はてなキーワード: 中学生とは
いま40歳ぐらいで、中学生ぐらいからインターネットの普及始まったし、ネット界の成長とともに思春期・青年期を過ごしてきた。
HTMLでホームページを作ってみようって世界を見ながら育ったし、
スタイルシートってこんなことができるんだよってページだって読んだんだ。
なのにどうして俺はちょっとしたWebサービスの一つも作れないんだろうか。
どうしてツイッターだのインスタグラムだの、優れたサービスを作ることができなかったのだろうか、
という気持ちになった。
中学生の時に父が「一般教養」と称してjavaの本を2冊と補足のプリント数枚をくれた。
家のパソコンでとりあえず言われるがままに何かをやってみた。
テキストエディットとやらで何かを書き、ターミナルとかいうので呼び出した記憶がある。
セミコロンが足りないとか色々苦労し、全く好きになれずに一週間ほどでさじを投げた記憶がある。
父は「本が難しすぎたか」ともう1冊本をくれたが大差なかった。
そんな話を大学の同期にしたら「それは難しすぎる。かわいそうに」と言って「猫でもわかるC言語」的な本をくれた。
読んでみたけど途中でいきなり難しくなって見なかったことにした。
生きる意味を感じない。独身・28歳で地方出身、大学で東京に出てきてサラリーマンを数年している。独り身で毎日淡々と生きてはいるが、生きる意味は本当にないなと感じる。それを求めてネットをさまよっても、生きることが正解で死ぬことが不正解という前提に立った議論しか見当たらない。何か病気や貧困で困ってしまって、ネガティブな意味で自殺するのではなくて、ポジティブな意味で自殺することがあってもいいのではないか。生きる意味がないから自殺するというのは、ポジティブとは言えないのだろうか。ただ、悲しいわけでも苦しいわけでもなく、やりたいことがあるわけでもないし、やらないといけないことがあるわけでもない。それなのに生きることは続けないといけない。生きるためには毎日したくない仕事をして、話したくない人と話をして、義理と人情を立てて気を遣っていかなければならないのが負担。支えるべき家族もいないし、いわゆる替えの効かない人材でもない自分がいなくなっても、社会の側は全然困りはしないだろう。
中学生くらいのときからぼんやりと死にたいと考えてきたが、ここ数年その気持がより先鋭化してきたのを明確に感じる。きっとこれは、社会人になって、日々、論理的に考えることが求められる場面が増えたことも一因だろう。自分の頭で論理的に考えると、自分に生きる必要はないという結論に至るから、死にたいと思うのだろう。生きる意味もないし生きる必要もないし生きる意志もない人生を抱えて、自分はここからどうやっていけばいいのだろうか。
幼い頃から学校が嫌いで運動音痴な上に頭の回転も遅かったんだけど歳を重ねていく事に学校嫌いが悪化してから学校に付随するものが全て嫌いになってきて中学上がったあたりから人付き合いとか勉強に酷い拒絶反応起こして1日12時間とか寝たり仮病使ってたら親に家から叩き出されて家の近くのお墓で座り込んで蹲って1人で泣いてたりしてたら中学生ながら親よりも白髪が増えてしまってそんなこんなで高校受験迎えて偏差値40の高校に合格見込み無しとか言われてさっさと落ちて通信制の高校行きたかったから家から1番近い偏差値48の高校受けたら受かってしまって行きたくない行きたくないと駄々こねながら入学する羽目になって相変わらずサボり癖が抜けなかったり人付き合い悪いまま卒業を迎えて成績も悪いし家貧乏だし学校嫌いだから進学しないし働くのも嫌だから楽な仕事で検索したら「市役所は楽」って聞いて親に公務員になる旨伝えて公務員浪人させてもらって2年間のモラトリアム獲得して公務員試験の勉強して今まで勉強してこなかったから教養問題(いわゆる国数理社英のことで主に自然科学と社会科学が得点源とされている)とかちっともわかんないし馬鹿だから頭に入らなかったんだけど知能問題(パズルみたいなやつで二次方程式出来るなら解ける問題が多い)が何故か得意だったのとコミュ障だけど愛想だけは良かったのが功を奏して地元の市役所合格したけど社会不適合者なのは全く変わってない俺が仕事続くはずもなく人付き合い苦手で頭悪すぎて仕事も理解できないし周りが何言ってるのか理解できないしで皆は普通に仕事できてるのに自分だけ1人常時パニック状態精神が壊れてしまって周りも家族も困惑させて5年ニートした後今は地元で流れてくるダンボールにガムテープをはる日雇い派遣をずっとやって実家暮らししてる今年35の男だけど俺見たいなやつの話ききたい。
中学二年生の頃に英語の先生が話す海外での留学経験や文化の違いなど海外旅行にも行ったことのない私にはとても新鮮で魅力的に写りました。
海外在住時に付き合っていた外国人男性のジェントルマンさ、ボリューミーなご飯など田舎者の私にとって特殊な経験が羨ましかった。
そこから英語学習が海外の人とたくさん話せるチャンスになると分かり、あっという間に得意教科は英語。高校は珍しい国際コースが選択できる公立高校に進学。その当時二週間のカナダとの留学プログラムがあり、海外の学生をホームステイ先として受け入れることで自分もカナダに行けるプログラムをしり、もちろんとびついた。母親にねだるも4人兄弟が家にパンパンにいるのに、受け入れる事はできないと拒否。そもそも月四万円ほどのバイトでは金銭的にも二週間でさえカナダに行く事は厳しかった。
