はてなキーワード: 激情とは
家帰って玄関開けたら即尺ごっくんとかよくあったな。包丁持って脅されながらフェラされたり。四六時中セックス三昧。
ピル飲んでたけどゴムで避妊しようとするとリストカットとかあったし。マジやばい。クラミジアになったし。
特に喧嘩したあとはすごいね。元カノはDVもすごくて窓ガラス割ったり椅子投げてきたり階段から落とされたりの激情タイプだったけど
喧嘩して「ボタンを掛け違えちゃったね」みたいなこと言って許したら、もうそのあとのセックスは最高だったな。
半年くらいで俺の精神がまいっちゃって別れたけど、別れる時はめっちゃ大変だった。今は別の寄生先が見つかってるみたいだけど。見た目は可愛かったのになぁ。
それは果実だと誰もが答えるだろう。
ぜってー参考になってねー
これは当たりか
世論と共に考えるような人は、
自分で目隠しをし、
そうだとしても、少しは考えたほうがいいよね
いい手本を示そうとする者は、
自分の徳に微量の
馬鹿げたところを添えなくてはならぬ。
すると人は見習って、
同時にその模範を眼下に見下ろす、
– これが人々の好むところである。
今回はさすがに好まないと思うが
自分を強くしてくれる。
なれたかな
およそこの世の中で、
怒りという激情ほど、
男性の精カをあれっと思うほど急速に
消耗させるものはない。
そうですね
一段深く考える人は、
いつも間違っているということを知っている。
考え過ぎたことは
すべて問題になる。
たいてい相手の人はそれを忘れない。
人生に対して
もっと大きい信頼を寄せているなら、
おまえたちはこれほど瞬間に
身を委ねることもないだろうに。
この間、その女との会話中に呼ばれて、つい口から「このタイミングで・・・。」と出てしまって自分でもびっくりした。別に呼ばれて困るタイミングじゃなかったから、アレは内心あちゃー・・・とも思った。
が、どうにもこうにも恋心がそんなに熱烈じゃない。
仕事の関係なのに名前すら覚えられていなかった事に、普通ならしんどくなりそうなものだが、「まいっか。」と思ってる。
そして、「その女のことが頭から片時も離れない」なんてこともなく、休日には全然違うこと(趣味のこととか)を考えてて、女のことなんかすっかり忘れてる。職場で顔を合わせてからようやくなんかスイッチが入る。
10代20代は恋愛感情ってもっと心を引き裂かれるような激情だったんだが、もう歳かねぇ。
多分、親族皆がメソメソ泣いているところで私だけが普通にしていたからだろう。
悲しくなかったわけではないのだけれど、別に泣くほどじゃなかった。
私にとって涙を流すというのはとんでもない激情に支配されたときぐらいで、正直な所祖母が亡くなったからと言ってそこまでの気持ちにはならない。
逆に話を聞く限り祖母に早く亡くなって欲しい、財産がほしいと語っていたという私の母の姉(何ていうんだっけ?)がわんわん泣いていたのが不思議でしょうがない。お前死んでほしかったちゃうんか?
私も喜怒哀楽がないわけでは無いのだけれど普通の人よりは弱いとは思う。
感情に支配されないおかげで得られるメリットも色々あるけれど、他人からロボットと言われるデメリットよりは大きくない。人間らしくないと避けられることはちょくちょくあるからね。
表情に出ないだけで私も喜怒哀楽を感じているので、ロボットと言われるとちょっと傷つく。
少しのことで喜んだり悲しんだりできる人が心底羨ましい、そっちのほうが楽しそう。
もうずっと昔のこと。
ヒト一人が生まれて、大人になって、そこからまたヒトが生まれるぐらいの昔のこと。
だったのに。
あの時はあんなに忘れないって思ったのに
忘れられるわけなんてないって思ってたのに
そんなことは不可能で
気が付いたらそのことを一度も思い出さずにいる日があって
そんな日が気が付いたら週に何度もあって
気が付いたらそれが1ヶ月の半分ぐらいになって
でも時々思い出して泣くんだよ
いつの間にか、思い出しても涙が出なくなって
いつの間にか 思い出せていたはずのディテールがあやふやになって
その頃の辛かったことなんてもう思い出せないけど
その頃の幸せだったことだけは何故か消えなくて
悲しみは薄れこそすれ
愛しさは消えることはないのに
それなのに、思い出せない
今もこんなに愛おしく思っているのに
忘れてしまう
砂時計の砂粒よりも小さい欠片になって崩れていくように?
素焼きの器から水が染み出していくように?
