はてなキーワード: 激情とは
白鳥異伝を読んだ。久しぶりの読書。読みきった充実感はあるけど、荻原規子の小説は自分には合わないのかもしれないと思った。
少女が主人公だから仕方がないのかもしれないけど、白鳥異伝も少女小説っぽいなって感想を持った。生まれ持った使命や純真な恋愛などもろもろもの要素を練り込んだ大作になっていたと思う。
空色勾玉よりかエンターテイメント性に指針を振っていてので読んでいて楽しかった。特に小倶那の出生および悲劇的な運命は読ませるものがあったと思う。本当に可哀想な男の子だった。
一方の遠子なんだけどすごい癖のある人物で困った。最後の方は好きになれたけど、中盤は本当にきつい。菅流に指摘された通りの思い込みの激しい人物で、なおかつ直情的なもんだから本当に共感しづらかった。初めに少女小説的って言ったのはこの遠子の性格が原因。彼女に感情移入できるならかなり楽しめる作品なんだと思うんだけど、自分には難しかった。
また遠子に限らず、登場人物が揃いも揃ってものすごく感情に忠実なもんだから思わず突っ込みたくなった。激情に駆られても理性が勝って冷静な判断をする場面が、殊に遠子に至っては殆ど無かったんじゃないかと思う。何やってんだよと何度か思ってしまったし、またこうなるのかとうんざりすることも多かった。
また古代日本を舞台にしたファンタジーだから当然とはいえ、折に触れて運命やら定めやらのキーワードが出てくるのも辛かった。その運命なり定めなりにしても、内実をある程度明らかにしてくれていたらすんなりと読み込めるのだけれど、ぼんやりとぼやけたままある状況下に陥ったのはお前の運命なんだよみたいな流れが出てくるのでもやもやした。まあ運命やら定めって言葉はそのように使いのが普通なのかもしれないけれど。
これら二つの気になる箇所が所々で悪魔合体したかのような読書感を与えてくるもんだから閉口してしまった。もちろんそのように感じる方にも問題があるんだけど、なかなかに辛かった。二度目読むときはその時々の登場人物が抱いている本当の感情がわかっているから楽しめるような気がする。一度目は文章だけを頼りに頭空っぽにして読んではつらいと思う。いろいろ想像して書かれていな本当の気持まで読まないと楽しめない小説なのかも。
その他の人物について。菅流がとびきり良い人物だった。喧嘩っ早くておちゃらけてて尻が軽いのに、面倒見が良くて優しい菅流は遠子と小倶那のいいお兄さんになっていた。七掬や武彦みたいな年長者たちは相変わらずどっしりと構えていて頼りがいがあった。
結局この物語は大王が糞なのと、百襲姫が狂ってたのが元凶だったのかなあ。妄執というものは何に対してであれ恐ろしいものだと思った。
二巻三部に渡る物語で、それぞれガラリと話の感触が変わるけれど、一貫したエピソードでもって引っ張っていく小説だった。今度は薄紅天女を読む。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
個人が唱える論が執拗であったり感情的であったりするときに、揶揄的な意味合いで使われることが多いな。
これにはいくつかの説がある。
定説は、「人間は身内を殺されたりするほどの背景や動機がなければ、そこまで執拗だったり情熱的になれない」とする説だ。
もちろん、冷静に考えれば必ずしもそうではない。
だが受け手にしてみれば、その人間が「なぜそのような言動を?」というのを納得するアンサーとして“物語”が必要なんだ。
虚実がどうあれ、他人を理解する手法としてコストパフォーマンスに優れているからな。
では、なぜその理由が「親が殺されたのか」というと古今東西、物語において主人公の親の死亡率は高かったのさ。
そうやって物語に触れてきた人たちにとって、動機や背景として「親が殺された」というのは分かりやすかったんだ。
……そうか、無神経なことを聞いてしまったようだな。
俺は入社3年目、工場勤務の作業員。24時間稼働の工場で3交代で働いている。最近風邪やインフルが流行っていて欠勤者が多くなっており、この間も二人休む事になった。そこで俺が勤務の変更をすることになったんだが、まぁめんどくさい。シフトを確認して出れそうな人に一人ひとりに電話して勤務変更していいか聞かなければならない。しかし相手も交代勤務をしているので夜勤の人なんかは昼間寝ていて電話にでれないことが多い。電話が繋がるまで時間を空けなながら残業して電話をすることもある。今回も1時間くらいずつ時間を開けて電話にしていた。ラインが回せるようにシフトが変更できるまで帰れない。こっちは早く帰れないのに電話が繋がらない限り無駄に残業時間が伸びてしまう。なんとか電話がつながりシフトを組むことが出来た。しかし途中で「早く終わらせて帰りたい。無駄な残業だな」と俺が言っていたの上司が聞いていたらしく、後日注意を受けることになったんだがその注意の仕方にが感情的に怒って注意をしているようで、上司として部下に注意をする仕方としては疑問を感じてしまう。
「俺は無駄な残業だと思わない。ラインを円滑に回すために必要な作業だ。入社3年目のお前が他に何が出来るんだ。無駄だと思うなら残業つけずにやればいいじゃないか。」
という注意を受けた。
勘違いしてほしくないのが俺はシフトの変更作業が無駄な作業だとは思っておらず、電話が繋がらずに残業時間が伸びてしまうのが無駄だと感じてしまったなので、上司から注意を受けた時に違和感ありまくり。なんか勘違いしてるぞコイツ、となってしまう。
弁解をしようかと思ったが感情的に注意をしているのでここで弁解したら「言い訳すんじゃねぇ」と激情してしまいそうで何も言わずに謝罪だけしていた。
勘違いから起きた上司の注意ではあるがその注意の仕方に疑問を感じてしまう。
