はてなキーワード: グローバル化とは
今でこそ同じような境遇の人間が増えたが、当時はまだ少なく、ほとんど理解されていなかったのだ。当然今でも差別は色濃く残る。
自分と障害者とではもちろん境遇が違う。だから理解できるとも思わないが、マイノリティに対する世間の反応というのはいやというほど浴びながら育ってきた。
ぼくがマイノリティであることは見た目ではすぐにはわからない。
だからうまく紛れることはできたし、必要がなければ明かさなかった。
ただ、その分同じ境遇に向けた反応に対して同調圧力を求められることは何度もあったし、そのせいでノリが悪いスカした人間だと思われたこともある。
学生の、まだ多感な頃の話だ。
仲の良い、信用できると信じていた人間数人に自分の素性を明かしたことがある。
その時涙を流しながら同情する人間がいた。
「かわいそうに。辛かったでしょ。どんな目に遭ってきたの?」
ぼくの肩に手を載せてとても悲しそうにそう言ってきた。
それからも素性が知れる度に、一定数の人間は「かわいそう」という言葉を使った。
意図的に知らせた時もあるが、意図に反して知れてしまうこともあった。
それでぼくは「かわいそう」という言葉が嫌いになった。
当然つらい思いも沢山してきた。人よりも苦労は多い自信もある。
人を羨んでも変わることはできないし、人を妬んでも自分が幸せになれるわけでもない。
ましてや、人の不幸を見て噛みしめる自分の幸せなんてクソ食らえだと思っていた。
中にはそれが善意だと信じて、周囲の人間に配慮するように話して回る人間もいた。
その多くはぼくに対して「かわいそう」という言葉を使った人間だ。
その度に、ぼくはそいつの素敵な人生ストーリーのために消費されたようが気がして気分が悪くなった。
可哀想な人間を涙を流して同情する素敵な自分にあこがれているのだろう。
可哀想な人間に配慮を求める素晴らしい人格者である自分にあこがれているのだろう。
そのためにぼくは消費されていくのだ。
お前らのやすっぽい涙のために、ぼくの人生が軽々と消費される虚しさを思い知らされたのだ。
アイアムサムを見たことがあるだろうか。
ぼくは不本意ながら上映当時に劇場で見ることになった。
不思議とどうしてそんなものを見ることになったのかわからないが、恐らくは当時付き合っていた相手に誘われて、下調べもなくのこのこと付いて行ってしまったのだろう。
もしそれが障害者の映画だと知っていたら、絶対に見ることはなかった。
障害者に向けられる周囲の視線は今まで散々に味わってきた苦痛であるし、ハンディを持った人間のサクセスストーリーなんてリアリティのへったくれも感じなかったからだ。
それを可愛らしい子役と安っぽい感動で塗り固めた、実にアメリカらしい、まさにその国のスーパーで売っているような食あたりしそうな彩りのケーキのような映画にしか見えなかったのだ。
映画の評価はそれに反して上がっていく一方だった。その様子を、マイノリティは健常者のために消費されていくのがこの世の中なのだと冷めた目で見ていたことを記憶している。
ただがむしゃらに生きてきたし、むしろ生き方にも随分と慣れてきたように思っていた。
そんな時に、レンタルビデオ店でふとアイアムサムのDVDが目に止まった。
世界はこれほどまでにグローバル化が進んでいるのに、未だに歴代名作コーナーに陳列されていることが疑問に思えたのだ。
これでもう一度見てつまらなければ世間が腐っていた証拠だし自分が正しかったことが証明される。
もし何かが変わって見えたら、自分の変化や成長を感じられるかもしれない。
当時の自分がどれだけうがった目で世の中を見ていたかを思い知らされることになったのだ。
何より、子供を持ち、それを守ることに対する思いに何度も涙が流れた。
今もし自分の子供が、世間の良識という暴力に奪われたとしたら何を思うのか。
その中で、ハンディキャップを背負いながらも幾多の困難を乗り越えていく姿にひたすら胸を打たれてしまった。
