はてなキーワード: 共同体とは
What's Love Got to Do with It?っていう映画を機内で見た
UK生まれ育ちのパキスタン系イケメン医師(スタートレックディスカバリーにも出てたシャザード・ラティフ、売れてますね)が30過ぎにいきなり見合い結婚すると聞いて幼馴染でドキュメンタリー作家のリリ・ジェームズがそれをドキュメンタリーに取りつつ結婚とはなんなのか?愛とはなんなのか?マッチングアプリと見合いは真逆だけどどう違うのか?に迫っていきつつ2人の関係も色々モヤモヤしたりキュンキュンしたりするみたいな話である
製作陣が当事者ぽい(名前から判断)からまあきっとそれなりにリアルな話なんだと思うけど、
劇中で、知らん相手と結婚するって一体どういうことなんだ?見ず知らずの相手とこれから恋に落ちるのか?そんなことできるのか?と聞かれたイスラムイケメンはこう答えるのだ「恋に落ちる必要はない、愛に歩み寄るんだ」とかなんとか。
ようは結局結婚は共同体を築き上げるための合意であって愛は必ずしも必要でないみたいな話なんですね
これって日本人の婚活やってる人の一定数が言ってることみたいなかんじですよね
自分は恋愛結婚が最高だと思ってて、結婚するために好きでもないがやっていけそうな相手を探す婚活ってのがさっぱり意味がわからなかったけど世界のどこかで似たような認識と慣習で結婚してる人々がいるんだなというのが興味深かった
まあ結論からするとどちらも否定はしないけどやっぱ愛も大事じゃんって結論なんですけどね
恋に落ちて結婚しても男が浮気したり、妥協して付き合ってみても相手がその妥協を感じ取ってしまったり まあ色々ありますよね
さて同じUKとはいえ地方のゴリゴリのワーキングクラスの街から帰ってくる身としては言うてもロンドンの中流階級(中流階級ってのはUKではとってもお金持ちという意です 為念)のフワフワしたファンタジーなお話だなーと思ったけど婚活って謎な概念だなと思ってる私のような人がいたら良作でしたのでおすすめです
https://anond.hatelabo.jp/20231224205347
宗教と科学が対立するものとして所与のように扱われているが、実態は異なる。人類の長い歴史のほとんどの期間において、宗教は真理を追究するという目的のため、教育や研究を提供する場として存在してきた。中世では科学の最先端はイスラム科学であり、ヨーロッパで近代科学の誕生のきっかけとなるルネサンス運動が起きたのは、十字軍がそれを中東から持ち帰った結果である。
歴史的経緯はさておき、近代に科学的手法が発見されて以降、宗教が科学に負けつつあると考える人は多い。真理の追求という意味ではそうかもしれないが、それは宗教の一つの側面にすぎない。宗教の影響力が決定的に弱まっているのは、科学のせいではなく、ナショナリズム信仰のせいである。
ナショナリズムはあまりに成功しすぎたせいで、最早それを疑問視する人間はほとんどいないが、ナショナリズムほど宗教臭いイデオロギーは存在しない。生まれた時から勝手に入信させられ、"税金"の名のもとに資産を収奪される。改宗することでしか棄教できないが、大抵の"国"では入信のハードルが異常に高く設定されており、容易に棄教することはできない。幼少期から学校教育により、"国語"/"歴史"/"道徳"などの授業を通じて義務的な洗脳を施され、"国"が決めた正しい言語、言葉遣いを強制させられる。憲法というドグマとそれに基づいたおびただしい数の法令が日常生活において恣意的に適用されるが、その内容全てを理解しているものはいない。それらを破ると投獄されたり、罰金を払わされたり、社会的に制裁されたりする。信徒によっては"国"の方針に盲目的に追従したり、逆にその行動を批判することこそあれ、アイデンティティの核として"国民"であることそれ自体を疑問に思うことはない。
宗教は、心の拠り所としてだけでなく、出自の異なる人々をまとめあげる共同体として、また教会を通じて様々な福祉を提供する役割を持っていた。"国"はそれらの機能や権力を宗教から取り上げ、政教分離の名のもとに精神的領域へと押しやった。
東京都人権部は、歴史的事実を扱う作品への検閲を、二度と繰り返さないでください。在日コリアンへの差別という重大な問題を起こしたことを謝罪し、公開を中止した作品の上映を行ってください!
