はてなキーワード: ミッキーとは
ミッキーもいないしピカチュウもいないしドラえもんもいないし炭治郎も禰豆子もいないしマリオもいないしトトロもいないしキティちゃんもいないしスヌーピーもいないしくまモンもいないしVTuberも実質いないしアンパンマンもいないし孫悟空もいないしガンダムもいないしエヴァもいないし綾波もいないしゴジラもいないしプリキュアもいないし仮面ライダーもいないしぜーーーーんぶ嘘だって思っちゃって、世の中のみんなみたいに楽しめない。
ディズニー行って、がんばって予約してシェフミッキー行って、ミッキーとかミニーのサインももらったし、アンパンマンミュージアムでアンパンマンとしょくぱんまんに囲まれて写真取ったし、USJでマリオと一緒に写真取ったし、ポケモンセンターにも行ったし三鷹の森ジブリ美術館も行ったしドラえもんの空き地を再現したところにも行ったし動くガンダムも見たし、その他もろもろ行ったけど、やっぱり全部嘘だって思っちゃってのめり込めない。どうせディズニーランドのミッキーの中には人がいるって思っちゃう。悲しい。みんなみたいに楽しみたい。
タイトルの記事は2019年で少し古いけど、日本のコンテンツが強いことの根拠としてTITLEMAXのThe 25 Highest-Grossing Media Franchises of All Timeが今でも挙げられることがあるんだが、この数値は信用できないと思ってんだが、どうだろ?
この大本はwikipediaのList of highest-grossing media franchises。
wikiだから即、信憑性に欠けるって言いたいわけじゃなくて、内訳を見た上で、バラバラのソースをもとに集計されててて不足・重複があるように思えるんだよな。
例えばMickey Mouse & Friends($80B)、この大半はRetail sales($79B)だが、内訳はこんな感じ。そのまま適当に貼ってるからぐちゃぐちゃだけど。
Mickey Mouse & Friends retail sales:
Up until 1997 – $8 billion
1999 – ¥162.33 billion($1.425 billion)
2000 – ¥120 billion($1.114 billion)
$4.7 billion in 2002. $5.8 billion in 2003. $5.3 billion in 2004. $6 billion in 2005. $6 billion in 2007. ¥88,122.32 million ($853 million) in 2008.¥96,827.8 million ($1,035 million) in 2009.
2010 – $9 billion
2011 – $750 million
2012 – $4.122 billion
2013–2017 – $21.029 billion
$4.568 billion in 2013. $4.719 billion in 2014. $4.262 billion in 2015. $4.247 billion in 2016. $3.233 billion in 2017.
2018 – $3.265 billion
2019 – ¥124 billion ($1,138 million)
全部を検証すんのは無理なんで指摘しやすいところだけ指摘する。まず1997年の8Bはソースを確認すると1997年までの収益でなく、1997年時点の会社による評価額じゃね?
One of the most interesting facts pertaining to this matter, is that the Disney Corporation’s valuation of Mickey Mouse was $8 billion in 1997 prior to the enactment of the CTEA.
表だとミッキーは1928年からフランチャイズ開始してるけど、この時点で70年分の収益が加算されていないっていう……。
1999、2000、2008、2009、2011、2019は加算されてるのは日本の数字だけ。
一方で1位のポケモンの集計は重複してるっぽい。収益($105B)の大半はLicensed merchandise($81B)が占めているが、その主な集計方法はJapan + outside Asia。
このうちJapanはCharaBiz等の数値を参照してるけど、outside AsiaはGLOBAL LICENSORS RANKING(以下、ランキング)の全世界の売上を参照している。つまり日本における売上が二重に集計されてる。
ランキング上ではThe Pokemon Company Internationalだから、日本の株式会社ポケモンの数値が入っていないから足してるのかと思ったけど、
株式会社ポケモンの売上規模であれば単体でもランキングに入るはずなのに(例えば2018年の$701M)、入っていないんで、多分Internationalの数値に含まれてる。
そもそも全世界の売上を比較するランキングで親会社が除外されるとかありえんの?って思うし、除外されてるとしてもランキング上の数値に、そのランキングで確認できるはずなのにできない数値を別途足すのって恣意的すぎね?
