はてなキーワード: 青年とは
COLD SLEEP1巻
病院で目覚めた22歳の青年は、自身の名前すら忘れた完全な記憶喪失に陥っていた
交通事故で頭を強く打った後遺症のようで、一般常識はあるものの過去の思い出を何一つ覚えていない
22歳でフリーターをしていたらしいが、入院している間に家は家賃滞納で追い出されており貯金も少なく退院後の行き場はなかった
しかし、友人だという少し年上の藤島さんが同居させてくれ養ってくれることになった
藤島さんは、以前の青年が写真家志望だったからと写真の専門学校に行くよう勧めるがピンとこない
本格的な高価なカメラをプレゼントしてくれたりするが、特に本腰入れて写真技術を学びたいとは思えない
思い出せない「以前の自分」に戻そうとする藤島さんに苛立ちを感じる
それと同時に「今の自分」を見てほしいのだと、異常に献身的で養ってくれる藤島さんに恋をしているのだと気づく
コンビニでバイトするようになり、ふとケーキを買って帰ったところ藤島さんは美味しそうに食べてくれた
厳しい親に育てられ甘いものを一切禁じられていたという藤島さんは大人になってから極端な甘党になっていた
藤島さんを喜ばせるためケーキ屋の開拓をするようになってから、青年はあるケーキ屋の主人と親しくなりその店に転職
パティシエを目指すようになった
藤島さんは、以前は写真家志望だったのにと不満そうではあったが受け入れてくれた
実は青年の交通事故は人身事故で、相手は一方的な過失があるとはいえ青年のせいで死んでいた
資産家の家に生まれた藤島さんは親の遺産である会社を売ってつくった莫大な金を遺族に投じて刑事事件を力技で回避して青年を守っていた
被害者の姉が納得できずに青年を襲った際に藤島さんはかばって負傷
どうしてそこまで藤島さんが自分に尽くすのか青年は怖く思うほどだった
本当はただの友人ではなく恋人同士だったんじゃないかと問いかけ、答えようとしない藤島さんを青年は抱いた
2巻
青年は製菓の資格を取り順調にキャリアを積み重ねつつ藤島さんとラブラブな日々をすごしていた
色々あって家庭はギスギスしていたが、父親が婚外子を引き取ったことで更に悪化
少年の実母はろくでもない女で元からネグレクトの末に失踪し、仕方無く引き取った父にも愛情はない
無関心な父と憎悪を向ける母に苦しめられている少年を放っておけず藤島さんは隠れて優しく接した
過干渉な母親に性的なことを極端に抑制されている藤島さんは、少年を抱きしめて眠っていたある晩にふと少年のちんちんをしごいた
少年は唯一心を許していた藤島さんにイタズラを受けたことに泣き、藤島さんを拒絶しもう誰にも心を開かないようになった
中卒で少年は家出して親たちも探すことはせず、藤島さんは自分のせいだと後悔した
両親が相次いで亡くなりしばらくしてから、青年が事故で意識不明になっていることを知らされた
また身辺を検め、青年がろくでもない薄給の仕事で苦しい生活をしていることや
そんな中でも貯金して写真の専門学校を目指していることを知った
最悪な環境の中で荒みきった姿を知っていただけに、青年が夢を持って生きていてくれたのが藤島さんは嬉しかった
藤島さんは事故を処理し彼の夢を支えることが償いになると思った
青年がなにもかも忘れて恋人になったことに喜びはあったが、罪悪感もつきまとっていた
3巻
アラサーになった青年はある日目覚めて、なんの前触れもなく事故以前の記憶を取り戻した
引き換えにそれ以後の記憶は失い、知らない部屋で目覚めたこと、鏡に映る自分が老けていることに恐怖した
しかも部屋を調べたら、かつて幼い自分にイタズラした最悪な存在である藤島さんとのハメ撮りが出てくる
カレンダーを見れば数年が経っており、外に出れば土地勘のないところで、青年は途方にくれる
記憶喪失になり、それをいいことに性犯罪者の藤島さんにいいように丸め込まれたのだと怒りに燃える
藤島さんをボコボコに殴ったりもしたが、他に行けるところもなく少しずつ関係は軟化
パティシエとしての頑張りが評価され、町の菓子屋ではなくハイレベルな店に修行に行く話もあったことや、
状態が落ち着いたらひとまずうちの店に復帰すればいいよと言ってくれ実の息子のように扱ってくれる店主の存在
それらは、婚外子だの中卒だのでどこにいっても軽んじられた青年がかつては持たないものだった
記憶を取り戻す前の自分の方がよほど人に必要とされて愛されていたと青年は突きつけられる
製菓の技能は記憶とともに失い、道具を持てば体が覚えてる、などということもなく青年はなんのスキルもないアラサーおじさんに成り下がった
これ→ - (半角ハイフン)を行頭に使うと箇条書き出来るよ。だからなんだ?という話でもないが
例
大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。
つまり「少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤングレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。
そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画も青年マンガもルポ漫画も楽しめるという具合。
だからこそ大人の視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。
「子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。
だからラノベという枠組みを供給側がターゲティングに用いるのはちょっとよくわからない。
そんなことしても、同じものを見ても「何がラノベか(青少年向けか)」に照らした判断は全然一致しないおそれも高いから、ラノベという分類を小売で用いたところで、求めてるものが探しやすくなるようなインデックスとしての機能はあまり高くなりえないと思われる。
こんな光景は滅多に見ないものだから深く感心してしまい、青年の横を通りすぎてから立ち止まった。
言いたいことがいくつかまとまりとしてあるので箇条書きの形式でまとめる。
・たとえば乙女ゲーにどっぷりだったりZEROSUM読んだりしてるような分かりやすいオタクが週刊女性とかワイドショーとか見てると思うだろうか?