大学進学を目指すことにしたのは高二の11月あたり。今思えばかなり無理な志望先だったけど、交換留学で相手校の学費を払わなくていいという大学だけをしぼり、もう勉強した。結果は第二志望に入学する。第二志望は留学が卒業要件であり費用が安い以外何も知らなかった。入学後、なんと半年以上の留学が必須と書いてあるサイトを鵜呑みにして一年間留学できると思い込んでいた私に驚くべき情報。本学部の留学は半年のプログラムです。一年行きたい方は他学部もお応募できる交換留学制度を利用してください。つまり一年留学を全員ができると思い込んでいた私にとって最初の後悔が生まれる。他学部が応募できるという事はライバルが増えるからだ。
二回生の後期に2020年九月出発のイギリス留学のスコアを獲得し合格する。中学生からの願いがやっと叶う。
しかし2020年3月日本でもコロナウイルス拡大により、7月に留学延期を言い渡される。というか、パンデミックで来年もいけるか保証できません。留学延期か中止どっちにしますかという選択を迫られる。半年の留学のオンライン留学が進められる。ここまできて引くわけにはいかない。私は延期を希望する。ここで大きな問題。コロナが11月になっても収束しない。もし来年留学できない場合、2022年の、つまり5回生の前期(留年生の就活期間)に留学するといういつ就活したら良いのか状態に。将来のことを考えると先が見えない留学生活に希望を抱くよりも、就活を優先し経済不況の中で確実に就職先を見つけた方が良いという判断。
留学辞退届けをワードにダウンロードし、当時の志望理由、辞退理由を書き込む。途中、何度も手が止まるも、今回は選考していただいたにもかかわらず、関係者の皆様にはご迷惑をお掛けする結果となり、申し訳ございませんでした。全部かけた。
この結果は大学選びが間違っていたのか、コロナが流行したときに迅速な対応を取らなかった政府を恨むべきか、高校の時に留学ができない自分の経済状況や、計画性の無さ、受験に落ちたこと、努力不足、中流家庭に生まれながら海外留学を望んだ事、奨学金を利子有と無利子の両方をフルで借りている不甲斐なさ、劣等感を感じた毎日、どう頑張っても帰国子女の友達には勝てない現実、大多数の友達みたいに卒業するための100万する半年の留学をパンデミック前にしとくべきだったのか、人生初の留学に浮き足立つ何ヶ月間、留学先では勉強だけに集中したいがためにバイトに明け暮れた日々、留学を中心とした生活はオンラインで繋がる大学生活をつまらないものに、全ての選択や行動を間違えからでしょうか。
海外留学のたった一年にそこまでバイトするほど価値はない、留学に行ったからって何か得るわけではない、泣くほど悲しむことではない、コロナで経済的に苦しく食事もまともに取れていない人もいる。すいません。行ったことないので留学の価値というか留学がどういうものか語る事すらできません。
初めて長文をネットに投稿するので、不備があったら申し訳ありません。また細かい部分は匿名性の保持のため一部改変してる可能性があります。
タイトル通りですが今年の9月に某国立大学を中退しました。現在24歳です。大学には理工学部に5年半在籍していました。1回生、2回生までは普通に進級できたのですが、3回生でつまづき(後述)、そこから休学を挟んで3年半3回生を繰り返して最終的には中退しました。
幼少期から勉強は非常にできる方でした。勉強するという点においては他の子と比べてあまりに要領が良かったのだと思います。勉強時間はそんなに取らずとも吸収力はすさまじいタイプでした。両親の学歴はともに平凡でしたが教育熱心で幼稚園から公文などの学習を始めていました。小学校4年生から学習塾に通い、中学受験もして難関中高一貫私立校に合格、入学しました。
ただ私自身は勉強自体が好きだったというよりはゲーム感覚で解けるのが楽しかっただけでした。そして中学受験までは良い大学に入って良い企業に就職するということが当たり前の幸せ、人生の目標といった感じでなんの疑いもなく勉強していました。しかし入学後にその考え方は複数の理由で消え去りました。この「良い大学に入って良い企業に就職する」という考え方は、後に両親が一種の洗脳に近い考えを私に植え付けていたのだと感じました。もちろん前述のようなレールに乗っかる人生設計は社会的に成功する可能性を高めてはくれるので他の人から見れば贅沢の浪費だと考える人もいるかもしれません。しかし当時の私はそうは思えませんでした。
中学入学以降私の成績は落ちていきます。中高一貫校に入ったおかげで高校入試もなく、生徒の自主性を重んじる校風もあり強制されて勉強させられることもありませんでした。自由な時間が増えたので私は遊ぶことに費やしました。テレビゲームだったり部活仲間とのカラオケ、ボウリングなど、一般的な中学生でした。成績は落ちたと言っても有名私立校で真ん中くらいの成績でした。これは高校3年生まで変わりませんでした。勉強時間も日頃は宿題をやる程度でテスト前だけ範囲分おさらいするくらいでした。
しかし、勉強好きだった(ように周りからは見えていた)私が勉強しなくなった一番の理由は、周りの圧倒的な天才集団を目の当たりにしたからでした。もちろんそれは一部の生徒でしたが、数学オリンピック金メダリストだったり、論文コンテスト最優秀賞だったり、とにかく次元の違う天才がゴロゴロいました。もちろん彼らも類稀なる才能の他に血のにじむような努力はしていたに決まってるのですが、当時の私はその才能に嫉妬し、「とてもじゃないが敵わない」と感じ、トップオブトップを目指すのをやめてしまったのです。そこから勉強するのが苦痛になりました。「どうせあいつらには勝てないのになんで勉強する必要があるんだ」と。