ちな、GLOBAL LICENSORS RANKING上でThe Pokemon Company Internationalは8位で$5.1Bで、The Walt Disney Companyは$54Bで1位。
文字通りディズニーが桁違い。ただポケモンの方はポケモンのみなのですごいのは確か。
面倒臭いんで、自分での検証はここまで。このほか、Youtubeで漫画については言及があったけど、例えばナルトだと単行本1,637億円に連載中のジャンプの売上6,530億円が加算されてる。
温泉むすめ、炎上を最初に見た時は「またか」と思った。最近のよくある(ありすぎる)炎上案件のひとつだと。個人的にはああいう萌え絵は好きじゃないけど、好きな人がいてそれが地域活性化につながるのは理解している。キティちゃんやミッキーだって全員好きなわけではないんだから、それはしょうがないと思う。
絵も設定も、個人的には「オタク感が強すぎる」と感じてしまうものだった。街中ではまず見かけない、極端に短いスカート(少しでも動いたらパンツが見える)や胸や体のラインを強調しまくる衣装を、パンツを見せて良いとも体のラインを強調したいとも思ってなさそうな女の子たちが着ているのも、まぁあるあるだ。
現実にあの衣装を着ているとしたら、かなりセクシーな表現を好み、セクシーな印象を周りに与えることに自覚的で、見た目や体型に自信のある子だと思う。でも彼女たちはそうでもなさそう。
私は『エロい服を着てるけどそのエロさには無自覚でいてほしい、完璧なボディラインを「どや」する女ではあってほしくない、みたいな思想が透けて見えてキモいな……』と思ってしまう厄介な女オタクだけど、それは漫画の絵に「目でかすぎwwwこの首の細さじゃ頭を支えられないでござるwww」と言うような野暮であるとも理解している。どこまでも「※個人の感想です」であり、私の好き嫌いよりも楽しむ人や救われる温泉街が優先されるのは「そりゃそう」と思う。
設定も言い伝えや伝説とからとったにしても都合よく解釈しすぎ(小野小町の百夜通いも、小町は相手を諦めさせたくて「百夜通えや」って無理難題押し付けたんだから、夜這いにドキドキと言うよりは「今日も来るのかな、だりぃ」「マジで来た、うぜぇ」では?)だし、スカートめくりのくだりも「スカートめくりされたことないやつの発想だな」と思う。けどきっと、どちらも「ちょっとエッチな属性のある子がいるといいな」程度の無邪気な発想なのだろうし、スカートめくりが嫌すぎて不登校になる子は存在しない世界線なんだろう。
ただ「30になる前に見えなくなる」の設定は、普通に意図がわからなかった。神様なので「3000歳でも見た目はJK!もちろん酒も運転もタバコもOK!」でも良いはずだし、そもそも年齢って概念さえ超越しててもおかしくないのに、30歳と言う微妙な年齢で温泉むすめを引退させる意図とは……。
とはいえ、ああいうキャラクターが10代からせいぜい20歳前後になりがちなのはわかる。それは男性向けでも、女性向けでも変わらない。でもはっきりと30で見えなくなる=お役御免である を明言したのはちょっとすごい。何やら神格が上がって人間には見えない存在になる……ということらしいけど、そういう特殊な設定をつける時は何らかの意図があるはず(逆に意図がないなら特殊な設定にしない)なので、作者側に30歳で引退させたい理由があるんだろうと思った。
ぱっと頭に浮かんでしまうのは、「ババアはいらねぇ」って発想だけど流石にそれは短絡的だろう。好意的に解釈すれば「温泉むすめは有限の存在なので、出会いを大切にしてほしい」とか、『期限付きであること』の切なさの表現だったのかなと思う。
ただ、それなら30なんていう数字を出さずに「上位の神様になるまでの、限られた約10年間を、温泉むすめとして一生懸命働きます」みたいな穏当な表現はいくらでもある。『見えなくなる』設定は、テイの良い引退だ。キャラたちを10代・20代で固めるのがこだわりで、どうしても30歳で交代させたかったならそれでもいいけど、それならもう少し上手いこと表現してほしい。
