はてなキーワード: 花とゆめとは
な な 懐かしい~~~!!!って気持ちで思わず録画して見ている
最後まで見たような見なかったような結末がどうなったかは全然覚えてないんだけど
小学校中学年くらいの頃の放送だから記憶がおぼろげでも全然不思議ではないな
コミックスも最後まで読んだか読まなかったか覚えてない 結末はいったいどうなったのか
それよりアニメ版、姫ちゃん(主人公の少女)の憧れの先輩役の声優が草薙剛だった
OPもEDもSMAPだ よく覚えてないけどこれはもしかして森くんがまだ所属している頃のSMAPでは
当時中学生だったねーちゃんが友だち数人と森君の追っかけしてたことを同時にありありと思い出す
SMAPファン向けの映画かなにかでなぜだかメンバーがみんなオオカミ族?みたいな設定で
誰かが鶏生きたまま食べて口元から血が垂れてくるみたいなみたいな描写の映像を観た記憶もぼんやり思い出す
(何度思い返してみても設定が特殊すぎるのでこれは疑似記憶かもしれない)
当時この枠の女の子向けアニメって必ずジャニーズのアイドルとタイアップしてたような記憶がある
「赤ずきんチャチャ」も確か香取慎吾が声優やってて曲もSMAPだったような気がするし「こどものおもちゃ」はTOKIOだったろうか
思えば夕方6時台のアニメ枠は大抵少女誌「りぼん」の掲載作だったけど、
私は「りぼん」には縁のない子供で、というかその頃からコミックス派で素敵な表紙の漫画を買うのが好きで
コミック雑誌を定期的に買って読むという習慣に縁がなくアニメで観る以前は上記の作品の原作を読んだことがなかった
全部中学生以降に少女漫画オタクになってからはじめて読んであれっ面白いじゃんとなったものだった
「りぼん」よりは花とゆめコミックスやぶ~けコミックス、サンデーコミックス等の方に馴染みのある子供だった
絵やお話の傾向もそれぞれの雑誌でかなり違っていて私は花とゆめ系の絵が好きだった 特に星野架名の絵が好きだった
なんとなく子供心に「王道」に通ずる要素を好きになれなくて毛嫌いしていたところもあったと今となっては思うけど
アニメになるとなんでだか普通に見ていた アニメになると何かが急にキャッチーになって受け取りやすくなる気がする
そんな感じで全体的に好みじゃないな~と当時思っていた作品でも
こんなに懐かしくてこんなに愛しい気持ちになるのがなんだかふしぎだし面白い
単に懐古や感傷だけじゃなくて色んな作品のそれぞれの魅力が今やっとわかるようになったのかなという気がする
「花とゆめ」や「ぶ~け」作品はりぼんよりは対象年齢が高かったのかあまりアニメにはならなかった印象
少女にとっての「りぼん」は少年にとっての「少年ジャンプ」のような王道の立ち位置の雑誌だったのだと思うけど
それにしてもたまに岡田あーみんとか彩花みんとか破天荒な作家も堂々掲載している結構ヘンな雑誌だ
でも「ジャンプ」にもうすた京介とか漫☆画太郎とかいることを思えば別におかしくはないのか
ちょうど鏡写しのようではないだろうかと最近思う アニメ化される頻度の高さという点に置いても
姫ちゃんのリボン、当時のおぼろげな記憶の中で唯一鮮明に残ってるのが
主人公のライバル?役ともいえる高飛車でエキセントリックな少女日比野ひかるの事である
茶色いくるくる髪にヘアバンドの女の子で空気読めない意地悪な女の子だけどかわいくてなんだか好きで
今見てもやっぱりかわいい女の子じゃんってなる 昔っからライバル役の女の子の方をすごく好きになってしまう
子どもの頃「らんま」も見ていてシャンプー!なんてかわいいんだろう!!!って思っていた
今でもラブコメに出てくる女の子の造形でいちばんかわいいのはシャンプーだなって思ってる 声も動作も服も全部かわいい
もう何度目だよという再々再々再々再放送くらいのものを見て「らんま」だとうっちゃんもかわいいしなびきは昔から大好きだし
とにかく気の強そうな暗い髪色の女の子が好きなんだな~というどうでもいい好みを発見したりするのだが
小太刀は前髪も好きじゃないし性格も嫌いだったんだけど今見たら か か かわいいじゃねえかよ~~ってなってしまって
アニメのだいぶ空気読めない性格に難のある(と設定されている)女の子ってなんだかわからない普遍的な魅力があるなと思った
そんな感じで日々野ひかるもやっぱりかわいいなーと思いながら懐かしいアニメを見ている 時々名状しがたく泣きたい気分になる
そして90年代のアニメを見ているとファッションのトレンドが今の感覚に近いというか
今のファッションが90年代のトレンドを模しているのかなという感じなのでキャラクターが着ている服が普通にかわいい
過去のものを大人になってから見るとあれこれ楽しいフックがあってというか見る側の自分の方にできていて
はー姫ちゃんもかわいい 当時リボンを模したグッズとかも発売されてたのかな こういうのリアルタイムで買ってみたかった
ってことに今さら気づいた。もうちょっと若いころは花とゆめ的な? 女子高生とか中学生のラブコメが好きだったんだけど。いまはOLの話みたいなののほうがクる。年とってきたってことなんだろう。
自分は男だけど、そういう話を読んでいると、がんばれ! って気持ちになるし、女の人ってこういうことを考えるんだ〜って想いを馳せることができて、や、現実そうなのかどうかは全然わからないんだけど、知らない世界でときめくことができて、豊かになる気がするんだよね、心が。
書いてたらキモい気がしてた。最近『あせとせっけん』を読んで、恋したことのない女性が頑張っておしゃれをはじめる、みたいな話にくお〜! ってなる。『モブ子の恋』もよかった。静かに関係を深めていく感じ。恋の鞘当てとか、ドキドキハラハラするようなのじゃなしに、ヒロインにとって恋愛がはじめから前提となっていない世界感のなかで、どうしようもなく恋に落ちていかずにいられない、そんなストーリー。
そんな漫画ないですか?