その結果勉強の方はなあなあで高校3年生まで過ごしてしまいました。それでも一定の学力は維持していたので効率よく勉強する才能だけはあったようです。
とにもかくにも高校2年生になった私は自然と大学受験を意識し始めます。将来の夢もそれのために行きたい大学もなかった私はとりあえずどちらかというと得意だった理系を選択します。大学受験しないという生徒は周りに1人もおらず、仕方なく周りに合わせて大学受験する、といった感覚でした。
高2のときは一応東大を目指していましたが本気で勉強しないで行けるほど甘くはなく、高3の夏にはランクを落として某国立大学を目指すことになります。その大学ですら日本ではベスト10に入る有名大学で、企業からも高く評価されている大学です。「この大学にならほとんど勉強せずに入れるぞ」と感じ、それでいて社会的に一定の評価を得られると思ったのです。
実際高3の夏以降の平均勉強時間は、平均1日5時間もなかったと思います。
そんな舐めた私ですが、センター試験、2次試験ともに無事終了し、結果は合格。
世間一般の受験生からすればほとんど勉強せずに有名国立大学に入って「しまい」ました。自分の受験に対する計算がぴったり合っているくらいの小さな努力とそれなりの結果の相関があり、割と満足してました。
大学は自宅から通える範囲ではなく、ひとり暮らしをはじめました。大学生になってからは自由を得たこともあり、誇張なしに全く勉強しませんでした。1回生、2回生まではほとんど単位を落とすことなく進級できましたが、そのあたりで異変に気づきます。「授業についていけない」と感じることが多くなってきたのです。大学の理系科目の高度な授業を勉強せずとも理解ができるほど私は天才ではありませんでした。同級生に過去問などをもらったりして単位を拾ってはいましたが次第に大学の授業に出られなくなりました。最初は自分が怠惰なだけだと思っていたのですが次第に大学に向かうだけで動悸、めまい、嘔吐などの症状が出始めました。これはもしやと思い心療内科に行くと案の定うつ病と診断されました。
これだけ見ると「何だこいつ甘えてるだけじゃないか」と言われそうですが私は自己分析していました。メンタルの弱さと完璧主義です。
もともと完璧主義者のようなきらいがあった私はできない事があるとすぐ嫌になってしまう性質がありました。小学校の頃は図工や家庭科などの副教科が苦手でうまくこなせないと授業中泣いてしまうことも多々ありました。周りの子に主要教科では負けたことがないのにです。また中高時代の天才に出会ってからトップオブトップになれないという挫折を引きずっておりそれが数年たって限界に達したとも考えました。
私は4回生にあがれず留年しました。2度目の3回生を始める4月に休学をして、2年間大学に行きませんでした。その間将来に対する不安が募りました。大学すらまともに行けず、しかも自分の努力不足であるという自己嫌悪に陥り、社会人としてやっていける自信もなくなっていたのです。死にたいと思ったことも何度もありました。
しかし大学から離れたことでうつ病の症状は緩和され、バイトを始められるまでになりました。
そのバイト先で評価され社員にならないかという打診を受けて、大学を中退し今年の10月から社員になりました。大学にこれ以上在籍しても勉強・研究する気は全くないし、自分の将来にプラスになることはないんじゃないかと思い思い切って中退しました。現在は後悔は全くないです。
長くなりましたが一応まとめを書きます。この話から皆さんに伝えたいことは人生は辛いことから逃げていいということです。
私自身いわゆるエリート街道を歩んでいましたが、挫折し、レールからは外れました。少年時代描いていた未来とは大きく異なっています。高卒ということで今後大企業に就職できる可能性は大きく減りました。昔ならそれに耐えきれませんでしたが今は非常にポジティブに生きています。
しかもイレギュラーではありますがコロナ禍の現在、就職できただけでもありがたいと考えていますし、現在の仕事にやりがいも感じています。人生一度きりだし後悔のないように楽しく生きる。これが今の私の人生観です。
お父さんの思い出
ねこのお父さんは
先生だった
家でも先生のようにふるまうので
で。
「週刊こどもニュース」を見てる父。
「なんでこんなのみてるの?」きいたら
「お父さんでも知らないことがあるだろ、子供向きの番組だけどよくわかるように説明されてていいよね」
とのこと、
そういえば「大人でも中学生用の子供のための英字新聞を読んで英語を身に着けた人」のはなしを
きいたことがあったなー。
なのでうちでは家族で
「週刊こどもニュース」をみていました
勉強してるひとでした。
そのへんは尊敬してたにゃ。
なのでネコチャンこどもじゃないけど
よく判るニャ。
耳にしてオンになった途端に、
そのキャンセル具合は正直驚いたわ。
こんなにも有ると無いとでは違うんだわ!って
まったく聞こえなくなるって訳じゃないんだけど、
なんか遠くに人や電車がいる!って感じで
目の前は人がいてガヤガヤしているのに、
今のテクノロジーって本当にスゴいって
こういう新しい新体験は刺激的よね。
そう思いました。
そのVRの中では、
おまえVRやってんのかよ!スゲーなってVRの中のバーチャルなお友だちに囲まれるのが見えるVRだったら笑うんだけど、
あれもきっとスゴい体験なのねと思うし、
知らない間にPS5が出てて、
あの新コントローラーも面白いって話しだけど実際はどうなのかしらね。
R2L2ボタン無いと思って大騒ぎしていたけど、
背面タッチパネル!