あとこの案件に限らないけど、「会議には女性もいました!」って発言は何の意味もない。例え私が設定会議に参加したとして、男性たちが「年はせいぜい30までだよねwそれ以上は引退で」「引退だとアレだから、『見えなくなる』でどうですか」とか「この子は夜這いにドキドキしてるんだ!」「いいですね!」って話をしていたら、「それはキモいです」とは言えない。もちろん関係性にもよるけど、現実で「あの人はうるさいからな〜w」みたいな評価を受けるとどんなにやりづらくなるかわかっているから。
「自分がいい年だからそんなこと言うんだろ」や謎に「嫉妬してる」なんて思われても面倒だから、よっぽどコンテンツに愛がない限り、こんな増田を書いてる私でも「あ〜……(苦笑)炎上しないか若干心配ですね……」みたいな弱気な発言になる。よって盛り上がった勢いは削げない。「女子校が共学化された最初の年に入ったら、男子は数名しかいなかった。だから肩身が狭くて女子の意見に流されがちだった」みたいなことって想像しやすいと思うんだけど、職場では男女逆の状況がたくさんあるんだよね。
個人的には温泉むすめ(というか萌え絵)は全然好みじゃないけど、ああいう試みで救われる人がいるならじゃんじゃんやれば良いと思う。でもそこに「若い子がいい」とか「エロさがほしい」とか作り手の願望を滲ませるなら、もう少し上手く設定と逃げ道を考えてほしい。
私が楽しみにしていた旅行先で、温泉むすめを「可愛いなぁ」と思って詳細を見て、「30で見えなくなる」なんて設定を目にしたら「来年には温泉むすめなら『見えなくなる』年なのかぁ……」とせっかくの温泉で余計なことまで考えてしまいそうだし、それは温泉側の望むところではないと思う。若い女の子の見た目だけど、飲酒も運転もOKでワープも可能な神様!というファンタジーみのあるマスコットでありながら、現実にある年齢差別や辛さを想起させるある種のリアルさ?に、私は引っかかりを覚えたんだと思う。
めちゃくちゃ長くなってしまった。こんなこと自分のSNSには書きたくないから、増田があって本当によかった。サンキューはてな😉
結論を言えば、ご当地のゆるキャラはその場所にいくことでしか出会えないものだから意味がある。ピカチュウやディズニーはその場所にいかなくても問題ないキャラであり、意味合いが全然違う。
良い例がでてるけど、例えばディズニーキャラが何の縁もゆかりもない温泉地にいたところで違和感がある。ご当地キティとかは各所に出ずっぱりになっておりその場所毎にコラボをしているから意味があり、ミッキーが田舎町にポツンとあっても訴求力としてはしまむらのハンカチ程度だろう。これはキャラクターの特性とその土地や物がかみ合っていないから。ディズニーは東京ディズニーランドという場所に紐付いていると日本人は考え、それ以外でのディズニーは人寄せパンダとしてあまり機能しない。もちろん限定グッズとして出せばそこそこ売れるだろうけど、普通に考えて「なんでこんなところにディズニー使うの」となる。違和感が勝る。
ピカチュウも同じ。イベントでピカチュウが出るのは全然良いけど、ならそのピカチュウを追ってファンが来るのか?よほどその土地特有のイベントに絡まなければ意味は無いだろう。例えばその土地の年1の祭りにポケモンを模したでかい山車がでており、そこにピカチュウが毎年ゲスト参加するなどの動きがないと注目はされない。
逆にご当地キャラやゆるキャラはそういう地方の中で根付くことを目的に作られている。くまモンなどの特殊な例を除けば、その土地にいけばそのキャラに会えるということ自体が訴求力になる。ピカチュウを地方のイベントにだせばそれはそれで人の目を集めるだろうけど、それは「芸能人が来た」感覚であって決してその場所にいく理由があるわけじゃない。長期的にその場所がピカチュウと関連付けられなければ金の無駄になりかねない。
