はてなキーワード: 希薄とは
【ネタバレあり】
「君の名は。」はタイムリープすることで、過去を「変える」物語である。主人公の瀧は、過去の少しずつ忘れられはじめた悲劇を追体験し、不思議な力によって惨劇を回避する。その点において「すずめの戸締まり」では、誰も過去を変えることはできないということが明示される。常世は過去も現在も混在する世界であるし、主人公のすずめは物語の終盤で過去の自分と出会う。しかしそれは過去を改変することにつながるわけではないし、亡くなった母親に常世で再会できるようなことがあるわけでもない。死者は死者である。
「天気の子」における帆高の選択は、「すずめの戸締まり」のすずめとは真逆である。世界なんかより君が大事だと叫び銃をぶっ放して走る帆高に対し、「すずめの戸締まり」ですずめは大震災と愛する人を天秤にかけるという選択を迫られ、愛する人を選べなかった。それにはすずめの過去の震災被害の経験が重くのしかかっている。「天気の子」では帆高の過去は意図的に透明化されているし、帆高と東京とのつながりはどうにも希薄である。
翻って考えてみて、「君の名は。」の過去改変も、「天気の子」で世界よりも君を選ぶのも、エゴイスティックに世界を改変する行為である。「すずめの戸締まり」では人知れず災害を防ぎ、薄氷の上にある世界を昨日と変わらず続ける選択を行う。「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と草太は言う。世界は微妙な均衡の上に成り立っており、それはいつすべてが灰燼に帰してもおかしくない。
過去の2作品と今作の対比で際立つのは、過去の果てしない重みである。過去は変えられない。過去ははてしなく重くのしかかってくる。人にとっても社会にとっても。忘却するわけではない。でもどこかで区切りをつけて前に進まなければいけない。そのための儀式が戸締まり。鎮める。そうしてまた行ってきます。
「大人の論理、子どもの純粋さ」という対立軸は日本のアニメ漫画文化で普遍的なテーマである。「君の名は。」では三葉の父親を説得するという小さな対決イベントはあるが、メインテーマに絡んでくるわけではない。祖母は組紐の伝統を三葉に受け継ぎ、導く役割を担うが、どちらかと言うと舞台装置として機能している。
「天気の子」では鮮明に「大人の論理、子どもの純粋さ」が対立軸として描かれるが、対立に解決や落とし前をつけるというより、主人公たちがぶっちぎったような形で終わる。また登場する大人は、誰も主人公たちに対して大人としての役割を果たさない。須賀は大人のズルさを持ちつつも精神的には未熟でもある。子どもにたかり、ほぼ無給でこき使い、保身のために投げだす。リーゼントの刑事も少し思うところはありそうだったが、帆高の未熟さに毒づき、押しのけられるだけである。象徴的なのは須賀の義母である。相手と会話しているようで、自分の中ですべて完結している。自分の価値観から一歩も外にでることはない。大人たちが大人として子どもに向き合わず、与えられた仕事や役割をこなすだけ(と描写される)のがある意味現代的ではある。
一方「すずめの戸締まり」では、環との葛藤と和解が大きなストーリーラインを構成する。物語のオモテ面が災害を防ぐため各地をめぐる旅だとすれば、ウラ面は過干渉な叔母から実家への逃避行である。環も、神戸で出会うシングルマザーのルミも、完璧とは程遠い人物である。環はすずめを引き取ったことで失ったものを未だに悩み、無理をして母親像を演じ裏切られると怒りを爆発させる。ルミはヒッチハイクしてきた高校生にベビーシッターをさせて、更に深夜までスナックで手伝わせる。そんな大人だが、二人とも真摯にすずめに向き合う。草太の祖父は、自分の孫が要石にされた状況で、その事態を引き起こした当人に対して「これで良かった。すべてを忘れて帰りなさい」と声をかける。
もともと新海誠はキャラクターの背景や生活史をほとんど深く描かない表現者だった。ほしのこえ、雲の向こう、秒速。ほとんど若者しか登場せず、「どの作品も主人公とヒロインは一緒」と言われることすらあった。心理描写を最低限に、抒情的に美しい風景に仮託して表現し、視聴者が勝手に自分と重ねられるようにする。それを極限まで純化ささせた作家性だった。それがこのような作品を作るまでになるとは夢想もしていなかった。過去の作品を糧にしつつ、全く新しい作家性を手に入れ、見事に作品に落とし込んだ。「新海誠の最高傑作」との宣伝文句は伊達ではないと思う。集大成であるし、ここまで来た新海誠が次に何を作るのかが今から楽しみである。
