はてなキーワード: 一般大衆とは
でも、それって言い換えれば“中途半端”ってことでもあるわけで。
しかも、その“中途半端”のしわ寄せがくるんだったら文句の一つも言いたくなるわな。
逆に言えば、しわ寄せさせこなければ中途半端でも勝手にどうぞって、大半の人は思ってるはず。
最近、IKEAでプラントボール食ったんだが、へえーこれで肉使ってないのかってレベルで感心したよ。
ミートボールも提供してるんだが、それより安く売られているのがポイント高い。
コスト的に考えたら、プラントボールの方が高くてもおかしくない。
ミートボールの味に近づけるために、色んな食材や調味料で加工しまくってるんだから。
でも、そこで値段を高くしてしまったら、意識高い奴だけしか食わないってことを分かってる。
大半の人間は、“持続可能性”とか考えながら生活してないからね。
意識高い人間だけしか参加しない「持続可能な社会」は、社会として破綻してる。
あとアパレル業界にサステナブルの波がきて久しいけど、今でも歓迎してないよ。
みんな声を大にして言わないだけで、作り手は割高なリサイクル素材で服を作りたくない。
それで価格つり上げたら、売り上げ悪くなるの分かってるからね。
「いい素材ですよ」
「他の素材じゃダメなの?」
「まあ、ダメってことではないですが」
「安いの?」
「いいえ」
「いいえ、でも環境に優しいです」
まず俺らに優しくしろ。
合皮は、まあ頑張ってるとは思うよ。
ファッションに関心のある人は「本革の方がいいとは思うけど」って口を揃えていうが。
それでも紙ストローほどじゃない。
>売れてるから正義!ダサいと感じる方がおかしい!ってうざすぎる。
これは何よりも許しがたい。
お前いっつもこれ言うけど、俺がもともと「売れてるものが正義であり、売れてるものを良いと思えない少数派に人権は無い」とするサブカルファシズムが許せなくて許せなくてたまらない人間だとわかっててわざとこういうイヤミ言うよな?
俺は常に正しいがゆえにこの間違った世の中においてはずっとマイノリティだった
マイノリティであるがゆえに、正しい側なのにもかかわらず、物の価値がわからないダセエ一般大衆から「お前のほうがダセエ(理由は少数派だから)」として迫害されてきた
だから多数派のダセえセンスを批判するさいには必ずそれを良いと思わない自分はマイノリティなんだという自覚を忘れないんだよ
どちらが正しいか間違ってるかでいえば俺が正しい
しかしどちらが多数派で少数派かというと間違ってる一般人が多数派で正しい俺が少数派だ
もちろん少数派の側が常に正しいとも言ってない。
少数派が間違ってる場合もある。テロとかやる過激派なんかは少数派かつ間違ってる奴ら。
多数派の問題は、間違ってても数の論理で「正しい」とゴリ押しされること。
少数派だったらテロでもなんでも正しいとして擁護する某えもん界隈のような極左も悪だし
多数派だったら少数派の存在なんか無視して数の力でイキり散らしていいとする一般社会も悪だ。
少数派の過激派からは権力側のネトウヨのヘイターと決めつけられ、多数派からはリベサヨのポリコレと決めつけられ、その両方をどんだけ憎んでるか全くわかってもらえない。
しかし、少数派だろうが多数派だろうが正しいものは正しいし間違っているものは間違っているんだよ。
正しいか間違っているかを基準にするならば、数が多いか少ないかはどうでもいい。
ただ逆に言うと数が多いか少ないかを基準にしたら正しいか間違ってるかがどうでもよくなるのは当たり前。
世の中は正しさよりも数が基準にされがちなのを忘れてはいけない。
そこで4℃叩きの奴らだけど、あれは4℃をダサいとする自分の感性が「多数派」である前提で、4℃を良いと思う「ダサい少数派」を攻撃してるんだからな。
実際には小山らの言うように4℃はめちゃくちゃ売れててあれをダサいと思うほうが少数派だったとしても
本人は「ダサいと思う自分は多数派なんだから、良いと思う少数派の気持ちなんか踏みにじってかまわない」と思ってるわけだから、
例えば民族差別とかの本当に自分らが多数派に属する問題の場面では、普通に差別する多数派の側に立つ可能性が高いわけだよ。
そのくせ批判されると「個人の感想を言っただけでちゅう~」などと被害者ヅラしやがるからムカつくんだよ。
「個人」ではなく「多数派の代表」としての立場で主張してたくせに。
そのうえでさらに、小山らの「実は4℃は独り勝ちレベルで売れてるブランドであり、4℃叩きなんかツイッターの中年くらいしかしてない」という調査結果が間違いないとすれば
これは「実際は少数派のくせに多数派気取りでイキッてた」という非常にイタい実態だった事になる。
それでも、常にマイノリティとして多数派のファシズムに抗ってきた俺みたいに、自分はマイノリティだと自覚したうえで「多数派は一般大衆だからセンスがダサい」と言ってるならまだわかるんだよ。
小山に共感するタイプの面々は逆に俺みたいなのこそが嫌いだろうと思うけどな。
4℃叩きの奴らの、俺が何よりも許せないのは、
「私は4℃はダサいと思う。よって、私がダサいと思う4℃が売れてるわけがない」として、自分の個人的な主観と客観的な現実の区別がつかないところ。
4℃叩きとキモヲタは敵対しがちだが、キモヲタも4℃叩きも、こういう甘えた精神は共通してるよ。
僕チン達が好きなもの(萌え絵)はみんなも好きにきまってるでちゅう。
ほらみろ完全に一致した。
科学的なエビデンスによって「4℃は売れてる」と証明されたとみるや次は奴らは「あれはセンスない男が一方的なプレゼント目的で買ってるから売れてるのであり、女はダサいと思ってるはずだ」と主張するのだが
