はてなキーワード: 天使たちのシーンとは
夏にそこの細道を通る時、網戸越しに部屋の中が見えて、
ランニングシャツにトランクスのおじさんが横になって野球見てた。
夜は色んな音がずっと聞こえて、落ち着きそう。
今は見上げると、雑居ビルからメイドの女の子のテンション高い歌声が聞こえるところに住んでる。
ビルのへやの中でちかちか点滅する光を眺めてて、
小さく手を動かして「来て着て」としてた。ほいほい行けばよかった。
夏の焼けそうな日差しの午後か、寒いくらい冷房を効が効いてるとき、
女の子が気だるくしてるときのどうでもよさから見えてる乳首が見たい。
見えてるの気付いてもどうでもよさからそのままにしてるならすごく良い。
裸電球をつけたけど また消して
そう、それが叶いそうだからみんな騒いでる。
「Eclectic」の頃は、同窓会で旧友が「昔の俺っちどうかしてたわーw」的なことを言い出す寂しさがあったと思うよ。
あの「ブギーバック」をわざわざ歌詞を書き直したりダウナーなアレンジに直したりして再録して、
極めつけに「刹那」というタイトルでベスト盤出しちゃうんだから。
もうチャーリーブラウンばりの渋い顔で、
いくら呼んでも帰っては来ないんだ。
と言わんばかりのニヒリズムよ。
そりゃ911後の、冷や水かけられたようなアメリカのムード肌で感じてるわけだから
閉塞感満開になっちゃったかもしれないけどさ。
でも結局みんなが小沢健二に求めてたのは「とにかく明るいオザケン」なんだよね。
家柄とか学歴とかちょっと至らない歌唱力とか色々魅力はあるんだけど
第一に求められたのはその明るさだったんだろう。
しかし大衆に求められたそのポジティブさが本人の資質によるものでなかったために
彼は海の向こうへ逃げてしまったのだろう。
僕は「Eclectic」が暗い作風だったから不評だったというようなことをいうつもりじゃなかった。
「Eclectic」の前後に「LIFE」期との決別を示唆するような言動が多々見られたことが
幾分かファンにとってショックだったのでは?ということがいいたかった。
この頃の小沢健二を見てもう決別を通り越してあの時期を忌み嫌っているのではとすら思う人もいたのでは?
それは「Eclectic」リリース時が半ば休止状態だったことも関係するだろう。
「天使たちのシーン」や「ある光」もノスタルジーや切迫感に溢れたものだったが
「LIFE」とグラデーションのように継ぎ目なく繋がっているような連続性があった。
(無論「LIFE」の曲から「ある光」の間には「大人になれば」「Buddy」「指さえも」といった作品が連なっている。)
「Eclectic」からライブツアー「ひふみよ」までの期間はそれらのキャリアからは断裂しているように見える。
どうしても「ある光」から「Eclectic」を線で繋いだイメージを持つことは難しいし、
「Eclectic」以後はある程度一貫した思想を強く打ち出した活動を続けてきたので、
「流動体について」発表までは「Eclectic」以前・以後で分けて考える人も多かったと思うんだよ。
「『Eclectic』はその本意をうやむやにしたままフェードアウトしていった小沢健二が
それまでのポップスシンガーとしての活動に区切りをつけるために一時的にカムバックした作品。」
リリース当時はそんな風にみなされても仕方なかったように思うんだよね。
目の前に希望なんて無かった。光なんて見えなかった。
友達だって少なかったし、自分が一体何を好きなのかさえ分からなかった。
高校時代のぼくは、空っぽだった。
小沢健二を知ったのはそんな時だった。
テレビ画面に映っていたダウンタウンとじゃれ合う痩せっぽちのその青年は、見た目の弱々しさとは裏腹に、自分がどれだけ凄いかを自信満々に、それでいて、嫌味なく語っていた。
そして、その歌声は決して、上手いとは言えないか細いもので、けれど何か幸福感に満ちていて、ぼくには何だか眩しすぎるような気がした。
でも、ぼくはなぜだか分からないけど、小沢健二を好きになろうと思った。
たぶん、背伸びをしたんだと思う。
ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんてそんなバカなあやまちはしないのさ!
鬱屈した日常に一筋の希望の光を与えてくれる存在だと思ったのかも知れない。
確かに彼の音楽は心地よく、何度聴いても飽きなかったけど、正直いって、ぼくの大事な部分を刺激するような体験はなかった。
小沢健二にはすべてがあったけど、ぼくには何もなかった。
彼の曲や詞は、ぼくの憧れと嫉妬のフィルターにかかって耳から耳へと通り抜けて行った。
程なくして、小沢健二はテレビ出演を控え始め、同時にぼくも彼の曲を聴くことが少なくなっていた。
やがてぼくはひとりの女の子が気になり始めた。
言ってみれば初恋だった。
けれど、正確に言えば、いる気がしていただけだった。
別段「好き」ではないけど、みんな誰々が好きだとかいうから、ぼくも誰かが好きじゃないといけないんじゃないかと思って、手近な女の子を好きだと思い込んでいたような気がする。
だから、断じて「恋」とは違っていたんだと思う。
その子が気になりだして、初めてそれに気がついた。
明らかに今までの感覚と違っていたから。
ぼくが彼女と話すことはほとんどなかったけど、彼女が微笑んでいる姿を見つめるだけで胸が一杯になった。
ただの事務的な会話を一言三言交わすだけで胸が踊った。
そして、ぼくのような人間が彼女に振り向いてもらえるわけがない現実を勝手に作り上げて胸が痛くなった。
そんな時、何の気なしに再び小沢健二を聴いた。
妙に瑞々しく感じられていた。
いつの間にか、ぼくはその曲と、その歌声に聴き入っていた。
神様を信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬように
信じられないことに、涙がこぼれていた。
「おはよう!」と。
彼女は最初一瞬戸惑った感じだったけど、「あ、おはよ」と返してくれた。
「◯◯くん」と名前を呼ばれるだけで、ある光が射した気がした。
左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる
僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも
友だちとは言えないけれど、日常会話くらいは交わすようになった。
けれど、自分の好意を伝えることはできなかったし、もちろんそれ以上発展することもなかった。
噂では、彼女も小沢健二のファンだったらしいけど、そんなことはどうでもいいことだ。
ぼくにとって小沢健二とはそういう存在なんだ。