まず感情的に注意をするのが上司としてどうかと思う。なぜ感情的に怒っているのかと判断したかというと上司の注意の発言のうち、主語が「俺は」になっていたのと俺のことを「お前」という攻撃的な発言で言ったことから判断している(普段「お前」という二人称を使う人ではないので)。
通常、感情的に怒って注意をしてしまうと論理的に見えないため説得力が低下してしまうし、相手に怖い印象を与えてしまう。最悪今後の関係にも影響を与えてしまう恐れがある。
今回の注意についても「俺は無駄な残業だと思わない。ラインを回すために必要な残業だ」という発言も言い方を変えて「そういう発言をすると職場の雰囲気が悪くなるし、後輩への影響もあるから控えてくれ」という客観的な理由を明確にした注意の仕方をすれば納得もできる。しかし主語が「俺は」になっているので個人的にイライラして注意したんだなと思ってしまうし、実際にそうである可能性のほうが高い。まぁ若造が「無駄な残業だ」と言った発言をすればイライラするのも分かる気がするが、まず勘違いなので最初になぜそういった発言をしたのかを聞いてくれればよかったと思う。そうすればこちらとしても、電話がなかなか繋がらないため帰ることも出来ず、イライラしていましたすいませんでした。と言った具合に無事問題にならずに住んだと思う。
そして上司の発言の中に「3年目にお前に何が出来る」という発言があったが、感情的になっているからとはいえこの発言を部下に対してするのは正直どうかと思う。俺はまだ若造とは言え、それなりにやらなければいけない仕事が多々ある(ライン作業以外の業務的な作業で)。むしろ若造なので仕事を色々押し付けられてかなり業務量が多いと言っていい。なのでそういう発言をされてしまうとこちらの仕事に対するモチベーションが低下するのでやめてもらいたい。こちらの言い分として、まだ若手なので上司のように高度な内容の仕事は出来ないが、若手なりに精一杯仕事をしている自負がある。それを「お前に何が出来るんだ」というい方をされるのは正直不愉快である。
また、「無駄だと思うなら残業をつけずにやればいいじゃないか」という発言に至ってはもう完全に意味わからない事を言ってしまっている。まず残業をつけずにやれというブラックな発言自体がもうアウト。上司としてアウト。パワハラ、モラハラ、何言ってんだコイツ状態である。完全に感情的に後先考えずに言った言葉だと思うけど完全に論理破綻している。もし仮に今回の作業が無駄な残業だと仮定して、なぜ無駄な作業だからといって残業を付けずに作業することを推奨する理由になりえるのか説明してもらいたい。こんなことを言っているようでは上司として信用もクソもない。
長くなってしまったが結局何が言いたいかというと、上司の人は部下に対して、感情的にならずに注意したほうがいいよということ。
けいおん3部作を読んで熱狂した私にとって、あのころの蛸氏はもう居ないんだなあと、しみじみと悲しい気持ちでいっぱいになる。「まんがでわかる太平洋戦争」とでも言いたくなるような単調な進行と、取って付けたようなエロとグロ。まったく実用性もストーリーとしての作用も皆無なエロシーンが唐突に挿入されていたのを目にしたときには「はい、ノルマ達成」という消化試合的感覚を感じた。
ストーリーと言えるものはなく、淡々と太平洋戦争(海軍)の戦史を追っていくだけなので、特定のキャラにつよくフォーカスを当てることもなく、物語の主題として何がいいたいのかわからない。もっと読者を感情移入させて叩き落とすような、激情を揺さぶるような漫画を読めることを期待したい。
自らを愛し、そして世界を愛する。愛とは、全てを許し受け入れることである。
であれば、
人の負の面。例えば7つの大罪
傲慢(高慢)憤怒(激情)嫉妬(羨望)怠惰(堕落)強欲(貪欲)暴食(大食)色欲(肉欲)
なども、許し愛することができて、初めて本物の愛といえる。
口で言うのは簡単だ。
だがもし、自らや自らが大切と思う存在を攻撃された時に、私は攻撃してきたものを許し愛することが出来るのだろうか。
この問について、私は考えていた。
ハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」という言葉を思い出した。
これだ!とわかった。
そして、私があなたのその行為を邪魔し、私が私のためにあなたそのものを排除しようとすることも、同じように愛し許そう。
ここに私の愛は成熟した。
私の相方は、ある一定の不機嫌レベルを超えるとその不機嫌状態が最低でも1日、長い時は数日間持続する。
その状態になると、何を話しかけても気の無い返事が返ってくるし、向こうからは事務的な事以外は話しかけて来ないし、笑顔はないしと重苦しい日々が開始される。
普段は他愛ないやりとりで笑いが絶えないくらい仲が良いので、その激しい落差がさらに気分を重くする。
しかも一緒に暮らしているためしばらく会わないという選択肢もない。
さらにその状態になると、相手は許容レベルが著しく下がっており、何を言っても怒ってしまいそう(あるいは怒っているように見える)なので、話し合いをする事もできない。
相手の機嫌が直った時に話し合いをすればいいのだが、いつもの明るい雰囲気が戻ってくると、話し合うという事をすっかり忘れてしまう。
その状態が発生した直後は、何か自分が悪い事を言っただろうか、やっただろうかと申し訳なさと不安が心を支配するが、次第にずっと不機嫌で解消のしようもない相方を見ているとイライラしてきてしまい、最近ではもはや不機嫌状態が発生するだけで腹が立つ状態になってしまっている。
私は感情が薄く、ほとんど激情することが無いので、そういう状態になる事が理解できないのも腹が立つ原因のひとつである。
人間なので、怒ったり不機嫌になるのは仕方がなく、それをやめろとは言えないが、その感情を持ってしまった相方に対して「腹が立つ」という私は思いやりや許容の足りない人間なのだろうか?