むしろ彼女らは世間に疎いと言われるぐらいにはそういう井戸端会議のネタになるような、市井の地に足のついた、言い換えれば「夢が微塵もない現実的な情報」は積極的に拒絶してる感じするが。ピーターパン症候群も持ってそうだし。
(むしろそういう二次元系のオタクってピーターパン症候群的な童心が残ってることがそれになってしまう必要条件で、レディコミの生々しい内容を好める成熟した大人とは対極の存在に思える)
・琥珀の夢で酔いましょうが電子書籍サイトでレディコミに分類されているのがなんだうと思った。
「メシヌマ」よりはよほど男でも楽しめる余地ある青年マンガっぽい中身に感じるのだが、なにをもってレディコミなのか
(rentaやbookliveではレディースコミックや女性漫画に括られていて、シーモアやめちゃコミでは少女漫画に括られているので、全会一致というわけでもないが)
・フィーヤンはレディコミといわないという主張があって気になったんだが文句なしのレディコミってどんな作品だろうね。グランマの憂鬱とか認知症になった魔法使いみたいな、おばあさんが主人公の作品はほぼレディコミで確定かね。傘寿まりこは少女漫画と出版社側が言ってるが。
・レディコミには「男が容姿に対して可愛いと思うようなキャラが出てこない」というのが最低条件としてあるんだろうか?
たとえば乙女ゲーで例はひと昔古くて申し訳ないが薄桜鬼やうたのプリンスさまにはヒロインが可愛いという理由で男がヒロインだけ目当てでそういう乙女ゲープレイしてる事例はあった。
しかしレディコミだとキャラが可愛くて男のファンがつく、みたいな魅力がキャラにある作品は(ほぼ)皆無じゃなかろうか。
性的嗜好を刺激するような不細工さというのでもなく、ほんとうにただだぱっとしない売れ残りの女おばさんという感じ。
それはレディコミの定義に関する必要条件みたいなものだからだろうか?またこれにはは意図的に男性をファンから排除しようとする目的もあるのだろうか?
(ほぼ、と書いたのは「アラサー独女シマちゃんのベランダレシピ」)はレディコミならが可愛いヒロインだったから」
・レディコミには今流行りの画風からは外れたひと昔以上前の画風の作品が多い気がする(流行りの絵柄と一致しないのは、逆に画風が流行りにはいままでなかった未来に進んでいるからという場合も想定されるが、そういうわけではなさそう)
とするなら、レディコミを読むのは懐漫を読む感覚を、味わいたい、あるいは懐漫の雰囲気で新作の物語を読みたいからという人も多いのだろうか。
・レディコミや、コアブックスの風刺漫画などが「漫画」という主語で言及される資格を持っている違和感。
たとえばカズオイシグロのようなノーベル賞作家の小説を読む人と、フランス書院のエロラノベ(だけを活字主体の媒体としては)読む人がいたとして、
前者は当然「小説を読むのが好き」というだろうが、後者の人が「小説が好き」とは言わないと思う。
形式的な分類では純文学もエロラノベも確かに「小説」なのだが、あまりにも書き手読み手双方が持つ文化の間では隔たりがある。
そして前者やSFでもミステリーでも大部分はそれを読んでいることに対して、「小説が好き」ということには違和感は感じられないが、エロラノベをもっぱら読んでる人が「小説を好き」といっては、単に媒体だけ共通項の文化圏が他の小説好きの文化圏を侵してるかのような感じになる。
だからこの場合は「小説好き」というのは別に他の「小説らしい小説が好きなわけではない」ことからも自己認識に遭わないから、「エロラノベが好き」というより狭い括りでの言及の仕方になるんじゃないかと思う。
同じことはレディコミ等と他の漫画のあいだの関係にも言えそうで、レディコミはジャンプに比べれば「漫画らしい漫画」というところからかなり遠いところにあるものだと思う。
夢を見せる漫画や不条理をみせるにしてもドラマティックな展開があるのが漫画の多数派ななかで、レディコミは読者投稿に基づいたりするから淡々と現実を描写するだけになる。夢も希望もない。
作者がpixivもやっていてその作品が熱心なファンの萌え語りの対象になるような漫画と、作者がインスタやっててネット記事のおまけコーナーで中年主婦のリアルを描いてるような漫画では、それを取り巻く文化圏は全く相反して交差することもないと思う。
前者は漫画の代表(求心力の中心)たりえるが、後者は漫画のコマ割りや吹き出しや感情の記号化という形式だけを倣っただけの内容面では全然別物を描いてるのにその分類に対して間借りしているだけに見える。
まさに、学習漫画や進研ゼミの販促漫画を読むのが好きだった人が「漫画好き」にあてはまるのかなあ?と同じような感じ。それに対する態度も文化も典型的な漫画好きとは全然異なっていると思う。
