はてなキーワード: 中国地方とは
各都道府県に割り当てられた議席数は、たとえば島根2議席、鳥取2議席で変わらないけど、中国地方全体で比例代表ブロックの議席が10ある。
たとえば島根の立場になって考えると、有力候補が圧勝してしまうと、惜敗率の関係で島根全体としての議席数は2止まりになっちゃうのに対して、うまいことギリギリの戦いにしてあげれば、島根県選出の議員は4名まで獲得できるわけだ。
これって県単位で見れば、自分たちの利益の最大化に繋がるんじゃないか?
2番手候補を当選させるのも気に入らないかもしれないけど、比例代表ブロック議席を鳥取県や広島県に取られてしまうのと、どっちがいいかな?
(追記)
ブコメで教えてもらった沖縄の例では、4つの選挙区で9人が当選してた(結果一覧)。つまり、たとえば33%付近で3者が競れば、1つの選挙区で3人当選できるってことやな。確かに。その意味では理論的には島根が比例の中国ブロックをすべて奪って合計12議席獲得も可能なわけだ。比例獲得議席1の弱小政党でも、惜敗率99.9%に調整できれば島根の候補が当選するもんね。
これ、N党とは逆の市民運動側の選挙ハックとして、どっかの都道府県で実現しないかな。一度でも極端な例が起きれば、そのまま放置されるはずのない問題だと思うんだけど。
中国地方民「なんじゃ、RCCじゃあないんかぁ😔」
はてな界隈では大学進学、東京で正社員就職、が人生の既定路線として語られています。
しかし現実には大学進学率は60%、東京の昼間人口は日本全人口の13%に過ぎません。
社会の底辺を占める人々をはてな民が認識していないのは社会の階層化が進んだ結果でしょうか。
底辺層も日々普通に暮らし、納税し、選挙では一票を持っています。人生の夢や目標があります。家族がいて子供を育てています。
と、大上段で書きましたが、本音は奨学金をめぐる小泉進次郎氏や河野太郎氏の発言を聞いて底辺層が理解されていない現状・軽んじられている現状に苛立ち、一旦吐き出したい気持ちで書いておきます。
他の党首候補の皆さんも同じですが、奨学金を借りる層を最底辺と思われている節がありますが、その下には借りることを諦める層もいるという話です。
先祖は父方母方共に学がありません。
明治から大正にかけては博打打ち、物乞い、自転車修理などをしており、ホームレスもいたそうです。
昭和に入ると建設作業員、工場労働、トラックドライバーといった職業に就いていました。
戦災や仕事のために西日本を転々とする中で、1991年(平成3年)に中国地方の片田舎でわたしが生まれました。
通っていた公立小学校は治安が悪く、男子生徒が徒党を組んで女性教諭に暴行を働いていました。いじめも多く、暴行や、習字の墨を顔にかける、アルコールランプで服を燃やすといった事件が頻発しており、小3から小6は学級崩壊状態でした。
わたしはイジメが怖いのでなるべく不良に関わらないように逃げ回っていました。昼休みは校舎の裏の木陰に隠れていました。
小6の算数は教科書が半分くらいしか終わりませんでした。この傾向は中学まで続きました。
地域には公営団地が多く所得の低い世帯が多かったため、半袖半ズボンがトレードマークとなっている生徒はわたしの他にも数名いました。
学級崩壊が継続していました。不登校が学年の一割ほどにのぼっていました。
中2の頃に母が体を壊して働けなくなり、経済状況が一気に悪化しました。
1日3食食べられなくなったので、給食のパンを持ち帰り夕食にしていました。土日やパンがない日は近所のミスタードーナツのゴミ箱から廃棄のドーナツを拾って食べていました。
栄養不足のためか、朝礼や体育の授業で倒れることが頻繁でした。
父が電気部品組み立ての内職を持って帰ってくるので、毎晩手伝っていました。ノルマは1日500個で、2時間ほどかけて作ります。家電メーカーに納入されていたとのことなので、皆さんのご自宅のエアコン、冷蔵庫などにわたしが組み立てた部品が入っていたかもしれません。
同級生のあいだではワンピースやハンターハンターといった少年漫画、マリオカートやポケットモンスターといったテレビゲームが人気でしたが、わたしは33歳の現在に至るまで一度も触れたことがありません。
給食がなくなったためミスタードーナツのゴミ箱あさりが毎日のルーティンになりました。なぜミスタードーナツなのかというと、家が近いことと、完成状態で捨てられていたためすぐに食べられたからです。たまに廃棄を入手できなかった日は別の飲食店をあたるか夕食抜きです。