例えどんな境遇であっても諦めずに一生懸命に生きる姿に胸を打たれる。
意外なことに、劇中でサムに対して可哀想だと接する人間はいなかった。
皆はむしろ冷たく辺り、障害者が生きていくことの難しさばかりが描かれていたのだ。
そして彼自身も、障害者らしく擁護で固められているのではなく、一人の人間として生き、悩む姿しっかりと描かれていた。
ぼくは当時、その描写を見ることが辛かったのかもしれない。
まだ社会的弱者だった頃の、世の中に対するヘイトがくすぶっていたのだろう。
その時は自分が全うに生きていると信じていた。でも、知らず知らずの間にカルマは溜まっていたのだ。
育児放棄、女性の社会進出、ニートやそれに付随する精神疾患の問題、職業差別、貧困。
あれから16年の時が過ぎていることに驚いたが、それ以上にいま見ても全く色あせないほどに全ての問題がリアルだった。
むしろ16年経って尚、それら問題は深刻さを増しているといっていいだろう。
その中で、たまたま障害者が主人公だったというだけの映画がアイアムサムなのだ。
あの映画の主要登場人物のうち誰に焦点を当てても、どの問題も同様に浮き彫りになったことだろう。
アイアムサムを感動ポルノとして消費した人間も沢山いただろう。
それはそれで良いではないか。
それによって潜在する問題を認知することにつながったのだから。
もしそれが感動ポルノとしてだけ消費されてしまったのなら、障害者たちは真実の姿を表現する努力をすればいいのだ。
それ以上に世の中はポルノで溢れかえっている。
アイドルと呼ばれる偶像が最たるものだし、それこそマスコミや視聴者にえげつなく消費されているではないか。
それを自分たちだけ守ってほしいというのはまさに擁護の観点であるし、視聴者側も自らの足を使わずして真実を求めようと言うのが間違っているのだ。
感動ポルノがどうした。
楽しみたい人間がいるから市場が生まれ、必要がなくなれば消えていくだけのもの。
ただそれだけのことなのだ。
そもそもが感動ポルノを好きとか嫌いとかいっている場合ではないのだ。
この狂った世の中で道を誤らずに生きていくには、結局は自らの目や耳、手足を駆使して進んでいくしかないのだ。
それを生まれながらに持っていなければ別の手段で解決すればいい。
20年ほど前、働き始める直前の頃に親とした会話を今でも何となく覚えている。
そのとき私は、職歴を重ねる従業員の役職を作り出すために支店なり支社なりを増やすような企業活動に意味を見いだせない、と言った。私が何を言っているのか、親は分からなかったようだ。利益を増やし続けることで会社が拡大することは、親世代にとって太陽が空にあることと同じくらい当たり前のことなのだ。
この思いはそのあとも変わらないのだが、最近になってとりわけ思うのは、生業としての仕事を再評価すべきだということだ。
自分も会社も、成長しなくて良い。ましてや仕事の延長線上に世界の変革など目指さなくて良い。ただ安全に食べて寝て、大切なひとやものをやさしく撫でていられる、そんなことを継続するために働けば良い。
そして、このことは別に新しいことではなくて、すでに多くの人が日々実践している。ただそれは今のところ「意識が低い」あり方だとされている。だからみんな何となく、そこから抜け出そうとしてみたり、そうである自分を認めるときに罪悪感を感じたり、茶化しながらじゃないと認めることができなかったりしているんじゃないだろうか。
「仕事を通して成長する」だとか、「グローバル化の波が」だとか、それって本当なの? 同じくらいの確信で、昔の人は昔の人なりに昔の何かを信じていたんじゃないの? たとえば私が子供のころは、第三次世界大戦が起きたり、氷河期が来たりして、あと石油もなくなって、世界は滅びるって言われてたし、少し前までは皆、本当の自分を見つけることが何よりも大切だって信じてたよね。
やっぱり世間一般の「貧困」イメージと識者が言ってる貧困って乖離しすぎてるよね。
たぶんそこを埋めるところからはじめないと駄目だと思う。
