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はてなキーワード: 社会人とは

2023-03-14

anond:20230314175557

義務教育ストしといてまともな社会人ムーブ卑怯だよな。もう正直就活は諦めてるわ。毎日バイト貯金マクド食ってストゼロ飲んでレッドブル飲んでるからそのうち死ぬだろうし職探しは辞めるわ。

anond:20230314104940

それってそういう教育を受けてないからじゃないかちょっと思うんだよね。

普通に好き嫌いだけで生きてきて、それなりに好きなもの同士だけで人生乗り切ってきたから、社会人になってもモード切り替わらないんじゃない?

自分は、子どものころ同級生とまったく話が合わなくて学校まらないって親に言ったら、集団の一員としての責任があるみたいなことを言われて諭されたことがある。

anond:20230314073932

社会人ってそういうモンだよ。

学生人生の華。

それ以上の生活は出来ないのが社会人

嫌なら雇われじゃなくて雇う立場になる事。

それが出来ないなら我慢して生きるしかない。

[] 発達障害相貌失認愛着の薄さとアセクシャル・デミセクシャル

恋愛する人・セックスで情を深められる人(他人に向ける性愛フツーにある人)は、

恋愛セックス必要としない人(他人に向ける性愛が無い人)とはどんな人かな?ってなると思うが、タイトルの通り

 

害にありがちな相認でそもそも人の見分けが男女の区別からして曖なので、

芸能人同級生・先輩後輩の推しなんぞできるわけもなく(どれも一緒に見えて興味が持てない・区別が付かない)、

かなり早い段階、自分場合中学入学時にアセクシャル・デミセクシャルだと気づいた

 

大学卒業アラサーになる間際になってから自称する人多いけど、

大学卒業アラサーになる間際まで好きな芸能人同級生・先輩後輩の話をしないってありえないので、

微塵も興味ないって自分はフツーじゃないんだな・・・って早々に自覚すると思うんですよね

ディスグラフィアだったり、スキップ出来なかったり、時間感覚死んでたり、人の見分けが曖昧だったり、

発達障害の特徴ありまくりだったけど、アセクシャル自覚する方がずっと早かったぞ

  

あと人に対して性的欲求のみチャルを閉じているのではなく、人のすべての部分に対して興味・愛着が無い/薄

無差別に人に対する興味・愛着が薄く、親兄弟親戚友人にすら『お前は情がない』的なことを言われてしま

他人と比べたら愛着共感性がだいぶ薄いのかも知れないが、喜怒哀楽と快・不快は有しているし、自分なりに誰かを大事に思うことはあるので、極めて遺憾である

自分的には大事なので、相手から指摘を受けたら今後は相手が傷つかないように適宜修正はしているが、だいぶ常人への道のりは遠い

 

あと、トランスの人や女装家も髭さえしっかりと処理されていれば、パス度が低い=多くの人には男に見える状態でも、女だと誤認するし(男女の区別を髭と服装でしてる)、

同級生プライベートで一緒に旅行とか行ったヤツすら顔も名前も覚えていないし、同僚も会社を辞めたら秒で名前も特徴も忘れるので、

名前を覚えていて特徴も覚えている、つまり個体認識があるのは、自分にとってかなりの特別枠というか家族枠だ

特別枠(家族枠)とは社会人になってからも月1〜3回は遊ぶし15年以上の付き合いであ

その特別枠(家族枠)との関係恋愛性愛関係にくらべたら〜みたいな表現をされるのは非常に不愉快

 

おわり

 

2023-03-13

母さんがガンで死んだ(追記

から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟からなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。

ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。

医者から一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。

「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」

とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。

「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。

翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子

溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。

その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療検討しようということに。

母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。

程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。

実家家族帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。

副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。

「癌の専門医先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。

その道の専門医先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。

それでも、「やっぱり経験値が高い専門医先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。

細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」

とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。

あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。

ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。

改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。

これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してから状態改善しなかった。

母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。

この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。

妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャタイミングだった。

死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー東京結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。

12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。

ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。

足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。

そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。

母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。

急遽、仕事休み実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。

少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。

妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。

「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。

その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。

泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。

訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。

そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。

最後看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。

看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取り役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。