10,192人が東京都によるレイシズムと検閲に 反対する有志一同さんのキャンペーンに賛同しました。目標賛同数15,000を一緒に目指しましょう!
2022年8月30日から11月30日まで、東京都の指定管理施設である東京都人権プラザ(公益財団法人東京都人権啓発センター)の主催事業として、アーティスト・飯山由貴の企画展「あなたの本当の家を探しにいく」が開催されています。
同展では、附帯事業として、飯山の映像作品《In-Mates》(2021年制作)の上映が予定されていました。しかし、作品内で扱われる関東大震災時の朝鮮人等の虐殺事件を歴史的事実とすることへの懸念などを理由として、東京都総務局人権部職員たちにより、上映が禁止されました。
《In-Mates》は、国際交流基金主催の展覧会に際して制作された映像作品です。戦前期の精神病院に入院していた朝鮮人患者らの診療記録から、ラッパー/詩人のFUNIによる詩とパフォーマンスを通して、彼らの心の葛藤を表します。朝鮮人患者たちにとって、当時の東京がどのような場所であったのかを観客に想像してもらうため、作中では関東大震災時の朝鮮人等の虐殺事件が扱われます。
《In-Mates》の上映を懸念する旨を記した人権部職員のメールには、《In-Mates》作中で歴史学者が「日本人が朝鮮人を殺したのは事実」と発言しているシーンに対して、「関東大震災での朝鮮人大虐殺について、インタビュー内で「日本人が朝鮮人を殺したのは事実」と言っています。これに対して都ではこの歴史認識について言及をしていません」と書かれていました。
また、小池百合子都知事が、毎年9月1日に東京都墨田区の都立横網町公園で開かれている関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文の送付を、今年も送らなかったという内容の朝日新聞の記事を参照したうえで、「都知事がこうした立場をとっているにも関わらず、朝鮮人虐殺を「事実」と発言する動画を使用する事に懸念があります」とも明記されていました。くわえて他にも、在日コリアン(在日韓国人・在日朝鮮人)の権利を毀損する内容が記されていました。
これは明らかに都知事への忖度であり、東京都人権部による《In-Mates》上映禁止の判断は、都政による在日コリアン(在日韓国人・在日朝鮮人)へのレイシズム、民族差別に他なりません。「人権が尊重される社会を実現する」ことを掲げているはずの東京都人権部による差別と検閲は、決してあってはならないことです。
二度とこのようなことが繰り返されないよう、強く抗議するとともに、以下の内容を要望します。
小池百合子都知事は、これまでの自らの行動が行政職員による偏見と差別行為の煽動となっていることを自覚し、本事件が発生するに至った経緯をあらためて調査し、公に説明してください。また、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文の送付を再開してください。
東京都総務局人権部職員らは、憲法第21条2項に定められた検閲の禁止とともに、15条に規定された「全体の奉仕者」であることに真摯に向き合い、都知事への忖度による《In-Mates》への検閲が、歴史修正と在日コリアンへの差別の正当化であると認め、差別を扇動しうる行いを謝罪してください。
また、東京都人権啓発センター主催事業の展示や附帯事業に対し、企画主旨や展示作品の内容、作家性、作品に関係する共同体を最大限尊重することを約束してください。東京都人権啓発センター専門職員が有する人権教育の啓発と普及における専門性を尊重し、これを歪めるような越権行為を二度と行わないことを約束してください。
加えて、当初予定されていた、《In-Mates》の上映と出演者によるトークイベントを改めて実施することを求めます。
みなさんの賛同の声を東京都総務局人権部および小池百合子都知事に届けます。また、東京都議会に請願・陳情を行う計画です。この署名は請願・陳情の後押しともなります。多くの方にご賛同いただきますよう、お願い申し上げます。
