はてなキーワード: 神様とは
だいぶ違うけど、桜庭一樹の『私の男』をちょっと思い出した。あるいは『ベルセルク』のガッツの義父ガンビーノか。
低学年の局部をじっくり見たりイジったりする点で義父氏の小児性愛趣味は明らか。
が、その義父からすれば、血の繋がってない姉妹を保護し養うのに、何か見返りがないと辻褄が合わないので、姉との性的結合や奉仕で合理化した……とも考えられる。
最初は暴力的ではなく、言葉で説得して自ら行為をさせているところは、罪悪感なのか知能犯なのか、家族という体を維持したかったのかはともかく、狡猾で我慢強い印象を受ける。
ただ、その先に、貴女を妊娠させたり、暴力振るったり、他の友人だか取引先にウリさせるのは余分で、愚かだ。
何かそこで仕事がうまくいかなくなる事件があったのかもしれない。
よくよく考えて見ると、義理の娘を仲間や取引先に売らせる男というのは、どう見ても集団内の下っ端で、舐められてるように思える。
仲間との飲み会で「うちには昔のオンナが置いていった、いつでもやれる娘がいる」など口を滑らせて、「じゃあ俺にもヤラせろよ」という話になったのか、「おいおいそれは犯罪だぞ、黙ってるからヤラせろ」かもしれないが、いずれにせよ下に見てないとそういうことは言われないだろう。
すると、そういう下っ端男性が仕事を回してもらうのに、そのウリ行為が必要だったのかもしれない。
人間はそれぞれ、神様から配られた手札として、体力、知性、倫理性、経済力などの能力に限界がある。
義父氏はもちろん善良で有能な保護者では無く児童性虐待犯罪者だったが、彼なりに足掻いて懸命に生きていたのかもしれない。
義父と貴女と妹は、この社会で弱者3人が利用しあう共生関係だったのかも。
もちろんトータルで貴女の犠牲が一番大きく、虐待され搾取されていたが。
当時の俺は仕事で大きなミスをして、周りの目が痛くなって、自主退職せざるを得ない状況に追い込まれていた。
そのことを当時付き合っていた彼女に話したら「何で事前に一言も相談してくれなかったの?」って大喧嘩になってさ。
心の底ではそんな些細なことはどうでも良くて自分のことを第一に心配してくれるだろうって、そんな考えがあった。
自分が完全に甘かった。彼女はずっと怒ってて、それが原因で彼女とは別れることになった。
体も心もボロボロで、ぼろ雑巾なんていう安易な表現がぴったり当て嵌まるほどにはもう駄目駄目で、壊れかけていたと思う。
深夜、早朝と当てもなく彷徨い、意識はぼんやりしていて、夢と現実の境目をずっと彷徨っているような。
夜も全然眠れなくなっていた。
その日も徘徊していて、気付けばうっすらと周りが明るくなるぐらいの時間だった。
駅近くに、一軒の立ち飲み屋があったんだ。
何時までやっているのかは知らない。でも、その時開いてたんだ。外からも見えるような、戸口のない立ち飲み屋。
俺は引き寄せれるようにふらふらとその店に入った。
残金がいくらあるか、もう既にお金が心許ないことが分かっていながら、吸い寄せられるようにその店に入ったんだ。
俺はたぶんビールか何かを注文したと思う。
ぼぉーっと突っ立って、ビールを受け取り、それをすぐに飲まずに眺めていると「兄ちゃん、元気ないな」と声をかけられた。
振り返ると隣におじさん一人が立っててさ、40~50ぐらいに見えるおっさん。
俺は「はぁ」とか「はい」とか、そんな風に曖昧に返事したと思う。
おっさんは愉快にそうに笑って、「なんかあった?」って陽気に尋ねてくる。
ずいぶんご機嫌で、既に何杯も酒を飲んだ後みたいなテンションで。
俺はどちらかといえば人見知りするタイプだが、だからこそ初対面かつもう二度と会わないであろう他人には現状についてや心の内を吐露できた。
今は無職になって、彼女とも別れて、もうどうしていいかわからなくて。
そんなことを言ったと思う。とにかく俺は弱っていたんだ。