「芸能人になるのでついてきてほしい」と言われて高校に行かなかった主人公。
二人で暮らす家賃を稼ぐため、必死にバイトをしていたが、バンドマンはマネージャーと良い仲。
坊ちゃんボンボンなバンドマンが一人暮らしなど出来るはずも無いため連れて来たというのがバレてしまう。
ブチギレた主人公が「芸能界デビューして見返してやる!」と息巻き、愛を失ってしまい憎しみだけが残った主人公が
絵柄で言えば、私も最初見る気は無かったのだけれど、1巻読んだら面白かった。
小林という名字をもつ人があと3人居て、仲良くなろうと奮闘する。
ムードメーカーな主人公が、過去のトラウマや個人のトラウマを解決していく物語。
青春場面もあるよ。
赤ちゃんが居るとどんな生活になるか、少し見えるものがある。最終巻あたりが泣ける。
素質はあるものの、魔法が下手な主人公。狼男でちょっとお馬鹿なリーヤ。ハゲを気にする、耳かき大好きなしいねちゃん(男)。
ギャグ要素強め。
作者が「花とゆめ」をベースに活動している人らしいので、この作品も花ゆめだったんだろうけど、青年誌だったらもっと話題になって、ヒットしてた気がする。
(とは言え、白泉社だとヤングアニマルなんだよね。。花ゆめの方が部数多い?)
とりあえず、このマンガを花ゆめ読者だけのものにしておくのはmottainaiと思ったので、全力で推して行きたい。
ギャグ要素が強いラブコメで、ずっとボケ/ツッコミを繰り返している感じ。
ワンパターンで大味なのに、センスが良いというか、打撃力が高いというか、毎回ちゃんと笑える。男性にもウケる笑いだと思う。
まあ笑いは人によってツボが違うので何とも言えないところではあるけれど、自分はすごく笑えた。
個人的に好きだったのは宇田川が歌丸師匠のモノマネしてるとこ。
でもこれ、花ゆめ読者はわかんないよね?本当のお洒落さんは裏地まで気を使う的なやつ?
ラブコメとしては、男(片野)が女(宇田川)にベタぼれしてるパターン。構図的にはそれ町の歩鳥と真田に近い。あとはラストゲームとか。
最初のうち、笑いの要素に目を奪われがちだけど、何回も読んでて、ラブコメとしてもすごく良いと思った。
波長の合う異性と過ごす時間の楽しさが良く出てる。こういう楽しさをうまく出せてるラブコメって少ない気がする。
ショートヘアでまん丸お目目のヒロインはビジュアル的にはあまり男性ウケしないかもだけど(男性向けラブコメのヒロインはロングで猫目が多い気がする)、性格と良く合っていて何回も読んでるうちにかわいく見えてくる。
ショッピングモールの雰囲気も良く出ていて、二人が作る時間の流れと相まって、いつまでも読んでいたいと思わせる世界を作っている。
とりあえず、少女漫画が観測範囲外の男性に強くお勧めしたい。少女漫画は安いので外してもダメージ小さいでしょ。読んで読んで。
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内容的には、(1巻では)ローティーンの女の子のメンタリティにフォーカスした、割と良くある内容ではある。
ただ、1巻での話であって、最後どうなるかを見届けないことには内容を評価するのは難しい。
いつもの阿部共実的に着地感なく終わるのか、明確な着地点を見出すのか。(どっちが良いとかいう話ではなくて)
言語化しすぎとか狙いすぎとかいう批判もあるかもしれないけど、内容によくマッチしていて個人的にはグッとくる。
作画が凄い。ちょっと見たことが無いレベル。元々上手い人だとは思ってたけど、今回は気合いが違う。。
人もうまいと思うけど、背景が基地外じみて凄い。もっと言うと背景って言い方は正しくないのかもしれない。
周辺環境に関する作画が登場人物のメンタリティと明確に地続きなのがわかる。
夜の人の影が複数あるとか、大きな建物と人のスケール感がそれっぽいとか、外から教室を見たときに廊下側の窓まで描いてあるとか、手前の建物/後ろの街並み/その後ろの海山空まで全部ちゃんと描いてあるとか、窓越しの風景も窓枠から外の街/海まであいまいさがないとか、差し込んだ光の中に埃が舞っているとか、階段にできる影が段差を反映しているとか、日差しを遮れなかった方の目をしかめているとか、街がいちいち全部描いてあるとか、近くのものの細部や質感やステンがいちいち描かれているとか、遠くのものもぎりぎりまで細部を描き込んでいるとか、モブがモブってレベルじゃねえとか、立体や奥行きがやたら自然とか。
最初に目に入った時の構図のかっこよさ/美しさがまずあって、細かい部分もいちいち丁寧で正確。
手前から奥まであいまいさが無くて、絞って撮った写真のように全域でピントが合ってる。全部のコマが見どころ。
そして、それらは背景というレベルを超えて作品世界を作っているように見える。世界があって、そこに人がいる。
自分を取り巻く世界との関係性に戸惑う、あるいは美しい/居心地が良いと感じる女の子のメンタリティを、環境から完全に描き切ってるように見える。
隔週で掲載されてるみたいだけど、そのペースでこんなの描けんの?大方出来上がってから掲載開始したのかね。
白泉社創立の由来は、当時集英社で織田信長みたいな、能力と才能を持ち容赦なかった若菜正の、ライバル・梅村義直追い出し策にある。その頃の集英社の派閥は大きなものが二つあり、少年ジャンプを中心とする長野規一派(少年漫画派)と、ノンノ・マーガレットを中心とする若菜正一派(少女漫画・広告取り雑誌派)がいた。両派閥の内部での結束と団結は強く、必然的に派閥外の者(特に二人より年長の者)は追い出されることになった。
梅村義直はかつてりぼんの編集長であり、それより出世して当時、りぼん内での独立系小派閥を持っていた。梅村義直の忠実な家臣の小森正義は、りぼんから別冊マーガレットに移り、さらに白泉社に移籍した。山岸凉子・三原順などのコネクションは小森に由来する。
小長井信昌は少年漫画の部門にいた関係で長野規の盃を受けた身であり、少年漫画編集の野望を抱きながら(それは後年、白泉社の少年漫画雑誌創立につながることになる)、その手法を少女漫画に生かし、別冊マーガレットで美内すずえ・和田慎二などを育てた。編集者の腕と頭の切れは抜群であるが、ワンマンで旗幟不鮮明な小長井は若菜正に警戒された。
