はてなキーワード: メモ帳とは
メモ帳アプリの片隅で、四年前の下書きを発見した。せっかくだから供養のつもりでここに書き留めてみることにする。
ちなみに今ではこの状態が当たり前になったようで、過敏な反応はなくなった。しかし音楽に対する興味が大幅に減じたことは変わりがないように思う。そして何とも奇妙なことに、この文章を自分で書いた記憶がほとんどない。自己紹介が一致しているので、確かに自分が書いたのだろうが、それでもまるで他人が書いたかのような気持ち悪さが残る。思い返せば、記憶の健全性が感受性に影響を与えた結果なのだろうと思う。四十歳そこそこの年齢でここまで記憶が薄れるものなのかと、ただただ加齢を呪うばかりだ。
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数日前から、音楽に対する感受性が急激に変わってしまい、困惑している。
この変化をどう捉えるべきか自分でも分からないまま、こうして文章にしてみた。
まずは自分のことについて。30代後半、職業はIT系のエンジニアでほとんど在宅勤務をしている。趣味は映画やゲーム、そして音楽。いたって普通の生活を送っている。音楽に関して言えば、2歳から15歳までピアノを習っていたが、パソコンに夢中になってからは興味を失い、それ以降は真剣にピアノと向かい合うことはなくなってしまった。それでも音楽を聴くのは好きで、日常的にストリーミングで何かしらの音楽を流している。昔はCDを買っていたが、最近は好みのジャンルのMixやラジオを流すことが多くなった。
大抵の場合、それはドラマの挿入歌やお気に入りの曲、直前に聴いたものや何度も聴いたものだろう。自分もそうであり、特に違和感を感じたことはなかった。だが、ここ数日、全く異なる現象に見舞われている。
「覚えのない曲が流れ始め、懐かしさを感じる」のだ。
矛盾しているようだが言葉通りの意味だ。「覚えのない」というのは、音程やリズム、発音がぼんやりとわかる程度で、鼻歌を歌えるかどうかも怪しいレベルと思ってほしい。それでも、その鼻歌に対して「ああ、この感じ、昔に何度か聴いたことがあるような気がする」「何かのコンピレーションに入っていたかも?」という哀愁を伴う感傷的な心情が湧き上がる、なんとも奇妙な状態なのだ。
そして、とにかく次から次へとうるさくて仕方がないのだ。
あまりにうるさいのでいつものようにYouTubeで適当な音楽を流し始めたのだが、ここでも困ったことが起きた。
「初めて聴いたはずの曲に、懐かしさを感じる」のだ。
参考までにその時のURLを貼っておく
https://www.mixcloud.com/catalin-iovu/best-of-trip-hop-downtempo-hip-hop-instrumental-vol-2/
ほとんどすべての曲に対して、さっきの頭の中に現れる鼻歌と同じような感情が湧き上がるのだ。懐かしい(ような気がする)曲が続くので、自分の持っていたCDを丸ごとサンプリングしているのではないかと詳しく調べたりしたが、どうやらどんな曲に対しても起こっていることがわかった。
この出来事を境にして、音楽への向き合い方が激変してしまった。
自分は音楽ジャンルという枠のなかで創造される、音作りの多様さや新規性、奇妙さを楽しんでいた。それらがすべて「懐かしい」という感情に塗り潰されてしまい、素直に楽しめなくなってしまったのだ。
もしかするとこれは、加齢による感受性の変化で、誰にでも起こり得ることなのかもしれない。音楽への思い入れが強かった分、強い違和感を感じただけで、心配するようなことではないかもしれない。
とはいえ、できることなら元の感受性に戻りたいし、その方法が知りたいと思っている。
もし同じような経験をした方がいたら、話を聞かせてほしい。
私はお寿司が食べられない(生魚が苦手)なので、カウンター席の飲食店に行く機会がなく
注文方法で躓いた。
飲食店にはいり、席につくと目の前の大将から「先に飲み物おきまりでしたら伺います」と声をかけられ
友人「レモンサワーと…?」
ここまでは普通の対面で座る居酒屋と何ら変わりはなかったがここからが問題。
ドリンクを注文したのでフードを選んでいると友人はそもそも予算があったようで
友人の頼みたい単品の品を金額と共にスマホのメモ帳にそそくさと記載して
きまった??と私に聞くが決まってないが簡単なものだけにしようと決まったよ!と答えると
「すみません〜、〇〇と✗✗、□□、△△。以上で!」といったのである。
友人の思いがけないタイミングでの「以上で!」に狼狽えてしまい、
あれ、私の注文は・・・?と言い出せぬまま友人のマシンガントークがが始まってしまい
私が食べたかったものを注文できたのはかなり後になってしまった。
普通の飲食店であれば、お互い決まった旨を共有し、ベルなり手を挙げるなりし
一度にすべての品を注文するはずが、カウンターの席となるとそれぞれ個別で頼むものなのだろうか?