前置きが長くなってしまってすまない。
また、不機嫌状態が発生するトリガーは、私と関係ない所で嫌な事があったなどで不機嫌状態直前の相方に対し、普段であれば笑って返されるような私の何気ない一言であったりする、
まず大前提として僕はきわめて子供が好きだ。あやしかたなんかうまいほうではないけれども彼ら彼女らはとても愛らしい
ただ僕が子供を好きであることと子供自身が持つ人生は全くの別だ。100%の主観で他人を見て関与するのはやめておいたほうがいい
それがたとえ愛だとしても
現代は歴史上で最も人間が人間らしく生きることが難しい時代だと感じている
「なにをバカな、昔は宗教戦争があってコロッセオで人を虎に食わせて結核にかかったら必ず死ぬ時代だったんだぞ。今は飢えて死ぬことはどんなに貧乏でもありえなくどこにでも行ける交通手段があって子供に武器なんか持たせなくていいんだぞ」
とおそらく人は言う
けれど闘争も弱肉強食も宗教という信念に準じた戦争も尊皇攘夷も日本赤軍もアーリア人の強烈なナルチシズムもどれも人が自然に生きる中で生じた出来事であり、人としての感情が素直に発露した結果である。ここで書きたいのはそれが良い悪いの話ではない
現代は暴力や権力、自意識、怒りなど人が最もエネルギーを発揮する感情は全てそれがどんなに小さいものでも即座にたたきつぶしにくる
かわりに悲しみや平和ばかりが讃えられる。何か犯罪が起きた時に被害者遺族の悲しみには同情しても加害者の怒りにはほぼ誰も同情しない。特に女性は100%と言って良いだろう、聞いてみればいい
生まれた時からほぼ全員が道徳や正義、常識にそぐわない怒りというものをこれでもかと封じ込められてきた
しかしまともに生きてきた人間なら怒りほど行動力や思考力や集中力を高ぶらせるものはないと知っているはずだ
けれど「私」に蓋をすれば同時に悲しみや喜びにもふたをする。エーリッヒ・フロムはそれを抑うつの正体だと言った
これは何も先人達の闘争によって獲得された現代の平和を否定する話ではない。ただ人が有機体として生きるとは何かという話である
東京を歩いているとたまにどういう気持ちでいればいいのかわからなくなる時がある。人はその時々の環境によって見せる顔も役割も気持ちも違う
意識せずとも経験や自然な感情の流れでその場その場に適応していく
悲しい時には泣けばいいし笑いたい時には笑えばいい。そうやってその場の温度がつくられる
けれどどういう気持ちでいればいいのかよくわからなくなる時がある
貼り付けた笑顔で接客するファミリーレストラン
二面性を否定するほど子供ではないがそれでも憂慮も沈黙も罪悪感も置き去りにしているように見える無機的に見える事物が多い
愛よりも金や資本、有機体よりも無機質な物の趨勢がかなり強くなっているように感じる
I have to do 私は何かをしなければいけない
I am to do 私は「可能性、責任、運命、予定、意志」で何かをする
何かを持って何かをするというのはしなければならないと訳される一方で後者は自らでいるために何かをすると訳される。言語というのはかくも面白い
例えば笑って接客する店員はHe has the job to laugh at strangers with no reason.となる
直訳は彼は理由もなく他人に笑顔を振りまく仕事を持っている、省略すれば彼は笑わなければいけない、だ。
持つことを否定するわけではない。仕事も金も車も恋人も持つために持つと書くと強制になってしまう。欠乏している他人をさげすむ人は必ずこの思考様式である
僕自身も金に脅かされほとんど逆転してしまっている。もう抗うことは不可能なほど機械化もとい無機化が進行している
既婚者が自分の内情を整理するために匿名のこの場を選んで書いています。
不倫を叩きたいだけの方はご遠慮いただけますとありがたいです。
勝てない勝負はしないというか、単に打たれ弱くて自分を守りたいだけなんだけど、好きになっても思いが叶いそうにないとわかっている相手には最後まで告白をしてきませんでした。
悶々と募る思いを抱え込み、ちょっとでも紛らわすために仕事や趣味に打ち込んだりしながら、ただひたすらに時間の過ぎるのを待ちました。自然と気持ちが収まるのを待っていました。
そういうことを何度か繰り返すうちに、今の旦那と出会いました。
一方で、かつて好きだった人達とは「告白する→気まずくなって疎遠になる」ということがないのでSNSなどでたまーに旧友として連絡を取り合うぐらいの仲を保っています。未練がどこかに残るんじゃないか、やはり結婚の前にきっぱりと気持ちの整理をつけたほうがよいのだろうか、と思ったりもしたけれど、そんな必要はありませんでした。女は上書き保存と言うが本当にそうだな、と自分を顧みて思います。今の私は旦那一筋、のはずでした。
少し前から同窓会でしょっちゅう顔を合わせている男性に対して、いくつかのきっかけを経て、恋をしている、と自覚せざるを得ない状態になりました。
でも一度「何もしない」と決めたのなら、わたしはどんなに条件が揃っても、彼もわたしのことを好きなのだと確信できたとしても、お互い離婚して一緒になろうと言ってきたとしても、平然としてそれを断り、何もせずにいる自信があります。今まであんなに好きになった人達への想いを自分の中だけでいつも処理してきたのだから。気の迷いだと自分に思い込ませるのもそれほど難しいことではありません。ダチョウ倶楽部的な自分への前振りではなく、本当にそう思います。さすがにそこまでバカじゃない。気持ちはいずれ必ず収まる。取り返しのつかないことをしでかすことはない。大丈夫。
