はてなキーワード: 王権とは
これは、いけない(ネットリ。
そもそも民主主義というものが、ただの「数の論理」や「勝ち負け」だけで片付けられるほど簡単なものではないということを、少々歴史に遡って理解する必要があるのです。
民主主義の原点は、古代ギリシャにさかのぼります。アテネの市民たちは、ポリスにおいて一人ひとりが意思を表明し、集会で議論し、多様な意見が集まることで決定が行われていました。当時の市民の参加は限られたものでありましたが、それでもなお、個々人が意見を表明することで、集団の意思が形成されていた。このように、民主主義とは始めから「数の優劣」ではなく、むしろ「多様な意見を集め、話し合いによって合意を築く」というプロセスそのものが重視されていたわけであります。
さらに歴史を進めると、17世紀から18世紀のヨーロッパでは、市民革命が起こり、絶対王政が崩れ、王の独裁から市民一人ひとりが権利を持つという、今に続く民主主義の原型が確立されました。イギリスの名誉革命、アメリカの独立戦争、フランス革命などにより、王権に対する人々の抵抗が民主主義の根幹を支える考え方として広がっていきました。そしてここでも、ただ「数の勝ち負け」だけが重要視されたわけではなく、「いかにして多くの市民の意見を反映させるか」「いかにして少数意見を無視しないか」が模索されていたのであります。
日本でもですね、明治維新を経て大日本帝国憲法が制定され、大正デモクラシーを経て市民の政治参加が求められました。そして、戦後の日本国憲法の成立に至り、やっと国民が主権を持つ民主主義が完成したわけであります。ここに至るまでに、いかに多くの犠牲と苦難を経て、現代の民主主義が作られたか、これは我々が忘れてはならない歴史なのであります。
このようにですね、民主主義は単なる「数の論理」ではなく、歴史を通じて「多様な意見を反映し合意を形成するプロセス」にこそ価値が置かれてきたものであります。ですから、たとえ立憲民主党が過半数を取れないからといって、それを即座に「負け」と断じるのは、民主主義の本質に対する深い理解を欠いた見解だと言わざるを得ません。過半数を取ることだけが重要なのではなく、その過程でどれだけ多くの意見が議論され、真に国民の生活や利益に寄与する政策が追求されているかが問われるべきであります。
間違ってる気がするが私なりの見解を書いておく。
そもそも権利がどこからやってきたのか、ということを考えるときそもそも人間は全ての権利を持っていたと考える方が都合がいいからそう考えてるってだけの話でこの最初から持ってるこの全ての権利をまとめて自然権と呼ぶ。なんでこんな考えになったのかは神から権力を賜ったとされる王権神授説に対抗するためというのもあるはず。
自然権というのは全ての権利を含むので殺人とか窃盗とかそういうのも含まれる。ただそんなものを認めていたら人類社会は成立しないのでお互いにそういう問題のある権利を行使しない”社会契約”を結ぶことで社会を成立させている、っていうのが社会契約説。
なので人がどこからきて、なぜそこに定着するに至ったかを考えることから始めます。
(日本は歴史的にそこら辺があやふやな部分が多いので、ローマの植民や異民族の侵入辺りを参考にするとよいです)
水場がある、戦争において有利だから占拠した、川の渡し場がある、港を作れる、近くの都市国家の安全保障圏内だった、などです。
ダンバー数という概念があります。社会的な動物である人間がコミュニティの安定を保つのに適正な状態を示すものです。
正直理論そのものは眉唾なのですが、経験則上一定の人数が集まると運営が困難になるのは周知の事実かと思われます。
どれくらいの人がいて、何を目的として集団を形成しているのか。これが統治であり国の在り方です。
部族が拡大しその首領が君臨するというのが古代的な社会ではあります。分裂もします。
血統が貴ばれるのは文明が発展し、人民がナラティブを受け入れる社会性を獲得してからの話です。
基本的には暴力です。ここで言う暴力とは当然直接的な暴行もそうですし、数を束ねて運用し少数者を抑圧する能力も含まれます。
また支配者に絶対忠誠を誓う暴力を保有する、財物で買える暴力を保有する、あるいは財物そのものを暴力として使用するなどもあります。
この支配者はどういう暴力をもって君臨しているのか、を意識すると国家としてのデティールが明確になるでしょう。
古代、人権とは王ただ一人が保有するものであり、今で言う憲法とは王の思想と同一でした。
絶対王権や中央集権は古典的暴力に思えますが、これは近代に入って人類が獲得した暴力の集大成です。
地主、あるいは領主、のちに貴族と呼ばれる人々は相応の暴力をもって君臨しています。
王とは彼らの同盟のリーダーであり、地主の忠誠など期待できないものでした。
領地貴族が別の領地貴族(王も含む)にへりくだれば統治の正当性(暴力の有効性)を失いかねません。
信仰が信仰として単体で成立するならいいのですが、組織宗教となり王の暴力を用いる側になると構造が複雑化します。
信仰、教えに留めておきましょう。
ここまででぼんやりと形ができたと思いますので、あとは暴力に魔法だのスキルだので色付けすればなろう小説としては十分です。
王を一番強い、強い力を運用するポジションにつけて、その支配を世界の隅々に下ろしていくことで自然的なレベルデザインも生じます。
だっておw w ww ww ww
でもそうしても「黒人差別だー」「白人至上主義だー」「逆差別による黒人優遇だー」「ステレオタイプアジア人がブスすぎるー」とか言われるんだからもうどうしようもなくね?