いつの間にか
その笑顔さえも
一旦投稿
毬が転がった後の暗転が、すごく暗闇。DVD撮影日、最前列、と見たので、今まで実はそんな暗くなかった。
ほぼ最後尾だったので、暗闇がすごかった。
その暗闇から「不幸という言葉が…」という一説(長い)(日本どうこうまで入るよ)が聞こえると、井戸の中で亡くなったものの嘆きに聞こえます。
場所は紀州の孤島。「ここが最後の場所」と言う。物語の最後の場所であるらしい。
ちなみに舞台では紀州の孤島の諸戸屋敷を改装しているとやはり最後に言っている。
亡くなられた方が、私たちのいる現代に帰ってこられて、語られているようす。
鬼のことは姿が見えないという。
どうにも諸戸の最後の手紙に苦しんだという旨かのような発言に聞こえる。暗記できない…
なんというか簑浦と諸戸やはりお亡くなりになっていて一緒にいる。
私は学生時代の簑浦が「あつい手だね」と言ったこと、~`,+@~若いから嫌悪感なかったということなど、『私』の簑浦は諸戸との恋愛にどうしても繋げてしまう。
というか、学生時代の終わった恋の簑浦、諸戸との友情の箕浦というのは、状況的にはスッキリする。いや心理的にもそうなのだけど、後半の解釈がうまくゆかぬのだ…
箕浦「ここからは僕の物語」が、おそらくセリフとして正しいはず。毎日稽古しているようだけどセリフ変わってたらどうしよう…見る回によって難易度違うのは勘弁してほしい…
よくよく聞いてないと本当に流してしまう…
諸戸との再会は初代さんちで深山木さんもいる時でしたね。
作中で声が重なるのは4回。
「早くないですか」は、もっと諸戸と話したかった(のに邪魔された)という意味?
ヒグチは初代と秀子…あ~
言葉に二重の意味がある時に同時に話すのか? いや、私は原作からも「あつい手」を二人が同時に感じる相思相愛エロチシズム表現だと解釈している。これはハッピーエンドを目指すときに絶対に揺るがせない。
私>箕浦って世界への権力差は確実にある。これがな~どこまでを私とし箕浦とするか、というのが厄介にさせている。
いや逆か。おそらくどこかに数式の解があって、それであるならすべて説明可能になるように設定の証拠が上演されているのだ。
『私』と諸戸だと共犯関係のような雰囲気を感じるけれど、箕浦と諸戸は親しく親密にしていてもどこか絶対の別個体感があったんだけどなぁ。う~ん…印象に補正かけている気もする。
諸戸と箕浦に萌えるのって、それこそ不倫の恋のように感じて抵抗がある。初代から秀ちゃんに心変わりすることを「恥はないのか」と責めることと、まったく同じ事象が「箕浦が諸戸に心変わりした」という場面でも発生すると思うのだ。
諸戸と箕浦の身長差であるとか、近い距離感であるとか、激情を秘めた哀しみのHSK×鈍感素直な陽属性ノンケという組合せだとか、萌えなくはないのだけど…ってあーーーー!
これが「諸戸と簑浦は何かへんだぞ」か! そして箕浦は完璧なノンケの態度しかとっておらず、盗み見たり接触しようとしたり近い距離にドキドキしていそうなのは、変なのは諸戸の方だ!
そうだ、二回聞いたなと思っていたのはここだ。学生時代の思い出語りで諸戸の友愛や親切に感謝していると『私』は言い募るのだ。セリフの仔細はちがうだろうけど、井戸で襲われかけている時も『私』はそう募る。
どうにも『私』は諸戸と恋愛できる可能性を抱えているように見えてしかたなく…やはり手を握り返さない箕浦に驚いて『私』を見るシーンの解釈が…
あれ?もしかして再会してから、諸戸が初めて『私』を見たのがあの時か!?
ねえそれなら、諸戸は「手を握り返されられない」ことに『私』=簑浦の中にある恋の種に気付いたのではないか?
だから諸戸に見られた『私』は顔を背けその瞬間箕浦は手を握るんじゃないか?
ああそうか、もし諸戸が自分の身を恋に燃えるイドと美しい友情の超自我に分けられたなら…
丈五郎に滞在していけと言われた時、諸戸は先に『私』を見て「だってさ。」と言い、それから箕浦を見ている。
秀ちゃんが吉ちゃんの手を自分の胸にやるシーン。あそこは死んでしまいたいというセリフだっけ? 井戸の中で諸戸と死ぬことを受け入れた箕浦は、抱き締める諸戸の手をどうした?
