はてなキーワード: 公共の福祉とは
[B! hoge] 日本共産党「私有地は国民共有の財産です」 共産主義者の看板に偽りなしにおいて、神宮外苑を国民共有の財産とした共産党への擁護が散見される。
○土地が私有地であることと国民共有の財産であることは両立する。そうでなきゃ都市計画なんかできないじゃん。アホな1bit脳の連中には理解できないのだろうが。
○抑も明治神宮の土地は御料地由来だからただの「私有地」ではあり得ないのだが、歴史を知らんのかあと、宗教法人を時に公共性の面から攻撃するが明治神宮には殊更「私有地」を強調するの二重思考だよな。
財産権ってのは憲法に認められているように基本的人権なの(憲法29条各項)。
そして、その内容は、所有物を自由に使用・収益・処分することができるの(民法の基本原則)。本来、国(自治体)ごときが口を出して良いものじゃないのね。
そうは言っても完全に自由好き勝手にできないこともあるよ。ブコメにある都市計画やらなんやらね。その根拠になるのが公共の福祉(憲法29条2項、民法1条1項)や信義則(民法1条2項)、権利濫用の禁止(民法1条3項)なわけだ。
ここで抑えてほしいのは、私有財産というのは自由に使用・収益・処分できるのが原則であるけれども、その権利の行使には一定の制限がつく、ということだ。(完全に自由に行使できないという意味で、表現の自由などと同様だ。もちろん規制のされ方に違いはあるが。)
基本的人権ではあるが、他の基本的人権同様にその行使に一定の制約がついているだけにすぎず、間違っても国民共有の財産などではありえない。
(「あなたには表現の自由を行使する権利があるが、その行使には一定の制約がある」ならわかるが、「あなたには表現の自由を行使する権利があるが、それは国民共有の財産であり国民全体の利益になるように行使しなければならない」はあり得ない、といえば分かりやすいだろうか。)
したがって、私有地であることと国民共有の財産であることは両立しない。
基本的人権の擁護に熱心なはてブらしくもない、人権侵害をよしとする強権的な意見が散見されたのは非常に残念に思う。
外苑の成り立ちから攻めるブコメもあるが、それを言い出すと全国の払下げの土地全てにはねるものであり、到底一般的な見解とは言えないだろう。(朝日新聞に対して国から払い下げを受けたのだから国のために報道しろとは言わないし、朝日新聞の不動産事業に対して国民の利益になるように商売しろとも言わないよね?)
もちろん、過去の歴史的経緯から神宮外苑の権利者達が自らを律するルールとしてそのように考えることは全く否定されるものではないが。
んな事言うなら景観条例だってバニラの車の規制だってキョウサントウガーになっちまうじゃないか。倉敷美観地区は共産党で人権軽視なのかい?
