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2023-01-12

青春恋愛マンガを並行して読むと、話やキャラが混ざってしま

恋愛マンガってあまり読まないんだけど、年末年始無料キャンペーンやってたんで、読んでみることにした

そしたら面白くてさ、色々と読むようになった

今読んでるのはこの4つ

正反対君と僕

スキップローファー

・青のフラッグ

・僕の心のヤバいやつ

4つを並行して読んでたんだけど、だんだん誰と誰が付き合ってたのか分からなくなってしまった

「この2人、まだ付き合ってなかったっけ?」ってなる

どのキャラがどの漫画に出てたのかも分からないし、4つのマンガシームレスに繋がってるような感覚に陥ってる

自分が男だから混ざるのかな?

女の人だったら恋愛ものもっと読むだろうし、理解できてるんだろうな

自分普段読んでるバトルものとかファンタジーものとか、日常系漫画は混ざらないんだけどなぁ

それらはジャンル舞台も違うから大丈夫なんだよ

でも今読んでるのは4つとも「高校生恋愛もの」なんだよ

絶対これ混ざるだろ!?

そう言ってるうちに、アオのハコも少し読んでしまってて、沼から抜けられなくなってる

これ以上新しく恋愛マンガを読まないように気をつけたい

つぶしの効くスキルとは?

投資家マインドは潰しが効かない」という話を聞いたことがある。おそらく「誰か能力のある人に金を払えばやってくれる」という発想のことだろう。

物事を実現する際の困難の中には「時間」「金」といった要因は存在するし、確かに重要だろう。そして時間と金をうまく運用すれば金を増やせるという環境にいるのであれば、それに特化した行動をしようとするのかもしれない。Billionsというドラマはそういうものかもしれないが、つぶしが効くかどうかはわからない。

自分能力研鑽のためにatcoderをやろう」といったマインドの人はまた別の行動原理を持っているように見える。知識スキルへの投資を重視していて、得られた能力を使ってチャンスをつかもうとする。貧者の戦略ではあるものの、知識面で富豪に立ち向かうことはできる。覆面ハッカーエリオット中華ドンを倒すのに似ている(Mr.Robot)。

あるいはそのどちらでもない人もいる。楽しいと思うギター漫才をやり続けて、どこかで出演をしたりライブをしたりと認知資産を増やしていった結果、知名度によって成功するタイプである。その知名度を利用すれば、ファン特定思想を植え付けたり、商品を購入させたりと、歩く広告塔のような役割をもたらす。ジミー・ヤンもその一人だろう。

組み合わせるタイプもいる。OSSでみんなに「すごい」「便利」と言われるような何かを作って知名度を稼ぎ、技術知名度の両面で成功するタイプであるリーナストーバルズはここに含まれる。

全く正反対ベクトルとしては、障害者自分が如何に惨めであるかを示して、同情を得ることで成功することもある。具体名は挙げないが、そういうタイプTEDスピーカーや著者がいるというのは事実である。あるいは障害者というラベルを利用することでアートオークション価格を跳ね上げることもある。

または日本人海外のマシな経済で生きていこうと思ったら寿司職人おすすめになる。ルクセンブルク寿司職人として働ければ幸せ人生を歩める可能性が高い。

...とこの辺にしておこう。

こうやって書いていけばわかるが、生物進化形態が様々であるように、人間もその性質によって様々な戦略を立てていることがわかる。「つぶしが効く」と言うが、それはサラリーマンとして生きることに対する現実感労働需要の多さを前提として出てきた言葉だろう。サラリーマンといっても職種企業組合せを列挙するだけでも結構あるため、多様な労働需要存在するという観点はやはり重要だ。

「何らかのスキルを身につけて、その汎用性を競う」と言うのであれば、一つ重要スキルがある。それは情報収集能力である寿司屋の例を見れば分かったと思うが、そもそもルクセンブルクがどんな国かを知らなければ行こうと思う動機にはならないだろう。そして日本よりもマシな国に移住するために何が必要かというのも、やはり情報収集能力がなければダメなのだ