・すずめとは「鎮め(地鎮)」であり、「ミミズを食べるもの」でもある
・すずめの瞳にミミズが反射して赤いハイライトが差すのが「すずめにしか見えていない」ことと、揺れがおきるたびにミミズを探してしまうすずめの恐怖をうまく描写していた
・冒頭の朝ごはんがやけに気合入っててこんな朝ごはん普通つくれねーよと思ったら伏線だった
気づけば30代後半。
学生の頃の友だちや社会人になってからの友だちは、自然消滅やトラブルでほとんどいない。
今、付き合いの深くない遊ぶ人は何人かいるが、いつ消滅してもおかしくない。
1人を楽しむのが楽で良いだろう。何か打ち込めるものが見つかれば良いだろうと思うが巡りあえていない。
転職何回かを繰り返したが幸い正社員でそこそこの金額をもらえ、ただご飯を食べ、ゲームや漫画を読む日々。多分楽しいと感じている。
家庭を持っている人や子供を見ると、突然謎の孤独感が襲ってくることがある。
生きるのはしんどいが、勇気もなく、漫画の続きが見たい位で生きている。
本当の望みは結婚もしたいが、ここ4年位相手にも出会っていない。マッチングアプリをするも世の基準からすると年齢も見た目も底辺&結婚式も呼べるほど人がいない。
細田守監督の“竜とそばかすの姫”で何それって思った大人達の子供への悪い意味での無関心、関係性の希薄さ、大人としての責任の放棄
そう言ったところ全部当たり前にあってくれて良かった
どっちも田舎の少女が1人で田舎を飛び出して東京やら都会へ行ったりするんだけど、「信じてる」とか言って何もしないでむしろ「行ってこい」みたいな訳のわからない展開に「はあ?」ってなった“竜とそばかすの姫”
新海誠監督の“すずめの戸締まり”では仕事休んででも子供追って出向いて、何も言わない子供に訳がわからなくても心配して付いてきて、挙句言ってはいけないことまで言ってしまって喧嘩もするけどそこは上手くファンタジーでフォローもしてて後の仲直りも描けてて、作り方さすが上手いなあと思った
なぜ細田守監督が近年巨匠みたいな扱いの一角になってきてるのか全くわからないんだけど、こう言う人間らしい関係性ちゃんと描けないの本当ダメでしょ
警察が、あえて違反させながら取り締まることでポイントを稼ぎたい、という以外にはそれをしない理由がわかりません。
速度超過発生抑制に対する圧倒的な効果を考えればシステム改修のコストが高すぎるということはないと思います。ドライバーが早く着きすぎて手前で停まって待つようなケースは初期には起こりうると思いますが、法定速度内で走って目的地にたどり着く以上のメリットが希薄なためそれをする理由がないのでごく初期のみに限られると思います。
この方式なら、感度はそれほど高くないにしても速度超過検出に対する特異度は100%が担保できるはずですし、かなりの量の速度超過発生を抑制できるはずです。
2022年の夏から賃貸でセカンドハウスを借りてで二拠点生活を始めてみた。
始めた理由は、自宅の一部屋がコレクションで満杯になっているので、荷物を置く倉庫と別荘を兼ねたセカンドハウスが欲しかったからなんですが…
例えば前にnoteでフェミから叩かれてた「ぼくたちは勉強ができない」って漫画あるけどあれだってほぼほぼ現実世界っぽいのに冷静になるとめちゃくちゃだからな。
フェミが叩いてたやつ
勉強がテーマの漫画だから教育関係のことだけ箇条書きにするけど
・公立高校の校長が特別VIP推薦とかいう大学の学費を免除する制度を餌にして、生活保護レベルに貧乏な主人公に同学年の生徒の家庭教師のようなことをさせる。
・その後特別VIP推薦を蹴って希望の学部を目指す主人公に教師が奨学金などのアドバイスを一切しない。
・主人公が特別VIP推薦を使わず大学に進むことを知った母親が、亡くなった父親の遺産を使っていいから好きな大学に進むようにと諭す。(なおその場に教師も同席している。さすがに奨学金のこと説明しないのは不自然だろ)
・センター試験当日に骨折した主人公に追試験を受けさせず、当日にそのまま試験を受けさせる。
なんというか教育関係の救済制度が驚くほど希薄で、全体的に貧乏人は爪に火を灯すような苦労をしないと目指す進路には行けない、社会はお前を助けないって思想が通底してるんだよね。
貧困家庭の子供がこれ見たら自分は大学行けないなって絶望するだろ。