グローバルな意味での貧困なイメージを今までテレビや新聞は広めてきたし、貧困ってのはああいうイメージなんだって刷り込んできたのはマスメディアや左派だと思うし。
アフリカとかで飯を食えずに死んでいく子供たちとか中東で爆撃されてる人達とか。
「貧困」って言葉を使うならそのレベルまでいかないともう絶対に納得しないと思う。
自国を省みなかったツケだとは思うんだけどさ。
ぶっちゃけその辺の世界的な意味での貧困を逆利用されてるよね。
今の状況って
「アフリカの子供たちはご飯も食べられないんだぞ!残すんじゃない!」
的な言説の裏返しだと思う。
これってつまりご飯が食べられるならアフリカの子供達のような貧困じゃないからねってことだから。
これもグローバル化の弊害かもしれない。
英語と中国語もでき、客先もそれらの国なので常にそういった国の
でも、最近考えを改め始めている。
グローバル化する事で出てきた多くの問題を、理想でカバーし続けるも
もはや流入する移民に対応しきれなくなっている国が増えている。
均衡するかを政府は決定できるのだろうか。
ある程度の保護を伴う社会民主主義的な政策が、中国を含めてもほぼ世界的に
デフォルトになりつつある現状、経済動向に依る人口比の急激な変動は
政策にも大きく影響を及ぼす。
そのリスクを考えるなら、今の日本のように移民や外国企業の流入障壁を
維持する方がむしろ長期的な成長政策も維持しやすい。そもそも貧困層であれ、
富裕層であれ移民はメリットによって移動するリスクを取れる人々だ。
イギリスがトルコ化したら、誰がイギリスに魅力を感じるのだろう。
参入障壁は国=そのエリアの個性も維持し、観光産業や地政学的なメリットも
アイデアは世界を移動するが、土地の魅力はそこに居続ける。そうなる方が
こんな風に今日ふと思ったんだが、どうだろう。
低成長時代の幕開けと民族主義の台等によってイギリス人が仕事に就くことができるようになるし、ポンドと株価は暴落する。そのため、貧富の差が減少する。ものすごく貧しく、仕事も得られないというイギリス人が減少する。しかしながら、企業は貿易すると関税が発生することになるため、イギリス製品がEU国内で売れなくなるし、逆にイギリス国内でEU製品が割高になるため、売れなくなる。
(国内製品は国内で売れやすくなる。そのため、内需の仕事は増加する)
つまり、経済が非合理的になるため、パイは縮小し、富めるものはより豊かになるということができなくなる。よって、公平な社会がやってくる。貧しい人が減少し、また、すごいお金持ちも減ってしまう低成長で穏やかな社会がやってくるということ。イギリス人の誰もがEU圏内の外国人労働者に仕事を奪われることなく、安心して働いてい行ける社会をイギリス人が選んだということ。イギリスという国はイギリス人のためにあるということ(民族主義)。
グローバル化すれば富めるものはより豊かになり、反グローバル化すれば富めるものはそれほど豊かにならず、経済のパイは増えず、庶民の生活水準は上昇する。世界における問題は、大企業と富裕層が税金を払わないこと。そして、その少ない税収のなかから、適切な税の再分配が行われてこなかった。だから、グローバル化すると貧しい人はより貧しくなり、(競争に負け続けるから)、そして、税による社会保障が整っていないことを放置した。その結果だと思う。
C.C
6月20日に公開されたアジア地域大学ランキングで東京大学が7位に下がり、100位以内で日本の大学がランク入りしていたのは14校ほどであったという。
シンガポールや中国の大学が躍進しているのは理解したが、疑問に思うのは日本の大学自体が機能しているのかという点である。
最近あるテレビ番組で日本国内の大学数を紹介していたが、約781校も存在しているという。
これはアメリカの約2000もの大学数の次に多いとされている。(2011年 日経新聞の記事より)
何故世界の中で、大学数が2番目に多い筈なのにたった14校しか入らないのだろうか?
