はてなキーワード: キズナアイとは
冤罪冤罪言ったりセカンドレイプする奴も、女叩きするミソジニストも死ねばいい。
男は犯罪率高いしはっきり言って欠陥品だと思ってる。滅んでほしいしどんな目に遭っても同情しない。
ヒールも履きたくないし、医大入試の女性差別も擁護する奴もクソ。
男性差別?黙れ。
でも萌え絵とか宇崎ちゃんとかキズナアイとかしずちゃんのお風呂シーンとかマルちゃん正麺とかお母さん食堂とか女子けんこう部とか正直どうでもいい。何でも噛みつきすぎ。
というか、ドラえもんは好き。フェミニストはのび太を目の敵にしすぎだ。
女体の性的消費も、セクハラにならない程度(この基準が難しいが)になら別にどうでも…
エロ漫画とかも架空ならどうでもいい。架空に留めてさえくれたら。
それはそれとして表現の自由戦士は大嫌い。
15歳のとき、ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズムの説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元の図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子の世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitterや消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。
何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州の田舎で育った孤独なティーンエイジャーにとって、フェミニストの冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドをもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業に就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動に血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場、教育、そしてマンガアニメなどの趣味の世界。それぞれの世界で活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。
でもこの十年、状況は様変わりした。映画やドラマはフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。
そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力や地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業は女性に配慮し、女性を雇っている。日本の大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。
そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズムは帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判は的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さない私たちの習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判をスクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判を攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズムに親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイやラブライブのポスターへの攻撃、宇崎ちゃんのポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽な圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分を反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ。
だから「日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしかに私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業に無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本の資本主義社会は私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのにやぶさかでない。20年前の男性社会は私たちをお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たちが仕事に学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的な後ろ盾になってくれている。
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
なのに、フェミニストが自分たちの共感の埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性を嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴、高収入な男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富なタイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的なお墨付きを与える。収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しかし私たち現役フェミニストは、フェミニズムを忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣な言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?
あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的な権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来のフェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界をアップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心と暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。