私それ知らなかったんだけど、
そこの場所がR2L2ボダンになる!ってインターネッツで調べたら出てきたので、
やっぱりインターネッツってスゴいなって。
インターネットがなかった頃は本当にみんなどうやって攻略していたのかしら?って思っちゃったわ。
とりあえず
このVitaのR2L2ボタンの発見も新しいユーザー体験としては新鮮だわ。
でもあまりに感度が良すぎて触れたら押しちゃう押し答えのないボタンのようなものだから、
ついつい触れてしまうところも
新しい新体験のユーザーエクスペンダブルスの映画をこの冬また見返しちゃおうかしらって思ったし、
その『エクスペンダブルスI』の通常版とディレクターズカット版じゃぜんぜん内容が違うぐらい
絶対普通版みてからディレクターズカット版を見て欲しいわ!って思ったし、
映画って何度見ても良い映画を見つける旅だと思うのもこれもまた新体験よね!
うふふ。
たまにああいう所で食べるジャンキーな朝食も美味しいわよねって、
湯を沸かしてがぶ飲み温まりよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
Twitterやってると、どう見ても中学生相当のアカウントですらフェミに対する嫌悪感情だけは一丁前に兼ね揃えてるのを見てて怖くなる
俺が絵描きアカウントを大量にフォローしてるせいもあるかもしれないが少なくとも黎明期~3,4年前までは確実に今ほどの荒れようじゃあなかったしフェミなんて言葉を知ったのもここ数年のこと
個人的には絵が描けてかつ思想の強いユーザー(鐘....)や某エロゲ代表から徐々に思想が伝播していったような感触だけどいったい何がどうなってこうなってるの
夫婦でホームレスの取材をして3年ばかりの月日が経った。当初からその取材活動に疑問と懸念を投げかけてくる人々が跡を絶たない。考えてみれば当然だ。彼らが何故ホームレスという立場になったのか、百人百様の人生を得た末の今なのだろうが、想像するによい経緯は考えられない。世の中から忌避され、近づく行為は奇行と捉える人がいても不思議ではない。
現在は夫婦でこの取材に取り組んでいる私達ではあるが、このプロジェクトのきっかけは妻である私の原体験が基となっている。
20年以上前、新宿駅の地下街は家を無くした人々のダンボールの手製の住処がひっそりとは呼べないと程の規模で一つの社会を為していた。
今では考えられないであろう。身銭を稼ぐためだろうか、駅のあちこちから拾い集めた古雑誌を安値で売る者すらいた。
その日、幼い私は親に連れられそんな新宿駅まで来ていた。目に映ったのは、彼らの建てたダンボールの小屋だった。秘密基地の様相を持つそれらの簡易的な建立物に興味を持った私は見えない内側も確かめようと近寄ろうとすると、母に無言で引き止められた。その時の母の気色張った様相に、この場所で暮らす家のない人々は”近寄らざるべき人々”であり”場所”であり”社会”であることをうっすらと理解した。
そのような記憶を留めたまま、大人になった私は街の角々で時折見かける彼らの姿に、違和感に近い興味を感じていた。禁止されればより気になるとはよく言ったものである。
これがホームレスと呼ばれる人達への取材を行う我々への疑問に対する返答と呼ばれたら、もう少し先の取り組みに進んだ今の私達には少し合わないものではあるけれども、この事が漫然とした興味であったことは間違い無い。
興味を持った以上、手始めに行ったのがインターネットの検索だった。自宅からそう遠く離れた場所では無い所でこの問題に取り組む人がいるのか、まずはそんな事を知りたかっただけかもしれない。
検索結果は田舎のホームレス支援を小規模で行っているA氏を叩き出した。何も知らない私達であっても、その道の活動を行うA氏を通じてであれば、家を無くした人々から警戒される事もないだろう。
2017年12月24日。A氏は我々をホームレスの方々への食事を支援する手伝いとして連れ出してくれた。その時出会った彼らこそが今も続けて会いに行く「おじさん」達である。
初めて会う相手に自己紹介をし、相手の紹介を受け徐々に打ち解けるというのがよくある関係の築き方ではあるけれど、ここでの流儀は少し異なる。「おじさん」達には、本名は明かす事による不都合や、ここに至った過去の情報を他人に明かしたくない気持ちを抱えた人々もいる。事情を配慮して、汎用的な呼称である「おじさん」を使えば、我々も、「おじさん」も、気楽にお互いの話が出来るようになれる。
これはA氏に教えてもらった、家を持たない人々と交流する上での基本である。おじさん達からしたら新参者のどこの馬の骨とも解らない夫婦の第一印象が「無礼者」であったとしたら完全にアウトだし、我々からしても本意ではない。おじさんたちの気持ちを慮ると過去に繋がる話を自分からはしない事が大切な事だった。
A氏はホームレス支援の活動として、インスタント食品や保存が可能な食材、周辺のパン屋、農家にて余らしたものをおじさん達に届けていた。これらの活動は不定期に、A氏の余裕がある時に行われているという事だった。
我々が同行したその時も、差し迫る暮の只中という事もあり更に冷え込む寒中に備え、厚手の靴下、年越し用の日本酒、作業にも使える軍手等、僅かに豪華な届けものを揃えていた。