のだけれども、今まで何度もやってきたこの「気持ちを押し殺す」という作業が、回数を重ねるごとにわたしの感受性とか人への気配りとか目配りとか優しさとか純粋に人を思いやる気持ちとかそういう大切なものを損ねていることもまた、自覚しています。
ひとりひとりの男性に対する未練とか執着はない。同窓会の彼に対する気持ちも、もう少ししたら収まるのはわかっています。特定の誰かとの関係ではなく「自分の強い気持ちと反する選択をする」ことの積み重ねが自分にどのような影響を及ぼすのかが、少し怖くなっています。旦那からこんなにあっさりと気持ちが離れてしまったのも、もしかしたら、今までの「恋心を押し殺す」選択の積み重ねの結果なのではないか、と思っています。わたしは本当に旦那のことが「好き」で結婚したのだろうか。たまたまタイミングよく近くにいた人だから結婚しただけではないのか。そもそも、人を好きになるとはどのような感覚だったか、どうにもわからない。
別に恋愛しなくても人間は生きていけますし、わからないならわからないで日常生活に決定的な支障が出るようなことはありません。でも大切なパートナーであるはずの旦那との信頼関係は、わたしがこんな体たらくでは、もうだめなのではないか。わたしは旦那を愛しているのだろうか。必要としているのだろうか。旦那の方はどうなのだろうか。
若いころは、好きな人には叶わないとわかっていても好きだと伝えました。それをやめてから、わたしは自分のことがどんどんわからなくなっている気がします。自分と向き合うことから逃げているのだと思います。
もちろん、浮ついた熱っぽい激情だけが愛ではない。しかしそういう次元ではなくもっと奥深いところで、人との付き合い方が何かいびつになっているのを感じます。
ここまで書いたのを読み直すと、冒頭でことわったけれどもやはり昼ドラのテンプレみたいな文言がずらりと並んでいます。本当に嫌になる。とりあえず同窓会に参加するのは当分の間控えますが、根本的に精神構造を変えない限りまたどこかで同じようなことになるんだろうなと思います。行動に移すことはないけれども、気持ちの上ではもう同じことをやってるんだから、それで旦那には何食わぬ顔をして接しているわけだから。死ねばいいのに。
でも、何を見ても自殺の道具にしか見えないときがたまに来るのだけど、私が死んだらこの人立ち直れないだろうなとは思うようになった
彼氏ができて以来、恋人や旦那が死ぬような話は、映画でも小説でもテレビの再現ドラマでも一切見られないようになった
さっきたまたまそういう話が目に入ってしまって、号泣してしまった
子供ができると、子供が危険にさらされるような話は見られないというのはたまに聞くが、大人の異性に対してもそうなんだね
こういう激情はそのうちおさまってくるのだろうか。おさまってくれないと辛いんだけど
家族がいないので、唯一自分が死んだら葬式くらいは出してくれそうな親戚にあてた遺書を何年か前に作った
もし彼氏と結婚して、自分の家族ができたら、それは破り捨てるつもりだ
なんだかそれが、婚姻届にサインをするより重要な儀式な気がしている
ひょっとすると、この先孤独よりもつらいことが待っているのかもしれないけど、とりあえず今は、生きてて良かったと思っている
ですがそれは例えば句点と読点とそれに付随する改行たちとの織り成す三角関係であり地道な:とか;とか/にとってははなはだ迷惑な作業なので骨董品が日に日に人生を増していくことが我々人間の果たすべき責務であると考えた放送倫理協会会長の皇木渥州(すめるぎあくしゅう)はしかしながら爆死という凄惨な最期をとげたので皇木の遺志を継いだネス・カンボルダリュの痔頭割草(ぢあたまわるそう)やバイ・セクシャルの異名を持つ迎礼図夫(げいれずお)ならびに両性具有の金玉子(きんたまんこ)らによる政界をも巻き込む派閥争いが繰り広げられることを予想していたものは少なくあるいは併設された霊園のその不自由な濁点とレスポンスをピアノの流麗な喧騒により等式と為しそうだ何故気づかなかったのかと思えば隣に住む幼馴染の浩太郎は昨日ギロチンで首を切られ死んでいるのを山太子が見つけたのでG7の登場音楽と共に物騒を堅実に潜る現実感の無い様に人知れず拍手を送ろうと思いましたがトップランナーを破り捨てた平日の芸術は軽く流す程度に瑞々しく大量の激情を甚だ神戸和牛によって育てられたもののけ姫は乳房が膨らみきらぬ内にアイスクリームのへらでまんこをまんこまんコンマ37秒の世界に唐突に実際が現れその程度の時間で何もかもが青春の中に消えてしまった人間を幾人も見てきたが配当金を捨てることが最も不確かな正解であることをおぼろげながらでも知っていたのではないかあるいはですがしかしかつてともするとなぜかなのでもしも副詞節が半濁点とクエスチョンマークの間にあったならこのような争いは闘争は不自由は差別は贔屓は殺せと親父が言ったがおれにはとてもじゃないが出来る気が違っているのはアルバムを温泉に漬かった猿のみならず縄に封じられたアイスクリームとその添加算装置換気球に乗って空を飛ぶことが平生の夢であったのは間違いなく時として不自由な選択こそがそうお気づきのとおり話題はループザループを決めた澤野はエロ漫画をくすねたことにするとほらあの複雑な等式が一気に明朗快活なX=12という式に向かって痰を吐きつけた犬を食い散らかすカラスをひき殺したダンプの運転手の背中に張り付くヤモリのDNAに渦巻く3点リーダこそがこの世界のひとつの平和のあり方なのであった……
まずはこれを見て欲しい