<
イケてる若者が集まるTikTokでは、普通に彼氏に貰って喜んでるのは5万7000いいねされ、ツイッターなら大ウケしそうな「メルカリで売ったわ」はたかだか4000いいね、
文字通り桁が違うわけだが、どっちが真の世論なのか議論の余地すらないだろこんなの。
それなのにあいつら「ツイッターで毎年炎上してるのに」とかなんとか、5万7000の健全の若者よりもたった4000人の自分らヒネクレ老害の方が社会的に影響力が強いとナチュラルに思い上がってるんだよ?
自分が少数派だと自覚したうえでセンスねー多数派を叩くんならわかるの。
俺がいつもやってることだから。
自分の周りの狭い界隈を世界全体よりも大きいという更なる勘違いがカルトじみててヤバいから怒ってるんだよ俺は。
小山らは怒ってなくて笑ってる。
にっくき天敵ツイフェミの実態が思ったより弱者だっから余裕で勝てると笑いが止まらないのだろう。
俺は大の大人がこういう幼稚なマインドで生きてて、しかもそのくせ威張り散らしてる事実には、怒りを感じるな。笑い事にはできない。
「格差是正のために、学力より経験重視の社会を」と謳った平原さんがTwitterで叩かれている。経験重視は格差を是正するどころか更に広げることが分かりつつあり、もしかしたら学力重視の方が良いのかもしれない…が、別にそんなことはどうでも良い。
平原さんを嬉々として叩く人たちを見るのが辛いのである。まるで鬼の首を取ったように経歴を調べ上げ、マイケル・サンデルやカズオ・イシグロ、その他の著名人の言葉を引用し、平原さんの意見を否定、批判するのである。平原さん一個人の意見なのだから、そこまで言わなくても良いのではないか。経験重視でもやり方を変えれば今分かっているような格差も生まれないのではないかと思ってしまうのだ。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s
48:24~53:05
伝統的な大学制度における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す
ニューヨーク・タイムズ紙コラム「政治的正しさという覇権の高まり」(1990)
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス)
報告タイトルにもなってるキャンセル・カルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。
これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、
ただ2010年代、後半ですね特に、から急激に広まってきた「キャンセル・カルチャー批判」についてお話をする前に、
その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。
ポリティカル・コレクトネスという語自体は、
元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。
ところがこれアメリカの文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカン・マインドの終焉』、
1990年ニューヨーク・タイムズのコラム「政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、
各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。
1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブッシュ・シニアがミシガン大学におけるスピーチで、
「ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。
現在の日本でポリティカル・コレクトネスというと、
専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、
そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。
1980年代アメリカの大学では、女性学・アフリカ研究など新しい学部やプログラムの設立、
それからアファーマティブ・アクションの採用、それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、
それからコースとかカリキュラムの見直しなどが一気に進んでいくことになります。
これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、
性差別・人種主義・ホモフォビアなどの検討と修正とを迫るものでもありました。
こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、
それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。
けれどもこれをアメリカ的価値の根幹に関わる、思想と言論の自由の危機として提示することで、
伝統的な大学制度の覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。
実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアのミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、
