はてなキーワード: 一般大衆とは
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより
以前このようなエントリを投稿したのだが、このエントリの文脈を前提にColabo騒動を考えるのであれば「自由を得るため皆で関わろう」という考え方になる。
ボクのような性質を持った人間は情報がオープンであることが望ましいと考えるし、その観点から言えばColaboは保護している女性に危害が及ばないよう慎重になりながら情報を可能な限りオープンとし、我々市民は自治体や団体と連携しつつオープンな情報を活用してデバッグ(検証)とリファクタリング(最適化)を行えるような体制を築いたほうが良い。
そのようなものは理想論だと言いたくなる人も居るだろうが、我々は理想を実現するためにFLOSSやGNUを標榜しているのでは無かったか?
理想論、それは褒め言葉だろう感謝する。
GNUはそもそも、製品を無償で提供しサポート業務を有償で請け負うと言ったビジネスモデルが提唱されている。
そのような中で発展したGNU/Linuxはプロプライエタリの代表格であったMicrosoftがWindowsのサブシステムとしてGNU/Linuxを取り込むといった成果が近年見られるし、より一般大衆目線で事例を挙げるのであればAndroidスマートフォンはGNU/Linuxベースだ。
FLOSSやGNUの事例を参照し、女性の保護は無償で請け負いつつも生活のサポートは有償で行うというような、無償を支えるための有償ビジネスモデルとして様々な無償-有償パターンを洗い出し・議論し・試験し・実現していくことこそ、女性が、そして我々が自由を得るために必要な行動なのではないかと皆さんへ問いたい。
ボクは以前のエントリで語ったように思想には詳しくない。
しかしボクがよく知るハッカー文化は、万人が自由にアクセスできる環境や道具や制度を揃え、万人が自由にそれらを選択し活用し好きなものを好きなように好きなだけ生産できる社会を是とする。
様々な事情により不自由であった女性が保護された先で、自由に使うことが可能な選択できる環境や道具や制度が社会にあることを知り、好きなものを好きなように好きなだけ生産できるようになることは素晴らしいことじゃないか。
更にその生産するまでの過程がオープンであるのならば、それを見て憧れ、1人2人と自由に至る女性が増えていくことへ繋がる。
「失敗したらどうするのか?」と言いたくなるだろう。
そんな意見への返答は「動かせばバグ出る!ボクたちはそれをよく知っている!」だ。
バグを恐れるな先ずは動かせ!壊れたら、落ちたら、問題が見つかったら検証し取り除こう!
それがボクたちのやり方だし、だからこそ検証可能性は担保しておかなければならない。だからこそブラックボックスではいけない。
Colaboだけでなく全ての団体へ言おう!
自由でオープンな社会を目指そう!自由でオープンな団体となろう!
ボクはそうなれるようこれからもColaboだけでなく全ての団体を応援し、FLOSS活動を通してColaboだけでなく全ての団体へ貢献していく!
萌え萌えな絵が一般大衆から見えるところにあるとそれを見てブヒブヒ喜ぶオタクの顔が透けて見えてキモい。せやな。
ところでオタク等を見てキモいとか生理的に受け付けないとか感じるのは、オタクが美少女を見て興奮する性欲と対比させて「負の性欲」と呼ぶ。
正の性欲も負の性欲も、脳内に留めてるうちは誰にも処罰のしようはないんだけど、公共の場で「うっひょ〜〜○○ちゃんペロペロ!!おっぱい堪らん!この太ももで中学生は無理でしょ!!」とか性欲を発露してる様子は通報やむ無しだろう。
同様にして負の性欲を発露して「乳袋許せんギャオオオーン!!スカートのシワ!!赤らめた顔ギャオオーン!!」と喚く様子も同程度の扱いをされないとジェンダー平等と言えないのではなかろうか?方向が違うだけで絶対値としては大差なかろう。
グランプリが決まった直後も素直に喜び合いたいのをグッと我慢して普段から自分が言ってることと矛盾しないように自制してる不器用な井口なんだよ!
「おいお前それ本気で言ってるのか?」「本当に仲が悪かったら14年も売れねえ漫才師一緒にしてるわけがねえだろ」「「うへへへへ」」をネタ中に直接やらないだけ2008年準優勝のヤツらより進化してるんだよ!
浩之にしたって、メディアでは2人のイチャイチャ感を出したほうが世間の好感度がアップするってのは重々分かっているからこそ逆にそれができないある意味純粋さが服着てるようなヤツなんだよ!