http://www.dshocker.com/entry/2014/11/07/210343
最近何かと話題の齊藤氏を参謀本部まで行って占いをした大彗星ショッカーがかなり確信に迫ることを引いてた。
「参謀本部の将来を占う」と題されたものだったが、何しろ引いたカード通りの道筋に行ってる。
まず、2014年の「ソードの8」の正位置。このカードについてショッカー氏は触れてないが実はもうこのカードからして的中してる。
タロット占いのサイトで「ソードの8」の意味を調べると「拘束。束縛。孤立。幽閉。監禁。抑圧。無力。危険。障害。干渉。八方塞。」と出てくる。
実際に、この1ヶ月後警察に通報され拘束・監禁をくらい、ネット上ではそれまでしなかったような失言をして孤立。
そして、2015年のタロットは「死神」の正位置。崩壊や終末という意味で使われ、ショッカー氏自身も記事の中で「いきなりですが2015年に死神が正位置で出てるので、潰れるとしたら来年です!」と書くほどのヤバイカードだ。
実際、崩壊や終末を意味するこのカードの序曲はもうすでに2014年現在のコウモリVS齊藤氏のやりとりで見られる。
ツイッターでのやりとりによれば、コウモリ氏は「暴露記事を書く」と意気込み、齊藤氏は「罰金を取る」と対決姿勢むき出しの状態。
http://twitter.com/miraihack/status/546979043111759872
ここで注目すべきは今までお金の話ではおおらかだった齊藤氏がお金の話をネット上でむき出しになってしたことだ。
実はショッカー氏の占いにも齊藤氏が「「金のことばっかり考えてる品性の無い男」を意味するペンタクルのキング・逆位置が!!」と今後の道筋を指し示すようなものが出てる。
占いによれば、2017年の話ではある。だが、現状の豹変を見れば「さもありなむ」という予感もする。
「ようは、金のことしか考えないゲス男になりそうってことです!!そのことでどんどん迷走!!みんなの心も離れて行く!!お金を求めれば求めるほど、さらにお金を稼げない状況に陥りそうです!!」
今現在「死神」に向かって起こっている崩壊や終末に近いものを、さらにそこでの発言傾向の変化は2016年に出ている「カップの5」正位置で表されてる「自信喪失・諦め」を意味するカードともつながってくる。
占いとは思えないほど、順序立てて「これから起こること」を1ヶ月前のまだその風潮の見えない時期に言い当ててしまったショッカー氏はなにか持ってる!
サングラスを取ったら輪廻眼だったりするのかな…サングラスとった写真が昔のかっぷくの良い写真しか移ってないけど…。
そして、それらの対策を意味するカードについても齊藤氏を言い当てたようなカードを引いてます。「女教皇・逆位置」で意味は「激情」「ヒステリー」「不安定な感情」だそうな。
ただ、ショッカー氏の占いが当たっていれば、2019年のカップのペイジを転換期に2020年は安定方向に行くそうです。
安定してる齊藤氏というのが想像しにくい現状ではありますが、どうせ当たるなら悪いものだけでなくいいものも当たってほしいものです。
・捕捉
ショッカー氏のブログではなく、その当日に同席して会話を文字起こしした参謀本部側の記事によれば、齊藤氏個人を占った時には「2015・2016年」にはもうカネカネになるという占い結果が出てたそうです。
http://www.honbu.co.jp/archives/701
つまり、明確にショッカー氏の占いは当たってるようです。…本当にあのサングラスの中に万華鏡写輪眼でも持ってるんでしょうかね…。
大したやつだ
※朝になって読んだら読みづら杉。あとで編集する。
観終わって、ディズニー映画でこれほど多様な読み方が出来る映画はない!と息巻いてシネスケ開いたらあんまりみんな自分の解釈提示してなくて、いきなりシネスケに書くのも恐いから、おそるおそる増田に書いてみる。ネタバレあり。
まずあらすじ。
幼少時に自分の魔法(触れたものを凍らしたり、氷柱を地面から生やしたりする)によって妹アナを怪我させてしまったエルサ。その経験から、親の指導により人との関わり合いを断絶。アナは治療時に記憶を失っているので姉がなぜ人との関わり合いを避けているのか理解できない。そんなエルサだが、大人になって女王に就任。その戴冠式のお祭りでアナはハンス王子と出会う。出会ったその日に婚約するも、エルサからはそんなのは愛ではないと言われてしまう。ここでアナが日ごろの鬱憤をぶちまけ、それによりエルサが激情しこれまで隠してきた魔法を発動。2人が住むアレンデール国は雪に閉ざされる。魔女を捕らえようとする追っ手から逃れ、エルサは氷の山で独りの王国を築き上げる(ここでLet it goを歌う)。雪に閉ざされたアレンデールを何とかすべく、アナはエルサの後を追う。途中出会った男クリストフと共に氷の山に行くも、エルサはアナに帰れと言う。ここでアナの話からアレンデールが自分の魔法のせいで大変なことになっていることを知ったエルサは絶望し、魔法を発動して再びアナに重症を負わせてしまう。アナを治療すべく、クリストフは魔法使いのところに行くも、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」と言われる。クリストフは真実の愛=婚約者であるハンス王子のキスが必要と解釈し、アナをハンス王子の下に送り届ける。ハンス王子と再会したアナは王子のキスを求めるも、実はハンス王子はアレンデール国を乗っ取ろうとする悪者であることがここで発覚。王子はアナを見殺しにし、アレンデールの大臣にアナはエルサの魔法で殺されたと告げる。氷の城を襲撃して捕らえたエルサの処刑がここで決まる。処刑の直前にエルサは逃亡する。他方、アナの方は、愛とは「他人のために自分を犠牲にすること」と諭され、自分を助けるために命を賭しているクリストフの姿を思い浮かべる。そこでクリストフの下に向かうが、そこにはハンス王子と対峙するエルサの姿が。結局アナは目の前のクリストフを尻目にエルサをハンス王子から守る。エルサの魔法によりアナは凍ってしまうが、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」という言葉を信じたエルサがアナにキスし、アナは目覚める。ラストは「真実の愛」により雪が溶けたアレンデールの光景を映し出し、終了。
