はてなキーワード: 新人議員とは
@soedashiori
⬛︎泉南市議会議員⬛︎ 靖國神社青年部あさなぎ(西日本支部理事)/自衛官募集相談員/ウイグルを応援する全国地方議員の会/大阪拉致議連/自民党大阪府連青年局青年部幹事長/厚生文教委員会副委員長
https://twitter.com/soedashiori/status/1776596010271129874
3年前のやり取りではなく、3年前から始まった現在進行形のやり取りですね。
デートの誘い等を頻繁に約1年間も続けられるという“冗談”は、新人議員にとっては中々高度過ぎました。
返信しないとキレられるし、いつ機嫌損ねて吊し上げられるかわからないという恐怖もありました。
https://twitter.com/soedashiori/status/1776600374515769623
https://twitter.com/soedashiori/status/1775898780875039178
いつか宝塚の隠れ家に招待したい😊
え、でーとしてくれるの?😊
でも口説く前にふられたみたい😑
自民党の派閥のパーティーの売上が簿外でキックバックされていたと報道されている。一般の人からすると分かりづらいから解説する。
自民党には複数の派閥が存在し、これらは法的には単なる政治団体に過ぎない。
以前は選挙公認権と党内の権力争いにおいて中心的な役割を果たしていたが、小選挙区制の導入によってその影響力は大幅に減少した。
それでもなお、党や内閣の人事において一定の影響力を持ち続けており、多くの議員が派閥に属している。
実際には、選挙に立候補する際、党内の支援を受けるために派閥に入ることが多く、人間関係の絡みで加入が必須となるケースが多い。
最近では無派閥の議員も増えているが、彼らはしばしば「実際は隠れ〇〇派」と見なされることがある。
自民党の派閥は、主に国会会期中に毎週木曜日の昼に集まって食事をし、年に一度の宿泊を伴う研修会を開催する。
また、関連する国政選挙や地方選挙で互いに支援を行い、秘書を派遣したり、名簿を提出したりする。
これにより議員間の顔の見える関係が形成され、自然と親密になる。
国会議員であると、自分の専門外の地域や分野に関する陳情を受けることがあり、こうした時に派閥内の人脈が役立つ。
さらに派閥は年に二回、議員へ資金を提供する(これは公的な収支報告書に記載される)。
派閥は法人格を持たない単なる政治団体であり、税金が投入されていないため、活動資金を自ら稼ぐ必要がある。
各派閥は永田町付近に事務所を構え、複数の職員を雇用しており、これらの固定費用も発生する。
派閥が資金を稼ぐ主な手段は、パーティーチケットの販売である。
これらのチケットは1枚あたり2万円で、多くの派閥が年に1回、5月か6月にパーティーを開催する。
派閥内でのパーティーチケットの販売ノルマは、所属議員の当選回数や派閥内での序列に応じて割り振られる。
例えば、新人議員は50枚(100万円相当)、中堅議員は200枚、ベテラン議員はそれ以上の枚数を割り当てられる。
しかし一般的な感覚とは異なり、ノルマに応じて直接チケットを渡されるわけではない。
例えば100枚のノルマがある場合、200万円を支払って100枚のチケットを受け取るわけではない。
政治家のパーティーチケット販売において、ノルマがあっても議員はそのノルマを超える数のチケットを自由に持ち帰ることができる。
例えば、ノルマが100枚であっても、希望に応じて200枚や300枚など、それ以上の枚数を持っていくことが可能です。
これは自民党の派閥に限らず、他の政党や他の議員のパーティーにも同様の慣習が適用されると思われます
末端での政治家のパーティーチケット販売は、議員とその支援者や企業間の関係に深く関わっている。
販売ノルマを負担する議員は、支援者や企業に対して直接、または電話でチケット購入を依頼する。
この際、議員本人や秘書がアポイントを取り、面談を行うことが一般的です。
面談でのお願いは、「10枚お願いします」や「20枚お願いします」といった具体的な枚数のリクエストを含む。
たとえ相手が「枚数を検討します」と返答しても、議員は「10枚、なんとかお願いします」と言ってその場で10枚を渡すことがある。
相手が「5枚で」と答えても、「余分に置いておきますので、ぜひお願いします」と言って10枚を渡すこともあります。
更に議員が一方的に郵送でチケットを送るケースもあるかもしれません。
このようなパーティーチケットの販売方法は、後に振り込み口座の結果を確認することで売上を把握する。
議員は、購入されたチケットの数を確認し、「10枚買ってくれた」と喜んだり、「やはり5枚か」と落胆したりする。
例えば、ノルマが100枚(200万円)の議員に300枚(600万円分)のチケットが渡された場合、パーティー後の振り込み口座を確認すると、複数の企業や個人から合計300万円が振り込まれていることがある。
この場合、残った150枚(300万円分)のチケットを回収すれば売上を正確に管理できるが、議員事務所が多めにチケットを配布しているため、実際の回収は難しい。
さらに、議員事務所側では、支援者が振込で支払う場合は売上の管理が可能だが、現金で支払われることもあり、その場合はさらに管理が複雑になる。
このように、政治家のパーティーチケットの販売と売上管理は、多くの複雑さを含んでいます。
このパーティーチケットの販売システムでは、売上金とチケットの数が一致しないことが問題となる場合があります。この状況を悪用すると、不正行為が発生するリスクがある。
1.不正行為の可能性: 一部の議員が、派閥のノルマは達成したので現金で受け取った売上を秘匿することがあり得る。また、秘書が実際には10枚売れたチケットを5枚と報告し、その差額を不正に利用することも考えられる。
2.領収書の問題: 派閥の印鑑が押された領収書がチケットと一緒に提供され、これにより事務所が売上の運用を裁量で行えるため、さらに複雑化する。管理が不十分な事務所では、5枚のチケットに対して3枚分しか支払われなかった場合でも、支援者が5枚分の領収書を持っていることがあり得る。
3.枚数管理の困難さ: 一部の議員や団体がまとめ買いをしてさばくこともあり、これにより枚数の管理がさらに困難になる。結果として、派閥はノルマ分の金額の上納を重視し、超過分は議員事務所に返還することが一般的になる。
これらの状況は、政治資金調達のシステムにおける管理の課題や、潜在的な不正行為のリスクを示しています。政治的な資金運用の透明性と責任ある管理が重要であり、これらの課題への対策が求められます。
こんな感じでやり直し!
40代男。妻子あり。転職活動にまつわる様々で日々へとへとになっているある日、駅前で立憲民主党の女性議員が演説をしていた。僕が見たときには先輩と思しき男性議員がマイクを持ってこんなことを話していた。
「女性が差別される、報われない、この社会を変えていかなければならない」
「LGBTQへの理解を進めて、多様性のある社会を実現していくために、今こそ**議員のような人が……」