1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、
例えば女性の性と再生産に関わる健康と権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。
またHIV/AIDSの流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。
人種主義に関して言えば、国内の人種差別問題というのも当然温存されていて、
このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。
にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。
この演説が暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容、
その差別に対する不寛容が暴力だと抑圧だというふうに名指していく。
ポリティカル・コレクトネスという言説戦略
大学という特定の組織における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想・言論への検閲であるかのように見せる
つまり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、
大学という特定の組織におけるセクシズムやレイシズム、ホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、
逆にあたかもマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想・言論への検閲であるかのように見せる、
この枠組みは既存の体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、
むしろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから、
思想・言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
元々が特撮ネタのギャグでマンガ家デビューした第一世代オタクであり、特撮が大好きなら軍事ネタも大好きであり、この世代の特撮オタ軍事オタが心情右翼寄りなのは普通なのでまあ平均よりちょっと右翼色強めぐらい
なんとなくだが、陸軍中野予備校が連載は継続してるにも関わらず単行本発売が遅れに遅れ(当時、書店に張り出された発売予定表に予定日が出ていたのに出ず、そのまま音沙汰なしで数年出なかった)、その後に前にも増して各方面に挑発的な方向へ振り切れてったあたりから何らかの事情で何かが壊れていったようで
ツィッター発言はもともと政治的発言は多く、旧左翼をくさし超然的立場をとりつつちょっと理屈が通ってそうなこと言う(中身は怪しい)平均的な60代特撮オタらしい発言を繰り返していた
のだが、ここのところで統一教会ネタが取り上げられることがいたく気に入らないらしく、攻撃性が増している
昔からのファンなのでこういう人なのは仕方ないとある程度まで飲み込んでいたのだが、赤松健擁護も心情ベース、安倍元首相擁護も心情ベース、とにかく政治的発言が心情ベース一辺倒であることを隠しきれなくなっていて、半端に理屈をこねられる人なのが仇となり、言ってる理屈がどんどん破綻していく
昔からのファンとして「ああいうキワモノギャグを書いてた人がこういう残念発言に終始するんかい」と、さすがに失望を禁じえない
今回の統一教会の事件は、理屈こねて穏健右翼やって左翼をやんわりといなすタイプの「俺って頭いい」タイプの人が墓穴掘りまくってる感じがあり、「穏健で頭の良い俺が暴走する一般大衆に教え諭してやりますよ」という態度で発言がおかしくなっているのを見ていると、はてブで名前を上げられがちな常時暴言失言マンの暴言よりきつい
こないだの人か。
https://anond.hatelabo.jp/20220702070421
もちろん正しさなんてものは、人間である以上は、一義的に決められないが、
今の日本は民主主義国家なので、「民主主義の視点からの正しさ」はあると思うよ。
「それに反発する人間の意見も封じ込めない」、ってのも民主主義だし。
「言い切る」ってことは独裁主義ってことになる。日本ではそんな状況ないと思うけど・・・?
2022-07-12
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
EVの販売比率が5%を超えると変化が加速する。ブルームバーグのアナリストが19カ国と比較分析した。
一定以上の年齢の方ならスマートフォンが世に出た時を覚えてるだろう。そのデバイスは奇妙で高価で、新しい物好きな一部の人の気を引いていた。あれから10年…今ではスマホを持っていない方が珍しくなった。
同じような変化が世界中のEV販売で起きている。そしてアメリカが、ようやく分水嶺を超えた:新車販売の5%がEVになった。この水準を超えた新技術は一般大衆に支持されて一気に拡大していくのだ。
過去6ヶ月間の新車販売で、アメリカと欧州、そして中国という、世界の3大自動車市場が、分水嶺を超えたのだ。アメリカが欧州や中国などのすでにEVが普及し始めている19カ国のトレンドをなぞるなら、2025年には新車販売の4台に1台はEVになっているだろう。
なぜ5%が重要なのか?