主題は2つあってそれが1つに繋がる構造。主題の1つは、自らの「魔法」をその共同体の中では抑圧せざるを得ず、「魔法」は共同体と決別することで解放することができる。しかし、それには種々の問題が生じる、というもの。主題のもう1つは、「真実の愛」は家族愛である、というもの。この2つの主題を繋ぐのは、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」という命題で、「魔法」の解放により生じる問題は「真実の愛」でこそ解決できるいうようになる。
主題の2つ目(「真実の愛」は家族愛である)というのは最近ディズニーが『マレフィセント』で主題としたところ。同映画では、魔女の呪いにより永遠の眠りについたオーロラ姫が、真実の愛により目覚めると言われている。そこでイケメンの王子がキスしてみるがダメで、結局お母さんのキスで目覚めるというストーリーになっている。そこで語られているのは、その辺のイケメンと1夜の恋に落ちたところでそんなのは愛ではなく、家族愛こそが真実の愛である、というメッセージである。そうしたことから、主題の2つ目は割とはっきりしていて、それほど多様な読み方ができるというものではないと思う。
問題は主題の1つ目で、Let it goの解釈がここに関わってくる。日本語版だと「ありのままに」と訳されているのは周知の事実だが、これだと「自分らしく生きていけばいい」というメッセージになる。しかし、これは正確ではない。エルサは自分らしく生きた結果、アナを傷付け、故郷の国を雪に閉ざされた世界にしてしまったのである。この曲はそのような自己肯定的な曲ではなく、「(是非はともかく)とにかく家族を捨て、自分は解放されたんだ」という意味に解すべきだろう。
仮に主題を上のように解するとしても、そこには「魔法」は何を意味しているか、という問いが存在する。ここでの「魔法」とは、
①それにより周囲の人間を傷付けるため、
②周囲から自制と抑圧が求められるが、
を意味する。これを前提にまずありうる解釈は、「魔法」とは同性愛を指しているというものである。この線で作品全体を考えてみると、同性愛を抑圧し、隠そうとする家族という共同体を捨て去ることで、同性愛の問題は解決する。しかしそれは真の解決ではなく、種々の問題が生じるものである。大事なのは、家族との相互理解、歩み寄りによる「愛」であり、それこそが問題を解決するのだ、という読み方になる。
もうちょっと推敲しようよ。ところどころ何言ってるんだかよくわからないところがあるよ。
逃げ道を塞がれた〜←これ見ても分かる通り。被害者意識を関係のない自殺志願者(に見える人、そうだと思い込んで決めつけた人)に向けているだけ。逃げ道を塞いでもいないのがまたウケる。殺人と同じ!これでみんなやめる!ふーんへー
あのね、それって話が逆だからね。
君が、君のために書かれたわけでは決してない話について、その語り手が自殺遺族だからという理由で、一人で勝手に「自殺志願者に恨みを向けている!」と逆上しちゃってるだけですよ。
自殺についてあれこれ言う話である以上、自殺志願者に全く関係のないものだとは言えないけれど、この一連の記事が自殺志願者にだけ向けられたものだと思うこと自体、自意識過剰だよ。何がそこまで琴線に触れたんだかよくわからないけど。
まあ正直書いた動機に恨みや軽蔑の類が全くないかと言われるとそうも言い切れないことではあるけども、なぜ恨みや軽蔑が生じるかって言えば「自殺とは自分の生命を賭けて自分の生きる世界を積極的に否定する行為」「犯人=被害者のちょっと特殊な殺人」という事実があるが故だからねえ。
殺人に恨みや軽蔑や憎悪や二度と起こってほしくないという感情を抱くのは一般に正常なことだと言えると思うがね。
ところで、仮に自意識過剰でも何でもなく「逃げ道を塞いでもいない」なら、つまるところ自殺志願者にとっても関係のない話であるはずなのに、何でそんなに逆上するのかが不思議だよ。要するに図星な部分があるからなんじゃないのォ~?w
それとも自殺志願者一人一人に斟酌すべき事情があるのに十把一絡げに殺人呼ばわりされているのが気に入らないとかなのかな。
しかし、他殺でいうなら情状酌量による減刑はあっても「酌量の結果無罪!」とはならないのと一緒で、事情を勘案したことで「自殺とは自分の生命を賭けて自分の生きる世界を積極的に否定する行為」「犯人=被害者のちょっと特殊な殺人」ではないという話にはならないんではないのかね。「それは自殺じゃなくて病死/(社会的)殺人の被害だ」という話にはなるかもしれないけどさ。
あるいはもっとシンプルで、「犯罪者予備軍」じゃなくて「被害者予備軍」なのに何で叩かれなきゃならないんだコノヤローとか思ってるのかな?