予算があり、伝票を別にしたいのかとも思ったが結局伝票は二人合わせたもので
多く注文していた友人の分まで割り勘になり私が損している状況になった。
この友人とは普段のファミレスなどでは一緒のタイミングで注文をし、
それぞれ食べたものをそれぞれ個別会計やどちらかに自分の分を渡し、会計をするのだが
その後2度ほどカウンターの席で食事をしたがやはり私の注文をする前に以上で!と言われてしまう。
これは私がしらないだけでそういうカウンター席ならではの作法があるのか・・・?
そもそも私の注文も気にしないし、多く支払ってるのも気づかない雑に扱われているのはひしひしと伝わるが。。。
酸味が合って合わない
酸味がなく濃いが、濃過ぎる感じ。ブラックはきつい。ミルクを入れると飲める。無印良品のダークと比べると味が落ちる。無印のダークを買った方がいい
濃い目で苦くて美味しい。Amazonで購入
苦味とやや酸味。ブラックでも飲めるし美味しい。酸味がなければと思う
濃くて苦くて酸味はなし。美味しいが、酸味が少しあってもいいかも。スッキリ感はない。冬に豆を削ると粉が残りがち(冬だけ)。味は美味しい。
ホットで飲んだけど、濃くて苦くて美味しい。ブラックで飲める。カフェラテにしても美味しい。ミルで砕くとくっついて取れにくいのが難点(冬だけ)
ホットで飲んだ。ブラックでもカフェラテでも美味しい。たしかにミルクと合う。おすすめ
美味しいけど苦味が少なめで酸味がある。買わなくていいかな
まあなんとなく言いたい事はわかる
わかるっていうのは「あなたの思っている気持ちを理解できていて、それを会話で証明できる」ではないからね
一応、合わせて同じ方向で会話ができるとこちらが判断したという意思表明を「わかる」という単語でしていることを伝えておかないと
勘違いして「自分を複製を作って行動予測ができるってことなのか?それとも上辺だけの形だけの懐柔するためだけの添え物のうすっぺらい言葉なのか?」って
柄のついた何でもいい、とかそういうのと比較するべくもない全然別物なので思い出の切れ端みたいなメモリーとして、記念碑的なものとして入れたり
コスプレの一環とまでは言わないけどなにかとつながっている感じを思い出すマークとして入れるっていうのは、あるとおもう
それは自傷行為も同じ面があって、全部が完全に同じだから代替ができるってわけではもちろんないし、選択肢の候補として二つが同時にあがってくるわけでもないけど
それを言い出せばコスプレもメイクも柄もののTシャツも同じだろうけど、自傷行為には近い状態で得られる感覚が別のところでも一致してるという点でわりと似てると思う
裸になったときについてるそれっていう事が、その思い出を振り返るときに使える場所や雰囲気、状況みたいなものが似てると思う
自傷行為って、もちろん全部じゃないけど一部として、自分の体が無痛な時間それはそこにあるのかって不安になるみたいなものもある、もちろんそうじゃないものもある
その傷をつけるのが所有者としての印をつける安心感みたいなものじゃないって場合もあるわけで、その痛みを感じたという感覚の持ち主が自分である事に安心して、またその傷をあらためて見ることで
自分の体がそこにあったと確認したなあと、過去の自分との連続性を感じて安心感をえようとしたりするんだ
もちろんそうじゃない場合もあるし、タトゥーだって全部が一致しているのは「皮膚にプリントする」以外は全部が違っていて同じ理由や同じものは一つとしてないことは前提にしていてほしい