だから長く愛されるキャラとしてのゆるキャラがある。安いしその土地だけのものとして売りに出せるから。
世界的な人気になることがディズニーやポケモンの使命なんだろうが、その土地に根付くことが目的のゆるキャラがそういうものになるべきとは余り思わない
書きながら文章を纏めている。
誰かに読んでもらいたいような文章じゃなく、思考の整理がしたいだけなので許してほしい。
俺はオタクだ。
オタクである自負はあるが、周りの目を気にし、最低限身だしなみは整えるようにしている。
1~2ヶ月に1度美容院に行き、ファッションも気にし、筋トレをして体型維持にも気を遣っている。
これが俺だ。
今日は大好きな声優のライブに行くために、会場である舞浜アンフィシアターへ向かった。
ライブは全部で3公演あったが、俺は最終日の千秋楽の夜公演だけを取った。
舞浜アンフィシアターに行くには、舞浜駅からイクスピアリを抜ける必要がある。
ミッキーとミニーの耳が生えたキラキラした人々で溢れていたのだ。
カップルでいっぱいの店内は、1人でやってきた俺には眩しすぎた。
なんとなく憂鬱な気分になっていたところで、よく見るとそういったキラキラしたカップルや家族ばかりでも無いことに気がついた。
俺の目の前には、示し合わせたかのように同じような柄のチェックシャツを着てジーンズを履いた3人組。
よく注意して会話を聞いていると、どうやら俺と同じ声優のファンらしい。
ちょうど昼公演が終わり、夜公演までの時間潰しに来ていたのであろう。
あぁ、よかった。同じ穴の狢だ。
俺はそんなこと思っていなかった。
明確に「俺はこいつらとは違うな。」と思っていた。
そんな考えをしていることに気づいた時、ハッとした。
なんて最悪な人間なんだろう。
イクスピアリを歩いているキラキラしたカップルのような人間にもなれず。
キラキラしたカップルから目を背けて、同じオタクを馬鹿にして。
本当はどちらにもなりきれない半端な俺が1番ダサいのに。
そして気がついた。
俺はどちらにもなりたかったんだろう。
でもあいつらとは違うという変なプライドが邪魔をして、界隈に友達を作ってこなかった。
でも自分から能動的に動かず、最低限の努力しかしていない俺に振り向いてくれる人はいなかった。
どちらにもなろうとした結果、どちらにもなれない半端なモンスターになってしまった。
いや、そもそもその2つをまるで相反するかのように考えているのが間違っているのだろう。
現実に気がついた時、泣いた。
俺には何も無い。
「今回のライブ、この公演が初めてだよーって人!」
チラホラと手が上がる中、俺は手を挙げられなかった。
「じゃあ3公演全部来てるよーって人!」
俺は中途半端だ。
ファンクラブに入っているほどファンのはずなのに、公演は1度しか行かない。
全通するほどの気合もないし、そんなにお金もかけられないと思っている。
でもきっと本当のオタクなら、そこにかかるお金なんて関係ない。
俺は1公演しか行っていないのに。
でも、どこか疎外感を感じざるを得なかった。
演者が言う。
「まだ迷ってる人いる〜? もしかしてクリスマスに予定があるんだろう!この〜!」
クリスマスに予定などない。
これから入る見通しもない。
でも俺はまだそのイベントに申し込んでいない。
クリスマスに声優のライブに行くことを、心のどこかでどうなのかと思っているから。
好きなのに、中途半端だ。
帰宅の電車、ネズミの耳をつけた高校生やカップルと声優のオタクが同じ車両で共存した。
でも俺はそのどちらにも属せない。
そのどちらにも居場所がない。
無頓着なオタクとは違うというプライドと、どうせ俺はオタクだからという自虐思考。
それはきっと全ての人を認めること。
好きなものを全力で追っている姿はかっこいい。
もしかしたら、今ここで気が付けてよかったのかもしれない。
今の俺には何もないけど。
今から頑張ろう。