自殺という行為一つだけをとるなら、明らかに被害者である前に加害者の予備軍だ。自殺という加害があって初めて被害者としての自殺者が発生するからだ。
あと他人を殺す奴と一緒で、何言ったってやる奴はやるからな。抑止効果が期待できるとは思っていない。
犯人と被害者が一致している←その理屈だと被害者じゃなくて被害者遺族だろwww俺の指摘する被害者ぶりっこと同一にすんなよな理屈自体。法的にもおかしい個人の決定権同一性無視してる。自分が被害者遺族にしておけば誰かに同情してもらえるからな
じゃあ「被害者遺族」と書き換えてもらってもかまわないよ。大きな差があるようには思えないし。
個人の決定権は時と場合で大きく制限されるのは当たり前だ。自殺に罰則がないのは自己決定権に基づいた自由な行為の範疇に入るためそもそも罪ではないのだという考え方のほかに、罪は罪だが罰を科しても誰も得しないから罰さないのだという考え方もある。
現に自殺は罰則こそないが個人の自由に基づいて行使できる正当な権利として公的に認められては決してない。例えば快適な自殺のための設備というものはないし、ターミナルケアや尊厳死には必ず適用のためのガイドラインが設けられていて「死にたいから」だけでは実施してもらえないようになっている。
同情なんてしてもらえないさ。現にここまでのトラバで同情的な内容なんて一言もないだろう?
当たり前だ。同情じゃなくて主張に対する意見がもらえるように書いたんだからな。
いやー匿名環境で書いたのはやっぱり正解だったわー、身内に自殺者がいるというレッテルだけでこんな気炎挙げて絡まれちゃ実名にせよidにせよ特定可能な環境下じゃとても書けねえwおっかなすぎるww
叩きは〜←殺人犯の家族への叩きなんて俺の叩きの文脈と全く違うそもそも被害者ぶるなとは叩かれないだろwwwつまりおまえのアホな理屈を適用するならそのように叩かれてないから殺人じゃないな。
殺人を犯した家族と同様に扱われたとしても自殺=殺人にはならない
その被害者意識をばらまくのいい加減やめてくれな、
文脈がどう違うのか全く分からないんだが。被害者ぶるなとも叩かれてるじゃないか。秋葉の事件の家族に向けられてるセリフなんかが検索でヒットするよ。
あと残りの部分は何を言ってるんだかよくわからない。
「そのように叩かれてないから殺人じゃない。殺人を犯した家族と同様に扱われたとしても自殺=殺人にはならない」のくだりが特に意味不明だ。
「殺人にはならない行為のおかげで殺人を犯した家族と同様に扱われる」ってどういう理不尽やねんって感じだけど。それこそ自殺者遺族は「自殺」の被害者になっちまうんじゃね?
一緒に買い物に行くと、ことあるごとに(主に私以外の3人に)ギャンギャン吠えるため、一緒にいて恥ずかしい。
妹に何か話すと急に怒り出して疲れる。世間話が出来ない。
あと、最近ジム行ってダイエットしているんだよねーという話をしたら、私が太っているのはこの体に生まれたせいだからと急に泣き出されて、一同ポカンとしてしまった。
(優しい時もある。)
義理の弟は働いているが、おそらく収入はそれほどでもなく、父の年金や財産に依存している。
先日旅行に行った時にホテル代等、まるまる払わせていたので、妹に少しは払ったらどうかと軽く話したら、また怒り出し「おまえこそ払え」と論点をすり替えだした。(私は払う予定で、実際その後支払った。)
父はいわゆるサヨクで朝日新聞を愛読し、基本的には話は合わない。激情型の性格でもある。ただ最近は妹の勢いに押されている。
義理の弟は静かな性格で、なんで結婚してくれたんだろう、よく離婚しないなと未だに不思議になる。
実家に帰っても疲れることこの上ないので、もう距離を置こうと思う。
結局のところ、妹とのコミュニケーション不足に違いないが、粗暴なところが一番関わりたくない性格の持ち主なので、距離を置くことがベターなんだと思う。
※父の財産には興味ないです。
当時は凄く大人に見えて酔った勢いで関係もったところから付き合い始めた。
贔屓目にみても凄く綺麗だと思ったし、自慢の彼女だった。
付き合って1週間後には自宅引き払って西の繁華街のど真ん中で同棲始めてた。
最初こそ楽しかったものの、徐々に彼女の言動にイライラすることが増えてきたのが2ヶ月過ぎたあたり。
この頃には、起床後には、1日の予定を洗いざらい(分単位)スケジュール帳に記載させられて彼女に渡すのが義務となった。
確かに、帰宅時間もバラバラだったし、酔っぱらいながら帰ってくることも多かったから、仕方ないかなと割り切ってた。
彼女「お前が早く帰ってくると思って早めに帰宅したのに、暇になるだろ。早く帰って来い」
俺「大学のレポート期限忘れてて...申し訳ないけど頼むよ..」
彼女「忘れてたお前が悪い。早く帰って来い。」
俺「・・・」
みたいな。
もちろん、本当に大切な用事が急遽入ってしまった時は、彼女に従わず強攻策をとったりもした。
しっかり鉄拳制裁くらってたけど...