あの時は吉ちゃんは発情していなかった。だから胸に手をやるのは凌辱表現ではなく、秀ちゃんによる吉ちゃんの受容だったのでは。セリフはなんだったか?
《みのうら》している箕浦は、諸戸の回想とか見えていない。だから語っている諸戸を見ている。『私』には諸戸の回想が諸戸と同じように見えている。
そう、秀ちゃんに恋したところを見咎める諸戸、めっちゃ非難する諸戸、あれって諸戸よりももう一人の自分みたいだったんだ。ある意味箕浦に似ていた、諸戸とは少し違わなかった?
私、簑浦が同性愛を否定するようになったのはあの夜以降で、その倫理形成は諸戸だったのではと思うの。超自我は教育で培われるでしょ、簑浦の同性愛嫌悪はそのまま自己否定する諸戸のようだと思うの。
「君は嫉妬しているの?」ってセリフ、あれはああ言うしかない会話の流れででもそしたら嫉妬しているって答えるしかなくてじゃあ今こそ受け入れてくれるの?って流れになるに決まってて…って思うんだけど、そこでも簑浦は友情しか受け取らない…「うん秀ちゃんが無事で嬉しい」って言えばよかったの?
しかも下の名前は本名の漢字を変えているだけなので、知り合いが見たらすぐに分かるはずだ。
ゲーセンで知り合った中卒の女で、当時から確かに悪い噂はあった。
飲んだ勢いで告白されたときも相手にはまだ彼氏がいたのだが、高校出たばかりの自分は童貞を捨てたい一心でその誘いに乗ってしまった。
実際に付き合ってみると感情の起伏が激しくかなり扱いづらい部分はあったが、それでも浮気もされずに何年か付き合うことになった。
同棲まではしてみたものの、仕事が忙しくなって相手ができなくなると、突然同棲をやめると言いはじめて、それから連絡がとれないままに別れてしまった。
悪い噂というのは、とにかく片っ端から男に手を付けるというもので、本人にも問いただしてみたことはあるがそれなりの数の男と付き合っていたらしい。
付き合っている最中もこちらの気持ちお構いなしに求めてくることが多く、贅沢なことかもしれないが、正直仕事との両立は厳しいと感じられるほどだった。
別れてから2年ほど経った今、まさかこんな形で相手の今を知ることになるとは思わなかった。
はっきり言って何故そんな風に自分の名前が使われているかの理由が全くわからない。
復讐?それとも未練?
いずれにしてもそんな激情のもとに別れを迎えたような恋愛ではなかったはずだ。
金遣いも性欲も、AV女優になりかねない素養は多分にあったとは言え、これはなかなかにきつい。
当時のゲーセン仲間も縁遠くなっているから構わないと言えばかまわないのだが、こんなに気持ちが悪い経験は初めてだ。
とりあえず理由が知りたい。うっかり読んでくれたりしないだろうか。
自分はすごく面白かったんだが、「面白かったね~」って言ってたら「あーーww俺あの映画だいっきらいだわwww」とわざわざ口出ししてくるひとが居て、好きな映画だったはずなのにもうそれで色々と萎えて、楽しかった思い出が全部ぶっ飛んでしまった。もうあんまり思い出したくない。
すごく悲しかった。
まあ自分で気付いていないだけで、同じようなことをわたしもきっとこれまで繰り返してきたんだろう。対人コミュニケーションとは傷付き傷付けられることだし、多くの場合勝手に傷付けられる方が悪い。繊細ヤクザという言葉もあるし、そうならないよう、自分ももっと愚鈍であらねばならない。そう思って溜飲を下げようとしている。
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本当はその楽しかった思い出を、向こう半年くらいは反芻しながら生きていくつもりだったのに。今はその作品について思い出そうとすると、あのときの場の変な空気とか、自分の子供っぽい激情とか、数刻後にどっと押し寄せた疲れと悲しみが思い出されるので、後悔しかない。↑のひとに対して多少ムムときたのは否定しないが、自分への怒りと後悔の方がそれに勝る。自分がもっと他人の価値観を尊重したうえでコミュニケートできるような人間であれば何も問題はなかった。
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85分ぐらいの短い映画だが、見せ場に富んでいて興奮した。
この作品に緊張感を与えているのはインテリなヒロインの奮闘ぶりだろう。
どれだけ追い詰められてもヤケクソにならず、サメの特徴を見極めながら冷静に対策を検討し、
逃げるだけでなく、サメを攻撃するアイディアをひらめいたら果敢に攻撃に転じていた。
これと対照的な映画として思い浮かんだのが、品川さんのZアイランドだ。