少子化の影響で大学受験は全入時代となり、進学率の上昇と同時に「大学生」という肩書きが将来有望とされているエリートとそうでない者の2極化が徐々に始まってきたことが1つの要因と私は思う。
最近では、国立大学の授業料高騰化が問題となったが、私立大学に関する危機感を示す話はあまり上がっていないと感じている。
このような状況から、文部科学省は大学としての本来の機能を果たしているか全大学を対象に調査し、去年では私立大学等改革総合支援事業という計画を発表した。
シラバスの改善や授業評価結果の活用、グローバル化、他大学との連携、地域社会貢献などを目的としている。
大学の設備費などを国から補助してもらい、本当に大学として存在する意味があるのか疑問に思う。
そして、日本の大学は就職予備校化に伴い、ビジネスマナーを大学の授業として取り入れている所も存在する。
それが本当に授業なのかどうか疑ってしまうが、単位取得の一つとして成立してしまうのである。
もっと書き留めたい内容がまだあるがここで省略させてもらう。
今回一番に言いたいことは「大卒欲しさの為だけに進学するのか、明確な目的の為に行くのか、そして安易に入学できてしまったこの現状に心配である」という事だけだ。
そういえば最近、ちきりん(伊賀泰代)のブログを読んでないなと、ふと気付いた。
https://www.google.co.jp/trends/explore#q=%22%E3%81%A1%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%82%93%22
こんな感じで、注目度が2011年11月をピークに下る一方だ。
はてぶのホッテントリでちきりんの日記を目にすることも減った気がする。
もう賞味期限切れなのかな。
自分はたしか2010年か2011年ぐらいにちきりんの日記を知って、その後著書も2冊ぐらい買って読んだ。
最初は発想が面白いと思ったり分析の切り口が鋭いと思ったりしたんだけど、ある時期から、ちきりん自身が主張する「自分のアタマで考える」が悪い方に出ているなという印象を持つようになった。
たまに自分(俺)がそこそこ知っている話題についてちきりんが論じているのをみると、あまりにも調べ物をサボりすぎというか、その道の専門家たちが何を言っているのかを考慮せずに、自分のアタマだけで考えた図とかが載ってて杜撰さを感じるんだよね。
そして年々、煽り口調が激しくなってきた気もする。炎上狙いというか。
ちきりんて結局、IQが高いだけで特に専門性はないコンサルタントって感じの人だったんだよね。
大手金融機関だの外資系コンサル会社だのといったところに勤めてたといっても、要は人事部のおばちゃんでしょ?
社会派ブロガーを名乗ってるけど、人事部のおばちゃんが通用する範囲はさほど広くないよなぁ。
ちきりんは要するに、どんな話題でも短時間でそれっぽい仮説を考えることができるってタイプで、会社とか飲み屋にこういう人がいるとアタマの体操にはなっていいと思う。しかし今のネットでは、ちょっとググれば専門家の見解をふつうに読むことができるから、単なるアタマの体操に過ぎないちきりんの日記に「情報」としての価値はないんだよね。そもそも間違いも多いし。
しかもあるとき気付いたんだけど、ちきりん風の「IQが高いけど専門性(知識)がない人」の言うことって、似てることが多かったりワンパターンだったりして、意外性がじつは少ない。
政治や文化に関する話題ならとにかくリベラルっぽいことを言っておき、経済についてはとにかく市場を礼賛するネオリベっぽいことを言っておき、ビジネスやキャリアの話題ならとにかくグローバル化を礼賛して日本の大企業を叩いときゃいいや的な。
もっとざっくりまとめてしまうと、なんか新しいものにとりあえず着目して、それと対比できる古いものを持ちだして比較し、古い方を叩いて「これまでの常識は通用しなくなる!」みたいなことを述べて終了というワンパターンな芸を繰り返してるだけなんだよね。しかもちきりん風の人たちって、新しいものを称えるのがアイデンティティになってる割に、発想のパターンはすごく古かったりして(たとえばネオリベ的なところ)、その意味でも「あぁ・・・またそれですか?」って感じがする。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20140922
このエントリで紹介されてる東浩紀との対談を、俺は動画でみたんだけど、ちきりんの底の浅さが如実に現れていてとてもよい例だと思う。
ちきりんはしきりに、「私は一般人」「東さんが言うような難しいことは分からない」と逃げてたんだけど、難しいとか易しいとかの問題じゃなく、東のほうがはるかに発想が柔軟で意外性のある指摘をしているなと思ったんだよね。
ちきりんのような「IQが高いけど知識がない人」は、身軽に見えて実のところ発想の幅が狭い。東みたいな頭でっかちな人文系オタク知識人のほうがアイディアが豊富で、鋭くて、ちきりんはついてこれなかったんだ。
なんというか、多様性を強調してる割に「ちきりんの主張」はワンパターンだし、「ちきりん風の人たちが言うこと」も決まりきっていて、じつは全然多様じゃない。
「自分のアタマで考える」のは結構なことだけど、自分のアタマで考えただけで過剰な自信を持つタイプの人が言うことってだいたい予想できちゃうんだよなぁ。
そういう点に気づくと、賞味期限切れするのも仕方ないかなーって思う。
あ、そういえば思い出したけど、ちきりんの日記って、コメント欄だけじゃなくてブコメすら途中から非表示にしたんだよね。Twitterでも、ちょっとでもちきりんに批判的なコメントをしたユーザは即座にブロックしてるらしい。
グローバルとかオープンとかそういうのを煽ってる割に、ちきりん自身はとても閉鎖的に振舞っているように思える。
べつに閉鎖的でもなんでも勝手にすりゃいいと思うけど、情弱の信者を囲うだけになってしまったら、イケハヤさんみたいなのと差がなくなってくるよなぁ。
追記:
ていうかさ、この増田へのブコメみてて、ちきりん擁護派が皆無すぎて引いたわ!!!