「大学」という施設があることを高校1年生のときに知りました。当時知っていた大学は東京大学、慶應大学の2校です。なぜ慶應かというと当時「学校へ行こう!」というテレビ番組でco-慶應という学生ラッパーが活躍していたためです。
わたし自身が大学に行くかは分かりませんでしたが、文系・理系の選択で文系コースを選びました。
高校2年に上がると学校で全国模試を受けることになりました。毎回全国で2500番〜3000番くらいにランクインし、成績優秀者の冊子に名前が載りました。
模試を受ける際には志望校を記載することになっています。そのときに初めて知ったのですが、大学というものは全国各地に数百校あるらしいと分かってきました。
担任の先生は大学進学を熱心に勧めてくれました。「もしかしたら東京大学や京都大学にさえ進めるかもしれない」…と。大学進学すべきかわたしは迷いました。
担任や、数学の先生、英語の先生が私を放課後に呼び出して、食べ物や飲み物をくれながら、大学進学するように勧めてくれました。
しかしわたしは大学進学しないことに決めました。理由は一点です。
ましてや、実はわたしは既に借金を背負っていました。貧乏で公立高校の学費を支払えないことから、親が銀行から毎月1万円借りており、計36万円を私が将来返済することになっていました。
加えて、担任が試算してくれたプランでは学費(減免の可能性あり)、実家を離れて暮らす生活費が合計毎月10万円ちかくにのぼり、本当にわたしが想像できない金額でした。
学費は減免の可能性がある、最低でも半額は狙えるだろうとか、大学進学により生涯所得がうんと大きくなるといったことを教えてくれました。しかし中学生の頃からミスタードーナツのゴミ箱をあさったり電気部品の内職をしているわたしにとっては現実感のない話です。
想像できないほどの金額を返済できるのか。大学進学したとして就職でつまづいたらどうなるのか。この展望を全く持てないために大学進学しないと決めたのでした。
大学進学しないことを決めると、担任の先生が表計算ソフトの教本を無料で与えてくれました。放課後に情報室のパソコンで練習しました。
高卒の就職活動はなぜか一社しか志望できないというルールが当時あり(現在も「一人一社制」という名前でルールが残っているようです)、わたしは地元の和菓子屋に接客・兼・事務として就職しました。1学年440名中就職は2名で、他438名は大学等への進学という比率の高さに驚いたことを覚えています。
その後父母が鬼籍に入ると、わたしは実家を離れていくつもの会社を転々としています。今では全く別の職業で生活しています。
身軽になった今、あのとき大学進学していれば違う人生があったのだろうかと想像することがあります。
わたしに借金を背負う覚悟がなかったといえばそれまでですが、やはり当時のわたしには覚悟は不可能だったと思います。未成年ができる決断ではない。
河野太郎氏は大学教育費を親負担ではなく本人負担に変えよと述べましたが、貧しい世帯は既に生活費も含めて全額本人負担です。むしろ本人が負担しきれないことが問題なのです。
小泉進次郎氏は必ずしも大学進学の必要はなく手に職を付けよと述べました。しかし転職の多いわたしが言うことでないかもしれませんが、手に職系の仕事も簡単ではありません。
大抵のひとは5年〜10年も同じ仕事を続ければ成長が止まります。しかも年齢を重ねると体に無理が出てきます。かといって独立して料理人が自分の店を経営するとか、建設作業員がひとり親方として営業していくには「手に職」と別種のスキルが必要となり、現場の人間のうちそれができる者は一握りです。
残された道は若手・外国人材・機械化との低賃金チキンレースです。
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はてなブックマーカー三巨頭のダイダラボッチさんと、ブクマカの良心であるミヤウチさんからコメントをいただきました。
望外のしあわせです。あの世に行ったら自慢しようと思います。ありがとうございました😊
(以下本文です)
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私は62才である。とある地方都市で、公務員として約36年働いてきた。生まれ故郷だ。
地元、そう、本当に地元だ。保育所から高等学校まで、ずっと地元である。(地元にある大学で行きたい)大学はなかったので、大阪府内に進学することになったのだが。
