はてなキーワード: コケとは
映画がバービーが嫌われているのは原爆問題で不評を買った日本だけかと思いきや
https://madamefigaro.jp/culture/230807-barbie.html
この記事では韓国のフェミニストの人が、映画がコケたのはアンチフェミニズムのせいだって言っているけれど、
母親ではない女単体の権利を主張する候補がソウル市長選挙に出て一定の支持を集めていたようだし。
韓国のフェミニストは強くて、男からの妨害にも負けずに自己主張して自分達の意思を貫いてる人達だから
この映画が本当にフェミニズムに根差した優れた映画であるならば如何にアンチフェミニストが跋扈しようが女性達は見に行ったと思う。
私は映画バービーが韓国で受けなかったのは、アジア人女性は客じゃない、っていう映画のメッセージをちゃんと感じ取っているからだと思うんだよね。
当たり前のように白人女性を中心に捉え、お情け程度に黒人女性を加える事はあっても、アジア人女性は端から仲間に入れてもらえない。
今時こんな金髪碧眼でドピンクの服を着た白人女性というコテコテのビジュアルを前面に出した映画で「攻めてる映画」を気取られても…って否定的に思ってたし。
(それこそ色んな人種のバービーとか太ったバービーとかを出してくるとかのアクセントがあるなら大分違うんだけど)
韓国フェミニストはちゃんと映画の本質に気付いていると思うし、だからこういうホワイトフェミニズムを冷めた目で見ているんじゃないかな
日本人フェミニストもいい加減アジア女は彼女らから対等な女性として人間として見られていない事に気付くべきだし
8bitくらいのCPUは書籍もあるし、作れるが、DirectX対応のGPUあたりから日本はコケた認識だ。
何が足りてなかったのか。
中国、スイス、インドの大学では高性能半導体チップのアーキテクチャの講義がある(教授や研究者がいる)。
日本でコンピューターサイエンスというと、コンピューターアーキテクチャもソフト寄りだ。
中国産CPU、GPUが出てきているが、元インテル、元AMD、元NVIDIAといった略歴で、全く違う土壌から出てきたというものではない。
論文は一部しか説明してないし、各社のプロモーションになっているので、読めばチップを設計出来るようになるわけではない。
ある本を読んで、自分が旅行するときに抱えていたモヤモヤがスッキリ晴れたように感じた。その本には日本を代表する宿泊施設である、星野リゾートの苔に注目した戦略について書かれていた。社長はその戦略を社員から聞かされた時、「苔なんて地味なものにどこに需要があるのだろう」と思っていたそう。しかし、その提案をした社員が無類の苔マニアであり、あまりに熱量があったため採用したそうで、結果的に苔プロジェクトは大成功したらしい。
さて、自分が印象に残ったのは苔プロジェクト成功後の社長の言葉である。インタビュアーに、社員個人の拘りを尊重しすぎて顧客のニーズを見誤ることはないのかと聞かれると、「大体の人は旅行に求めることって、おいしいご飯と露天風呂くらいしかない。顧客のニーズに応えてばかりだから同じような魅力しかない観光地が増える。(意訳)」と答えていた。
この言葉がまさに自分が抱えていた、旅行に対するモヤモヤを解消してくれた。大体2泊3日とかの旅行に行くとき、1.2個目当ての観光地があるけど、それ以外は実質時間つぶしのような形で大して興味場所にダラダラ立ち寄ることが多い。食事に関しても、特別そこで食べたいものがない場合、レビューが良さそうで失敗しなさそうな無難な店になることが多い。そういう時間って嫌な気持ちになるわけではないけど、無理して旅行を「楽しいもの」だと思い込みたいというオーラを周りの人からも感じるし、自分もそう思い込むときがある。そういった自分の経験を振り返ると、確かに旅行において明確なニーズを求めることって意外と少ないなーと感じる。
だからさっきの社長の言葉が凄くすっと入ってきたんだと思う。確かに言われてみれば自分の旅行経験を振り返ると、別にもともと興味がなかったことでも、熱心に勧めてくれた方が、結局珍しい体験ができて思い出になったりする。旅行って簡単に言えば日常生活と違う体験をするってことだから、それを後押ししてくれる取っ掛かりがどれだけあるかって重要なのかも。これから旅行に行くときそれを意識していってみようかな。
あまりにも暑さで暑くって、
交差点で見かけた日傘を差した2人の人たちの片方の人がずっこけて日傘がぐにゃぐにゃになってもう1人の人に引っ張り出されて助け出されていたわ。
そんで
大丈夫?って訊ねられて
なんかぜんぜん大丈夫じゃなさそうなのに、
大丈夫です!って言っちゃいがちよね。
ずっこけた人は気の毒だけど
おかげでその反動でずっこけたときに日傘までぐにゃぐにゃになっていたのがもっと気の毒だったわ。
私はその足で
銀行かーらーのー
もうこの際どっちでもよくない?