「花とゆめ」創刊時は、付録つき月刊誌ということで、りぼんを意識しながらより低年齢の読者を対象にし、花とゆめコミックスの装丁もりぼんマスコットコミックスを模したものだった。
しかし、とある年に、週刊マーガレットのライバル雑誌だった講談社の少女フレンドが月2回の刊行になるという事態が生じ、売れ行きがさほど悪くなかった週刊マーガレットをそうするわけにもいかず、白泉社の花とゆめを月2回刊行のライバル誌にするという策を集英社は打った(余談だが、これは講談社のぼくらマガジンに対して小学館・集英社グループが少年ジャンプを作った策と同じである)。
当時の少女フレンドは大和和紀・庄司陽子・里中満智子その他強力連載・読み切り陣を揃え、花とゆめは苦戦したが、美内すずえ「ガラスの仮面」、和田慎二「スケバン刑事」という大和・武蔵級の作家によって巻き返しをはかった。
「闇の末裔」が連載し始めた頃からオタク向け雑誌に変わっていって、見る目が変わった。
それでもまあ少女漫画に分類されてるけど
はぁ?「花とゆめ」が「少女漫画じゃない」なんて言われたことなんてねーよ。
「風と木の詩」や「BANANA FISH」も普通に「少女漫画の名作」扱いされてる。(少女漫画なのに面白い、みたいな少女漫画disはされるけど)
一体どこの世界の話なんだ……。
本当は少女漫画ってものすごくジャンルが豊富で面白いものなんだけど、
少女漫画を読んでいる層が、一定ジャンルを強烈に拒否ってる感がものすごくある。
原因はオタク臭さだ。
例えば、「花とゆめ」は少女漫画に含まれない(「赤ちゃんと僕」までは含まれたが、その後オタク色が濃くなって拒絶された)
正統派の少女漫画はファンタジーやSFであってはいけない。ギャグであってもいけない。メカや戦闘シーンがあってもいけない。
ひたすら好きだ嫌いだと言い合って、他人との関係が変化して愛を囁くだけのものが少女漫画だ。
花より男子や、NANAじゃないと「少女漫画」とは呼ばれない。
子供のころ、「銀曜日のおとぎばなし」という漫画が大好きだった。
高河ゆんを読んでいると言ったらクラス中から失笑された。「そういうのは私達はちょっと…(笑)」と言われた。
「風と木の詩」や「BANANA FISH」は最高に面白いのに、いわゆる少女漫画には含まれない。他に分類先が無いから仕方なく少女漫画と呼ばれている名作漫画だ。
ポーの一族、11人いる、トーマの心臓、スターレッド、百億の昼千億の夜、エロイカより愛を込めて、エルアルコン鷹、浮浪雲、じゃりんこちえ、サザエさん、いじわるばぁさんなど
漫画日本の歴史、つるぴかハゲ丸、あさりちゃん、ドラえもんなど
銀曜日のおとぎ話、ときめきトゥナイト、おとうさんは心配性、ちびまるこちゃん、星の瞳のシルエット、有閑倶楽部、ねこねこ幻想曲など
バナナフィッシュ、BASARA、THEBBB、はじめちゃんが一番、前略ミルクハウス、動物のお医者さん、笑う大天使、ぼくの地球を守って、ここはグリーンウッド、なんて素敵にジャパネスク、サイファ、月の子、OZ、花咲ける青少年、So What?、×ぺけ
今日から俺は、うしおととら、パトレイバー、ジョジョの奇妙な冒険、スラムダンク、ドラゴンボール、キャプテン翼、星矢
絶愛
アーシアン、源氏、聖伝、東京バビロン、GoWest、ダンディドラゴン
某アニメがEテレで再放送されるってんで話題ですが、まあ他にもこれいけるんじゃね?ってのはありますよね。
まああの局昔からいろいろアニメ放映してるんで、そもそもNHK向きってのが何なんだよって話ではありますけど。
んでまあ子供が見てもよさそう、健全そう、っていう作品をいくつかピックアップしてみました。(健全ってなんだ)
これはもう有名すぎるほど有名な競技かるた漫画ですね。NHK的にはCCさくらで有名な浅香守生監督作品でもあります。
いわゆる「スポ根」ものであり、老若男女に自信を持って薦められる傑作です。
マンガのアニメ化としては文句なしといえる出来で、素晴らしいです。
ていうかなんで日テレはこれを全日帯で再放送しないんですかね。金田一の枠にちはやふる放送してくださいよって前から思ってます。
これまた有名すぎるほど有名な少女漫画。そしてこの作品、ものすごいピュアというか、めちゃくちゃ「健全なお付き合い」してる恋愛漫画です。
最近は子供が見れる時間帯での少女漫画アニメが減りましたね。少女向けアニメ自体は元気なんですけどね。基本的に玩具販促モノがメインです。
たぶん商売にならないんでしょうね。そういうときにNHKには頑張ってほしいものです。
他にも「神様はじめました」「暁のヨナ」などの花とゆめ作品とか、少女漫画のアニメ化も最近深夜が多くて、なんだかもったいないなあと思うところ。
一言で表しづらいなんとも難しい作品なんですけど、まあ「心温まる」系の作品といっていいんでしょうかね。
映画の「たまこラブストーリー」はわかりやすいお話なんですけど、こちらはちょっと面白さを説明しづらいですね。
こういう独特の雰囲気を楽しむ感じの作品ってどうにも魅力を伝えづらいところがあるんですが、NHKにも「おじゃる丸」「カスミン」のような独特な雰囲気を持った作品というのがあって、
京アニ作品だったら「日常」よりもこっちの方がNHK向きかなあと思ったりはします。
NHKというか学校の教材として使っても良いレベルの作品です。ただ、重たい話なので、中高生以上向きですかね。
航空自衛隊小松基地を舞台に、航空救難団小松救難隊の活躍を描いた作品で、航空自衛隊が制作協力をしています。
最近某アニメやらなんやらでいろいろと言われがちな題材ではあるんですが、綿密な取材によるリアリティを追求した描写は本当に素晴らしいの一言。
自衛隊アピールするんならこっちをもっと推した方がいいんじゃないかとも思うんですが、まあそれは置いておきまして。
「月姫」「神様のメモ帳」などで悪評が目立つ桜美かつし監督作品なんですが、これを見ているか見ていないかで評価はかなり変わってくるのではないかと思っています。
魔法少女もののようであり、ジュブナイルのようであり、SFのようであり、ガールミーツボーイな作品です。