勘違いされるような仕組みだからこそ気をつけないといかんのだがな。
これは仕組みが悪いという意味ではない。
そもそも司法システムだけに限らず、行政も立法も一般人からすると馴染みがないことは勘違いはするもの。
依頼人の利益にならないような勘違いされるような仕組みを使ったらダメ。
それを使わないと依頼人の利益にならないならイメージが悪くても積極的にやるのは当然。
しかし、懲戒請求からの流用をしなくても他にできる方法があるのにわざわざやるなんて愚かすぎる。
どんなに合法で問題ないと一般人を諭してもズルい連中だなと思われるだけ。
男性が女性を言いくるめる構図のような印象をバラ撒くようなもの。
名誉を回復する訴訟で暇空に勝つために、一般大衆からは小狡い連中だというイメージをひたすら広げていくって間抜けすぎる。
違法性はないけど自分ならやりたくないなとか言っとけば印象も変わるのにね。
相手の正論の部分である会計処理の間違いだろうと思われることには不誠実に対応して、自分たちの正論の部分である合法性や手続きの正当性だけは強調する。
こういう頭の悪いコミュニケーションを世間に向けて、女性支援業界に社会的利益があるのか甚だ疑問。
一人一人の人生とか正しい側だと思い込むとか侮蔑とかの気分的な正しさ(?)とかいう概念のことを、一般大衆的正しさって呼んでるんだけどわかる?
もともと現代日本人はほとんどが正義や正しさについて教育を受けていないので、ほとんどの人は当然のごとく正しさや正義を知らないという話
現代日本人はほとんどが義務教育でバイオリンを学ばないので日本人のほとんどはバイオリンを弾けないとかそういう感じの話でしかねえ
正しさは学者や実務家が丁寧に議論を重ねて修正を繰り返して作り上げていくもので、自分を守るとか盾とか侮蔑とか思い込みとかの入り込む余地はないの
そんな単純で人をさげすむような変な概念じゃないの
君の言ってるタイプの正しさは動物園的な一般大衆的正しさで、殆どが元をたどれば明治のスローガンだの幕府のおふれだの太古のローマ法の一部が慣用句とかことわざになって周辺知識が抜け落ちたナンチャッテだとか、法の一部の聞きかじりのおさがりだって言ってるの
はいこれ
https://twitter.com/mogura2001/status/1598090973686697999
暇空茜氏の勝利条件って、裁判で勝つことではないからね。向こうは李舜臣戦法で、局地戦の勝利を勝った勝ったと喧伝するだろうけれど。
・焼いても社会的影響がなくなる
どっちかが達成できれば勝利。
https://twitter.com/mogura2001/status/1598090973686697999
・焼いても社会的影響がなくなる
どっちかが達成できれば勝利。
https://twitter.com/mogura2001/status/1598090976148754432
裁判で負けても暇空茜氏は瑕疵にならないが、Colaboと仁藤代表は、以下のどれかに複数抵触したら厳しそう。
・都条例
イーロン・マスク氏の Twitter 買収は Twitter の終わりの始まり、とか言う意見を見聞きする様になったんだが、
個人的に Twitter はこのまま消滅した方が社会的に良いと思ってるので、その点について書こうと思う。
※ 追記: スマホで読み返したら読みづらかったし、文章が雑だと感じたので全面的に改稿しています
ちなみに三行しか読みたくない人に向けて話をまとめておくとこうなる:
あと最期のおまけの話は Twitter の代わりはない。諦めろ と言うのが俺の考えです。
まず第一に今の Twitter が無い方が良いと思う理由がこれ。
直近で思い出すと木村花さんの事件が代表的だが、今の Twitter での炎上は一般大衆が DM やリプライ、
リツイートで 誰でも簡単に 他人に悪意をぶつけられる様になっている。
つまり誰でも手軽に集団で精神的暴力を見ず知らずの相手に振えるようになってる。
そしてこの文脈で言うと、10年以上前の昔は炎上の舞台がブログのコメント欄とか 2ch だったため、
炎上させるには自分から相手の領域へ殴り込んでコメントを残さない限り暴言を吐けなかった。
しかもコメント欄も当事者が閉じれたから、そうなったらそれこそ 2ch でギャーギャーと騒ぐぐらいしかできなかった。
まず炎上の現場が自分の領域(自分が管理するブログ)から他人の領域(この場合 Twitter)に変わった。
その上、誰が見ても酷い暴言を吐いた連中の IP とか分からなくなったし(とは言え自前ブログだと今でも大体 IP は分かる)、
Twitter は一度ひどく炎上すると二度と社会復帰できない惨事の現場になった。
と言うのも Twitter でパブリックエネミーとして炎上すると、顔が割れて本名バレしたら就職や進学に影響が出るのが常になったし、
