はてなキーワード: クリティカルとは
現政権のあれやこれやのことだけど。
こういう不正が続くようなら、それ相応の政治的判断をしてくれ。
我々の政治的判断の核を彼らは棄損しているのだから、どんな党派や政策を支持していてもこれは大変なことだ。
こういう明確な不正が明るみに出ているのに、それでも現政権を支持する人々よ、それを野党や私のような者のせいにするな。
民主主義のもと、その制度の意義を破壊するような勢力に、これまた民主主義の手続きにおいて彼らを支持するのならば、それがもたらすあらゆる結果の責任は、それでも支持した者(積極的にでも消極的にでも)にある。残念なことに支持しなかった者もその結果は引き受けなければならないが。
不正が明らかなのに政局が安定しているとすれば、それは単に民主主義が順調に破壊されていることを示しているにすぎない。そしておそらく国民の生活も。
政権や内閣が誰に手にあろうと、不正が見つかれば批判すればいい。それが続くようなら人を変えればいい。政策に不満があればその都度投票などの機会にしっかり意思表示すればいい。
日本国民よ、目を覚ましておくれ。
ネット民「JUMBO MAATCHさんかっこよかった!」「JUMBO MAATCHさん回数を重ねれば覚醒しそう!」「レゲエ界の重鎮なのに違う土俵に来て戦ってるのはすごい!!」
フリースタイルダンジョンの視聴者優しすぎだろ…。
まぁレゲエから参戦してるんだし少しは得意分野で戦わせてれあげればいいのにと思わないでもないが…。
まぁ個人的にJUMBO MAATCHさんの音源がはちゃめちゃにかっこいいしフリースタイルダンジョンで大活躍して雑魚とか言ってる連中を見返して欲しい。応援してるぜい。
晋平太のYouTubeのバトル解説でなぜJUMBO MAATCHさんが小節の途中で入ろうとしてしまったかを解説してて分かりやすかったぜぜぜぜぜい。
同棲している彼氏にパイパンにしてほしいんだけど、どうやって頼めば医療レーザー脱毛を受けてくれるのか教えてほしい。
私自身がパイパンにしていて、とても快適だ。なによりも部屋にマン毛が落ちないのが良い。
一人暮らし時代にパイパンを始め、マン毛が落ちていない部屋の安堵感に感心し、医療レーザー脱毛でパイパン完了した。
その後同棲を開始し、一人暮らしの時よりも床の縮れ毛を発見することが多くなった。彼氏のチン毛だ。リビングは毎日クイックルワイパーをかけているが、トイレの床や風呂にチン毛がよく落ちている。
ホコリが積もっていてもそんなに恥ずかしくないが、チン毛やマン毛が落ちているのは結構恥ずかしいと思う。彼氏は私より綺麗好きで、掃除は主に彼氏の担当だ。
私が彼氏に伝えたいのは、もっと念入りに掃除して欲しいということではなく、根本的原因を排除すれば2人とも快適になりますよ、ということだ。
確かに脱毛代十数万円は高いし、医療脱毛はクソほど痛いが、一生床にチン毛が落ちなくなり、パンツの中が快適になり、介護の時も楽になるらしい。
このようなことを以前伝えたのだが、恥ずかしい、面倒くさい、痛いんでしょ、というような理由でかわされてしまった。脱毛代を半額出しても良いという条件まで出した。
恥ずかしいという部分に男女の意識差があるのかと考えているのだけど、男性がパイパンになることは一般的にそんなに恥ずかしいことなんだろうか?
面倒くさそうというのはよく分かる。実際、数ヶ月おきにクリニックに行くのは面倒だった。
痛いんでしょ、というのも実際に施術を受けた身としては、彼氏が想像している数倍痛いことを知っているので分かる。
彼氏がパイパンにすることを決断するために、なにかクリティカルな口説き方はないだろうか?