一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。

翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。

覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。

おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分祖父自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。

納棺ときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子ども写真を納めた。

短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで

葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。

夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。

翌日も葬儀火葬バタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。

母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。

それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。

その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。

母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。

当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。

そういえば、ウィッグ友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。

ウィッグ販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。

思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。

癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。

母さん、ありがとう。母さんの子どもで良かったよ。

追記

たくさんの方に、暖かな言葉いただき、恐縮しておりますありがとうございました。

私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。

野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。

母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転ドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています

経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族介護+訪問看護体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかたこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。

なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード年金手帳マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係ほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います

長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。

大企業で働くと思い込んでいた

大手メーカーデザイナーになりたくて昨年末から精神をすり減らして頑張っていた。

なんでデザイナー大手メーカーかなんて「安定した環境ものづくりがしたい」くらいの理由だったけれど、それでもポートフォリオ作って冬インターンに応募して、3社のインターンに参加できそうだった。実際は2社で疲れ果てて3社目は辞退してしまった。これが甘かったのかな でも限界だったので仕方がないと思えるので別にいか

インターンは5日間で文字通り寝食を忘れる勢いで取り組まざるを得なかった。みんな勝負のつもりで挑んでいたので 吐きそうだったけどやらざるを得ないので

運よく1社目のインターンを通過して、人事面接まで進めたけどそこで落とされた。えっ???

40分かそこらの面接ですべてが無になってしまった

小学校くらいから、漠然大企業で働いて、年収もそこそこもらえて、安定した暮らしを送れると思い込んできたけどなんか違うっぽい 結構そのために頑張ってきたと思ったんだけど それこそ東大とかそのあたりではないけど中学受験してずっと勉強して大学給付奨学金ももらってたくさん勉強して大学院まできて研究も真面目にやって学会も出して、なんか なんだ…?

一般的大手こそが最適解と思っているいわゆる大手病かもだけどそれでも私にとってはそこが正解で、こんなに頑張って全然思い描いた社会人になれそうにない あれっ

教員待遇だけを見て「なる奴なんていない」と言ってる奴って可愛そうだよな

俺も給料的にすげー割に合わない仕事してたことがあったけど、その時が一番充実してたと思う。

洗脳とかじゃなくて、本当に子供の頃からやりたかたことをやれてたから。

でも体力的にキツかったのと、貯金の出来なさ、そして両親が少しずつ体調を崩していくことへの不安で辞めた。

いわゆる「普通仕事」って感じのについて、「普通給料」を貰って、生活水準あんま変えないでいたらみるみる貯金は溜まった。

親がいよいよ片方アカンくなって、もう片方だけだとしんどそうだから今は「普通よりちょっとヌル仕事」してるけど、それでやってけてるのはその貯金があったからだ。

あの頃に「自分のなりたかった仕事」を辞めて「普通仕事」に就いたのは人生全体で見れば正しい判断だった。

一発逆転で大金持ちみたいなルート全然見えてなかったし。

だけど、毎日のように「もしも実家が太かったら、俺はずっとあの仕事が出来たのかな。体力的に耐えられる範囲ぐらいにペースは落ちてたかも知れないけど、続けることは出来たのかな」って頭の中でうわ言をブツブツしてる自分がいるのを感じるんだよ。

仕事って待遇だけじゃねえなって思うのよ。

こういう話すると「社畜洗脳された結果だー」って言うんだろうけど、俺そこやめてもも結構経ってるのに今でもそう思ってるんだから、これは多分俺の内側から出てきてるものなんだよ本当に。