俺はおっさんを睨んだ。ふざけんなって言った。酒を大きく呷って、何処がよくある話だよって毒づいた。
おっさんはびっくりしたみたいに笑顔を引っ込めて、自分の酒を飲んだ。
自分のあまりの惨めさがより際立って感じたし、おっさんに罪はないって分かってるのに八つ当たりしたことに対する自己嫌悪が湧き出てきて、やるせなさだけが募っていった。
今でもはっきり覚えている。そこで「神様なんて、この世にはいないんだ」と俺は呟いたんだ。
おっさんは隣で「おっ」と声を漏らして、次にくくっと笑った。
おっさんを見ると自分を指さしながら「俺、神様」って言うんだよ。
はぁ?ってなるだろ。そんなの酔っ払いの戯言で、はいはいって流すのが普通。
でもさ、おっさんはそこで俺が信じてないって分かったんだろうな。
髪を掻くように指を頭の上で転がしてさ、逆にはいはいって感じでその指を俺の目の前に持ってくるとパチン、と人差し指と親指で鳴らした。
途端、雨が降ってきた。スコールみたいな雨。さっきまで天気は曇りで、おっさんがパチンと鳴らしたタイミングで大雨が一瞬降って、それからすぐに止んだ。
そのときは夢の中にいるみたいな感じだった。
外には人通りは全くなくて、店内も人の気配はなくて。まるで俺とおっさんしかいないみないな、そんな雰囲気だったことを覚えている。
おどろいているとおっさんは唇に指を当てて、秘密なって言った。
それから「色々忙しくて手が回らんこともあるから、ごめんな」と言って俺に謝り、それから握手するみたいに手を差し出してきた。
不思議な感覚だった。握った瞬間、全身が暖かくなって発光しているような、そんな不思議な感覚だった。
おっさんはそう言って握った手を離し、店を出て歩いて行きそうになる。
俺はすぐに声をかけた。
おっさんは足を止めて振り返った。
俺の言いたいことが分かっている様に先に口を開いて「10年。せめて10年ぐらいは、この話は秘密にしといてな」と言ってくくっと笑い、後は振り返らず行ってしまった。
あのときのおっさんの言葉を信じて、俺は出来るだけ、時には精一杯頑張って、今日までなんとか生きてきた。
仕事は大変だけど、それなり…といったら怒られるぐらい、自分には勿体ないぐらい幸せな日々が送れていると思ってる。
約束通り、今日まではこのことを口外するのをずっと我慢したよ。
俺はきっと、神様に会ったんだと思う。
なんか、感想見るとやたらエヴァエヴァ書かれてるんだけど、まあ、時期的にエヴァの影響がないとは言い難いけど、
エヴァをパクったというより、出渕氏と庵野氏が世代的に近いからか似た作品の影響を受けてるわけで、
ラーゼフォンのムーリアンの血が青いのはブルークリスマスが元ネタだし、
エヴァのパターン青!使徒です!の青も同じ岡本喜八、ブルークリスマスが元ネタで、
自分は出渕、庵野世代よりも若いので、ブルークリスマスは雑誌ロードショーだったか、
映画雑誌のバックナンバーを近所の図書館とか、あと親戚の家で収集している人がいて、
それでブルークリスマスを実際に見たことはなかったけど、雑誌で見てトラウマのひとつになってたんだよな
円谷の昔のホラーとか、見たことないけど子供心には怖かった、ガス人間とか、電送人間とか
大人になって見て、ドゴラとかも子供の頃のトラウマだったんだけど、実際見てみると正直ショボかったんだよな
エヴァエヴァ言ってる人も、エヴァの元ネタってちゃんと分かってんのかな?って思ってしまう
自分は第一話から、ウルトラマンかー、と思ってたし、活動限界とかカラータイマーあるしw
ガイナックス作品とかって、分かる人が見たら、そこで突然みんな爆笑し始めたりするんだよな
大学時代にみんなで視聴してたりすると…
話が難しいから嫌い、という人も多いみたい…
流石にそれは勿体ない、単なる時空の捻じれ?によって年齢が離れてしまった男女の恋愛ものとして見ればいいと思うし…
しかし、それにしてもラストバトルだけ取り出しても自分にもよく分からんのよな