たかがチン毛、マン毛と思われるかもしれないが、私は彼氏と添い遂げたいと思っているので、一生の暮らしを合理的・快適にするために結構重要な選択じゃないかと思っている。
何かないだろうか。
主体性と客体化について。
https://anond.hatelabo.jp/20191031141650 の補記の続き
- id:ultimateblue 自分の店の看板しょって下着広告出してる下着屋と献血の看板しょってトロ顔乳袋女広告出してる赤十字は全然違う話なのになんか無理やり共通化して黒塗りに持っていこうとしてない?この章だけなんか変
- id:peta0227 ポスターと下着で矛盾するの、主体露出はOKで客体消費はNGの文脈が今回は不適当なケースだからだと思う。ポスターのテーマが「公共で客観的にどう映るか」なら「下着は主体だからOK」はハイコンテキストで不適当かと。
- id:kutabirehateko 下着の広告は消費者たる女性をターゲットに作られており、着用する女性を性的に消費することを煽るためのものではない。男は下着姿の女性や女性用下着を性的に消費するものと公言してはばからない世の中がおかしい。
- id:kumaponta 主体と客体なんて委託でも入れたら途端に不明確になる。判断基準としては合理性に乏しいものだと思うな。主観的な基準はいくらでも騙せるものだよ。明確な客観的基準こそ合理的だと思うよ。
- id:junglejungle 女性下着が本当に主体的なのかかどうか。勝負下着という言葉もあり、男性の性的喚起を目的としている要素もある。かわいい下着を着るべきというジェンダー観の押し付けもある。と、こういう屁理屈もつけられる。
主体性と客体化に関する言及が多く見られた。この観点は重要なのではあるが、正直に告白すると、複雑すぎて細かい議論から逃げてしまった。
たとえば、以下のような2つのケースは、比較的論じるのが簡単である。
前者は「女性の客体化」であり、認められない表現だという人もいるであろう。今回の宇崎ちゃんのポスターは、ポスター批判派にとってはこれにあたる(露出度ではなく、乳袋だが)。
後者は「主体的」な露出であり、前者を認めない人も、こちらを認めるケースが多いであろう。下着広告の大半はこれにあたる。
では、以下のケースはどうであろうか。
これは言い換えると「主体的な客体化」であるが、このケースはどう判断されるのだろうか。
さらに次のケースはどうだろうか。
段々と即答が難しくなってくる。次の例はどうだろうか。
これはコメントでも多く言及されていたが、女性誌の一部などで発生しているケースである。宇崎ちゃんが認められない場合、男女を入れ替えただけのこのケースも認められるべきではないように思われる。
次のケースはどうだろうか。
ここでいう団体は、具体的には赤十字である。赤十字には、恐らく女性を客体化する意思は存在していなかった。今回のケースでは、たまたまコラボレーションをした作品に、女性を客体化した要素が含まれていたことになる。もう少し正確に表現するならば以下だろうか。
このケースからは、なんとなくまずそうな雰囲気が漂っている。情報によると、セーラームーンはこのパターンらしい(anod:20181007164838)。セーラームーンの露出度の高い服装が、男性編集者による女性の客体化に由来しているという文脈を考慮するのであれば、セーラームーンは全面的に認められなくなるかもしれない。セーラームーンは認められると考えている方は、どう判断するだろうか。キズナアイも、もしかするとこのケースに入るという人もいるかもしれない。
このケースを、少しいじってみよう。
セーラームーンが認められやすい理由は、セーラームーンのキャラクターたちにはっきりとした自己が見られるから、という説は一定の説得力がある。似たような例といて、次のケースはどうだろうか。
ナミや峰不二子はこのケースだろうか。自己がはっきりとしていると、多少の露出度の高さは認められる傾向があるように思われる。あるいは、露出度の高さは、「貞淑であるべし」というジェンダーロールからの開放と見なされることすら有り得る。ここで興味深いのは、これらのケースでは依然として、男性による女性の客体化がベースにあるということだ。
このケースの考察は、個人的には、非常にクリティカルであると考えている。もし、ナミや峰不二子、あるいはセーラームーンが認められるとすると、「客体化」や「主体性」は、実は判断基準としては重要ではないという可能性が出てくることになる。むしろ重要なのは、「自己をはっきりと持つキャラクター」と表現の外形であり、言い換えれば「異性に媚びてない」見た目であれば、その誕生経緯はどうであろうと、問題ないという判断になりえる。
「宇崎ちゃんは嫌だが、セーラームーンは許せる」という人は、「宇崎ちゃんは異性に媚びているが、セーラームーンは異性に媚びていないようにみえる」からという心理が理由かもしれない(もちろん、違うかもしれない)。これが正しい仮説だとすると、表現の是非の判断が、外形が許せるか許せないか、という問題に帰着してしまう。さらに、an・anの表紙にも違和感を覚えない人であれば、「同性が異性に媚びている表現は嫌だ」という結論になる可能性がある。