俺は著書まで買ったんだぜ・・・
さらに追記:
この増田がホッテントリに上がっていたようで、けっこう多くの人に読まれたようだけど、反応としては、
http://www.kandareiji.com/entry/chikirin
という何が目的なのかよく分からない長ったらしい言い訳みたいなブログ記事と、
https://twitter.com/kirik/status/728432263852007424
という簡潔なコメントが、印象的でありました。
大学の国際競争力強化を狙った「スーパーグローバル大学」(SGU)構想。文部科学省の肝いりで始まったが、選ばれた大学が不満を募らせている。国の支援が想定より少ない上、予定していなかった仕事も次々発生しているからだ。
「これじゃまるで『SGU詐欺』だ」。東日本の大学トップは「びっくりするほど支援の額を値切られた」と話す。
SGUは世界に通用する研究や国際化を進める大学を重点支援するため、文科省が2014年に募集。104大学が計画を提出し、37大学が選ばれた。「世界ランキングトップ100を目指す力のある大学」(タイプA)は最大で年5億円、「グローバル化を牽引(けんいん)する大学」(タイプB)は最大年3億円を、それぞれ最長10年間支援する。
だが、15年度の平均支援額は、タイプAが2億8800万円、タイプBは1億3100万円。1億円未満も5大学あった。「あれだけぶち上げておいてこれか。文科省は風呂敷を広げすぎ」(西日本の大学幹部)。「今も納得していない。でも、『文部科学省さま』に文句は言えない」(関東の私大の担当者)。さらに、各大学への交付額は未公表で、「あの大学はうちより少なかったようだ」などと臆測が飛び交う。
各大学に昨秋、文科省からメールが届いた。会議やシンポジウムでは、「SGU」ではなく正式名称を使うようにとの内容だった。札幌学院大が「SGU」を商標登録しており、「SGUを使用した場合、商標権を侵害」と書かれていた。東日本の大学の担当者は「印刷物を刷り直すはめになった。完全に余計な出費。最初に調べておいてほしい」と怒る。
さらに、文科省の定める英語での呼称は「トップグローバル」大学。「スーパーグローバル」は英語では普通は使わない表現だからだ。西日本の大学の担当者は「なんで国内向けはわざわざ妙な名前にするのか。海外向けに翻訳する際、直す手間がバカにならない」とあきれる。
テレビ番組で英会話講師を務める鳥飼玖美子・中央教育研究所理事は「英語では、『グローバル市民』なら国連などでも使っているが、『スーパーグローバル』なんて言い方はしない。『トップグローバル大学』と言えないことはないが、あまり聞かない」。事業自体についても、「そもそも海外ではグローバル人材という概念がないし、グローバル化は否定的にとらえられることもある。グローバル人材育成という発想が、グローバルでない」と指摘する。
■「背伸び」した計画も
SGUに選ばれたくて、実現が難しい計画を立てた大学もある。東日本の大学の担当者は「海外の大学と留学の協定を結ぶことや、受験生受けを考えると、『国のお墨つき』がないと不利。計画をちょっと『盛って』しまい、精査して青くなっている」と話す。
計画には、留学生の割合の数値目標も盛り込まれている。現在、海外からの留学生の授業料を減免する大学が少なくない。学生の定員は決まっており、留学生が増えるほど授業料収入に響く。例えば、授業料100万円の3割を減免する場合、留学生の受け入れを2千人増やすと年6億円の負担増になる。「『もうからない』学生の割合が増え、経営体力との勝負になる」(西日本の大学)。減免措置の見直しを検討する大学も出始めた。