で、綾人の遺伝子上の母親は久遠なわけだけど、ラストで久遠と殴り合いするわけで、
つまり、母親と息子が壮絶な殴り合いをするわけで、という理解でいいのかな…
例えば、初代ガンダムだって父親殺しであるし、あぁ、あれも母親殺しとも言えるのかな…
アムロは両親を見捨てる、見限るわけだけど、精神的に殺してるわけだよな
それが少年が大人になる、自立するという意味なんだと思うんだけど、
ラーゼフォンはなんで遺伝子上とはいえ、母親と殴り合いの取っ組み合いの喧嘩するのかさっぱり分からん
なんだかんだ久遠とか麻弥はムーリアンのはずだから、ムーリアンとして、異次元からの侵略者として、
地球というか、この世界側をムーリアンの都合がいい世界に完全に改変したかった、ということなのだろうか?
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
1.Peter, Paul and Mary‐Puff, the Magic Dragon(1963)
2.The Beach Boys‐Wouldn't It Be Nice(1966)
3.ザ・キング・トーンズ‐グッド・ナイト・ベイビー(1968)
4.ヘドバとダビデ‐ナオミの夢(1970)
10.Queen‐Somebody To Love(1976)
12.The Buggles‐Video Killed The Radio Star(1979)
15.Queen feat. David Bowie‐Under Pressure(1981)
16.Bucks Fizz‐The Land Of Make Believe(1982)
19.Billy Joel‐The Longest Time(1984)
20.TOM★CAT‐ふられ気分でRock 'n' Roll(1984)
27.Bee Gees‐You Win Again(1987)
28.THE BLUE HEARTS‐青空(1989)
30.TM NETWORK‐THE POINT OF LOVERS' NIGHT(1990)
31.Flipper's Guitar‐偶然のナイフ・エッジ・カレス(1990)
32.徳永英明‐壊れかけのRadio(1990)
35.たま‐かなしいずぼん(1991)
40.篠原美也子‐ひとり(1993)
41.友部正人‐夕日は昇る(1993)
42.小沢健二 feat. スチャダラパー‐今夜はブギーバック(1994)
43.奥井亜紀‐Wind climbing ~風にあそばれて~(1994)
45.斉藤和義‐歩いて帰ろう(1994)
48.ソウル・フラワー・ユニオン‐満月の夕(1995)
50.H jungle with T‐WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~(1995)
51.My Little Lover‐Free(1995)
52.玉置浩二‐田園(1996)
53.高橋真梨子‐ごめんね…(1996)
55.サニーデイ・サービス‐NOW(1997)
56.globe‐FACES PLACES(1997)
57.伊織‐キミがいれば(1997)
58.たま‐パルテノン銀座通り(1997)
61.川本真琴‐桜(1998)
62.柳原陽一郎‐きみを気にしてる(1998)
64.ブラブラブラボーズ‐クラスで一番スゴイやつ(1998)
66.19‐あの紙ヒコーキ くもり空わって(1999)
74.My Chemical Romance‐Welcome To The Black Parade(2006)
79.神聖かまってちゃん‐ロックンロールは鳴り止まないっ(2010)
80.ハンバートハンバート‐虎(2010)
81.テンテンコ‐Good bye, Good girl(2014)
84.The Witcher 3‐Wolven Storm(2015)