教員って大変だと思うけどさ、やりがいは本当あるんじゃねえかな。

ゲームキャラクター育てるのとか、他人人生眺めるのとか結構きじゃん。

教員ってのはひたすらずっとそれだけやる仕事なんじゃねえかと思うわけよ。

小遣いバンザイって漫画で「俺にはまるで生の映画を見てるみたいだよ」ってセリフがあったけど、まさにそれが毎日見れるんじゃねえかって。

社会人になるとそういうのって皆隠したがるっていうかさ、仕事場に持ち込む私情は待遇相談解決できる範囲しろみたいなのがあるじゃん

学生ってそういうのがかなり薄いっていうか、家の事情さえもガンガン学校に持ち込んでくるわけじゃん。

別に金八先生みたいにバッタバッタ問題家庭をどうにかしていけってわけじゃないけど、そういうのに対して何か出来る瞬間が人生めっちゃ訪れるわけじゃん。

一部の人には滅茶苦茶刺さるんじゃねえかって思うわけよ。

つうか人にモノ教えるだけでも楽しいじゃん。

俺もそれぞれの職場で後輩に色々教えてきたけど、自分説明で納得してくれてそれによって相手の出力が変わる瞬間ってちょっと脳汁出るんだよな。

まさに相手自分アクションに対してリアクションを返してきてるわけで、なんかこう社会的動物としての本能から快楽物質が貰えるんだよ。

教員って年中ずっとそれなわけじゃん。

脳汁出すぎて耐性ついちゃう人も多いんだろうけど、人によっちゃずっと毎年毎日のように脳汁出し続けられる体質というか精神構造の人もいるんじゃねえかな。

そういう人にとっては、単に待遇の良し悪しだけで辞められるような環境じゃねえと思うのよ。

なんだかんだ公務員としての給料は出てるわけだしね。

俺がやってた仕事に比べたらずっとずっと待遇は良いと思うわ実際。

そう考えるとさ、教員っていう職業何だかんだなる人間大勢いるのも別におかしいことじゃねえんじゃねえかな。

こういう仕事に対して「こんな待遇でやるのは変な夢見て騙された馬鹿ぐらいだよ」みたいに思う人って、可愛そうだわ。

だって待遇気にする以外で仕事を選ぶ軸が持てないような人生送ってきたってことじゃん。

まあそういう人も単に「自分の好きなものが今の社会職業として成立している様子が全く想像もできないような趣味の持ち主」とかなのかなもな。

そう考えるとまあ……やっぱ可愛そうだと思うわ。

anond:20230313154440

群馬大学医学部社会人入学が多くて

友達10歳以上年下のナースの卵と付き合ってるって言ってたよ。おすすめです

anond:20230311224417

当方ほぼ同じ見た目スペックで年齢だけ40。

文章見てると、「疲れてるなーって思って気分転換とか何か出来る余裕がなくなってる、疲れてる人」のように見えますね。

多分独身じゃなくても、普通に集中力の低下(仕事に対するモチベーションプライベートも)ってのはあるよ。

っていうかそれは自然じゃない?人生のちょうど折返しに近くなってきてるし、社会人人生もそろそろ半分。

そんなに自分未来が輝かしいものじゃないように見えてくる年齢だと思うな。

そこに絶望は一瞬みんなすると思うんだけど、そこに「子ども」がいるとその未来子どもに託す事で心的に落ち着くんだよね。

まぁじゃあ居ない人はどうする?って話ですが・・・そこが難しいよね。なかなか。一応テンプレは「新しいこと始める」なんだけど。

増田は「既存趣味」にモチベ出なかったってのはもうそこは趣味が飽きたんだと思う…と思い、違うことやるといいと思う。

ただ、違うことやろうとした時に今度は年齢のこと考えたり、新しい事は年を取るほど億劫になるので、そこのバイアスがね。

それをコントロールできるようになればいいと思う。(この点も子どもがいると、子どもを通じて強制的に新しい事をやることになる。)

もし趣味難しいなら…なんか仕事もつながるような趣味にしておくと自分気持ち落ち着けられるかもね。

以下の奴らなら多分そこまで今やお金かけなくても出来るよ。(月5000円〜1万もあれば十分)

語学(英語など)

プログラミング

イラスト3Dモデリング

スポーツ/筋トレ(これは心的ストレス解消にもなるのでいい。ランニングとかでも)