この辺りの時は、嘘の予定入れて彼女に渡して、束の間の1人の時間作ったりしてた。
付き合い始めた当初こそ、1日で何回エッチできるかしてみよう!とか、
休みの日は2人でひっついてたり、出かけたりしてたわけだけど。
さすがに、こんな付き合い方してたら、恋人関係なんて上手くいく訳もなく自然にセックスレスにもなってた。
でも、やっぱり欲求に20歳が勝てるわけでもないので外で処理するようにもなってしまってたのが6ヶ月目ぐらい。
モノをねだる時だけ、優しくなって断ると豹変する。
最終的には、激情してよく分からない持論叫んで酷く暴れてたなぁ。
「何故、私にキスの一つもできないんだ!」「男のくせに情けないやつなんてコロシてやる!」
俺もこんな死に方嫌だし、フライパン持って応戦して、
何とかなだめて包丁を鍵付きの引き出しに入れて、料理は俺がするようにって約束した。
その次の日には新しい包丁買ってきてて笑顔で料理してたのは、さすがにビビった。
結局、この翌日に逃げ出したわけだけど。
付き合って1年たたずにここまで状況が悪化させれるのは、ただの恋愛事故だな。
我ながら1年近くもまぁ我慢できたなと。
先週あたりに、
嫁の母はわりとプライドの高い人で、軽く見られたり安く見られるような振る舞いは諌めるよな人だった。
俺の嫁も、身持ちの固い人だと思う。
嫁も妹も当然そのメンタリティを持っているはずだったんだが、どうも最近トチ狂ってきたらしい。
三年ほど付き合った彼氏を捨てて、イケメンの医者にのりかえたんだが、一か月ほどでふられたらしい。
それが原因でヤリマンになった、というと違うみたいなんだが、とにかくヤリマンに成り下がっていることを嫁に相談してきたらしい。
そのイケメンの医者とも合コンで知り合ったそうだし、その医者とうまくいかなくなってきたら別れる前から合コンに行っていたようだ。
が、その義妹は看護師をしていて、とにかく激務だからか、とにかく結婚して仕事をやめたいらしい。
とにかく結婚したいの! と言って合コン行きまくって持ち帰られまくっているらしい。
セフレもいるらしい。
それで、手持ちのカードの誰と結婚しようかー、みたいなことを姉である俺の嫁に言ってきたらしい。
嫁はため息ついて、何も言えなくなってた。
あのこ、仕事が大変すぎてあんなのになってしまったんだと思うの! と言ってかばってたが、
原因は全然関係なくて、行動そのものが問題だよ、と俺は言ったのだが。
まあ、嫁も同感ではあったみたいだが、妹をそんなふうに見たくない、って気持ちが強かったようだ。
とにかく、ヤリマン三昧の中で合コンで見つけた男と結婚して幸せになれるとは思わないし、
仕事を辞めるためだけに結婚したって今度は結婚やめたくなるに決まってる。
奨学金があるから仕事やめれないって言ってるみたいだが、結婚したら旦那が返してくれると信じ込んでいるようだし、
逆に奨学金抱えた医者とは結婚したくないって言っているダブスタ。
なんかもう、真面目にアドバイスするのがアホらしくなるような子だし、浪費家だし、激情家だし、何かどうしようもない子なんだけど、
嫁の妹だし、あからさまに不幸になってもらっては困るわけなんだよね。
嫁のためにも、どうしたらいいんだろうか。
親戚じゃないなら、二度とお会いしたくないような女性ではある。
まあ、顔はかわいいけどね。
それに気付くまでは楽しんでやれていたのに、気付いた瞬間(まあ遅すぎだけど)血の気が引いて退会することしか考えられなくなった。
妬ましい。羨ましい。悔しい。
この際率直に言ってしまうが、身内の幸福(特にイラストにまつわる)が全て妬ましくて仕方がない。羨ましい。苛々する。
単に描いたものがよいものだというだけなら素直に感動が出来るのに、それに何らかの社会的評価や物理的な結果、今後への布石が見えてくると、幸福を祝う気持ちは雲散霧消し、妬み嫉妬憎悪に心が塗りつぶされる。匿名掲示板に晒しあげられて炎上すればいいのに、などと思うことさえよくある。恐らく私にプログラミングの素養があったら荒らしのためにスクリプトを組んだかもしれないし、Vipperならばヘイト記事を乱立したかもしれない。実際はそのどちらでもないので、自分の布団の中にうずくまってうーうー言うだけであるが。
こういうことに激情を発するということから顧みるに、こういうことにコンプレックスないしは過度な憧れがあるのは確かだろう。
私は他人からの評価のために絵を描いている(というより、他人から評価されるためのツールのひとつが絵である)節があるので、それも道理であると言える。こうした考えは酷く幼稚であろうし、非生産的だし、何より生きづらいので辞めた方がいいとは知ってはいるのだが、奈何せんうまくいかない。もうずっとこういう気持ちで生きているからだ。私は自身に対して過度に卑屈(であると同時に、自意識過剰)なので、他人の評価に依存しなければやっていけないのである。
その一方で、最近痛感していることとして、私は他人から評価されるタイプの人間ではないようなのである。例えば評価されたとしても、持ち前の卑屈と自意識過剰で以て、その評価を分不相応――"二重の意味で"――に感じ、素直に受け止めることが出来ない。自身の中で納得感や達成感を得られない仕事というのを人間は続けられないので、そうして貴重なチャンス(あとから思えば)を沢山棒に振ってきた。
具体的には絵を仕事にはできないし、趣味でも納得できそうにない。
いい大人にもなってこんなに拗らせているとは、もうどうしようもない気がしてもいる。成功はしなくても幸福にはなれるだろうが、私の価値観では幸福と成功はイコールであるし、そしてもう成功はおそらく無理なのである。