あるいは「絵」とは形式を抽象すれば「色の違いによって平面に表現する」ことで、この点で油絵の風景画かラノベイラストレーターも絵描きで、作られたものは絵なのだけども
そこで「絵が見るのが好き」というとき、前者と後者を両方同時に内包し得るのかなあと。両者はその供給も需要もひっくるめて生い立ちの時点で全く異なる文化圏にいるもの同士だろう(もちろん美大出の漫画家レーターもいるっちゃいて前者の文化にもなじんでる人もいるだろうがむしろ例外的)。
そういう意味で、レディコミを読んでる人に向けての「漫画好き」と、少女漫画を読む人に向けての「漫画好き」(あえてレディコミを漫画という総称的用語で言及してよいのならだが)は、言葉が同じというだけで実質別物の意味合いと捉えた方が自然じゃなかろうかと。
・大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。
つまり「少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤングレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。
そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画も青年マンガもルポ漫画も楽しめるという具合。
だからこそ大人の視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。
「子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。
漫画読んでて、途中からなんか違和感を感じ、あれ?このキャラは自分のこと「僕」って言ってるけど、前は一人称「オレ」じゃなかったっけ?と思って1話から読み返すと、当初は一人称「オレ」だったのに、最新話から「僕」になっていたとかいうことがあった。
なんでそんなことが起きるんだ?
漫画家がそのキャラに愛着がなくて一人称が「オレ」だということを忘れてしまったのか?
漫画家はともかく、編集も誰も、世に出るまでに気づかないもんなのか?
と、めちゃくちゃ、もやもやした。
なんか作り手が、そのキャラというか、作品に愛着がないのではないかと疑わざるをえないんだけど。
最初は「僕」で途中から「オレ」なら、ああ途中からキャラが少年から青年へ成長したという演出なのかな、とか思うけど、
「自分語り」や自己開示の認識や評価は、文化によって異なることが研究で示されています。
例えば西洋文化では、自己開示は信頼関係の構築や親密さの表現として肯定的に捉えられることが多いです。ただし、適切な状況で行われる場合です。
一方、日本などの東洋文化では、自己開示は控えめに行うことが一般的で、過度な自己開示は自己中心的と見なされることがあります。
したがって「自分語りが悪い」という考え方は、東洋人の特徴と言えるでしょう。
Source: Conversation with Bing, 2024/4/7
(1) 異文化コミュニケーションにおける 大学生の自己開示に関する .... https://shokei.repo.nii.ac.jp/record/343/files/074-045-061.pdf
(2) 青年期(大学生)における自己開示性とその性差について1 - J-STAGE. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy1926/58/2/58_2_91/_pdf/-char/ja
(3) 異文化コミュニケーションにおける大学生の自己開示に関する .... https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174733151616
(4) 自己開示の日米差 - J-STAGE. https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/72/0/72_1EV170/_article/-char/ja
脳検査等の器質的な診断ではなく、苦痛や行動・精神症状からの診断が標準的。
https://www.msdmanuals.com/ja-jp/
次のような症状がみられる場合(小児または成人)、性別違和と診断されます。
自分の解剖学的な性別がジェンダーアイデンティティと一致していないと感じており、それが6カ月以上続いている
この感情のために、強い苦痛を感じていたり、日常的な役割を普段通り果たすことができない
医師が性別違和の診断を下すために必要とされる上記以外の症状は、小児と青年および成人の間で若干異なります。
小児では、さらに以下の症状の6つ以上がみられる必要もあります。