大人になったら、誰かを好きになるのむずくなった

25年生きてきて、スパンは空いてもなんだかんだ誰かしらに好意を抱いてはいた。

同じクラスの誰かとか、学科の先輩とか、サークルの同期とか、バイト先の同い年とか、

自分日常範囲内で、かっこいいな〜やさしいな〜とかいうめちゃくちゃ浅い理由でなんとなく"いいな"と思う人はいた。

そこからいい感じになって付き合えた人もいた。ありがたかった。

そんなうっすい気持ち恋愛感情だとしたら、私はそこそこ恋しちゃってた。

でも最近はまっっったくそういう感情が湧いてこない。

これが枯れたって状態なのか。

社会人になってからどんどんそういう気持ちが消えていった気がする。

時々フィクションのなかの恋愛にヒェェってときめくことはできるんだけど、現実ではそういう感情の起伏が皆無。

他人を好きになるってどうやって始めればいいんだっけ…?

マ、マッチングアプリ???

みんなどうやって恋愛してるの!?

2023-03-12

あー中高生好きな人と一緒に登下校したい人生だった

大学生のウェイは嫌い

高校の時から相手とずっと付き合って、社会人2-3年目くらいに結婚したい人生だった

下方婚の末路

元夫との離婚が成立し、昨日彼は家を出ていった。

仕事も辞めて、一先ず実家に帰るらしい。

義実家とは私との結婚の件で随分揉めて疎遠になっていたと聞いていたが、頭を下げて取り敢えず置かして貰うそうだ。

今の職場にいるのも難しく、働けない状態になるほどの精神的ショックを受けたと言う。

私は何も言えなかった。


慰謝料では無く手切れ金として結局300万円ほど元夫には手渡した。

今彼の「財産分与なんかしたら裁判で何年もかかる、弁護士費用やツテが無いお前には不利」「仮に裁判しても渡すものは何も無い、全て(私)の名義だしお前に渡さない様にする事など合法的いくらでも出来る」

いつまでも女にしがみつくな、男らしく無い人間の屑が」「逆に無一文にして追い出す事も可能なんだからここで折れとけ」という脅しめいた文句に心折れたのか(さすがに人間の屑~の下りは注意したけど)元夫はあっさり引き下がった。

自分荷物は大半は処分しても良いという。元夫がせこそこ集めていた漫画アニメDVD類は、今日古本屋が回収して持っていく手筈になっている。

今彼は「これで新しい生活が始められるね」と笑っていた。

そんな彼の手腕を怖かったり残酷では?と思う反面、強引なまでの力強さに逞しさを感じている自分がいる。相反した感情

でも元夫なら弱々しく折れていただろう。結局私はそんな彼の事が好きにはなれていなかったのかも知れない。


元夫との下方婚についての詳細は https://anond.hatelabo.jp/20230220025556

に書いたが、10ちょっと結婚生活はあっさり幕を閉じた。

これから私には新しい生活希望が待っている反面、無職アラフォーになり社会人としては致命的に破綻していくであろう元夫の今後を思うと後ろ暗くなる。

今彼がとにかく前向きに、能天気なまでに明るい事は、一種の救いなのかも知れない。


結局女性男性に対して下方婚を行うという事は、誰も幸せになれない結末で終わってしまった。

だって一生後悔を抱えて生きていく。結果的に一人の人生を滅茶苦茶にしてしまった。この罪は一生消えない。

この国で下方婚というものは、どちらかの負担我慢によってしか成り立たない砂上の楼閣なのだろうか。

2023-03-11

anond:20230311144249

しろ暇つぶし以外で増田やる方が俺は心配

お前らなんで増田いるの

匿名相談したいのだけは理解できるけど、匿名相談はそんなに頻発するもんじゃないし、同一人物が何度も匿名相談してたら別ベクトル心配だよ

気難しいはあってるけど普通に社会人ですわ

最近友達が無理になった話

10年来の友人が無理になった話をします。

◼︎登場人物

 私…時間はきっちりしたい派。

 A子…遅刻多め。(数分)

 B子遅刻多め。(数分)

