はてなキーワード: 共感能力とは
以前ブログにも書いたのですが、
人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・
原発を肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。
悪いのは人間です。
意識の持ち方は大切です。
安倍昭恵の2012年のフェイスブックへの投稿が話題になっている。
スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難や賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。
安倍昭恵の記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会の問題や被害と加害の関係を等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。
この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間と物質の関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念は人間の領域に限定されていて、「善悪無記」の物質(自然物)にそれを押し付けることはカテゴリー・ミステイクであるという発想だ。
松崎勲と類似のコメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵の思想を根本的に誤解している。
そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考そのものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物や自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能を人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。
このような「対称性」のスピリチュアリズムが記事の後半にも貫徹されている。
「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間が善悪無記の放射能を悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会そのものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり、安倍昭恵が糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間が放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。
問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方の関係は非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)
要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメントは安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである。
安倍昭恵の記事を読んで、槇原敬之が2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変を反省し、感謝の大切さを唱える内省の精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。
一方、安倍昭恵の場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能へ感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考や欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり「意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直なスピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵は人間が放射能に感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。
安倍昭恵にスピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後にスピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一の議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉も中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵を批判するに違いないからである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。
人間は地球の自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽圏からの(核融合の)エネルギーが植物の光合成によって媒介されて持ち込まれ、さらに動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。
中沢の議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢は原発を一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発・放射能には適用できないということである。
中沢の議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。
「原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然と太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。
留年して奨学金止められて退学しそうな二人の大学生の件を見て、改めてそう思った。
たとえば面接で志望動機を問われて、すらすらと100点満点な答えができる奴がいたら、「どこまでが本当なんだろうな」と思うだろう。
それと同じで、たぶん書いてないだけで、女子大生の方にも色々と落ち度はあったんじゃないかと思うし、
男子大生の方にももっと辛い出来事はあったんじゃないかと思う。
施設の出来事について触れるだとか、ゲーム依存に関して詳しく書くだとか、
そういった小手先の技術を少し使うだけでも、状況はもっと変わっていたはずだ。
彼は「男か女かで同情されるかどうかが決まる」なんて言っていたが、とんでもない。
それも多少はあるだろうが、そんなものより圧倒的に大事なのは自己アピール力だ。
同じような苦しみにある人間2人でも、自己の窮状を的確に表現し、
あるいは嘘でも何でも使って注目を引ける方が、同情、承認、関心、フォロワー数、全てを持っていく。
それに対して、ああやって女を憎むことしかできない愚かな男子大生の元に、何が集まるだろう。
男か女かで決まるような程度の差だったらどんなにマシだったことか。
「自己アピールのうまい人間が全てを持っていく」、それが就活界隈だけでなく、
ところで、あえて深く突っ込むと、この自己アピール能力自体に性差がある可能性は十分にある。
たとえば、女性の方が共感能力が高い、というのはよく言われている話だし、
反社会性パーソナリティ障害(いわゆるサイコパス)も自閉症も、男性の方が何倍も多い。
私は悩んだことはありませんが。
小さな差異を言えば私はあんまり痛みや苦しみには興味ないです。実際の事件よりイラストや小説のような創作の方が詳細な妄想を反映するので好みです。
例えば性的に誇張された体型の魅力的な女性が体のラインがわかる服や下着や全裸で淡々と絞首刑にされていくイラストとかで自慰をするのが好みです。痛みや苦しみより、女性の人格も命も含めて物のように扱かったり辱めたりするのが自分の性的に興奮するポイントなのだと思います。
私があなたと違いこのことについて悩まないのは、変態性指向の根源や責任を自分と言う一個の人格に帰するつもりが全然なく、動物の機能の一つとして説明されるべきに違いないと確信しているからです。
なので私は悩むかわりに、これがなんなのかは考えます。
私は普通の女性の写真(死んでたり吊られてたり苦しんでたりしない)のポルノで自慰をすることも有ります。
けれども前述のような、人格を無視されモノのように扱われる女性の身体や死が描かれたポルノでする時のほうがずっと強い快感があります。
出すものもより腰の深いところから出てくる感じがして、液の質の違いがわかるほどべったりと粘度の濃いものが出ます。色も濃く真っ白になります。
私はあなたと同じで良心や他者への共感能力がありますし、犯罪も殺人もただただ恐ろしいとしか感じませんし、リスクを冒すほどこの欲望に執着は無いですが、もし法も善悪も神もなんにもない荒れ果てた中世みたいな現実に放り込まれて「欲望を実現してみろ」と言われたら、なんかの理由で処刑された直後の女性の死体を盗んできて性交するキモい村人になると思います。それが現実と理想の折衷のイメージです(全く現実離れしてますが)。
それでいつものべったりとした精液を女性の死体の中に注ぐと思うのですが、そのべったりして真っ白な、含有生殖細胞の多い液体は何の為に出てくるのでしょうか。生殖可能性ゼロの活動の時だけ出る生殖能力がすごく高くなっていそうな体液。全然悩んでないですが究明はしたいと思っています。
ところでネット見た印象ですが、我々のような趣味は白人に多いです。
絞首刑イラストも白人が、決して上手くない画力でパッションはじけさせながら大量に描いてアップしていました。(そんなサイトでプロフィールと顔写真載せる感覚はさっぱり分かりませんが。)
この趣味が連続殺人や破滅にいたるのも犯罪記録嬢は圧倒的に白人が多いですね。
人種がそうなのか、社会や宗教のプレッシャーなのか、そこもわかりません。
追記
ほら、こんな風に書かれるとなんか人格の問題みたいじゃないですか。
私オレTUEEEEE創作とか嫌いですよ。幼稚だし、やられる側が気の毒になるし。
私はそういうなんか人間関係や内面に不満や葛藤を抱えてる人ではなく、
■http://anond.hatelabo.jp/20160716001545
こういう悲観的な増田ってブコメで絶賛されがちだけどさ(子供を産むのは地獄だとかも)
これに賛同してるコメントは感動話に絶賛のコメント書いてるやつ並みに気持ち悪いよね。