線引は?
線引はどこに引くの?
犬の映画を作っても「犬は助けるのにクジラは殺すんだな」とか言われるんだろ?
は?
じゃあもう何も作れねえじゃん。
石油を使うのはSDGSじゃないから化学繊維は着れないし、かといって木や虫由来のものは生命の搾取で、だけど裸で暮らすのは公序良俗に反するわけで、じゃあお前は何を着てどう生きるつもりなの?
あほくせーお前の中にある勝手な線引で世界のルールを全部決めていいってことになってるんだーへーあほくせー。
お前はこの世界の王なの?
フラナリーやマーカス、スコットらに倣えば、最近まですべての階級社会における中心的な政治闘争は、誰が土地を耕し、誰が食料を手に入れるかをめぐるものだった。グレーバーとウェングローの見方は異なる。彼らにとって中心的な問題は権力であり、中心的な敵は国家である。そのため、彼らはいくつかの点で階級を無視している。これは彼らがアナーキストだからではない。ほとんどのアナーキストは、常に階級と権力を同時に重視することができる。
しかし、『万物の黎明』における省略は重要である。グレーバーとウェングローは、合意的で参加型の集会を支持する議論を推し進めようと躍起になっているように見えるが、そのために私たちに一連の謎を残している。4つの簡単な例を挙げれば、その問題がよくわかるだろう。
著者たちは、都市における国家に先行することが多い、村落における階級格差の拡大には関心がなく、その文献を否定している。また、小王国、領主、爵位にも興味がない。中央集権的な大国家が存在しなければそれでいいのだ。私たちは、複雑な採集民に関する彼らの説明の中に、このような紆余曲折をいくつか見てきた。このようなことは、他の多くの例にも現れている。
インダス川沿いの古代都市モヘンジョ=ダロでは、約4万人が階級的不平等も国家もなく暮らしていた。
そして彼らは、ヒンドゥトヴァ派の歴史家たちと同様に、モヘンジョ=ダロは実際に南アジアのカーストに沿って組織されていたと示唆する。しかし、グレーバーとウェングローは、これは平等主義的なカーストであったと言う。最初は驚かされるが、彼らが言いたいのは、王のいないカーストの不平等は容認できるということである[11]。
彼らは一貫して伝統的な王権の力を最小限に抑えている。ミシシッピ川流域のナチェズ王国がその好例である。グレーバーとウェングローは、太陽王の権力と凶悪な残虐性は彼の村の外には及ばなかったと言う。しかし実際には、ナチェズは白人のプランターに奉仕する奴隷貿易における主要な地域勢力であった[12]。
グレーバーとウェングローは、残酷な人身御供の祭りが世界中の初期の州で見られるという重要な事実を正しく強調している。数十人から数百人が生け贄にされ、その多くは戦争捕虜や若い女性、貧しい人々であった。
彼らは当然憤慨している。しかし、これらの生け贄の目的は、敵である他国の人々を恐怖に陥れることであったとも感じている。それとは対照的に、私たちは、流血の主な目的は、流血の実際の聴衆である、残酷な地方国家の臣民を恐怖に陥れることだったと考えている。
実際、このような残酷さが、それぞれの国家の初期の歴史に特徴的なのはそのためだろう。国家の正当性がまだ弱く、恐怖が最も必要とされていた時代である。国家権力が強化されるにつれて、戦乱や敵対は続くものの、壮大な犠牲が消えていくのもそのためだろう。
集会そのものも重要な最後の例である。グレーバーとウェングローは、古代メソポタミアの王国や国家における都市集会の力を極めて正しく指摘している。彼らは、これは王がすべての権力を持っていたわけではないという証拠だと言う。これは正しい。これらの王国で階級闘争が止まっていたと考えるのは、よほどナイーブでなければならないだろう。
しかし、グレイバーとウェングローは飛躍する。彼らは、これらの都市議会は、参加型民主主義を掲げる「占拠せよ!」やその他の社会正義運動の集会に似ていると指摘する。
古代メソポタミアでは、参加型民主主義のいかなる形態についても、これといった証拠はない。しかし、他の階級社会における都市全体や全国的な議会については、膨大な証拠がある。そのどれもが、富裕層や有力な一族によって支配されていた。古代スパルタでは地主が支配していた。ローマの元老院も同様だった。ジョン王や男爵家もそうだった。そしてごく最近まで、ヨーロッパのすべての議会の有権者は富裕層に限られていた。
この近視眼は重要である。他の多くの人々と同様、私たちは王国や国家を、不平等な社会における支配階級がルールを強化し、強制するために集まる方法として理解している。『万物の黎明』では、そのプロセスは目に見えない。
グレーバーとウェングローは怒っている。この怒りには、私たちのようにグローバルな不平等に絶望し、グローバル・エリートの政治を憎み、気候の混乱を恐れる読者を喜ばせるエネルギーがある。
多くの点で、彼らの本は新鮮な風を吹き込んでくれる。そして私たちは、既存のすべての国家に対する敵意を共有している。しかし、今後、気候変動を食い止めるためには、階級と環境の中心的重要性を含む人間の条件に関する理解が必要である。
