はてなキーワード: 三段論法とは
文章をよめばわるかと思いますが、私は頭がありまよくないです。
加速する可処分時間奪い合い競争の中において、睡眠時間を確保するためには漠然とした「ちゃんと寝なきゃなあ~~~」ではもう無理です。
「私は、何時間寝たい」 →
「私は、いつも何時に起きる」 →
この三段論法によって寝る時間と起きる時間をコントロールしていかなければ、理想的な睡眠時間の確保は不可能です。
学校の授業が前もって何時に何をやるのかが決まっているのと同じように、自分の人生において前もって「夜の何時~朝の何時までは寝る時間」と決めておく必要があります。
その時間に推しの配信があろうが関係なく、寝る時間だから寝るという絶対的なルールを定めていく。
もしも入試の日と推しのLIVEが被ったとして、貴方は入試をスッポかしますか?
本当に人生の全てを捧げる覚悟があるならスッポかすという選択もありますが、そこまでの覚悟がないなら入試を優先するべきですよね?
それぐらいの気持ちで「寝る時間は前もって絶対的に決まっている」という気持ちで日々を生きることにしていました。
同級生の中には様々な理由で生活リズムを乱していた人がいましたが、そういった人達とは基礎的な体力や健康状態の面で圧倒的優位に立っていたと思います。
ぶっちゃけ単なる有酸素運動は毎日の通学時に少し早歩きしていれば勝手にハァハァ息が上がってくれるので十分だと考えています。
ですが単に早歩きしただけでは痛めつけ方が足りない筋肉達が元気を持て余し身体のリズムがおかしくなっていくようです。
私は帰宅部な上に体育の授業も積極的にサボるタイプだったので全く運動せずに高校生活の前半を過ごしましたが、段々身体の調子が悪くなっていくのを感じました。
何より、いざ基礎体力が必要になった時に全然力が出ないんですよね。
椅子にいつもよりも長く座るとかそういうことさえ難しい。
ネットでHIITを調べてそれを実行するだけです。
ただ、タンパク質を取らずに筋トレだけすると筋肉痛がヤバイのでプロテインを飲むことにしました。
私は親がジムに持って行く分のプロテインを拝借していましたが、家族からプロテインを分けて貰えない人は自分で買う必要があるでしょう。
学生の金銭感覚だと高いですけど、社会人が健康維持に使う経費としてはかなり安いと思うのでプロテインはちゃんと飲みましょう。
他人に褒めてもらうことを期待して生きていると意外と上手くいきません。
頑張って成績を上げても親は段々と「よく分からんが、ガチればこれぐらい出来るもんなんだろう」みたいな感じで「そうなんだ。すごいね」で終わらせてくるようになります。
1年・2年と続く受験勉強を日々積み上げていく中で「B判定が出たよ。頑張ったね」なんて薄っぺらい模試の結果にだけ一喜一憂するだけではモチベなんて維持不能です。
定期的に「凄いな。ちゃんと勉強してるぞ」 「今日は委員会活動サボらなかったの偉いなあ」 「筋トレ毎日続いてるとか、帰宅部で一番健康なのお前だよ」とか褒めてやります。
「1 ちゃんと寝る」の中で寝る時間を決めていると書きましたが、寝る時間を決めても中々寝付けないときがやはり出てきますので、そういうときがチャンスでした。
ベッドにいるけどいまいち意識が遠のかず、かといって起きて勉強なんてしたら生活リズムが乱れてしまうという状態を、「自分を褒めちぎってやるのに丁度いい時間が出来た」と解釈するわけです。
電気を消した部屋の中でぼーっと天井をみながら「今日も3食残さず食べたなあ」「毎日学校行くって案外大変だけどちゃんとやってるなあ」「毎日風呂で丁寧に身体洗ってるから清潔だなあ」といった今更誰も褒めてくれないし他人から褒められたら困るようなことまでひたすら自分を褒め続けます。
「他人から言われたら皮肉にしかならないけど、それをやるのに全く何の苦労も一切ないわけではないもの」というのは人生に山ほどあるので、そういった「自分で褒めるしかないもの」をひたすら褒めて心をメンテしてやりました。
