はてなキーワード: 志向性とは
デジタル塗りのような均一な塗りが可能なうえに、デジタル塗りのようなグラデーションも作れる。
正しくは、塗るのではなく摺るということが大きく影響する。
擦り重ねでわかったと思うけど、浮世絵の場合、赤の上に青を摺ることで、紫になるし、黄色の上に青を摺ることで緑になる。
赤の上に青を重ねれば青、黄色の上に青を重ねても青。
しかし、版画になると違う。
"ばれん"という道具に秘密があり、不透明なはずのポスターカラーを使って同じことをしても、かなり同じように透明な性質が再現される。
小学校で使う偽物なんかじゃなく、本物のばれんの話だ。
ヨーロッパ人が「こんな青色みたことねぇ!絵具なに使ってんだ!?」
とビックリしたのは、ヨーロッパで発明された顔料、プルシャンブルーでしたというのは、有名な話。
ところで、本物の"ばれん"って、一枚7万とか10万とかするんだぜ?信じられるか?見た目はただの鍋敷きなのに。
均一な塗り、均一なグラデーション、レイヤーの乗算、言ってみればイラレに近い。
「君の名は」よろしく、空気や風、雨、空、水、そういう形のないものを積極的に絵の中心にもってこようとしたのもそのころの浮世絵が元祖だね。
人物が主で背景が従ではなくて、まったく逆に雨が主で、人物は従、空が主で人物は従、そういう絵がわんさと発明された。
北斎という努力型の超人と、広重という天才の働きは大きいことは認めるが、デジタル塗りに近い木版画の特性によるものが大きいと俺は思う。
例えばガンダムにしてもガンダムユニコーンや00ガンダムみたいなのならオススメされていいけど
ガンダムAGEやビルドファイターズトライみたいなのはいらない、
ふらいんぐうぃっちは欲しいけどNEW GAMEとくまみこはいらないみたいな、
マクロスΔはいらないけどマクロスFはいるみたいな精度と志向性のあるサービスってないの?
悪魔のリドル?いるいるいるいる!みたいな
ベルセルク?許してつかぁさい!許してつかぁさい!みたいな
SHOW BY ROCKにゃああああああああああああああああんみたいな
今あるサービスって中身確認せずに関連性あるやつ引っ張ってくるだけだから使う気になれない
そしてどんどんアニメを見なくなる
あと前半はよかったけど後半は鬱展開になるみたいなのを
製作スタッフのメンツやスタジオ、過去作品から予め危険予測して危険度の指標を出してくれるとか
アクエリオンEVOLみたいに失速した前例を参考にするみたいなのを調べてくれるAIが欲しい
そうなんだよ!
本当に自分にとって面白いアニメかどうかを識別する眼と耳が外部に必要なんだよ!
だがサービスが提供するものは関連性があったり売りたいものばかりを押し付けてくるのです
こんなん要るか!ボコッ
そういうAI的な友達が一人でもいてお互い情報交換できればよかったのだが
・・・良かったのだが残念ながらもういない、昔は居た
今どうしてるかな上原
例えばガンダムにしてもガンダムユニコーンや00ガンダムみたいなのならオススメされていいけど
ガンダムAGEやビルドファイターズトライみたいなのはいらない、
ふらいんぐうぃっちは欲しいけどNEW GAMEとくまみこはいらないみたいな、
マクロスΔはいらないけどマクロスFはいるみたいな精度と志向性のあるサービスってないの?
今あるサービスって中身確認せずに関連性あるやつ引っ張ってくるだけだから使う気になれない
そしてどんどんアニメを見なくなる
あと前半はよかったけど後半は鬱展開になるみたいなのを
製作スタッフのメンツやスタジオ、過去作品から予め危険予測して危険度の指標を出してくれるとか
アクエリオンEVOLみたいに失速した前例を参考にするみたいなのを調べてくれるAIが欲しい
ましてや、いい大人が時間を割いて学んだり、勝負するのは社会の害。
金を回すわけでもない、将棋の発展に寄与するわけでもない、生産性のかけらもない。
一日20分やると、年間5日分ゴミに捨ててる計算になる。そんな将棋を、まともな人間はやり続けたりしない。
追記3
素人将棋はゴミのような文化だと思うんだけどさ、持ち上げられすぎでしょ。
将棋のための戦法や定石を学んで強くなることは知的でもなんでもない。
数手先を読む、大局観、忍耐、それはスポーツや音楽など身体の鍛錬や交流、社会貢献につながるものでも身につくよね?