のと、
ってのは全く違うの。前者は人権の制約な問題で、後者は近代的な人権を認めてないの。
神宮外苑は格安で払下げられただけでなく、伐採される森林も“全国国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕に”よって人工的に造られたもの。 http://www.meijijingugaien.jp/history/import.html 公共財に近い性質を持つ。
だったら払下げのときの契約にその旨書いとかなきゃだめなの。それをしない以上は所有権が行使できなきゃおかしいの。
ちなみに、近代以前にはこの増田の言う通り所有権が絶対じゃない事例は山ほどあった。
例えば殿様から貰った褒美だけど不興を買ったら没収されるとかね。ブコメの言ってるのはこの近代以前のレベルで、あたま近世かあたま中世と言って良い。
これについて、最高裁は、刑法第175条にいう「わいせつ文書」が如何なるものかを判断する基準として、「わいせつ三要素」を示しました。
①いたずらに性欲を興奮または刺激
そして、ここで重要となるのが、わいせつ性は芸術的作品であることや作者の主観的意図に左右されることがないという点です。
「芸術作品だから、わいせつ性がなくなる」というわけではなく、わいせつか否かは「社会通念」によるというわけです。
最高裁は、これらの見解を述べたうえで、「公共の福祉」論を展開します。
「しかしながら憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法12条、13条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである。この原則を出版その他表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によつて制限されるものと認めなければならない。そして性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当であり…」
すなわち、すべての基本的人権は絶対無制限ではなく、公共の福祉の制約の下にあるとの立場を示します。
これは、いわゆる一元的外在制約説という考え方です。
こういう人は出てくると思いました。しかし考えてみてください。元増田さんの主張には誤りがあります。
"物欲も性欲も抱くこと自体はコントロールできないが、そこから犯罪という手段で解決しようとすることをコントロールしている"という元増田さんの主張には同意します。
現在の社会通念上、物欲そのものが気持ち悪いとは見做されてはいません。
一方で、"気のない相手から恋愛感情を抱かれたり欲情されたりすること自体が気持ち悪い"と考えている人は多数います。
つまり、物欲を持つ内心の自由は他者の人権を侵害していませんが、性欲を持つ内心の自由そのものが相手の幸福追求権を侵害することはあります。
こういうことを言うと"いや、内心の自由は絶対に保護される"と言うかもしれません。しかし、憲法にそのように明記されているわけではありません。あくまでそのように解釈されているだけです。
つまり、"内心の自由は絶対に保護される"というのは"自衛隊は憲法9条に違反していない"や"死刑は憲法36条の定める残虐な刑罰に該当しない"と同様に解釈にすぎないのです。
将来、"性欲を持つ内心の自由そのものが相手の幸福追求権を侵害しているから性欲を持つ内心の自由は公共の福祉に基づき規制される"という解釈になる可能性も十分にあります。
Ⅱ.そもそも全ての人の内心の自由を保護することが人類の幸福や発展に繋がるかを思考停止せずに考えるべき
性欲そのものが理性でコントロールできないならば強制的に薬で抑えろという主張は、「『性的なことを考える』という内心の自由そのものを奪え」と主張しているのと同じであり断じて認められない。
しかし、私がⅠで書いたことが成立しないとしても、元増田さんは"内心の自由だから守らなければならない"というところで思考停止しています。
そもそも、内心の自由を含めた基本的人権は決して自明のことではありません。トマス・ジェファーソンは自明のことであると主張するかもしれませんが、そのように主張したジェファーソン自身が奴隷を所有していたことからも決して自明ではないことが明らかです。
当初は"白人男性は自由・財産・生命などの権利を持つべきである。そのように設定することが人類の幸福につながる"と考えられ、それが”女性を含む白人は”となり、やがて”全ての人は”へと発展していったのが20世紀までの人権の歴史です。