食材と日用品を仕分けし、一人ひとりにその品物を配り歩くと、おじさん達は丁重にお礼をいいながら受け取り、特に中身を気にする素振りもなく世間話を始めるのだった。
A氏に案内を受け、「おじさん」達と交流を続けるうちに、どのひとも気さくなことに気づいた。
A氏からのアドバイスにもあったのだが、おじさん達はよく話す。話の切り上げどころが全く無いと言った具合だ。全員の話を聞こうとすると一日作業になってしまう。
失礼ながら、ホームレスの人々は声なき人々、つまり無口な存在と思い込んでいた私の想像との違いに驚きつつ、そのまま導かれるように彼らの住まいに上がらせて貰うと、家、竈、物干し、食料等を自前で賄っていた。
(おじさん達の家の棚の写真)
(おじさん達の竈の写真)
(おじさん達の物干し台の写真)
おじさん達は森や河川敷に個人個人が住みよい場所を作り上げている事も気づきの一つであった。
ダンボールや古布に佇む都会のホームレスの印象しかなかった私達には、おじさん達を今までの先入観にあったホームレスに括る事など出来ない。それほどまでの有機的な住むための場所が出来上がっていた。
突然現れた我々に当初の不安程は訝しげに思われる事もなかったのだけれども、逆におじさん達は我々が興味を持っている事に不思議がった。支援者としてのA氏のような人が現れる事はあっても、自分たちを題材として記事を書く為に訪問するような我々は物珍しかったようだ。
一人のおじさんが一台の自転車を見せてれた。そのやり取りが心に残ったのを今でも覚えている。
それはそれまでの日常では出会ったことの無い感覚で、おじさん達との会話であったからこそ気付くことの出来た、当時の我々の中にあった先入観だった。
自転車は誰しもが使える交通手段である。それはおじさん達にとっても同様で、荷を運び、移動したりと、色々と有用である。人から貰った自転車でも、不法投棄されてた自転車でも丁寧に手入れをし、慈しんでいる。
2台ある自転車のうちの1台はメンテナンス中ではあったものの、自転車の荷台にはプラスチックボックスが取り付けられ、雨に濡れることなく中にいれて物を運べる様になっている。フレームも塗り替えられ、綺麗に使い易くカスタマイズされていた。
おじさん達が不法投棄から見つけた物を使い勝手よく改造していた事に驚いていたのだが、それはそもそも我々の中に、ホームレスは所持品に対して綺麗さや使い勝手の工夫という要素とは無縁に違いないという偏見があることに気づかされた。誰であれ、自分が使うものは慈しみ、綺麗で使い良い方が自分も嬉しいはずなのに、その「誰でも」の中からおじさん達を除いていたのだ。私は恥じた。
このときは初回の訪問ということもあり、細かい生活状況やこれ以上の工夫について見ることはままならなかったのだが、この時のカスタマイズされた自転車を見た時のような発見は、それから以降もおじさん達を訪問するたびに様々な形で表れることとなる。
「家がない」ところから「生活を維持する為の工夫」という基盤に対して工夫をするという事に気づいた私達。
興味から始まったと言って差し支えのないこのプロジェクトであるが、A氏を介して田舎の河川敷で「ホームレス」という立場であれど、誰とも変わらず生活を営む為の術があることにきづき、
それまでの偏見と先入観にあったイメージの「ホームレス」と彼らの姿には大きく差異があり、この時の驚きはそれからも続く彼らの生活への興味と、知りたい欲求と、取材を通して人に伝えたいという気持ちを強くしていった。
車で一時間程でおじさん達の居住地に到着する。訪れるごとに違う世界がそこにあることに気づく。
おじさん達の暮らしは時間に縛られることもなく、さながら毎日続くキャンプかのような日々を過ごしている。
勿論中には決まった時間に起き、食事を取り、外回りをして身なりを整え寝るというおじさんもいるだろう。
家があれば営まれるだろうそのよう生活に、基本的な安心があることは否めない。
我々夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人々を3年継続して取材を続けられているのは、この安心が得られないような状況で、人がどのようにこのような異世界とも呼べる限界生活という状況に折り合えばいいのか、どう生きれば日々を些かにでも楽しく過ごせるか、そしてどうやって状況を脱していくのかを共に考えていきたいという気持ちからだ。
我々がおじさん達のような路上生活をする事は今の所考えていない。今のテクノロジーに囲まれた生活を手放して自分を保てるような自信は、まだない。
出来たらそのような日が来なければいいと思っている。おじさん達だって本当だったら同じ気持ちだったはずなのだ。
ただ、人生というのは何が起きるのか解らない。「今既に起きてしまったもの」を無かったことにするのは不可能だ。
その上で、家のない、おじさん達とともに過ごして得られた知見や工夫がどうにかして我々の生活と普遍的で同じであるかという事を探していきたい。
取材を始める前に我々が抱いていたような偏見や先入観を持った人々はきっと他にもたくさんいる。
今はお金があることによって支えられているこの生活は、病気や不運や失業や様々な事で覆される事があるかもしれない。家がないおじさん達は、お金のある安定と安心の生活からは程遠い。
不遇とも思われる生活を営んではいるが、人を驚かせ、惹き付けるだけの力のある変わらない人間だ。