男性は物を貰って喜ぶとか記念品に物を贈って残す、それに実用的価値があることが多くあるし、もちろんそうじゃない男性も多数いることは承知だけど、ここで話題にしたい方向性として男性は物がプレゼントとして嬉しい
女性は花でその場が和んだとか言葉をかけたとか、体に受ける刺激の記憶なんかで思い出として記念を時点で残すことが多く、物の価値は変動するわけだからとくに拘りがないという方向性も多くある
そういう感じで記念を記憶するか記録するか、物として所持するかの一つだろうから、表現として一時的なメイクとか服装で代用するというのとは、方向性として違うと思うんだよね
自分の体をメモ帳にするという意味で、それをメモる意味というのが日本ではまだ有用性が、というか今後もその有用性を持ってくる意義がないと思うのでそんな文化が出てくるとは思えないけど
メモを記載するという事は社会的にどう扱うか、どう扱われたいかという表明になると思うんだわ
入れ墨の意図や方向性の主体が入れた本人個人ではなくて、社会的にその入れた、入れているという事についての意味や意義になるから一般的に「悪い・ダメなこと」のマークとして使われていて
そういう判断で見られるというのが現状だと思うし、実際それをそれ以外の方向に使う必要性がまったくないから今後もかわっていかないと思うんだよね
バーコードで実際に活用されるとか、入れている模様の種類とか色で何に属しているか表現できるとか、自分がなにものなのか、っていうのは移民とか入植者とかで人種や地域がわからなくなり
仲間の見つけ方とか見分け方もわからなくて、それを知る時間のうちに命がつきてしまう状況とかでないと活用できないと思う
それが日本にはないんだよね
どこに属するも何を信じるのも自由で、それを人に押し付けられたり押しのけられたりしないからしたければしたらいいじゃんで終わるので自分を入場券やメモ帳替わりにする必要がない
だけど核家族ももう一世紀ちかく続いてベビーブームも人口的ピークに終焉を迎えて各個人がそんなに人生の選択肢を自由に選べなくなって属するため条件とか、自分の記録や経緯をどこにも残せなくなっていくと
それなりに意味とか意義とかでてくるかもしれないと思う
生産性が全ブラウザの中で一番低いにも関わらずなぜか使用率が高いので、生活残業を稼ぎたい人に大変オススメのブラウザです。
Windowsに最初から入っているEdgeは基本的にChromeの全ての機能が使える上に、
縦タブやOfficeファイルのプレビュー、Copilot、広告ブロックなど業務を効率化させる余計な機能がついているので禁止です。
生活残業をしたい生産性の低い社会人の合言葉は「EdgeはChromeダウンローダー」!
もちろんVimキーバインドでブラウジングができる拡張機能、Surfingkeysなんて入れたら生産性が爆上がりしてしまうので、
リンクはマウスでポチポチとクリックし、ページスクロールはマウスホイールを使いましょう。
Ctrl+TやCtrl+L、Ctrl+Wなどのショートカットも覚える必要がありません。
生活残業のためにタブを開くのも閉じるのもマウスを使うべきです。
こちらもマウスと矢印キーを使うことを前提にした非常に生産性の低いエディタであるにも関わらず使用率が高く、
と言う気の狂った操作方法しかなく、後者の場合『Shiftがすっぽ抜けるとやり直し』と言う絶望的な生産性の低さで非常におすすめ。
カーソル移動と言う一番頻出する操作方法がメモ帳と変わらないので、結局多少補完が強力だろうとVSCodeの基本的な生産性はメモ帳と同じです。
素晴らしい!生活残業にピッタリ!