 C子…遅刻多め。(数時間ドタキャンもする。

学生時代、A子、B子、C子は同じ部活で私は別の部活だったが、全員同じクラスで仲良くなった。

遊ぶ時にA子もB子も待ち合わせ時間には着いていないことが多かったが、とりわけC子はドタキャンや数時間超の遅刻が多く、当時から私の中では看過し難い人物だった。

C子はグループから、とかではなくサシで遊ぶ時にもドタキャンをする。本当にやめてほしい。

私は両親に待ち合わせ時刻の10分前には着け、と言われて育っていたため基本的彼女らとの時間は合わず、一人でみんなが来るのを待つことが多かった。

大人になれば変わるかな、と思っていた。

社会人になってからも年に数回は会う仲で、以前よりはA子B子遅刻癖は減ったように感じる。C子はあまり変わらずだった。

数ヶ月前、みんなで会おうとグループLINEが動いた。

A子、B子不定期の休みのため日程調整を作った。

A子B子は率先して回答を行い、私もすぐに回答をした。C子は既読だけつけ、回答はなかった。

仕方なくA子とB子と私だけで遊んだ。当然、C子の話が挙がる。

A子はC子に対して「ムカつく」と話していて、B子はC子に対して「心配から個別で連絡してみる」と話していた。私はB子は優しいな、と思いながら「もう無理かも」と答えていた。

日経ち、「今月映画を見に行こう」とまたグループが動いた。

A子は予定が詰まっていたらしく、すぐに日程を決めたがっていた。

A子はC子にメンションを行い、「〇〇観たことある?」と聞いた。すぐに「ない」と返事が来ていた。

メンションしたら返事するのか、と思い私もC子にメンションした。「B子とC子の行ける日教えてね。」「ところでC子は行けるの?」と。

ところがメンションしたにも関わらずすぐに既読はつかなかった。

今まで既読だけはついていたはずなのに、と私はかなり腹が立っていたが、忙しいのかもしれない、と3日は待つつもりだった。

5日経っても返事も既読もなかった。

私はそのグループLINEでC子を非難し、B子とA子で日程合わせてくれとお願いした。

すると1時間もたたずにC子から既読つけなかったんじゃなくて付けられる状況じゃなかった」と訂正が入った。

はいや、どんなに忙しくてもいまいそがしい、の数秒が打てないことあるのか?とめちゃくちゃキレていた。そのように指摘した。

その後はC子から謝罪されようが上の空で、私の中でC子は友達から「もう遊びたくない、連絡もしたくない人」に降格した。

私はA子、B子の3人のライングループを作った。そこはほぼ毎日のように連絡が行き交っている。

C子の内心はよく分からない。

私達と遊びたくないのか、縁を切って欲しかったのかもしれない。

もうこれからは4人で会うことは無いのかもなと思ったが、あまり寂しい気持ちもなくスカッとしている。

居酒屋で追い出された思い出

浪人が決まりお茶の水予備校にも馴染んできた7月のこと。同じ高校モテない女友達5、6人で居酒屋へ行ったことがある。当時誰もが18、19歳で、私ともう1人以外は大学生になっていた。当時はまだ年齢確認が甘かったが、明らかに高校生の風貌集団入店してきたらそりゃ誰でも警戒するだろう。一杯目から梅酒「そのまま」でオーダーし怪しまれたのか、飲み物が到着する前に店から追い出された。結局そのあとは通い慣れたファーストキッチンで遅くまで駄弁ったんだよね。

あれから15年が経った。私は受験に失敗してFランへ進み、普通に雇われの人生を送っている。彼女達は軒並み旧帝大を院まで出て華々しく社会人デビューしていたが、無職になってブラジルへ飛んだり、大河ドラマ作ったり、外銀で死ぬほど働いて死んじゃったり、慶應で教えてたり、SODでデビューしたりとかなり幅の広い人生を送っている。

15年前、夜の繁華街に放り出されたまだ10代の私たちのことをたまに思い出す。それぞれが大学に進んでからすぐに会わなくなっちゃったし、もうあのメンバーで顔を合わせることはないんだろうな。

anond:20230311061400

高齢者の接種率が高いんだよ

感染するとヤバい&平日でも気軽に接種できる&副反応ほとんどない

の3連コンボが決まってるから

社会人だと接種の日と副反応で、2日休む必要があるし

副反応が酷すぎたって理由で3回目以降を渋ってる人が俺の周りでも結構多いよ

被災地じゃない私の震災の記録

当時高校生だった私は、とある理由で全校生徒が体育館に集まっていました。

ある時、携帯電話からいたことのない音が鳴り響きました。校内持ち歩き不可のはずの携帯電話男子生徒の制服の内ポケットからスマートフォン女子生徒のカーディガンポケットから、そして渡り廊下の奥の教室から、けたたましく鳴る不快な音。