摩天楼の隙間をスタスタと通り抜けるような絵面の映画と、気が狂いそうなほど延々と続く住宅街やさびれたダイナーの出てくる映画ではやっぱり空気感が違うような気がする。共同体への帰属意識だとか、人との距離感だとか。それは意図された描かれ方なのかもしれないし、作り手の心象風景がそうさせてるのかもしれない。
でもアメリカの実態なんて何も分からないし、一握りの都市部のリベラルと田舎のゴリゴリのコンサバみたいな対比も情報上のものとしてしか知らない。本当にそこまでの差違があるのかも分からない。
自分の住んでる日本ですらも住んでる近辺くらいしか知らない。別に冷たくもないけど、温もりを感じるかって言ったらそうでもない。人の靴踏んどいて謝らないカスもいるけど、最低限の敬意を持った人だってごまんといる。人間すべからく労働して結婚すべしみたいなものをごく当たり前に内面化していそうにも見えるし、テレビで見聞きする新たしいジョーシキに迎合するポーズを示そうとしたりもする。別にどこもそんなもんじゃね思ってる。旅行に行ったくらいじゃ、人の違いだとか空気感の違いをそう感じる訳でもない。
自分の行動範囲や人付き合い、視野が狭いのかもしれないし、場所が変わっただけで人がそう変わるもんなんだろうかって気持ちもある。
しかしメンタルは昭和のままなので、中途半端に非効率なネットリ粘着質なコミュニケーションを求めるところがある。
たとえばスマホ一つにしても、効率的なコミュニケーションツールとしては使えず、用件は必ず電話で伝える。
機能は使えないのでただひたすら写真をパシャパシャとるだけといった具合だ。
昭和の時代で60代といえば完全に老婆だ。しかし時代的に長生きな人が増え、相対的に若いと見られているため、まだまだ精神的に幼いことが多い。
つまり、精神がガキのままのクソババアが増えている。肉体はクソババアなのだが、精神的にはまだ娘さんのつもりの人が増えているようである。
俺だな。否定できない。
ASD確定診断は降りなかったけどWAIS結果含めまあASD濃厚。注意欠陥もあるしともかく反応が鈍いので、あらゆる物事が中途半端で、妻に細かいストレスを与え続けてる。
一例
だめだろ。個々の良さげな話も全部戦争かアーリア人種以外の排除につながってる認識。
まあ、ラジオの受け売り(元になってる本すら読んでない)けど、
【追記】著者出演
っていう認識。
良さげに見える政策でも
【追記】本放送の録音(Spotifyで聞ける公式アーカイヴ)・著者出演
https://open.spotify.com/episode/7x6X0lZ2w4aqtynRQUqPDx?si=eAR1SJpdRvaduh7iZAuXHw
[B! あとで読む] 何故フェミや女性ってそこまで謝りたくないの?
https://l.pg1x.com/6QYyWc8My81jNpNW8
コイツを見てくれ。コイツをどう思う?いや単に晒し上げなんだけど(笑) これは単なる前置き。でもよく見てやってくれ。
コレで分かるのは「なんでこっち(正義のフェミ様)がクソジャップス共に謝らなきゃいけねぇんだ!」っていう態度である。
謝罪の対象を、刑法や民法の立脚点である「共同体の住人」とは見做してないんだよ、コイツラは。
だから謝らない。
もっともっと程度の低い言葉で言うなら「信頼も信用も無いから謝罪の対象じゃない」ってこと。
だがよ、フェミ様共よ。
信頼と信用がねぇのはアンタラも一緒だぜ?
・最悪の権威主義(上野筆頭に大学教授の肩書で相手に不足している知を担保してないことを揶揄する。同じ社会問題の、程度の低い問題を解決するのに知の高低なんぞ関係ない。むしろ低い人たちが認知できるように包括するのが、本来の知性や知識だろうが、権威主義者共が)
・集団による「その場の制圧」(民主主義の最前線たる議会では多数派ではないため、ここの現場で「動員」を掛けて、自己顕示ガス抜き抗議を連発する。ただのデモ屋共)
・責任の所在を有耶無耶にしての法的アクションを含めたキャンセルカルチャー(言わずもがなレターな。インナーサークルのことを外に持ち出して名誉を毀損されていた、ってのは俺の中では「じゃあ代々木出入りしている職員を籠絡して、やらかしてるのをオープンにしていいよな?」ってのと同じなんだけど?)