それから民間で三年ほど働いて、地元の市役所の採用試験を受けて入庁した。
いいことも嫌なこともたくさんあった。思い出深い職場である。時間が過ぎるのはあっという間だった。
ずっと土木建築の仕事をしてきた。道路造りに、水道に、都市計画に、施工監理に……少しの間だが、まちづくりの仕事もした。思い出が蘇ってくる。もっと写真を撮っておけばよかった。
本題である。定年延長により、公務員の定年退職はしばらくの間、2年に1回になっている。
私が定年になったのは61才になる年度である。民間企業は誕生月に退職になるのが一般的だが、公務員の場合は年度末まで在籍できる。
今年の3月末をもって分限退職の辞令を受け取り、退職日には労働組合の行事で退職者一同での職場巡りを行い(※有給である。有給が残ってない人は人事がわかってて見逃してくれる)、最後は市長のポケットマネーで退職者のための小宴会が催され、皆それぞれに挨拶をして――私を含めた有志は、翌年度からも再任用(あるいは再雇用)されて働き続ける――はずだった。
タイトルにあるとおり、私は再任用の対象にならなかった。再雇用もNGだった。
2023年の秋頃だったか、再任用の希望票を人事に提出した。その後、返送されてきたのは「再任用は不承認」なる文言の書かれた通知が1枚だけだった。
理由によると、総合的な事情により再任用できないらしい。同じ階にある労働組合の職場委員会を通じて確認したところ、この階の職員だけでも数名が再任用されなかったということだ。
民間企業では、「雇用と年金の接続」という観点から、年金が支給となる65才まで退職者を継続雇用する義務がある。例えば、60歳定年制を採用する企業の場合、65歳までの再雇用は法律上の義務であり、再雇用拒否は原則として違法である。
では、公務員の場合はどうかというと、こちらも原則として再任用をすべき~という旨の総務省通知が平成25年3月に出ている。
内容を要約すると……
「公的年金の報酬比例部分の支給開始年齢が段階的に60歳から65歳へと引上げられることに伴い、無収入期間が発生しないよう国家公務員の雇用と年金の接続を図るとともに、人事の新陳代謝を図り組織活力を維持しつつ職員の能力を十分活用していくため、当面、定年退職する職員が公的年金の支給開始年齢に達するまでの間、再任用を希望する職員については再任用するものとすること等を内容とする閣議決定をした」
ということだ。
【参考URL】
https://www.soumu.go.jp/main_content/000216510.pdf
http://www.rilg.or.jp/htdocs/main/houmu_qa/2015/43_winter02.html
ただし、この通知はあくまで国から地方自治体への技術的助言であり、法的効力があるわけではない。
組織からその価値がないと判断された職員だと、再任用はされないことになる。
私は、36年間ずっと、このまちで働いてきた。
そこまで目立たない中国地方の地方都市ではあるが、このまちが気に入っている。
できれば、ずっと働きたい、もっと働きたいと思っている。
労働組合に上記の再任用拒否を相談したところ、今後の団体交渉前の当局とのやり取りにおいて、本件に言及いただけるとの回答が執行部からあった。だが、望みは薄いようである。こういった当局の対応は、何年も前から続いているからだ。
市役所にとって不要な人材は、再任用(再雇用)しない。それが人事当局の方針である。
私は怒りやすい人間であり、周囲に迷惑をかけたこともある。若い頃は上司と反りが合わず、反発して死のイベントを無断欠勤したことがある。なんてことをしてしまったんだろう。あのイベントに出ていればよかった。
日常の仕事においても、市民や業者と言い争いになることがよくあった。
感情の振れ幅が大きく、職場の人に迷惑をかけた。用地買収の仕事の時にも、地権者との交渉がうまくいかなかったのは私のせいである。
査定が低かったのは間違いない。でも、私は私で、このまちが好きで市役所職員の仕事を続けていた。もうちょっと働いていたい想いがある。
仕事とは別の方面になるが、二十代の頃からずっと組合活動をしていた。
土木建築の職場委員会はずっと仕切っていたし、反核の平和の火リレー、メーデー、自治労の定期大会その他の行事などは、40代になって体にガタが出るまで前線に出ていた。