直感的に、ほとんど本能的に「こいつ嫌いだな」と感じた。女性であり、多様性を訴える新人議員の仮想敵は当然ヘテロ男性である自分のような層だ。「あなたたち、どきなさい。あなたたち男性が、不当に私たちの権利を侵している」。そんなことを言われたように感じたんだろう。もちろん、ちょっと冷静になれば若手議員の訴えるのは社会の変革であって、自分のような個人を攻撃しているのではないことくらいわかる。だけどその時は疲れていて、「女性である」というラベルを全面に出して演説されると直感的に「あなたたち男性が悪い」と攻撃されているような気分になった。
「こいつ嫌いだな」と感じた自分がすごく嫌だった。自分もリベラルを自認する人間だし自民一強が続くのはどうかと思っている。にも関わらず、「なんかこいつ嫌い」と感じたのは、一つには自分が疲れていたからだろう。
転職活動でへとへとだった。前の会社を納得のいかない理由で解雇され、行き場のない怒りを毎日感じながら転職活動をしている。資格取得のために勉強しているが、家には居場所がないので図書館やファミレスを転々としながら勉強している。家族からの目も冷たい気がする。気づかないふりをしている。そんな中で↑のような演説を聞いた。「お前ら男性のせいで私たち女性が苦しんでいる」と言われて「いやいや、俺は既得権益層ではないよ」「弱者はむしろ今の僕だよ」と感じる。自分も軽度だが障害を抱える人間だ。しかし自分はそのことを声高に人に言ったり訴えたりしない。そういう「自負」があるから逆に、マイノリティであるというラベルを声高に訴えるあの新人議員の言葉に過敏に反応してしまったんだろう。
応援の先輩議員からマイクを渡されて挨拶する新人議員の言葉は本当にたどたどしくて、「まだまだ勉強中ですが」「これからの私ですが」のようなことばかり言っていた。なら勉強が終わってから選挙に出て来い。……とは思わないようにした。
こんな簡単に対立とか断絶って生まれるんだな、ちょっと疲れてたってだけでこんなふうに感じてしまうんだから、本当に「自分こそ弱者だ」「報われていない」と感じている人たちからすれば、あの新人議員は凄まじい憎悪の対象になるだろうな。「あいつこそ俺のパイを奪おうとしている悪だ」--。
そんなことを考えた。
N国みたいなクソでも知名度は最強の武器である。悪評がすぎると流石に駄目っぽいけど。
そう、立候補を知ってもらうことです。
はてサくんたちは意気揚々と赤松の批判をするために毎日のようにホットエントリさせているけど、
赤松を知らん奴にこれ以上ない単純接触効果を齎してるだろうね。
人気コメントを読まずにブコメするやつは山ほどいるし、単純にリンクを見るだけのユーザーもいる。
それで知って得票してくれる人が現れたら儲けものだね。
毎日はてブして情報集めるのが大好きなネットウォッチのオタクくんからしたら信じられないだろうけど、
政策批判してる人が多いけど意味がない。そもそも新人議員の政策なんて政党でまともに通らない方が常識で話半分に思うのが普通。
立憲の支持率見てれば一目瞭然なんだけど日本じゃ少数派の意見でしかないんだよね。
シングルイッシューで組織だって集まっても比例で1議席も確実に取れないみじめな結果がハッキリ示されたくないから、
我らに正義あり!と言うだけでまとまる事すらできない。
それに対してオタク君たちは自民党の力を大いに借りたけど、シングルイッシューで団結して1議席を獲得できた実績を作った。
結果を示したことがリベラルからしたら憎くて仕方ないんだよね。
だからこそ、新人議員でしかない山田太郎に異常な粘着をせずにいられない。
例えば、自民で参院比例の1期目の宮崎雅夫さんや三浦靖さんが何をしてきたか知ってる?誰も答えられないんじゃない。
ワイも知らんし。
ネット社会で団結できないリベラルと団結するオタク君の格差を直視させられて辛いのは分からんでもないけど
国会やメディアで問題になっている文通費の問題点は1日で満額支給とかって論点じゃなくて領収書の添付等なく好き勝手使えることが本当の問題です。
各党はこれに気づかれると厄介だから早々に新人議員に返納(寄付)を呼びかけ幕引きを図ろうとしていますが、1日だけ務めたとしても新人の国会議員として国会内や地方に事務所設営などに費用はかかりますので適切な収支報告さえあれば満額支給しても問題ないわけです。
逆に毎月毎月裏取りもせずにほぼ給与みたいな扱いで経費として100万円を渡す方を規制しないと根本的な歳費の削減には繋がりません。
歳費は別に出てるのですから文通費は自主的にでも領収書を添付し、必要のない費用は継続して国庫返納できるように議論されるべきなのですが、上手いこと逸されててなんだかなぁと思います🤔
違う。
山田が機会主義者で表現の自由の破壊者であると見做されている。
論点は3つ。
1.元々「表現の自由戦士」という揶揄が広まったのは在特会がヘイトデモをしている頃で、ヘイトスピーチ規制派と反規制派がいがみ合っていた。
その時反規制派が「これは根源的な表現の自由だ」という主張をしていた。破廉恥な表現こそ守られなければならないのが本当の表現の自由だという主張をしていた。
だがその具体的に「守る」とされていた行為は殺人などの脅迫だったし、批判にも表現の自由の侵害と反駁しており、何より2次元エロとヘイトスピーチの擁護以外彼らは興味もなく寧ろ冷笑的だった。
2.オタクはずっと野党側の表現の自由擁護議員をパージするという事を繰り返していた。
アイデンティティポリティクスで篭絡されて利益の為の行動が出来なかった。
3.第二次安倍政権以前では保守を標榜するが地盤が無い者は表現規制を標榜するのがありがちだった。それは安易だったから。
1970年代から漫画や悪書追放は保守派の根強い運動で、特に宗教右派が熱心だった。この為、表現規制派を標榜するとここに訴求して安易に票田を得ることが出来た。
族議員が強かった時代の自民党のニッチなの。そして第二次安倍政権以後はこの手の議員が強くなっている。
だから山田は新人議員として(3)の表現規制界隈に近いところで活動をする他なく、(1)2次エロの自由以外の表現の自由には抑圧的なオタへの訴求だけしか考えず、(2)アイデンティティポリティクスでの篭絡でオタの支持を維持して、結局表現規制に加担するのではないか?と疑問を持たれている。
統一教会への接近で炎上したのはこういう構造の為、「ほれ見た事か」となったわけだ。
彼の支持者は彼の行動を何でもかんでも擁護すると2.のアイデンティティポリティクス型支持に陥ってしまうという危惧が足りない。
祖父・岸信介に憧憬を抱き、祖父が目指した道筋をたどることで「認められたい」
晋太郎の戦争体験を「思想形成に影を投げかけていた」とネガテイプに捉え、岸の青春時代(大正期)を「日本が大変飛躍的な前進を遂げた〈栄光の時代〉」と憧憬を隠さない。安倍の歴史認識の原点がここに読み取れる。しかし、よく考えれば祖父の青春時代も父の戦争体験も、安倍はもちろん直接知らないし、恩師や学友が言うように歴史の書物を繰って勉強した形跡もあまりない。それでも「祖父は正しい、父は間違っている」と断を下したのは、おそらくは「パパより、おじいちゃんが好き」というようなパーソナルな体験によるのだろう。
安倍の新人議員時代の読書も、純粋な意味での知識の吸収というよりは、幼心に刻まれた「おじいちゃんは正しい」という思いを確認する作業だったように思える。「おじいちゃんのやったことは間違っていなかった」とする「岸史観」が、首相に就いた安倍をして憲法から安保、教科書に至るまで、戦前回帰とも思える戦後体制の否定にひた走らせているのではないか。
スマホも情報ツールなんだから、会見場にPC持ち込むのと同じ感覚で、