よくあるコメント
「これに否定的な人とは絶対にわかりあえない」 ← なんだこいつ。お前とわかりあいたい奴なんていねーよ。自分がみじめだと思ってるのに人と仲良くなれると思ってんの?自意識過剰だな。
「俺も早く死にたい。増田の気持ちがよくわかる」 ← きもちわる。なれ合いクッサ。死にたいオフ(笑)でもやってろ
全体的にうげーきもちわりいってかんじ。
感動話に共感して涙ぐんだりしちゃってるやつと何が違うんだろ。
あげくには共感のスターをポチポチ(笑)「死にたいのわかる~」スターポチッw 死にたい(笑)気持ちに共感スター(笑)楽しそうですね(笑)
なーにが「仲良くなれそうにない」「気持ちがよくわかる」「尊重したい」だよw
こいつらはメンヘラ話に感動話をシェアしちゃうような奴らと同じように感動して共感してるただのメンヘラ予備軍だよ。
お前らが馬鹿にしてるフェイスブックの感動する話といっしょで、メンヘラが死ぬっていえば大絶賛(笑)
「死ぬのは誰もが避けられない・・・・」「いずれみんな死ぬ・・・」「死ぬのは人間の本質・・・・」 ← wwwwwwwwwwwwwwwwメンヘラの戯言に大共感アンド深い分析wwwwwwwwww
勘違いするやつがいそうだから言っておくが、俺はフェイスブックの感動系も嫌いだし、こういうメンヘラ共感話も嫌いだからな。
何が違うの?根はいっしょの共感大好き馴れ合い大好き人間(笑)
メンヘラ感動話を絶賛するくそだせーゴミどもはさっさと死ね。黙って死ね。みじめな自分が大好きで大嫌いなら恥をまき散らさず黙って死ね。
昔はやったゲームセンターで出会った余命僅かな少女の感動話とこの増田、方向性が違うだけで完全に種類は一緒だよね。
挙句の果てには
「これがわからないやつとは仲良くなれない・・・・・」「俺も増田の気持ちがよくわかる・・・・」
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
フェイスブックの馬鹿どもと本質的に同じ行動しているのに悲劇的な自分に酔って共感の輪(笑)を広げている自称弱者どもは、実は同調圧力と馴れ合いが大好きwwwwwwww
ファッション感覚で悲劇ぶる自称弱者どもの死にたい僕たちの輪(笑)
しょせん糞雑魚どもの馴れ合い。「死にたい~」「わかる~俺も死にたい~」「ね~」ワーキャー 死にたい気持ちに共感スターポチっ(笑)
楽しそうでよかったね。
雑魚どもが。
くだらね。
むかしは「大事にしたほうがいいんじゃないの、消えるよりは」くらいだったけど
今は人を脅かして萎縮させるだけの話とか消えていいよとおもってる。
ブラジル移民とか津軽三味線とか介護の苦労話とか姥捨て山とか葬式でおかんの中見せられるとか
僧侶のミイラとかきえゆくアイヌとか殺処分の子犬を救ってとかオレオレ詐欺とか寒冷アレルギーでしもやけから流血とか
もう、正直に普通に怖いじゃん。忘れちゃいけない日本の歴史なんかないでしょ。忘れさせてよ。新しいことをしたいんだ。
お化け屋敷ならあとで笑い飛ばせるけど「リアル」を笑い飛ばしたら不謹慎炎上ですっごい叱られるし。
はい、実際苦労したのはわかりました。
でも今はどのように幸せになったのですか。
それとも未だにずっと不幸なんですか。子供の時しもやけだったから。
今なら治療がありますし、その治療とか予防の話で脳みそを埋めたいよね。
健康辞典の病気写真なんか一緒みたくないし、昆虫図鑑のウジ虫だのヤスデのページも触りたくない。
好きな人はいてくれたほうがいいけれど、それは人に見えないところでやるじゃないですか。
親に対しては兄弟そろってしか相対したくないのも、同世代だし、
もう聞きたくないといったら切れられるのって虐待じゃないの。
私だっていいとしの大人だけど、そんな話をニヤニヤしながら話されてもさあ・・・・。
なんなの? 私が代わりに今ここで聞きながら苦しんであげればいいの????
もう終わったことじゃない。前向きな対処以外いらないよね。
たとえば参院選の勉強するとか前向きなことだけで残り半分の人生を埋めたい。
そりゃまあ先祖の弔いくらいはいつかはやらなければいけないとしても、
もう人の悲しむところも自分の悲しくなるシーンも、見たくない。
肉体的に痛いより精神的に痛いほうがあとをひく。
ひきずられて鬱になりそうな危険性が高いのはわたしとか共感性の高い家系だけの問題なんだろうけど
(いやいや、やっぱりみんな相当いやがってるんじゃない?)。
つとめて明るくしてるおばさんも心の中では怒ってるっていう話。
ちなみに、そんなわけないじゃんハハハ考えすぎ
みんないい人ダヨと思った以前の私のような人は
親が70になると大変納得行くとおもいます。
子供も美女かつ野獣みたいなもんだけど、共感能力が高いし、教育もある程度効くし、いつかは大人になる。
体だけ丈夫な老人は手に負えない・・。
http://anond.hatelabo.jp/20160605113308
まずこの作品の伝えたいテーマのひとつが「野性」って概念は幻想であるってことなんだよ。
これは元増田もわかっていて、そこが表現されていないと不満に感じたんだと思うんだけど、実は描写されている。
この事は後に触れるとして、まずは
>肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒であるかのように描かれ。
についてのフォロー。
そもそも「野性」ってなに?
「本能」ってなに?
社会から切り離されてジャングルでたった一人で育った人間の人格が「本来の人間」なのか?