平和の火リレーの時は、市立総合体育館の前にある大きい道路をまっすぐに進んでいったっけ。本当に懐かしい。
一番、血気盛んな時期だと……国と県が合同で実施する泊まり込みの研修があった時、私が朝のラジオ体操時の国旗掲揚係になった時だった。私は、つい大声で主張したのだ。自分の平和にかける想いを。
あの時は、江田島にあった国立青少年自然の家だった。集会室での私の言葉は、十数年前の日記に確かに記録してある。
「皆さん。申し訳ありません。これは研修中の職務ではありますが、私は日本国旗を掲揚する係にはなれません。太平洋戦争を引き起こし、被差別部落問題を長年放置してきたのは日本政府です。人権侵害の象徴である、その政府が作った国旗を掲げることは、平和を愛する者として到底できないのであります!」
と、研修参加者50人以上の前ではっきり告げたのだ。これは、当時の労働組合における一般方針のひとつであった。
今では思う。広島県全体の研修の時なのだから、この時ばかりは組合の方針に反してもよかったのではないかと。
実際、研修が終わった後で人事当局に呼び出された私は、総務部長から「増田さん。悪いけど辞めてくれるか?」と言われた。国か県かはわからないが、クレームがあったらしい。
だが、やはり血気盛んだった頃の私は、組合にも相談したうえで、基本は一人っきりで人事当局と戦った。少しばかりは助けを求めたこともあったが。
最終的に、処分ではなく厳重注意に留まった。組合が助けてくれなかった場合、本当に辞めされられていた可能性がある。
私が悪いのだ。私は仕事に対して真摯に向き合ってきた。本気でやってきた。それでも成績が悪かったのは事実であり、その時期の上司の方々の温情に賜れたことに感謝している。
仕事は本気でやっていたけれども、周囲への配慮が足りなかった。令和になっても、今でいうパワハラみたいなことをしていた。
あの時、いつだったか。令和元年のことだ。
税務の子が当時、私が働いていた施工監理(兼庶務管理)の部署に来ることがあった。土地の課税評価のことで、私が依頼していた文書を届けにきたのだ。
その文書には誤りがあった。その時、私は怒鳴ってしまった。今でも反省している。後悔の念を込めて、できうる限り思い出してみる。
確か、私はこんなことを言った。
「お前、まちごうとるぞ。小字(こあざ)がなかろうが、字がっ!! なしてないんならあ、おい」
「え……どういうことですか」
「水吞町だけじゃなかろうが、さらに、その下に水~(※龍だったかもしれない)という小字の名前がなかろうが」
「すいません、つけ忘れました。打ってません」
「なんでそんな大事なもん、付けわすれるんならあ、おい」
「すいません」
「お前、法務局にこれ出してみろやあ~、恥ずかしいどお!!」
「ごめんなさい……」
恥ずかしいのは私の方である。若い子に対して、こんなに失礼なことを言ってしまった。
その次の週に同僚から聞いたのだが、その女の子はうつ病になり、職場に来ることができなくなったという。
元々、抑うつ気味で元気がなかったらしい。私が怒鳴った金曜日だけでなく、土日にあったイベントでも動員があり、その子は仕事ができず辛い思いをしたという。
ただ、私にも原因があるのは明らかである。本当に申し訳ないと思っている。
その子は、労働組合を通して聞いたところだと――翌年に単純事務労働として税務の仕事に復帰したが、なかなか調子が戻らず、結局は新卒2年目で退職したとのことだ。
仕事でヘマをしてるだけだったら、まだ再任用されたのかもしれない。
しかし、それだけではない。私が他者の信頼を損ねる行為を繰り返したからこそ、こうなったのだ。
できれば、今からでもまた市役所で働きたいよ。でも、その資格がないことも重々承知している。
たとえば今、私は市役所で働いていた頃の思い出を書いてるけれども、守秘義務に反している可能性がある。それでもいい。罪があれば償おう。これも責任の取り方というものだ。
私は罪を犯した。犯し続けた。それで再任用されなくなった。仕事人生の責任を、こんな最悪なかたちで取ることになった。
あれは今年の1月だったか。後輩と一緒に現場に出るため、廊下を歩いていると、部長級の職員が前からやってきた。
その人は、正面にいた私に向かってこう言ったのだ。
「なんや増田。お前、まだ辞めとらんかったんか。はよお、辞めろや!!」
後輩が見ている前で、こんなことを言われてしまった。恥ずかしかった。
だから、こんなことになっている。