胸を張ってオタクができるように。
そんな難しい話じゃないよ、男はブスに対してはブスっていうだけなんだけど、女は男がきもかった場合、犯罪者と定義して、犯罪者に対する扱いするんだよね。
増田でよくある、キモオタはレイプするから危険とかあるじゃん。あれ嘘なんだよね。子供の頃とか考えて貰えばわかるけど、体育会系の方がやばい奴多かったでしょ。
よくある運動部系のいじめって大概あれだし(イラっと来るようならPL学園とかいろいろ調べて)
何だけど、大概の女性って何故だか、イケメンはまともでキモオタが犯罪者だと思ってんだよね。(やり捨て大好き小越、ヒカル、ミッキーみたいなタイプなんだと思ってんだろ)
美醜と性格は関係がないのに、性格と見た目が相関があると思ってんだ。
その結果キモオタの人生って大概悲惨で、女性からは(男からはそうでもない)発言ではなく、見た目が原因で全ての行動はレイプ犯同然という扱いを受けて過ごすんだ。
だから女性が美人になっても性格の非難まではされてないからそうでもないんだけど、男性の場合、扱いがまともになった時、自分の見た目が原因で迫害を受けていたことに気づき、またそれが犯罪者扱いであったと客観的に認知可能になるから、じゃあ女性の皆さん同じこと受けても文句言いませんよね??犯罪受けても仕方がないから、女性の皆さん死んでくんない??ってなるわけ
まあわからんでもないなと思う。
自分の子供の名前を考えるのが好きで、姓名判断の本を読んだり、漢字の成り立ちを調べたり、ネットで画数を検索したり、名字と名前の響きの愛称を考えたり
むっちゃ楽しい
今は実際に子供が一人いて、その子が生まれる前から女と男の名前一人ずつ候補考えて、産まれたあとで一応顔を確認して候補の名前でもイケそうと思って迷わず名付けた
良い名前過ぎて後から出産した同級生から「自分もその名前つけたかったんだけどあなたがつけたから自分の子供の名前は別のものにした」と言われた
いまいる子供の名前は自分では完璧だと思っているからずっと自分の子供の名前で酔っていられる。自信満々
昨日は女の子二人、男の子二人の名前を考えたから今後男女四人まで産まれても大丈夫
実際はそんなに産まないけど(ちなみに妊娠すらしてない)
ミッキーとか王子様とかキラキラネームつけてる人がいるけれども、実際にどういう事態になってるか気になるから今度はキラキラネーム関係の資料を集めて、キラキラネームの子供がどういう風になってるのか調べるつもり
コロナくんっていう男の子が今実在してるんだけれども、親はもちろんこういう事態になることを想像してなかったから
自分がその子の親の立場なら改名させるし、コロナ禍だから裁判所だって許可すると思うんだけどその男の子はそのままの名前で生きていくみたい
1位はポケモン!キャラクター「メディアミックス」総収益の世界ランキングに日本の底力を見た
ジャンプに属する作品の弱みは時流に応じてドル箱作品が入れ替わってしまうことだ。
対してベビーグッズはほぼアンパンマンのデザインで独占されている。親にはアンパンマン以外の選択肢がほぼない。
これまでもそうであったようにアンパンマンは乳飲み子の絶対王者であり続ける。新たなコンテンツが台頭してアンパンマンと対等にパイを奪い合うという事態になることは考えづらい。
長期的に見ればしょせんジャンプの一作品である鬼滅はアンパンマンに対して万に一つも勝ち目がない。ジャンプ発、それ以前に一介の漫画雑誌発であるという性質上、時代とそれに伴う人々の関心の変化というに制約には抗えないからだ。
アンパンマンはベビーグッズのシェアを半ば独占しているので多少の少子化傾向もどうってことない。上位のキティーちゃんやミッキーやプーさんはもう少し対象年齢が上で、それなりに競争が激しい。こちらもいずれアンパンマンに飲み込まれるだろう。
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く