しかし、全ての人に基本的人権を設定することで人類は本当に幸福になり発展してきたのでしょうか。私にはそれは自明のことであるとは考えません。
むろん、"フルスペックの人権を持つ人と持たない人がいる"という考えが差別や奴隷制や植民地支配を生んできたことは確かです。しかしながら、それは人類が"フルスペックの人権を持つ人と持たない人の区別"を自分に都合よく設定してきたからである可能性もあります。
たとえばAIに評価させることなどにより、"フルスペックの人権を持つ人と持たない人"を中立的かつ人類の幸福と発展のために区別できるようになるかもしれません。そのようなことも元増田さんには考えてみて欲しいです。
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質は正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
とはいえ中級ミクロ経済学くらいの知識はいるので、馬鹿といっちゃうのは言い過ぎかも。
需要と供給のメカニズムが正常に働くためには、メーカーや通常の流通チャンネルが得る利益が上昇しなければならない。転売ヤーは、転売行為を行っている人が儲かるだけでメーカーは儲からないから価格メカニズムによる調整が働かない。転売ヤーがいないほうが商品のアクセスが簡単になる可能性が高いので、流通ともみなせない。生産者からファンへの商流に介入し付加価値を与えずに上前を撥ねるという意味では消費税のほうが原理としては近い。
で、消費税がそうであるように転売ヤーの存在によって消費者が支払う費用が上昇し、均衡供給が減少するので、総余剰が減少する。ゲームのエコシステムは広がらず、アイドルのファンのすそ野は狭くなる。消費税は公共の福祉のために使われることで総余剰の減少を相殺する、ということになっているが、転売ヤーにはそういうメカニズムがない。
そもそも企業が正しい値段付けをしていれば転売ヤーの入る余地はないので転売ヤーは悪くないというのも間違っている。企業には短期的な利益最大化の価格より低い値付けをするインセンティブがあるから。一番わかりやすいのはゲーム機本体のケース。ゲーム機が売れれば売れるほどゲーム機のエコシステムに正の外部性が働くから、売り出し時点の均衡価格より低い値段で本体を販売することで需要を刺激できる。ゲーム機のエコシステムから得られる総利益を考慮すると、ゲーム機本体の会社は均衡価格より低く売り出すインセンティブは強くある。これは、ゲーム機の販売による正の外部性をメーカーが内部化しているということなので、おそらく定価のほうが「短期均衡価格」よりも経済学的な意味で効率的(総余剰が高い)可能性が高い。逆に、転売ヤーみたいに販売後最初の一週間は定価の五倍から始めて一年かけて落としていく、みたいなことをされるとエコシステムの成長が阻害される。
おそらく、アイドルのチケットなどもそう。市場均衡まで価格を上げるより、あまり値段を上げすぎないで、現在収入が低いが熱心なファンにもチケットがいきわたるようにすることで、ファンのすそ野を広げ長期的な利益の最大化が図れる。
転売は悪だが、別に個人の利益の追求の結果としてエコシステムの成長が阻害されたって犯罪ではないし、犯罪とすべきでもないとは思う。マスクとか、全国民に外部性があるようなケースを別にすれば、法律で違法行為とするのは正直疑問感ある。不正競争防止法の文脈なら考えられなくもないけど、あれって具体的な対象の特定が必要だし、そこの建付けを転売ヤーのために変えるのか、というのはパターナリズムが過ぎるかなという感じ。反社会勢力に資金が流れてるとかなら別だけど。
もちろん、自分の利益のためにエコシステムに害を与えているので、ファンから非難されるのも、メーカーが工夫を凝らすのも当然だと思う。善か悪かだったら悪だよね。
入浴は人間の最低限度の生活に必須なので概ね一人で衛生管理ができるまで親が付き添えるように配慮しているわけですが(年齢制限は自治体ごとに異なる)公共の福祉の例に挙がりそうな話だな。
私は他人に興味津々な子は性差なく見てきて許容してるので気にならないけども。あと幼児くらいになるとちんちん触り癖少なくないので勘違いしてないかなあ…
風呂だと特に「あれ、ちがうな?」ってなりがちでなんでおっぱいあるの?みたいな会話女児でもする。全然男児だろうが女児だろうが連れてきていいと思うんだけど、子が嫌がる方が先だと思うんだよね