テクノロジーの普及はー電気、テレビ、携帯電話、インターネット、LEDライトに至るまでーS字カーブのように普及していく。アーリーアダプターの時点では売上の増加はゆっくりで、そして主流派に受け入れられると急拡大していく(S字の上の横線は、最後までスマホを拒否してガラケー使う少数派である)
EVの場合は、5%がアーリーアダプターから主流派に需要が移る切り替え点である。アーリーアダプターのみの間は、売上の増加は不確かで微々たるものだ。主流派が求め出すと需要は急拡大していく。
世界中の国は同じようなパターンを辿ってEVが普及していくだろう。障害は多い:急速充電器は足りないし、車体は高いし、供給も足りない、顧客もEVについてよく知らない。しかし、5%のアーリーアダプターが道を切り拓けば、主流派はついていくのだ。
よって、これからのアメリカ自動車市場は、2021年に分水嶺を超えた韓国や、2018年に超えた中国、そして2013年に5%を超えて今では新車の9割がEVとなったノルウェーと、同じような普及期を迎えることになる。
https://www.bloomberg.com/news/articles/2022-07-09/us-electric-car-sales-reach-key-milestone
雑感です。
ふだん政治には興味を持たないスタンスで、理由は「本当のところはわからない」から。選挙権を得たときからずっとスタンスは同じで、ゆえに投票は「自分にとって都合いいこと言ってるかどうか」だけで決めている。俺は政治に興味がない一般大衆なので、それ以上のことは考えないと決めている。ゆえに政党がどうとかいうことにも興味はない。
事件の被害者に関しては特になんの感情もない。知り合いじゃないので。
ただ、今回の事件はさすがにでかすぎる。ふだん政治に興味を持たないと決めている俺でも、関連のニュースはかなり追ったし、ブコメも読んだりした。
まず事件の第一報を聞いて感じたのは「勘弁してくれ」という感情だ。この「勘弁してくれ」の中身には多少説明がいる。
まず、事件が象徴的すぎる。でかい。元国家元首が暗殺された。それも毀誉褒貶いろいろあるタイプの人がだ。そして大きな事件が起きたときには、かならず世のなかのなにかが変化する。特に今回の事件の被害者はネットにおける論争の争点になりやすい人だ。
俺は、人が大きく動くことがとても怖い。無数の人の感情が一体化して大きな拳になったときに、たいてい殴られる側に属してきた。今回も、きっとなにかの変化がある。どう変化するのかはわからない。俺の「勘弁してくれ」はこの不安と恐怖に由来している。
たいていの大きな事件の後って、変化はそのときすぐにわかるようなものではなく、たとえば20年後になって事件を振り返ったときに「あれ? あのときからじゃね? 変わったのって」というかたちで気づくようなものだと思う。今回、ふつうの人程度だとはいえ、ある程度は事件を追いかけているのは、その変化が自分にとって都合の悪いものではない、という確信を得たいからだと思う。もちろん原理的にそんなもんは得られないわけだが。
次に、速度感が速すぎる、と思った。
インターネットあるのであたりまえである。が、それにしたって速すぎる、ということをあらためて痛感した。
事件が起きたときにもっとも怖かったことのひとつに模倣犯がある。なので、ふだんはやらないツイッター検索で「模倣犯」で検索をかけてみた。そうすると、さまざまな意見がある。要するに、みんななんか言いたい。だから言ってる。それはそういうものだろう。システムとして「言える」ものが存在してるんだから。
ただ、それでもなお速すぎる。
死んだ人がそういう立場にあった人だから、といってしまえばそれまでだけど、その死は、すぐに意味づけられなければならないものなのだろうか。毀誉褒貶があるということは、評価が定まっていないということだ。定まっていないものを定まったもののように語ることは、これこそが政治性であり、俺がもっとも「政治」に関連して苦手とするものだ。もちろん知ればいい。知る努力をすればいい。しかし俺は政治というものに関してそこまでのコストを支払いたくない。ゆえに知らない。
ならば、その人の死について意味づけをしようとする人たちはなにを知っているのだろう。そこが疑問だ。知らない人たちの言葉が大量に舞っている。それらの言葉を発した人たちの背景を俺は知らない。言葉そのものから情報を得るしかない。けれど、だれもが自分の背景を詳しく説明できるほど文章を書くことに特化しているわけでもないし、そもそもこれだけ大量の人間の発言の背景すべてを知ることは物理的に不可能だ。そういう言葉が大量に流通していることそのものが怖い。