ゾンビだらけの島に来てしまった人々はパニックになったまま、必死に知恵を絞ることなく
激情もしくはあきらめに駆られて玉砕戦法に走ってバタバタ死んでいく。
死にたがっている人たちが死んでもスリルが無い。
白鳥異伝を読んだ。久しぶりの読書。読みきった充実感はあるけど、荻原規子の小説は自分には合わないのかもしれないと思った。
少女が主人公だから仕方がないのかもしれないけど、白鳥異伝も少女小説っぽいなって感想を持った。生まれ持った使命や純真な恋愛などもろもろもの要素を練り込んだ大作になっていたと思う。
空色勾玉よりかエンターテイメント性に指針を振っていてので読んでいて楽しかった。特に小倶那の出生および悲劇的な運命は読ませるものがあったと思う。本当に可哀想な男の子だった。
一方の遠子なんだけどすごい癖のある人物で困った。最後の方は好きになれたけど、中盤は本当にきつい。菅流に指摘された通りの思い込みの激しい人物で、なおかつ直情的なもんだから本当に共感しづらかった。初めに少女小説的って言ったのはこの遠子の性格が原因。彼女に感情移入できるならかなり楽しめる作品なんだと思うんだけど、自分には難しかった。
また遠子に限らず、登場人物が揃いも揃ってものすごく感情に忠実なもんだから思わず突っ込みたくなった。激情に駆られても理性が勝って冷静な判断をする場面が、殊に遠子に至っては殆ど無かったんじゃないかと思う。何やってんだよと何度か思ってしまったし、またこうなるのかとうんざりすることも多かった。
また古代日本を舞台にしたファンタジーだから当然とはいえ、折に触れて運命やら定めやらのキーワードが出てくるのも辛かった。その運命なり定めなりにしても、内実をある程度明らかにしてくれていたらすんなりと読み込めるのだけれど、ぼんやりとぼやけたままある状況下に陥ったのはお前の運命なんだよみたいな流れが出てくるのでもやもやした。まあ運命やら定めって言葉はそのように使いのが普通なのかもしれないけれど。
これら二つの気になる箇所が所々で悪魔合体したかのような読書感を与えてくるもんだから閉口してしまった。もちろんそのように感じる方にも問題があるんだけど、なかなかに辛かった。二度目読むときはその時々の登場人物が抱いている本当の感情がわかっているから楽しめるような気がする。一度目は文章だけを頼りに頭空っぽにして読んではつらいと思う。いろいろ想像して書かれていな本当の気持まで読まないと楽しめない小説なのかも。
その他の人物について。菅流がとびきり良い人物だった。喧嘩っ早くておちゃらけてて尻が軽いのに、面倒見が良くて優しい菅流は遠子と小倶那のいいお兄さんになっていた。七掬や武彦みたいな年長者たちは相変わらずどっしりと構えていて頼りがいがあった。
結局この物語は大王が糞なのと、百襲姫が狂ってたのが元凶だったのかなあ。妄執というものは何に対してであれ恐ろしいものだと思った。
二巻三部に渡る物語で、それぞれガラリと話の感触が変わるけれど、一貫したエピソードでもって引っ張っていく小説だった。今度は薄紅天女を読む。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
個人が唱える論が執拗であったり感情的であったりするときに、揶揄的な意味合いで使われることが多いな。
これにはいくつかの説がある。
定説は、「人間は身内を殺されたりするほどの背景や動機がなければ、そこまで執拗だったり情熱的になれない」とする説だ。
もちろん、冷静に考えれば必ずしもそうではない。
だが受け手にしてみれば、その人間が「なぜそのような言動を?」というのを納得するアンサーとして“物語”が必要なんだ。
虚実がどうあれ、他人を理解する手法としてコストパフォーマンスに優れているからな。
では、なぜその理由が「親が殺されたのか」というと古今東西、物語において主人公の親の死亡率は高かったのさ。
そうやって物語に触れてきた人たちにとって、動機や背景として「親が殺された」というのは分かりやすかったんだ。
……そうか、無神経なことを聞いてしまったようだな。