私自身は、このような表現の判断基準の持ち方は、どちらにしても問題ないと考えている。なんらかの経緯により、このような判断基準に至ったとしても、それは個人の自由である。一方で、客体化あるいは主体性が表現の是非に影響を及ぼすという観点の妥当性は、必ずしも明白ではない、とも考える必要があるのではないだろうか。
いずれにせよ、表現の誕生経緯を勘案することは非常に難しい。セーラームーンの例にしても、男性編集者の存在など、そもそも知らなかった人も多いだろう。これはつまり、外形のみでセーラームーンの表現の是非を勝手に判断していた人が、それなりに存在しているということだ。私自身は、このような理由もあり、客体化あるいは主体性といった要素を表現の是非に持ち込むことには慎重になるべきだと考えている。
もし、何らかの理由で客体化に触れたい場合は、例えば「過剰に異性に媚びた表現は、性的搾取やセクハラの助長につながるのでNG」といったように、むしろ外形をベースとした基準にしてしまったほうが、理解も得られやすいし、運用が楽なのではないだろうか(もちろん、「過度に」とはどの程度か、とか、「異性に媚びた表現」が果たして本当に性的搾取やセクハラの助長につながるかどうか、「異性に媚びることは悪いのか」などの別の議論は必要である)。
「匹夫の勇 生活保護受給者!」
進行「勝負は3本勝負の2本先取した方の勝ちです ただしジャッジマンの審査が5人満場一致だった時クリティカルとなりその時点で勝利が確定 試合は即終了」
進行「それでは1stバトル第1ラウンド 先攻後攻の選択権は全てチャレンジャーにあります 1stラウンドはどちらでいきますか?」
生活保護受給者「後攻で」
進行「先攻 三流大学卒、後攻 生活保護受給者、 DJ CELORY ぶっかませ!」
三流大学卒「うわ臭ぇ、ニオイえげつねぇ、中卒っぽさも臭うな、小が臭いニオイしてる 小学生にも石投げられてそうだな 糞みたいなお前と石 一緒に海に流れちまえ」
生活保護受給者「学校の話が出たので言っておきますが 私、東京大学出身なんだけど……」 (観客から歓声が上がる)
三流大学卒「…っていうのは嘘で、軽い冗談みたいなw ちょっと格好つけてみただけで、いいねそのセンス。」
進行「終了!」
進行「さあそれでは第1ラウンドの判定に入ります Let's judge お願いします!」
審査員(女)「この生活保護受給者さんはセンスが違いますよね。1つ1つの言葉が博識に感じられますし、輝いて見えますね。この人と一緒にいたいって思っちゃいますね。」
ところで、議論を混乱させるもう一つの問題として、アファーマティブ・アクションの話と、男女同権が達成されたその後の世界の話を混ぜて話している人がいるように見受けられる。たとえば、「必然性なく女性のみをアイキャッチ的に使うべからず」というのは、過渡期における一種のアファーマティブ・アクションとしては、一定の妥当性を持つと考える。一方で、真に差別が解決した世界では、そのような配慮は逆に不要になるかもしれない。たとえば、「必然性なくA型の人のみをアイキャッチ的に使うべからず」というガイドラインは、馬鹿げている。そもそも血液型など誰も気にしていないからだ。性別の問題も、真に男女差別がなくなった世界では、最終的にはそこに行き着くのかもしれない。類似の例として、アメリカなどでは、商品パッケージに人物を複数掲載する場合、人種の割り振りに対して神経質になるところがある。これは、特定の人種のみをアイキャッチに使う場合、人種差別を助長しているとみなされる可能性があるからだ。現在ガイドラインとして策定されているこのようなルールが、既存の不平等を是正するための措置であるという事実を無視して議論を展開することは、好ましい姿勢とは言えない。また、このようなガイドラインを「女性をアイキャッチに使うべからず」と極端な方向に誤読したり、「男性をアイキャッチ的に使用するのはいいのか」と、誤読を元にしたミラーリングを行うことは避けなければならない。
このようなアファーマティブ・アクションそれ自体が不公平あるいは不正義であり、そもそも認めない、という姿勢はあり得るかもしれない。また、単純に過度な配慮は不要であるという意見もあり得る。例えば、過去に発生したNHKにおけるキズナアイ騒動や人工知能学会誌の議論では、性的役割の固定に対する議論が行われたが、性的役割の是正を求める批判派(アファーマティブ・アクション派といえるだろう)、とそこまでの配慮は必要ない、あるいは(その後の世界では)むしろそのような配慮こそが差別である、とする擁護派の間で、意見の対立が見られた。個人的には、この2つの個別の事例に対しては、過度の配慮であると考えている。一方で、批判派の言いたいことも理解できるので、批判自体には問題がないと考えているし、耳を傾けるべき指摘であろう。なお、特にキズナアイ騒動については異なる論点もあったようだが、その点についてはここでは議論しない。