ネオリベ思想を子供の頃から受け入れさせようとしているとしか思えん。いやネオリベもここまではやらないかもしれんけど。
ここまで貧乏人に冷淡な癖に最終回では、自分のやりたいことも見つかっていない劣等感まみれの高3の秋の主人公に、俺たちの未来は無限にあるとか前向きに言わせるからな。奨学金もなさそうな世界で貧困家庭の自分の夢も持ってない高校3年生にこれ言わせるの残酷すぎるでしょ。
作者は比較するまでもなく裕福な家庭に生まれたっぽいからその辺の機微がわからないのかもわからんが、漫画だからってその辺のエクスキューズはどうにかしておけよと思うわ。
例えば五等分の花嫁は同じ貧乏人の主人公だけど、超絶金持ちのヒロインの家庭教師で日当2万5千円とかいう給料もらってるから学費くらい余裕で稼いだんだろうなとか、全国3位の学力なら給付型奨学金貰ってるんだろうなって想像つくんだけどさ。(学費周りの話が描かれてないから想像だけど、下手に描くよりはむしろ想像に委ねられる分ずっとマシ)
嫁からすれば俺の親戚づきあいというか友達を含む交友関係はかなり希薄だという
同級生→10年どころではなく会っていない。というか結婚式や葬式に呼ばれたことすらないし年賀状も皆無
親戚→名字程度は知っているがもちろん連絡先は知らない
そういえば元職場の同僚の人が唯一友達と呼べるかもしれないが、逆に言えばその人くらいしか話す人はいない
この年になると結婚式や場合によっては葬式の頻度が上がるんだろうけど、2年くらい前の従兄弟の葬式以外に参列したことがない
極めつけは親戚なんだが、母親の妹が実家の近所に住んでいるがその人が姉か妹かを知ったのはごく最近
他の親戚に関しても中学時代に少しだけ交流があった程度で誰と誰がどういう関係なのかという相関図はまるでわかっていない
母親がちょっとあれなせいで親戚一同からかなり避けられていたからな
年賀状を書く風習もないし季節ごとの贈り物や冠婚葬祭とも無縁な生活を送ってきたけど、嫁からすれば親戚の名前もまともに言えないことに驚愕された
古代ギリシャ的な素朴な議論になってしまうかもしれないが、人間が他の人間を認識する時には、『自分と似ている部分』を共通項にすることで、認識が上手くいくようにしている。
単純な話、自分と全く違う人格を持っていたり、自分と全く違う経験をしている人間のことを理解することはできないけれど、自分と似ている部分を持っている人間や似たような経験をしたことのある人間はより理解しやすいということである。本当に単純な話だ。
このようにして、人間は他者を理解する。ある意味、自分の一部分を他者に擬態させて、記憶するのである。自分の中に他者の疑似人格を構成していると言っても差し支えないだろう。
ある意味、この疑似人格は、作成した当初は、自己の人格をアレンジしつつ複製したものと言ってもいいので、完全な他者ではない。
とは言え、その他者(自分の中に複製した他者ではなく、現実にいるオリジナルの他者)を認識し続けることで、その疑似人格としての他者は変化を続ける。現実の、オリジナルの他者について認識を続けていく中で、この疑似人格が当初の認識から変様を続けていくのである。
このように認識が変化すると、どうなるのか。
つまり、当初自身の人格の疑似複製でしかなかった他者が変化し成長することで、自己の複製としての他者人格が変化し、それによって自己自身さえもが変化していくのである。自身と他者との共通項を基に形作られた疑似人格が変化することで、共通項を基点として自分自身の人格が変化し、時に新たな属性を手に入れることになる。つまり、自己が『延長』されることになるのである。
そんな風に、誰か自分と共通項を持った他者に関する認識が、その他者との交流を通じて変化し、新たな属性を身につけ、その新たな属性によって自己そのものに変化が及ぼされる過程――そのような仮定を、人は愛と言っていいのではないかとか、そんなことを思うのである。
そんな感じ。
この話のポイントは、このような自己の『延長』は、そもそも自分と共通項のある他者(を基に作り上げた疑似人格)を媒介にしてでしか成立し得ないということである。人は時に、自分と全く異なる人間に対して、愛着に似た感情を抱くことがある。これは、ある種環境に堪えうるための多様性を人が獲得しようとして生じる現象なのではないかと個人的には思っている。とは言え、このような愛着は、自己を延長させうる愛にはなり得ないと個人的には思っている。何せ、共通項が希薄な人間に関しては、自己を延長させ得るような疑似人格を構成することが難しいのだから。