最終勤務日のことだ。
労働組合が主催する職場巡りの会が終わり、最後に職場に帰って、デスクに座ってしばらく待ち、定時を迎えた時のことだ。
定時のチャイムが鳴って、2~3分くらい後だったか。私は、カバンを抱えてまっすぐに職場を出た。
事務所にいた同僚連中には、「じゃあの~」と軽快な口調でさよならを言った。みな、私に「お疲れ様でした」と返してくれた。
しかし、ひとつだけやっていないことがあった。最終勤務日の前日、職場の親睦会の若い幹事職員に言われたのだ。
「増田さん。最後に僕が花束を渡すので、退職スピーチをお願いします。その後記念撮影をしますから、残っておいてくださいね!」
と、しっかり伝えられ、私はOKの返事をしている。
にもかかわらず、こんなことをしてしまった。チャイムが鳴ったら逃げるように、すぐに家に帰ってしまった。
スピーチなどしたくなかった。再任用されなかったこんな私がスピーチをしても、恥ずかしいだけだと思っていた。
自分に負けたのだ。彼の思いに応えられなかった。
最後になるが、もし増田の利用者の方で思い当たるフシがある方は、どうか職場では自重してほしい。
他者の信頼を損ねる行為ばかりしていると、私のように情けない老後を過ごすことになる。この日記がひとつの警句になってくれたら望外の幸せである。
明日からは、またはてな匿名ダイアリーのイチ利用者である。また面白い日記、楽しい日記をたくさん読んでみたい。
ありがとうございました。
ハーァっ
と言うレベルで考えてみた。
https://www.cinemastyle.jp/feature/13454/
これを見ると、増田は東北の県か、中国地方の山陰地方、あるいは四国では無いかと推測できる。
次がスタバだが、スタバは実は全国にある。しかし、Google Mapでマップにしてみると、かなり偏在していることがわかる。
その最も偏在している所は、高知県だ。高知県はスタバがあるが、全て高知市なのである。
さらに、実は映画館も高知市にほぼ全てがあり、それ以外に立地しているのは1館だけなのだ。それも特殊な映画館らしい。
https://resas.go.jp/traveltime-city/#/map/13/13101/0/0/8.090994532220593/35.66837571/139.5558413
と言うものがあって、これで調べられる。
高知県高知市から東京は、飛行機を使って4時間、使わないと8時間かかる。最寄りの4大都市圏大阪府までは電車で4時間弱のようだ。
これは実は全国これぐらいの場所はいくらでもあるので、最寄りの中核都市、高知の場合は高知市からの時間的距離をみてみる。
すると、おもしろい事がわかる。それは、高知市に隣接している市町村から、高知市にいくのに、既に1時間以上になっているのだ。
まぁ、市がでかいので時間がかかってるだけで他にもあるじゃんねとといえばそうなんだけど。
一口に田舎と言っても地域ごとに色々なレベルがあるのだと思うが、スタバと映画館画ないと言うのは、つまりは県庁所在地レベル以外の都市に該当するのではないか。
また、こんな資料がある
https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001389684.pdf
まぁ最初からこれを出せよという事だが、スタバや映画館が存在するには、人口13万人ぐらいいるそうだ。これはその市町村が、と言うより商圏でそれぐらいとなる。
『King&Prince出演の花火大会 終電が…新山口駅に帰宅困難者』https://mainichi.jp/articles/20240523/k00/00m/040/073000c
JR西日本の職員がとんだとばっちりで大変気の毒なのだが、そもそも何でそんな大勢の帰宅困難者が出たのか。山口きらら博公園にイベントのサイトがあったので見てみたが、公園の駐車場は開催日の前後数日から一般利用が禁止されていて、周辺の道路渋滞の予測も告知されている。まぁそもそも夜の開催なわけで一般車両とバッティングして渋滞したわけではなさそうな気がする(まあ現場にいたわけじゃないから断言はできないが)。
https://www.kirara-memorial-park.jp/event/2024021400454/
数万人のイベントの規模感って分からんなーと思ってちょっと考えてみた。計算や論理がおかしかったら誰か教えて。