議論の多くは、おそらく件のポスターが性的、あるいは過度に性的かどうかに帰着するように思われる。そして、この点について、両陣営の合意は、ほぼ得られていない。
擁護派の多くは、件のポスターは性的ではない、あるいは性的な要素はあるとしても、問題になるほどには過度に性的ではないと考えている。一方で、批判派の多くは、乳袋や表情を理由として、ポスターは過度に性的であると見なしている。ポスターが過度に性的であると認められた場合、女性差別につながる表現であり、セクハラにもなるかもしれない。一方で、そもそも性的でないのであれば、セクハラにも女性差別にもならないだろう。
巨乳それ自体がいけないわけがない。また、ごく一部の過激派を除いて、大多数のポスター批判派も巨乳自体への攻撃はしていないように見受けられる。この点を議論するのはあまり意味がないし、ごく一部の過激派の意見のみを根拠に、相手陣営全体に対して「差別主義者」といったラベル付けを行うのは、誠実な姿勢とは言えないだろう。
これは全員にとって非常にクリティカルな指摘である。正直なところ、私自身も自分の認識が社会の平均と合致しているかどうかの自信がない。ポスター擁護派のうち、オタクを自認する人たちの意見が気になるところである。
例えば、「ビキニアーマー」は恐らく今となっては性的な表現のように思われる。肌に密着した黒タイツはどうだろうか。乳袋も本当にセーフなのだろうか。境界線は自分の中でもあやふやである。セーフな気もするし、性的な気もする。あるいら性的な要素はあると認めたとしても、過度に性的かどうかと言われると、過度ではなさそうか。みなさんはどうだろうか。
何を性的と見なすか、あるいは、何を過度に性的と見なすか、は個人どころか社会においてもあやふやであり、時代の変化にしたがって変化してく。
ポスター批判派は、(仮に今現在は認められていたとしても)今後このような表現は社会的に許されなくなり、状況は是正されていくべきだと考えている。これは、過去には普通に存在していた、水着の女性が(無意味に)アイキャッチとして使われていたビールのポスターが、近年ではほぼ絶滅した経緯と相似形である。
一方で、私は別の未来も想像している。それは、このような表現が、むしろ緩く認められる社会になるのではないかということだ。近年すでに指摘されている通り、「オタク」自体が一般化しているらしい。それに伴って、乳袋のような表現に過度の性的な要素を見出す層が減っていく可能性がある。言うなれば乳袋ネイティブ世代の誕生である。こうなった場合、乳袋は広く認められた表現になる可能性がある。
宇崎ちゃんは性的であるが、ワンピースのナミやセーラームーンは性的でない、という意見が見受けられる。これはポスター批判派からも出ている意見で、ナミは性的ではないという意見が見受けられた。
ポスター擁護派は、ナミも宇崎ちゃんもどちらもが乳袋を表現として用いていることから、仮に宇崎ちゃんが性的なのであれば、ナミも同じく性的であり、ナミを公共の場で用いることは認めら得るべきではないと考えている。同じくして、ナミを認めるのであれば、宇崎ちゃんも認められないと一貫性が失われると指摘する。
ここで興味深いのが、ポスター批判派の中でも、この点については意見が別れているということだ。これは、ポスター批判派が用いている「性的な表現に無自覚になっている」人々というのが、ポスター批判派の中にも存在するという事を意味しているように思われる。ワンピースは非常に歴史がある作品であり、オタクだけでなく、社会的にある程度の知名度を持って受け入れられている。好きな漫画といえばワンピースという人も多い。そのため、本来は過度に性的な表現を持ち合わせているはずのナミも、ワンピースという作品と共に社会に受け入れられてしまっている。ポスターに対して批判的であるが、ナミについては認められるという人は、乳袋ネイティブ世代に染まりつつあるといえる。私自身は、もし宇崎ちゃんのポスターが「乳袋は女性を性的に消費する表現である」として認められないのであれば、たとえナミであろうと、乳袋は許されないという姿勢を維持するべきであると考えている。ここで一貫性が崩れてしまうと、「(過度に)性的な表現」の定義が非常に困難になってしまうため、合意が得られにくい。「ナミは(見慣れているから|みんな好きだから|明るいから|強い女性だから)セーフ」という話になってしまった場合、個人の「お気持ち」と揶揄されるのは避けられないだろう。
セーラームーンについてはどうだろうか。すでに指摘されている通り、セーラームーンも公開当初はブルセラを想起させるであるとか、露出が多いであるとか、性的な表現についての批判が女性からもあったようだ。現在では市民権を獲得しているため、このような批判が行われることはまず見かけないが、たしかに絵面だけ見た場合、肌の露出は大きい。セーラームーンを使用した表現が公の場で許されるとしたら、なにが理由だろうか。
