はてなキーワード: アファーマティブ・アクションとは
アファーマティブ・アクションを知らないのか…。
東京医大が女子学生締め出しで話題ですが、世界の超一流名門大学たる米国・ハーバード大は学生の「多様性」を最大限重んじることで有名です。
「多様性」を確保し、アファーマティブ・アクションを推進するためには、アジア系学生に逆下駄、アフリカ系学生に下駄履かせるのも仕方なし!
東京医大も女子学生を一律減点なんてセコいことせずに、「多様性」を確保するためのハーバード式総合力入試を導入すれば良かったのにね。ちゃんと我々は入学者の多様性を重視します!とか言ってさ。
参考:https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/06/post-10463.php
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真面目な話、今回の件は受験生に無告知で一律減点したから大きな問題になったけど、「多様性」確保のため男女比1 : 1になるようにしますって告知しとけばそこまで大きな問題にならなかったのでは?
少なくともハーバードをはじめとする多くの名門大学で、「多様性」の名の元に性別や人種による選別が行われている訳だし(政治的に正しい言葉ではアファーマティブ・アクションになるわけだけど)
このところのポリコレ関連の話題を見ていて、差別の定義が人によって違うことが無駄な議論の要因の一つのように思えたので備忘録的に。
公的な空間における制限が差別か否かを議論する際には論者が考える差別が対称-非対称or正当-不当のどちらに基づくかを明確にする方が無駄な議論が避けられて良い。
例えばちょっと前の増田になるが女性専用車両が差別かという投稿がある。
元増田は女性専用車両は③非対称かつ正当とした上で、非対称であるから差別だと提起した。
これに対して差別ではないとする意見では、一つは正当である、もう一つは対称(女性専用車両に男性が乗ることは禁止されていない)であるという2つの理由があり、その分離が曖昧な意見が多かった。
このように「差別」という言葉の定義が異なるために無駄な議論で消耗するのはもったいない。
※なお個人的には女性専用車両(女性専用とは言っていない)などという鉄道会社の命名と運用が悪いと思う。
問題のない①対称かつ正当と明らかに問題な④非対称かつ不当の間には、②対称かつ不当と③非対称かつ正当のグラデーションが有る。
現代では正当-不当を差別の要件とする派閥が大勢のようだが、私は対称-非対称を要件とするべきだと考える。
対称-非対称の判断基準は正当-不当のように社会通念という時間や場所によって異なるものに依存しないため明確であるため議論の前提にしやすい。公的空間においてすべての非対称がない社会が理想であることを前提とした上で、③非対称かつ正当な制限について現状許容するかをすり合わせ、定期的に見直していく方が建設的な議論ができるのではないだろうか。
また、この定義では②対称かつ不当な制限については差別とは別の論理で議論する必要がある。案件によっては非対称性に置き換えることも可能かもしれない(例えば補足で挙げたスラップ訴訟を訴訟に対応する能力が非対称だから差別だとする)が、基本的にはすべてのグループに対称な制限を差別の論理で議論することは筋が悪いだろう。
①公的な空間においてすべての人間に対する制限は平等であるべきだ
(私的な空間では平等でなくても良い。例えば私の家に入れる人間と入れない人間を私が独断で決定することは問題ない)
①グループ:人間をその属性(性別、国籍、宗教、階級など)で分けた集合のこと。
②対称-非対称:あるグループに属する人間に対する制限が、別のグループに属する人間に対する制限と同じもしくは代替の利用コストが無い場合を対称、制限が異なるか代替の利用コストが有る場合を非対称とする。
③正当-不当:ある時代・場所・状況においてその社会を構成するおおよその人間が道理に合うと認めることを正当、道理に合わないと認めることを不当とする。
ある属性で分けられた複数のグループに対する制限について、対称-非対称と正当-不当の2軸で分類すると以下の4つになる
①対称かつ正当
②対称かつ不当
③非対称かつ正当
④非対称かつ不当
①対称かつ正当の例としては公園での火気使用禁止や隣り合った男子・女子トイレを挙げられる。火気使用はすべてのグループに対して一括で禁止されているため対称である。また男子トイレに女子が入れないこと(またその逆)はあるグループに属する人間に対する制限が、別のグループに属する人間に対する制限と異なるが、隣に女子(男子)トイレがあれば代替の利用コストが無いので対称と考えられる。またどちらの制限もおおよその人間は正当と認めるはずだ。