おじさん達と同じ立場の人には見知らぬ人に暴力を振るわれ、犠牲になる人々もいる。何故わたしはそんな事が起きるのだろうといつも不思議に思う。
取材を通して彼らを「見知らぬ街のホームレス」から「不定期に会う家のないおじさん達」に見るようになった私達は
彼らが異質な別の生き物ではなく、同じ人間で生活する力を持つ、普通の人々であることにもっと目を向けてほしいと思った。
いま行っているこのプロジェクトと呼んだライフワークと今後の記事を通して、我々が彼らから学んだ世界を誰かに伝えることができたら幸いである。
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こちらの投稿のベースは昨日炎上したcakesの「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」https://cakes.mu/posts/31615(筆者;ばぃちぃ)の記事を基にしたものとなります。
筆者によるホームレスを魅力的なものとか過剰なまでの生活に対する華美な書き口が炎上の原因ではないかと仲間内でも話題になったのですが取り組みとしてはそんな批判を受けるようなものには思えませんでした。
これを描かれた筆者は更に若い中学生や高校生が、社会の偏見でホームレスという状態になられた方を悪く思わないように、もっと認識を高めて貰おうとあえて軽い書き口にされたのではないかなとか私は思うのです。
華美な要素(苦しい生活を魅力的と称する。覗き込む、警戒される、等異質のものと扱う表現、あえておじさんという呼称を修飾的に使うことにより、異質のものと分ける表現)を出来る限り排除して構成をほぼ変えずに再記述を行い、筆者の意図を勝手に汲み取り想像で改変し加筆を行ってみました。
夫婦でホームレスの取材をして3年ばかりの月日が経った。当初からその取材活動に疑問と懸念を投げかけてくる人々が跡を絶たない。考えてみれば当然だ。彼らが何故ホームレスという立場になったのか、百人百様の人生を得た末の今なのだろうが、想像するによい経緯は考えられない。世の中から忌避され、近づく行為は奇行と捉える人がいても不思議ではない。
現在は夫婦でこの取材に取り組んでいる私達ではあるが、このプロジェクトのきっかけは妻である私の原体験が基となっている。
20年以上前、新宿駅の地下街は家を無くした人々のダンボールの手製の住処がひっそりとは呼べないと程の規模で一つの社会を為していた。
今では考えられないであろう。身銭を稼ぐためだろうか、駅のあちこちから拾い集めた古雑誌を安値で売る者すらいた。
その日、幼い私は親に連れられそんな新宿駅まで来ていた。目に映ったのは、彼らの建てたダンボールの小屋だった。秘密基地の様相を持つそれらの簡易的な建立物に興味を持った私は見えない内側も確かめようと近寄ろうとすると、母に無言で引き止められた。その時の母の気色張った様相に、この場所で暮らす家のない人々は”近寄らざるべき人々”であり”場所”であり”社会”であった。
そのような記憶を留めたまま、大人になった私は街の角々で時折見かける彼らの姿に、違和感に近い興味を感じていた。禁止されればより気になるとはよく言ったものである。
これがホームレスと呼ばれる人達への取材を行う我々への疑問に対する返答と呼ばれたら、もう少し先の取り組みに進んだ今の私達には少し合わないものではあるけれども、この事が漫然とした興味であったことは間違い無い。
興味を持った以上、手始めに行ったのがインターネットの検索だった。自宅からそう遠く離れた場所では無い所でこの問題に取り組む人がいるのか、まずはそんな事を知りたかっただけかもしれない。
検索結果は田舎のホームレス支援を小規模で行っているA氏を叩き出した。何も知らない私達であっても、その道の活動を行うA氏を通じてであれば、家を無くした人々から警戒される事もないだろう。
2017年12月24日。A氏は我々をホームレスの方々への食事を支援する手伝いとして連れ出してくれた。その時出会った彼らこそが今も続けて会いに行く「おじさん」達である。
初めて会う相手に自己紹介をし、相手の紹介を受け徐々に打ち解けるというのがよくある関係の築き方ではあるけれど、ここでの流儀は少し異なる。「おじさん」達には、本名は明かす事による不都合や、ここに至った過去の情報を他人に明かしたくない気持ちを抱えた人々もいる。事情を配慮して、汎用的な呼称である「おじさん」を使えば、我々も、「おじさん」も、気楽にお互いの話が出来るようになれる。
これはA氏に教えてもらった、家を持たない人々と交流する上での基本である。おじさん達からしたら新参者のどこの馬の骨とも解らない夫婦の第一印象が「無礼者」であったとしたら完全にアウトだし、我々からしても本意ではない。おじさんたちの気持ちを慮ると過去に繋がる話を自分からはしない事が大切な事だった。
A氏はホームレス支援の活動として、インスタント食品や保存が可能な食材、周辺のパン屋、農家にて余らしたものをおじさん達に届けていた。これらの活動は不定期に、A氏の余裕がある時に行われているという事だった。
我々が同行したその時も、差し迫る暮の只中という事もあり更に冷え込む寒中に備え、厚手の靴下、年越し用の日本酒、作業にも使える軍手等、僅かに豪華な届けものをを揃えていた。