そうじゃないだろう。
今自分達が生きている文化や環境を含めて、人間の人格というものは成り立っている。
そもそも野性(本能)と理性(社会性)は切り離せられないものなんだ。
たとえば精神障害で錯乱してしまったら、大通りで裸になったりウンコしたりしちゃうわけ。
でもそれはその人の「本来の」人格ではない。病気が治った後、その人に「あれが君の本性なんだね」って言える?無理でしょ。
ズートピアの野生化しちゃった人達は、薬物によって一時的に錯乱を引き起こした状態なわけ。
高次的な思考を司る脳みそが一時的に阻害されちゃったとかそういう症状であろうと推測できる。
そんな状態なので「肉食動物の野生状態の描写が「凶暴」一辺倒」は「野性」の描写ではないし、
むしろ「「野性」とは凶暴なものだ」と思い込んでいる観客へのカウンターになっている。
ニュースメディアはそれを(ニュース映えするので)「肉食動物の本能」として騒ぎ立てるが、それはあくまで異常な状態であって、その人の「本質」ではない。
偽りの「本性」だ。
そう、「「野性」とは凶暴なもの」に代表される思い込みを否定するのがズートピアのテーマであると言っても過言じゃない。
ズートピアでは人種差別やらフェミニズムやらのあるあるジョークが、山のように引用されている。
例えばエンディングで交わされるニックとジュディの会話。
日本でも男脳・女脳の本がベストセラーになったことがあったけど、その題名って「地図の読めない女性」みたいな感じだったよね。
統計だかでも、女性は三次元構造を脳内再生するのが苦手みたいな結果が出たとかどこかで読んだけど、そういう傾向があるにしても女性全員がそうだってわけじゃないし、現に女性もバンバン車を運転している。
((女性はコミュニケーション能力が高いので、男性の運転技術は自分よりも上だと持ち上げている/または男性よりも自分が楽をするために男性に運転をさせている結果である、という説もある))
でもこれ、劇中では否定されてたけど本当のことだよね?と思うなら、それは偏見に侵されている(かもしれない)。
上記と同様に変換してみよう。
アウト!!!アウトです。
「男性が痴漢するのは本能だから女性は我慢すべき」理論のあれこれははてなでも頻出しているけど、他の場所でもそうらしい。
男性は性欲を司る視床下部が女性より大きいから仕方ないよね……な、わけはない。
上に書いたように、人は理性と野性との混合体だ。社会に住んでいる以上、一般常識として女性を襲っちゃいけないということは知っているしやらない。
ダメだと言われてやるのは犯罪者と、そういう文化圏に住んでいる人たちだけだ。
そういう文化圏に住んでいても、相手の女性が嫌がることはしないという男性だっている。人は相手を慮る能力を「本能的に」備えているからだ。
性欲も他人への共感能力もどちらも同じく「本能的」な脳の機能だ。
人によって強かったり弱かったりする。犯罪者は我欲が強くてセーフできず罪を犯すし、倫理観の強さも遺伝的な部分が大きい。
でもそういった「本能」は本人の努力や周囲の理解によって乗り越えられる。
そんな世界がいいよね。というのがズートピアの掲げる「知恵」の力だ。
野性の「ありのまま」の自分なんて受け入れてもらえない。弾き出されてしまう。
だから生きやすい形に整えた街を動物たちは作り出した。つまり社会だ。
社会は人の集合だから、自分の願望と他人の願望が衝突することもある。
そこを折衝して生きていこうというのが理性であり知恵だ。
夢見がちな理想主義ではなく、地に足をつけて一緒に生きていこうという意思だ。
それすら理想にすぎないのかもしれないけど、ディズニーが子供に手渡す「知恵の武器」なら少しくらい甘味も混ぜないと吐き出されちゃうから、いい案配だと思うよ。
ニックとジュディが和解するシーンで、感極まったジュディがボロボロ落涙してしまった時のニックの一言。
これはストレートな事実なんでご存じの方も多いんじゃないだろうか。
よく職場でちょっと叱った程度で泣き出したとか、喧嘩では女性のほうが先に泣き出して何も言えなくなるからズルい、
精神的に軟弱で覚悟がないから泣くのだ、というように思う人も多いらしいですが、ホルモンの影響で女性は男性よりも泣きやすいという「本能的」な理由がある。
彼女たちにしても本当は敵の前で弱みを見せたくないし、泣いたら許してもらえると思って涙を流すわけではない。
ただ、身体的な反射なので仕方がないのだ。
ましてやジュディは様々なハードルを乗り越えてきたガチのリブで、精神的にもタフであろうとし続けてきた。