ポスター批判派からは、男性からの人気を得るために胸が強調された(宇崎ちゃん|ナミ)に対して、女性が良いと思う服装を女性に着せただけのセーラームーンは、性的消費には当たらないという説が挙げられている。これは、一理あるように思われる。セーラームーンは単に綺麗だったりかわいい格好をしているだけで、それを性的と見なすのは、見る方に問題がある、という考え方になる。韋駄天の例では、靴下を脱いだだけなのに、勝手にそれを性的と見なす男性陣によって問題が発生していたが、セーラームーンも同型だと言えるだろう。人には好きな格好をする権利があるのだから、女性がどのような格好をしても、他人にどうこう言われるのは好ましくない、というのは理解できる。
ここで、本人が望む格好は、どこまでなら許容されるべきであろうか、という議論がある。仮に、ある女性が自分にとっては裸がもっとも自然であると考えた場合、その女性を公の場に掲示されるポスターに使用することは妥当であろうか。そして、その裸のポスターを過度に性的であると誰かが見なす場合、それは見る側の問題であろうか。これは、冗談ではなくて、例えばヌーディストビーチの議論においては、既に似たような議論が起こっている。現在の日本において、恐らく多くの人は、裸の女性の写真を公の場に掲示することは、本人の意志はどうであれ、過度に性的であると見なすであろう。裸は極端としても、例えば胸の谷間が強調された服装はどうだろうか。このような服装を自発的に好む女性は存在するが、公共の場でポスターに使用することは適当であろうか。もし、そのような服装は適当でないと考える場合、あるポスターを評価する上で、本人の意思は、具体的な表現に劣後すると言えるのではないだろうか。つまり、本人が望んでいようとも、性的なものは性的であると見なされるということである。
ところで、海外の識者に宇崎ちゃんのポスターを見せたところ、ネガティブな反応があった、という情報がある。ここで、気になるのが、同じ人物にナミやセーラームーンのポスターを見せた場合、どのような反応があるか、である。宇崎ちゃんに対して否定的な反応がある場合、ナミやセーラームーンに対しても、これらの作品を知らない人からは同様の反応が帰ってくる可能性が、それなりに高いのではないだろうか。セーラームーンも、背景情報がなければ、過度に肌の露出が多い若い女性をアイキャッチに使っているだけのポスターに見える可能性がある。漫画やアニメに馴染みのない人たちにとっては、ナミも宇崎ちゃんもセーラームーンもどんぐりの背比べに映るのではないだろうか。そのような人にとって、セーラームーンを許容するあなたは「性的な表現に無自覚」であると見なされるかもしれない。
こういった観点を踏まえた場合、本人の気持ちや、背景情報といったものは、表現が性的であるかどうかを判断する上では、必ずしも重要な要素ではない、と考えることは可能である。「勝手に性的に見ている」という見方もできるが、多かれ少なかれ、だれもが自分の中の基準をもとに、ある表現が性的かどうかを判断している。そのため、「勝手に性的に見ている」こと自体を悪とする言説は、筋が悪いであろう。これは何も男女間にだけ発生するわけではなくて、世代間や宗教間にも発生する。そうであるならば、性的な表現の基準を考える上では、本人の意志や背景の文脈を考慮するよりも、物理的な要素(肌の露出度など)を用いるのが妥当である、という見方もできる。
・清潔感がある
・常識があり、人の目が気になるようなことはしない
・素直である
・人に気が使える
・計画性があり、全体のことを考えられる
・男尊女卑ではない
・話し合いができる
・尊敬できるところがある
・コンプレックスが強くない
・金銭感覚が合う
婚活女が諦めねばならないとしたら、この中のどれをどのように諦めるべきか。
(重要度高い順≒常に出来てほしい順に◎○△×で表現、「◯」レベルで「日常ではできないこともあるがオフィシャルまたはクリティカルな場面では失敗しない可能性が高い」、「△」で「日常でできることもある、オフィシャルまたはクリティカルな場面では失敗しない努力ができる」ものとする)
たとえば、
・清潔感がある◯
・常識があり、人の目が気になるようなことはしない△
・素直である×
・人に気が使える◯
・計画性があり、全体のことを考えられる◯
・男尊女卑ではない◎
・話し合いができる◯
・尊敬できるところがある◯
・コンプレックスが強くない△
・金銭感覚が合う◯
最近の研究によると、人間は不安を強く感じると「動けなくなる」習性があるそうです。
動物として遺伝子に組み込まれた仕組みなのでどうこう言ったところで変えることは難しい状況です。避難者をこのまま増やすことは物理的に不可能です。
台風などで大きな被害が予想される場合、早期に避難所に向かうことに「うれしいメリット」を避難者に与えるようにして下さい。報酬系という脳の回路が刺激され強制的に自主行動が促されます。成功したPayPayの100万円プレゼントキャンペーンもこの原則を利用しています。
命を守るためですから現金をばらまいても良いですし、とにかく誰もが欲しがるもの、コト、サービス等を提供して下さい。報酬は性的なものでも法の許す限り構いません。食欲は少し動機づけが弱いかもしれませんがアイデア次第でしょう。