じゃあそっちやりゃいいじゃん。
素人で将棋をやってる連中って、コミュニケーションもろくに取れない、人生の時間をムダにしても気にならない、他の選択肢と比較せずただなんとなく惰性でダラダラとやってしまう、そのくせ知的だと勘違いしてるバカが多いよね。
以下ブコメへの反応
追記1
相手の嫌がることが分かるとわざわざ嫌がることをやるの区別がついてないバカがたくさんいてウケる
ゲーム脳とか言ってるバカがいるけどゲーム脳の本来の意味調べてこいマヌケ
瞑想を連呼して個人の環境や事情を切り捨て、メンヘラというスティグマ貼りして他人を貶めることを楽しむクズが言えるセリフじゃないなw
少なくとも議論する気もないレッテル貼りのクズに生産性云々指摘する資格はないだろw
追記2
他のスポーツや娯楽は身体や知性、教養としての交流にプラスになるけど、将棋の大局観だの転じようがないからなw
ましてや基本的な攻め方を記憶すればある程度無双できる知識自慢の要素も強いし
それと将棋のせいでクズになっただの将棋に負けただのレッテル貼りしかできないバカって自分のコメント見て恥ずかしくなったりしないのかな
バカの集まりにいると自分がバカだと気付かなくて済むから安心してコメントしちゃうんだろうなw
「相手が嫌がるから、弱点や隙を突くのは禁止」なんて誰も言ってないのに勝手に理屈組み立てるバカは頭悪すぎでしょw
嫌がらせを志向するクズが増えるという話をしているのに、その事実で傷ついたからってオマエの発言も嫌がらせだ!!って典型的な繊細チンピラw
30代男
「30代の女はろくなの残ってねー!」
30代女
「30代の男はろくなの残ってねー!」
ってお互い思ってるんだろうなと思う。
実際、質は下がるよ。
向こうもそう思ってるんだろうけど。
学生時代ならさ、まあ同じような偏差値、同じような志向性で輪切り、入社時点だってそうだ。
会話だって、デートの場所だって、自然に選んでおけばだいたい正解。
ファッション誌通りの格好をして、ファーストフード、テーマパーク、カラオケ、チェーンの居酒屋でよかったもん。
それが、30代にもなると、お互いの住む世界や価値観のボラティリティーが大きくて、やれやれってなる。
(相手にとって)安すぎる場所に連れて行っても、(相手にとって)高すぎる場所に連れて行っても、コレジャナイ感漂う。
靴や時計で値踏みしやがる。
安い靴だと馬鹿にされるし、高い靴でも引かれる。
高い靴で引く女は、高い靴を見分けらんないから、値段言わなきゃ大丈夫だけど。
時計はしなきゃいいし。
20代前半のセンスをずっとひきずってる女か、現在進行形で流行を追ってる女かで、180度ウケる服は違う。
高そうな服、金のかかる趣味を持ってるから、さぞ金持ちかと思ったら、低収入の派遣の女、ちょっと付き合うのは無理だなと。
今回は貼るだけにしておく。
真善美の探究【真善美育維】
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
然の理・然性
然の理・然性(第1法則)
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
ギリシア哲学には大して興味ない派だがイデアについてガチで語る増田については見てみたい。
何がいいたいかというと、哲学だの物理だのって単に『増田が好きなこと』なわけじゃん?
好きなことって追求すればするほど、そこに興味を持つ人の幅って狭くなると思うのね。
だから『たまたま同じ会社で出会った人』が自分と同じ志向性を持つ確率って限りなく0に近いと思う。
だって会社って利益を追求する場であって同じ趣味を持つ人の集まりではないから。
だから増田とその同僚が秀才であるか否かという命題と、話が合う人が会社に存在するか否かという命題は、本質的には全く関係が無い。
あと、同僚が飲み屋とか女の子とかの話ばっかりしているのは別にそれが好きだからってわけじゃなくて、多数の人間が参加しうる最大公約数的話題だからという理由だからだと思う。
結構、重大な局面だと思うのだよ、これ。むしろ「勝った勝った」とはしゃいでる左翼的な陣営こそ、次にちゃんとした手を打たないと取り返しのつかないことになる可能性がある。
橋下の引退により、おそらく「維新の党」は求心力を失う。解党するかどうかはわからないが、もともと個人商店であった以上、以前のような影響力は持ち得ない。やはり去年に解党した「みんなの党」も、もはや跡地すら残ってない惨状。こちらも個人商店だったし。
で、重大なのは、どちらも一定の支持層を持っていたこと。たぶん都市部のホワイトカラー層が中心。20代〜40代が多いはず。
この層の受け皿が完全に崩壊した。
この志向性を持った層が支持する先が安部自民一党になることの危険性。
民主党はデフレ推進してきた反省が見られないし、共産党は「大企業=悪」なテーゼが根強い。
公明党は「安定は希望」というキャッチフレーズである時点で論外。
リバタリアニズム的な志向性を持った層が支持する先がなくなってしまった。
つまり「経済成長歓迎・インフレターゲット支持」と「歴史修正主義・ナショナリズム」
のパッケージか
のパッケージか
個人的にはレイシズムも歴史修正主義もうんざりなのに、それに対抗する軸がまともな経済政策を打ち出さずにげんなり、というのがここ最近の印象。
ピケティがブームになったときも「成長か、再配分か」みたいな二者択一にしたがる人たちが多くて本当に辟易した。
再配分を重視することと経済成長は両立する、というかむしろ両輪として機能するはずなのにね。
というわけで。
・LGBTなどマイノリティー人権擁護(「伝統的な家族観」とか言わない)
・「歴史戦」とか言わない
少なくとも、従来の「左翼」とか「リベラル」とか言ってる人たちは「勝った勝った」じゃなくて
ちゃんとビジョンを示してくれよ、と思う。
・
文章めちゃくちゃだけどとりあえず吐き出す。
今年で27歳の男。独身。
元々コーディングが好きだったけど、自分の創造力、積極性、柔軟性などには全く自信が無かったため
SEとして働くなら華やかなWebの世界ではなく、堅い業務系SEだろうと思って今の会社に決めた。
研修は長いし、周りはいい人ばかりだし、残業代も出るし、残業少ないし、休みも取れるしで
ここ3ヶ月で書いたコードは0行。
確かにガンガンコード書いて新しい物を作る場所ではない、ということは理解していた。
それと引き換えに安定を求めた。安定している。ものすごく。
でも、安定はあっても自分が好きだったコードを書きたいという欲求は満たされない。
周りにも技術について話合える人はいない。休みの日にコード書いてます、技術書読んでますと言うと物珍しく見られる。
このままじゃ潰しの利かないエンジニアになる。業務のことしか分からない、今の会社・親会社専属のエンジニアにしかなれない。
今の年齢は未経験でもギリギリ採用されるチャンスがあるというのがわかった。
すぐ落ちると思っていたから意外だった。
まだ内定ももらってないけど、ここに来て「俺、本当に転職するの?」とも思う。
今は隣の芝生が青く見えているだけなんじゃないか。
華やかな世界にいるには常に勉強し続ける覚悟が必要だし、残業時間だって今とは比べ物にならないほど多いだろう。
新卒の時に自分には向かないと思って、Web業界、東京に背を向けたんだろう。
今のワークライフバランスは最高そのものだろう。
そりゃ給料は高く無いかもしれない。でも昨年度の年収は420万くらいだった。低いわけじゃないだろう。
地方都市だし生きていくには問題ないだろう。
それに技術に興味があるふりしているけど、勉強するよりゲームする方が好きだろう。勉強するより飲みに行く方が好きだろう。
勉強会に参加しているわけでもない。気が向いたら本読んだり、コード書いたりする程度。
