はてなキーワード: コラーとは
年収っていうか年商だけど。原価もそんなにかからないから年収って書いた。
こんなこと匿名でしか書けないけど何年も頑張ってきたからマジで嬉しくて誰かに言いたくて書いた。
信者は400人くらい。
元々宗教とかには全く無縁だった。そりゃ墓参りとクリスマスくらいはやるけど。
街中で新興宗教の勧誘を見るとうわぁ……って思ってた。たぶん普通の感覚だと思う。
やろうと思ったきっかけは、某首相暗殺事件後ニュースでフォーカスされた3000万円の本とか壺とかを見て、これめっちゃ儲かるなって思って興味を持ったこと。
ノウハウを見ようと思ってそこそこ有名な新興宗教に入って、3か月でさっと脱退。
引き抜きはバレたら怖いからしなかった。
街中で地道に声かけて人集めて、初めて信者になってくれたのが勧誘始めてから1ヶ月くらいだった。
やり方が良くなかったのかもしれないけど、SNS経由で定着した人は一人もいない。
その後は信者に勧誘させて、増えて、勧誘させて……で倍々ゲーム。
軌道に乗ったら俺は勧誘とかしないで教祖としてふるまうのに集中した。
基本はこれ。うちは会費がないので、『サービスに対する対価』として払ってもらってる。
悩みを聞いてそれっぽいこと言ったり、修行させたり。
安い料金を払うと5人同時のお悩み相談で、高い金払えばサシで相談できる、とか。
ちなみに料金表もある。高いメニューは『時価』(実際は別のワード)って書いてた。
あとは集会やイベントのたびにその月の布施の額の上位ランカーを発表して皆さん見習いましょう!って言って煽る。
布施を誘発するために定期的に行う。
うちは仏教オマージュなので、盆と彼岸と正月にイベントを行う。
ホール借りて、ゲスト(呼べる範囲で有名な歌手とかタレント。まあそんなすごい人は呼べない)呼んで楽しませて、
説法してみんなで歌って終わり。上に書いた布施の金額の表彰式もここでやる。
布施の次に稼いでる。
ありがたいグッズを販売する。お守りが多い。大きいのだと仏壇(といっても小さめのやつだけど)
俺はアニメとか好きだからその手のグッズを結構参考にしてて、ランダムで出てくるキーホルダー型お守り(全20種)とか用意したら結構評判良い。
中には俺の写真入りアクリルスタンドとかあって自分でも笑っちゃうんだけど、それを握りしめて祈ってる信者を見ると少し嬉しい。
本もやっと1冊出した。自費出版。ちゃんと俺が書いたよ。調べたけどゴーストライターって結構高いんだな。
信者は老人が多いので、売れるかなと思って始めたら結構売れる。
これもパッケージをカスタマイズできるサービスがあるので適当なお茶とかを売ってる。
気を付けていることは、同じ食品でいかにも宗教なパッケージと穏当なパッケージの2種類を用意すること。
一見宗教っぽくないパッケージは信者が非信者の身内(親戚、知り合い)に配る用にちょうどいい。勧誘にもなる。
メンタルへの負担がデカい。信者って基本情緒不安定だからその人達と話してると辛くなる時がたまにある。
ただ超然とした態度を貫いた方が教祖っぽいかなって思ってるから、同調しないことを心がけてる。
修行熱心な信者がいて、ある日教義について「ここって矛盾してませんか?」というようなことを言われた時はかなり焦った。
(その場は上手く誤魔化して、その人には教義を考えるチームに入ってもらった)
一応教義で仲良くしなさいって言ってるから露骨な喧嘩はしないけど、仲間外れにしたりする。
多くの場合仲間外れにされた人に原因があるんだけど、そいつが離脱するのも困る。
かといって学校の先生よろしくコラー!って言うのもカッコ悪いから、階級(うちには布施や歴によって決まる階級がある)が一つ上の人間に解決させる。
パートおばさん、引越しして今まで徒歩通勤だったのにちょっとだけ遠くなったから自転車通勤に変えたんだ。
今日が自転車通勤初日だったんだけど、ちょっと危ない目にあったよ。
とりあえず今日はよく知った道ということで国道(細い)のフェンスのある歩道と車道の間の道を左側通行してたんだけど、初日だから神経少し昂ってるし、道が細い上カーブ多め、朝で車通り少ない分スピード出す車も多くてピリピリしてたんだよね。
そしたら、自分の左側にあるフェンス付きの歩道を学校に向かって歩いてる1人の小さな男の子が、すれ違いざまにこっち向いて「ワ゛ァ゛!!!」って大声だしてきたんだよね。(その子以外にも歩いてる人は誰もいない)
めちゃくちゃビックリして若干車道側に倒れそうになったよ。でも後ろから車も来てるからよろける訳にはいかないと思って心臓バクバクのまま通り過ぎたけど、正直止まってコラー!!ってバチクソ大きい声で叱りに行こうかとも思った。
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
実家を整理してたら30年ほど前の幼稚園参観日のビデオが出てきたんで家族で見てみたんだけど、
まーーーうるせえうるせえ。
一応それなりにお育ちのいいエリアで当時も小学校受験する子がそこそこいたし、
後にお受験幼稚園なんて呼ばれるくらいには民度いい幼稚園なんだけど。
何より親がみんな下の子(赤ちゃん)連れてきてるから余計うるせえ。クソデカ大声で説明する先生本当に大変そう。
それでもなんかの工作?が終わったあとに園庭で遊ぶ頃にはみんなの嫌いなキエエエエーーーー!!!の大合唱だった。
これを見て思ったのは昔の子どもは静かだったとかだいたい嘘。絶対懐古補正入ってる。
子どもは今も昔もキーキーうるさいしテンション上がったら騒ぐし腹立ったら泣く。個体差はあったとしても全体的な傾向として。
じゃあなんで急に子どもの声が騒音扱いされるようになったかというと、全体的に静かになったからじゃないかと思う。
昔は公園でキャーキャー騒ぎながらボール遊びしてた。近所のおじさんちにボールが飛んでってガラスが割れるシーンは子ども向けアニメでは定番だった。コラーッ!で済ませてくれる神成さん優しすぎる。現実ではどうだったんだろうね?
