まず「寝た子を起こすな」というのはアレね、部落差別はもう廃れてきてるんだから今更ほじくり返すなよという意見ね。
それに対して、いやダメだ、差別があることやその背景を正しく理解して、その上で差別をなくさなきゃいけない!というのが表題の話。
正論だと思うしそれがあるべき理想だと思うけど、何だかモヤモヤする。
なぜモヤモヤするのかと言うと、結局差別を知らない世代にまで差別をどんどん受け継いでいるようにしか見えないから。
もっと言うと、差別を知らない世代に聖人君子のごとき崇高さを求めているから。
ぶっちゃけいないと思うんだ。差別の背景、歴史、どんな辛い目に遭ってきたか、どんな仕打ちを今も受けているか、
その全てを受け入れて、それでなお、まるで何の先入観も持たない聖母のような平等さで接することができる現代人なんて。
積極的に差別はしないけど、なんとなく気まずいというか、よそよそしくなるというか。
「"寝た子を起こすな"はダメ」派の人はそういう気まずさやよそよそしさもNGな訳でしょ。
それまで部落差別のことなんか気にしていなかった人に懇々と被虐の歴史や実例を説いて、たっぷり先入観の種をまいてから、
いざそれが芽吹いてしまったら「差別はダメ!」って…。じゃあ、最初から種をまかないでおくれよ。こっちだって芽吹かせたい訳じゃないのに…。
差別をなくしたい人たちは「部落出身?ああ知ってる知ってる。生まれで差別するなんて本当にバカだよなー。そんなことより野球しようぜ!」が目指す世界じゃないの?
皆が皆聖人君子じゃない以上、元からそういう考え方の人はそっとしておくのが最善なのに、どうしてわざわざ聖書に出て来る神の試練みたいな真似をするのだろう。
聖書なら、試練を受けて正しくない心が芽生えた場合はその人自身が罰を受けて終わりだけど、差別の場合は試練を受けた側ではなく部落の人たちが辛い思いをするというのに。