このような取り組みは行政がすべきことと思いますが、お役所の方々の仕事スキルや常識観では最新の科学的知見に準拠したクリティカルな対応は不可能と思われます。
NPO、ベンチャー関係者の皆様はどうかこのような事実と策が数多くの命を救える手段として存在することをSNSのつぶやきでも構いませんので教えてあげてください。今回助からなかった方々の死を無駄にしてしまわぬように。自分自身や大切な家族をも将来守るために。
ちなみに、人間の行動理解についてはノーベル賞にもなった行動経済学の書籍が参考になります。大変興味深い事実が明らかにされています。早速図書館で探す等、ぜひ一度ご覧下さい。
ああアホらしい。全くもってアホらしい。
何がアホらしいかといえば、例によってはてブの連中のことである。
あいつらここ数か月のトレンドであった表現の不自由展騒動を通じて少しは賢くなったかと思えば、全然そんなことはなく以前の位置から1ミリも動かずに、以前と似たような話題で延々騒いでやんの。
言うまでもなくhttps://togetter.com/li/1417228のことである。
例によっていつもの太田啓子弁護士の適当に難癖を付けて周囲のフェミニストを焚き付けて、いい感じに燃え始めたら自分はつぶやきを消して「え、私、そんなこと言いましたっけ」となかったことにしようとする火付けしぐさなんだから「はいはい、いつものね」と黙ってスルーしておけばいいのに、こぞってブクマをつけまくってやがる。
まあ炎上と喧嘩ははてなの華であり、この手のエントリに大量に集ってしまうのは蟻が砂糖に群がるのと同列の種の本能レベルなので仕方がないのかもしれない。
しかし、群がるのは仕方ないとしてもこの手の騒ぎはもう何十回も繰り返しているのだから、多少は認識をアップデートしてもらいたい。
しかし、はてブの馬鹿は馬鹿なので今回の件が表現の不自由展とは全然別物だと考えているのだ。はははは、馬鹿だ。
はい、馬鹿丸出し。確かに「表現自体を許さない」とのたまったネトウヨもいただろう。立川流を名乗るワイドショーのコメンテーターもいただろう。
だがそんな過激な言い分はまともに取り合っている奴らはほとんどいまい。
クソ馬鹿がクソ馬鹿なことを言っているだけなのだから黙殺して何ら問題ないし、この程度であればいくらでも反論可能だろう。
あいちトリエンナーレの一連の騒動で、一番問題になったのはそこではあるまい。
あの騒動で真にクリティカルな問題提起は「こうした表現に税金を使うのはおかしい」というものだ。
実際こうした意見に同調するかのように文科省は補助金を打ち切ろうとして非難囂々である。
そしてこのような「こうした表現に税金を使うのはおかしい」という考えの裏側にあるのは何か?
それは、この世には『良い/悪い表現』『許される/許されない表現』があるという考えだ。
もちろん世の表現にはR-指定や18禁といったように、特定の基準で明確に線引きが行われることもあるが、それはどちらかといえば例外であろう。世の大半のアートや表現がでそうした線引きが成されず曖昧なままであることが多い。
にもかかわららず、アートや表現に対してこのような線引きをして、弾圧・規制される。
それに対する問題提起こそが「表現の不自由展」のテーマの一つだったはずなのに、それを無視して「表現自体を許さない」という一番馬鹿げた非難を持ち出して「まったく違う」などと主張してしまっている。わはははは、馬鹿だ。
表現の不自由展にしろ宇崎ちゃんのポスターにしろ、世にある表現を良い/悪いに切り分けて規制しようとする。
この二つの問題について「まったく同じ」というつもりはないが、「まったく違う」はずがないのである。
そんなこともわからないようであるなら津田大介も草葉の陰で泣いているであろう。
あとついでにこのアホな。
tikani_nemuru_M id:memorystock 「公権力による規制と大衆からの批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違いを指摘したブコメを見ても「きちんと言語化出来る人がおらず」とか口走るから「表現の自由戦士」っていわれちゃう。
と、例によって上から目線でドヤ顔を披露しているがここでidコールされているmemorystockが問題視しているのは、
memorystock この絵やキャラを守りたいのではなく、規制理由をきちんと言語化出来る人がおらず「NGじゃん」「本当に嫌」が規制派トップなのはアレすぎではと危惧するものです。挙句「戦士」↓のような無意味な侮辱に逃げるし。
とあるように、あのポスターの批判派がポスターを撤去するだけの理由をまともに言語化していないことである。
だから、もし彼の意見に反論したかったら、あのポスターを撤去に値するだけの理由をきちんと言語化して批判する。
あるいは、既にきちんと言語化出来ている批判意見を持ってくれば良いだけなのだ。
にもかかわらず、相手が「規制理由」と書いたのをいいことに「公権力による規制と大衆からの批判」の違いを理解していないなどとドヤ顔で上げ足を取るのは、詭弁以外の何物であるまい。この件についてまともに話し合いたいのではなく上から目線で小馬鹿にしたいだけというのがはっきり伝わってくる。