私も男湯入れる歳でもやだ!って言った記憶あるしそれは性的な目に晒されたからではなく男女は別というルールに放り込まれた例外の居心地の悪さとか恥ずかしさとかそういうの。
とりあえず議論の前提となっていると思われる部分に同意できないんだが、それぞれ例を示してくれませんか。
あ、「私のタイムラインの中」とか「私の友人」みたいなエコーチャンバーの話はいらないです。
ある程度権威付けされたきちんとしたものか、権威付けはされていないけれども、客観的に絶対数で多くの人がそのように考えていると見ることのできる方法でお願いします。
ほーんとこれ
こいつずっとこんなんなんだな
https://anond.hatelabo.jp/20240422025107
結局コレなんだよね
アンフェとかネトウヨとか表現の自由とか公共の福祉とかって、医師でもないけど医学書3冊読みました〜とか学者でもないけど論文1本読みました〜とか言ってるだけのおじさん
東京15区の補選にて、つばさの党の陣営が他候補に行っている選挙妨害が話題となっている。
これについて、19年参院選にて札幌で安倍首相の演説に対しヤジを飛ばした事件と同じであるという話が見られる。
しかしこの2つは明確に異なる。札幌のヤジは表現の自由によって保護されるが、つばさの党の妨害はそうではないと考えている。
まずわかりやすい点では、つばさの党の妨害は相手陣営のスタッフなどを転ばせる有形力の行使をしている。
これは異なる点としてわかりやすいが、相手候補の演説中に声をあげて妨害するという点においても、両者は異なる。
札幌のヤジは肉声による叫び声で、安倍首相の演説が実質的に聴き取れなくなるということはなかった。
しかしつばさの党の妨害はトラメガを使った大声で、しかも演説中ずっと継続して行われたため、演説している側は聴衆に声を届かせるのが難しい状態にあった。
つまり、演説側の表現の自由と、妨害側の表現の自由が衝突していたかどうかという点が異なるのである。
我々表現の自由戦士は、こうした場合(この国における通説と同様に)「公共の福祉」によって考える。
この「公共の福祉」は、個々の具体的な権利が衝突した際に調停を図る考えであって、しばしばバカが主張する「TPO」やら「秩序」やら「ある集団の尊厳」やら「累積的抑圧体験」のようなものとは全く異なる。
つばさの党の妨害のケースでは、演説者の表現の自由という具体的な権利が妨害によって侵害されているのだ。
仮に告訴されたとして、実際に法的にどのような判断が下されるかは裁判所の判断になるが、私はこの場合は演説者の権利である表現の自由が優先されると考えている。
※「前者」と「後者」がわかりにくいという指摘があったので修正しました
結局コレなんだよね
アンフェとかネトウヨとか表現の自由とか公共の福祉とかって、医師でもないけど医学書3冊読みました〜とか学者でもないけど論文1本読みました〜とか言ってるだけのおじさん
こんなレベルで「○○治療に問題ガー」「アインシュタインの相対性理論は間違っててー」とか上から目線で個人にガーガー文句つけてるわけ
普通の知能の持ち主なら、1冊医学書を読んだだけで、医学分野で「俺はお前よりも無知ではないよ?お前の方が無知だろ?○○は○○なんだよ!だから俺の方が正しいんだよチラッチラッ」とかできないよね
医学も素人医学がダメだから敷居の高い医師免許を作ったし、法学も三百代言がダメだから敷居の高い司法資格を作ったよね?
そもそもの話の流れが、
知ったかぶりで嘘を言うな、どこで表現の自由を学んだんだ?公共の福祉を理解できてないだろ
↓
じゃあ公共の福祉に反してると認定してもらってから来るんだな(?)
だからな
なんで具体的なことをみんながお前に親切に無償で説明してくれて当たり前だと思っちゃったの?なんで教えてくれない人が同一人物だと思っちゃったの?説明面倒臭いんじゃない?明らかに間違ってるんだからライトに突っ込むんじゃない?
なんで聞き齧りの本の斜め読みで自分は解像度が高くてバカじゃないと思っちゃったの?
認定してもらってから来るんだななんて仮にまともに本読んでる人なら言うわけないんですが
こんな説明して恥ずかしくないの?
親の教育じゃ具体性がないけど、どんな気持ちなのかを答えてくれないかな?
何で謝罪しないの?
無知で表現の自由や公共の福祉を本と判例の斜め読みとネットサーフィンで知ったつもりになって知ったかぶりして他人に文句つけてしまいました
バカでごめんなさいって?
知ったつもりになっていた理由は?
公共の福祉を誤解していたおじさんがいたよね