[1] Fredrich Engels, 1884, The Origin of the Family, Private Property and the State. The book was revived as a key text by socialist and Marxist feminists in debates about women’s liberation. Pace the 19th century social Darwinism which clearly took a lead from the Old Testament, it is now quite clear that both pastoralism and slash and burn agriculture appeared after, and not before, the advent of settled agriculture.
[2] Franz Boas, The Mind of Primitive Man, 1911; Claudia Ruth Pierpoint, ‘The Measure of America’, 2004; Ned Blackhawk and Isaiah Lorado Wilner, Indigenous Visions: Rediscovering the World of Franz Boas, 2018; Rosemary Lévy, Franz Boas: The Emergence of the Anthropologist, 2019.
[3] Very good examples of this work include Sara Hdry, Mothers and Others: The Evolutionary Origins of Mutual Understanding, 2005; Elizabeth Marshall Thomas, The Old Way, 2001; two articles by Steven Kuhn and Mary Stiner: ‘What’s a Mother To Do’, 2006 and ‘How Hearth and Home Made us Human’, 2019; Loretta Cormier and Sharon Jones, The Domesticated Penis: How Womanhood has Shaped Manhood, 2015; a key paper by Joanna Overing, ‘Men Control Women? The “Catch-22” in the Analysis of Gender’, 1987; two books by Christopher Boehm: Hierarchy in the Forest and the Evolution of Egalitarian Behavior, 1999, and Moral Origins, 2012; every book by the primatologist Frans de Waal; the two chapters by Brian Ferguson in Douglas Fry, ed., War, Peace and Human Nature, 2013; Richard Wrangham, Catching Fire: How Cooking Made Us Human, 2010; and two books by the trans biologist Joan Roughgarden: Evolution’s Rainbow: Diversity, Gender and Sexuality in Nature and People, 2004, and The Genial Gene: Deconstructing Darwinian Selfishness, 2009.
[4] Our favourites among the ethnographies of our near contemporary hunter-gatherers are Marjorie Shostack, Nisa: The Life and Words of a !Kung Woman, 1981; Jean Briggs, Inuit Morality Play: The Emotional Education of a Three-Year-Old, 1998; Phyllis Kaberry, Aboriginal Women: Sacred and Profane, 1938, Karen Endicott and Kirk Endicott: The Headman was a Woman: The Gender Egalitarian Batek of Malaysia, 2008; Richard Lee, The !Kung San: Men, Women and Work in a Foraging Society, 1978; and Colin Turnbull, Wayward Servants: The Two Worlds of the African Pygmies, 1978.