俺は入社3年目、工場勤務の作業員。24時間稼働の工場で3交代で働いている。最近風邪やインフルが流行っていて欠勤者が多くなっており、この間も二人休む事になった。そこで俺が勤務の変更をすることになったんだが、まぁめんどくさい。シフトを確認して出れそうな人に一人ひとりに電話して勤務変更していいか聞かなければならない。しかし相手も交代勤務をしているので夜勤の人なんかは昼間寝ていて電話にでれないことが多い。電話が繋がるまで時間を空けなながら残業して電話をすることもある。今回も1時間くらいずつ時間を開けて電話にしていた。ラインが回せるようにシフトが変更できるまで帰れない。こっちは早く帰れないのに電話が繋がらない限り無駄に残業時間が伸びてしまう。なんとか電話がつながりシフトを組むことが出来た。しかし途中で「早く終わらせて帰りたい。無駄な残業だな」と俺が言っていたの上司が聞いていたらしく、後日注意を受けることになったんだがその注意の仕方にが感情的に怒って注意をしているようで、上司として部下に注意をする仕方としては疑問を感じてしまう。
「俺は無駄な残業だと思わない。ラインを円滑に回すために必要な作業だ。入社3年目のお前が他に何が出来るんだ。無駄だと思うなら残業つけずにやればいいじゃないか。」
という注意を受けた。
勘違いしてほしくないのが俺はシフトの変更作業が無駄な作業だとは思っておらず、電話が繋がらずに残業時間が伸びてしまうのが無駄だと感じてしまったなので、上司から注意を受けた時に違和感ありまくり。なんか勘違いしてるぞコイツ、となってしまう。
弁解をしようかと思ったが感情的に注意をしているのでここで弁解したら「言い訳すんじゃねぇ」と激情してしまいそうで何も言わずに謝罪だけしていた。
勘違いから起きた上司の注意ではあるがその注意の仕方に疑問を感じてしまう。
まず感情的に注意をするのが上司としてどうかと思う。なぜ感情的に怒っているのかと判断したかというと上司の注意の発言のうち、主語が「俺は」になっていたのと俺のことを「お前」という攻撃的な発言で言ったことから判断している(普段「お前」という二人称を使う人ではないので)。
通常、感情的に怒って注意をしてしまうと論理的に見えないため説得力が低下してしまうし、相手に怖い印象を与えてしまう。最悪今後の関係にも影響を与えてしまう恐れがある。
今回の注意についても「俺は無駄な残業だと思わない。ラインを回すために必要な残業だ」という発言も言い方を変えて「そういう発言をすると職場の雰囲気が悪くなるし、後輩への影響もあるから控えてくれ」という客観的な理由を明確にした注意の仕方をすれば納得もできる。しかし主語が「俺は」になっているので個人的にイライラして注意したんだなと思ってしまうし、実際にそうである可能性のほうが高い。まぁ若造が「無駄な残業だ」と言った発言をすればイライラするのも分かる気がするが、まず勘違いなので最初になぜそういった発言をしたのかを聞いてくれればよかったと思う。そうすればこちらとしても、電話がなかなか繋がらないため帰ることも出来ず、イライラしていましたすいませんでした。と言った具合に無事問題にならずに住んだと思う。
そして上司の発言の中に「3年目にお前に何が出来る」という発言があったが、感情的になっているからとはいえこの発言を部下に対してするのは正直どうかと思う。俺はまだ若造とは言え、それなりにやらなければいけない仕事が多々ある(ライン作業以外の業務的な作業で)。むしろ若造なので仕事を色々押し付けられてかなり業務量が多いと言っていい。なのでそういう発言をされてしまうとこちらの仕事に対するモチベーションが低下するのでやめてもらいたい。こちらの言い分として、まだ若手なので上司のように高度な内容の仕事は出来ないが、若手なりに精一杯仕事をしている自負がある。それを「お前に何が出来るんだ」というい方をされるのは正直不愉快である。
また、「無駄だと思うなら残業をつけずにやればいいじゃないか」という発言に至ってはもう完全に意味わからない事を言ってしまっている。まず残業をつけずにやれというブラックな発言自体がもうアウト。上司としてアウト。パワハラ、モラハラ、何言ってんだコイツ状態である。完全に感情的に後先考えずに言った言葉だと思うけど完全に論理破綻している。もし仮に今回の作業が無駄な残業だと仮定して、なぜ無駄な作業だからといって残業を付けずに作業することを推奨する理由になりえるのか説明してもらいたい。こんなことを言っているようでは上司として信用もクソもない。
長くなってしまったが結局何が言いたいかというと、上司の人は部下に対して、感情的にならずに注意したほうがいいよということ。
けいおん3部作を読んで熱狂した私にとって、あのころの蛸氏はもう居ないんだなあと、しみじみと悲しい気持ちでいっぱいになる。「まんがでわかる太平洋戦争」とでも言いたくなるような単調な進行と、取って付けたようなエロとグロ。まったく実用性もストーリーとしての作用も皆無なエロシーンが唐突に挿入されていたのを目にしたときには「はい、ノルマ達成」という消化試合的感覚を感じた。