もっと良い何かとはどんなものだろう?私たちが攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代の女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。
弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。
もともとキズナアイが呼称し始めたバーチャルユーチューバー(以下VTuber)であるが、
数多くのVTuberを名乗る人たちを分析し、VTuberとは〇〇であるという結論を出したとする。
この時、キズナアイはVTuberか?と再度問いかけた時に、彼女はVTuberであると確信を持って言えるだろうか?
分析を進めれば進めるほどにそれが何であるのかわからなくなるのではないか。
それはそもそも当然で、特に深く考えて定義が決められたわけではないし、誰でも気分でなれるものだし、
それぞれが真のVTuberとはこういうものだというのを体現しているのである。
とはいえ多くの人が見ているVTuberとは一番人気のあるVTuberであって、その他のVTuberは視界には入らない。
多くの人が考えるVTuberとは彼らが日ごろ目にしているVTuberであって、それはつまり一番人気のあるVTuberということになる。
ならば私が全ての人気を奪い去り、VTuberの王となって民衆の持つVTuberの定義を塗り替えてみせよう。
くくくっ。
はははははははは。
順不同、敬称略。
今年導入されたTwitterの新機能フリート。24時間で消滅する発信の使い所に期待
https://www.youtube.com/channel/UCtL4YVGDSz3d9btmDLfMhfQ
はてなユーザー各位
この度は鬼滅の刃にハマり追いかけていたらVtuberファンになっていた件につきまして、その経緯を下記の通り報告します。
【発生日時】
【発生場所】
【内容】
鬼滅の刃にハマり、声優を追いかけていたところキズナアイをはじめとするVtuberのファンとなった。
【原因】
・鬼滅の刃の声優を追いかけていたことで、Youtubeを閲覧する習慣がついていたこと
・世界初のVtuberであるキズナアイの声やキャラクター性に惹かれたこと
・コロナ禍で従来の趣味ができなくなった中でYoutube閲覧時間が増えたこと
・リアルでのコミュニケーションが減った中、単に閲覧するだけでなくより参加感の得られるVtuberに自然と気持ちが向いたこと
【経過】
・2019年11月 鬼滅の刃にハマる(動画配信サービスの人気欄にあったため)
・2019年12月 Youtubeの「鬼滅ラヂヲ」をアーカイブを含めて見始める → 声優の下野紘・花江夏樹両氏のことを知り、興味を抱く
・2020年1月 下野紘が出演するAbema番組「声優と夜あそび」、花江夏樹のYoutubeチャンネルを見始める
・2020年3月 「声優と夜あそび」での下野紘出演回をアーカイブ含めて全て見終わる
・2020年4月 「声優と夜あそび」の番組に新たに参加した上坂すみれのことが気になり調べだす → キズナアイとのコラボ動画にたどり着き、初めてVtuberのことを知る
花江夏樹のYoutubeチャンネルにて「Inside」のゲーム実況が始まる → 関連動画でキズナアイの動画が出てきたため、先の話を早く知りたくて閲覧
Inside実況で主人公のことをキズナアイが「マリオ」と呼んでいたことから連想してマリオ動画が見たくなり、キズナアイの「マリオオデッセイ」の実況シリーズも見始める
その他のキズナアイの過去動画も見始める → 過去に炎上したことがあって、再出発しているタイミングであることを知り、その姿勢に共感し応援し始める
コロナ禍で自宅時間が多かったため、キズナアイの歌動画を流しながら過ごすようになる
・2020年5月 YoutubeのLive配信で初めてのコメント投稿 & メンバーシップ登録開始
・2020年6月 過去動画でのコラボや新たなコラボなどを通じて他のVtuberのことも知るようになり、気になった人をフォローするようになる
以上となります。
この度は鬼滅の刃ファンの方々にご迷惑・ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。
始めに言っておくと公立中学を「動物園」と表現するのは、それが正確かは兎も角許容される事だと思う
ただし普段、表現にそれと同等かそれより厳しい基準で批判を行っていないなら
公立中学を「動物園」と表現してそれへの批判が燃え上がり、擁護する人も出る中で、
私が思ったのは「随分お優しい事だなァ」という事だった
現代において表現するという事はポリコレ等等様々な基準でジャッジされ、炎上させられる危険と隣り合わせという事、その基準から言えば「あんなの燃えて当然」というのが本音だ
例えば漫画やアニメのキャラクターが「公立中学は動物園」と表現したり、作者やアイドルがそういう発言をしたら、当然燃えるだろう
今回擁護側に回ってる人の中にもそういうケースなら喜んで叩く側に回る人、いんじゃないの?とも思う
それがはてブのコメントなら擁護する、というのはどういう事なんだろう?
今回批判の槍玉に挙げられがちな「はてなリベラル」への反感は、そういう事なんじゃないだろうか?
普段は非常に厳しい基準で表現をジャッジし、批判しているのに、いざ自分達がその対象に成ったら急に表現に寛容になる
例え自分が当事者でも、特定の人達を動物に例える表現は本来結構過激な部類に入る発言の筈だ、当たり前に人を傷付ける表現でもある
そこに寛容なのに、じゃあアレ(宇崎ちゃん)は?コレ(キズナアイ)は?ドレ(アツギタイツ)は?ソレ(ラブライブみかんパネル)は?
あなたはそれにどういう態度を取っていたんでしたっけ?
となる
問題なのは動物園発言やそれに☆を押した事では無い、普段表現に厳しいのに自分達だけには寛容、というダブルスタンダードだ
普段表現に厳しくないなら、動物園発言も、それを支持する☆も、問題ではあるが許容される範囲、なのではないか
「自分に寛容、他人にも寛容」より、「自分(とその仲間)に寛容、他人に厳しい」人が非難されるのは当たり前の事だろう
私が切にお願いしたいのはそれだ、「同じ基準で裁いて欲しい」
表現がポリコレ等の厳しい監視の目を向けられる事はもう、諦めている
サッカーをしていて審判がぐでんぐでんに酔っぱらっていたら不安にならないだろうか?それでレッドカード出されたら納得できる?
私達表現者にとってジャッジはあなた達だ、特にポリコレ支持者、リベラルが多いらしいはてなはその筆頭だ
つまり私の不安は「あなた達は酔っぱらっていないか?」という事だ
現状、あなた達のジャッジが正確で、公正で、平等で、恣意的では無い保証は何処にも無い、ジャッジの飲酒検査は完了していない
そこにきて動物園発言だ、「もしやジャッジ、酔っぱらって無いか?」となるのは必然だろう
ではせめて、同じ基準であなた自身や、その仲間、あなたが好きな表現、好きな人を裁いて貰えないだろうか?
