスのみんなは結婚して子供もいるらしい。数少ない俺の友だちは(友だちと言えるのか?)、未だに森の小動物みたいに鼻をヒクヒクさせながら実家に引きこもってやがる。
どこにも属せない俺はどうすりゃいい?最近じゃ、phaとかいうヤツが「持たない幸福論」とか提唱してるそうだ。社会に適合できないはみ出し者は、はみ出し者らしく断捨離して生きれば幸せになれるってさ。それにヨッピーは「明日クビになっても大丈夫!」だって。オイオイ、クビになったらどうすりゃいいんだよ?ブログ記事書けってのか?お前みたいに、パンティー被って裸で渋谷でも駆け巡ったらさ、お布施貰えるのか?
イラッと来たね。そんなことが言えるのは、お前が京大卒だからであり、あるいはお前が元商社マンだからだ。つまりお前らは確かにアウトサイダーかもしれないが、と同時に才能のあるフォレストガンプだからだ。文化資本があるからなんだ。頭がいいからなんだ。人には負けない才能があるからなんだ。ムカつくんだ。
なぁ、教えてくれよ。俺たちの物語には、ハッピーエンドが存在しない。そう言うと、お前らは「誰にだって悩みはあるし、ハッピーエンドの人生を送っちゃいない。まずはその思い込みから脱却しろ」と、ニヤニヤしながら言ってのけるんだろう。それ、病院のセンセイにもこの間言われたよ。でも、それってお前が、医学部卒で4LDKのタワマンに帰ると綺麗な奥さんが笑顔で暖かいご飯を作っており休みの日には子供と遊園地に行き血統書付きのラブラドールレトリバーを飼いベンツを乗り回し悩みをウンウン聞いて薬を処方するだけで年収一千万だからだろう?そう話したら、向こうは押し黙りやがった。
俺も努力すればそうなれるのか?いや、人並みの生活が送れるのか?お前は短期バイトすらロクに受からない人間の気持ちを、頭を横に振られながらゴミを見るような目つきでクビを宣告される人間の余裕を、必死に働いて手取り15万という人間の惨めさを、本当に知っているのか?
発達障害者には隠された才能がある。駄目なところではなく良いところを伸ばしましょう。みんな違ってみんなイイ。ダイバーシティ。人という漢字は支え合ってできています。もう、やめないか?そういう綺麗事。どうせ俺たちは見捨てられる。才能がなきゃ、発達障害者は愛されない。臭いものに蓋をするかのように。まるで最初から存在しないかのように。無能なフォレストガンプに救いは用意されていない。
そこに贖いはなく、最初から天罰だけが与えられている。それでも生き抜くしかない。マハロ・マザーファッカー。みんなくたばりやがれ。
ハピハピハッピー!
早いわね。
ぐうたらな感じで過ごしていた私。
それはさておき、
福袋買ったのよ。
どうせ、
まんざらでもないこの福袋買って満たされる感!
良い福袋だったわね。
でもさ、
どこかの増田にもあったけど、
クリアファイルもらったけどさ
オフィスで使うのは透明無地よろしくなそんなクリアファイルばかりよね。
きっとみんなひた隠しに
使ったとしても、
書類を挟んだクリアファイルを誰かに渡した途端戻ってこない罠だってあるしね。
ふとそう思っちゃったわ。
二束三文よ!
一体どうしたらいいのかしら?
この後のばし体質!
今年は少し手も先手必勝と行きたいところ!
スーパービールクズよろしく
デトックスビアよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
オタクが大枚叩いて集めたがるものと言えば、一昔前はトレカだった。
昔から、あんな小さなカードを集める目的で大枚叩いてたのが大勢いたわけだ。
でも入手してしまうとそこで満足して、カード自体はしまい込んで放置してたりと割とどうでも良かったりして。
カードという価値が残る・転売も出来る、と言ってもブームが終わればどうせ二束三文。
ソシャゲのガチャブームは、集めるものがカードという物質ではなくデジタルデータになった、というだけの話。
主に得たいものは物質ではなく「集めた」と言う満足感なわけだから、モノそのものは実際に存在しなくてもどうでもいいわけだ。
別にオタク向けだけではなく、子供向けでもそういう商法はビックリマンシールといい妖怪メダルといい延々と続いているし
それもブームが終わったり成長してそれに価値を感じられなくなればあっさり捨てられる運命なわけで。
人の本能に収集する事の快感というものが設定されている以上、モノを集める行為はそういった原始的な快感を得られるんだから
こういう商法は無くなりゃせんよなあ。
絵本を売ることに決めた。
絵本が1段まるまる占有している棚を片付けたかったし、ついでに小銭にもなるし。
買取りの申し込みを済ませてすぐに、棚にあるたくさんの絵本を取り出した。
1冊ずつ埃を払って簡単に拭いて箱に入れていきながら、やけに色々なことが思い出された。これは兄の本、これは妹の本、これは毎晩兄妹で取り合うほど好きで、これは妹が本屋の床に座り込んで泣きわめいて買ってもらっていた本……