こういうのってジワジワと自尊感情に効くらしいんですよね。
うつ病になった人なんかはこれと同じことを毎晩積極的にやれって医者から指示されたりするとかなんとか。
私はメンタルがまだまだ健全なので、タイミングがいい時に数週間分まとめてやってしまってますが。
重要だと思ったことを上から3つ挙げたら見事に勉強と無関係になりましたね。
受験勉強って結局のところは「モチベの維持が難しい長期戦」なわけで、そこで大事なのは如何にして心身のメンテを行うかなんですよね。
勉強の内容自体は究極は教科書と過去問だけひたすらやってれば何とかなるとも言われてますし、あとは如何にして集中力と時間を確保し続けるか。
要するに「心身の健康維持」 「勉強時間確保」を先に固めてしまうのが大事で、そっから先は個々人が好きなように気晴らしを選べばいいだけだと思うんですよ。
自由時間はひたすらゲームやるでも、部活に専念するでも、そこでの時間の使い方は大事じゃないっていうか。
そもそも勉強の方法も脳のタイプが人によって違うから他人のやり方は参考にならないっていう話もありますからね。
というわけで、私としては1に睡眠、2に筋トレ、3に自分を褒めるの3つが東大現役合格できた理由なんだろうなと思ったわけですな。
うん。
頭わそるうな文章だな本当。
こんな愚かなことをしている奴がいる
↓
もちろん俺はそんな愚かなことをしていない
↓
つまり、俺は少なくともソイツよりは優れているってこと
それを何回も積み上げることで、「えー、俺くんってそんなに色んな人より優れているってことは~~~実は結構すごい人なんじゃないの~~~~」って言われたくてしょうがないの。
ダッセ・・・。
そんなら最初から「俺って色々凄いところあるんだよね。たとえば握力とか50kgあって~~これ成人男子の平均値から10kgも高いんだよ~~~」みたいなしょーもない自慢でいいから直接やれっての。
まあそういう自慢のネタさえロクに持ってないから「底辺よりはマシ」をいくつも積み上げていって、なんとかかんとか「もしかして凄い人なの?」を相手の口から引き出そうとしてるんだろうな。
「俺実はAPEXでプラチナ1でもうすぐダイヤなんだぜ~~~」って自慢して相手が「そうなんだ~~私はダイヤ2でもうすぐダイヤ1なんだ~~~」って返されたらプライドボロボロだもんねしょうがいないよね。
まあ結局そこでさ「え!マジで!身近にこんな上手い人がいるとか感動した!」って方向に進んで「素直に人を褒められる俺すごくね?」でも試してみればいいのに、どうせこういう奴は自分の思い通りにいかなかったことに対してプルプルするだけで場が凍りつくんだろうなー。
そういう人間なりに色々学習した結果が、「人の悪口を言いまくれば自分は安全なままで、なんかちょっとだけ上等な人間っぽく振る舞えるっぽいぞ」っていう悲しいぐらいにしょーもない処世術なんだろうな。
ダサすぎんだろ・・・。
憐れだわ。
実はさ、職場にいるんだよ。
ソイツの何がキモいって、自分に逆らえないぐらいの若手を捕まえて延々々々謎の悪口につきあわせて「マジっすかー!世の中クズばっかですねー!」とか「それもネット情報っすかー!どこで仕入れるんすかそんな面白い話ー!」とか相槌打たせてるのがまー見ててダセーんだわな。
何がダセーって新人が愛想笑いしてるのみて本当に嬉しそうに「おっ!俺の話受けてる!」みたいに調子こいてるところが、本当に何もないオッサンの末路だなあって。
1ヶ月半でリタイヤwwwwアホやwwww
毎月14300円が不要になった、大儲け
そもそも公文など行かせたくなかったのだが本人がどうしても通いたいというので通わせた。
「勉強なんて小学校でやらされるんだから数ヶ月早くやっても意味はない、勉強なんて楽しいものではない、嫌な事など先送りすればいいじゃないか、今は好きなことして日々過ごせば良かろうゲームでもしてなさい、公園で走り回ってりゃいいのだ」と説得したが。
どーしてもと押し切られた
一つだけ注文をつけた、宿題を一度でも落としたら退会
しゅーりょーwwwwwはやっwwww