SGUに選ばれた多くの大学が外国人の教員の比率を上げる目標を掲げた。ただ、外国で教育研究歴のある日本人でも「外国人教員等」として比率に含めることが可能だ。「外国人教員の確保は大変なので、日本人で達成すればいい」(関東の私大)という、「数あわせ」も頻発しそうだ。
■当初より採択大学数増え…
事業を担当する文部科学省高等教育企画課の担当者は、支援額への不満について、「大学から直接少ないと言われることもある。財政状況が厳しく、予算を思っていたほど確保できなかった上、当初予定していた30大学より採択大学数が増えたので、1大学当たりの支援は少なくなった。『最大で』の金額が、誤解された面もある」と説明。「スーパーグローバル」の呼称については、「和製英語。でも、分かりやすいし、インパクトのある表現だと思う」。外国人教員の比率を巡る大学の対応は、「グローバルな日本人であれば問題ない。外国籍でなければならないということはない」。計画を『盛った』大学の存在は想定外で、担当者は「ちゃんとやれないなら理由を説明してもらうことになる」と話している。(石山英明)
http://digital.asahi.com/articles/ASJ4T5DB4J4TUTIL04W.html?rm=514
オリンピックのエンブレムがA案に決まってホッとしている。ここ数年のオリンピックロゴの中でも個性があってなかなかいいと思う。俺が一番嫌だったのはB案。なぜなら無難でありきたりだから。でも、エンブレム案の発表時、Twitterなどでは「ここは無難なB案で」という意見がかなりたくさん集まっていて、正直大丈夫かなと思った。
百歩譲って日本国内のイベント用のロゴなら無難でもいいかもしれない。でも、オリンピックのような世界に向けたイベントで「無難なものでいい」とか言ってるのは国民の意識としてかなり危ないと思う。私たちは世界規模の競争の中で生きている。積極的に自国の個性を出し、商品を売り、観光客を呼び、稼いでいかないといけない中で「無難」なんてトンデモナイ。いかに目立つか、いかにハッタリをきかせるかはすごく大事なことだと思う。
不景気が長すぎたせいか、最近の日本人はすぐに無難な方に流れようとする。目立ちすぎないように手堅くまとめてしまう。でも、その意識を国外に持ち出すとあっという間に競争に負けてしまうと思う。数年前北米のベストセラーカーであるシビックがモデルチェンジした時、その前の世代と大して変らない無難なデザインと機能でメディアに酷評されてしまった。一方、同じタイミングで登場した派手でわかりやすいヒュンダイのエラントラには支持が集まった。(慌てたホンダは僅か一年でシビックを派手にデザインし直す羽目になった。)その反省を踏まえて今年モデルチェンジしたシビックは、かなりハッタリをきかせたデザインや機能を採用した結果、日本車として8年ぶりに北米カー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。
よく「経営のグローバル化がー」みたいな話を聞くけど、俺は日本人の「無難でいい」という意識のグローバル化こそ必要だと思う。「衰退していく国だからしょうがない」「ハッタリきかせる金はない」とか言う人もいるだろうけど、衰退し金が無くなるこれからだからこそ、もっとハッタリをきかせて世界を驚かす発想や工夫を創りだしていくことが必要になるんじゃないだろうか。
俺は元増田をクズなんて思わないよ。非常によく書けていると感心する。
自らを筆者と称するあたり意識の高さを感じさせて大変よろしい。本にして出せばいいのに。
ただ、富士通さんほどの大企業にチャレンジ精神求めるあたり、まだ若いなあという気はする。きっちりルーティンワークをこなしていれば満足な給料がもらえるのに、わざわざ「企業の将来のために」新しいことに挑戦するボランティア精神のある人、いる?