そしてズズズというこれまた聞いたことのない大きな低い地響きの後に、突き上げるような揺れが起こりました。体育館という建物はバネが効いているので、観測された震度の何倍もの揺れを身体に感じていました。

女子生徒の悲鳴、頭を覆えという教師の怒号、ギシギシと動く体育館の壁、そして見たこともないくらい左右にぶらんぶらんと揺れる天井の照明、何が起こったかからないと口を開けたままの友人の顔。

大きな揺れは収まりましたが、集会は中止になり即座に帰宅指導がありました。地元が同じ人間は一緒に帰って欲しいと先生が言っていました。電車は動いていなかったので、電車で通っている人たちは親の車を待つことになり、しばらく校内に残っていたといいます

この時、電波はなく、また不幸なことにこの地域だけ停電と断水が起こっていました。私たちは大きな地震が近くで起こったのだということしかわかりませんでした。

私は比較学校の近所だったので、歩いて帰りました。雪が残る道を必死に帰りました。家に帰ると、祖母が外で近所の人たちと話をしていました。咄嗟に外に出たと言います。着の身着のままで、寒さからなのか、揺れの怖さなのか、身体が少し震えていました。それは私も同じでした。あの体育館で感じた恐怖がまだ残っていました。

家の中はぐちゃぐちゃでした。食器棚が全て開き、割れた皿はなかったものの、倒れたものが床に散乱していました。

祖母病気後遺症で目が悪く、なにも触らなかったと言います。私はそれを片付け、両親が帰るのを待ちました。父も母も小学校教諭でしたので、我が家にすぐ帰ることは出来ませんでした。2人とも、自分学校の生徒をすべて家に帰し、家まで送り、その後に家に帰ってきました。

私の住んでいた県は断水が少なかったと、後から言われましたが、私の家のある地域は断水しました。そして停電も続きました。

雪国3月上旬オール電化だった我が家は非常に冷たく、静かで、怖かったことを覚えています。家がこんなに寒かったのだと、靴下を履いて眠ったことは初めてでした。

それまで肌が乾燥することはありませんでしたが、寒さにより乾燥し、頬が粉を吹きました。クリームを塗りなさいと親に言われたのは人生で初めてで、そこで寒いと肌は乾燥するのだと知りました。

全く暖房がないわけではありませんでした。石油ストーブがありましたが、この後どうなるかが分からないので、居間ひとつだけ点火し、大事に使おうと決めました。

父が帰宅して、仏壇用の蝋燭の火を囲み、家族4人でスープを飲みました。

その時に、宮城県が揺れたらしいと教えてくれました。父も母も私も、携帯電話電池が惜しくてネットを見ていませんでした。電波はかろうじて復活していたようでした。

明日になれば電気は戻るだろうと、その日は早くに寝ました。何もすることができず、寝るしかなかったのです。

眠る前、ストーブ灯油を入れるために外に出ました。その時、見上げた空を一生忘れないでしょう。私の住んでいた土地田舎で、普段でも晴れた夜は星が綺麗に見えていました。何度か旅行に行った東京の何倍も星が綺麗だなと思ったものでしたが、その日だけは違いました。星しか見えないのです。大きな星が爛々と瞬き、小さな星たちが埋め尽くし、いつもの星空とは全く違うものでした。

あんなに暗い田舎でも、明るかったのです。真に光がない夜はこんなにも星空を輝かせるのだと、心が震えました。そして、とても怖くなりました。知りたくなかったのです。こんなに星が美しいことを、災害で知りたくなかった。冷えた空気が鼻腔を凍てつかせたので、早く家に戻りました。