ストーリーと言えるものはなく、淡々と太平洋戦争(海軍)の戦史を追っていくだけなので、特定のキャラにつよくフォーカスを当てることもなく、物語の主題として何がいいたいのかわからない。もっと読者を感情移入させて叩き落とすような、激情を揺さぶるような漫画を読めることを期待したい。
自らを愛し、そして世界を愛する。愛とは、全てを許し受け入れることである。
であれば、
人の負の面。例えば7つの大罪
傲慢(高慢)憤怒(激情)嫉妬(羨望)怠惰(堕落)強欲(貪欲)暴食(大食)色欲(肉欲)
なども、許し愛することができて、初めて本物の愛といえる。
口で言うのは簡単だ。
だがもし、自らや自らが大切と思う存在を攻撃された時に、私は攻撃してきたものを許し愛することが出来るのだろうか。
この問について、私は考えていた。
ハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」という言葉を思い出した。
これだ!とわかった。
そして、私があなたのその行為を邪魔し、私が私のためにあなたそのものを排除しようとすることも、同じように愛し許そう。
ここに私の愛は成熟した。
私の相方は、ある一定の不機嫌レベルを超えるとその不機嫌状態が最低でも1日、長い時は数日間持続する。
その状態になると、何を話しかけても気の無い返事が返ってくるし、向こうからは事務的な事以外は話しかけて来ないし、笑顔はないしと重苦しい日々が開始される。
普段は他愛ないやりとりで笑いが絶えないくらい仲が良いので、その激しい落差がさらに気分を重くする。
しかも一緒に暮らしているためしばらく会わないという選択肢もない。
さらにその状態になると、相手は許容レベルが著しく下がっており、何を言っても怒ってしまいそう(あるいは怒っているように見える)なので、話し合いをする事もできない。
相手の機嫌が直った時に話し合いをすればいいのだが、いつもの明るい雰囲気が戻ってくると、話し合うという事をすっかり忘れてしまう。
その状態が発生した直後は、何か自分が悪い事を言っただろうか、やっただろうかと申し訳なさと不安が心を支配するが、次第にずっと不機嫌で解消のしようもない相方を見ているとイライラしてきてしまい、最近ではもはや不機嫌状態が発生するだけで腹が立つ状態になってしまっている。
私は感情が薄く、ほとんど激情することが無いので、そういう状態になる事が理解できないのも腹が立つ原因のひとつである。
人間なので、怒ったり不機嫌になるのは仕方がなく、それをやめろとは言えないが、その感情を持ってしまった相方に対して「腹が立つ」という私は思いやりや許容の足りない人間なのだろうか?
前置きが長くなってしまってすまない。
また、不機嫌状態が発生するトリガーは、私と関係ない所で嫌な事があったなどで不機嫌状態直前の相方に対し、普段であれば笑って返されるような私の何気ない一言であったりする、
まず大前提として僕はきわめて子供が好きだ。あやしかたなんかうまいほうではないけれども彼ら彼女らはとても愛らしい
ただ僕が子供を好きであることと子供自身が持つ人生は全くの別だ。100%の主観で他人を見て関与するのはやめておいたほうがいい
それがたとえ愛だとしても
現代は歴史上で最も人間が人間らしく生きることが難しい時代だと感じている
「なにをバカな、昔は宗教戦争があってコロッセオで人を虎に食わせて結核にかかったら必ず死ぬ時代だったんだぞ。今は飢えて死ぬことはどんなに貧乏でもありえなくどこにでも行ける交通手段があって子供に武器なんか持たせなくていいんだぞ」
とおそらく人は言う
けれど闘争も弱肉強食も宗教という信念に準じた戦争も尊皇攘夷も日本赤軍もアーリア人の強烈なナルチシズムもどれも人が自然に生きる中で生じた出来事であり、人としての感情が素直に発露した結果である。ここで書きたいのはそれが良い悪いの話ではない
現代は暴力や権力、自意識、怒りなど人が最もエネルギーを発揮する感情は全てそれがどんなに小さいものでも即座にたたきつぶしにくる
かわりに悲しみや平和ばかりが讃えられる。何か犯罪が起きた時に被害者遺族の悲しみには同情しても加害者の怒りにはほぼ誰も同情しない。特に女性は100%と言って良いだろう、聞いてみればいい
生まれた時からほぼ全員が道徳や正義、常識にそぐわない怒りというものをこれでもかと封じ込められてきた
しかしまともに生きてきた人間なら怒りほど行動力や思考力や集中力を高ぶらせるものはないと知っているはずだ
けれど「私」に蓋をすれば同時に悲しみや喜びにもふたをする。エーリッヒ・フロムはそれを抑うつの正体だと言った