85.大森靖子 feat. の子‐非国民的ヒーロー(2016)
86.never young brach‐明るい未来(2016)
88.TWICE‐BDZ(2018)
94.Brave Girls‐RED SUN(2021)
96.MAISONdes feat. 和ぬか,asmi‐ヨワネハキ(2021)
可能性におぼれている
ここは海だ そうだ海だ
おれはいろんなことができるのにおぼれてる
1秒でも欲しいじゃん 充実してるほど表に出てこない
健常者 つまんない
話は分かるよ 俺は神様みたもんそれだけだもん
何がピアノだよ 神様がみえたからこうなったんですよ 糖質判定
それだけだからそうなるんですよ
わかってもらえないからいつでも悲しい
これはと思った人がそうじゃなかった
どこにいっても同一のやついねえよ
こんなに遮蔽してるのに
迷わないって決めたから
はひはひ
戦争にしかならない 議論っていうことが大事になってくるそれがカビです
同町してほしいんでしょ ホストとか同調して金を稼いでるけどね
多分幸せにはなれない
キリストきょうの文化を調べて本当にいい宗教なんだなって思ったらやればいい
だいぶまずいと思う 多数派だと思う
就活の際はお互いに婚活のお見合いみたいに良い面しか見せない見ないので
いざ仕事が始まると「えっ」って事が起こる
もちろん逆もあるんだよね
「えっそんなに有能だったの!?なんで採用時にアピールしなかったの」
今は大きな企業には必ず障害者を雇用するようにというお上からのお達しがある
心臓疾患でペースメーカー装着とかの普段はそれほど仕事に支障がなく
それだけではクビにしにくいレベルの厄介な人たちがいる
昔はそういう人と扱われていたが今は何でも診断名がつくので
ADHD・ASD・HSPなど軽ければまぁそこそこ活躍できるがちょっと注意も必要レベルから
はじめは優しく対応していたが佛の顔もなんとやらで接する人たちが闇落ちするほど厄介な人もいる
で本当に厄介なのは本人に悪意があれば対処のしようがあるが障害からくるものだと対応を間違えると問題になる
例えば身体的な障害であれば周りもどういうサポートをすればこの人は仕事ができるかを考えやすいが
言葉は悪いが一般の人との思考の乖離が激しい障害がある人を企業が雇うのはかなり難しい
大企業では勉強会を開いて普通の人と思考の違いを理解して対応するなど努力をしているが
中小企業にとっては新卒を教育するのさえ手間がかかるのでやりたくないのに
逃げ若とサクナヒメはとても見やすいですね
自分も完走予定です
サクナヒメはゲーム原作なんですねえ。自分はそれすら知らなかったです
あんなにポンコツな仲間しかいなくて自分への負担が過剰だったら神様だって逃げ出したくなるってもんですな
そして米作りは奥深いな…と、米どころ在住の自分は青々とした稲穂を見ながら感慨深く思うのでありました
この暑さで稲が駄目になりませんように
なんかの漫画だかで印象に残った名言があって、最初にその話をさせてくれ
「俺は悪い教師と言われちゃいるが、生徒が5人ぐらいなら面倒見のいい素敵な先生になれる自信があるんだ。教師はきっと皆そうだと思っている」
実にそのとおりだと思う。
のんのんびよりみたいなド田舎で生徒数5人の学校で教師やってるなら、俺なんかでも全校生徒を全員大切にできるだろうな。
じゃあ実際の学校はというと、1人の教師が40人を担当するわけだ。
それもあくまでクラス担当としての話であって、自分の科目について教える相手となればそこから何倍にも膨れ上がる。
その全員をちゃんと見ていられるはずがない。
でも身勝手な親どもは全員をちゃんと教師が見ているべきだって言うし、それにヘラヘラしてる教頭や校長が単なる安月給の教師全員にそれを求めてくる。
無理だろ。
そんな環境なもんだから生徒の方も甘えてきて、自分がせいぜいクラス全体の5%、学校全体なら0.1%の存在でしかないことさえ忘れてくる。
