2013-11-13

認知の歪みこそが終わりなき闘争の原因である

周知の通り、この世の中に無数にある争いごとの原因は、全て了見の狭さにあると言っても過言ではない。これを認知の歪みという言葉で表す人もいるが同じことだ。

しかし、別に了見広げる必要ないじゃーんっていうのも真に正しい。例えば、ボカロ音楽大嫌いな人がわざわざ了見を広げて好きになる必要あるかって言うと微妙なところではある。

了見広げたほうが物事を受け入れやすくなってストレスが減って世界が広がる代わりに、なんでもありになって本来の自分がやってきたこと(ここでは音楽性)を見失う面もあるんだよな。

もちろん別に見失ってもいいんだよ?過去自分を捨てるのもまた人生だけど、見失うことには変わりないわけで、そのデメリット吟味する必要があります

したがって、全ての人間が寛容になれば世界平和になるか、全ての人の内面が安らかになるかっていうと極めて微妙な話なわけ。人はあえて寛容を選ばず粘着的な拘りを持つことで社会における自己確立している。

もっとも、人間というのは決して1つだけの顔に固執しているわけではなく、社会化過程で複数の顔を持っていくものだ。

父親としての顔、夫としての顔、係長としての顔、上司としての顔、部下としての顔、スポーツマンとしての顔、二次元オタクとしての顔、ネットで口だけ番長ブログを書き殴っているときどや顔

そうした色んな顔を統合して裏表ない人格を築くのが人間的完成だという1つの大きな思想の系譜もあるが、それは理想的過ぎる話で大いに疑問の残るところだ。

社会に生きる限り顔の切り替えは不可欠であって、それは理想化された統合人格とは相容れないものなのではないか?相容れるとしたらそれはどういう形なのか?そこがはっきりしない。

であるから、どんなエラソーなこと言ったって所詮はみーんな複数の顔をせせこましく切り替えて生きていかないといけないと思うのだ。

だったら、複数の顔を持っても社会との兼ね合いで、あるいは自分の中で対立が起きないように了見の広さを身に付けておくのも大切と言える。

何もなんでもありなくらい高い視点を持たなくても、適度にストレスが軽減される程度に視野を広げておくのも1つの戦略ではある。

何も仙人のような超越的視点は要求されていない。狭い自己にこだわってそれに立脚した世界モデルを作っているのが問題だからそれをやめなさいと言っているだけ。

井の中の蛙が作った世界モデルは、結局井の中の物事すら自分の中でうまく整理できなくてストレスが多大に発生して、そのせいで余計に井の中に引き籠もってしまうという悪循環をもたらす。

から適度に視野を広げておくってことが大事なのだが、それが我々日本人には非常に難しいようである

視野が狭いことを自認する人がいたところで、それが何故駄目なのかを本質的に理解しない限り改善しようとは思わないだろう。

例えば、視野が狭いと色んな人と仲良く出来ないから駄目、視野が狭いと知識が狭くなるから駄目、といったことは些末なことであって、その程度の理解だと視野が狭い自分でもいいやって受け入れてしまうであろう。

一言で言えば、認知モデル現実乖離しているから駄目なのである視野が狭い人の認知形成というのは、自分の身近なことの大半を切り捨てて、本当に自分が興味あるものだけを選んで認知モデルを作る。認知の歪みという。

から、そのモデルでは身近なことすらモデル合致しないことが多々出てきて、そのモデル上では存在してはいけないはずの出来事が毎日がエブリデイのように発生してしまうのだ。

認知モデルにそぐわない出来事は、当然本人は素直に認めたがらず、逃げようとする、否定しようとする、過剰に肯定しようとするのどれかの行動にでるわけ。

どんなモデルを選択しようがそれに合致しない出来事には遭遇するものだが、狭い認知モデルだとそういうことが頻繁に起きてしまうのでストレス過多になって、ますます狭い自分に引き籠もる。

狭い認知モデルから受け入れられない事だらけで人生辛いってのは、まあ誰にでも理解できる簡単な話ではあるが、もうちょっと詳しく、

・身近な物事のうち都合の良い部分だけ切り取ってモデルを作るから現実と激しく乖離すること

認知現実と激しく乖離しているから、沢山の物事に対する逃避、否定、過剰肯定を現実自分が実際に行っていること

しかも、そんな歪んだ認知を我が子のように必死に守っていること

を理解してきちんと自覚しない限り、直すのは難しいだろうな。けだし、問題の原因は問題に対する理解不足にあることが多い。

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