VimやEmacsなどのエディタはもちろん、これらのキーバインドを使えるようにする拡張機能も絶対に使うべきではありません。
VSCodeで使えるGit系の拡張機能もバカみたいにマウスをポチポチして操作する必要があるので、
ヘタするとそのままGitコマンドを打つよりも遅そうで最高です。
間違ってもtigやEmacsのMagitなどの高速Git操作インターフェースを使ってはいけません。
わざわざGUIで操作するSourcetreeを入れるのもアリですね。
ExcelでもSpreadsheetでも全てのセルにその場限りの計算式を入れましょう。
昭和の古い雑誌の巻末のほうには、しばしばペンフレンドコーナーというのがあった。
ひょうんなきっかけで、クラッシャージョウを特集していた80年代前半のアニメージュをふと手に取ったことがある。あれはたしか震災前の石巻市内の旅館だ。
ペンフレンドコーナーでアニメ愛を語り、連絡くださいと住所連絡先を書いていたあの頃の若者も、今はおじいさんおばあさんなんだろうな。
とにかくお手紙を書く時代だった。日ペンの美子ちゃんの黄金時代だ。
話はかわって学生の頃の話。
「あの、どこの山に登ってきたんですか」
1泊2日、残雪の単独登山の帰りだった。ほどなくして列車は富良野へと向かった。
「へえ、富良野って登山できるんですね。私、今富良野に住んでるんだけど、ほとんど町から出たことがなくて。今日、初めて列車で富良野から出てみたの」
聞いてみると出身は博多だという。看護学校に通うために、春に、富良野までやってきて寮にいるけれど、まだ友達がいないんだと寂しそうにいった。
「繁華街?、ああ中州ね」と彼女は笑った。鼻に寄ったしわの可愛さにすっかりやられてしまった。
富良野までの30分、音楽の話や地元の話、いろいろなことをお互いに話した。
やがて富良野が近づくとき、彼女は急いでメモ帳の切れ端に住所を書いてくれた。
今まさに一組のカップルが誕生しようとしている瞬間、周囲の乗客のくすくす笑いを今でも忘れられない。
俺の下宿の電話は(呼)だった。大家の部屋で親機で電話をとって、子機の部屋を呼び出す、という意味。
「え、なんで。すごく優しいおじいさんだよ」
「わたし、間違えて、呼び出しだって思わないで、もしもし、昭和くん?ってかけちゃったの。
そしたら大家さんがね、”ここは昭和さんのお宅ではありません。昭和さんが住んでいるアパートです!”っていってガチャって切られちゃったの。何も切ることないじゃない」
「ああ、それはきっと最近、大家さんとこに、そういう電話が多かったからイライラしていたんだと思うよ」
「もしもし、札幌商事の・・という者ですが、技術部の昭和さん、いらっしゃいますか。お見積りの件でお電話差し上げております」
昭和さん、札幌商事様からお電話です~、と取りついてもらったところ、
「はい、昭和ですが。いつもお世話になっており、、あ・・・小声で(おい会社にかけるなってあれほどいっただろ!)」
「はい、見積の件ですね、承知しております。20(時)部に変更ですね、例の物件(お店)ですよね。引き続きよろしくお願いいたします。」
などといって、彼女と待ち合わせをしたりした。
「昭和さん、お疲れ様、うふふ」といって電話を取り次いだ子が背中をポンと叩いて通り過ぎた。
待ち合わせをするだけのことで、このもどかしさ、このスリル。
ポケベルが登場するのはそれから平成に入ってしばらくのことだった。
こと、通信事情においては、昭和のエモさは半端ないものがある。
なのでおっさんたちが懐かしむのはよくわかる。
交通事情で書いたタバコの匂いはとてもひどい時代だったけれど、こんなふうに人と人がつながっていけた社会はもう二度と来ないだろう。
4月も終わりだが、
未だにエンジニアに微妙な性能のPCを使わせる会社があることに驚きだった
メモリは16GBや8GB
ちょっとした操作のたびに待ち時間が入るだけでどれだけ効率が悪いと思ってるのか
いつまでも古い開発環境しか使ってない人は困ってないらしいが、なぜそれに合わせる必要があるのか
そりゃIDEレベルのものを使わずほぼメモ帳レベルのでコードを書いてれば性能はいらないし、
分解すれば保証なくなるのでは?