(以前話題になったマクドナルド上大岡カミオ店の店内トイレを日中は女子専用とすること(http://news.livedoor.com/article/detail/13296334/)は男性に利用コストをかけるため非対称と考えられる。マクドナルドは私企業なので今回の議論には直接関係はないが。)
②対称かつ不当の例としてはスラップ訴訟を挙げられる。提訴する・される権利・義務は社会的な地位に関わらないため対称である。しかしながら、政治家や大企業が市民や被害者に対する恫喝を主目的として訴訟を起こすことは現代の社会通念上は不当とされる場合が多いし、実際にカリフォルニア州では「反スラップ法」が制定されている。
③非対称かつ正当の例としてはアファーマティブ・アクションを挙げられる。特定のグループに対しての優遇措置=別のグループへの制限は明らかに非対称であるが、そのグループの不利な現状を歴史的経緯や社会環境に鑑みた上で是正することは理念としては正当とする人間が多いと思われる。(具体的な改善措置についてはもちろん種々の意見はある)
④非対称かつ不当の例としてはアパルトヘイトを挙げられる。現代では黒人隔離政策が非対称であり不当であることに異論はほとんどない。
美の評価が多様すぎて一つに絞れないなら、美人か不美人かを基準にしたアファーマティブ・アクションは永遠に不可能になるんだよなぁ
もっと外見が悪い人も企業に採用を促そうとしても、美醜の感覚は人それぞれ、で切り捨てられてしまう
明らかに顔採用してる某IT系企業の方針を批判しようとしても、顔採用だと思うのは貴方の美的感覚にすぎませんよね、と反論を許してしまう
さらにはブサイク手帳や容貌障害の障害認定化も人それぞれ、となると公金での補助に正当性がなくなってしまう
貴方が辛いのは貴方自身が世の中の誰かの美的感覚を勝手に内面化してるだけで、自分で美人と思うのも自由なんですよ、
貴方が面接で採用されないのも差別なんかじゃありませんよ、公金での援助はしませんよ、強くご自身の美に自信を持って生きてください、
現状の入試制度では、医学部医学科という枠に入らないと産科の専門家に到達可能なルートに入れない。
しかし医学科は、原因不明だが男子合格者の割合がとても高いので、産科にも結果的に男性医師が多くなってしまう。
また医学科に入った女性すら、なぜか他の眼科や内科といった分野を選ぼうとする人も多い。
受益者のニーズとして女性医師を望む声が多いにも関わらず、これでは需給が対応しないままである。
そこで提案だが、口腔周辺の医療が独立した歯学部となっているのと同じように、産科学部も最初から独立させるのはどうだろうか。
歯学部は職人技術的要素が他の医学分野と大きく異なるという理由が存在するが、産科もジェンダーや社会背景の問題性が大きく、独立するだけの意義があると考えられる。
男女共通の看護師資格と別に、女性限定の助産師という資格がある。
アファーマティブ・アクションの一環ではあるが、他の学問分野と比べても女性の利害に直結するため、男女枠を1:9に固定する施策も必要だと思われる。
現状の産科医に男性が多数存在する現状、新制度から突然男性を完全に除外することは困難だろう。
まさかの保守な女性保護を語る男性フェミニスト。日本のフェミニズムはお気持ちフェミニズムなので、女性の権利は大事だよね女性を庇わないと…だって女性はかわいそうな被害者なんだから保護して守ってあげないとみたいな耳障りのいい事をいう保守な男性が侵入するのを防げないんですよね。— 多摩湖♡7月3日多摩湖バー京都エデン (@tamako_han) 2017年9月1日
「女性を蔑視したり不当な待遇にすることは許さない。もちろん、そのかわり優遇してもらったり特別に配慮してもらう必要もない」。これがフェミニズムの男女平等理念だと思う。これに対し、いまTwitterにはびこっている「女性を優遇するべき。とくべつな配慮をするべき」、というのはフェミニズムと似て非なる何かだ。一種の男女差別であり、逆バックラッシュといってもいいのではないだろうか。 (いや、ただのポリコレ棒では)
しかし、現実差別が解消されていないいまの状況で「一次的に」「例外として」女性を優遇するべきということならわからなくもないかなーと。そういうことを考えている。いわゆるアファーマティブ・アクションの問題だよね。(いや、ただのポリコレ棒では)
『幸色のワンルーム』に関して、純粋にロジックで考えるなら放送中止はできないというぼくの考えは変わらない。でも、社会が成熟していないという現実に配慮してそのロジックを捨てるべきだ、それが成熟した態度だ、ということなら話はべつ。それなら理解できる。ただ、ぼくはそれでも理を通すべきだと思うけれど。なぜなら、理を捨てて現実の女性の問題に配慮を示してしまうとそれはそれで色々とねじ曲がるから。フェミニズムの思想とはそういうものでしょう。それが、あるいは弱者に寄り添うということなのかもしれないということはわかるけれど、それでも。フェミニズムは男女平等を主張する。(いや、ただのポリコレ棒では)