しかし正しい情報をただ闇雲に集めるだけではダメで、情報を「何に対して」集めるかという目的必要になる。その目的というのは、どういう人生にしたいのかということだ。どういう人生にしたいというはっきりした目的がなければ、検索上位1件に出てきた「奴らの利益のための情報」を「自分のための情報」と勘違いすることになるだろう。あるいは「流行っている情報」を「自分の興味」と勘違いすることも起こる。

何がいいたいか。お前の人生どうしたいかはお前がコントロールしろということだ。安易に「つぶしが効く」ものを求めて、それでお前にとって本当に良かったのか。良かったならそれがお前の求めていたものなのだろう。俺の場合ルクセンブルク寿司屋になるなんて思いついたこともなかったな」と感じたので、もっと視野を広げたほうがいいのではないか視野が狭いのは他人に操られている証拠ではないか、と思ったのだ。

2023-01-06

ボクと弱者男性

ストーリー

平凡な田舎村に住む少年のボク。ある日ボクの妹が弱者男性乱暴されているところを目撃してしまう。助ける為に弱者男性と戦うも敗北してしまい、妹は連れ去られてしまった。ボクは弱かった自分を悔いて強くなる為の旅に出かけることになる。

登場人物

ボク(主人公):剣技に優れていて弱者男性を圧倒できるほど強いが、弱者男性との戦闘中に背後から何者かに殴られて敗北する。

ボクの妹:可愛らしい外見をしている。弱者男性を見下しており自分人生イージーモードだと思っている。

ボクの母さん:母性的な性格女性料理が得意。

ボクの父さん:厳格な性格男性家族には優しい一面がある。

ボクの友人達:ボクとは正反対の明るく元気な少年少女達。

弱者男性:ボクと同じ人間であるはずなのに劣等感を抱いている卑屈な性格人物

戦闘システム

弱者男性との戦いでは弱者男性に襲われている女キャラを助けることでイベントが発生し、その女キャラと協力して戦うことになる。その女が産む機械なのかただの友達なのかはその時によって違う。

また戦闘中は常に画面上に「弱者男性」と「女キャラ」が表示されており、ゲームを進めていくと「強者女性」も登場するようになる。

評価主人公が弱いというところに魅力を感じる作品です。

無双シリーズ』や『ロックマンゼロ』『ソウルキャリバーV』などアクションゲームでは主人公の強さが際立つことが多いのですが、この作品はそういったものとは違います

この作品には最初から最後までずっと主人公であるボクが強くなったりしません。それどころか物語が進むごとにどんどん弱くなっていきます。それでもボクは負けずに戦っていきます

主人公の強さにこだわっている人にとっては少し物足りないかもしれませんね。

でもそういうのとは違う面白さがあるので一度プレイしてみることをおすすめします。

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

anond:20230106163011

そもそも当事者も協力して出したAV新法」が、

当事者ガン無視で出したAV新法」になったんだから、反応が正反対になるのも当然だろ。

2023-01-04

anond:20230104230403

呪術と念能力はむしろハンタと一番正反対のところなんじゃ。

ハンタにおける念能力はそれこそ素人でも訓練や応用力、相性次第で格上をも上回りうる設定として機能してるけど、呪術における術式なんかはそれこそまず何よりも重要視されるのは個人の才能ですらなく血統だし。呪術という土俵で格下が格上を機知で上回るということもないしそこは徹底されてる。

なので格上を格下の土俵に持ち込むとなると肉弾戦ばかりになって確かに単調に感じるところはあるが、俺はそこが面白いと思う。

ふるさと納税募金正反対のおこない

ふるさと納税本来居住している自治体にまるまる納める税金を、返礼品とふるさと納税業者手数料差し引いた額を他の自治体に納める行為

募金してるから俺えらいみたいな奴いるけど、まさかふるさと納税制度活用してないよな?