そんな彼女が決壊してしまい((ニックに対して心理的障壁を張る必要がなくなったという暗示))弱さを見せている状況で、差別的なジョークを放っても許し合える間柄になったという描写なわけ。
ジュディは「肉食本能」を偏見から非難したが、ニックは「涙腺」を分かったうえでジョークにした。
「本能」なんてそんな程度のもんさ、とお互いに許し合う。
偏見や差別を打ち砕くのには「相互理解」と「共感」が架け橋になるという強いメッセージが放たれている。
差別ジョークの引用はフェミニズム以外にも色々あるんだけど、二項対立でわかりやすかったので取り上げてみた。
> 社会差別、偏見モノのストーリーとして見ればよかったのかもしれない。
その通りですね。
それでも「野性」を解き放ちたいという人のために…………そう、秘密クラブがある。
という法案が政府の委員会レベルでようやく検討されだしたらしい。だいたいつぎのような骨子だという。
免許の取得には収入要件がある。大体年収500万円前後で検討されているという。
それ以下の年収の場合には、以下に定められる試験の合格基準点がかなり厳しめに設定される。
すべての免許申請者は以下の試験および検査に合格する必要がある。
試験および検査の受検には一回あたり2万5千円程度の受験料が必要となる。
精神疾患で通院している場合は、医師の診断書を願書に同封する必要がある。
免許の有効期間は1年で、年度末に活動実績報告書の提出が必須となる。報告書は政府から独立した委員会が審査し、内容に虚偽が認められた場合には免許のはく奪、受験資格の5年間停止等の措置がある。
というのはどこの国の話だったっけ。
SMAPが「らいおんハート」や「世界に一つだけの花」を歌っていたころ、現役のJCであった。
小学生や中学生の頃に嫌でも耳に入ってきた音楽、たとえばモーニング娘。やSPEEDの音楽は、
当時どんなに芸能界に興味がなかった私でも、この年になって「90年代特集」のような番組で流れれば「ああ、懐かしいな」と思う。
ところが、ジャニーズの音楽に関しては、何のパトスもほとばしらない。
TV離れが進むこのご時世に視聴率30%を叩き出したSMAPはもちろんのこと、
その他のジャニーズのすべてのグループに対して、なんたる感情も持ち合わせていない。
解散しようと再結成しようと事務所が裏がゴタゴタだろうと、全くもって対岸の火事である。
おそらく、ジャニーズは(少なくとも私が生きている時代の)TV業界におけるインフラ・空気的存在だからであろう。
どのグループにも共通する独特の男性ボーカルの重なり、煌びやかでややダサい曲調、そして平均的な美的顔面と誰にでも気に入られることを目指すタレント性。
そうした要素が、幼少期のTV番組のすべてに散りばめられていた印象である。
いて当たり前が故に、私の中で目立つことのない存在。
いずれかの「ジャニーズ」でありさえすれば、代替可能な要素を提供する存在。
男性同士の間で、「共感なんかに頼るのはカッコ悪い」「口だけの甘ったるい言葉など言わない方がいい」という価値観が、一定程度あるように見えるね。
一方女性の間では、愛嬌とか優しさというものが重要とされ、「武骨で硬派」みたいなのは全然いいとされないことが多いように見える。
それぞれの住む社会に適応した結果が、大人の男女の共感能力の差として見えているんだろう。
それはそうと、「フリ」だけの共感に意味がないと思っている人(私が嘗てそうだったのだが)に言いたい。
お互いそれがポーズだけのものと分かっていても、実際に共感の言葉をかけてもらえると、これが結構楽になるのである。
大して面白くなくても笑えば楽しい気分になるのと似たようなもので、人間というのは案外単純なトリガーで気分が変わるようにできていると思う。
「所詮他人同士が分かりあうことなどできない」という思想を変えることなく、共感した「フリ」で癒されることは可能だ。試してみてほしい。
いや、それは違う。
「共感しているフリができる」ということは、少なからず共感するポイント、共感においてしてはいけないことを押さえているということであり、それこそが「共感能力」というものだろう。
これも因果が逆で、確かに「共感したフリという行為を見下して」いる面はあるだろうけども、その結果として共感能力が育っていない、つまり共感できないという結果になっている。
男も同じで、「出来ないんじゃなくて、やらないだけ」というのではなく、「やらないから、出来なくなっている」側面のほうが強いということを忘れないで欲しい。
http://minimote.hateblo.jp/entry/kyoukan
mizchi 共感したフリができない、という話では
私もそういうことだと思います。