どうせ持っていても読まないのに、手に取るだけで想像を絶する密度の思い出が甦るこれらのメディアを、二束三文に変えようとする自分の薄汚れた手を見た。
売られた絵本は、新たに求める人の手に渡るそうだ。しかし私はそんなことを考えて売ろうとしていたわけではない。
10数年越しに再び手に取るまで、何もかも忘れていたのであったし、これらを手放すことで、次に忘れたらもう2度と思い出す機会はないだろうと思った。
絵本は開かなかった。ページ1枚たりとも開かず箱に詰めた。理由はわからない。ただ、今ここに積まれた本どもを、どうせ忘れてしまっていたような感傷に乗せられて開いたら、私はこの件について一生立ち止まることになるような気がしたのである。
最近は使ってないけど
アレ使ってると、落札者的に得するもの・損するもの、出品者的に得するもの・損するものが存在するって徐々に気づくよね
そういうまとめ欲しい
例えばなんだろ
HDDなんかは出品者有利、ナンデそんなに高いの?ってくらい売れる
たぶんスペック固定なものって限りなく製品の値段になるんだろうね
専門書なんかは落札者有利、と言っても固定で出してる人多いけど
どうしても金が必要だって人が激安で専門書出してたりするけど、二束三文みたいな値段で買える
メモリは出品者有利
新品より明らかに落ちるけど、激安と言うほどではない
ゲームもそんな感じ
家電、服あたりはよくわからんよね、ブランド品なら分かりやすいんだけど
10万円のものでも、10万円という気持ちで買わなくなる、危ない
この節ではライブ音源を礎と築いた伝説とまで称されるマイク・ミラードという人物を紹介しよう。
彼自身に関してはWikipediaをはじめとして、雑誌の特集や個人のブログ記事を通して幅広い話題があるので人物名のみの紹介で割愛する。
前節でも話に触れたマイク・ミラードが伝説のテーパーと言われる所以は、何も伝説と称される名演を残したことだけではない。
本人の意図せぬ部分である可能性はあるが、彼の歩む足跡に付随したテープ・トレード文化の発展に貢献した軌跡である。
本稿はテーピング・ポリシーに則ったアーティストのテープ・トレードの文化に対して触れることはない。
確固たるシステム、または精神が介在することのない海賊版の流通経路、関わる人間達の側面に対して潜考するための草稿である。
容赦願いたい。
マイク・ミラードがパラノイアと誇張表現を得るまでに至るには、収集家、好事家といった類の人種が関与する。
聖地と呼ばれる西新宿で販売される製品も、データを取り出した後は製品としての価値が形骸化する。
生産数が限られた廃盤製品とは違い、複製されることが前提であるブートレグは実物として鑑賞に耐えうる強度を持たない。
昨日の日付の演奏も、インターネットの海を眺めれば数時間もしない間に流布されたライブ音源を入手出来る。
それは砂浜に漂着した瓶詰め入りの手紙のように。
収集物に関しては興味を持たない人間には一銭の価値も感じられないものが多い。
生前の身内のコレクションを二束三文で手放したという事例を耳にする限りでは少ない話ではない。
"事物が本来の実用的な機能から切り離されて日常とは別の体系に組み込まれること"という哲学者が打ち立てたコレクションの定義を借りて、ブートレグ・コレクターを表するなら鑑賞を前提としない膨大な演奏の記録を持つ人種である。
だが、彼らのコレクションがアーカイブとして日の目を見る日は来ない。
密造酒は興味を持たない人間には味を噛み締めながら酔うことは叶わない。
それは味を理解出来る人間にしか味を説明出来ないことでもあり、コレクターが希少価値を訴える相手が同種の人間に限られる。
マイク・ミラードは自身の録音が外部に供給されないようにテープにデジタル信号を付加するなどの工程を経た。
それは自身の録音のコピーが出回った際に誰が流布したか把握するように念を押した作業であった。
現在では容易にミラード・テープを見つけることが出来るが、当時は残したアーティストの演奏の内容、また入手のし難さから数多くの好事家が録音を欲した。
中には彼の死後に彼の生家を訪ねた者もいるという。
趣味で集め始めた者がいつしかコレクションの穴埋めをするという脅迫観念に囚われ、寄生した。
彼が懸念した事態は奇しくもミラード・テープを愛する人物達からの評価と、年月を経たテープ・トレード文化の発展の影に忘れ去られた。
市場が介在しない空間で語られる希少価値という曖昧な価値観に汚染された人種はやがて、パラサイトとなる。
マイク・ミラードが残した同時期から日本でも同じ状況であり、秘密裏に録音された多数のライブ・テープが存在する。
古くは音楽雑誌での投稿コーナー、インターネット黎明期に於いてはファイル共有ソフト、好きな内容を書き込むことの出来る掲示板まで、ライブ会場で知り合ったアーティストのファン同士の交流から、現在ではSNSまで水面下ではあるが数多くのブートレグが生産され、流通する。