食材と日用品を仕分けし、一人ひとりにその品物を配り歩くと、おじさん達は丁重にお礼をいいながら受け取り、特に中身を気にする素振りもなく世間話を始めるのだった。
A氏に案内を受け、「おじさん」達と交流を続けるうちに、どのひとも気さくなことに気づいた。
A氏からのアドバイスにもあったのだが、おじさん達はよく話す。話の切り上げどころが全く無いと言った具合だ。全員の話を聞こうとすると一日作業になってしまう。
失礼ながら、ホームレスの人々は声なき人々、つまり無口な存在と思い込んでいた私の想像との違いに驚きつつ、そのまま導かれるように彼らの住まいに上がらせて貰うと、家、竈、物干し、食料等を自前で賄っていた。
(家の写真3枚)
おじさん達は森や河川敷に個人個人が住みよい場所を作り上げている事も気づきの一つであった。
ダンボールや古布に佇む都会のホームレスの印象しかなかった私達には、おじさん達を今までの先入観にあったホームレスに括る事など出来ない。それほどまでの有機的な住むための場所が出来上がっていた。
突然現れた我々に当初の不安程は訝しげに思われる事もなかったのだけれども、逆におじさん達は我々が興味を持っている事に不思議がった。支援者としてのA氏のような人が現れる事はあっても、自分たちを題材として記事を書く為に訪問するような我々は物珍しかったようだ。
一人のおじさんが一台の自転車を見せてれた。そのやり取りが心に残ったのを今でも覚えている。
それはそれまでの日常では出会ったことの無い感覚で、おじさん達との会話であったからこそ気付くことの出来た、当時の我々の中にあった先入観だった。
自転車は誰しもが使える交通手段である。それはおじさん達にとっても同様で、荷を運び、移動したりと、色々と有用である。人から貰った自転車でも、不法投棄されてた自転車でも丁寧に手入れをし、慈しんでいる。
2台ある自転車のうちの1台はメンテナンス中ではあったものの、自転車の荷台にはプラスチックボックスが取り付けられ、雨に濡れることなく中にいれて物を運べる様になっている。フレームも塗り替えられ、綺麗に使い易くカスタマイズされていた。
おじさん達が不法投棄から見つけた物を使い勝手よく改造していた事に驚いていたのだが、それはそもそも我々の中に、ホームレスは所持品に対して綺麗さや使い勝手の工夫という要素とは無縁に違いないという偏見があることに気づかされた。誰であれ、自分が使うものは慈しみ、綺麗で使い良い方が自分も嬉しいはずなのに、その「誰でも」の中からおじさん達を除いていたのだ。私は恥じた。
このときは初回の訪問ということもあり、細かい生活状況やこれ以上の工夫について見ることはままならなかったのだが、この時のカスタマイズされた自転車を見た時のような発見は、それから以降もおじさん達を訪問するたびに様々な形で表れることとなる。
「家がない」ところから「生活を維持する為の工夫」という基盤に対して工夫をするという事に気づいた私達。
興味から始まったと言って差し支えのないこのプロジェクトであるが、A氏を介して田舎の河川敷で「ホームレス」という立場であれど、誰とも変わらず生活を営む為の術があることにきづき、
それまでの偏見と先入観にあったイメージの「ホームレス」と彼らの姿には大きく差異があり、この時の驚きはそれからも続く彼らの生活への興味と、知りたい欲求と、取材を通して人に伝えたいという気持ちを強くしていった。
車で一時間程でおじさん達の居住地に到着する。訪れるごとに違う世界がそこにあることに気づく。
おじさん達の暮らしは時間に縛られることもなく、さながら毎日続くキャンプかのような日々を過ごしている。
勿論中には決まった時間に起き、食事を取り、外回りをして身なりを整え寝るというおじさんもいるだろう。
家があれば営まれるだろうそのよう生活に、基本的な安心があることは否めない。
我々夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人々3年継続して取材して続けられているのには、この安心が得られない時に人がどのようにこのような異世界とも呼べる限界生活という状況に折り合えばいいのか、どう生きれば日々を些かにでも楽しく過ごせるか、そしてどうやって状況を脱していくのかを共に考えていきたいという気持ちからだ。
我々がおじさん達のような路上生活をする事は今の所考えていない。今のテクノロジーに囲まれた生活を手放して自分を保てるような自信は、まだない。
出来たらそのような日が来なければいいと思っている。おじさん達だって本当だったら同じ気持ちだったはずなのだ。
ただ、人生というのは何が起きるのか解らない。「今既に起きてしまったもの」を無かったことにするのは不可能だ。
その上で、家のない、おじさん達とともに過ごして得られた知見や工夫がどうにかして我々の生活と普遍的で同じであるかという事を探していきたい。
取材を始める前に我々が抱いていたような偏見や先入観を持った人々はきっと他にもたくさんいる。
今はお金があることによって支えられているこの生活は、病気や不運や失業や様々な事で覆される事があるかもしれない。家がないおじさん達は、お金のある安定と安心の生活からは程遠い。
不遇とも思われる生活を営んではいるが、人を驚かせ惹き付けるだけの力のある変わらない人間だ。
