2013-08-03

麻生発言の批判者は、批判対象が何かを理解していないのでは、という話。

http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201307310772.html

上記講演での麻生太郎氏の発言の一部が批判されている件について。

問題になった発言を以下に引用する。以下「例の発言」という。

憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。」

客観的事実

1.麻生氏が例の発言を含む講演をしたこと

2.例の発言が批判的にマスコミに採り上げられたこと

3.麻生氏が、例の発言は「誤解を招いた」として撤回したこと

4.麻生発言が、外国マスコミにも批判的に採り上げられたこと



批判

1.麻生氏は、国民が気づかないうちに憲法改正をすることを奨励しているから、問題である

2.麻生氏は、残虐な行為をした政党であるナチス手法称揚しているから、問題である

3.麻生氏は、国民が気づかないうちに憲法改正すべきという主張をしている、あるいは、ナチス手法称揚している、というような批判されるべき主張をしているものと捉えられかねないような発言をしたから、問題である

4.麻生氏は、ナチスを肯定的文脈で引用たから、問題である

5.麻生氏は、外国から強く非難されても仕方ないような発言をしたから、問題である



批判1と2は、麻生氏の「真意」を問題にしている。しかし、麻生氏は批判1や2にあるような意図ではなく、誤解であったとしているため、これらの批判は的を射ていないことになる。このことは、たとえ批判者が「いや、あの文脈でああいう発言をしたということは批判1や2にあるような意図があったに違いない。」と主張しようが、「批判1や2にあるような意図があったとしか読めない。」と主張しようが変わらない。発言の「真意」は本人のみが決めることだからである

批判3は、麻生氏の発言の「外観」を問題にしている。前記した、「批判1や2にあるような意図があったとしか読めない。」と主張する者は、批判3を行わなければならない。

そして、批判3を行う者は、例えば「例の発言をした麻生氏に政治家としての適格性はない」という主張をする際には、「なぜなら、政治家は発言を慎重に行うべきであって、あのような批判されるべき主張をしていると捉えられかねない発言を不用意にすることは政治家としてあってはならないかである。」などと続けなければならない。もしも、「なぜなら、あのような批判されるべき主張は憲法の意義・重要性やナチスのしたことへの無理解を露呈しているかである。」と続けるのならば、それは批判1や2にコミットしていることになり、論理矛盾を引き起こす。

批判4は、主にドイツマスコミが行なっているものであるナチスは、その政策内容の残虐性・人権侵害性だけでなく、政権掌握に至るまでのやり方も人権侵害を伴うものだった。そうしたナチスのやり方を肯定することは、それがいかなる文脈の中であっても、ジョークであっても、許されることはない、という前提に立つものである

批判5は、例の発言の内容とは全く独立しているものである。どんな発言であれ、どんな文脈であれ、どんな真意であれ、それが「国際人権感覚」の観点からして批判されるようなものであれば、それ自体が批判されるべきである、というものである。この批判をするためには、「なぜ外国から批判されるような発言をすれば、それがたとえ誤解であろうとなんであろうと、批判されなければならないのか」という問に答えなければならない。




http://nabeteru.seesaa.net/article/370956778.html

上記URL先のブログでは、「ナチスの手口を学んで国民が知らない間に憲法を変えてしまうやり方に共感を覚えているのである。」として、批判1を行っている。その際、批判1を行うにあたって、例の発言を含む講演内容全体から麻生氏の「真意」を推測している。そして、その推測に基づいて麻生氏の思想内容を断定し、その思想が問題である、と批判しているのである

しかし、批判1が的を射ていないことは既に述べた通りである


http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130803/1375502413

上記URL先のブログでは、「問題は、『ナチスは悪い中身の政治をしたけども、その方法論は見事だった。180度かわるような大転換をやってのけてしまったのだから』という認識麻生が持っていることなのだ。」としている。これは、批判2である。批判2も的を射ていないことは既に述べた。

もっとも、このブログでは、「『ナチズムの中身はダメだが、手口は学ぶところがある』と麻生が思っていると解釈すれば」として、留保をつけている。

そして、この解釈自体は論理的に成り立ちうるものである(説得的かどうかは読者が決めることだが)。したがって、例の発言についてこういう解釈をすることは全く問題はないし、その解釈が正しいことを仮定した上で、発言を批判することは、正当なものである

ただし、あくまで解釈である以上、麻生氏の政治家としての適格性を主張内容に基いて論難することは矛盾をきたす。麻生氏の主張内容(=真意)は、本人と神しか知らないのである



麻生氏の批判者は、批判1,2をしないように気をつけなければならない。批判3〜5は十分に成り立つ。

いずれにせよ、重要なのは、発言がどうこうとか一政治家の適格性がどうこうとかいう話ではなく、「憲法とは何か/何のためにあるか」「憲法改正はどのように進めるべきか」というような面倒くさいが避けては通れない議題について、基本的人権概念権力分立原理等、近代憲法立脚する根本原理に基づいた建設的な議論をしていくことである政局論議に堕してはならないと思う。

  • そもそも護憲派って、麻生(というか自民党)が、堂々と「憲法九条を改正したいと考えている」って発言してるのを忘れてるんじゃないか?

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