なんなら全国で夜中に暴走族がブンブンかっ飛ばしてたし、工事現場の騒音配慮とかもなかった(と思う、多分)。
あと吠える犬多くなかった?もう野良犬はそんないなかったけど庭に繋がれた外飼い犬がしょっちゅうわんわん吠えてた思い出。
なんていうかうるさくて当たり前だった。よく言えばおおらかな時代だけど民度が低かったとも言える。
相対的に子どもの声が響くようになったのかなと。データも何もない個人の感想ですが。
あとはあまりにもうるさい子どもは鉄拳制裁が飛んできたのもある。時には知らんおっさんからも。今なら余裕で暴行罪。
子どもはうるさいし騒ぐもんだから常に許容しろとまでは思わない。あまりにもうるさかったら言っていいと思う。
自分は店員にチクることもあるし直接言うときもある。はしゃいだキッズにおもくそ足踏まれた時とかね。親に慌てて平謝りされるだけでトラブったことはない。
当たり前だけど激昂したりクソガキとか躾がどうこうとか余計な言葉を添えると絶対に揉めるしこっちが悪くなるので、あくまで落ち着いた口調で簡潔に丁寧に言うのがポイント。ネチネチやり込めるのもだめ。
内心クレーマーキチガイ扱いされてるかもしれない、というか多分されてるけど謝られて静かになればこちらの希望は達成されてるし別にいい。
自分と同世代と思わしきアカウントが「今の子どもはうるさい!自分たちの頃はもっと静かだった!」とか言ってるとうわー老害だー!ってなる。
いきなり何言ってんだってのはまぁ置いておけよ
20代から月1程度で風俗嬢抱いてきたけどなんかこう、風俗めんどくさくなったのよね。自分から動いたりしたくねえ。横になってるだけで勝手に気持ちよくしてほしいわ
ここは本当に個人差あるからなんとも言えないけど、俺はそうなったの。
で、風俗に代わる他の女遊び探そうぜって事で目をつけたのがメンズエステ・マンションエステってヤツですね。
よく「メンズエステなんてヘルスやソープと大して金額変わらないのにヌキ(射精)が無い、劣化風俗」って言うヤツがいるんだよねー。
以下は指名料込みです
ね?全然違うでしょ?
こんだけ違うのに「同じ」って言う奴は計算下手くそではなかろうかって思います。
ここらへん。
つまり、働いてるセラピストからすれば客から変な事されないし、ちんちん舐めたり咥えなくていいわけで。そりゃ働きやすいよなって思う。
で、風俗に飽きた人にとっては、色々とすげー楽なのよ。ずっと横になってるだけでいいのでね・・・。受け身には最高の店ですよ。
ずーっと受け身でいいしー
風俗と違って無理なく毎週通える料金だしー
ずっと相手の顔見っぱなしの風俗と違ってほとんどずっと尻向けてれば勝手に全部してくれるしー
俺は、誰がなんというとメンズエステ大好き!これからも楽しむぜ!
あなたの隣の部屋に決まった住人はいなくて、そこは日々、違う女が、違う男の客を招き入れて、全裸にして四つん這いにさせている、怪しげな部屋なのである。
って、下手なホラーより怖いっすね。
#メモ
主人公は五属性使える。全技術がちょっと使える。史上二人目ですごい。でも属性がケンカしないようにしなきゃなのでキャパが低い。〇〇学入門だけを受けて卒業しようとしてる。留年生みたいな気まずさと初代校長以来の五属性使いという妙なすごさが同居してる。陰キャなので呪文を詠唱しない(神経と連動して使用する契約をしている)。使い魔も5体いる。
相棒は有能戦術開発者で戦闘シミュレーションの猛者。でも低容量ザコなので学会で発言権がない。それゆえにシコシコシコラーの異名を持つ。戦術を組む上で稀有な三属性以上を1秒オーダーで切り替えて使う必要があると痛感している。機械的な使い魔がいる。
第三の男はエネルギッシュで人にエネルギーを分け与える役。不器用なザコ。心やさしいオーク的なやつ。汚えげっ歯類を使い魔と呼んで使役している。
なんだーコラーっ(チュッ)