視聴者の予想を裏切る展開が予測されがちになってしまった「魔法少女モノ」の中で、少女の成長をメインに最後まで真っ直ぐ綺麗に突っ切った作品です。
子供向けというか、子供に見てほしいって思えるような作品ですね。SF的な要素が少々小難しいですが感覚でなんとなく見れるようになっていますし。
ただまあ、大人が子供に見せたいって思うものほど、子供は見たがらないんですよね。
コミュニケーションが苦手な主人公・真田ユキが宇宙人のハルに釣りに誘われたのをきっかけに成長していく作品です。ボーイミーツボーイですね。
主人公のユキ君の成長の描写がとても良いです。釣りに楽しみを見出し、少しずつ仲間を見つけていく過程がとても丁寧。
夏休みとかに放送されたらとてもいいなあ、と思う次第であります。
P.A.WORKSが手掛ける、青春オリジナルものの第3作。少年少女の青春を描いた気持ちの良い群像劇。
「true tears」「花咲くいろは」と比べると爽やかさでは頭ひとつ抜けてます。合唱が題材というのもNHK向きなところ。
京都を舞台に、下鴨家という狸の一家とそれを取り巻く人間やら天狗やらを描いた森見登美彦原作アニメ。
なんとなくスタジオジブリを思い浮かべる人もいるかもしれませんけど、まあ当たらずも遠からずって感じではあります。
「家族もの」なのでアニメオタクというよりファミリー向けの作品なんですよね。
すごい面白いんですけど、深夜アニメビジネスには向かないよなあって作品こそNHKが取り上げるべきものなんじゃないのかとも思うところであります。
これまたニッチなところのチョイスではあるんですが、面白いんですよ。
「女性の社会進出」という観点から見ても面白いんじゃないかと。NHKって朝ドラとかでそういうの好きですしね。
この作品、けっこう時代考証がしっかりしておりまして、大正時代の描写が非常に丁寧です、NHK的にそれ重要。
NHK向きとかそういうんじゃなくて、普通にいずれ放送しそうっていう話。Eテレとかは無理としてもBSとかでね。
とらドラ!とかもあり得そうな感じです。現在セーラームーンとかベルばらとか放送してるんでいつかは深夜アニメもそうなるんだろうなという希望的観測。
「あるジャンルの漫画を世の中から撲滅すべきだ」と主張しているならともかく、「あるジャンルの漫画はうちでは掲載しません」は普通に編集権の範囲だろ。また、潜在的にwebでBL漫画を発表したい層が可視化されたわけで、ビジネスチャンスでもある。
理想的には「ゾーニングのため c○mic○ BL のようなサービスを立ち上げたので、BLモノはこっちへ移住をお願いします」としたほうがベターだったかもしれないが、まずい対応により結果的に既存顧客や潜在顧客を失って商業的に失敗するのだとしてもサービス提供者の自己責任だ。
[追記]
本文に書いた例示で分からない人には何を言っても無駄かなあと思いつつ。
例えば上にも挙げたヤンマガが分かりやすく、キスどころかもっと踏み込んだ性表現もOKとしていると思えるけれど、多分そのものズバリなBL漫画は載らないか載ってもすぐ打ち切られるだろう。ものすごくステレオタイプに言えば、BL漫画というのは主に女性向けであって、ヤンマガの主たる読者層である若い男性に受けないからだ。ヤンマガは例えば Webでタダで読めるからタダマン なるネーミングのサービスをしていて、これを見て眉をしかめるような人を主たる想定読者にしてないことが分かる(これ自体を非難するつもりはないよ)。
BL漫画(これは男性同性愛者向けの漫画とも異なる。例えば今はもう廃刊になったけど薔薇族とかにいわゆるBLが載ったりはしないだろう。)を全面的に歓迎とするのは、ヤンマガが若い男性読者層向けに踏み込んでいるのと同程度には、対称読者を女性読者層向けに踏み込む行為だ。後だしにせよこれを禁止ということにするのは、差別(同性愛表現を世の中から消し去りたい)というよりは、マーケットポジションを男性向け寄りに変えている、と考えるのが普通の社会人のものの見方だと思う。
BLファンから見たらはしごを外された思いだろうし、悔しいのは分からんでもないが、冷静になった方がいいと思うよ。
[/追記]
やっとここまでこれた。
五年前から地道に彼女を調教してきたのだけれど、ようやくここまでこれた。
あの日「うんこ食べろ」と言ったとき、彼女の普段のセックス中には絶対見せない「あきれ顔」をみて、
俺は「よし、こいつに日常的にうんこを食わせる習慣を作ってから結婚しよう」と誓ったのだ。
そう、この話は、俺がようやく(彼女はもう三十路だ)、大学生の頃から付き合ってきた彼女にプロポーズできるという話なのだ。
俺が、なぜ彼女にうんこを食わせるようになったのか、それは大学の頃にインターネットで見つけた調教サークルがキッカケだった。
その調教サークルは大阪で活動していて、インターネットに写真をアップロードしたりしている、ちなみに今でも活動中。
実は最初は調教してもらうつもりで、サークルのチャットに参加したのだが、そこの面々が思いの外軟弱、というか女に対して姿勢が低かった。
(もちろん、今思うと、サド/マゾの関係とチャットのそれは別物であり、彼らは大人としてちゃんとしていた、という話で、俺が子供だった)
昔からイジメる側に回る事が多かった俺は、大学でもその鼻を叩きおられておらず、
「こんなエグいことやってるオッサンもこんなもんか」と完全に舐めきっていた。
そして当然、そんなオッサンの意味わからない命令を聞く女たちのことは、俺の思い通りになって当然だ。
そう感じていた。
俺はその調教サークルのチャットで、ガキながらもぐいぐい参加して、周りを引っ張っていた。(というか、振り回した)
そこではメール調教なんかもやってたんだが、リアリティに欠けるというか、文字を読んでもしょうがねえ、と思っていた。
だから、早くオフ会に参加したかった、けどそんな今思うと空気の読めてないガキを大人の集まりに誘ってくれるわけもなく、
チャットで女やオッサンたちに上から目線で指摘してばかりいた。
「そんなの生温い、俺なら小学校辺りで脱がせる」だの「24時間箱に詰めるだけが何が面白いんだ」だの「時計を飲み込ませる? 意味わからん、どうせ飲ませるなら薬とかにしようぜ」だのだ。