BTOで最初からカスタマイズすればいいのに、なぜ出来合いの安いPCを買って交換が必要なのか
そりゃちょっと安いのだろうが交換する作業にかかる時間の時給計算もできないのか
デジタル化したせいで余計な作業が増えているという記事を読んだ。
https://blog.tinect.jp/?p=86085
自分は80年代生まれのオッサンで記事の著者よりも年配なのだが、これっぽっちも共感できなかった。と言うのも社会のデジタル化が進んだ時代でなければ、まともな生活を送れていなかったであろうと断言出来るくらいデジタル技術に助けられているからだ。
子供の頃より発達障害の気があったのか、とにかく紙を使った事務作業的なことができなかった。手書きの文字が汚すぎて第三者が読めない、学校で配布されるプリント類はまともに整理できないわ、授業の板書はただの走り書きになって見返しても意味不明になるわと、とにかく書類が扱えなかった。手帳を買ってもまともに記録できなくて予定管理もダメダメだった。
そんなわけで、高校までの授業態度を加味した学校の成績は壊滅的だったが、勉強自体はそこそこできたので大学進学はできた。大学生になると授業のレポート作成にPCを使えるようになって生活が一変した。壊滅的だと思っていた事務能力が、PCのおかげで飛躍的に向上したのだ。
まず、まともに資料が作れるようになった。手書きのノートと違って、誰でも美しい文字がかけて何度でも修正が効く。メモ帳でテキスト形式の文章を作っておけば、後から内容を検索して見返すことができる。PCのおかげで高校生まで苦手意識のあった資料作成が得意分野に変わったのだ。
次にデータ管理。PCの検索機能やソート機能には本当に助けられた。ファイル整理を一切しなくても、全文検索や拡張子別に並べて日付ソートすれば目当ての資料が見つかるというのは最高すぎた。紙だとそうはいかないので大変だった。
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数ヶ月後に別の書類が必要になった時、前回の捜索でひっくり返したせいで資料がぐちゃぐちゃになって見つからずさらにひっくり返して探しまくる
↓
その次、別の書類が必要となった時にはさらに棚が混沌としておりもはや発見困難…
というような悪循環を繰り返していたので、デジタル化によってようやくまともに資料管理ができるようになったのだ。
就職活動のときもデジタル化に助けられた。そもそも手帳が使えない人だったので、PCからでも携帯からでも入力できるGoogleカレンダーがなければスケジュール管理が不可能だった。履歴書だって、手書きで作ると字が汚すぎて門前払い喰らっていたかもしれない。
学生の時点でこうなので、就職してからはなおさらである。紙ベースで仕事する職場だったら、入社直後に社会不適合者のレッテルを貼られてしまい、干されてパワハラ受けて鬱で退職していたかもしれない。今の職場で15年以上働き続けて、いつしか管理職になり、今では部下を持ってそこそこ仕事が出来ているのはデジタル化のおかげとしか言いようがない。
仮に自分が昭和や平成初期に社外人になっていたかと思うとゾッとするので、デジタル化が進んだ時代に生きることができて本当に良かったと思っている。そんなわけで、この手の社会のデジタル化の議論をする時は、効率の面だけでなくて発達障害の気のある人の救済になっているという側面についても、もう少し注目されても良いのではないかと思う。
ブラインドを閉じる
コピー機の電源を切る
モニターの電源を切るのを忘れない
システムの打刻
最終退館の入力
照明を落とす
施錠とセキュリティを起動
廊下の消灯で一度真っ暗になる
エレベーターで1階に降りる
表玄関は閉じているので裏口に向かう
大通りを歩く
高速道路沿い、高架につく明かりが深夜でも明るいオレンジ色をしている
小さく歌を歌いながら帰る日が多い。頭を空にするための歌なので、なんの歌でも良い。TikTokで聞いたサビしか知らない歌でも、学生時代の合唱コンクールの課題曲でも。車が多いから迷惑にはなっていないと思ってる。
いつも曲がらない角を曲がって帰る日もある。知らない坂の先の景色をみたり、通れるかわからない細い路地を入ってみたり。
自転車で帰った日もある。電動式のシェアサイクルはわたしをぐいぐい引くように走った。
自分の足で走った日もある。通りを走るランナーはたまに見るしそれほど浮かないだろうと思った。自分で自分の体をコントロールして、心拍を上げる行動は何かに良い気がした。