これは何も先人達の闘争によって獲得された現代の平和を否定する話ではない。ただ人が有機体として生きるとは何かという話である
東京を歩いているとたまにどういう気持ちでいればいいのかわからなくなる時がある。人はその時々の環境によって見せる顔も役割も気持ちも違う
意識せずとも経験や自然な感情の流れでその場その場に適応していく
悲しい時には泣けばいいし笑いたい時には笑えばいい。そうやってその場の温度がつくられる
けれどどういう気持ちでいればいいのかよくわからなくなる時がある
貼り付けた笑顔で接客するファミリーレストラン
二面性を否定するほど子供ではないがそれでも憂慮も沈黙も罪悪感も置き去りにしているように見える無機的に見える事物が多い
愛よりも金や資本、有機体よりも無機質な物の趨勢がかなり強くなっているように感じる
I have to do 私は何かをしなければいけない
I am to do 私は「可能性、責任、運命、予定、意志」で何かをする
何かを持って何かをするというのはしなければならないと訳される一方で後者は自らでいるために何かをすると訳される。言語というのはかくも面白い
例えば笑って接客する店員はHe has the job to laugh at strangers with no reason.となる
直訳は彼は理由もなく他人に笑顔を振りまく仕事を持っている、省略すれば彼は笑わなければいけない、だ。
持つことを否定するわけではない。仕事も金も車も恋人も持つために持つと書くと強制になってしまう。欠乏している他人をさげすむ人は必ずこの思考様式である
僕自身も金に脅かされほとんど逆転してしまっている。もう抗うことは不可能なほど機械化もとい無機化が進行している
既婚者が自分の内情を整理するために匿名のこの場を選んで書いています。
不倫を叩きたいだけの方はご遠慮いただけますとありがたいです。
勝てない勝負はしないというか、単に打たれ弱くて自分を守りたいだけなんだけど、好きになっても思いが叶いそうにないとわかっている相手には最後まで告白をしてきませんでした。
悶々と募る思いを抱え込み、ちょっとでも紛らわすために仕事や趣味に打ち込んだりしながら、ただひたすらに時間の過ぎるのを待ちました。自然と気持ちが収まるのを待っていました。
そういうことを何度か繰り返すうちに、今の旦那と出会いました。
一方で、かつて好きだった人達とは「告白する→気まずくなって疎遠になる」ということがないのでSNSなどでたまーに旧友として連絡を取り合うぐらいの仲を保っています。未練がどこかに残るんじゃないか、やはり結婚の前にきっぱりと気持ちの整理をつけたほうがよいのだろうか、と思ったりもしたけれど、そんな必要はありませんでした。女は上書き保存と言うが本当にそうだな、と自分を顧みて思います。今の私は旦那一筋、のはずでした。
少し前から同窓会でしょっちゅう顔を合わせている男性に対して、いくつかのきっかけを経て、恋をしている、と自覚せざるを得ない状態になりました。
でも一度「何もしない」と決めたのなら、わたしはどんなに条件が揃っても、彼もわたしのことを好きなのだと確信できたとしても、お互い離婚して一緒になろうと言ってきたとしても、平然としてそれを断り、何もせずにいる自信があります。今まであんなに好きになった人達への想いを自分の中だけでいつも処理してきたのだから。気の迷いだと自分に思い込ませるのもそれほど難しいことではありません。ダチョウ倶楽部的な自分への前振りではなく、本当にそう思います。さすがにそこまでバカじゃない。気持ちはいずれ必ず収まる。取り返しのつかないことをしでかすことはない。大丈夫。
のだけれども、今まで何度もやってきたこの「気持ちを押し殺す」という作業が、回数を重ねるごとにわたしの感受性とか人への気配りとか目配りとか優しさとか純粋に人を思いやる気持ちとかそういう大切なものを損ねていることもまた、自覚しています。
ひとりひとりの男性に対する未練とか執着はない。同窓会の彼に対する気持ちも、もう少ししたら収まるのはわかっています。特定の誰かとの関係ではなく「自分の強い気持ちと反する選択をする」ことの積み重ねが自分にどのような影響を及ぼすのかが、少し怖くなっています。旦那からこんなにあっさりと気持ちが離れてしまったのも、もしかしたら、今までの「恋心を押し殺す」選択の積み重ねの結果なのではないか、と思っています。わたしは本当に旦那のことが「好き」で結婚したのだろうか。たまたまタイミングよく近くにいた人だから結婚しただけではないのか。そもそも、人を好きになるとはどのような感覚だったか、どうにもわからない。