anond:20230103181217

公式サイトプロデューサーコメントが載ってるけど、なんか増田の印象と正反対番組になったと自負してるみたいなんだよなぁ

あえて女性だけに出演者を絞ったことで「他者に開かれた空間」が現出していて、特に男性たちにこの番組をみてほしいと願っている、らしい

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2023special/index.html

2023-01-01

anond:20230101224147

きっかりまとめてて偉い。が、その結論はナニカのうちのひとつというだけで、昨年終わったフェーズだ。昨日のトレンド具合から言ってCobol損切り確定、頭すげ替えならニートの席に他3社関連から誰かが座るだけ。仕掛けているのは「全時間軸・全女性の的」の正反対にいる人、これはもうナニカとしか言い様が無い

switchディアブロ 2,3

switch年末セールで買った

ローグライクの親戚みたいなジャンル伝説的名作と

聞いてやってみたけどノットフォアミーだった

・2と比べて3がかなり親切UIで驚いた

ハスクラ、どうぶつの森とかをコツコツできるタイプの人に向いてる

ローグライクみたいな運要素ゲームダンジョン版じゃろと思ってたけど

運要素というか積み上げてみたものの組み合わせを試行錯誤して

楽しむ感じだったのでむしろ正反対?ってなった

・でもずっと気になってたからお安くなったタイミングでできてよかった

ディアブロの合わなさに心折れてデットセルを久々にやった

2022-12-31

anond:20221231145524

三馬さんの過去コメントを見てもらえれば分かるけど、恐らく今度ばかりは覚悟を決めてcolaboを守り通すスタンスだよ。

他で名があがっていた白薔薇さんや烏賊丸さん以上に強い覚悟を決めて臨んでることが読み取れる。

増田意見正反対なのだろうが、右往左往する有象無象が数多いる中で一貫した姿勢を保つ相手にはそれなりの敬意を示せないか

2022-12-30

個人的に今年Kindleで買って1番よかった漫画

  • 👑コーポ・ア・コーポ / 岩浪れんじ
  • 👑新九郎、奔る! / ゆうきまさみ

次点

書籍

ラブコメ部門

格差反対」と言いいつつNISAふるさと納税も使うような二枚舌が一番のクズなんだよな

初めて出来た彼女と女叩きの過去

普通の人は自分の主張と行動が分離してきたら、反省するなら知らん顔するなりしてクルっと手のひらを裏返すもんだ。

それもしないで平然と矛盾する行動を繰り返すやつマジでおかしいよ。

主張と正反対なのは明白な行動を平然とやるとか認知的不協和の起こし方がぶっ壊れすぎだろ。

ポイ捨てする奴がいるか地球が汚れるんだよ」って口にした直後に自分ポイ捨てをして「俺のしてるポイ捨てぐらい産業廃棄物不法投棄に比べたら誤差にもならないから許されるんだよね」と今度は言い出すような漫画映画しか出てこないレベルキチガイじゃん。