連日、「宿題したら?」「毎日ちょっとずつやりな」とアドバイスはした
何度も警告したがゲームを辞めない
16時になりようやく始めた
「こんなもの、ちゃちゃちゃーと終わらすでぇ」言うてる
だがお喋りと脱線ばかりで進まない
「集中してやりな」とアドバイスしても聞かない、むふふふふ、時間は刻一刻過ぎていく
まぁすでに間に合わないことは確定している
17時10分、ようやく国語が終わる
「パパ次は算数、出して」
「いいけど、やっても無駄だよ、もう時間過ぎたから公文は退会だから」
唖然とする息子
「え?今日は行かないって事?」
数秒考えて、大泣きし始めた、絶叫
「行きたい、まだ間に合うでしょ!お願い!」
うっせぇバカwしらんがな
「毎日少しずつやるようにアドバイスしたよね?今日もずっと注意してあげたよね?聞かなかったの誰?間に合わなかったら退会するのも最初から言ってたよね?
んで、忘れてもらっちゃ困るんだけど、あなたの希望する教育機会、チャンスは与えた
だけどやらなかった、チャンスを捨てたのは自分な、これはだけは覚えといて
先々、勉強したかったのに親がやらせてくれなかった、とは思わないでね、これ重要
パパは無理やりやりたくないことをやらせるつもりはない、自分が望む事をやりゃいい
ゲームしたけりゃゲームしてなさい、だけど目も頭も悪くなることは教えてやるが
それをどう判断するかは自分の問題、強制はしない、自分で考えて選択してくれ
公文に行きたいと言えば行かせてやる、だけど金をドブに捨てたら自動的に頭が良くなるわけではない、それも何度も教えた、頭良くなりたけりゃコツコツ学習しなきゃ身につかない、
それができないならやっても無駄だ、終わり、チャンスはやった、キミがそれを棒にした、それだけ覚えといて、人のせいにしないでね」
6歳の知能では言い返せまいw
諦めて泣き止んだ
公文やる前から足し算引き算は勝手に習得していたし、掛け算、割り算の概念もすぐに理解した
外遊びでも器用だし異常に体力がある
結果、万能感、自信過剰、ナメてる
小学校入学し、周りが先に進んでおり世界が広い現実を目の当たりにして挫折するが良い
その方がキミのためだ
時間や約束は守る、守れなかったら自分に大きな不利益を被る、わかったか?そういうことだ。
28600円で学べたと考えりゃ安いものだ
これは趣味でほそぼそとマイナーVTuberの切り抜きをガイドラインにしたがって作っている人間の怪文書です。
登録者数も再生数も少なく最初から収益化していないので今回の件で直接損も得もしていません。
もしかしたら、大手切り抜き動画作成者(以下、文字数節約のため「切り抜き師」)がやめればPVが増えるかもしれないけど、あまり歓迎できる気分ではありません。
関連リンク
YouTube公式から「切り抜き動画は全てプロモーションであり、ポリシーに反する」という見解を受け取りました
https://www.youtube.com/watch?v=U1RLf4qqBG4
https://togetter.com/li/2397403
言っていることは尤もで、それに納得しているブコメにも共感できます。
しかし、切り抜きが元動画のプロモーションであるという理屈を拡大すれば、ゲーム実況そのものがプレイするゲームのプロモーションであるということもでき、すべてのゲーム実況から収益化剥奪の道筋も立つのではないでしょうか。ちなみに上記Togetterのコメント欄でもnekodaisuke1って人が近いことを言っています。
YouTubeが切り抜きの収益化をなくす代わりに、ゲーム制作会社にその分の広告費を支払うのだったら、個人的には素晴らしいことだと思うのですが、実際には切り抜き師から収益を剥奪しただけに留まっています。
いずれは配信者からも収益化を剥奪し、ゲーム会社への還元も最後までないのではないかとの疑念を覚えます。
YouTubeには大量の動画がアップロードされており、私のような収益化されていない再生数数十の零細切り抜きもたくさんあります。収益化を剥奪されてやる気を失った人の切り抜きが上がってこなくなったとしても、そのような切り抜きが上がってくれば結局貴方の不満は解決しません。
YouTubeのアルゴリズムが切り抜き動画を次々と紹介してくることが根本的な問題であるのに、プラットフォーマーを批判できず矛先を切り抜き師に向けているように見えます。目先のコロシアム残酷ショーに快哉を叫んでも刹那的なストレスが解消されるだけで、大元のストレッサーをもたらす全体的な状況は悪い方向に進んでいく恐れがあります。
実はFC2においてアダルトな配信をするAVtuberが次々にBANされるという出来事が少し前にありました(参考https://x.com/RyuzenNikomi/status/1804499546048995475)。現在はAVtuberたちは韓国のRPLAYというところなどに避難しています。FC2においては中の人が成人女性であってもアニメのガワを使えば全てロリということで絨毯爆撃されたようです。
どうもクレジット会社を経由して、「成年向けゾーニング」のバリアを「ロリだから問答無用でイリーガル」の論理で突破することを覚えた人たちがいるようで、更に「アニメ絵=ロリ」すなわち「アニメ絵=イリーガル」の三段論法が通用し始めている気配を感じます(被害妄想成分多め)
YouTubeにおいても最近またVtuberのASMRのBANが頻発しており、当面のASMRを避けるようになったVtuberも出てきています。ちなみにちょうど2年前にもVTuberのASMRのBAN騒動がありました。
YouTubeとしても一緒くたにロリコンテンツだとレッテルを貼られて攻撃されかねないVTuberと距離を置きたがっているのではないでしょうか。VTuberのスパチャ収益が大きいと言ってもVTuber事務所はグッズ販売やライブチケットなどでYouTubeを迂回して利益率を高めることに熱心なので、将来的には配信させるメリットよりデメリットの方が大きくなるとYouTubeが考えていても個人的には違和感がありません。
しかし、VTuberが動画配信サイトから追放を繰り返された場合、最終的にはロシアなどのサイトでビットコインを使って有料配信を行い、その収入の一部はウクライナ侵攻の資金源になってしまうような事態も考えられます。きっと心配のしすぎでしょうが。
視界に入れたくなくて追放運動を繰り広げている人たちにそういう想像力はないと思いますが、民主主義国家の司法にはそうなることも覚悟の上で今の風潮をどこまで後押しするのか問いたいところです。
収益化しているような編集技術の優れた切り抜きがゴミあつかいで罵声を浴びているのをみると、それとは比べ物にならないほど拙い趣味で無償の自分の切り抜きはなんなんだ…と酷く落ち込みます。そうやって切り抜き師全体のモチベーションが落ちるように上手く罵倒しまくれば、もしかしたら批判者の望む切り抜きのない清浄な世界がやってくるかもしれませんね。いや、公式にお金をもらっている切り抜きと悪意のある切り抜きだけが残るのでしょうか。
縦の長さが3で横の長さが4の直角三角形があったら
斜めの長さを人類が知るには人に聞くか数学的な証明を頭の中で行うか実際に測るかするしか無い
Aが成り立ちA→Bが成り立つならすぐにBも成り立つと分かってしまう
ではここで人類よりも遥かに優れたスペックを持つ生命体がいたら…
上記の直角三角形にしてもすぐに大量の図形の組み合わせが脳内で成り立つのを当たり前のように受け入れ
その中から斜めが5だと分かるような図形の組み合わせを連想してしまうであろう
これは単なる例に過ぎない
他の様々な数学の命題も脳内で大量の推論が当たり前のように浮かんでしまうせいで
人類が今までに証明してきた大量の命題がただの当たり前の物としか映らないし
一方で人類が把握する事すら困難な数学の長い長い命題を面白い物として人類に提示してくるだろう
だが人類も人類で高スペックの生命体にその困難な命題とその形式的証明さえ与えて貰えば
ゴラクやビックコミックの劇画とも違う。あれらの劇画にもない臭さ時代遅れ感が画風ににじんでるのがあの手の女性漫画。
今じゃ80過ぎでも最新の美少女デザインのガワで受肉する時代なんだから、あんな漫画読んでるのってよっぽど保守も保守な人なんだろ。
年をとればああいう漫画が好きになる、ってのも多分間違った三段論法?から来た思い込みだと思う。
・子供はアンパンマンのような情報量の少ない絵が好きだったのがジャンプを読むようになる。
・若者が演歌好きじゃなくても年取ると演歌が好きになるという流れがある。
この事実の悪魔合体的推論が、年齢に比例していずれはあんな女性漫画を好むようになるという推論だ。
しかしまあ、漫画に限っていうなら当時流行った絵柄を好むようになるってだけの話じゃないのかね。
今の年寄りは昔から、今から見れば年寄り臭い漫画を読んでたというだけでしょ。
「わし」が年寄り専用の言葉よりは単にその一人称が主流だった世代専用語というべきなように。
俺は生きれたとしたら90歳になってもきらら読んでると思うし。
なんといってもああいう漫画読むやつって自分が醜い精神容姿になったのを自覚したうえで、自分より優れたやつを見ると嫉妬で耐えられなくて、自分と同等以下の人や物で周囲を固めたいって発想から、同じように醜いものを扱った漫画を好むってことなのが、受け付けない。
自分で描いた二次創作を頒布することは、ガイドラインが出てるか、権利者が個別に認識した上で口頭や文面で許可を出してないうちは著作権侵害にあたるのだろうか。
でも公共の施設を借りて二次創作の小さなイベントをするにしても、市や県に計画を提出して開催していて
(中には即売会NGの会場もあるぐらい、内容はしっかり審査される)
それで、「OK」が出てるのが同人誌即売会だということらしい。
他人の二次創作を追認する人も多いから、二次創作をすること自体は悪ではないって論理なのだろうか。車の運転をしてれば自分にそのつもりがなくても運転過失致死に問われることをしてしまい得るけど、そういう、犯罪を起こしうる、そして被害者を出しうるからその行為は悪だって論理だと、車を運転すること自体が責められる対象になる。これはあまりにも現実と乖離している。
同じように、二次創作はそれを知ったら被害届出す人もいるかもしれないけど、多くの人は追認するから、それをすること自体は悪ではないってことなんだろうか。
親告罪だから、訴えられない限り罰せられないから訴えられるまで構成要件を満たしていても悪ではないという論理だと、殺人でさえ、バレずに行う分には訴えられておらず罰せられていないのだから悪ではないというおかしな三段論法?になってしまうわけで、よくわからない
自分は自分のなかの他人の反応に関する経験と常識で、殺人は悪いことと思うが、二次創作についいてはよくわからないけど、悪だと思ってない人も多く賛否両論だから、ソクラテスのように善く生きたいので、(悪)法を犯すことにならない自信がないので自分が二次創作しようとは思わないけど、他人に干渉して、法を根拠に未許可二次創作を悪とする倫理観を押し付けるほどにもなれなくて、もやもやする。
女性が性被害を訴えた時の初動として、正確な事実の真偽をとりあえず脇に置いて支援に動くのは、フェミニストの運動として当然のことである。(冤罪であった場合による無実相手の被害は無視してもよい)
この理屈は ハマスなどのテロ組織による攻撃を受けた時の初動として、正確な事実の真偽をとりあえず脇に置いてテロ組織殲滅に動くのは、国家の防衛として当然のことである。
彼らに言わせれば間違いなく我々は卑劣なテロ攻撃の被害者であるからして
「我々イスラエルの正当な反撃によって 無関係の無実の人間やパレスチナ市民が巻き込まれ死亡しても良いのである」
「悪いのはテロ組織とそれらを糾弾しないパレスチナ市民(彼らは潜在的共犯者)」
「よってハマス攻撃の際に無実のパレスチナ市民(共犯)や病人(共犯) 子供(共犯) 国連職員(明らかに共犯ではない)が誤爆で死んでも我々に責任はない むしろ責任はハマスにある」
そんなわけがあるか
すべてのパレスチナ人がハマスの共犯者であるわけがないし ハマス攻撃に関係のない人間が巻きこまれていいわけもない
同様に
すべての男性は性犯罪者の共犯者でもないし 性犯罪を糾弾する際に無実の人間に冤罪をかけて良いわけがない
いいかげんにしろ! お前らは明らかに無関係の病院をミサイルで誤爆している 責任の所在は明らかである
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』を読んだ。ナチスの行った行為についての<事実>や<解釈>については自分が誤解していたこともいくつかあり、とても面白く読めた。一方で、著者らの<意見>は、タイトルの問いに対する十分な回答ではないというのが正直な感想である。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』というタイトルを読んで私がまず考えたことは、著者らは「良いこと」をどう定義しているのだろうかということである。
②Xは善い(価値判断)
①については著者らの言う通りナチスが実施した行為について歴史学の方法で事実とその解釈を検討することは重要であろうし、素人の考えが誤っていることは多々あるだろうこともよく理解できる。素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ない。
一方で、②については、"「~である」から「~べき」は導かれない"というヒュームの法則が端的に表すように、事実・解釈とは独立した善悪についての価値判断である。①についてお互い同意していたとしても、②が異なれば善悪の意見が真逆になることは十分あり得る。
もちろん、何を善いとするかは自由に決められるわけではない。「ナチスは良いこともした。なぜなら ②ナチスのしたことは善い からである。」という主張は(そう言うのは自由だが)多くの人を説得できないだろう。
そこで普遍化可能性という基準が出てくる。普遍とは簡単に言えば、固有名詞を含まない、という意味合いである。例えば、「金を返さないのは悪いことだ」という価値判断を採用するのであれば、誰であろうと金を返さない人は悪人であると判断しなければならない。
「あなたが私に金を返さないことは悪いことだ」とするならば、「私があなたに金を返さないこともまた悪いことである」としなければならない。ナチスの行為を何らかの理由で善い/悪いこととするならば、他の〇〇国がした同じようなことについても、別扱いをする普遍的な理由を挙げなければ、同様に善い/悪いこととしなければならない。
ナチスの政策Aが良くないことならば、同様(に見える)〇〇国の政策Bも良くないことですよね?という問いはWhataboutism論法ではなく、価値判断の普遍化可能性についての確認である。同様に良くないことだと言うならそれでいいし、違うならその理由を説明すればいい。
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』は歴史学の本であり倫理学の本ではないから、ナチスの政策についての事実・解釈の説明がメインなのは当然である。しかしながら、「良いこと」もしたのかというタイトルにするならば、著者らの価値判断が普遍化可能であるのかについてもある程度の紙幅を割くべきだったろう。
さて、本では素人が考えがちなXとして、A:オリジナルな政策、B:目的が善い政策、C:結果が良い政策 の3つを挙げ、「素人考えでは政策AはXに見えるが歴史学の手法で解釈するとAはXではない。よってナチスは良いことをしていない。」とする方式で説明が進む。
まず、著者らがオリジナルの定義をかなり狭いものとしているのが気になる。まったくのゼロから何かを考え出すこと以外にもオリジナルさを見出すことは特段おかしな考えではないはずだ。
私はメーカー勤務の研究者である。ニーズ先行の商品開発は、(i)市場調査部が計画を立て、(ii)R&Dがラボ試験をして、(iii)工場が大量生産化するという流れで進む。ここで、市場調査が計画をしたことをただ実験して、ただ大量生産しただけなので、研究者も工場技術者もオリジナルなことはしていないと言われたら、ちょっと待てよとなる。
また、実はコピー製品も安定的に製造するのはかなり難しい。同じ会社の別工場で品質がぜんぜん違うことは珍しくないし、他社製品をコピーするのに数年以上かかることも珍しくない。
私は政策を計画・実行したことはないが、計画を実際の法案として成立させることや他国の制度を法律も文化も経済も違う自国で同じように実施することには何らかのオリジナリティが必要であろうことは想像できる。
これについては、著者らも書いている通り、オリジナルであることと良いことは何も関係がない(もちろん、オリジナルでないからといって良くないとも言えない)ことを説明するのが適切だったのではないか。
「確かに狭い意味ではオリジナルでないことは同意する。しかし広い意味ではオリジナルであったし、A:オリジナルは善い という価値判断の元、ナチスは良いこともしたという意見は変わらない」と言われるだけのように思う。
著者らはナチスの政策の真の目的は戦争のための「民族共同体」の構築であるとして、それは良くない目的であると価値判断をする。これは(i)戦争のためという目的は良くない、(ii)「民族共同体の構築」という目的は良くない という2つに分解できる。
(i)戦争のためという目的が良くないとすると、例えば福祉政策が戦争のために発達したことは多くの指摘があるが、福祉政策は良くないことと言えるのかという疑問がでてくる。またインターネットやロケットなど戦争のために生まれ発展した技術は良くないことと言えるのかという疑問もでてくる。
先に書いた通り、これらを良くないとするなら(同意を得られるかは別として)普遍化可能性についてはクリアしている。しかし、これらを良いとするならば説明が必要だろう。
また(ii)「民族共同体」の構築が良くないとすると、例えば「国家共同体」の構築のために移民(特に既存の国民にとって良くない影響を及ぼす可能性が高い移民)を排除することは良くないことなのかという疑問がでてくる。
私はリバタリアンとして個人の自由を尊重する立場から国家が移民を制限することは良くないことだと考えるが、日本はもちろんヨーロッパやアメリカの現状を見るに、世界全体で受け入れる人は少ないと思われる。
「民族共同体」の構築という目的は問題ないが、その方法としての搾取・断種・敵対者の排除が問題であるという主張も考えられる。私もそれらの方法について全く支持しない。
しかし、目的は問題ないとするならば、②目的が善い政策は善い の反論としては不適である。
また、占領地・植民地からの搾取や障害者の断種、反政府思想の弾圧などは同時期の他の国でもあったことであり、それらと比べてナチスの政策はと同程度に悪いのか、それともより悪いと言えるのかという疑問もでてくる。
先に書いた通り、①事実・解釈について素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ないが、気になる点をいくつか挙げる。
(i)失業者600万人に対して雇用創出政策では50万人程度であるから効果は限定的というのは乗数効果を全く考慮にしていない。私個人としては政府の雇用創出政策の効果に懐疑的ではあるが、ケインジアンはこの<解釈>に文句があるだろう。
(ii)「膨張する国家支出と巨額の負債は国家財政を圧迫し、やがて財政破綻の危機とインフレ圧力に直面することになった」について、例えば日本の社会保障政策も同様という論者は多いが、良くない政策だと言えるか?(なお、私は良くない政策だと考える)
(iii)「「軍備の奇跡」なるものも結局のところ戦争の集結を引き延ばし、多数の人命を犠牲にするだけに終わった」は枢軸国側が負けることを知っている前提の意見ではないか。(現在はともかく)露宇戦争開始当初はウクライナが人命の犠牲を避けて早く降伏すべきという意見はそれなりの数あり、またそれに対する批判も多くあった。