別に恋愛しなくても人間は生きていけますし、わからないならわからないで日常生活に決定的な支障が出るようなことはありません。でも大切なパートナーであるはずの旦那との信頼関係は、わたしがこんな体たらくでは、もうだめなのではないか。わたしは旦那を愛しているのだろうか。必要としているのだろうか。旦那の方はどうなのだろうか。
若いころは、好きな人には叶わないとわかっていても好きだと伝えました。それをやめてから、わたしは自分のことがどんどんわからなくなっている気がします。自分と向き合うことから逃げているのだと思います。
もちろん、浮ついた熱っぽい激情だけが愛ではない。しかしそういう次元ではなくもっと奥深いところで、人との付き合い方が何かいびつになっているのを感じます。
ここまで書いたのを読み直すと、冒頭でことわったけれどもやはり昼ドラのテンプレみたいな文言がずらりと並んでいます。本当に嫌になる。とりあえず同窓会に参加するのは当分の間控えますが、根本的に精神構造を変えない限りまたどこかで同じようなことになるんだろうなと思います。行動に移すことはないけれども、気持ちの上ではもう同じことをやってるんだから、それで旦那には何食わぬ顔をして接しているわけだから。死ねばいいのに。
でも、何を見ても自殺の道具にしか見えないときがたまに来るのだけど、私が死んだらこの人立ち直れないだろうなとは思うようになった
彼氏ができて以来、恋人や旦那が死ぬような話は、映画でも小説でもテレビの再現ドラマでも一切見られないようになった
さっきたまたまそういう話が目に入ってしまって、号泣してしまった
子供ができると、子供が危険にさらされるような話は見られないというのはたまに聞くが、大人の異性に対してもそうなんだね
こういう激情はそのうちおさまってくるのだろうか。おさまってくれないと辛いんだけど
家族がいないので、唯一自分が死んだら葬式くらいは出してくれそうな親戚にあてた遺書を何年か前に作った
もし彼氏と結婚して、自分の家族ができたら、それは破り捨てるつもりだ
なんだかそれが、婚姻届にサインをするより重要な儀式な気がしている
ひょっとすると、この先孤独よりもつらいことが待っているのかもしれないけど、とりあえず今は、生きてて良かったと思っている
ですがそれは例えば句点と読点とそれに付随する改行たちとの織り成す三角関係であり地道な:とか;とか/にとってははなはだ迷惑な作業なので骨董品が日に日に人生を増していくことが我々人間の果たすべき責務であると考えた放送倫理協会会長の皇木渥州(すめるぎあくしゅう)はしかしながら爆死という凄惨な最期をとげたので皇木の遺志を継いだネス・カンボルダリュの痔頭割草(ぢあたまわるそう)やバイ・セクシャルの異名を持つ迎礼図夫(げいれずお)ならびに両性具有の金玉子(きんたまんこ)らによる政界をも巻き込む派閥争いが繰り広げられることを予想していたものは少なくあるいは併設された霊園のその不自由な濁点とレスポンスをピアノの流麗な喧騒により等式と為しそうだ何故気づかなかったのかと思えば隣に住む幼馴染の浩太郎は昨日ギロチンで首を切られ死んでいるのを山太子が見つけたのでG7の登場音楽と共に物騒を堅実に潜る現実感の無い様に人知れず拍手を送ろうと思いましたがトップランナーを破り捨てた平日の芸術は軽く流す程度に瑞々しく大量の激情を甚だ神戸和牛によって育てられたもののけ姫は乳房が膨らみきらぬ内にアイスクリームのへらでまんこをまんこまんコンマ37秒の世界に唐突に実際が現れその程度の時間で何もかもが青春の中に消えてしまった人間を幾人も見てきたが配当金を捨てることが最も不確かな正解であることをおぼろげながらでも知っていたのではないかあるいはですがしかしかつてともするとなぜかなのでもしも副詞節が半濁点とクエスチョンマークの間にあったならこのような争いは闘争は不自由は差別は贔屓は殺せと親父が言ったがおれにはとてもじゃないが出来る気が違っているのはアルバムを温泉に漬かった猿のみならず縄に封じられたアイスクリームとその添加算装置換気球に乗って空を飛ぶことが平生の夢であったのは間違いなく時として不自由な選択こそがそうお気づきのとおり話題はループザループを決めた澤野はエロ漫画をくすねたことにするとほらあの複雑な等式が一気に明朗快活なX=12という式に向かって痰を吐きつけた犬を食い散らかすカラスをひき殺したダンプの運転手の背中に張り付くヤモリのDNAに渦巻く3点リーダこそがこの世界のひとつの平和のあり方なのであった……