しかし、現実の社会はまだ男女平等に程遠い。だから、「現時点では」女性に対する配慮が必要だ、という理屈はわかる。しかし、そこで女性に対し特別な配慮を示してしまうと、社会の改革は進まない。男女平等という理念は浸透しない。これはたしかにむずかしい。ぼくは、やっぱり男女平等の理念を浸透させ、社会を前進させるためには女性を特別扱いするべきではないと思う。しかし、それはぼくがそう思うというだけであって、唯一の正解ではないだろう。じっさい、そのことによって犠牲者は出るわけだし。そのことはよくわかった。なので、「現時点では」女性に対する配慮は必要だ、そのためには理念を捨てるべきだ、という考え方は否定しない。(いや、ただのポリコレ棒では)
ただ、ぼくはそちら側には立たない、というだけだ。そういう考え方とは敬意をもって対立する。これ、ぼくが何をいっているのか理解してもらえるかな?女性は普遍的に特別扱いされるべきだ、という思想はアンチ・フェミニズムとかバックラッシュといっていいくらい退行的だろう。しかし、いまここにある問題に配慮して「一次的に」特別扱いされるべきだという理屈は、フェミニズムではなくても理解はできるものではある。そちらのほうが現実的なのかも。「一次的に」女性の問題に配慮し女性を特別扱いすることを認めたとして、社会が成熟して男女が真に平等になる日はそれではいつ来るのか、ということは気になる。(一次的ってなに?辞書で調べたら「まずもって」「第一に」「優先して」っていう意味らしいけど、じゃあ「まずは」って書けば良くない?なんで一次的なんていい方をするの?その表現する意味ある?馬鹿なの?)
一次的にでもフェミニズムの理念を曲げてしまったら、いつまでも社会は前進しないのではないか。(「一次的にでも」っておかしくない?第一にしたんだから妥協の産物みたいな表現として使うのはおかしくない?言葉にこだわってる演出をしておきながらなんか言葉の使い方おかしくない?それに社会の前進なんで望んでないのでは。というか私もそんなこと望んでない。社会の前進なんで曖昧としたものを望んでる人なんているの?)
男女差別社会において、男女平等を実践することによる弊害はたしかにあるだろう。それくらいなら女性の抱える問題に配慮して男女平等の理念はとりあえず捨てるという選択肢はありえる。ぼくはそちら側に立たないけれど、納得のいく話だ。「今日」を取るか「明日」を取るか、という話なのかなあ。(いやだからポリコレ棒では?今日も勝つ、明日も勝つ。すべて勝つ。気合だ根性だって世界でしょ。理念を捨てたりしないよ。だってポリコレは正しいんだから。正義なんだから。理屈なんてしゃらくせえ。黙ってろボケの世界だよ。無駄な抵抗だよ。今でも理が重視される世の中だといつから錯覚していた?)
「今日」ではなく「明日」を取る、というと良いようだけれど、それじゃ、その「明日」はいつになったら来るの、という問題はある。「今日」の問題から目を逸らしているだけじゃないの、と。それはそうかもしれない。だから、ほんとに正解がある問題じゃないんだよね。(正解はないと言いながら自分のほうが正しいと思ってるよね。理は自分の方にあるけど感情には配慮しますよくらいの立ち位置だけど本当にそうなの?あなたの正気は誰が保証してくれるの?)
ぼくはそれでも差別的な女性優遇に反対だけど。(そもそも差別的な女性優遇というこの人の評価は正しいの?ポリコレ棒の人たちの主張はもともと差別的な男性優遇を是正して平等に戻してるだけって言い分でしょ。これに対して反論できるの?女性が差別的に優遇されているとは思わない、といわれたらどう反論するの?そのあたり感覚で喋ってるだけで、自明のことのように語られてもなぁ)
たとえば、現実の女性のために一時的な配慮としてある種の表現を規制する。それが差別的な社会における一次的な配慮だというとして、いったいいつ差別がない成熟した社会は訪れるのか、という問題がある。だから、「女性の苦しみに寄り添う」ために表現を抑制することにも反対かな、と。ただ、そういう気持ちはよくわかるので、そういう立場に立つことが悪いとは思わない。それはたぶんフェミニズムでもなければ男女平等でもないけれど、ひとつの現実的な方策としてありえるとは思う。
(なんかさっきから気持ちはわかるけどフェミニズムや女性は馬鹿だなって見下すような目線入ってませんかねこの人。というか気持ちだってわかってないだろ。ただのポリコレ棒では)
差別しちゃいけないから、アファーマティブ・アクションは良くないな。
ってマジ?