今思うと恥ずかしい。
そうこうしているうちに、気づくと俺は社会人になっていた。
高校の頃から女と半年以上続く事のなかった俺だが、今の彼女とは合コンで知り合って、なんとなくセックスをして
なんとなく付き合うことになり、なんとなく切れることなく続いていた。
それは、ちょうど就活で忙しく、文系特有の過去の引き出しの文章を右左するだけの卒業論文があったりと、まあそれなりに俺らしく他毎に集中していたからかもしれない。
調教サークルの面々とのチャットはすっかり日常的になっており、
その頃には俺の上から目線もなくなってきて、さらに言うとチャットがCGIのそれから、外部に漏れることのないIRCチャットに移行したことで、
逆にそういう「調教」というものに興味を抱かなくなっていった。
そんなある日、調教サークルの面々に、ヤフーブログでやっているある日記を紹介してもらった。
調教ブログ等とは違い、ご主人様は登場せず、その女子高生一人だけの淡々とした日記。
その中でその女子高生は、必死になったうんこを食べようとするのだ。
そんなブログだった。
今思い直しても、本当にそんなブログがあったのだろうか? とわけがわからなくなるのだが、本当にあった。
(釣りかどうかは、よくわからないし、どうでもいい。中身はおっさんだろ? とか当時は言われていたと思う)
ほんの数週間の間更新して、あっというまにヤフーに消されていた。(当たり前だと思う)
だったが、俺はその「自発的」に「うんこ」を「食べる」という行為に、完全に心を奪われていた。
けれど、その女子高生のように「自発的」に「うんこ」を「食べる」というのは、もう完全に俺の思考の外にいた。
なんで命令もされてないし、無理矢理つっこまされたわけでもないのに、うんこを食べるんだ?
バイブだの、露出だの、縄だのじゃない、本物の意味での調教だ。
彼女の価値観を変える、彼女がうんこを食べたいと心の底から思うように改造する。
その一心で、まずは調教サークルのメンバーや、他の調教ブログを読みふけり、色々と研究をした。
結果わかったのは、生まれながらに頭のネジが外れたキチガイみたいな奴が少なからずいて、ブログを更新していた女子高生もおそらくそれだと言う事だ。
つまり俺は、彼女の頭を支えているネジを外してやらないといけなかった。
最初のその結婚を決意させた呆れ顔の日は、無理矢理口を開かせ、口の中に押し込み飲み込ませた。
「ライターであぶられたくなかったら食え」や「針を通されたくなかったら食え」といった、痛みよりはうんこを食べる方がましだと、彼女の頭に思い込ませたかった。
だが、半年たって気づいた。
こうじゃないだろ? と。
この先に待っているのは、ただ暴力におびえて俺の言う事を何でも聞く女だ。
そんなものはこれっぽっちもいらない。
それもあの呆れ顔のままで。
これは彼女にとって幸せなこと(些細なことでいい)があったときは、うんこを食べさせるという方法だった。
本当に些細なことでよかった、彼女は花とゆめという漫画雑誌を買っていたので、毎月5日と20日に雑誌を買って帰ってきたら、うんこを食べさせた。
(この頃はまだ無理矢理だ)
他にも、外食で彼女の好物である鶏皮を食べたときや、彼女の好きなお笑い芸人が爆笑オンエアーバトルを勝ち抜いてオンエアーされた日、
そんな彼女の中の些細な幸せを徹底して、うんこを食べることと結びつけてやった。
やたらとテンションが高い日が続いたと思えば、うっとうしく泣いてばかりいる日が続いたりしていた。
だが、少しでもそうに傾いたら、うんこを食わせた。
そうしていたら、うんこを出さなければ、食べなくてすむと勘違いしたらしく、
身体が便秘症になっていった。
浣腸してやってもよかったのだが、その態度がムカついたので、俺のうんこを食べさせてやったり、
一晩中公衆便所を一緒に回り、うんこの落とし物を見つけて食べさせてやった。
普段の生活の中で、俺に対して厳しくなったのだ。
そう、俺のスイッチが入るタイミングが分かってきたのだろう、そして
「うんこを食べる」ときと「うんこ食べない」ときで、スイッチを意識的に切り替えるようになったのだろう。
俺はそんな彼女の浅ましい態度にムカついた。
とにかく、俺は彼女が「自発的」に「うんこ」を「食べる」人間にしたかったのだ、
うんこ食べるモードに切り替えるのではなく、自発的に自分の力で食べて欲しかった。
幸せうんこサンドイッチ作戦のとき以外、彼女には一切話しかけなかった。
結果としては、これが正解だった。
ある日彼女の方から「今日はお昼の日替わりランチが天津飯だったので、うんこを食べます」と宣言したのだ。
それが、一年前の夏だった。
それ以来、彼女は最低でも月に一回は、自分からそう宣言するようになった。
俺は彼女の中に、うんこを食べることが根付いたことが嬉しかった。
ようやく、結婚できる。
長かった、苦しかった。
でも、すべてが報われたような、晴れ晴れとした気持ちだ。
http://anond.hatelabo.jp/20090629223650の続き
Ⅱ、物語の面白さについて
小説とは、物語を読者に伝えるために文字で書かれた文章だ。書き手が小説を書く動機はおそらく大きく分けて四種類あるだろう。物語の面白さを伝えたいという動機、物語という糖衣に包んで何らかのテーマを伝えたいという動機、物語を伝えるための表現方法の工夫を見てもらいたいという動機、小説を書くことによりカネや名誉を得たいという動機だ。テーマを伝えるためにはそれを包むための物語が必要だし、表現方法を見せるためにも、表現される物語が必要になる。そして、面白い物語でなければカネや名誉を得ることは出来ない。
物語そのものの作り方については、特に語る必要はないだろう。これを読んでいる方の大多数は日本で生まれ育ち、テレビという媒体によって物語の構造を経験的に知っているはずだ。
物語にはどのような面白さがあるかについて見ていこう。
以下の広告文を見て欲しい。これらはダ・ヴィンチの2006年5月号から採取した。
(削除)