パブリックエネミーではない理不尽な炎上でも、 Twitter が他の SNS での関連付けされていたらすべての SNS から丸ごと退場、と言う結果になる。
つまり一度追い込まれたら SNS に復帰できないどころか、現実社会でも人を追い込める構造になってしまった。
んでさらに性質の悪いことに、一度 鍵垢とかアカ消しなどで Twitter から逃げだしたとしても炎上案件を面白半分で拡散するアルファ垢とかが普通にいるし、
そう言うクソアルファのツイートを対した思慮もなく拡散するバカがアホみたいに居たりするんだよな。
そしてそう言う連中がいるから、一度炎上で火が付くと余程燃やした側に非が無いと炎上は止まらなくなったし、
その結果として、Twitter は人を追い込んで自死(自殺)へと仕向ける事が出来るプラットフォームになった。
つまり昔の放牧的で日本語すら通らなかった Twitter は気がついたら無くなってて、人を死に追い遣ることも出来る惨状の SNS になった。
なんで俺は死人が出る、と言う理由で今の Twitter は無くした方が良いと思ってる。
次の理由がこれ。
直近のニュースで、複合的な理由が要因となって「いいね(like)」だけで民事の名誉毀損が認められた、
いわゆる「いいね罪」が発生する様になった、と言う事が表現の自由戦士界隈で話題になってたみたいだが、
俺はこれを当然の結果だと思ってる。
と言うより、さっきも木村花さんの事件に言及した様に Twitter で死人や人生を破壊される人が出れば出るほど、
司法や国家権力は「個人を守る」ために、特定の言論へ一定の圧を掛ける判決や規制を出さざるを得なくなる。
なんでかって言えば SNS で死人や被害者が出ている現状を放置する社会、なんて被害者の側からしてみればたまったもんじゃないし、
そう言う社会悪の放置は、往々にして政治の現場へ一定の圧になってくる。んで、この政治側に掛けられる圧が「大義」に化ける。
そしてそう言う「大義」が大手を振って歩ける様になった結果、侮辱罪は厳罰化されたし、それでも SNS で個人への精神的暴力が止まらず、
より酷い状況を生み出すんであれば、たぶん名誉毀損罪とかも厳罰化されるだろう、と俺は思ってる。
んでそう言う「大義」にかこつけて「言論の自由」を規制したい連中は暗躍するわけで、今の惨事が罷り通る Twitter は既に言論の自由の敵になった、と俺は考えている。
そしてこの手の話が最終的に極まって行けば、極論だけど Twitter みたいな SNS は規制省疔直轄の許可制とかになりかねないでねーの、と俺個人は思ってます。
これはまあオマケみたいは話ではあるんだけど、Twitter も含め 、例えば Facebook とか Instagram 、
YouTube とか TikTok とかなんでもそうだが、国外の SNS は前提として 日本国における言論の自由は無い。
と言うのもこれらの SNS はすべて諸外国の法律下に既にあって、その上で日本の規制とかが入ってるから、
他国の規制と自国の規制、その両方の法規制の元に置かれている。
で、これの何が都合の悪いか、と言うと、例えば日本の法律では許されている言論であっても、
サービス提供を行なう本社がある国では違法となる言論があった場合、日本に居ながらにして他国の法律が適用される、とかそう言う事になる。
なんで例えばアメリカでクソったれな言論規制法が出来上がって施行されたとすると、
その法に対し違憲判決が出ない限り Twitter などのアメリカ系 SNS は、日本を含めどの国に対してもそのクソったれな規制下に置かれてしまう。
なのでそう言った意味で、そもそもとしてアメリカ企業が運営する Twitter には日本の言論の自由はない。
そしてさらに性質の悪いことに、Twitter 社はトランプ大統領が現役だった時、トランプ大統領が無茶苦茶を言い出したことに対して、
マニュアル運用でトランプ大統領を黙らせようとし、最終的にトランプ大統領が退任した後、アカウントを凍結して Twitter からトランプ元大統領を叩き出した。
んで、自国の要人、しかも大統領にさえ(抵抗権として)牙を向いた Twitter 社が、他国の要人が似たような事をしだした時、
同じ様な行動を取らない、なんて保障はあると思うか?思う思わないは個人の意見に相異はあるだろうが、俺としてはそうは思わない。
つまり Twitter と言う会社は、自社や自国にとって都合の悪い意見 を政府要人が言い出した場合に相手を黙らせた前科があり、
そう言った意味で日本の政府要人、あるいは公共機関の Twitter アカウントが凍結されない、なんて保障は俺は無いと思ってる。