性別・民族などに基づいて待遇の差をもうける時、「これは差別ではなく区別」と言ったら叩かれるので、かわりに、「これは差別ではなくアファーマティブ・アクション」と言えばいいってこと?
アファーマティブ・アクションて…具体的にどんなことしてんのさ
別ツリー増田が全く実感してないっつってるしなんちゃっての的外れ施策をアファーマティブ・アクションつってるだけってオチなんだろうな…
囲碁界って糞だな…
アファーマティブ・アクションはある程度効果があるのかもしれないが、どのくらい弱者を優遇するのか、あるいはどのくらいの期間行うのかというさじ加減を誤るとすぐに逆差別状態または失敗に陥り、難しすぎると思う。
人種、国籍、性別、障害に関しては、個人が自分のステータスを変えることができないため、このさじ加減でグループ全ての人に影響が及び、両刃の剣になってしまう。
対して収入等、グラデーションになっているものがある。これは特定の階級から抜け出すことも可能だが、弱者救済があるせいで「扶養内におさめたいからアルバイトの時間を増やさない」など、あえて弱者でいようとする心理が働いたりする。
一筋縄では行かないやりかただと思う。
アファーマティブ・アクションを行っているノルウェーですら、あまり女性は変わっていないようだ
男女平等、格差対策、少子化対策のトリレンマ KYの雑記ログ http://crossacross.org/ky/Tradeoffs+among+gender+equality+and+birth+rate
女性が男性より経済的な優位性を持ってたとしても、男女の関係ってそんなに変わらないと思う。
ノルウェーの福祉は子育てに手厚く、例えば育児休業にはほぼ1年間の所得が丸々保障されますし13、シングルマザーの支援も手厚く貧困率はアメリカや日本より大幅に低くなっています14。これらの制度を総体として見た時、子供に対する手当が月2~3万、シングル親の場合にはその倍が支給されるという市議会での調査もあります15。親になった人にとっては、非常に子育てしやすいと言えるでしょう。そのためノルウェーの出生率は高く維持され、今でも2.0近くあります。一方で無子率は決して低くはなく、45歳無子率(最新の1965年生まれコーホート)は男性で22.9%、女性で12.5%ほどになっています16 17 18。これは、ノルウェーの男性の10.4%は離婚や不倫により事実上の一夫多妻となっており、その分結婚できていない男性がいて、それ以外に12.5%の子供が持てない男女がいるという構図になります。また1940年生まれコーホートでの45歳無子率は男13.9%女9.5%と4.4%差であったのに対して、この男女差は年々拡大する傾向が見られます。
さてこの事実を、「女性は自分より年収の高い男性とした結婚したがらない」という風潮と合わせて考えてみましょう。Science Nordicの指摘によれば男性が収入が低く結婚を戸惑っているうちに逃げられるとの話でしたが、逃げた女性は所得のあるバツイチ男性と結婚するなり不倫したりすることになります(養育費を天引きされるので、再婚も不倫も所得が無いと無理でしょう)。その場合も、離婚や不倫によってシングルマザーとなった女性には税金により十分な手当てが支払われます。
10発だけならアファーマティブ・アクションかもしれない
・個人の自由は絶対なのだから、恋愛対象や結婚対象の選択に関して、政府はもちろん、それ以外の何ものも、社会的圧力をかけるようなことは許されないという立場。
・「リベラル」という原理原則を、個別の問題に適用するだけなので、異なる利害集団の共闘が可能。また、「リベラル」の立場から特定の政治的主張をする人は、他のリベラルな政治的立場を取る場合が多い。たとえば、「リベラル・フェミニスト」であり、LGBTの結婚に賛成であり、中絶に賛成であり・・・・といった具合。
・結果として、悪しき伝統を維持し、社会的不正義を許容することになるという批判を受ける。
・個人のパーソナルな領域を絶対だと言ってしまうと、さまざまな差別は是正されない。個人のパーソナルな領域に立ち入ってでも、人間の平等という価値を守らないといけないという立場。
・有名なところだと、「若くて従順な女性を好む男性」を批判したり、「特定の属性を持つ者との結婚を嫌がる人間」を批判したりする立場。
・ラディカル・フェミニズムのスローガンである「個人的なことは政治的なこと」という言葉が良く知られている。
・欠点は、あくまで「政治運動」にしかなりえず、一般化された思想運動にはなりえないということ。あくまで、特定の利害集団の利益のための政治運動であることを自覚した主張であり、異なる利害集団の間での共闘は原理的には不可能。「私は○○の利害を代表して主張する。お前たちは、お前たちの権利を主張するべきだ。そして敵として戦うことで社会をより良くしよう」という立場。「ラディカル」の主張に普遍性を求めてはいけない。
・リベラルはラディカルを「政治的自由」の範囲で擁護する。ただし、本来のリベラルの原理では、それぞれの政治的主張の是非には立ち入れない。
・個人のパーソナルな領域は、絶対ではないが、個人のパーソナルな選択が、純粋にパーソナルな問題であるうちは、やはり尊重するべき。ただ、それをパブリックな場で発言するなら、それはパブリックな問題として扱われるべき。「特定の属性を持つ者と結婚をしないのは個人の自由だが、それをパブリックな場所で公言するのはアウト」というような立場。
・「ラディカル」な政治的主張に、「強きものは弱きを助けなければいけない」というような伝統的・保守的価値観が融合して、本来「ラディカル」な政治的主張に過ぎなかったものが、普遍的な「リベラル」の問題であるかのように扱われているケースがある。これは、本来のリベラルの原則と反する。(例:アファーマティブ・アクション)
・本来の「ラディカル」が「政治的主張に過ぎない」ことを明確にするのに対し、バランスに取り込まれた「ラディカル」では、「政治的主張に過ぎない」ことが覆い隠されてしまい、対立する利害集団からの反発を受ける。
・保守やリベラルから見ると、ぶっちゃけ、原則なき本音と建前の使い分けに見える。ラディカルに取っては、「政治的運動の成功」とも言えるが、一方で穏健的過ぎるという批判もある。
最近のネットでの言論を見ていると、ラディカルな政治的主張とリベラルの混同が見られる。特にラディカル独自の考え方(たとえば、個人の性的指向も政治的批判の対象になるという考え方)をリベラルとして批判するのは完全に誤解であり、間違いである。
ただ、今日、広く受け入れられている、「バランス」の立場は、リベラルとラディカルの両方に、保守の考え方も取り入れることで成り立っている、そもそも、内部に矛盾を抱える考え方である。これは「保守」「リベラル」「ラディカル」の全てから、批判を受けているし、その批判はいずれも議論として正しい。「保守」は「バランス」や「ラディカル」を「リベラル」だと思って批判するし、「ラディカル」は「バランス」を「保守」だと思って批判する。「リベラル」は「ラディカル」や「保守」だとして批判する。
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
フェミニズムとは何だろうか。