もちろん、そういうものだと納得はしている。可視化されているのが前提の時代だ。俺とてもその言葉を娯楽として消費していることは多々ある。けれど、怖い。多くの人が、自分の生活に密接に関係するわけではないことについて、大量の「判断」を下している状況そのものが怖い。
あと、暴力の否定や人の死に関する扱いについて、ちょっと疑問があった。
暴力はよくない。あたりまえである。殺されてもしかたない。そんなことはもちろんありえない。なぜなら、この世界はそうしたものを否定したうえに成立しているからだ。なので、暴力否定はあたりまえである。俺も殴られるのいやだし、殺されるのもいやだし。
でもまあ実際のところ、今回の事件を通じて多くの人が感じたのは暴力の有効性のほうだと思う。だからこそまず、事件に触れる人はその有効性を否定しなきゃだめなんだろう。ただ、有効性を全否定となると話はちょっと違ってくる。「なるほど、有効である。ならそれを有効でなくするにはどうするか」という話だと思うんだが、まあこれは触れるには時期が早すぎるということなのかもしれない。
それともうひとつ感じたのが「供述の力」みたいなものである。犯人が宗教云々という発言をしたことで、焦点がごっそりとそっちに向いている。これ、たとえば「政策が気に入らなかった」とかだと世論はまったく違う方向を向いていたに違いないし、今後も違う方向に進むだろう。犯人の供述、ドチャクソ強い。象徴性のある人物を殺したことによって得た発言権、めちゃくちゃ強い。過去に起きた自分が知ってる限りのいくつかの大事件でも、やっぱりなんらかの象徴性はあったと思うんだけど、犯人が単独、殺した相手が有名人で、しかも国家元首。象徴性のでかさ半端ない。供述の声、めっちゃでかくなる。メディアが大宣伝してくれる。
で、それはどうなの?と思う。ここのところはちょっとうまく言語化できない感じなんだけど、素朴に、殺人やった人になんでそんな影響力あんの、という疑問。かといって、なにもあきらかにされないのではよりよくないだろう、ということくらいはわかる。正解が見つからないんだけど、ヤケにさえなれればやったもん勝ちじゃん、みたいな感じがする。それは違う気がする。
で、いろいろ見てきて、今回の事件、もちろん歴史的大事件には違いないし、年表にも確実に載るだろうなと思うけど、その後のニュースの動きを見ている限り、そこまで根こそぎの変化が起こるものじゃないような気もしてる。
ちょっと前、どれくらい前からかはよくわかんないけど、なんとなくはてなを眺めてて「ああ、政治の季節ってこういうふうに始まるのかな」みたいな感想を持ってた。よく知らないけど安保闘争とか? 政治に興味を持たないこと、政治的思想性がないこと、そういうのがダサいとか無責任とか思われるような時代。まあ来るなら来るんだろう。俺には関係ないけど。
だれでもネット上でなんらかの発言はできる時代になったけど、かといってみんながみんななにかを言おうとしているわけでもない。特に声を上げることをしない人たちを駆り出して、ひとつの方向に動かすようなタイプの事件かな、というと、あんがい人は明日も明後日もふつうに生活してるんじゃないかなと思う。過去のいくつかの大事件と違って、すぐに自分に影響が及ぶようなものじゃないから。
ただし、俺はテレビを見れる環境を持ってない。こういうとき、テレビがその死をどう扱うかは、世論にバカでかい影響を与えそう。
今日、知り合いのじーさんからこの事件の話題を振られて、こんな地雷原みたいな話題に触れるのいやだったから「いやあ、テレビ持ってないんですよね」と答えたら「え? 持ってないの?」ってすごく驚かれた。「パソコンでたいてい間に合っちゃうんで」と答えたら「パソコンでテレビ見れるの?」って言われた。
考えてみれば、テレビが家にないということが相当に「おかしい」ことだった時代って過去に確かにあった。よほどの変人か、世捨て人か、まあそんなようなイメージ。それがいつのころだったかはよく覚えてないけど、この世にはまだテレビがすべての情報源の王様だと思ってる人が、わりとたくさんいる。その影響力は大きい。
別に結論はない。まとまってもいない。いま感じたことをとりあえず書いておかないと不安だからそうした。増田あってよかった。
俺はただ、明日も明後日も、人々が地に足をつけて日々の生活をし、半径何メートルかの人々を愛し生きていることだけを願う。だからこそ政治が重要なのだと言われれば、それもそうだろう。だれも政治には無関係ではいられないはずだ。けれど、ふつうに生活している人たちが党派性に乗っかって大騒ぎする必要があるのかと問われれば、疑問符をつける。言葉は、独り歩きする。それはよくも悪くもだ。言葉の上で言葉が乱舞し、雪だるまみたいに膨らんでいく。どこに立てばいい? だれが俺の安寧を保証してくれる?