これらの広告文から想像できる物語は、結構面白そうだと思えないだろうか。少なくとも、本屋でこういった文面が目に飛び込んできたら、手に取りたくはならないだろうか。むしろ、そういう小説が面白いからこそ、こういう広告文をライタ―は考えるのだ。「暴力や性などのように、人間の生理的なものに根ざしているものが面白いのだ」、とキンチュという学者も1980年に言ったらしい。生理的なものに根ざしているということは、きっと「すごくトイレに行きたい!」というような話も面白い部類にはいるのだろう。それを確かめるためにもとの文献に当たろうと思った。Poeticsという雑誌の9号にその論文が載っているらしいのだが、しょっぱい図書館には7号までしか置いていなかった。だから上の括弧内の言葉は、孫引きだ。本当はやっちゃいけない。
生死や性と言うとハリウッド映画のようなバタバタと煩い小説が思い浮かぶかもしれないが、静かな小説だってこの面白さを持つ。重松清の『舞姫通信』はアクションシ―ンなんて全くない静かな小説だけれども、主人公の周りでは自殺がたくさん起こる。市川拓司の作品群だって恋愛とヒロインの死が物語の主軸となっている。
物語は大体、始まりに主人公にとって悪いことがあって、それが改善されることで終わる。内田の言う〈欠損―補充〉の物語の構造といっても良い。こういった〈欠損―補充〉の構造を持った物語は、主人公の感情を推測しやすかったり後々に読者が内容を思い出しやすかったりするらしい。これについてはいろんな人がいろんなことを言ってる。「物語は葛藤から生まれる」、「物語は欠如から生まれる」、「物語は主人公の目的意識から生まれる」等々。だからこれ以上、このことについては触れない。
どんでん返しと言ったら、『……だと思いこんでいたにもかかわらず、実は……だったぁ!!』という、物語のクライマックスで頻発する奇怪な現象だ。歴史は古く、2300年以上も前に、アリストテレースがこれについてゴチャゴチャ言ってる。
基本的には、『主人公は目的達成に関わるものが或るものだと仮定して行動する。その仮定が正しくなかったことを知るや否や、知る前にとった行動が本来の意味とは別の意味を持ってしまう』というものだ。そうじゃないのも沢山あるけど。
作り方は簡単。
ⅰ)主人公はaという存在(人でも物でも良い)を求めている。ⅱ)aと共通項を持つαを発見し、αに対して何らかのアプロ―チを取る。
ⅲ)αは、あたかもaであるかのような反応を示す。
ⅳ)何らかの要因(約束を守るとか破るとか色々)によってαがaでないことに気づく。
ⅰからⅴのaとかαに好きな言葉を入れれば、即席でどんでん返しを作ることが出来る。
市川拓司の『いま、会いにゆきます』を例にとってみよう。
ⅰ)主人公の巧は、死後の世界からもどって来る妻、澪を待っている。ⅱ)ある日、工場跡で、巧は記憶を失った澪を見つける。彼女に過去の思い出を話したり彼女と愛しあったりする。
ⅲ)澪は、生前の彼女がそうであったように巧のことを愛してくれる。
ⅳ)澪が再び消えた後、彼女が残した手紙によって、巧は澪が蘇ったのではなく過去からタイムスリップしてきたのだと知る。
ⅴ)それによって二人が愛しあったことの意味合いが少々変わってくる。
一見とても複雑で、私のような凡夫には到底思いつくことが出来ない、と思われる人もいるかもしれないが、そんなことはない。「実はタイムスリップだった」というところを思考の出発点にして、「戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」、「妻が戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」、「死んだ妻が戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」とアイディアを広げていき、そしてそのアイディアを盛り込むのに相応しい物語の全体像を考えてやれば良い。
読者の持っている常識または読者の予想からズレのある状況を描くことで、読者の気をひきつけることができる。シャンクの言う「スキ―マに一致する期待を破ったり逸脱する場合」の面白さになるのだろう。
期待を破るという点では、どんでん返しも同じである。どんでん返しはズレの中の一つと僕は考える。
ズレは『……にもかかわらず……』の形で表される。『にもかかわらず』の前の言葉が、読者に或る事象や状況を想像させる。『にもかかわらず』の後の言葉が、想像した事象や状況とはズレた事象や状況を表す。
いくつか例を挙げよう。
①、能力がないにもかかわらず、行為を行なう。例:武器を持っていないにもかかわらず、敵に挑む。
②、立場がふさわしくないにもかかわらず行為を行なう。
③、不本意であるにもかかわらず、止むを得ない理由により或る行為を行なう。
④、以前はpであったにもかかわらず、今はqである。
⑤、本来はpのために存在するにもかかわらず、qとして利用する。
①~③は人物の行動に関連したもの、④、⑤はものの存在に関連したものだ。飽くまで例を挙げただけで、全てのズレを網羅しているわけではない。
ズレで注意しなければいけないのが、あまりにもズレが大きすぎると読者が小説についていけなくなったり、期待を裏切られた衝撃で読むことを止めてしまう危険があることである。読者がそのようなことを起こすことのないよう、ズレが起こる前にある程度読者にズレを予想をさせて、ズレを少なくしなければならない。
①・②のズレを少なくする方法の一つとして、それを行う登場人物に前もって「或る状況に陥ったとき、この行動をとる」と宣言させれば良い。そもそも我々が暮らしている現実世界においても、能力や立場が行動を実行に移す足かせになっても、動機さえあれば動き出すことがある。①・②のズレは、ズレが大きくなりすぎるようなことが少ない。
③のズレを無理なく(読者が拒絶することない程度に)作るには、或る目的を成し遂げるためには無理にでも何かをやらなければならない状況を主人公に与えればよいのではないだろうか。
例えば、三谷幸喜監督の『有頂天ホテル』であれば、主人公が別れた妻に良い恰好をするために自分が受賞したわけでもない賞の受賞コメントをする。
④の場合は、状況が大きく変わるための理由付けをしてやれば良い。その最も簡単な方法は約束をすることである。状況が悪いほうに転じる場合には約束を破れば良いし、逆に好転する場合には、約束を守っていれば良い。