また「 「公権力による規制と大衆からの批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違い」などと抜かしているが、他のブコメでも指摘されたように、そうした大衆からの批判が公権力による規制に繋がる危険性が炙りだされたのが表現の不自由展ではなかっただろうか。
文科省の補助金不交付にしろ、河村市長の座り込みにしろ、いずれも大衆からの批判がなければまかり通るものではあるまい。
もし、大衆からの批判が皆無な段階でこのような横紙破りを行えば、新聞各社は文科省に対する批難を毎日のように一面で展開し、河村市長にはリコールが飛んだであろう。
そんな危険性をつい最近目にしたにもかかわらず、得意げに「「公権力による規制と大衆からの批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違い」などと抜かしているから本当に薬のつけようがない。そんなんだからいつまで経っても労働組合が政治運動をする理屈の続きが書けないのである。
ああアホらしい。全くもってアホらしい。
一番グサリと来て、実際のところクリティカルな部分で、そしてそれ故に許せない部分が一番多かったコメントでした。
まず前提として、俺の物書きとしての能力の低さ、そして「アドバイスの受信感度の致命的な低さ」は特に否定しません。現に結果も出てないわけだし、元増田を書いていた時に「ムカつい」ていたのがそこだったことも否定しません。ちなみに編集者から貰ったアドバイスとして、「どうしても『エンタメ』を書きたいなら、なろうで勉強するべき」というようなことを言われ、納得した上で、今なろう系を読んだり、書こうと模索しています。
まず、そういう側面があるサークルなことは否定しません。っていうか、学生時代に入った直後は俺もそう思ってて嫌悪感さえ抱いていたし。そしてまあ、嫌われてるかと言われたら否定は出来ないな。少なくとも好かれてはいないんじゃないか? 特別には。
けど、まず、大前提として、サークルのみんなは俺が作家を目指していることを知っています。学生の頃に俺自身、強い言葉で作品を否定したこともあったし、そのしっぺ返しだと思えばまあ、仕方のない部分はあるとも思っています(実際、口だけ番長だと思ってる奴普通にいるだろうなー)。
けど、彼らはちゃんと俺の作品を読んだ上で、「ちゃんと酷評」しています。前回の感想会で貰った意見は基本全てメモしていますし、それに値する内容でした。俺のものだけ特別に文量が多かったのもありますが、俺の時だけ、それ以外の部員の倍の時間をかけて、ちゃんと意見を言ってくれました。
そして、この冊子に参加している部員(OB)は、ほぼみんなちゃんと「上手い」です。ある後輩は地方の文学賞で賞を取っているし、ある後輩は某投稿サイトのR18部門でランキングトップの常連です。俺と同学年で、俺がサークルに入った直後に読んだ作品は「ああ……こいつはダメだな」と思っていたやつは、今や脚本家の卵で、仕事も貰い始めていて、俺よりも小説が上手くなっています。僭越ながら、頼れる相棒であり、そして今この時点では俺よりも先を走ってる「格上」だとも思っています。
つまり、ごく端的に、俺が一番下手なんですよ。嫌われていようが、アドバイスの受信感度が極端に低かろうが、それは確かな「事実」であり、それ故に俺は、サークルのみんなを、同輩後輩問わず、(ほぼ)全員尊敬しています。
そしてそんな「嫌われている」俺と、この前一緒に旅行に行って、馬鹿騒ぎをする程度には慕ってくれている(まあケンカップルとか言われてますが……)後輩も確かに存在しています。酒を飲みながらやったカルカソンヌはくっそ楽しかった。
俺は今、どうしようもないど底辺で、現時点では作家になれる見込みもない、そんなどうしようもない奴であることは否定しません。
そして、書き方が悪かったことも否定はしませんが、しかしどうか、俺の大事な「仲間」を、「なれ合いサークル」の一言でくくることは辞めて欲しい。俺は尊敬してんだよ、あいつらを、マジで。
https://anond.hatelabo.jp/teraco/20190912
婚活を始めて、運よく何名かの女性と会うことが出来た。忘れないうちに思ったことを書く。
婚活は就活の面接官側の視点に似ている。多数存在する候補を書類で判断する、その書類には応募者のアピールポイントが記載されている、最初の出会いは数十分の会話飲み、という事が似ている。
就活の場合、企業側の視点で言うと学生のアピールポイントはほぼ何パターンかに絞られる。例えば、
など。何人もの履歴書を見ていると、おのずとパターンが見えてくるので、その期待値も設定される。例えばバイト頑張ってた系ならリーダー格で店舗改善までやってればAランク、ただシフトが多いだけのアピールなら大したことはない、など。
婚活でもこれと同じで