家族であろうが恋人や友達であろうが、別の人間なので、全く同じ経験をして同じ感情を抱くことはありません。
だから共感は錯覚です。似た感情が無いか、自分の経験データベースから検索してるだけです。
ただ、その「フリ」が出来るか出来ないかという話です。ここは人間関係の上で結構大きいんですよね。
特に家族や恋人や友達など、自分にとって大切な人が弱っているときには。
(どんな間柄であっても自分にとって大切でないなら、どんなに弱っていようが放置でいいと思いますが)
「フリ」が出来ない女性って、かなり浮きます。女性には「フリ」の上手い人が多いからです。
出来ない女性は、持ち上げるようなあだ名を付けられることがあります。「先輩」「先生」とかです。
呼ばれている本人は、付き合いづらいからそういう呼ばれ方をしていることに、おそらく気づいていません。
尊敬されているからそう呼ばれているんだろうと思っているんじゃないかな。
共感したフリが下手な人は、正論を言う人であることが多いです。
人の失敗談や愚痴に対して、その人の劣っていたところを正しく指摘します。
指摘している人が、日ごろから的確に問題解決している理知的で勤勉な人であれば尊敬もされるのですが、残念なことに口だけのことが多いです。
私の周囲の話になってしまいますが、問題解決している(手を動かしている)人ほど人の痛みに寄り添っていて、
あまり有能ではない(手を動かさない)人が、正論を言い、共感したフリも出来ない傾向にあります。
出来ないというより、共感したフリという行為を見下していて、それをしない自分を誇っているように見えます。
その姿勢が「先生」みたいなあだ名に繋がっているんだと思いますが。
男性には、女性に生まれていたら「先生」と呼ばれそうな人が多いです。
でも多いからこそ、「男性ってそういうものだからね~」となって、個人攻撃には晒されないのだと思います。
「フリ」が出来ない男性がとても多いので、そういう男性同士でつるんで、
「共感を求める女ってバカだよな~論理性のかけらもないな」と笑うこともできます。
もし女性だったら「あの人、女性なのに、なんなの?」と、性別への失望ではなく個人への反感になります。
「フリ」が出来ない男性は、数の力に守られていると思います。そこ自覚したほうがいいかなと思います。
人間は人間に対して残忍な拷問をしたり、事故であったり、そもそも動物界では、生きながら食べられたりと
たいていは他人事だが、まれに共感能力によって、その苦痛を自分のものとしたり、
また少数の人や生物は実際に拷問を受けたり、齧られたりして苦痛を感じている。
この文章を読んでいる人はほぼ全員が
「自分があんな目に合わなくて良かった」という他人事の立場だ。
私もそうだ。
しかし、自分が当事者になる可能性を考えると、たまに言いようの無い恐怖を感じる。
プレス機を止められないと理解しつつ、ゆっくり鉄板が自分を押しつぶすのを待ってる時のことを考えると怖くて仕方が無い。
私以外にもそんな人は居るだろう。
しかし、絶対にそういう苦痛から逃げられない可能性があり得ることに気がついている人は居るだろうか?
自分とはなんだろう?と考えたとき、たいていの人は追求しきれずにうやむやになってしまうと思う。
多くの可能性の中で「自分とは、もしかしたら神かもしれない」と思った人も居ると思う。
(神という表現に違和感がある人は「共有意識」とでも何とでも読み代えて欲しいが、ここでは便宜上「神」とする)
この世界を観察、体験する為の主体を追求すると神に行き着き「自分の体験はイコール神の体験じゃないか?」という発想だ。
この発想では全員のコアが神だということになる。
などという思考や情念は自分の脳が作り出すが、それを体験しているコアは神だ、という発想だ。
ついて来れているだろうか?
この部分の意味が分からないと、この先は全く理解できないと思うので、分からない人は、ここで読むのをやめるか、何度も読んで理解するかして欲しい。
もし生物(に限らない。意識を持ちうる物質全て)のコアは神で、全生物の体験は神が体験しているとしたら?
もしそうなら、ビルゲイツの富もイチローの栄誉も野々村議員の羞恥も実験モルモットの苦痛も全て自分の体験である。
先週の金曜日にかけた商品の発注の桁を間違えていることに今朝気付いた私も、
それを怒りつつ、事態をどう収拾しようか胃に穴をあけながら悩む上司も、
商品をキャンセルされて土日に無理した受注企業の社員や社長も、
すべては自分である可能性があるので、あまり私を怒って苦しめないで下さい。
それがあなたの為です。
この文章を家を出なければならない時間までに書き上げられなければ、今日は会社を休もうと思っていたが、