暑いんだし。
そんでバニラアイスクリームを買ってきて急いで溶けないように戻ってきて食べているところよ。
一瞬の涼よね。
一瞬だけど。
あー暑いわ。
アミーガ!
ネバネバパワーを取り入れたい納豆巻きいただいて、
パクパク食べたところよ。
ふー
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
それなら映画興行が多少コケてでも広告費削ってジブリ単独資本でやる意味は十分あるなあ
今どきTV局に付き合わされてサブスクに手出しできない状況は商売勘のあるプロデューサーからしたらバカバカしくてやってらんないだろうし
しかも宮崎駿が次回作を作れるかも怪しい、自分も今さら先行きを気にする年齢でもない(そして、たとえコケて次回作のスポンサー探しをしなきゃいけなくなっても、そのぐらいやってのける自信も多分ある)だろうから、周囲が思うより広告無し戦略は勝算あったのかもしんない
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。
【追記あり】
しゃあねえ一肌脱ぐか。
引きこもり歴10年後に社会復帰して、現在正社員で貯金700万の中年独身オッサンだ。
俺の場合は長期の引きこもりのせいで限界まで自信無くなっていたので
バイト求人の電話かけるくらいなら自殺するほうが心理的抵抗感が少ないような極まりきった状況だった。
引きこもり始めて5年目にこりゃもう鬱だから働けないんだそうに違いないと精神科の門を叩くが、大したことなかったらしく軽い抗不安薬のみ処方される。
その後、抗不安薬パワーでバイトの面接に応募するも、退化した体に工場作業はキツすぎて一ヶ月経たずに止めた。
その後、逃避行動として資格の勉強を始め、業務独占資格を二つほど取った。これが後で生きてくる。
そしてネットで見たサポステに応募。カウンセリングとグループワークをしばらく続ける。
これは本当にありがたかった。
周りはみんな自分と同じダメ人間なので、数年ぶりに引け目のないコミュニケーションが取れる。
同居している親の話では、この頃から俺の目に生気が戻り始めたそうだ。
サポステは社会復帰を目指す場だが、自分から行動を起こさなければ
ダメ人間の集まりという居心地よすぎるぬるま湯にそのまま沈む恐れがある。
年齢的にも危機感を感じていたのとサポステ職員にケツを叩かれていたのもあって、もう一度バイトの応募に挑む。
ヒキニートがバイトに応募する際に躓く点として「応募先の電話番号までは押せるが、通話ボタンを押す指が固まって動かない」という、ヒキニート特有のどうしようもない症状がある。
社会復帰するぞバイトを始めるぞと決心してから、数ヶ月も半年もボタンを押せずに携帯電話とにらめっこし続けるという引きこもりのあるあるネタだ。
単純な話だ。
一切の容赦も慈悲の欠片もなく、軽々と通話ボタンを押してくれる。
最初の一歩を踏み出す勇気がないのなら、誰かに背中を押してもらえばいい。
そしてサポステ職員は背中を押すのが仕事だ。遠慮なく手伝ってもらおう。
そうして始まったアルバイト。
身体も本調子ではないのでそりゃあ辛かったが、峠を乗り越えればルーチンワークになる。
ここでまたサポステに戻るが、今回は僅かながら失業保険が出ている。
元の資格に関連したコースを選び、追加の資格を取り、資格が生きる業種の求人に応募した。
そして今に至るというわけだ。
趣味がゲームとネットくらいしかない子供部屋おじさんなので、貯金は勝手に溜まっていった。
100万ほど手元に残して、残りはインデックス投資に回している。