ソレに比べると状況に合わせて主張をクルンと変えるやつのなんと清々しいことよ。

真っ当だね。

意見が変わったら席を変える。

これが正しい仕草だよ。

2022-12-28

男は男を養うが、女は女を養わない

https://b.hatena.ne.jp/entry/4730026686551779236/comment/nnn06

「nnn06 こういうので難癖つける人間気持ちがよくわからない。発言者男性でも同じ流れになるんだろうか」

同じ流れにならないのだとしたらそもそも男はこの手の情報発信をしないというのに加え、

男の場合は実際にそういう実例があるからだろうな

奈須きのこ武内崇とか、ゆでたまごとか、コンビで長らくやってる男同士は結構いるし

藤子不二雄トキワ荘を出た後、隣同士に家を建ててるし

山上容疑者の伯父なんかも奥さんから止められるまで弟の家族を援助していたらしいし

そこまで大袈裟な例じゃなくても仕事首になった男友達に新しい仕事を紹介してやるなんて話はそこらにいくらでも転がっているだろう

男は割と結婚してても男を助けるんだよね

女の場合そういうのってないでしょ

独身時代どんなに仲良くしていても、結婚してしまえば夫と子供を優先するし女友達のために身銭を切ったりはけしてしない

男は同性同士助け合うけど女は女を助けないっていうのはいくつも実例が出ているのに

何故かその正反対で女の友情をやたら美化した言説が蔓延するのか

2022-12-27

Arturo_Ui嬢とaugsUK嬢が名前似てるのに大体同じ記事に出てきて正反対コメント残すのでお脳が混乱しますわ

2022-12-25

anond:20221225010242

その碌でもない連中が子供に対してどう接しているかで変わる。

毒親として接しているなら親を反面教師にして正反対気質になるが、毒親育ち特有の歪みも抱えて苦労している。

ただ、毒親は外面が良い場合が多いので少数派だと思う。

大多数は親と同じ気質を受け継ぎバケモノクローンとして育っている。

そして現代社会は反知性反道徳が主流である為、バケモノが多く出世しているが為に社会全体が劣化しているだろう?

ありえんようなミスインフラが止まったり死亡事故を起こしている。

まもなく社会が立ちいかなくなって形勢は反転すると思われるが逆転には30年はかかるだろう。

だが、残念な事にバケモノ気質一族駆除殲滅する事はできないんだ。

今、増田みたいな真面目でしっかりしている人間が少数派ながら生き延びているのと同じだ。

そうやって日本スクラップビルドを繰り返して存続してきているのだ。

[]

正反対君と僕

スキップローファー

メイン二人+周りのサブキャラ人間関係、恋模様も描くのは同じなんだけど、

前者は無料公開+言葉説明する密度がすごい

後者はわりと雰囲気で、誤解恐れずに言うとライト範囲におさまっててあまりつっこまない

後者もわりと表面的な外面と内面嫉妬とかを書きはするけど、あくまでも月刊誌テンション・ペースの範疇にとどまってて、

比べちゃうと物足りなく感じてしま

まあ前者はもう付き合っててメインの山はもう最初から終わってるってのもあるけど

そう考えるとジャンルとしてはちょい違う気もするけど

ただ、割とメンタルとかが疲れてるときにどっち読むかと言えば後者だなっていうのはある

前者はよくいえばめっちゃネームねられてるけど、わるくいえば作品押し付け感っていうか強さ、読解しなきゃ楽しめない感があると思ってるから

ぼーっとしながら読むのには向いてない感じはする

まあその時々だなどっち読むかは

2022-12-21

日銀市場に屈した日

投資家は「米連邦準備制度理事会FRB)とは戦うな」という警句をよく耳にするが、日本では正反対のことが起きた。マーケット日銀と戦い、そして勝利したのだ。

 日銀20日10年物国債利回りの許容変動幅を0.25%から0.5%に拡大すると、影響は世界に波及した。日銀によって抑えられていた利回りは急上昇し、他の先進国国債債券の利回りを押し上げた。円は3%余り上昇し、上げ幅は一時2009年以来の大きさとなったが、その後やや押し戻された。日本株式は売られた。

https://jp.wsj.com/articles/bank-of-japan-blinked-in-standoff-with-markets-11671578542

2022-12-19

一緒に住み始めてから彼がどんどん変わっていく

10日ほどの出張から帰ってきたら、放置していった豆苗がぶりんぶりんに育っていた。

同居している彼が、私の代わりに毎日せっせと水をやってくれたからだ。

 

出張が終わる日の前々日、豆苗調子はいかほどかと尋ねたら、「ででででーん」と歌いながら元気に育つ豆苗動画を送ってくれた彼。

10代の頃、盗んだバイクで走り出し、しょっちゅう身体を張ったケンカしていたらしい元ヤンとは思えぬ声色と行動だ。

 

友人がひいきにしている居酒屋で偶然出会った彼とは、割とすぐに付き合ったのでそれ以前のことはあまりよく知らない。

でも間違いなく、毎日律儀に豆苗に水をやる人ではなかったんだと思う。それも、歌いながら動画に撮って。 

 

豆苗だけじゃない。

私が好きな花を教えたら、街中でその花に気づくようになったらしく、咲いているスポットを逐一教えてくれるようになった。

ちょうど私の好きな花が今住んでいる市町村シンボルらしく、シーズンになれば毎日のように話題に出てきた。

彼は何年もここに住んでるのに、今までは気づいてもなかったそうだ。

元ヤンからか?