なのでそう言った意味で俺は今の Twitter を信用・信頼すべきではないと思うし、イーロン・マスク氏の暴走がどう影響するか分からんが、
自体がより悪化する方向へ傾くのであれば、俺は Twitter にご退場を願った方が良いと考えてます。
そう言った理由で俺は Twitter と言うサービスは、ある面では無くなった方が良いんじゃないかと思ってるんだが、
では Twitter の代わりになるサービスはあるか?と聞かれたら、それはたぶん無い。諦めろ、と言うのが俺の結論。
と言うか第二・第三の Twitter もどきが出てきたところで、 Twitter の二の舞になるからそもそもそんなサービスは存在すべきではない、と思ってる。
あと Twitter の代用、と言う文脈でマストドンなどの連合系インスタンス群(Fediverse)が代用候補に上げられるが、
マストドンや misskey 、Pleroma なんかでも同じで、連合系インスタンスであっても、規模がデカくなればなるほどTwitter と同じ末路を辿るだろう、と考えてる。
と言うか連合系インスタンスが比較的平和なのは、ユーザー数が少なく良識のある面々が多数派だからであって、
そうではないクソみたいな連中が雪崩れ込んできたら、あっと言う間に Twitter の様な荒廃した世界になるのがオチとしか俺は思えない。
しかもマストドンとかは技術的な面倒を見れるのであれば誰でもインスタンス立てられるから、
誹謗中傷や暴言、陰謀論、排外主義や差別主義、と言った最悪な言動に特化したインスタンス「も」立てられると言う面もあったりする。
とは言えそう言った最悪系のインスタンスは他のインスタンスの連合から弾き出せるし、
Pawoo みたいに海外の法律的に連合を組めない(主にえっちなイラストが原因)もあるから、これが一概に悪いとは思わない。
が、ユーザーが増えれば増えるほど SNS 系のサービスは治安が悪くなるから、俺としては大規模な Twitter もどきを増やす利点を見出せない。
なんで俺個人としては、連合系インスタンスは行儀の良い面々だけで運用されるインスタンスでもない限り治安は最悪になるだろうし、
Twitter で誰とでも暴言吐いて論戦出来る場なんて用意すべきではないと考えてる。
そのためこの節の最初の方でも言ったけど Twitter の代わりは無いし用意すべきでもない。素直に諦めろ、
と言うのが俺の結論です。なので誰にとっても救いはない。
https://anond.hatelabo.jp/20221023213723
ブクマだとリアリティがどうのって語られているけれど、この漫画の感想として出てくるのは「リアル」であって「リアリティ」ではないと思うんだよなあ
リアリティというのは、一般大衆を納得させられる如何にも本当にありそうな描写が出来ているかという問題であって現実に本当にあるかどうかとはまた別の定義
例えば山上徹也の人生と同じ内容を完全なフィクションとして描いたら絶対に「リアリティがない」と評されるだろう
そのくらい、絵空事としか思えないような人生を送っている人間は実際にいるし
それを創作物に落とし込んだ場合に相応しい言葉は「リアリティ」ではなくて「リアル」なんだよなあ
この漫画も、こういう女性「も」現実にいるとは確かに言えても、一般大多数の大衆にリアリティを感じさせるかというと必ずしもそうではないだろう
答 「檄」は自分の信念などを書き記して,広く人々に知らせる文書のこと。「檄を飛ばす」は「自分の主張や考えを広く人々に知らせて,同意を求める。」という意味の言葉です。
げき【檄】 [1]古代中国で,召集または説諭のための文書。木札を用いたという。めしぶみ。さとしぶみ。[2]相手の悪い点をあばき,自分のすぐれている点を述べて,世人に同意を求める文書。現代では特に,一般大衆に自分の主張や考えを強く訴える文章。檄文。ふれぶみ。
げき【檄】 自分の主張を述べて同意を求め,行動への決起を促す文書。檄文。
元々「檄」は木札などに書かれた「文書」でした。自分の主張や考え方を述べて,広く同意を求める文書という意味も持っています。この意味を踏まえた上で,「檄を飛ばす」という成句の意味を確認しましょう。
・「日本国語大辞典」
げきを飛ばす 人々を急いで呼び集める。また,自分の主張や考えを,広く人々に知らせて同意を求める。飛檄。また,誤って,がんばるよう激励するように用いられることもある。
・「大辞林」
檄を飛ば・す 檄を方々に急いで出し,決起を促す。〔現代では「激を飛ばす」などと書き,激励したり発奮させたりする意に用いられるが,本来は誤り〕
https://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2011_09/series_08/series_08.html
一般大衆にとっても時給が増えるなんて嬉しい話だろうがよ