会議中だろうとテレビ番組出演中だろうと、スマホをいじればいい。
そりゃぜんぜん関係ない遊びをしてたら良くないけどね。
新人議員なんかはスマホでちゃちゃっと用語や法律や統計データを調べ、
議論を聞きながら自分でソースを確認して、自分の頭で考える助けにしたらいい。
もちろんある程度予習して暗記しておく部分は必要だけどね。
絶対知ったかぶってる部分があるくせに机と向き合ってるだけって愚図だろう。
話す、考える、という行為が付きまとう場には常にスマホがあっていい。
「フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である」
のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団が一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています。
平民(第三身分)は、農民や都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わずに家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワと民衆との境界層です)。しかしブルジョワと民衆は意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。
ブルジョワと民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります。
普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオンが総裁政府を軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます。
しかしその当時フランスの社会構造がどのようなものでフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります。
わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきます。ブルジョワと民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた
などを読んでみてください。
があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。
(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分の強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)
1789年5月5日にヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分が強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。
しかし7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民は政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵を組織します。
7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆が殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まり、バスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます。
新たに組織されたパリ市政当局とブルジョワの民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります。
一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります。
自由主義貴族だけでなくブルジョワの議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます。
8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます。
これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます。
しかし王は特権廃止の法令も人権宣言も批准せず、9月末には治安維持の名目でヴェルサイユに軍隊を集結させます。
10月5日に食糧危機を訴えるパリ民衆がヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令と人権宣言を批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会もパリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内の政治分裂も本格化していきます。
(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)
議会がパリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較的平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます。
1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます。
また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命か反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります。
さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こります。カトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるもののフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります。
91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります。
これを受けて、外国に支援された亡命貴族が攻めてくる、外国の侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制もしかれます。
7月には主要な政治組織であるジャコバン・クラブが、王の廃位と共和制を要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。
8月にオーストリアとプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族の陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます。
そうしたなか9月3日に立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。