  

「好きそうだと思って」と連れて行ってくれた植物園では、彼もずいぶんとテンションが上がっていた。

「おれ、バラ好きだったんだ!」と、本人も驚いていた。

元ヤンなのに。

 

一緒に住もうと今の家に引っ越してきたとき、私は彼が好きだというキャラクターぬいぐるみを買って持参してみた。

なんと、私がそいつ人形遊びをしていると一緒にノッてくれる。

彼が残業で遅い日はそいつお菓子や付箋のメッセージを持たせたりしているのだけど、

私が出張から帰ってくる日はそいつがまるで私を出迎えるように玄関に置いてくれてたりして、割とノリノリだ。

元ヤンなのに。

 

そう彼は、立派な元ヤンだ。

高校中退しているそうだし、バイク盗んで捕まったこともあるらしいし。身長もでっかい筋肉もムッキリ。

ケンカすれば大体のヤツには勝てる、と、荒々しいことをよく言う。

言われてみればなんだか金遣いも荒いし、普段の会話での言葉のチョイスもけっこう荒い。

ぬいぐるみ遊んだり、植物を見かけて和んだり、ちまちま毎月3万円ずつ共用口座に貯めたり、多分そういうこと一切しなかったタイプだ。

 

でも、私の前で彼はどんどんかわいくなっていく。

 

「育ってきたか豆苗に水をあげておいてね…!」と言えば、私が不在でもしっかり水をあげてくれる。

「そろそろぬいぐるみに会いたい頃かと思って」と、出張3、4日目ぐらいでぬい撮写真を送ってくれる。

「プイプイモルカーいたよ!」と、私が好きなかわいいものの目撃情報を報告してくれる。

「手をつなぐが好きじゃない」と、最初の頃に言っていたような気がするけど、一緒に歩くとき必ず私の手が入るスペースをあけてくれる。

 

元ヤンおっさんからものすごいスピードかわいいおっさんになっている。

 

ちなみに、私は昔からとっても良い子で(笑)社会ルールを大きくやぶることもなくマジメに生きてきた、彼とはまるで正反対タイプだ。

荒々しい部分が見えはじめたとき、「まあ合わなかったら別れたらいいさ」と思っていたが、まさかここまで私に合いに向かってきてくれるとは。

 

もうすぐ、付き合って2年になる。

彼は、一体この先どこまでかわいいおっさんになるのだろう。

 

2022-12-18

ある人物知的レベルを知るためにゲーム実況はとても有益

物事理解度が分かる

一般的常識が身についているかが分かる

言葉を知っているかが分かる

漢字が読めるかが分かる

いろんなジャンルゲーム実況を見るといい。全部見なくていい。

政治的な話が含まれているゲーム人間関係が複雑なゲーム、極端な価値観が登場するゲーム

知的そうなとある女性ゲーマー正反対だったときには苦笑するしかなかった。

2022-12-17

初恋

夏真っ盛りのあの日人生で初めて「恋人」ができた。

何を考えているのかよくわからない人だった。交際を持ち掛けられたのは二人で旅行している最中だけれど、元から親密だったわけではなくて、SNS上ではやり取りがあったとはいえ私たちは数回会ったことがある程度だった。話していて楽しい人だったけれども、特別好きな人ではなかった。

初対面の彼女は生きる世界が違うように見えた。一言で言えば美人だったし、男遊びに手慣れたタイプに見えた。異性慣れしていない私とは正反対だと思った。

ただ、私たちは互いに歪んだ思想を持っていて、「反出生主義」で一致していた。生まれ環境経験は異なれど、その場所で歩む道は交わった。

私たちは歪んでいたけれど、歪みきれない点でも似ていたと思う。承認からか、ただ人並みにパートナー必要だったのだろう。

彼女は私が躊躇している時に共にアクセルを踏んでくれる人だった。人を誘いにくい、でも一人では決めづらい長めの旅行とか体力的に厳しいイベントを一緒に楽しんでくれるのは彼女だけだった。しばらくして、共に人生を歩めるのはこの人しか居ないと思うようになった。私はそういう「何かを得た」と思い込んでいた。