Dead Headsに倣うように群れを成して活動した録音者達が、日本のアーティストの録音を販売したことで逮捕される事案も聞かない話ではない。
YouTubeから連なる動画共有サイトでも初期の段階では、日本のアーティストの動画も数多く見受けられた。エンコード情報を消す手段を知らない者から得られなかった者に供給される状況は、テープ・ヴァインに連なってコンパクトカセットかDATを使用しダビングによる劣化する状況を再現する。
とあるアーティストのニコニコ大百科の項目では、ブートレグの存在を明記されるほど動画共有サイトの発展は影響を及ぼした。
ともあれ、YouTubeでも著作権侵害での削除要請が相次ぎ、現在では日本のアーティストのライブ録音を公に聞ける場面は少ない。
コンサートワッチを嗜む人間は録音現場であるライブ会場で知り合うこともあり、時には機材者の駐車場の取り合いになることもある。
デビューを前提に結成されたアーティストではデビューからブレイクに至るまで、また精力的に活動する現在までの公演の80%の記録が現存すると言われている。
現在ではマスタリングの手法が容易になったこと、高品質の内臓マイクを備えた録音機材が安価であることも鑑みると簡単にミラード・テープに匹敵すると言っても過言ではない録音を生産出来る。またスマートフォンの流行による簡易的な録音も存在する。
特に売上の上位に列なるアーティストの大規模なツアーが行われる期間には、音楽交換掲示板の投稿の量も膨大に膨れ上がる。
彼らの多くはメールで連絡を募り、アップローダーを利用したオンライン・トレードを行う。
海外ではDimeを中心とした界隈があるが、ライブ会場に足を運べなかったファンが、その日の間に新しい演奏を聞こうとするのは日本でも難しいことではない。
時にテーパー、トレーダーの各種が集う場所には目的の物を耳にすることで出来なかった愚痴や被害報告の類も見受けられるが、
ライブ会場でのアナウンスにもあるように禁止行為ということを理解しながら禁忌に触れようとする連中である。
善も悪もないのが前提だ。
表立って行動しない録音者から音源を入手した後に、希少価値を訴え、人の褌で相撲を取るトレーダーも一定数はいる。
マイク・ミラードが至った思考は時代のうねりを渡ろうと、現在のテーパーにも精神は濃厚に受け継がれる。
( 4 ) 決別
筆者自身も隠しもしないがテーパーであり、コレクターでもある。過去形だが。
ひとつの音声ファイルでも再生時間は数時間になり、非可逆圧縮音源だとしても保存容量は比例して肥大化する。
ブートレグを入手することのメリットを語るとすれば、自身の生前以前のライブ音源を聴けることや限られた会場でのみ披露された楽曲を聴けることであろう。
だが、マイク・ミラードが録音を残したことは後世を憂いてのことではない。彼は自身の録音が拡散されることを望まなかった。
彼の近親者のみが入手したfirst-generation copiesと呼ばれる最初のコピーは、彼の直筆のイラストや文字が散りばめられ包装としても凝ったものであった。
簡素なダビングでも済む作業に余計な一手間を付け足したのは、彼がパラノイアであったからではない。
喜ばせることを前提として、実物としての鑑賞にも耐え得る付加価値を生み出そうとしたからだ。
複製の芸術でもある写真を表現手段と選択するアーティストは生産数を限定して、価値を高める。
現在、流通するミレード・テープのコピーに彼の意思は介在しない。
それは現在でも同様に個の間柄から逸脱しては配布されるブートレグに於いては録音者自身の意図は抜け落ちる。
ミラード・テープの精神はテープ・トレードの文化で生まれた星の数ほどあるブートレグにも共通する。
またテーピング・ポリシーを持たないアーティストのファンの間では、流通しないライブ・テープを持ち合わせないトレーダーは相手にもされない。
テーパー同士の限られた関係性の中でしか交換されることのない録音も存在する。同時に寄生虫は繁殖する。
自身の経験を振り返っても、総再生時間にして年単位に匹敵する膨大なライブ音源を耳にすることはない。
愛着と思い入れのあるブートレグ、またはテーパーとしての自身の録音を耳にすることの方が有意義であろう。
ライブ音源を耳することの最大限の感情の再現性にある。時にライブ会場の音響よりも優れた音質で聞かれる演奏には違った感情が湧き上がるかも知れない。
アーティストの込めた感情は違った形ではあるにしろ、いつか聞きたい者の耳に届くことだろう。
パラサイトから見れば喉から手が出るほど欲するブートレグの大半のデータを削除した。
人生を賭けて手に入れようとしたライブ・テープを入手した時から遅かれ早かれ決断しようとしたが、この瞬間に決別をしよう。
ミラード・テープは彼の友人のために。何より彼自身のためにある。我がテープは我が友のために、誰より私のためにある。
Thank You Tapers. I Love You Baby. Fuck You Traders. I Hate You Baby.