当落ライン上と言われている赤松健の選挙活動が素人目にもヘタクソに見えて辛い。
氏はマンガ家であるから選挙活動についてのノウハウは乏しいだろうが、それにしてもひどいと感じてしまう。
既に関係のある同業者と連携して、なんとか偉い人を言いくるめれば良い訳だ。
しかし、選挙活動とは「対・誰とも分からない大勢の一般人」相手の活動だ。
たぶん、この差は決定的である。
筆者は大学でも政治系の講義は取っていなかったレベルのド素人であるが、政治とは綺麗事では済まない世界だろう、という想像くらいはできる。
清濁併せ呑む、とにかく損得勘定で考える、道理よりも利害関係の調整、胃の痛くなるような根回し、そういう世界なのだろう。
例えば、与党で大きな権力を握っている人間が、法に触れなきゃ何やってもオッケー、関係各所との利権で私腹を肥やす『大悪人』と世間から称されるような人物だったとする。
プライベートでは絶対に関わりたくないような相手、自分の中の道理と照らし合わせても唾したくなるような相手でも、ロビイングをするとなれば話は別だ。
なんとかこの偉い『大悪人』のご機嫌を取り、言いくるめ、時に何らかの利害関係を調節し、自身の主張に賛同してくれるように関係を築かねばならない。
無論、『大悪人』以外に働きかける方法もあるだろうが、活動可能な人手や政権への影響力を総合的に判断した時に「一番偉く、一番ヤベー人格の輩」に取り入るのが最善手という事もあろう。
さてロビー活動として『大悪人』と関係を結ぶことを、世間の人々はよく思わない事だろう。
政治は綺麗ごとではないと言っても出来ればクリーンな若手に力を伸ばして欲しい、そう思うのが人情だ。人間、わりと感情の獣である。
しかしロビー活動の内容は世間の人々にはあまり届かないし、届いた少数の人がその活動を非難しても、ロビー活動そのものには大した影響はないだろう。
何故ならロビー活動で一番大切なのは「偉い人との関係」だ。世間からの非難など、活動そのものに支障が出ない範囲でなければ、あまり問題にはならない。
同業者やオトモダチではなく、自分を知らない人、自分の意見と対立するかもしれない人に、いかに話を聞いてもらうか。
いかにして「ハジメマシテ」の人に良い印象を持ってもらうか、そしてなるべく敵を作らないようにするか――
ド素人なりに、そういう事が大事になってくるのではないか、と想像する。
マンガで例えるならば、既にいる自分のファン向けに描くのではダメなのだろう。
自分は世間の流行には媚びない、ウケ狙いなんてしない、自分の描きたいものを描いて、それに共感してくれる人がきっと居る筈だ! ではダメだ。
新規の読者を獲得し、或いはアンチを取り込み、世間の流行に乗っかり、商業的な成功を収める事に全振りしたマンガを描かねばならない。
まして赤松氏は今回が初出馬、政治の場に彼のファンは少なく(支持母体が無い)、ちょい売れ同人作家が商業に売り込もうとしている状態に等しい…と思う。
「行き過ぎたジェンダー論」その他、是非はともかく燃えそうな気配のある言動。
実績アピールとして、世間一般からの評判があまりよろしくなさそうな人物との関係を強調。
様々な言動に対する様々なツッコミを(勿論、中には揚げ足取りやただの茶化しもあるが)総スルー。
売り込みは既存のファン、或いは「自分と同じタイプのオタク」向けで、「タイプの違うオタク」の一部を敵に回すような言動も見られる。
選挙活動が本格化したから可視化されているだけかもしれないが、ツイッター上のアンチ赤松の増殖速度はマジでヤバい気がする。
ロビー活動時代は応援していた人が「ちょっと今回はダメだわ」みたいな感じで離れていく例も割と見た。
ツイートを見る度に「なんでまたそんな新たな敵を作りそうなことを…」と辛い気持ちになるばかりで、筆者自身そっとフォローを外した。
政治は綺麗ごとではないと思う。当選したとして、表現の自由を守る為には評判の悪い議員と付き合う必要も出てくるだろう。
そのワンイシューをどんな手を使っても貫くため、大衆ウケの悪い言動を取って党内のポジション取りをすることを強いられるかもしれない。
ポジション取りだの根回しだのの前に、世間一般の人々の人気取りをしなければいけない状態の筈だ。
だというのに、赤松氏は今日も既存ファン以外の好感度を下げアンチに悪評の口実を与えそうな「身内向けアピール」を繰り返している。
それでも筆者は赤松氏に投票する、たぶんする、たぶんきっとおそらくする。
その一票が無駄にならない事を、切実に願ってならない。