反対のジェンダー(または他のジェンダー)になりたいという持続的で強固な願望をもっている、または反対のジェンダー(または他のジェンダー)であると主張する
異性の衣服を着ることを強く好み、女児では典型的に女性的な衣服を着ることに抵抗を示す
遊びの中で異性の振る舞いをすることを強く好む
遊び友達として異性を強く好む
自分の解剖学的な性別と一致するジェンダーの典型的な玩具、ゲーム、活動を強く拒絶する(例えば、男児がトラックの玩具やフットボールで遊ぼうとしない)
自分のジェンダーアイデンティティと一致する性的特徴を強く望む
青年と成人では、さらに以下の症状が最低でも1つみられる必要があります。
自分の性的特徴をなくしたいという強い欲求、青年期早期では、第二次性徴(思春期に生じるもの)の出現を止めたいという強い欲求がある
・オタク加齢あるある(生活が忙しくて没入できないとか「物語」の主人公の少年少女青年の年齢から外れて刺さりにくくなってる)もあるんだけど
それに加えて
・原作でクソデカ感情や深い関係がある以外の組合せ以外にハマれない(=顔カプ・捏造カプにハマれない) しかし腐った層にあからさまに媚びてるのが感じられるのは全然惹かれないという心がふたつある
なおかつクソデカ感情深い関係がありつつ腐媚臭くなかったとてキャラにハマれるかも微妙な確率
捜索範囲が狭いだけでドラマとか映画とか小説とか探せば多いのだろうが時間気力がない
Twitterのセンスが信用できる腐った奴らのタイムラインがざわつくまで待つ
今後無くはないんだろうが
枯渇がすごい
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
二階元幹事長「不出馬」で考える スウェーデン82%、日本36.5% これが日本の“おじさん政治”を生む【報道1930】
https://news.yahoo.co.jp/articles/6a3ee6c5fe50fa4313ed01ea0b63592b136edf18
政治とカネに揺れる旧態依然とした日本の政界。85歳の議員が“次の選挙に出ない”と発言したことがニュースになったりする。年齢が不出馬の判断に影響したのかという記者の問いに「年齢の制限があるか?」「お前もその年齢になるんだよ。ばかやろう」と凄んだ自民党の二階元幹事長だ。
二階元幹事長が怒るのも当たり前だと思う。
「スウェーデンの17歳の子に“政治に関わりたい、あるいは選挙に出たいならどうすればいい?”と聞けば、ほとんどの人がこう答えるでしょう。“政党の青年組織に入ります”。そうすることで、もし望めば政治的なキャリアを追求したり、より高いレベルで政治に関与することができる。そういう意識が高いのだ」
イギリスは4つの連合ですが、地方選挙では、すでに2つの地域は16歳で投票できる。いずれ総選挙もそうなっていくでしょう。この15歳の子は、外国から見たらこんな若い子がこんなことを言うのかという例外的なものではなくなっているということを、もうちょっと日本は知っておかなければならない」
なぜ若い者をそれだけで持ち上げるのだろうか。
安楽死が合法の国で起こっていること…「生活保護」より「安楽死」の申請のほうが簡単というカナダの事情 合法化からわずか5年で安楽死は4万人超
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/77281
その欧米を真似して若さを持ち上げるのは、「老いた」 「「アップデートできない」とされる人々に自決を迫る、優生学准教ヘイト社会への一里塚だ。
283プロの3人組アイドルユニット「アルストロメリア」と彼女たちを担当する「プロデューサー」に加えて6名の登場人物達を描く群像劇。
日常に疲弊している登場人物たちが、アルストロメリアの影響を直接または間接的に受けて、少しだけ前向きになれるまでを描く。
性別:女性 / 年齢:26歳 / 会社員 Webディレクター
後輩を指導しながら旅館のウェブサイトのリニューアルの提案活動を行っている。
高熱を出して会社を休むことになったが、他人に任せられないと無理を押して提案書の作成を続ける。
復帰後、後輩の提案成功を知り、自分がいなくても仕事がまわる事にショックを受ける。
アストロメリアの事はよく知らないが、バラエティ番組に出演していた甜花の「自分には甘奈の代わりはできない」という言葉を聞いて羨ましく思う。
かつては新生活に胸を躍らせていたが、今は学業とアルバイトに追われている。「全ては慣れの問題」「毎日は永遠に今日の続きだ」と感情を押し殺すように日々を過ごしている。
アストロメリアの曲は好きで聞いているが、アイドルには興味がなくメンバーの顔も名前も知らない。
ある日務めてるコンビニに甘奈が訪れるが、気が付かずに対応する。