[5] Kent Flannery and Joyce Marcus, The Creation of Inequality: How Our Prehistorical Ancestors Set the Stage for Monarchy, Slavery and Empire, 2012; and James C. Scott, The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland South-East Asia, 2009; Scott, Against the Grain: A Deep History of the Earliest States, 2017. Martin Jones, Feast: Why Humans Share Food, 2007, is also very useful.
[6] Edmund Leach had made a similar argument in 1954 in Political Systems of Highland Burma, and radically changed anthropology. For a brilliant ethnography of one group of anti-class hill rebels at the end of the twentieth century, see Shanshan Du, Chopsticks Only Work in Pairs: Gender Unity and Gender Equality Among the Lahu of Southeastern China, 2003. For Scott’s recent extension of his argument to ancient Mesopotamia, see Against the Grain.
[7] This is all succinctly described in Brian Hayden, ‘Transegalitarian Societies on the American Northwest Plateau: Social Dynamics and Cultural/Technological Changes,’ in Orlando Cerasuolo, ed., The Archaeology of Inequality, 2021.
[8] Start with Philip Drucker and Robert Heizer, 1967, To Make My Name Good: A Reexamination of the Southern Kwakiutl Potlatch; and Eric Wolf, Envisioning Power: Ideologies of Dominance and Crisis, 1999, 69-132.
[9] Jeanne Arnold, ‘Credit where Credit is Due: The History of the Chumash Oceangoing Plank Canoe’, 2007; and Lynn Gamble, The Chumash World at European Contact: Power, Trade and Fighting among Complex Hunter-Gatherers, 2011.
[10] On the Calusa, see The Dawn, 150-2; Fernando Santos-Cranero, 2010, Vital Enemies: Slavery, Predation and the Amerindian Political Economy of Life, 2010; and John Hann, Missions to the Calusa, 1991.
[11] Rita Wright, The Ancient Indus: Urbanism, Economy and Society, 2010; and Andrew Robinson, The Indus: Lost Civilizations, 2015.
[12] Robbie Ethridge and Sheri M. Shuck-Hall, Mapping the Mississippian Shatter Zone, 2009; and George Edward Milne, Natchez Country: Indians, Colonists and the Landscape of Race in French Louisiana, 2015.
子供が生まれたので早起きの習慣ができたことをきっかけに、日曜の特撮を見るようになった