他にもでかいのは幾つもあるけどな、草津の件(偽証、自治体/町長への名誉毀損他)、Colaboのインチキ会計(都の問題は都の問題。Colaboの問題はColaboの問題。混ぜんじゃねぇよカス共)、などなど。
要するに「上から目線の共同体の隣人として信用も信頼もおけない、薄気味悪い輩」ってのがアンタラ、フェミの状況なんだよ。
最低限「悪いことは悪いと分かる程度の、信用はある(信頼はできないけど)共同体の隣人」に戻せるように「謝罪したら?」ってお話なんだけど、分かってないよね?
信頼も信用も、謝罪で歩み寄る側は「アクションを取ってる(革新)側」なんだよ? 「アタシらが気に入らん!」って暴れてるのはアンタラなんだし。
なんで保守、現状派が謝る必要があるの? 変革の価値に重きをおいているのはアンタラなんだから。
俺は昔から言ってるけど「オマエラが全員死んだ頃に、オマエラが崇めていたものが普通になるから時間だけが解決する」ツーてるでしょ? 今のオマエラフェミが満たされることは無いんだよ。時間しか解決しないんだから。
オマエラに足りないのは諦観。時間しか解決しないことを受け入れろ。
キャバクラ嬢に入れあげる男連中と同じく
一方的に貢がされているのとは少し違う気がしてきた
そんで派手なシャンパンタワーとかやるとイベント気分が味わえる
「私がこの人を育ててやった」という”優越感”を買ってるのだ
このパトロンとか旦那の気分を味わえる商法を薄い水割りにすると
この手の商法のカモになる人々というのは
自分も相手の役に立っているという相互的な関係性に飢えてるのだろう
***
これを家族や身近な異性の愛が得られなかったからと分析するのは早計だ
もともと対等な男女の恋愛なんて貴族だけが味わえる嗜好品である
庶民の大多数は地縁血縁の共同体によってなんとなく結婚相手が決まってた
中級以上の階級でも政略結婚とまでいわんが婚姻は社交の手段だった
じゃあ親子や夫婦の間に愛はなかったのかというと
親や子、妻や夫がいてくれないと困る「必要性」はあったのではないか
何しろ近代まで数千年、世の多数の人間は農業や漁業や個人商店みたいな
***
それが産業構造が変化した戦後昭和30年ごろから総サラリーマン社会になり
地縁血縁共同体のなかでなんとなく男女がくっつくお見合い婚は減り
わざわざ金で関係性を買う世の中にまでなってきた
俺程度の頭ではまだ考えつかない
というか、俺も20年前の時点で「これからは弱者路線だ」と完全に見定めていた。
10年以上前の俺はその路線を意識してネットで振る舞ってたし、実際、そういう売り方でバズる人もいた。
店長のはルーツがだいたいわかる。文芸的な語りの路線で弱さアピールしてた。
「強い男になれない僕の姿を見て、これこそが現実、これこそが真実」ってやつね。
ちなみに俺は学がなかったので、そういう文芸路線は出来なかったし、大嫌いだった。
それもあったので、店長が弱者アピールをするたびに俺は一方的に攻撃した。
さておき、自分が弱者になるにあたり、本当の弱者とはなんだろうと考えに考えた。
そこで辿り着いたのは
「ネットワークでつながる領域の真の弱者、それは友達がいないこと、仲間がいないことである」
だった。
まず頼りになるバックボーンを持たないこと。
甘えると言っても、ファンコミュニティに入ってしまうと仲間を作ってしまう。
ギャルゲーの女の子であっても人格を見つけて「俺と同じだ」と同化してしまったら仲間を作るのと同じだ。
なので、「ただの絵」としてギャルゲーの女の子を見て、その絵にただ縋りつくことにした。
ちなみに、これはけっこうつらい。
ざっくり言うと、当時のやり方としてはケンカを売ることだった。
俺より有名なやつ、俺より学歴いいやつ、俺より頭いいやつ、「俺より強いやつ」だ。