あなたがあなた自身やその仲間の審判をゆだねて良いと思える基準なら、ある程度ではあるけど安心はできる
逆にあなたが「いや、自分が対象に成るのは御免だ」と思うような基準は、当たり前だがこっちだって御免だ
そして同じ基準で裁く為に必要なのは、そもそも基準を明確化し、言語化する事だ、まずはそれすら覚束ないジャッジがとても多い(ルールが明確じゃないジャッジ程怖いものはない)
自分が普段表現をジャッジしている基準は、明確に言語化するとどういう基準か?それは不自然な部分や可笑しい部分が無いか、自分に適用しても問題無いか、矛盾は無いか
そういう事を一度立ち止まって、冷静に考えて欲しい
キズナアイですら自分のアバターをさして私カワイイと言うことしきりなので
人間は自分の魂とアバターを同一視できるようにはできていないのだ(※)
エロゲ声優だってキャラの横乳萌え語りとか添い寝ベッドシーツ語りとか普通にしてる人いるしな
演者側ですらそうだから見ている側もそれ以上に別のものと捉えてるんだよね
なので同一視できるかのように語ってるのはオタクの(被害者が存在しない)性的消費を誹謗中傷したい類の人だけ
まあとはいえ公式がやっていることの範囲では、の話であってもっとラディカルな他人が勝手にやること、たとえばエロMMDとか見せられたら不快に思う人はいるだろうね
※ただしキズナアイが自身のアバターを褒めるのは魂とキャラが分離したメタ発言であり演技が破綻している、というわけではなく
自身がAI、アルゴリズムにすぎないものでアバターは人間によって作り与えられたもの、のような認識をもっており設定時点で分離しているため、設定遵守の範疇と捉えることもできる
単語の組み合わせで読めばアバターを持つyoutuberに過ぎないが、バーチャルユーチューバーという単語を明示的に使い始めたのはキズナアイなのでロールプレイの意味合いを含むと見た方がよさそう。
微妙なのはVtuberという略称を使い始めたねこますは間違いなくアバターを持つyoutuberなので、流行り始めた頃にはもうその意味合いが抜け落ちていたこと。
キズナアイから始まったVtuber=Virtual YouTuberは,もともとはアバターを使う生主を指す言葉ではなくて、
中の人が自分はキズナアイではないと主張するように、あくまで仮想、架空のキャラクターがYouTubeのような現実でのメタ的な活動をする
YouTubeにおける芳賀ゆい的系譜の存在を指していたはずだったんだよな。
それがいつからか捻じ曲がってアバターを使った生主を指すようになってしまった。
キズナアイが全く新しかったかと言われればそうではないとはいえ、生主のようなありふれた概念ではなかったはず。
視覚的な意味での二次元コンプレックスをこじらせた人に対しての訴求力がある点で、従来の生主との差別化はできてるとは個人的に感じて、そういう部分で楽しんではいるけど、
そこに魅力を感じない人に対して、そこが新しい!と主張する気にはまったくなれないのは紛れもない事実だと感じている。
結論に異議はないが、しかし結論に影響はない程度で擁護したい部分があるので説明させてくれ
(そしてVtuber嫌いにはここを知らないためにイマイチ的を射ていない投稿をする人が多いので、擁護だがより正確な批判のための補足情報でもある)
まだ流行りだす前、キズナアイとかが自分のチャンネルに閉じて活動していた時代は新しかった。
その時代も別に技術自体は少し前からあったし動画内容はゲーム実況だし…という感じでコンテンツの内容に新しいものはなかったが、
まだ作り手も消費者もキャラクター性の作りこみを重視していたので「あくまでアニメキャラがリアルに近いレイヤーで活動している」という感覚が今より強く、そういうプレゼンの部分で新しいものがあった。
しかし、「リアルとの近さ」が魅力のファクターでは当然の帰結だが、よりリアルをさらけ出すキャラが話題を生むようになり、
同時にVtuberというカテゴリがそれまでの二次元コンテンツとは別ジャンルとして認識されたことでアニメキャラらしさを作りこむ必要性も薄れてしまった。
結局生主をやった方が金になるので当初新しかったキズナアイらも今は生主コンテンツに舵を切っている。
Vtuberの話をしたいときに厄介なのはキャラクター性を重視していた、新しそうな時代も確かにあったという部分で、アンチ・無関心層はともかくオタクの中にもそこから認識が変わっていない人がちらほらいる。
そういうオタクが元増田のような無関心層にわざわざ拒否反応を起こさせたり、逆に「これじゃあ生主じゃん…」と一人で落ち込んで謎のお気持ちを投下して界隈のイメージを下げたりしているが、
基本的に界隈全体としては(特に運営サイドは)もうとっくに生主コンテンツとして運営/消費している。
ここまでVtuberを悪し様に書いてきたが、個人的には魑魅魍魎の生主界隈に事務所が入って上層部を掬い上げるシステムができ、芸能界の片隅にポジションをとれたのは普通に良かったねと思っている。バーチャルなんも関係ないけど。