暴力を振るわれ、犠牲になる人々もいる。何故わたしはそんな事が起きるのだろうといつも不思議に思う。
取材を通して彼らを「見知らぬ街のホームレス」から「不定期に会う家のないおじさん達」に見るようになった私達は
彼らが異質な別の生き物ではなく、同じ人間で生活する力を持つ、普通の人々である。
いま行っているこのプロジェクトと呼んだライフワークと今後の記事を通して、我々が彼らから学んだ世界を誰かに伝えることができたら幸いである。
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こちらの投稿のベースは昨日炎上したcakesの「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」https://cakes.mu/posts/31615(筆者;ばぃちぃ)の記事を基にしたものとなります。
筆者によるホームレスを魅力的なものとか過剰なまでの生活に対する華美な書き口が炎上の原因ではないかと仲間内でも話題になったのですが取り組みとしてはそんな批判を受けるようなものには思えませんでした。
これを描かれた筆者は更に若い中学生や高校生が、社会の偏見でホームレスという状態になられた方を悪く思わないように、もっと認識を高めて貰おうとあえて軽い書き口にされたのではないかなとか私は思うのです。
華美な要素(苦しい生活を魅力的と称する。覗き込む、警戒される、等異質のものと扱う表現、あえておじさんという呼称を修飾的に使うことにより、異質のものと分ける表現)を出来る限り排除して構成をほぼ変えずに再記述を行い、筆者の意図を勝手に汲み取り想像で改変し加筆を行ってみました。
結局、各学校が採用した端末というか、OSのシェアに関するデータはあるんだっけ?
国の補助金を使って、学校を舞台にこれまでと同様の大手ベンダー同士のシェア争いが展開されたようにしか見えなかったのだが、その後どうなったのだろうか。勝者はいたのだろうか。
GIGAスクールの話が始まったときから気になっていたのは、一人1台の端末が生徒のITリテラシーを高めると同時に、結局特定ベンダーのプロプライエタリな技術に依存してしまうベンダーロックインを国ぐるみで(国の金を使って)強化しているだけではないのか?ということだった。
Windows端末を全校で導入するにせよ、iPadを与えるにせよ、Chromebookにするにせよ、一私企業が作って所有している技術(知的財産)を使って何かをやることを子供に教え込むわけで。
iPadを与えられた中学生がいかに上手に、クリエイティブに使いこなしているか、みたいな話ばかりが話題になっていた記憶があるけれど、それって結局、iPad OSを使って何かをやるという考え方を教え込んでいるわけで。大人になるにつれてそこから離れることをかえって難しくしてはいないか。
つまり、特定の技術を使って客を囲い込んでいる私企業にたいして、今後どんなことがあってもお金や自分のデータを渡すことを疑問に思わない人間を育てているのではないかということ。
Wordが使えなければ仕事にならないから、デファクトスタンダードの技術を使いこなせるよう教え込むことが結局、子供のためになるのだという議論も成り立つように見えるが、問題の本質は同じだろう。
文書作成にWord「しか」使えない人間、そのことを疑問に思わない人間を増やす、つまりマイクロソフトの固定客を増やすだけではないのかということ。
台湾のオードリー・タン氏がタッチスクリーン式にしない電話をわざと使っているという話を最近読んで、特定のテクノロジーに依存しない、ベンダーに支配されない生き方とか考え方みたいなものを子供に早くから教えないと、今後大変なことになるんじゃないかと思った。
テクノロジーに依存しすぎず、一定の距離を保つ方法を学校ではどう教えているのだろうか、そもそも教えようとしているのだろうか。
自分も含めてだけれど、電車やバスの中でずーっとスマートフォンをいじっている人ばかりだということに気づくと、テクノロジーに依存しているということは無自覚、無防備で、ようするに教育を受けていないっていうことなんだよなと最近思う。
陰キャとして存在感のない中学時代を送っていた自分は当然そんなものに出る気はなく、出欠の返事すらせず葉書を何処かへやっていたのだが数年経ったあるときふと見つけた。
そこにはとある同窓会サイトのURLとパスワードが書かれており、何の気なしに開いてみたら開催された同窓会の写真が幾つか掲載されていた。
もうすっかり初老と呼べる姿になった担任の姿、殆ど雰囲気が変わらない陽キャ達に僅かばかりの郷愁の念を抱かなかったといえば嘘になる。
そのサイトには掲示板機能もあり、当時の出欠の連絡や交流の書き込みが残っていた。
懐かしい名前とその近況を流し読んでいたらふと目がとまる。子供がいるから欠席する、という連絡に対して幹事の陽キャが自分も子供がいて大変だみたいなことを書いているのだ。
それはそうだろう。別に何もおかしくもない。なのに、中学時代、スクールカースト上位として好き勝手に暴れていた陽キャが結婚して子供もいる。そんなのおかしくないか?真っ当に中学生していなかったような奴らがなんで?そんな疑問しか浮かばない。