婚姻とは贈与だからで、グループ内の贈与では社会の経済が回らないから、社会はそれをよしとしない。インセストタブーの本質はそこにある。
金銭だけが経済ではなく、人と人とのつながり、人脈も財なのだ。だから、他の氏族・グループに属するもの同士の婚姻は、それに伴う人脈を飛躍的に増加させ、結果として社会全体の財を増大させる効果があると期待される。従って、それらの婚姻を、社会全体には祝い、称賛し、保護する動機がある。この点については、同性婚であっても同じ効果が期待できる。しかし、近親婚にはその効果が一切期待できないし、それどころか(一般に禁忌とされてきた長い歴史のせいもあるが)、あえて従来の人間関係を閉ざして内部に閉じこもり、結果的に社会全体の財を喪失させる可能性がある。つまり、社会には近親婚を推進する動機がない。
考えてみてほしい。人口100人の二つの村があるとする。その中で、片方は近親婚が基本で、もう片方ではそれが一切行われていない。前者では家族が基本の単位となって村内はバラバラ、人間関係は希薄なまま、どころかどんどんそれが進行していくだろう。後者の村ではどんどん親戚関係が広がり、開放的で人間関係が盛んになっていく。100年後に二つの村がどうなるか。それを考えたら、社会が近親婚を推進しない理由、そして、それが同性婚とは異なる理由が理解できるだろう。
私は幼少期から低血圧で、季節の変わり目や低気圧にも弱い体質である。毎朝目覚まし時計が耳元かつ大音量で鳴り響き、母親に布団をはがされても目が覚めない。意識がはっきりせず時間感覚も希薄なので、毎朝お決まりのように遅刻する。家族や友人、学校の先生など様々な人達には本当に迷惑をかけてきたし、ため息をつかれたり責められたりして毎朝悲しい思いをしていた。自己肯定感が低めであることを社会人になってから自覚したのだが、これは幼少期から続いている「自分の身体をコントロールできないもどかしさ」「寝坊や遅刻に伴う罪悪感」が根底にあると思う。
しかも、どれだけ早寝をしても睡眠時間と身長が伸びるだけだった。こうなると、何が何でも成長したがっていた身体側のバグだとしか思えない。健康優良児かつ問題児である。
職場の上司にも入社直後に相談をした。幼少期から朝起きられないことが悩みであると告げると「気持ちはわかるよ。私も低血圧で朝が苦手なんだ。熱いシャワーを浴びると目が覚めるから、あなたもやってみてね」と笑顔でアドバイスをいただいたのだが、雷に撃たれたかと思うほどの衝撃であった。私はどうやったら意識を取り戻せるのかというレベルの話をしているのであって、「目覚める」の解釈が根本的に違うのだ。あまりにも話が平行線だったので、社会人になってからは平日21時台には布団に入るようになった。なお、それでも社会人2年目までに3度ほど遅刻経験がある。職場の先輩方からは身体を気遣われ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
私が毎日アラームの音に気がつけるようになったのは、身長が完全に止まった社会人3年目の夏だった。ちょうどその頃、有名大学の起立性調節障害専門の先生とご縁があって「困ったら相談しに来てね」といただいた名刺が今も私のお守りになっている。
これは毎日試行錯誤する中で最近気がついたことなのだが、私が起きるまでには5つくらいの工程があるようだ。
①アラームの音に気がつく→②右目を開く→③両目が見えるようになる→④頭が起きる→⑤身体が起きる
まず、目覚まし時計が聞こえなかった幼少期は①で躓いているので論外である。もはや毎晩失神していたのでは?とすら思っている。
最近の課題は②→③なのだが、同居人に「左目はまだ寝てるの?」と聞かれてようやく、自分が右目から開けていることを自覚した。なぜか左目を開けるのがとんでもなくキツい。試しに動画を撮ってみたら、無理矢理開けた左目が内斜視になっていてびっくりした。その斜視が治るまで10分ほどかかっており、その間に睡魔に負けると二度寝する。しかも、③→④→⑤はスムーズにできる。私にとって、頑張ればよいポイントを見つけられたのはとても革命的だった。
思いつきで書いた文章ではあるが、この記事を読んでいる誰かの気づきになったり、毎朝格闘している同志が見つけられたりしたら非常に嬉しい。