周りの人より少し興味が強いだけで、別に勉強家なわけじゃない。
そんな中で無理して、住む場所まで変えて、知らない土地の知らない会社に行って、お前みたいな安定を、楽を求める志向性の奴が上手くいくわけ無いだろう。
こんなに迷ってるんなら転職はやめた方がいい。ここで辞退した方がいい。
ここでやめるということは、今の会社に身を埋めるということだ。
もう、どうしたらいいのかわからない。
何にも決められない自分が嫌だ。
俺が初めて何かを書くってことを覚えたのは小学二年生で、当時好きだったアニメ(デジモンだったかな)の二次創作だったんだけど、一年かけて原稿用紙百枚書いたのね。一話一枚で。まあ全然中身も何もないし面白さもクソもないんだけど、とにかく百枚書ききって、あの束になった原稿用紙の厚さはなかなか誇らしいものだった。鉛筆の下手くそな字(まあ今でも字は下手なんだけど)で書きなぐった百枚は俺の原初の「文章」だと思う(もうなくしちゃったんだけど)。別にたいした理由はなくて、知っている表現手段が文章しかなかったってだけなんだけど。それ以来特になにかをするわけでもなかったんだけど、4年位前にmixiに誘われた。で、どうやら日記なるものがあるらしい。そこで俺はインターネットで文章を書くということを始めた。でもまあ、書くって言うのも名ばかりで、自分でもよくわかんないクソみたいなポエムだとかアホみたいな萌え語りだとかをやってた。正直あの時期のテキストを直視する気力はない。消しちゃったし。でもとにかく感想がほしくて、内輪だけの空間で、なんとなく書いていた。そんな時に、あれはゴルゴ31とかだったかな、そっから経由してある人の文章を見つけたんだけど、えらい勢いで打ちのめされた。ああ、文章ってこういう風に使うんだ、っていう。漫然と書いてた自分の文章がどれだけ拙くて幼い生成物だったかよーーーっくわかって。で、その文章って、まあこういうのってすっげぇ当人からすれば迷惑だしキモいんだろうけど、“俺がこのまま大人になったらどうなるか”っていうシミュレーションなんじゃねえかってくらいに志向性が近かったのもあって、ああじゃあ俺はこういう風に文章を書けるようになればいいんだ、って思った。本当に俺が文章を書き始めたのはあの瞬間からだった。文体パクったり展開パクッたり色々やって、自分の志向性との違うところも見えてきて、俺は書くことを能力にするようになった。ブログを作った。ツイッターを始めた。そうやって広がっていったインターネットで、俺は書いた。誇るような量も質もないと思ってたけど、でも書くことが楽しかったから、書いた。
で、書いたものが読んでもらえるっていうのは、当たり前のようで当たり前じゃない。まずなんとなく書いたものを読んでもらうって恥ずかしいじゃん。対面だと無理。死ぬ。でもインターネットそういうのない。だから書き散らかせば、「いつか」「だれか」の範疇で、読まれる可能性がある。その距離感が心地よかったのもある。でも俺のモチベーションでその時一番大きかったのは、その人に自分の文章を読んでもらえるかもしれないってことだった。そうなるまで結構時間がかかった(2年位)。その間に俺は一個大きい出来事があって、本気で死んでしまうくらいに泣いて泣いて、俺には文章しかないんだってことを吐きそうになりながら悟った。それしか俺は俺を超えられない。仕方ない。でもやるしかない。書くことは信じることだった。褒められたいのも読んでもらいたいのも欲望としてはあったけど、でも、そうじゃない領域で、俺はどうやったって書くしかないんだと思い知った。そういうなかで、その人に読んでもらえたのは、ぶっちゃけ昔思ってたほど劇的な経験ではなかった。だって俺は書いてて、その「いつか」「だれか」の射程内にその人がいつか入るのは確実だと思ってたから。でもね、やっぱりね、そうやってわかった振りをしてもね、「読んでもらえる」っていうのは、奇跡みたいなものだった。劇的でなくとも。俺が書いてきたことの証明みたいなものだったから。
そういうことがあったから、俺はインターネットでなにかを書くことを、きっとやめないと思う。書くこと、読むこと、その間にある遇有性が孕む可能性の射程距離は無限だ。「いつか」「どこか」「だれか」に、限度はない。明日俺が交通事故かなんかで死んだとして、それがなんだっていうんだ。今日までに俺の文章は読まれた。変わらない。飽きられて読まれなくなっても「読まれていた」って事実は残る。それは消せない。消えない。じゃあもう、信じるしかないじゃん。そして俺にとって書くことは信じることだ。じゃあ書くしかねえじゃん。で、もちろん俺が今日まで文章を書けた理由って一個どころじゃなくて無数にあるし、どれか一個に劇的な物語を見出すような幼さは自分の中にもちたくないんだけど、でも、そういうことがあって、書くのをやめる人がいて、俺は今日もこうやって書いている、そういうことがあるんだっていう話です。それだけ。
オウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年に大学生へ向けて書いた手紙(忠告)をまとめました。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして
が挙げられていましたね。同様に
若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。
と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教を比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしまう人間側の“信仰生成過程の不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまいます。
では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者の宗教的志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?
この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。
ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和~平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年(1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉がTVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災のTVニュースの方が記憶に残っています。しかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体と出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネットで検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分がカルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教や人間の信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています。
この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年に執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学の学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウムが無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教のナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教的経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近、オセロの中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳やマインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルトの存在、洗脳や信仰に対する認知を深めてもらいたいです。
そしてできるなら、FacebookやTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルトの存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)
最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています。
学生の皆様へ
「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。
この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。
オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方から「カルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。
私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います。
カルトに係わる契機
前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトのメンバーとしては、私はオウム真理教の信徒の経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります。
カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱、悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。
しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当な仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。
ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウムの世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実的であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族や学校、会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。
このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。
私自身は、高校三年生のとき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。
このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。
スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています。
一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。
トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観の崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています。
何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。
この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。
「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。
以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います。特に「自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。
その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教の実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学の付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。
哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。
こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。
結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想的なのは、半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。
このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教的経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。
次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。
思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない
人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動は自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”
また、心理学者のウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教や哲学に向かうことを指摘しています(ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫)
「生きる意味」に対する問いが純粋に知的なものならば、それは当人に健全な精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家に相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。
それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。
ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います。