(iv)例えば医療分野の発展はその大部分を動物の搾取を前提としているが、動物愛護思想の人が「医療は"何も"良いことをしていない」と主張することを認めるか?もし動物愛護思想を認めた上で医療分野は「良いこと」もしたと言うならその理由はなにか。
(v)タバコについて、一方では「最終的には自己責任であった」と強制がなかったことを問題としているが、もう一方では特に女性について「家父長的干渉主義」という強制があったことを問題としている。これはダブルスタンダードではないか。
ナチスの政策・行為の"総和"として大きくマイナスであることは多くの人が認めるだろう。
しかし、"個々が全て"マイナスであったというのはかなり強い主張になる。
「ナチスは「私たちはこうあってはならない」という「絶対悪」であり、そのことを相互に確認し合うことが社会の「歯止め」として機能している」ことが正しいとしても、それは"総和"で達成できるのではないだろうか。
https://qiita.com/saetegaljewp/items/60a3580d8f08a53679c6
センスのあるなしではなく、
誤って語っていることを、誤りだと指摘されているだけです。
存在措定が問題になるのは「会話の含意」「伝統的論理学」の文脈においてであって、
現代の論理学、数理論理学においては、存在措定は問題になりません。
伝統的論理学の三段論法を説明します。(以下の例は存在措定してる例)
1.すべてのSはMである
2.すべてのPはSである
3.あるPはMである
このとき、Pであるような何かが存在しない限り、1と2から3を導くことができません。
したがって伝統的論理学は隠れた前提として「存在措定」が成されている、と指摘されているわけです。
だからこそ、空集合を前提しても、命題が真であることを帰結できるのです。
そして、ここでセンス云々問われている問題が前提している論理の体系は、現代論理学であって、伝統的論理学ではありません。
なので、存在措定の話はしないでください。
それは伝統的論理学の文脈の話であって、もともとの話が前提してる数理論理学とは直接的関係を持たない話題です。
しかし、命題にはP(x)に対する前提が隠蔽されており、この「P(x)なものが存在する」という隠れた前提(これを存在措定と言います)を勝手に補って読んでいるのです。
存在措定してるのは、「前件が空集合ならfalseが返されるべきだ」と主張してる側であることを理解してください。
なぜなら、「存在していないものに命題Pを適用できないはずだ」という主張は、まさに、「集合に対する存在の措定」を前提しているからです。
trueを返すべきと主張する側は、そのような「集合に対する存在措定」を前提していないからこそ、trueが返るべきだという話をしています。
また、プログラミングにおいては、論理の体系を自然言語に近づけるべきだとは、(私は)考えません。
そして、自然言語のあいまいさを排除すれば、「AならばB」という文の意味は論理包含となります。
B「人間が三段論法を確率的に捉えているという可能性をなぜ否定できるのですか?」
A「ではあなたは人間が確率的に捉えていると主張しているのですね」
A「あなたはどんな確率を計算してその書き込みをしているのですか?」
B「仮に人間が確率的に捉えているとしてもそれは深層意識下のことで、表層意識でいちいち計算したりしないでしょう」
A「ではあなたは人間は表層意識で確率計算をできないと主張しているのですね」
A「自明です、なぜなら学問は論理に基づいているし、あなたも論理的に書き込みしているからです」
B「確率に基づく学問もあるし、私はこの場で確率を計算することもできますが、それだと『人間は確率的に捉えている』ということになるんですか?」
A「さっきは表層意識で確率を計算できないと言っていたのに、今度はできると言っているのはおかしい」
私の視点ではこうですね…