サポステはネットでもいろいろ言われている通りで、利用したらそのまま就職までオートで行けるような便利機関ではない。
そしてサポステにとっては利用者がバイトを始めた時点でゴールなので、その後の社員へのステップアップは自分で考えて動かなければならない。
しかしそれを差し引いても「ダメ人間同士で気兼ねないコミュニケーションが取れる」という一点だけで、利用する価値がある。
誰と話すこともない、長年の引きこもり生活で弱り切った声帯をリハビリすることができるからだ。
「アッ……アッ……」としか喋れない状況で、どこで誰に話し相手になってもらうというのだ。
今ならネトゲでボイチャするという手もあると思う。
そして資格。
たまたま逃避行動で取った資格が業務独占資格だったのが勝因だった。
だって、「何年も仕事をしないで基本情報技術者を取りました!この資格は私の能力が高い証明!」なんて胸を張ったところで、
IT業界で何年か働いている人の方が普通に評価高いのは分かり切ってるでしょ。
引きこもりが資格を取り始めると末期だなと言われる理由がこれ。
しかし業務独占資格は「この資格を持つ従業員がいなければ、この業務をしてはならない」という資格だ。これは需要がある。
業務独占資格の中には実務経験年数が定められてる資格もあるが、それが受験資格でなければ気にする必要はない。
「私を採用すれば〇年後にこの資格持ちになります」は大きなセールスポイントとなる。
アドバイスとしては、サポステに行け。声帯をリハビリしろ。バイト初めろ。職業訓練に行け。就職しろ。どっかで躓いて何もかも嫌になったら資格を取れ。
何年か越しのプランになると思う。
個々人の素質にもよるが、急がずに一歩ずつステップを踏んでいくのがいいだろう。
お前は、お前が思ってるほど絶望的な状況ではない。
問い合わせの電話でアッアッってなったとしても、向こうも慣れたもんだから。
応援してるぞ。
____________________________________________________________
【追記】
いや、バズり過ぎでは。
なんか俺が優秀な感じにされてるけど、取った資格は難関でも何でもないし
給料は一昔前に「年収〇〇〇万円時代を生き抜く」とか言われたレベルだぞ。
単に親元で、たまたま酒も女もやらなかったおかげで溜まってるというだけだ。
貯蓄額を出したのは、元ニートでもこれくらいはできるんだぞと勇気を与えたかったのと、あとは自慢。
だって、貯蓄の額なんてこんなところでしか言えないもん。許せ。
そして俺が自信満々なのは、引きこもり時代の後遺症で中二マインドが抜けないせいだ。
この世の大多数よりも人間的に上の存在であるという、根拠のない自信を持っている。
いい年こいて恥ずかしい持病だが、仕事をする上ではこの自信満々なスタンスが謎の信頼感を生むらしい。
なんか知らんうちに良い方向に働いてて驚くこともしばしば。
あと俺が取った資格は難関でも何でもない。
普通は入社してから働きながら勉強して取るような基礎的な資格だ。
ホッテントリに入るだけでもビクビクしてんだ。察してくれ。
そして、社会復帰を資格ありきで受け取られるのはちょっとマズい。それはちょっとやめてくれ。
俺達引きこもりは「やらない理由」を探すことにかけては達人なんだ。
現状を自己正当化する理由を四六時中考え続けて数年間の猛者だぞ。年季が違う。
俺の社会復帰が資格のおかげとなると、みんな大喜びで「じゃあ資格を取るまで就活しなくていいよね!」となってしまう。それはまずい。
実際のところ、職業訓練所を出ればそれだけで「口だけではない、最低限の技術が身についた者」であることを証明できる。