などのアピールパターンがあり、選ぶ側(今回は私=男性)は、自分の好みのパターンの人に選び、面接する。ただし期待値に届かない人も当然いて、例えば明るいと書いていたのに、会ってみると笑顔が少なく全く明るくなれないなど。こういった性格面の話は書面だけでは見抜けないのが、就活に比べて婚活の難しい所かなと思う。よって婚活が進んでくると、より書面だけで判断するよう材料を探し始める。例えば「明るい」を好むのであれば、具体的なエピソードが書面にあるか、などである。こういった家庭が、就活生を選ぶ企業側のテクニックに似ているな、と思った。
自分は婚活による結婚をそこそこポジティブに考えている。婚活は、相手が好きかというよりも、自分の条件に合うかという視点で探す。それは上記の「明るい」といった性格もそうだし、価値観も含めてである。それに合格した上で、人として(そこそこ)好きになれるかどうかで、相手を選んでいく。よって、自分の価値観を自分でしっかり表現して相手に伝えることができる、また相手もそうであれば、結婚後の価値観相違は起こり辛い。
恋愛結婚の場合、この順序が逆なので、どうしても相いれない価値観があった場合は問題になる可能性がある。まぁ恋愛結婚は数年付き合うのが普通なので、その中でクリティカルな価値観相違があれば別れているはずだが「こんなつまらない価値観の相違で分かれるのはおかしい」と思ってしまうと、中々別れられないんじゃないかと思う。
例えば、相手が好きだ、という感情と、将来持ち家に住みたい、という願望は関連がない。ただ、相手が田舎の持ち家じゃなく都会のマンションに住みたい場合、どちらかが折れる必要がある。自分の気持ちに折り合いがつけられればいいが、都会のマンションで問題があるたびに「やっぱり田舎の一軒家に住みたかった」と思ってしまうのではないか。
その点、婚活であれば相手を選ぶ時点でそういった相違を排除できるので、自分の生活も大事にしたい、といった人は条件で相手を選ぶ婚活もいいのではと思う。
こんちには。
ここではヒールワークについては触れず、他のベーシックな部分だけを取り上げます。
それでは好きなヒールをして頂いて、それでも今より火力向上させていきましょう。
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■スキル回し
簡単!
死炎法の部分は士気とか鼓舞とかに置き換えてもいいんじゃないでしょうか。
大事なのはGCDを絶やさず回し続け、ヒールしていない間はちゃんと殴る・Dotを更新すること。
できてますか?
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■ルインラを減らす
基本のスキル回しにルインラが含まれていないことからも分かるように、
死炎法が撃てるの状況でルインラを撃つと火力が落ちます。
滑り撃ちを練習してください。ギミック処理の際にもできるだけルインラを減らしましょう。
どうしても移動に必要なルインラは残りますが、できるだけ減らすんです。
ヒールワークを変えろとは言っていません。好きなだけヒールしながら、殴れるところではあなたの最大火力を出して下さい。
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■火力の落ちないヒール
ヒーラーはヒールしたら火力が落ちると思われがちですが、学者は火力を維持しながらある程度までヒールが可能です。
この蠱毒法の更新は30秒に1回あるわけです。ここでヒールアビリティを使いましょう。
そしてギミック処理にどうしても必要なルインラも残っていますよね。ここでヒールアビリティを使いましょう。
どの攻撃に対してどんなヒールをするかは自由に決めればいいですけどアビリティを使うために無用なルインラを増やさないよう意識してください。
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このエナジードレインを撃つタイミングですが、死炎法が撃てるタイミングでは撃たないでください。
死炎法の威力:280
死炎法が撃てる棒立ちタイミングで撃つドレインは威力70しかないわけです。シナジーが乗ってようが基本撃つべきではありません。開幕転化が悪手になりやすい理由でもあります。
エナジードレインを威力150で撃てるのは上述した蠱毒法の更新タイミングと移動に必要な削れないルインラだけです。
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■信仰
ヒールワークを変えないまま上記を実践するとMPが足りなくなるかもしれません。
つまり信仰を積んでください。あなたのヒールワークには信仰以外を積む余裕がありません。
MPが足りなくて死炎法が撃てないのであれば信仰を高めて撃てるようにしてください。
これはあなたのプレイにはクリティカル・意思・DHよりも信仰の火力貢献度が高いことを意味します。
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■おしまい
PTメンバーは誰もヒーラーに火力を出せとは言えない空気があります。