10年以上ぶりに見たドンブラは確かにそこそこ面白かったが、あれはあれでなんか違う別個体のような印象なので感想はスルーしていた
ストーリー自体は5人の王様が登場し、それぞれの国を治めつつ強敵と立ち向かうという単純明快なもの。一人一人が自分の国と国民を最重視しているために目的が「敵の排除」ではないってのがいい感じだ。目的に合致しているのならば敵すら利用するし、その流れも悪くないと思う。今のところはギラが王権を奪うまでの第一章という感じだろうか。ここから王座を奪われたり新たな敵がでたり2000年前の真実が明らかになったりと、舞台設定が単純なゆえに何でもできそうでワクワクする。
登場人物もいい。なにより悪役が主人公サイドにいるのが斬新かつ楽しい。
物語的にはラクレスの暴虐ぶりが際立つけど、彼はむしろ不器用な面ばかりが目立っていているし、自分の欲求に素直すぎるというだけなのかもしれない。
逆にトウフの国王の方があっちについたりこっちについたりと浮気癖があって、ある種のヴィランだなって感じ。有能で策謀に秀でているが明確な利益を提示しないと敵に回る厄介な人間。だからといって排除も無理。いいキャラだよね。
しかし、一押しは断然総長。断然せりふ回しと行動が最高にかっこよい。
毎回かっこいいのに、今回の話では、まさかのシュゴッド達を科学ではなく精神面で奮い立たせるという立ち回りをしたのはぐっときた。彼の持ち味のテクノロジーの分野はそのままシュゴッドに通ずる部分であり、だれよりもシュゴッドを理解しているはずなのにだ。自身の武器を一時的にでも捨て去り、まさに神頼みでもするかのように言葉でシュゴッドを起こしたのは、総長のキャラがないと成立しない。彼がずっと「シュゴッドは機械だ」と言ってこなければこの場面は薄い話になっていただろう。
というか、ほんとそれ以外でも総長はかっこよすぎる。主人公のよき相棒であり理解者でありライバルでもあるってだけでも凄いのに、一人でも全部持って行っちゃうんだから
凄いのは王様たちだけじゃない。その従者や脇役がいい。
普通、従者が活躍する作品って本当に珍しくて、わかりやすいのはブリーチみたいなのだろう。あそこまでキャラ数多いが全員成立しているのは珍しいのだが、ニチアサでそれをやっているのがキングオージャーでもある。
一人一人の王様をサポートする側がきちんと仕事をこなしている。外観としても、ヒメノは執事で、リタは補佐官、カグラギは黒子などわかりやすい。そして彼らだけで登場してもきちんと物語が生める程度には個性がしっかりしている。一人一人が国にとって重要な立場であることが示唆されているからなんだよね。
あと、シュゴッダムにいる例のうるさいモブ男。彼は徹底的なモブで風見鶏だが、どっちを向いてしゃべっているかで物語を誰にでもわかるように整理している超重要なキャラでもある。
彼がいるおかげで緩急がつくし、視聴者にいまどうなっているかを端的に印象付けられている。なにより子供もわかる野次馬という存在はほんと大事だと思う。イラっとするかしないかの絶妙な塩梅も素晴らしい。
地球上のあらゆる生命の中で自殺を行うのは人間だけだと言われている。しかし本当にその言説は正しいのだろうか?研究が進んでいる人間の細胞だけでも、遺伝子に異常が生じた細胞は自死を選ぶ作用、アポトーシスはよく知られている。
ダーウィンは進化の仕組みに関して、適者生存の原則を唱えた。多様な個体が産まれ、また自然淘汰によって収斂が起こるというものだ。これはラマルク的進化とは反対に、種々の様々な遺伝子変異を前提としたことが特徴である。ラマルク的進化では、特定の環境に置かれた生物の遺伝子変異は特定の領域にしか意味がないのに対し、ダーウィン的進化ではそれぞれの変異が未来につながるという意味での意味を持っていると捉えることもできる。これらの実績は菌類の実験成果によっても示されている。
さて、ここで人類について話を戻す。人類はその類まれなる創造性から、地球上の万物の霊長たる資格を手にした。その支配領域は他の種を凌ぎ、今や総個体数は80億に達しようとしている。これは昆虫に匹敵する数である。少なくとも先進国において、人間はあらゆる人権を保障され、種々の遺伝子変異は──たとえそれが障害をもたらすものであったとしても──保護されるのがrightとなっている。それは人権によるもので、人権というのは生まれながらにして与えられるらしい。与える主体というのは議論の余地があるが、この世の人類ではない神とするならば、中世の王権神授説と何ら本質的な変わりはない。
であるからして、わたしは人権保障という考え方は実態がなく、一種革命のようなもので覆されかねない概念だと考える。
市民による革命が起こったように、どれほど優れた思想であっても人の内心を侵すことはできない。現代社会、特に日本においては自殺はいけないこととされているが、自殺者が多数いることからもこれを抑制できていないことがわかる。
私たちの細胞は、どのような時にアポトーシスを行うのだろうか?