酒を買って歩きながら飲んでみようとした日は、缶を路上に落としてしまい中身が噴出した。甘くないジンソーダで助かったと思いながら拾って帰った。
誰にも迷惑をかけない範囲で行う小さな奇行は、私が私に許す小さい遊びだ。1日の大半を仕事に明け渡してしまった今日をちょっとだけ取り返してから自分を寝かしつける、そういう儀式。最初はちょっと外食をして自分の機嫌を取ったりしていたのだが、夕食をしっかり摂るのも憚られる退勤時間になってからは「帰る」ことに遊びを見つけていた。人目につかない深夜に、小学生の帰り道みたいな、誰にも話さない1人遊びがたくさんあった。
何も出来ない日は大抵泣きながら帰る。あの時の自分のなかに何の感情があったのかわからない。悔しいなのか苦しいなのか、誰かに心配されて嬉しいなのか情けないなのか、
あのとき取りこぼしてしまった自分の気持ちはもう、私がわからないってことはこの先誰にもわからない。
泣いている時に頭の中に入っていたのは、周りの人が私に投げかけた言葉だけで、それを咀嚼して反芻しても、なんの味を感じたのかわからないまま、子どものように口角をひん曲げてボロボロ泣いた。マスクの中に水分が溜まって蒸れて、でも外した顔はひどいから付けたまま歩く。
公園の横を抜けて、ファミレスの駐車場を突っ切って、その先の横断歩道は押しボタン式の時間帯。渡った先のコンビニに寄る。朝昼は胃痛を避けるために軽いものしか摂らないので夜は多少好き勝手に食ってやろうと思いながら入店するが、運が悪いと夜中に腹を下すので結局中途半端な惣菜や軽食を買う。大体いつもボブヘアの男性店員がシフトに入っている。コンビニの横の坂道を上ったらあと少しで家に着く。
徒歩25分。家も職場も駅からあまり近くないせいで、電車に乗ってもせいぜい5分短縮できるか微妙な所だから歩いて通勤した。
机に縋り付いている記憶の方がたくさんあって良いはずなのだが、私は長い間、家に帰る道をずっと歩いているような、ずっと夜みたいな感覚を1番よく思い出す。
日中は、
「食事か睡眠、どちらかを満足に出来なくても片方が人並みならまだ保つ」
「このくらいの度数のロング缶を一度に飲み切ると眠れて二日酔いも残らない」
働き始めてから何年かで身につけたおまじないのような「これが出来ればまだ大丈夫」を幾つかポケットに入れて、指先で手触りを確認するような日々を過ごしていた。
「酒や乳酸菌飲料の力を借りて睡眠は取れているからまだ大丈夫」
「胃が荒れていて平日は差し障るだけで、食欲はあるからまだ大丈夫」
「朝は起きて支度できるからまだ」
部屋は荒れているが、不精なので繁忙期はそんなものだ。青クマもデスクワーカーの職業病。もっとひどい生活の人はたくさんいる。いつもの、ちょっと忙しい時の感覚だ。
そんなふうに捉えて、「まだ大丈夫」を肯定的に捉えてサバイブしていたつもりだった。
いつのまに切り替わったかわからないが、これらの「まだ大丈夫」が、どこかのタイミングで「まだ私が故障しないから、ダメになるまで待つしかない」の諦めになった。
大丈夫な私は、まだ働かなくてはならない。みんな何かしらの苦しさを抱えながら生きているのだから、私が勝手に投げ出して良いものではない。この苦境からの脱出方法は、壊れるまで働くしかない。多分本気でそう思っていた。
勤務中、気を抜くと頭を上げていられなくなった。
ひとの目を見るのは元々苦手ではあるけど、顔を見せるすら苦しくなった。
対面で働くチームメンバーには両手で伏せて早口で指示を出す。通話会議は声を出せれば成立する、まだ大丈夫。
大丈夫な自分を演じているのか、大丈夫ではない自分を演出して逃げ出そうとしているのか、どっちにしろ何かのフリをできているうちは大丈夫なのか、大丈夫って何なんだ?
わたしは席に座れる、手を動かせる、web会議で通話が出来る、謝罪を述べることができる。出来るけど、帰りたいと申し出てある日早退した。これはダメなことだってわかっているからまだきっと大丈夫。平日の明るいうちに外出するのが久々でなんだかスカスカした気持ちになりながら、せめて身体を労わるポーズをとらないと均衡が取れないから大戸屋で品目の多い定食を食べた。ポテトサラダが重くていつまでも口に残った。
わたしにも少ないが友人はいる ありがたいことに定期的に会う用事がある
他愛ない近況の報告をしようとしたら、言葉が出ない日があって、そのとき友人は精一杯わたしを傷つけないように、「頑張る私」を否定しないように選んだ言葉で、心配に思っている、あなたを害するものをあなたは拒否する権利があるとだけ 言葉を投げてくれた
書いて消して何度か回り道しただろう、書かれなかった文にたくさんの気持ちが詰まっていた それに対して言い訳のような自虐で返事をした 最悪だ