元演劇部。ステージ上で輝くことに憧れていたが、向いてないことに気づき辞めた。
友人には勉強熱心で真面目だと思われているが、甘奈のように可愛くなりたい、変わりたいと思っている。
「使わないけどお守りに」と、甘奈がプロデュースした化粧品を購入する。
商談に訪れたテレビ局の部長から「仕事人」をテーマにしたドキュメンタリー番組への出演を打診され驚く。
アルストロメリアのファン。「先生らしくない」と保護者に言われたことを気にしている。
街中で千雪が出演する結婚式場のCMを見ているところを生徒に目撃され、近々結婚するらしいと噂される。
近々開催されるフェスにアルストロメリアが出演することを知るが「先生らしくなるために」と参加を諦める。
アルストロメリアの曲を買いにCDショップに行くが、娘ぐらいの歳のアイドルのファンになってしまったことに引け目を感じており、なかなか購入することができない。
離れて一人暮らししている娘がおり、メッセージを送るが仕事が忙しいらしくなかなか既読がつかない。
娘と、娘と同じように頑張ってる人を勇気づける曲をかけて欲しいと、アルストロメリアが出演するラジオにお便りを出す。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
大崎姉妹の双子の姉。幼い頃から妹の甘奈に面倒を見てもらっている。人と話すのが苦手で、アニメやゲームなど、インドアな趣味が多い。高校2年生。
娘に送ったメッセージの既読がつかないというラジオに来たお便りに対して、想いがすぐに伝わらなくても諦めずに何回も伝えてあげて欲しいと答える。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
大崎姉妹の双子の妹。誰とでも分け隔てなく接する天真爛漫なギャル。今しかできないことを全力で楽しみたい今ドキの女の子。高校2年生。
姉の甜花からは「なーちゃん」ファンからは「まな」という愛称で呼ばれている。
他人に甘えず自分で自分を褒められるようになりたいと、ストイックに自主練を続けている。
娘に送ったメッセージの既読がつかないというラジオに来たお便りに対して、きっと娘さんはすごく頑張っている時で、見守ってもらえて嬉しいと思うと語る。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
優しい笑顔が印象的な、事務所のお姉さん的存在。母性溢れる落ち着いた佇まいが特徴。手先が器用で、かわいい小物を作るのが趣味。
初めての現場で、案内してくれた青年に「はじめましてですよね」と挨拶をするが、以前仕事で出会ったことのある相手だと分かり謝罪する。
出演したラジオ番組で、よく「皆さん」という言葉を使ってしまいがちだが、不特定多数として一括りにするべきではなかった。よければもっとリスナー自身のことを教えて欲しいと語る。
カーテンを閉ざした部屋で過ごしている。
・ストーリーの終盤、それまで肩書だけの”名も無きモブ”でしかなかった登場人物達の本名が次々と明かされていく演出が話題となった
話数 | サブタイトル |
---|---|
オープニング | I am. |
第1話 | song for Someone |
第2話 | voice for Someone |
第3話 | color for Someone |
第4話 | off stage |
第5話 | good night |
第6話 | present |
エンディング | You are. |
・google:YOUR/MY Love letter シャニマス
アイアムアヒーローが全話無料になってたので読んで無かった後半以降を読み切った
後半、謎解きというか、ゾンビ化を起こすものがどこから来て何を目指して、というのも興味深かった
日常がなくなった世界での人間達の社会の再構築とか争いなんかも興味深く読んでた
けどそれらのどれもがテーマではなくて、主人公の冒険・成長譚、恋愛譚の味付けなんだな、と読み終わっての感想
壮大な世界観で話を拡げるけど、結局は個人の内面世界が肝っていうの、夢オチレベルでがっかり感ある
7seedsもサバイバル・パニックワールドものだったけど、読み終えてがっかり感・購入して読んで損した感がひどかった 少女の人間関係と成長物語といった感じで、ただの少女マンガだった 各人の強い気持ちでサバイバルの状況がトントンと解決するのもとてもご都合主義的で馬鹿馬鹿しい気持ちになった
そんで今回のアイアムアヒーロー、青年マンガだし、別のオチを期待してたけど、同じような落胆を感じた
雰囲気とノリが重要で、ストーリーとしては平々凡々な個人の成長譚にしかならないものなのか
なんにせよ今回は買わずに読んだのが救い