映画「華麗なるギャツビー」の予告編を見る限りでは、これはあまり期待できない。語り手のキャラウェイは一貫して没個性的な、自分の語る物語に取り残されるような傍観者であらねばならない。そしてギャツビーは物憂げな翳りと張りつめたいかつさを同居させたなかに、静かに燃える焦燥を潜んだ物腰を帯びていなければならない。ギャツビーは上流階級出身ではないにも関わらず、さも上流階級の人間であるかのように振舞っている。しかし、彼がその一員になろうとしている高級住宅地の人間たちは、まるで無教養な労働階級のように即物的で低俗な世界に生きている。滅びかけた階級社会の皮肉な倒立は、前時代の制度に形式的な価値を見出そうとするギャツビーの営みの到達不可能性を暗示している。だが、彼の愛がまさに愛するはずもない女性を愛すること、その不可能性の上に立脚した愛だったことが、ギャツビーの寄る辺なき孤独を証している。「絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう舟のように、力の限り漕ぎ進んでゆく」悲愴感を映像で描写するには、ディカプリオの裏表のない溌剌とした生命感は屈託がなさすぎるし、マクガイアの器用な剽軽ぶりはギャツビーを傍観する者として余裕がありすぎる。だから期待ができないのだ。