たとえば、遺伝子の修復ができず、正常にDNAを残せなくなった時
たとえば、ウイルスに感染して、自身を複製するのではなく異常なもの(ここではウイルス)を産生するようになった時
これらが示すのは、すべて正常な子孫が残せなくなった時に自己死を選ぶ、ということである。
人類がここまで発展した以上、このシステムの有効性は疑うべきところがないはずである(ほんと?)。人類をマクロで見た時、アポトーシスを選択すべき人間はここまでの考え方から確実に一定数いて、それは現代の人権思想などでは到底語り得ないはずである。
私はこれまでの人生において、自分が死ぬべきだと思っており、また因果関係は証明できないが異性に求められたこともない。以上よりアポトーシスに値すると考え、これから死に至るものである。
自分自身の身体の行先は自分の脳が判断するものであり、その脳になんらかの異常が起きていたとしても、他の人間にはそれを尊重する義務があると考える。
な
本来右翼左翼というのは、フランス議会の右翼に王権保守、左翼に革新が陣取ったことが始まる。右翼が強者より、左翼が弱者よりでもある。
と同時に、政府の関与を減らすことが望ましいという自由主義へと移っていった。
しかし1930年世界恐慌で自由主義が否定された。金融危機が起きると、企業が金をため込み、設備投資・技術開発投資をしなくなり、永久に不景気と産業劣化を続けるのだ。
世界中の諸国は政府が金融・財政・税制で調整するケインズ主義と、政府がすべて調整するマルクス主義に移った。
ここで、ケインズ主義が右翼保守、マルクス主義が左翼革新となった。冷戦体制ともなった。
マルクス主義国はうまくいかなかったけども、ケインズ主義も1970年代のオイルショックやベトナム戦争戦費によるアメリカの経常赤字化、途上国の腐敗によるスタグフレーションでケチがついている。
そこで、自由主義が金利政策だけを加えて新自由主義として復活した。特に途上国の腐敗や、戦争戦費による、政府の肥大化と無駄な支出が多かったこともスタグフレーションの原因で、ある程度費用対効果に戻ることも必要だからだ。
途上国の腐敗も、産業育成より前に弱者救済をしてしまうと、経常赤字となり外貨借金が増え、外貨借金からは財政破綻するという側面もあっただろう。
しかし、新自由主義の立ち位置はケインズ主義よりも強者寄りで右翼なのだ。
ケインズ主義が右翼保守だったのを新自由主義がのっとって、左翼が寄るべき理論が無くなり、ケインズ主義を持つ党派もなくなり、惰性で経済理論から離れて右翼左翼だといっており、経済理論は実は右翼左翼とも新自由主義となってしまっていた。
しかし、1990年バブル崩壊という金融危機が起きた。新自由主義に移っていた日本は金融危機が起きると、企業が金をため込み、設備投資・技術開発投資をしなくなり、永久に不景気と産業劣化を続ける問題を解決できずにいた。
さらに、基礎研究・応用研究・教育は一部大きな産業に繋がり、長期的な費用対効果はある。しかし、近視眼的な費用対効果はない。困窮者救済も近視眼的な費用対効果はない。新自由主義は基礎研究・応用研究・教育・困窮者救済を破壊し、産業の劣化も招いた。
どこかに新しい産業の種を起こす人形がいるはずだ!探せ!探して引っ掻き回せ!と、イノベーションやベンチャー育成という名の悪趣味な人形遊びに使える人形を探してつぶすだけ。
2008年リーマンショックでも金融危機が起き、金融緩和という新しい手法が生まれた。MMTで自国通貨建て国債と外貨借金の峻別がついた。
さらに、コロナショックが起きたけども、財政出動と金融緩和で早期の回復を見せている。ウクライナ戦争でもオイルショックとなりかねなかったけども、太陽光発電・風力発電の低価格化もあり、1年程度でインフレも落ち着くようになってきている。
新自由主義も放逐されつつあり、ケインズ主義が復活しつつある。しかし、ケインズ主義も大きな政府にするのだが、何に使うのか?はまだ課題が残っている。産業育成が中心ではあろうとも、弱者救済も政府しか担える主体はいない。
しかし、「あいつらが悪いから叩けばうまくいく」と無駄を叩こうとする新自由主義は残っている。その無駄たたきで基礎研究・応用研究・教育を破壊してきたというのに。
無駄を叩こうという党派は維新や立憲民主党。維新が新自由主義はもちろんだけど、立憲民主党もよるべき理論がないまま維新に流されて、無知故の新自由主義となっている。
さらに、金持ちにとってはフラット税制志向の新自由主義が望ましい。おそらく金持ちが金を出して新自由主義を叫ばせてるのもあるんじゃないかと思う。
強者より、弱者よりの右翼左翼の分類でいえば、維新・立憲民主党が右翼で、自民党はむしろ左翼となる。
裏の理論がしっかりしてない立憲民主党は放逐されて、新自由主義維新VS産業育成ケインズ主義自民の対立になりそうな気がする。
しかし、自民党も意識して産業育成ケインズ主義になったわけではない。自民党内でも新自由主義の無駄たたきの緊縮派はいる。
すると、また新自由主義に流される懸念はある。さらに、2大政党制だと弱者救済のスタンスを取る勢力がいなくなる。弱者救済ケインズ主義はれいわが可能性があるけど。
やはり2大政党制狙いの小選挙区制をやめて中選挙区制に戻すべきじゃないかと。産業育成ケインズ主義政党が中心となり、強者寄りの新自由主義政党と、弱者寄りの弱者救済ケインズ主義政党が両側から引っ張る構造の方が良いのではないかと思う。