家に戻ると、父と母が携帯電話を見つめていました。母は手で目を覆っていました。ほら見ろ、と見せられたのはワンセグ放送でした。そこに映し出された映像を見て、足がすくみました。津波映像でした。仙台空港が波に飲まれていく、その映像でした。私は仙台空港自体には行ったことはありませんでしたし、仙台市にもあまり行ったことはありませんでしたが、石巻名取市閖上地区気仙沼には何度も行っていました。仙台空港がこのような状況なら、私たち旅行に行っていたあの場所はどうなっているのか、これはどんな被害なのか、何が起こったのか、全ては分かりませんでした。父の充電はギリギリで、それ以上は見ることができず、その日は諦めて横になりました。私はしばらく寝られませんでした。

閖上のサイクルセンターのどでかい合宿所みたいな部屋に家族4人で泊まり、その施設飲食店晩ご飯を食べたことが昨日のことのように思い出され、その建物は、そこの人たちは、どうなってしまったのか、怖くて怖くて堪りませんでした。

人が死んでしまうような災害だったのだろうかと、それすら曖昧でした。

情報がないというのがこんなにも不自由なのだと思ったのもこの日でした。

翌日電気が復活し、テレビ報道津波被害を目の当たりにしました。

あとはもう、ご存知の通りです。

断水復活までは少し時間がかかりましたが、私の地域はそんなに被害がありませんでした。建物に大きなヒビが入ったり、道路割れたり、といったところでした。余震は続きました。

ただ、普段明るくおちゃらけ雰囲気の友人が、宮城県単身赴任をしている父親と連絡が取れないと瞳と口の端をぶるぶる震わせて話す姿が目に焼き付いています彼女父親津波で亡くなったと聞きました。

私は大学生を経て、社会人になり仙台に転勤してきました。もっと生々しい震災の話を聞くことが多くなりました。

南三陸女川出身の子達は皆、口を揃えて言います。家は流されて実家はないのだと。仕事がなくなって仙台の街中に出てきたのだと。避難中に津波に巻き込まれて、電柱にしがみついて生きながらえたという人もいました。

私の仕事スーパーゼネコン施工管理でしたので、震災復興事業が主の時期でした。真新しいコンクリートの壁が海を阻みます防波堤は高く高く、そびえ立っていました。ひび割れだらけの建物が、そこらかしこらにありました。そして、本丸と呼ばれたあの地にも行きました。人の住まなくなった家は、あんなにも朽ちるのが早いのかと今も恐ろしく思います

なにより、この地域はよく写真展を開きます震災前の写真、直後の写真、今の写真、それらを並べて展示するのです。私はその写真を見て泣いてしまますイオン一角で、震災を知らない子供たちが走り回るイオンの中で行われていた写真展を見て、泣いていました。

今でも、その地に行くと、津波最高到達点という線が刻まれ建物があります。ここまで津波が来たぞという標識があります

どうか忘れないで。風化しないで。思い出して。

今日だけでいいです。

被災地じゃなくても、地震被害はありました。

お願いです。

忘れないでください。

2023-03-10

どこの国がどうとか、政治がどうとか、自分関係なさすぎて本当にどうでも良いだろうと思っていて

大半の人もどうでも良いと思ってるだろうと思ってた

でもそれは学校道徳教育の賜物だった

社会人に近づきながら色んな人と交わるようになり、育ちが良いほど学校教育では得られない独特の感覚(それを押し出してる人には嫌悪感を感じるような、あるいは増田的な?)を体得していて、割とどうでも良くないと思ってることを知った

それがどうでも良くないのは、自身教科書的な振る舞いをすることで被害を被って、勝負に負けるからなのだと思う

自分が、勝負に勝つとか負けるとかに興味を持てなかったのは、絶対勝てない勝負をあらかじめ降りてたからで、だからこそ夢見がちで偏見とか平等に敏感だったのだと思う

他人は知らんけど

まあ何だかんだとりあえずちゃんとした大学出てちゃんとした職に就けた(勝負に勝った)のでお金稼いで頭の病院にも行ってそう言うのも適度に修正して行けたら良いなと思う

anond:20230310002659

高学歴女は結婚できないという事実統計が味方をしているのでググればいくらでも出てくる

https://www.club-sincerite.co.jp/column/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%81%AF%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E3%83%A2%E3%83%86%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%EF%BC%9F%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%8D%92%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%A9%9A%E6%B4%BB/