重要なのは、社会的な弱者を相手にしてたら弱者になれないってことだ。
相手が誰から見ても社会的強者じゃなければ、俺は弱者になれない。
しかしこれが難しい。
ネットバトルは頻繁に発生してたから論陣で殴りこむのは簡単だったが、問題はすぐに「仲間」が発生してしまうことだ。
仲間がいたら弱者ではない。
なので同意とか書いてくるやつがいたら、そいつを敵認定して攻撃の矛先を向けた。
弱者アピールするためには、常に弱者で居続けるためには、多数派になってはならない。
ということは、周囲の全てに対し攻撃し続けなければ、弱者とはいえない。
しかし、そうやって攻撃し続けると、被差別者を攻撃してしまうこともあった。
そうなると弱者としてはなりたたない。
現実の学のなさや金のなさで勝負しようとすると、途上国の貧民などいくらでも下がいる以上、ネットでのふるまいでしか弱者になれない。
そして当然だが、大前提として仲間を作ってはいけないので根本的にSNS的なネットと相性が悪い。
SNSが未熟だったころは「友達いない」と言い張れたが、SNSだと「フォロワーいるじゃん」となってしまう。
弱者路線は正解だった(現にいま、こうして流行している)が、限界も見えていた。
現にいま、ほぼ話す友達は誰もいなくなったが、それなりにつらい。
しかし今どきの自称弱者男性は、弱者男性としては全く弱くないと思う。
誰も得しない、コンプライアンスが厳しい世の中になりましたなあ・・・
「誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃん」が徹底的に許されない風土が凄く苦手で(他にも仕事優先で親の死に目に逢えないが美徳になる会社とか)、
そうした風土が消え失せてる共同体に物凄い救いと歓びと感動を覚えるんだよな。大人なのに。
もう今年で三十になる。
内定者懇親会がその企業が所有してる一般人立ち入り不可の文化財みたいな会館で立食パーティーとか、
大学の同級生は皆そういうのに目輝かせて物凄い好印象を抱いて入社を決めていたけど、自分は一切トキメキを感じなかった。
今勤めてる会社に入ったばかりの頃、
「最寄り駅まで5キロあるし、しかもバスが1時間に3本しかない」
「えっ、そんなん車かバイクで来ちゃえばいいじゃん」
「ここ停めてりゃ大丈夫よ。〇〇さんとか△△さんとか毎日車通勤だよ?」
とアドバイス貰ったときに脳内で幸福成分がドバドバ分泌されるのを感じた。
また、仕事中に
「昨日YouTube見てたら岩瀬がスライダーはシュートみたいに内に切ってリリースするって言っててびっくりした」
という話をしてたら、横で聞いていた上司が
「それ凄いな。試してみよう」
と机の下からグローブを2つ取り出してそのまま昼休みに敷地内でキャッチボールすることになったときも同様に幸福成分がドバドバ出た。
あと、近くに住んでる社員は昼休みに一旦帰って飯食ったり昼寝したりしてるって聞いた時も同様だった。
高校時代に剣道部だったんだが合宿にオヤツを持参してた同級生が顧問から引くほどキレ散らかされてたんだけど、
こういう「誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃん」が徹底的に許されない風土が凄く苦手で(他にも仕事優先で親の死に目に逢えないが美徳になる会社とか)、
そうした風土が消え失せてる共同体に物凄い救いと歓びと感動を覚えるんだよな。大人なのに。
もう今年で三十になる。
ちなみに、
昼休みに歯医者行くとか、デスクにハンカチ敷いて昼寝するとか、W杯観戦に有給使うとか
そういうのが何ら問題視されない文化の企業を観測すると無関係者であるにもかかわらず嫌悪感剥き出しで
「潰れればいいんだよそんな会社」