(インフレや物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます。国内の多数が開戦を支持するなかオーストリアに宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります。軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆の恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位が要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会は王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会の召集を決議します)
憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員のほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派のフイヤン派が議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます。
なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党は存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥の議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります。
また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります。
議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義をあくまで守るのか、民衆の要求を受け入れるのかも問題になっていきます)
これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治のイニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉で対外戦争をあおります。民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。
92年3月、フイヤン派の大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリアに宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争はナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。
しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆が政治的に組織化されていきます。
そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件は偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。
ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会の召集を決議します。これでフランスが共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります。
(戦争はフランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土を占領します。93年1月には国民公会の裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土の占領や国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争に突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります。議会ではジロンド派と山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派が民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派は逮捕、議会から追放されます)
8月10日に王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命、裏切り者を排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者が逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり、義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。
そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースがパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。
この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります。
一方、この事件は国外からの印象を非常に悪いものにします。宥和政策を取っていた隣国スペインの首相も宥和政策を撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命に好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます。
戦況にも変化が生じます。フランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)。
普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められています。フイヤン派は出馬していないので議会におらず、共和制穏健派のジロンド派と共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派がジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)
ジロンド派は経済的・政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則をあくまで重視し、山岳派は革命の推進と防衛のためには民衆の要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。
……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。
93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派の一党独裁(ただし基盤の脆弱な独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります。