はてなキーワード: 聖人とは
ハリポタが地上波で放送されるたびにスネイプ聖人ジェームズ畜生扱いする人がよくいる。
個人的な見解だけどハリーポッターには聖人も畜生もいなくて、ただどんな登場人物も結局のところ一人の人間であった、という話だと思う。
中心的な人物には皆美点と欠点があってだからこそ根強いファンの多い作品だと思うのに、単純なラベル分けで終わってしまうのではあまりにもったいないと思う。
主人公最大の庇護者でまるで神のようだったダンブルドアも過去のあやまちに苦しみ結果的に死を招く(直接的にそれで死んだわけではないけど)人間であったし、最大の敵として立ちはだかるヴォルデモートもまた人間だったと思う。
原作ではハリーとの短い問答の末、たった一度の呪文でごく普通の人間と同じように死んでいる。正直映画の肉弾戦ありのやたら長い戦闘シーンと塵になって消えるところはやり過ぎだと思った。
同じようにジェームズも十代の頃は自分の才能に酔ったどうしようもない馬鹿だったころもあるけど、ヴォルデモートと戦うために不死鳥の騎士団に入り、実際に四度彼と戦っている。
少なくともジェームズはマグル生まれを差別することはなかったし、リーマスが狼人間と分かった後も差別しないどころか彼のためにアニメーガスにまでなった。
マグル生まれも狼人間も自分自身ではどうしようもできないことで、しかも後者には危険が伴うにも関わらず受け入れたジェームズは本当に良くも悪くもグリフィンドール生だったと思う。
一方スネイプは命がけで二重スパイの重責に耐え、逃げることも投げ出すこともしなかった勇敢な人だ。
ただその一方でマグル生まれに対する扱いは酷いものであったし、リリーには何もせずとも、自分の友人がリリーの友人であるマグル生まれの生徒に呪いをかけることを止めもしなかった。リリーに頼まれたとしても。
ジェームズたちにスネイプから自作の呪いをかけることもあった(騎士団のリーマスの発言から)。
教師になってからもスリザリンへの依怙贔屓はまあひどいものだったし、ハリーなんて何もしてないのに最初の授業からいびられるという……。
それでもスネイプは愛した人のために命を懸けたし、その人が死んだ後も彼女の忘れ形見を守るためには手段を選ばなかった。
あんまり言われてないけど死の間際でもただそのために行動したところってものすごいことだと思う。普通助けてくれとか恨み言のひとつも言ってしまいそうにならないかな。
ダンブルドアには組み分けは早急過ぎたんじゃ、とも言われてたけど、手段を選ばないところもドラコを庇うとこや依怙贔屓なんかの身内意識の強さもまさに良くも悪くもスリザリン生らしいと思う。
映画ではサクッとスルーされたけど超やなやつだったハリーのいとこのダドリーは7巻冒頭で和解してるし、ペチュニアおばさんはなんともいえないほんの一瞬の別れがあるし、ルーナは最高なので映画もいいけどみんな原作もいいとこいっぱいあるからみんな読もうぜ
「明治」の出典は『易経』の中に「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む」という言葉の「明」と「治」をとって名付けられました。明治改元にあたっては、学者の松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応四年(明治元年)九月七日の夜、宮中賢所(かしどころ)において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました。
五経の一つ。儒家の重要な経典。宇宙の原理・万象の変化を陰陽二元をもって説き、人間道徳も陰陽消長して万物を生成する天道に従うべきだと説く。
※『書経』 五経の一つ。上は尭舜から下は秦の穆公(ぼくこう)にいたる政治史・政教を記した中国最古の経典。
※『五経』 中国の古典である経書のうちでも代表的な五つの書物。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』をいう。前漢の武帝の時代に、この五書を五経と名づけ、それを専攻する五経博士を置き、儒教を国教化したときに始まる。儒家の基本的教科書であった。
※『史記』 二十四史の一つ。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。
ふーん。て事は、やっぱ漢文とか国語学者みたいなのと一緒に決めるんかな
公募はないよね
http://anond.hatelabo.jp/20160621003527 の追記
あの記事の趣旨は、まだ気づいていない同じような加害者たちに伝えるためで、懺悔のためではなかった。だから、ブコメで真っ当な人たちにボコボコにされているこの反応は当然だと受け取っている。犯罪者だな、と言い捨てられるような、真っ当な人たちには理解できなくて当たり前だよ。真っ当な素養を持って生まれた人には、崖の端っこを歩いている、若しくは踏み外してしまった人間の思考回路はわからないんだと思う。でも、そんな真っ当な人間ばかりじゃないんだよ。犯罪者の素養という爆弾を持っていても、それを外から見つめてうまく自分をコントロールして、何とか普通に社会で、胸を張って生きれるようになりたいんだよ。俺は、ボコボコにされるとわかっていながらも、こういう文章を書く。同じような過ちを犯しそうな奴らには早く気づいてもらいたい。それが俺が社会に対してできることだと思っている。じゃないと叩かれると分かってて書かない。俺の文章は、まともな人たちに向けて書いたんじゃない。俺の文章は、俺のキモい思考回路がそのまま入ってくるような、同じようなやつのために書いたものだ。なぜ俺が「皆」と、呼びかけたのか。それは、ただ「DV加害者の皆」と呼びかけても、当人たちは気付いていなわけで、一般化することで、自分のこととして考えて欲しかったからだ。それが、誰かの気を逆撫でたかもしれない。
その後、被害者側に立った話もあるけど、ずっと後の話で、俺はその人を変えられなくて、そもそも人を変えることなんて無理で、そこからは離れた。だから被害者側の気持ちも多少なりと分かるけれど、それとこれとは別の話だし、「本当の意味でお前は分かってない」と結局罵られる。だからその話はしない。一人っ子だったことだけが原因ではないことは理解してるけと、半生を語るわけにもいかないから、その話もしない。人は逸脱行為の理由を、単純化や抽象化して理解したがるものだから、そういうものだと思っている。
例えば「恋人と貴方のやりとりは、友達にそのまま見せられるか?」と問われて気付いて、行動を変えて、それから「成長した俺、かっこいい」と思っていたとして、それはキモいことだけど、それでDVが止まれば、結果的に社会にとってはいいことじゃないかなと思う。
あの記事で謝罪したところで、彼女には届かないし、あの記事で謝っても話の焦点がブレてしまうし、俺のための懺悔にしかならないから、あそこでは特別に謝っていないけど、俺はあの後数年かけて彼女に謝り続けたんだよ。書かれていない背景を想像して徹底的にコメントで叩かれているけど、それは書いていなかったことだから仕方ない。もう別れていてたけど、学校という同じ空間にい続けた。言葉だけの謝罪なんて意味がなくて、自分が変わりつつあること、変わったことを示し続けることでしか、信頼を回復できないと思った。最初は口も聞いてくれなかったし、怯えた目で俺のことを見ていた。けど、数年経って、態度が柔らかくなってきて、それからはお互い恋人がいる状況でも困ったことがあれば相談してくれてそれを本気でお互い解決したりもして、お互い結婚した今は向こうから声をかけてくれるくらいのお茶友達だよ。実際心の底で許してくれてるかなんてわからないし、許して欲しいと思っていないし、許されないことをしたことは変わらないけど、それ以上どうしたらよかったんだろうか。
「またきっかけがあればきっとやるよ」「殴る相手がいなかったから殴らなかっただけ」「サイコパス野郎」と言われても、その後同じようなタイプの大人しい子とも付き合ったけど殴らなかったし、暴言も吐かなくなったし、今は本当に大人しい奥さんだけど、同じような状況になっても殴る気持ちなんて起きない。そういう人は俺が刑務所に入れば満足するんだろうか。その人は、俺が刑務所に入っても、当人たちがもういいと言っても、俺がどんなに変わっても、きっと満足しないで、犯罪者のレッテルを張り続けて、俺を社会に参加させないようにするのかもしれない。10年そういった行為をしないでいるけど、それでもお前の本質は変わらないよと言われる。俺は、どんなに更生しても一生犯罪者と呼ばれて、やり直せないのかもしれない。
犯罪心理学にラベリング理論というものがある。非行に走る者に非行者というレッテルが貼られて、社会からつまはじきにされるせいで、非行者たちが自暴自棄になって非行を繰り返したり、非行者たちが集まって更なる非行行為に走るというものだ。おそらく貴方たちの中で俺のレッテルは、一生剥がれないのだと思う。もうそれでいい。周りが何と言おうとどう見られようと、俺は俺の意思で、もう二度と人を傷つけない道を選び続けるから、それでいい。素質や頭の中がどうであろうと、俺はもうやらないし、今目の前にいる人たちや、当時被害者だった彼女をかけがえのない友人として大事にするから、それでいい。
何度も言うけどDVは加害者が加害者であると気づかないこと、密室内で行為が行われて第三者が介入できないことが深刻な社会問題だ。そして、被害者側からはそこから逃れられない。手が出なくても、機嫌が悪くなったり、舌打ちや態度で威圧して、相手をコントロールするだけでもそれは精神的なDV(モラハラ)なんだよ。一度もそんなことをしたことがない人間っているのかな。いるのかもしれない。多分そういう人は聖人なのだと思う。そういう人が社会の大部分なんだと思う。手は出ないけど、そういう理不尽な親父とかたまにいるじゃん?それで、家族が顔色を伺って、気を使うというやつ。あれもDVで、その家族はDV被害者なんだよ。そしてその家族たちも、それがDVであることに気付いていなかったりする。それ、DVだから気付いてくれよ。加害者が変わんないとダメなんだよ。
ガキのころと違って、社会に出たら自分の思い通りにいくことなんて少ないし、人の心なんてコントロールできるものではない。世界は自分の思い通りになんかいかない。自分を守るために、人を傷つけるようなことはしてはいけない。15のガキだった俺に説教しても分からないかもしれない。俺はただ、とにかくこういった行為が無くなることを望む。
id:umi1334 別人の可能性があるし,今回殺されなかったからといって親に今後殺されないというわけでない
id:ksaitou 今までの常識を覆す結果。まだ親が嘘をついてると思える内容。
id:sichimin 警察犬の報道から、置き去りにした場所も嘘の可能性が高い。6日という日数は命の危険に係わるのに十分すぎる。この親は子供の命より自分の面子を優先してる節がある。このまま親の元に返していいのか甚だ疑問。
id:keitone 次はお父さんの番です^^
id:transmetalation 賢い子だなぁ。。良かった。。。しかしこれはネグレクトだから、家族は厳重に罰すべき。自衛隊の施設に子供が進入という事態もなんだかなぁ。
id:shinp 大分判断力がマトモな子供だと思うので、子供だからと舐めてる現在の親に育児続行させるのはちょいと勿体無いかな。放任主義の親の下で育てれば大分化けるで。
id:Bifuteki 結果論でごちゃごちゃ言うやつ多過ぎ。親の供述がコロコロ変わったり警察犬が全く反応しなかったり本人の痕跡が全く見つかってなかったんだから殺害とか最悪の状況を想定するのは当たり前。それを邪推という奴はアホ
id:FEFE 親のやったことは自業自得であり自称聖人どもの戯れ言に傾聴する価なし。
id:airwave 両親の保護責任者遺棄はきちんと問うべき。
id:hiruhikoando 多分誰かがめんどう見て黙らせた上で放したんだろうけど。/事が予想以上に大きくなったことは確かで正直に言うと絶対逮捕だもんで。あるいは事が大きくなったから生きて帰れたかもしれない。
id:irasally 両親と再会した時に「こんなに人様に迷惑かけてッ...!!」と、更に厳しいお仕置きされないといいなと願う。生きていてほんとによかった。
id:rosaline 加害者=虐待親を擁護する風潮に呆れる。ハンマーで殴ってたまたま死ななかったのと同じ行為だぞ。もしや「しつけ」は「いじり」や「かわいがり」と同意義語になってるのか?
id:catmaya 良かった…良かった…親は親権利剥奪せい
id:teebeetee 「親をしつけるために、しばらく身を隠すことにした」みたいなオチに見える…。7歳って案外大人だしな。ヘタしたら70歳と同じくらい。
id:choral 無事でいてくれて本当によかった。多分、あまりにも親が怖くて出てこられなかったのでは?・・・気持ちわかるよ。
id:suzukiMY 「"置き去り"は過去何度か行われていて、駒ヶ岳演習場の場所も知っていた。」と妄想してみた…
id:REV 放置両親には、しつけのために捜索費用を請求しよう。
id:quick_past つかこの親にはしばらく接近禁止命令出した方がいいと思う。このまま引き渡したらあとが心配でしょうがない。幸運に幸運が重なって助かったにせよ一週間孤独で飢えもあったろうし、想像以上の恐怖だったろうな。
id:toririr バカなことをしたならどうするかが大事なわけで。少なくともこの親に子供を育ててはならない。フルボッコされたから、苦しんだからもういいだろと言うのは間違い。
id:kumatarou3rd 無事だったからいいって話ではない、虐待にはかわらないわけで。
id:douzokun 児童相談所仕事だ。この親父に近づけたらあかん。体にあざないかちゃんと調べろよ
『レヴェナント』はめちゃくちゃ難解なんですが、ポイントを押さえれば、イニャリトゥ監督の過去の作品と大してテーマは変わんねぇことが分かります。
イニャリトゥ監督はデビュー作『アモーレス・ペロス』から前作『バードマン』までひたすら「親子」をテーマに映画を撮り続けてきた監督です。なので『レヴェナント』でもテーマは「親子」です(インタビューでもそう言っています)。もうちょい言うと、『レヴェナント』では「親の子に対する愛がいかに深いか」ということを描いてます。
主人公グラス(ディカプリオ)の台詞をちょっと考えてみれば分かります。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
これはグラスが救出された後にヘンリーに語った言葉ですが、この2つの台詞から分かることは、①グラスにとって息子ホークは生きる意味そのものであったこと、②グラスは物語のどっかで既に死んでいて、それにもかかわらず基地までたどり着いたということです。
死んでます。具体的にはフィッツジェラルドにより埋葬された後、息子ホークの死亡を確認した時点で力尽きています。通常、熊に襲われて、内蔵が見えてしまっていて、脚は複雑骨折、その上発熱していて、ろくな治療を受けられないまま生き埋めにされたら(さらに生きがいであった息子が殺されたら)、それは死ぬだろ、と思いませんか。
あれは肉体が死亡していながら精神の力(息子を愛する力)だけで動くゾンビみたいなもんです。ジョジョを読んでる人は、ボスにぶっ殺された後のブチャラティみたいなもんだと思ってください。
小難しい話になりますが、イニャリトゥ監督は前作『バードマン』で死と再生の話を描いていて、映画では好んで用いられるモチーフです(『鏡』、『8 1/2』など)。主人公が死んで復活するというのは映画では珍しい話ではありません。
加えて、本作のタイトルが"Revenant"(つまり「死から蘇った者」〔someone who has returned from the dead〕)であることもこの説を補強します。
解釈の問題になりますが、海外サイトの中には、グラスは死にそうになるたびに、野生動物に生まれ変わった(死と再生)のだとする説がありました。
最初は熊です。これはグラスが熊の毛皮を着て、熊の爪のネックレスを身につけ、川で魚を手づかみにし(木彫りの熊ですね)、それを生のままかじり付いていた点に表れています。
次は狼です。これはインディアンにバッファローの肉を求める際、四つん這いに這いつくばって、人にへつらっていたことと、投げられた肉を生のまま貪りついていたことから分かります。
その次は馬です。これは文字通り馬の腹から這い出てきたことから分かります。
最後になんかの肉食獣です。これは最後の戦いでわざわざ銃を捨てて、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることから分かります。
グラスはこれらの野生動物に生まれ変わる過程で回復していったと見ることができます。
愛です。
ここも解釈ですが、息子を失って生きる意味を失った以上、野生動物と同然の存在に成り下がったと見られるのではないでしょうか。
グラスが一匹狼のインディアンから教わった言葉です。「神の手」というのが直接的には川下に居たインディアン(リーさん)だったため、海外サイトではリーさんは神の復讐の代行者であると言う人が多かったです。「インディアンがあんなに近くに居るのに川に流したら殺されるに決まってるだろ」と言う人も居ますが、個人的には死と再生を繰り返したグラスさんの聖人パワーでリーさんを引き寄せたと思っています。つまり愛の力です。
あの表情には元ネタがあります。タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』のイワン君(12歳)の表情です(https://vimeo.com/153979733のラスト)。どういうときの表情かというと、まずイワン君はソ連の少年兵なのですが、ナチスに母と妹を殺されています。そんで夜中に1人でナチス軍に対する戦いをシミュレーションしている最中にあの表情をします。つまり、純粋さと愛にあふれた少年の心が、ナチスに対する復讐心で壊れかかっているときの表情です。これをグラスに類推するなら、あの表情は、復讐を終えたことで(生きる意味を再び失ったことで)グラスの精神が壊れかかっている(もしくは壊れてしまった)ことを意味しているのではないでしょうか。
あの吐息音をめぐって、海外掲示板では「グラスは死んだのか否か」について熱い議論が交わされています。これは監督の前作『バードマン』でもあった論争で、そこでの論争が、主人公は生きているという決着で終わったため、今回もグラスは生きているだろうという説が有力です。ただ、私の考えとしては、グラスは精神力(愛の力)だけで動くゾンビ状態なので、その精神が崩壊した以上、グラスは真の意味で死亡したと思っています。ジョジョを読んでる人はシルバー・チャリオッツ・レクイエム出現後のブチャラティを(略
愛する息子を殺され、肉体的に死亡した主人公が、愛の力で死と再生を繰り返し、敵に神罰を与えて、やっと死ぬ話です。つまりテーマは親の子に対する深い愛です。
ちょっと違いますが、そういう側面があった可能性が高いです。というのは、イニャリトゥ監督が今回の撮影で目標とした映画というのが、①黒澤明『デルス・ウザーラ』、②コッポラ『地獄の黙示録』、③タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』、④ヘルツォーク『フィッツカラルド』、⑤ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』だからです。映画ファンであればすぐ分かるのですが、これらは映画史上最も撮影が困難だった映画群です。例えば④の『フィッツカラルド』なんかは巨大な蒸気船を滑車を使って実際に山越えさせています。つまり、監督が映画史に残る過酷な映画撮影がやりたかったところに、アカデミー賞がどうしても欲しかったディカプリオと利害が一致した、というのが真相なのではないかと思っています。
掘り起こそうと思えばたくさんあります。例えば『レヴェナント』では上記の表情以外にもタルコフスキー作品からの引用が多い(「宙に浮く女性」、「貧しい人にご飯を分け与える姿」、「鳥」、「隕石」)のですが、それがただタルコフスキーの真似をしたかっただけなのか、意味があるのかがよく分かりません。それとフィッツジェラルドが神について2回話すシーンがあるのですが、その意味がよく分かりません。
それと、作中何度も繰り返される"As long as you can still grab a breath, you fight."という台詞の意味が実はまだよく分かっていません。特に、エンドロールが始まってからも聞こえる吐息音を考え合わせると、グラスが生きている説も導き出せるため、重要な要素である可能性があります。何か思いついたり新情報が出たらこっそりこの記事を訂正するかもしれません。
「『レヴェナント』テーマ解説(2)(ディカプリオのテーマ編)」(http://anond.hatelabo.jp/20160524110234)に続く
【2017卒向け】美しすぎず、ちょうどいい感じの美人な人事担当者がいる4社合同説明会
http://connpass.com/event/32292/
# 予想
- つまり人事という仕事に専門性をもたせてない(配属時に何も考えてない)という共通点が元々あった
- Facebookアカウントを貼るとそこには自信満々の写真のアカウントが!自分を下げているということにもなる
# 何が言いたいか
こういうイベントは停止させず、遠くから見守るのが本当のインターネットリテラシーでしょうが。リアルタイムで参加者からの報告を眺めてもよし、参加してもよし。そもそも彼らは【自分たちをネタ】にして覚悟してるんで彼ら自身が傷つくという事はないしもし傷ついてもそれは学びがあるだろう。
そして【ちょうどいい感じの美人な人事担当】という小さな会社がポンポンあるということは日本の景気が良いということではないかと、景気が良いんだなと思えば穏やかになれるんじゃないかと。みなさんが言葉に出しにくい不快感があるのは十分理解できるがまっとうっぽい意見にして運営に届けてしまうとそれは何にもならないので、出来ればこういうイベントは開催してちゃんと失敗して欲しい。そう思いませんか?
巨大な怪物が街をウロウロしている。賢者や聖人とよばれるような影響力のある人間を見つけたら、その者の元へ一瞬でやってきて食い殺そうとする怪物もいる。賢者や聖人と呼ばれるものは、今、表に出ては、いけないのかもしれない。
それぐらい、今世の中の表には、地獄の底にいるような悪魔が跋扈している。世の中が魔界化しているような、魔界の世界に入ったような
感じだ。少し前に、真っ黒い魔界の扉が開かれた感覚があったけど、今は、その扉から出てきたs級クラスの悪魔が何匹も街を徘徊してる。
すごい世の中になってきた。今、世の中が不安定な状態で、悪魔に支配されないように注意されたし。
一度、悪魔に支配された者が正気にもどるのは大変なことで、地獄から抜け出せなくなる。
悪魔には賢者の言葉は響かず、道理にかなった考え方も通用しない。
この状況の中、生き延びるには、心を常に正しつづけるしか道はないと感じる
まず「寝た子を起こすな」というのはアレね、部落差別はもう廃れてきてるんだから今更ほじくり返すなよという意見ね。
それに対して、いやダメだ、差別があることやその背景を正しく理解して、その上で差別をなくさなきゃいけない!というのが表題の話。
正論だと思うしそれがあるべき理想だと思うけど、何だかモヤモヤする。
なぜモヤモヤするのかと言うと、結局差別を知らない世代にまで差別をどんどん受け継いでいるようにしか見えないから。
もっと言うと、差別を知らない世代に聖人君子のごとき崇高さを求めているから。
ぶっちゃけいないと思うんだ。差別の背景、歴史、どんな辛い目に遭ってきたか、どんな仕打ちを今も受けているか、
その全てを受け入れて、それでなお、まるで何の先入観も持たない聖母のような平等さで接することができる現代人なんて。
積極的に差別はしないけど、なんとなく気まずいというか、よそよそしくなるというか。
「"寝た子を起こすな"はダメ」派の人はそういう気まずさやよそよそしさもNGな訳でしょ。
それまで部落差別のことなんか気にしていなかった人に懇々と被虐の歴史や実例を説いて、たっぷり先入観の種をまいてから、
いざそれが芽吹いてしまったら「差別はダメ!」って…。じゃあ、最初から種をまかないでおくれよ。こっちだって芽吹かせたい訳じゃないのに…。
差別をなくしたい人たちは「部落出身?ああ知ってる知ってる。生まれで差別するなんて本当にバカだよなー。そんなことより野球しようぜ!」が目指す世界じゃないの?
皆が皆聖人君子じゃない以上、元からそういう考え方の人はそっとしておくのが最善なのに、どうしてわざわざ聖書に出て来る神の試練みたいな真似をするのだろう。
聖書なら、試練を受けて正しくない心が芽生えた場合はその人自身が罰を受けて終わりだけど、差別の場合は試練を受けた側ではなく部落の人たちが辛い思いをするというのに。
ときどき、怨念とかドロドロした感情をネットに垂れ流した後、あんまりいい気分しねーなーなどと急に聖人のようなことを思って消したりする
何かショックなことがあってカっとなったりテンパったりしたときにも、文章にまとめて一旦投稿すると、
手元で書いてる間は感情が増幅されていくのだけれど、投稿した途端に自分の中で現在の出来事から過去の出来事になるみたいで、済んだことだしまあいいかーとか思いがち
消してしまっても別にその件に関してはスッキリした気分のままなので、文章にして一旦外に吐き出すと感情が落ち着くっぽいから、ほんとに賢者タイム的だな……
嫌な感情を紙に書いてゴミ箱に捨てるとかいうライフハックっぽいのを前にどこかで見た気がするけど、ああいうのが効きやすいタイプなのかもしれん
μ’s名付けの親の御児勇馬さんがネット上から消えた件について
という記事について。
ブログ主は御児勇馬氏と同じラブライブ!の古参ファンであることを自らの立場の説得力の盾にしつつ論じていますが、実際にはテレビアニメ以前の音楽以外の内容について愛着が皆無であり、
内容的に好きなのは元からアニメ版のことだけであるため、アニメ版ラブライブ!批判者を極めてアニメ以降の新参に近い立場から感情的に否定しているだけで、古参であることを後ろ盾にする資格が無いのではという話。
(ブログ主)
ここにあるツイートだけを見る限り「読者参加型企画として発足したのに現在のラブライブのやり方は制作者からの一方的な押しつけだ」という旨の発言をしていたところラブライブファンからたしなめられて消えていったμ’s名付け親という古参代表といった感じです。アンチにしたら彼もそう言っているんだからやはりアニメラブライブは駄作なんだという使い方が出来てとても便利だと思います。
では『一部のフォロワーからご意見をいただいた御児勇馬によるラブライブ!に関する発言』にどういったものがあったのかというと
コレとか
(御児勇馬氏)
テレビアニメ版の制服or衣装の真姫ちゃんなら吐き捨てる 2012年以前の真姫ちゃんなら首肯する 茶髪の真姫ちゃんなら描いた人を抱き締める
コレです
御児 勇馬 @umamiko
茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪のレズビッチは消えろ http://t.co/acqU3Z6Mzt
4 months agoReplyRetweetFavorite
これとか最高に古参拗らせててヤバい— 13代目 (@GARIoftheyear) 2014年5月12日※ブログ主
御児 勇馬 @umamiko
茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪のレズビッチは消えろ http://twitter.com/umamiko/status/418739888687554560/photo/1pic.twitter.com/acqU3Z6Mzt
4 months agoReplyRetweetFavorite
「読者参加型企画が蔑ろにされているというのは建前で、自分がμ’sの名付け親であることにプライドがあり自分が名付けたという設定がアニメや漫画で無視された事に不満がある」
「推しだった真姫の性格が改変されたことが気に入らない」
という印象を持ちました。少なくとも真姫を赤髪レズビッチ扱いするのはμ’sの名付け親として…なんて以前の問題でろくでもない発言だと思います。
そんなわけで結局何が言いたいかというと、御児勇馬さんはそこまで聖人君子ではなかったし、上記のような発言をする彼の意見がたかだか名付け親で名が知られているというだけで古参の総意のように扱われるのはファーストシングル発売時から応援してきて、アニメ版ラブライブも好きな自分としてはとても気にくわないのでアンチ諸兄におかれましてはそんなモノに頼らずもっと自分の言葉でラブライブや花田十輝を批判するようお願い致します。
とブログ主は御児勇馬氏をこき下ろしつつ同様に従来設定を持ち上げてテレビアニメラブライブ!批判する者へ釘を刺しています。
しかし、ブログ主は「古参拗らせててヤバい」という言い方からも古参や初期原案設定を好むいわゆる原作厨の立場を適当に馬鹿にしているだけのように受け取れます。
ブログ主は、自分も御児勇馬氏と同じ古参であることを明かして古参にも自分のようなテレビアニメ設定ファンがいると自らの説得力の補強を図っているのですが、その割には御児勇馬氏の心情を「ろくでもない」と完全にぶった切っており、古参だからこそ従来の設定を愛するファンの心情への理解を示す姿勢が殆どありません。
それもそのはず。そもそもブログ主は古参ではあるがラブライブ!原案の作成者である公野櫻子が嫌いな様子で、初期設定や絵柄に元から愛着や思い入れはないことを仄めかしています。
公野せんせーの文章はただでさて修飾過剰で読むのしんどいのに穂乃果が書いてる体の文だから更にすごいことになっててもう。— 13代目 (@GARIoftheyear) 2013年6月4日
公野先生の文章はこんな女いねーよっていう思いと女性が描いてるっていう現実との間で押しつぶされそうになって読めない— 13代目 (@GARIoftheyear) 2013年9月3日
頑張って読んでみたけどやっぱり公野テキストは受け付けないし漫画は本になってからで良いし全部摂取しなきゃファンじゃないみたいなの面倒臭いから適当に行く— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年1月30日
ラブライブ初期って室田絵やゴッドポエムはアレだったけど掛かってる予算と曲の良さはあった— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年6月15日
ラブライブもアニメ化までにあったお話はゴッドのポエムとアルミ版で、あれにコンテンツの牽引力があったかというと疑問— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年9月24日
以上の発言から元から立場上古参だとして、アニメ化以前については音楽の良さは評価していても、キャラ設定や絵など大半の部分については従来から評価し応援してきた様子がないことが分かります。
それにしても、真姫の設定が改変されたことが気に入らない御児勇馬氏の心情を推測した後、それに関しての感想や考察をもう少し真面目に行ってほしい気がします。
その点は多数派と化したアニメ以降ラブライバー派閥に属しているため、適当にこき下ろしても楽に支持を得られるだろうという傲りが表れたようにも映ります。
ちなみに、御児勇馬氏が批判したアニメ版の西木野真姫は矢澤にこや東條希と並んでアニメ前後で設定が大きく改変されたキャラの一人です。
(簡単にいうとアニメ前の真姫がガルパンのアニメ本編の逸見エリカだとしたらアニメ版の真姫は、二次創作においてコメディ色強く歪められた西住みほにも簡単にデレデレになり、催眠オナニーが趣味のエリカというくらいに違います。)
ブログ主は古参でファーストシングルから応援してきたファンを自称し、それを立場の補強に使うならば自己紹介やCDドラマ部分含めた初期設定の内容についても多少好意的に捉える向きも欲しいところですが、
それらの内容には全く否定的な様子でテレビアニメ以降のみを賛美する状態では、興味があったのは音楽か声優だけ、または人気が出そうだから一応ウォッチしていたら人気が出て古参を名乗れてラッキーという立場のようにも思えてしまいます。
御児勇馬氏の設定改変への嘆きは、キャラや作品内容の当時の今とその延長線上にある未来を思って期待していたからこそ応援していたことが受け取れるため、むしろファンとして当然の姿のように思います。
それに比べると、前から作品買って追ってはいたけど人気が出たから、好きな脚本家がアニメ脚本書いたから本格的に推し出しただけであって、実は昔の内容は嫌いだったと言い出す人の方がろくでもない人のように映ります。
黙ってたけど実は俺もアレ嫌いだったんだよね~~~って言い出すタイプは積極的に殺していけ— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年12月1日
ブログ主は何かと古参であることを自説の後ろ盾にしたい様子が見られますが、
既に京極ラブライブ嫌いなオタクが結構いるし今後ロクでもない喧嘩が発生するだろうしそのたびにウザい古参オーラ出しまくります(^^)/— 13代目 (@GARIoftheyear) 2014年6月23日
今度こそ古参になれるとか思ってる弱いオタクにいつでも最古参パンチ食らわせられるようにですね— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年4月28日
アニメ版を大好きな古参の自分がいるのだから御児勇馬氏の嘆きを古参の総意としないでくれとも述べています。
実際に、古参でありアニメ以前の内容を好きでもありながらアニメ版も好き、またはアニメ版の方が好きという人もいるでしょう。
しかし、先にも述べたように彼はただ初期当時を知るだけであり、「ラブライブ!の従来の設定や世界観を愛する故に応援してきた古参ではありつつもアニメ版を評価している」という立場ではないため、立場上はむしろテレビアニメ化以降のコンテンツの姿が一変して人気が出た後に嬉々として本格的に乗っかったラブライバーに近い立場ではないでしょうか。
同時に、ブログ主はアニメ版ラブライブ!批判者をまとめてアンチと断定する態度(まるで昨今オタク世間を賑わしてきた新参ラブライバーのよう)で、御児勇馬氏に頼らず自分の言葉で批判するように訴えていますが、本人も古参であるという立場に頼らず自分の言葉で擁護や批判をするべきなのではないかと思いました。
ブログ主のように古参でありながら過去に何の思いもなくテレビアニメ以降を妄信的に愛するファンは他にも存在しますが彼らは新参同様に基本的に好きの内容を語ることは少なく、好きという立場を語ることが多いので、御児勇馬氏のように作品の内容を好きになって応援していた人の気持ちが分かりにくいのかもしれません。
乙武のおかげで、またぞろ「障碍者は既得権益者」とか「年金で貴族生活」とか多くの障碍者家庭の実態を全く知らないバカどものが騒ぎ出している。
色々なところで言っているが、障碍者家庭の多くは「明日の生活がどうなるか分からない」という厳しい暮らしをしているのに。
ところで倫理観の足りない障碍者と言えば、思い出せば私の知り合いに視覚障害者がいる。
彼も大学で講座を持ったりするような高学歴、障碍者問題に詳しい、口の達者な人物だ。
彼はことあるごとに「障碍者は社会的障壁さえなければ健常者と同じ生活をすべきだし、できるはずだ。そして社会はそれを行わなくてはならない」とぶちあげている。
それはそれで結構なんだが、彼は学生を妊娠させたり不倫したりと、たびたび女性問題を起こしている(そのたびにスタッフが謝罪やらもみ消しやらしている)。
もし乙武とその視覚障害者の両方を知っている人物ならば、「ああ、やはり障碍者はアカン」となってもおかしくはない。
しかし、もう一方で乙武と件の視覚障害者の共通点は何か、と考えると、
「人から褒めそやされる立場にあり、自身の言動が障碍者全体の意見のように見られる状態にあり、その恩恵を受けているにもかかわらず、それをいやがっているポーズをしている人物」
と言えるのではないだろうか。
故に、彼ら(まとめるのも何だが)は「障碍者だって人間なんだ。間違い犯すんだ」と悪びれずに言えてしまうのではないだろうか。
彼らが犯す間違いは普通であれば社会的に抹殺されてしまうような事であるにもかかわらず、自身には通常ではあり得ないような防壁があるため、安心して倫理観を無視できるのではないか。
まぁそれ以前に、乙武にしろ件の視覚障害者にしろ「えらいねぇ」とばかり言う人間ばかりを周りに侍らせていれば、倫理観がゆがむのも当たり前なんだが。
昨年末、乙武氏は20代後半の女性と共にチュニジア、パリを旅行した。「ダミー」として、男性1人も同行させていたという。
乙武氏には2001年に結婚した妻がおり、現在、8歳の長男、5歳の次男、1歳の長女を持つ身。教諭の経験があり、都の教育委員も務めた“教育者”の不貞行為ということになる。
都内の自宅マンションを出てきた本人に取材を試みたところ、否定し、事務所スタッフが運転する車に乗り去った。その後、改めての取材申し込みに応じ、
「肉体関係もあります。不倫と認識していただいて構いません」「彼女とは3、4年前からのお付き合いになります」
と不倫を認め、さらに“これまでの結婚生活で5人の女性と不倫した”と告白した。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160323-00506816-shincho-soci