そして俺の仕事は生徒のメンターだけじゃなくて、管理もするし事務処理もするし、当然担当科目について成績を上げる講師としての役割もある。
無理なんだよな。
全然手が回らない。
休日に学校に来て部活動を監督しててくれとか言われたって、そんなことしたら俺の休日なんて全くなくなってしまう。
放課後職員室で人生相談に乗れと言われても、他人の人生を突然背負わされてストレスに対抗するエネルギーなんて余ってない。
そういうのをいくつもいくつも積み重ねられ、ぶっ倒れることも出来ずに働く。
労働基準法の適応外っていうのは、労働者としての人権を保障されないってことを意味してるんだとよく分かるよ。
自分が人権を剥奪されているのに、他人のために生きろってのはかなりしんどいものがある。
教師は神職という言葉があるが、これを教師が神のごとく偉いって意味に捉えるようになったのは後からなんじゃねえかなと。
最初はきっと「神様にでもならねえとこんな仕事は回らねえよ。人間を辞めるしかねえんだよ」という諦めから出てたんじゃないかと思う。
マジで割に合わねえよ。
そういう連中だけだよ。
この仕事をやっていて役得にありつけるようなのなんてさ。
基本的に月~金までしか仕事しなくて、土日に連絡したら「申し訳ありません。本日は休日なので、お話だけお伺いいたします。担当には一報しておきますので月曜の朝一で動き出します」みたいな対応しかしてくれない。
それなのに表面上は『365日サポート対応!』みたいに謳うのはおかしくねえかな?
違うよね?
別に俺から「24時間365日じゃなきゃおかしい!お客様は神様!神様が困っているならいつでも誠意を尽くせ!」なんて言ってないよ?
でもそっちが勝手に「365日対応します!朝9時から18時が対応時間です!」と言ってきておいてさ、いざ土曜の9時に連絡入れたら「今日は休日なんで~~~電話番しかいませんけど~~~」って何??????
現在UBISOFTが見当違いな価値観と認識で大暴れしているキモオタ向けに「ゲームはフィクションです、誹謗中傷は悪いことなのでやめてください」という健常者なら誰でも理解している事をわざわざ声明で出しているのだが
最早引っ込みがつかなくなってるキモオタ共はこれにすら詭弁と難癖で罵詈雑言を浴びせていて心底呆れた
https://x.com/UBISOFT_JAPAN/status/1815674629643719061
キモオタ共は「お客様は神様」だとでも勘違いしているのか、企業やそこで働いている社員には何をやっても良いと思い込んでいるとしか思えないカスハラガイジがあまりにも多すぎて
日本のゲーム企業が日本語トレーラーのYoutubeのコメント欄だけ意図的に閉鎖してることからも分かる通り
日本のキモオタやそれにすり寄る同レベルのゴミ共にカスハラガイジが多い事は、既に日本のゲーム企業では常識だったわけだが
このカスハラ大好きのクソ共が今回は海外の大手ゲーム企業に対して朝から晩まで大暴れしている事で、こんなガイジ共相手に商売をするのは大きなリスクがあるという事が海外のゲーム企業にも広く周知されたに違いない
そのリスクを回避する為に、もう今後は確実に日本を舞台にしたゲームは少なくなるし、日本語に公式が対応してくれる事も少なくなるだろうな
それとキモオタは現実とフィクションの区別がつかない異常者、という世間の評価が何も間違っていなかった事も残念ながらこの件で同時に証明されてしまった
まぁこれは既にゲーマーゲートやコミックスゲートの様なキモオタ共の過去のやらかしで薄々分かっていたことだが
この先鋭化し今では陰謀論界隈やバカウヨ界隈とまで融合しだした異常者達は最早社会の敵となりつつある
しかし今キモオタが実行しているこの「もっと俺様に配慮しろ!そうしないならカスハラとキャンセルカルチャーを発動するぞ!」という姿勢は