⑤について考える。例えば「aをbに~する」というようなズレのある状況を作りたい。そのときには、
ⅰ)aを元として含む集合Aもしくはbを元として含む集合Bを提示する。もしくは、aは集合Aに元として含まれることやbは集合Bに元として含まれることをこじつける。ⅱ)「Aをbに~する」、「aをBに~する」、「AをBに~する」のいずれかを物語の中で提示する。但し、宣言された行為にはズレはない。
ⅰとⅱを任意の順番で行ったうえで「aをbに~する」というような行為を行えば自然ではないだろうか。
伊坂幸太郎の「アヒルと鴨のコインロッカ―」を例に採ろう。この小説では、終盤でドルジという登場人物がボブ・ディランの曲を流したままのラジカセをコインロッカ―の中に放置するという、常識的にあまり考えられない行動をする。しかしそれは「善いことも悪いことも、やったことは全部自分に戻ってくる」と言うドルジに対してドルジの恋人である琴美が「それならさ、神様には見て見ぬふりをしてもらえばいいって。緊急事態だから。神様にはどこか見えない場所に閉じこもってもらえばさ」と言い、また、別の場面ではドルジの友人の河崎がディランの歌について「あれが神様の声だ」と言ったからだ。
小説の序盤や中盤にあった状況や事象を小説の終盤に再び置くことで読者に一種知的な発見をさせ、はっと驚かせる効果がある。これも、いくつか例を挙げよう。
順境から逆境、または逆境から順境と言ったような状況の大きな変化に用いられる。報いが起こる以前に行われた約束を守っていた(破っていた)ことが原因となって、主人公の立場が大きく変わってしまう。
例えば、綿谷りさの『インスト―ル』であれば、主人公はネット上の文字のやり取りでは「自分をキャラクター化している傾向が強い」ような人は「しょっぱなからH会話をしたら憤慨してしまう」ため、そのような人とはそのような会話をしないように誓うが、結局そのような会話をしてしまい、会話の相手を憤慨させてしまい、窮地に立たされる。④のズレを作るのにも使うことが出来る。
物語の序盤や中盤に立たされた状況に、物語の終盤で再び立たされる。序盤や中盤で採った行動と異なった行動を、終盤で採る。主人公の成長を表すのに使われる。
例えば乙一の『しあわせは子猫のかたち』であれば、主人公は物語の序盤と終盤で同じ一人暮らしという状況に立たされるが、序盤では「陽の光は嫌いなのでカ―テンを閉め」たが、同居することになった雪村サキとのふれあいを通じて終盤では自発的に「カ―テンを開き、窓をあけて風を入れ」るようになる。④のズレを作るのに使うことが出来る。
ある現象・行為に対して意味づけをし、それが物語終盤で再現される。
例えば伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』では、「人生を楽しんでいる人が寄っていくと赤ん坊が泣き止む」と、登場人物たちが冗談で言う。小説の最後で主人公達が銀行強盗に入ったとき、赤ん坊が泣き止む。⑤のタイプのズレを、⑧の伏線のタイプに含むことが出来るだろう。
物語序盤で現れた事象/状況が物語終盤でリフレインさせることにより、はっと驚かせる。
伊坂幸太郎の『重力ピエロ』は、最初の行と最後の行が「春が二階から落ちてきた。」となっている。
伏線は悲壮感の軽減するのとズレを少なくするために使える。
『しあわせは子猫のかたち』であれば主人公の成長により雪村サキが消えた悲壮感が軽減されるし、伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』であれば、ドルジが辛い過去を語った後でレッサーパンダ盗む子供たちが再び表れ、場面が明るい印象になる。
約束や意味づけはそれ自体がズレのある状況の理由となるため、ズレた状況の蓋然性が増す。
素晴らしい小説に出会えたとき、人はその後の展開を想像し、読み終わった後も空想の中でふわふわと浮かんでいるような感覚を味わえるものだ。もしかすると、逆をとって、そのような小説は素晴らしい小説だといえるんじゃないだろうか(『逆は必ずしも真ならず』ってのは知ってるけれども)。
想像というのは一般に、確定していないことを想像する場合と、すでに確定した状態についての反実仮想とがある。物語の中での前者の確定していないことを想像する場合は、未だ語られていないこと、たとえば登場人物の未来や知られざる過去などを想像する。後者のすでに確定した状態についての反実仮想は、過去において登場人物がとった行動をもしとらなければ物語がどう展開していたかを想像するというものである。
物語における想像の主体は読者と登場人物である。読者が自発的に想像する場合と、登場人物がした想像を読者が受け取る場合とがある。
〈自発―未確定〉〈自発―反実仮想〉
〈受容―未確定〉
〈受容―反実仮想〉
の四つに分けられる。本当は想像を提供するのは登場人物の他にも物語の語り手も含まれるのだが、語り手が読者に意見を押し付けるような小説は最近の主流ではないのでここでは無視する。
読者が自発的にが想像をするときには、ある程度の制約が必要である。たとえば舞台の上に割り箸が一膳転がっていても漠然としていて想像の仕様がないが、舞台袖から現れたコメディアンがそれを拾い上げると、何か芸をするのだと想像ができる。読者が自発的に想像する場合は、制約を使う。物語世界を飛び出して現実世界に想像を膨らませる場合もある。
登場人物の想像を受け取る場合は、制約は必要ない。登場人物が発想したことを、読者が自分の考えとして取り入れたりありえないものとして棄却したりする。すでに読者にとっては確定した内容について、そうとは知らず登場人物が想像を巡らす場合もある。
このパターンの場合の制約は読者の持つ物語の鋳型である。読者の持っている物語の鋳型と今読んでいる小説の文から与えられた情報から、今後の展開を予想するのだ。想像によって複数の物語が出来上がってワクワクする。