私はフェミニズムを名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタらしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミに死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。
しかしフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。
そこで手当たり次第に適当にフェミニズムの書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズムの理解の取っ掛かりになれば幸いである。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
ポルノが性犯罪を誘発するという統計的な証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィと性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者が告発することも認められない。
ポルノには、ホモもレズも二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすいゲームやマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノンである。
なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児が押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。
このように家庭内の賃金、労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミは女性の社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性の育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育の重要性を訴える。
なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである。女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統的フェミニズムである。
女性の社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
レズビアン・フェミニズム、ブラック・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグ・フェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアル・フェミニズムとか。
同性愛者とフェミニストの関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線を理論的に張ることが出来るようになった。
リベフェミは広範な男性差別は否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別は肯定する。ラディフェミは男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性だけが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別は肯定されるのかもしれない。
セクハラ、家庭内暴力、中絶、女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタクと関係の深い「性の商品化」について取り上げる。
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。
リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待、強姦、日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全な思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府の検閲に利用されると強く批判する。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
なお、福島瑞穂は非実在児童のポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田の見解がマルフェミの共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノの法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫・昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定数存在する見解であるように思われる。
初期の日本のフェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学の担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロとアマの距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。
こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。
「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。
「理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。
これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。
このようにフェミニズムは一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本のフェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸」フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニストの愛国心に苦言を呈している)。
最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場で上司が女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力は夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正にフェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。
私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。
いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。