小さな会社では門外漢の素人よりも、職業訓練あがりの少しはわかってる奴の方が歓迎されることも多い。
そして、職業訓練所は就職斡旋機関だが、ニート更生機関ではない。
アッアッな状態で職業訓練所に入っても、おそらく就活でコケる。
それから職業訓練所で社員を目指すというのが俺のお勧めする社会復帰コースだ。
そして、一番大事なことを忘れてた。
これは完全に職歴なしで卒業後そのまま引きこもり生活送っているタイプのニートへのアドバイスだが、
俺たちは「引きこもりでパソコン大先生な自分にもできること」という考えで
パソコンを使った仕事に就こうと考えがちだが、一旦その考えは捨てて、視野を広げよう。
それなりに忙しく動いて体力は消耗するが、筋力勝負ではない。
俺たちにとっては、そんな仕事が狙い目だ。
それを受け入れる土壌も意外に広いということだ。
数か月を寝て過ごすよりはいい。
現場のオッチャンたちも、思ったほど怖くないぞ。
以上だ。
ヤバそうな流れだったので、急遽追記させてもらった。
資格を取るまで行動を後回しにするのは違うぞ。
並行で行けるから。並行で。
じゃあ、この時間で資格の勉強でもするか。と、そうなるなら良いと思う。
まず動こう。まず。
資格のことは横に置いて、まず行動をしよう。
締めの言葉は前と同じだ。
今よりちょっとだけ、前に進もう。
親に会いたくないって、
生まれつき万人に愛着がない場合、極端な経済的な困難がある場合を除いて、
単純に親が毒ですけど?
万人に対して愛着が生まれ付き薄い場合は、それは仕方がないと思うよ。生まれつきのもんだからな
親に気持ちを返せないことに薄ぼんやりした罪悪感があるかも知れないが、
親は、増田が元気に楽しく暮らし、増田が誰かを傷付けるような犯罪行為や準ずることしなければ、
それ以上は何も望まないと思うよ
最近のパヤオの新作とか見て改めて確信したけど、天才って予算とかスケジュールとか内容とか色々鬱陶しい制約がある中で作品作らせた方が圧倒的に傑作生み出せる率高いよな。
パヤオの初期の名作を作ってたころは彼もまだ中堅で予算もスケジュールも充分でない中で「これコケたら次のチャンスはもうないかも?」っという緊張感で作品作ってたからちゃんと一般ウケしやすい傑作作ってくれてたけど、「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」で興行的にも作品的にもピークを迎えた後は「もうあなたは巨匠なので予算とかスケジュールとか気にせず好きに作ってください」なんて甘やかすからどんどんわけわからん方向に行ってしまった。
皮肉なのはアーティストに多大なストレス負担をかけてるスケジュールやスポンサーなどの制約が、「この限られた条件下でいかに少しでも良くするか」っという構造を生み出して結果として万人にも受け入れられる傑作が生まれやすいってことよね。
古い例だと当時人気アーティストだったゴダイゴなんかは過密なツアースケジュールの中の限られた時間で一気に作り上げた「銀河鉄道999」がいまでも通用する名曲に仕上がったし、それこそ中世のイタリアのミケランジェロもスポンサーであるカトリック教会の過度な干渉や予算管理にもめげずにあの歴史に残る数々の傑作を作り上げたわけじゃん。
作り手としては予算とかスケジュールとか気にせずに好きなように作りたい!って想いは強いんだろうけど、結果的にはさまざまな制約の中で神経擦り削りながら作った作品の方が評価されやすいんだよな。
まぁパヤオなんて今更世間の評価なんて気にしてないって感じだからさらにタチが悪いんだけど。大嫌いな資本家様に首根っこ抑えられてた時の方があんた輝いてたよ。