一般的に読者は、登場人物が道徳とか願望とか義務とか知識とかの欠損を埋めるという物語の鋳型を持つ。登場人物の悪事は罰せられ、道徳の範囲内で主人公の願望は叶えられるように物語は動き、願望を果たす範囲内で義務は遂行され、ミステリーの場合は犯人は誰であるかという知識の欠落が結末までに必ず解決されるものと予想する。
読書経験によっても物語の鋳型は作られる。連作物の場合、最終回でないにもかかわらず最終的な目的が成就されることは無いし、週刊少年ジャンプに載っている漫画の場合、恋愛が成就するような展開はなかなかありえないだろうし、花とゆめで連載されている漫画の場合であれば逆に恋愛が絡まない話の方が難しいだろう。
主人公に選択肢が与えられたときも、選択肢という制約によって想像が発生する。ただ、物語の鋳型によって実現の可能性がないものとみなされ、想像から棄却されるような選択肢はあまり有効ではない。だが、ありえないとみなされる選択肢は反実仮想としての面白さになるため、選択肢が全くないよりは実現の可能性の少ない選択肢でもあったほうが物語の面白さは高い。
過去において提示された選択肢について、もしあの選択肢を選んでいれば主人公は別の状況に立たされていたのに、という想像を読者は巡らす。面白さに及ぼす効果は⑬と似通っている。ただ⑬とは違い、登場人物がそれについて想像や言及をしない場合である。
O・ヘンリの『賢者の贈り物』を見てみよう。デラは髪の毛を売るか売らないかという選択に立たされる。夫が髪飾りを買ってくれるが、デラは髪を売ってしまったため、その髪飾りを使うことができない。過去における選択肢という制約により、髪の毛を切らなかった状況を読者は想像できるのだ。
登場人物が自分の計画・推測・願望を語り、それが実現するかしないかを読者が想像する。複数の人物が自分の計画・推測・願望を語る場合、それ選択肢の形になり、読者はそのうちの全部か一部を採択するか、どれも採択しないかを選ぶ。⑩の場合との違いは、⑩の場合は読者の能力によって想像の幅が決まるのに対して、⑫の場合であると登場人物の側から想像を提供することである。
アレックス・シアラーの『13ヵ月と13週と13日と満月の夜』の主人公は、友人のメレディスが祖母を虐待しているのではと想像し、読者はそれを信じたり信じなかったりする。
過去において提示された選択肢について、もしあの選択肢を選んでいれば登場人物は別の状況に立たされていたのに、という想像を作中の人物が巡らし、それが読者に採りいれられたり取り入れられなかったりする。
東野圭吾の『手紙』はこの連続だ。主人公の兄が金を盗み取るという行動を採択したために、主人公はメジャーデビューするバンドのボーカルになる機会や逆玉に乗るチャンスを失ってしまう。後々になって、そのことについて主人公の周りの登場人物がそのことについて言及し、現実にならなかった状況を想像する。
登場人物が事実とは異なる想像をすることで、事実と想像のズレを生み出すことが出来る。
森絵都『永遠の出口』では、主人公の母親が主人公の振る舞いについて相談する手紙の内容が、主人公の思惑と全く噛み合わず、面白さを生む。
登場人物が死後の世界についてとか、この世の成り立ちとか、この世界が本当はどうなっているかとかについてを説明し、読者はそれが本当かどうかと空想をめぐらせる。死んだあと人間はア―カブイ星に行くとか、この世の最強の動物はクマであるとか、この世界は三年前に一人の少女によって作られたとかの、登場人物による様々なアイディアを、読者は採択したり棄却したり別のアイディアを考えたりして楽しむ。もし現実に、物語の中の状況に自分が立たされたらと想像する読者もいる。
⑩・⑫は先を予想する面白さ、⑪、⑬、⑭、⑮は今読んでいるペ―ジの面白さと言える。
⑩・⑫は、物語の展開によっては「……と予想していたにもかかわらず、本当は……という展開だった」というズレに使える。週刊少年ジャンプのギャグマンガの登場人物には普通、まともな恋人ができるわけがない。ラブレターを渡されると思ったら茶封筒に入ったただの手紙だったり、恋人になった人が広末涼子に似たとても可愛らしい女性だと思ったら実際はマウンテンゴリラだったりするのがギャグマンガの常だ。そういった鋳型を破壊したとき、読者の予想を裏切った面白さが生まれる。
森絵都の小説の会話が、まさに予想を裏切りによる面白さ(例えば、愛の告白をするのかと思ったら、突然晩御飯のメニューを訊いたりする)を持っていると思うのだが、それはまた別の話。
以上でまとめた面白さはそれぞれ完全に独立したものではなく、複数にタイプに跨って存在している。どんでん返しはズレの範疇に入るし、反実仮想や登場人物による誤った想像もまたズレに入れられる。不安の解消による面白さは、それが成し遂げられる以前(物語の序盤や中盤)では、解消されるという予想として存在する。だが本稿では、それぞれの面白さを二、三の大きな分類に還元することよりも、思考のツールとして使いやすい程度に細分化することを目指した。
以上で述べてきた物語の面白さに関するツールが実際に役に立つかや他にどのようなツールがあるのかを検討するべきなのだろうが、あとは知らないです。ここまで読んだ人は、本当にとてつもなくえらい。えらすぎです。
この書きなぐりの文章を鵜呑みにせずに、否定するべきところは否定して、無視するべきところは無視して(そうすると、この文章に書いたことは何も残らないかもしれない)、自分なりのスタイルを確立してください。
ここに書かれていることは正しいことではなくて、僕が話を書く上で寄りかかっている杖に過ぎません。くじいた足を引きずりながら歩いていたら、運よく見つけた棒が、ここに書かれている方法です。それが、折れやすい棒なのか頑丈な棒なのかは、僕自身にもわかっていません。
「阿呆なことを妄想している暇があるなら原稿千枚書いて来い若造」のような感想を抱く方もいると思います。それは当然のことで、文学者でもない、文学部でもない、当時ただの経済学科生が色々な本を読みながら、自分なりのスタイルを掴むために書いたものです(今現在の自分は、これとは少し違う方法で話を書いています)。
そのような感想を抱くということは、言語化できる根拠があるはずなので、是非、それを文字にしてみんなに見せてください。それが、必ず小説の未来に繋がります。