病院探しを始めた。
躊躇いは特になかった。「自分に限って」なんていうバイアスは思い上がりだ。弱さを認められる方がまともだと思う、そういうペラペラのプライドを持っていた。「まだ大丈夫」のうちに、近い将来ダメになった時の避難経路を決める、それは賢い判断だと思った。
まあまあ都心に住んでいたので選択肢はいくつかあると知っていたし、思ったよりいっぱいあった。逃げ場ってコンビニほどはないけど歯医者くらいはある。場所を見つけて、予約を取ったあと、メモを書くことにした。
うまく話せるように、話せなくてもとにかく伝わるように。カンペなのか手紙なのか問診票の別紙なのか、わからないけど言葉を起こす必要があった。
相手に自分を「大丈夫」に見せたいのか、「大丈夫ではない」と言わせたいのか、なんだか意図がブレブレのメモ書きになった
紙に書き写す以上はありのままなんてどこにもない、本当のことを書いたのかどうか主観で見てもあやふやな文面。とにかく話せなくなればそれを読むか手渡すかしようと思って、印刷したものを携えて心療内科に行った。初診の予約は平日の昼しか取れないルールで、14時過ぎに中抜けして向かった。
名のついた診断が出た。
有給休暇の残数を尋ねられたり、直近で休養の取れるタイミングなどの話を流れるようにし始めた医師に、そんなつもりではない。 まだ大丈夫だから、もう少しマシになるための方法をくれと訴えたら、それはまっすぐに否定をされた。でも自分に「休め」を許せなかった結果、中途半端な診断書を持ち帰った。
朝、眠りから浮上する感覚を覚えると同時に心臓が跳ねるようになっていた。生きている、意識があるということに気づくと心が怯えるのはまあ自然なことかもしれないとその時は思っていたし、動悸そのものは業務に差し障りないから「大丈夫」「ダメ」の判断基準にならなかった。寝覚めは悪いが寝起きは良いので、遅刻もしなかった。
なんの名前を付けたら良いのかもわからないけど、しっかりと質量のある「ダメ」の感触が胸の中に入っている日がある時やって来た。
もっと、動けないとかずっと泣くとか何かが出来なくなったことを以て「ダメ」に『なる』なのだと思っていたけど、そうではなかった。何がどうダメなのかなんてわからないのだけど、相対的な話ではない、とにかく「ダメ」が去来する朝が来た。突発の休暇をとった。休んだ罪悪感を原動力にその週は出勤する、というサイクルをいくらか続けた。
この頃に、「ダメ」になる階段を一歩降りたような気がしていたが、同時に睡眠も食欲も自分の思う「大丈夫」の基準のままだったのだから、二元論で考えることが間違っていたと思う。
この「ダメ」は、「不安」の名前に片付けるものらしい。抗不安薬の頓服の処方を受けた。「頓服」だから、常用してないからまだ大丈夫。大丈夫の数をまだ数えていた。
そんなわけないのにいつもの道が歪んで見える日
物音が大きく聞こえる日
そんなものをちょっとずつずれながら積み上げてきて、綺麗に縛れない新聞の束のような、歪みが溜まっていくような感じがあった
退職願を書いた。
できるだけ綺麗な文字でしかるべき封書に綴じた正しいフォーマットで、すぐに出せる完璧な一筆を仕上げようと思った。
遺書ではないけど、でも心持ちは少し近いかもしれない。白くて郵便番号欄のない封筒が望ましいとネットに書いてあったがコンビニにも百均にもなかった。緊急で必要になる人もいるだろうに。
下書きをして、それを見ながら丁寧に文字を書いた。書いている間は無心になれた。書いただけで、結局出せはしなかった。
退職願も、診断書も、私にとっての「勝訴」の紙にならなかった。結局私は、自分にバツを付けて逃げるのが怖いまましばらく日々を過ごした。
同僚が出勤してくる
涙が止まらない
10時半過ぎ、何も変わらない
ここにいたらもう駄目なんだ、そういう日がついに来たのだと言われた気がした
そのあとは、とにかく手続きを滞りなく進めなければと、社会人として角の立たないように休職の手配をするために自分の感情はどこか棚の上にでも置いたような感覚で、再診の予約をとり会社と連絡を取り、自分を社会と切り離すことに成功した
今、会社に向かう朝も遊びながら帰る夜も無くした私は、子供の頃からの地続きの自分をあの夜の帰路に置いてきてしまって、残りかすの体だけがここにあるような気持ちで布団に横たわっている。じゃああの夜に私は何を思っていたのか、書き出してみようと思いメモ帳に書きつけるが、結局そこにも何もなかったとわかってしまった。今の私の回想だからそうなのか、本当に何も思うことはなかったのか、もうわからない。