動員は約3万人とあったので、全員をバスでどこかの鉄道駅に連れていくとしたら観光バス1台に補助席入れて60人乗ったとして延べ500台の車両が必要になる。路線バス用のバスを用意していたなら80~100人/1台程度で延べ300台だが、地方都市で100台単位の路線バスを1日手配都合できるとは思いにくいので、まぁ一般的には周辺の観光バス屋さんなどから貸し切りバスをかき集めるのだと想像する。
記事には『広島、博多、岡山、小倉行きのバスや、約10キロ離れた会場と新山口駅を結ぶシャトルバスを準備』とある。
会場から新山口駅までは、渋滞を考慮しないGoogleMapルートだと車で15~20分と出る。ところが渋滞考慮すると40分。この辺の読みが甘くてピストン輸送が間に合わなくなっていたのか?。そもそもピストン用バスの手配数が足りなかった可能性もあるかなぁという気もする。そもそもそんな数のバスが手配できるんだろうか。
広島、博多、岡山、小倉行のバスは高速バスだろう。博多、広島までは約2h、岡山は3.5h、小倉で1.5hぐらいだろうからピストンは難しい。手配するとしてせいぜい1か所あたり5~10台ぐらいだろうか。仮に4か所に10台ずつ手配をしたとして、と考えると、高速バス行先4か所×10台×50名=2千人で割と焼け石に水感がある・・・。
なのでまぁ希望的観測として、高速バス手配については、広島・博多30台、岡山20台、小倉50台=計100台で考えてみようと思う。高速バスの手配自体はおそらくそれぞれの行先のバス会社で手配するだろうから比較的何とかなりやすそうだ。
で、この場合でも「高速バスで脱出組」は5千人。うーんまだまだ焼石に水。
そしてこの仮説、5千人を運ぶ100台のバスが公園の駐車場から順番に連なっている、と考えるとすで駐車場を出るところでフン詰まりが起きてそうな気配もある。バスの全長12m、前後の車間考えて14m×100台=1.4kmだし。
気を取り直して、取りあえず「高速バスで脱出組」を5千人と仮置きして、残り2.5万人を新山口駅までピストン輸送する必要があった、と仮定する。
1便60名を輸送可能と考えた場合、必要な輸送便数は417となる。丸めて420便。
ピストンバスを100台用意したと仮定した場合、1台のバスが4.2往復する必要がある。まぁ切りよく5往復をノルマとする。
20:30の終演直後に第1便が出発して、戻ってくるまで往復30分(片道15分)の最短・無渋滞で行けたとして、最終の5便目が出発するのが23時なので、これは実際は終電に間に合わない人が確実に出そうな仕様である。
そこでピストンバスを200台用意したと仮定した場合だと、1台のバス往復ノルマは2往復なので、これなら余裕が出るが、そもそもピストンバス200台+高速バス100台の計300台が公園の駐車場から脱出するだけでも相当な時間がかかってそうである。公園の出口にはバイパスと交差する信号があり、公園から新山口駅に向かうには右折が必要になるのでこのルートだと更にBadである。
そもそも乗客はバスの乗降にどうせモタモタしやがるだろうからプラス10分ぐらいはあろうし、実際に片道15分でピストン輸送ができるわけがない。
更に、山口県のバス協会のHPで見ると、協会加盟企業の貸し切りバスの合計数は200に満たない。まぁこれは近隣のバス会社からかき集めれば何とかなるが、割高にはなるだろうしこの運転手不足のご時世にどこまで手配できただろうか、と考えると。うーん。
記事には『駅で警備に当たった男性は「自分が到着した午後11時にはすでに1000人くらいはいた。JRの職員が支援物資を全員に配り回っていた」」」」」 』とあって、そんなにこぼれるもんかねーと思ってたが、実際はもっといたんじゃないか…。現場の職員さんや警備員さんたちも本当にご苦労様でしかない。
イベント主催会社は中国地方のイベンターらしく、サイトを見てもそこそこ大規模なイベントをやっている。こなれてないわけでもなさそうではある。また、この花火イベント自体は幕張のZOZOマリンスタジアムでも開催済なのだがその時にパニックが起きたというニュースはないので(https://www.kingandprince5th.jp/fireworks2024/)今回は、もうとにかく「なんでそんな場所で、夜のイベントなんてやったんだよ」という話な気がしてくるが、まぁ病気とか怪我した人とか「パーナさん事件」みたいなパニックにならんくてよかったですね。