しかし、生きる世界が違うという第一印象払拭されず、同じ時間を過ごす楽しさや必要とされる嬉しさを感じるたび、同時に、何か騙されているんじゃないか、「何かを失う」んじゃないかという恐れを抱いていった。そしてそれは次第に、醜悪独占欲に変わっていった。

彼女人間関係嫌悪して、彼女趣味嫌悪した。自他境界が致命的に崩れていった。それがたとえ交際相手であろうとも、他人所詮他人にすぎない。「彼女」が出来たとて、所有するという意味で「何かを得る」ことはないし、よって「何かを失う」こともない。

私には私の中の感情が世に言う嫉妬であり、その根元は人間関係に対する誤解にあると自覚し向き合うだけの経験思考力に欠けていた。私は絶望的なまでに普通人間で、歪みなんて呼べるほど美しいものではなく、ただ普通に拗らせた男だった。

旅行中も様々な話を聞いていたけれど、付き合ってみたら彼女を取り巻く厳しい現状がゴロゴロと分かってきた。家庭状況の問題も、大学生活の問題も、精神疾患問題も、そして、これからの進路も。どれも根本的にはどうしようもなかったけれど、出来るだけ寄り添ったつもりだったし、自分が考え至る全てを提案して、自分に出来る全てを実践したと思う。

そして実際に彼女生活環境を支える一端を担っていると感じると同時に、自身の力の限界に悩まされた。学生は無力だ。一刻も早く社会人になって自立する必要を感じた。そして、自立すればなんでも出来ると過信していた。

一方、彼女本人は盲目的に「夢」を追っていた。夢というよりもコンプレックスを晴らそうとする強い意志だった。目標が「ゼロプラスにする」ことではなく、「マイナスゼロにする」ことであるが故に、夢などというものよりも遥かに諦め難いのだろうと今になって思うが、私には馬鹿げて見えた。

独占欲自信過剰と、そして彼女「夢」への軽蔑は、彼女の為と思いつつ、その実、全く相手に寄り添えていない提案を繰り返すに至らせた。「結婚して君のあらゆる問題に一緒に立ち向かおう、ただその夢だけは一旦諦めてほしい」という旨の最後提案は一顧だにされず、私は勝手限界を感じて、別れを告げた。春を目前にした、しかしまだまだ寒い日の夜だった。

彼女は私のことを嫌いにならなかった。そのことが私を強い罪悪感に浸らせた。私は感情的で暴走していたがどこかで自身が抱える悪しきものに気付いていたのだろう。

私は彼女のことを嫌いにならなかった。嫌悪否定も、全て一つの感情から来ていた。

彼女はその後も生きていた。家庭は元から崩壊していたし、金は魂を売れば稼げるし、薬は大量摂取しても吐き出すように出来ているし、人は簡単に首を括らない。彼女が生きる為に私は何もする必要がなかった。

初夏の頃だろうか、友人の恋愛相談を聞いている過程で、私は私自身の罪の重さをひしひしと実感するようになった。春の時点でも冷静になって謝罪していたが、その時の比ではなく自身の悪性と罪科を自覚した。

夏の真っ盛りに私たち京都で再会した。彼女の近況を聞き、私の近況を話した。謝罪には何の意味もない。犯した罪は拭えない。それどころかむしろ逆効果であるということは分かっていた。彼女はより私のことを嫌いになれないし、私は自分のことを善であると何処かで勘違いしてしまう。それでも、自分直感に従って動くのが私という人間で、そして人間は皆それで正しいと思う。彼女彼女直感に従って夢を追い続ける。

思うように進んでほしい

私も思うように進んでみる

帰りの新幹線から、そう送ったあと、ボロボロと涙が溢れた。その日、人生で初めて「失恋」した。

つの日か、本当の意味他人を愛せるように。

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