これは富士通に限らず、NTTデータやNEC、どこの大企業でも似たようなもんだと思う。これは日本の産業構造の問題で、新参企業だって大手に喧嘩売って追い越そうなんて気はさらさらなく、うまいことおこぼれもらうことしか考えていない。このままじゃ日本はダメになるといわれ続けてここまでもってんだから、TPPやなんかで市場をグローバル化でもしない限り、当分変わることは見込めないかな。誰かが成功事例を出さないと誰もやらないよね。それとも泥舟が沈むのが先か。
特にジェンダーに関する活動をしているわけではないが、外国帰りの人間で広告を扱う仕事している。
ANAもこれだけアライアンスを使って、認知度も上がり、元純ドメのヘリコプター会社とは思えない日本におけるコンシューマサイドでグローバル化をしている大企業の一つだし、その事には敬意をもちろん払っている。
また日本(というか世界的にもまだまだだが)の航空会社の性質上、顧客はサラリーマン男性が中心なので、その絵面を選択する気持ちもよく分かる。
繰り返しいうが、ジェンダーへの個人的な意見・考えは別として…、これは「完全な失敗作」である事は言うまでもなく、せっかくグローバル化が進む企業がまだ、こんな悪趣味な広告をしているのかという話である。
そういうお母さんのことを思ってとか踏みにじったとか執着してるとか
情緒的な問題で言ってるんじゃなくて、こういう実害が出ることによる問題
参考1
http://anond.hatelabo.jp/20151207175147
参考2
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/546/085546_hanrei.pdf(PDF注意)
近年女性の社会進出は著しく進んでいる。……そうすると,婚姻前の氏から婚姻後の氏に変更することによって,当該個人が同一人であるという個人の識別,特定に困難を引き起こす事態が生じてきたのである。
……
例えば,婚姻前に営業実績を積み上げた者が婚姻後の氏に変更したことによって外観上その実績による評価を受けることができないおそれがあり,
また,婚姻前に特許を取得した者と婚姻後に特許を取得した者とが同一人と認識されないおそれがあり,
それが業績,実績,成果などの法的利益に影響を与えかねない状況となることは容易に推察できるところである。
……
現在進行している社会のグローバル化やインターネット等で氏名が検索されることがあるなどの,
いわば氏名自体が世界的な広がりを有するようになった社会においては,氏による個人識別性の重要性はより大きいものであって,
婚姻前からの氏使用の有用性,必要性は更に高くなっているといわなければならない。
我が国が昭和60年に批准した「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に基づき設置された女子差別撤廃委員会からも,
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者、エズラ・ヴォーゲル。
彼は日本の高い経済成長の基盤になったのは、学習意欲と読書習慣であるとしている。
鵜呑みにするわけにはいかない。もちろんその他の要因は様々ある。
さてしかし、現在の日本で高い教育水準を用意するとよいかといえばそうではない。
世界と同一の価値観に染まった人々には一定以上は期待できない。
この文脈でもうわかったと思うが、世界を救うのはきみ達しかいない。
きみ達が、グローバルスタンダードを超えて、ジャパンスタンダードとなった時、
ここ数年で日本のハロウィン事情は大きく変わった。街全体がハロウィンムードに包まれるまでにもなった。それに関して、個人的に言いたいことがある。
お祝い事(お祭り)としてキリスト教文化圏には古くから根付いているものだし、文化そのものに関しては全く否定しない。その文化が日本で受け入れられるようになったのは、グローバル化の中で自然の成り行きだと思う。
それぞれが衣装を着たり、お菓子の交換をしてようとそんなことは構ったことじゃない。やりたい人は自由にやればいい。
ただ、「やりたくない人を巻き込むな」と声を大にして言いたい。ハロウィンに関心も興味もない人間を、無理に個人の世界に連れ込まないでほしい。ここはあくまでも日本であって、ハロウィンは初詣のように国民的宗教行事じゃない。
具体的に言うと「〜くん女装したら?」と声をかけてきたり、音楽を大音量でかけて人の邪魔をしないでほしい。「一緒に楽しめばいいじゃないか」とかそういう話はしてない。
楽しむのは内内でやってもらって、関係ない人を巻き込まないでほしい。何をするにせよ、ある程度場所と程度をわきまえてほしい。