東大ママメンバーが夫と出会った場所

1位 東大(59%)

2位 職場17%)

3位 その他(13%)

この結果で行くと、大学時代出会ってそのまま結婚したということになりますしかし、医学部薬学部など6年制の学部もありますし、大学院に進学する学生大学に残って研究を続ける人もいます。前出の東京大学男女共同参画室のHPによると、東大教職員学生が養育する子供のための保育園が4つあると記載されています社会人になっても付き合い続ける人だけでなく、ずっと東大で学び続けるカップルもいるのかもしれません。

ただ、社会人になっても同級生結婚した人が多いということは、社会に出ても付き合っていた男性以上にいい人がいなかったということでもあります。6割もの人が心変わりもせずにいたというのは考えにくいのではないでしょうか。

東大卒という肩書女性にとって、思った以上に重いのかもしれません。

だそうです。

男を捕まえられた中でも東大卒と番ったのは6割です。


https://woman.nikkei.com/atcltrc/blog/matsubaraayame/post/8514af50fe6b493894af50fe6bd9389c/

ただ、少し古いデータですが、東大女性の未婚率は19.8%。女性全体の生涯未婚率は7.3%なので、東大女性の未婚率はかなり高いと言えます

2.5倍くらい結婚できないみたいです。

2023-03-09

anond:20230309161651

その通り

ゲーム国策として徹底的に規制していかないと国が滅ぶぞマジで

学生勉強だけしてればいいし、社会人勉強仕事だけするように仕向けていかないと

anond:20230309144732

厳しい方だなとは思うけど、遅れそうなら先に連絡するのがまともな社会人だよ。

それはメルカリ界隈のルール暗黙の了解じゃない。

予定内に発送されなかっただけでなく連絡まで来なかったのでは相手視点ではまともに取引できる相手じゃないと判断されても仕方がない。

からは改めよう。

2023-03-08

anond:20230308152045

仕事中堂々とうんこ出来るようになったら社会人として一流

anond:20230308020655

あー、ずれまくり的外れ時間無駄

組織で成り上がっても年収は大幅アップしない

から転職して年収アップするのが基本なのに

くだらない社内の出世戦争に貢献して

誰かの糧になるのがウゼエっていってんの

無能おっさんにはわからんか…

 

若者無駄説教して「ありがとうございます、参考になります」ってよく言われない?

それ「お前いつも的外れ説教ばかりしてうぜーんだよ!!、古臭い考えしかできないならすっこんでろゴミ」って意味からな。

みんなから邪魔と思われてることを自覚しよう。

 

ほんと役に立たないくだらない事しか言えないのに

自分社会人経験があって知識がある!!って思い込んでるたいして偉くもないおっさんだるいわ。

お前は無能なの。自覚しよ?

みんな生活のために、お前の介護してるだけ。こんなやつ、ありがたがるフリするのもう介護だよ。介護

2023-03-07

上司とのやり取り

営業所にて

僕「手にメモ書いとこ〜」

上司「おい。手にメモ書くな。だらしないし、みっともない。社会人としての自覚持て」

僕「すいません」

客先にて

医師「忘れないようにメモときます」(手にメモ書き)

上司「あ、そこに書くんですね!」

医師「よくやっちゃうですよ」

上司「わかります!やっちゃいますよね!」

僕(お!トークチャンスや!)

手を叩いて笑う。

医師「どうしました?」

上司「おい。どうしたお前」

僕「いやね!もうさっきの話ですよ!僕が手にメモ書こう思って同じことしたら『だらしないで。社会人としての自覚持ち。』とか言ってきたんすよ。なのにですよ。先生メモ見て『やっちゃいますよね』て。どんだけ営業マンやねん!」

医師あははは!」

上司「急にどうした?」

僕「うわ!出た!めっちゃスカすやん!何こいつ!この人こういう所あるんですよ〜」

医師あはははは!じゃあまた次もお願いしますね〜」

僕・上司「失礼します」

この後めっちゃ怒られたわ。マジでなんやねんこいつ。

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