はてなキーワード: 登場人物とは
現国にも小説のパートがあるのはなんでか分かってんのか。他人の心情を理解できるように訓練する科目だからだ。
教育次第で自閉症でも知的障害でも登場人物の心情が理解できるようになる。
そうなれば後は規制だ。
たとえば、そこそこの距離感の相手を想定したい。そこそこの定義は、親しくもないし、仲が悪くもない……くらいにしておこう。
ここではそんな相手から愚痴とも文句とも相談ともつかないような話があった場面を想定する。
まずは相手の言葉の「。」を意識して聴く。「。」が出る前に話してはならない。割り込むと、共感パラメータは大きく減少する。とにかく最後まで発言を聴き切ることを意識していく。
さらに大きなポイントは、とにかく状況を聞き取ることに徹することだ。「基本的に俺の意見なんて、奴らには必要ないものだ」と理解するといい。問題解決しようとするなどはもっての外だ。してはいけない。
むしろ「問題解決っぽいコミニュケーションはとらないぞ」という心構えが重要である。油断すると聡明な皆さんはすぐに解決案を思いつき、言いたくなるだろう。それでは、共感パラメータの上昇は難しい。
共感パラメータの向上のために、最初に必要なのは、「相手の状況への理解を深め、解像度をあげていく」ことだ。
もちろん前後関係や人間関係などの状況が分かりづらいときには相手に質問はしてもいい。しかし質問は常にある種の侵襲を伴うことも理解しておきたい。相手に質問を立て続けにされて苦しくなったり、責められているような気分になったことは誰しもあることだろう。多かれ少なかれ、質問には侵襲があるのだ。だから二つ以上の質問をして同時に行ってはいけない。聞きたくても一つずつだ。細かいことは後回しにして、なるべく質問を控えつつ、まずは全体像を把握することに力を入れよう。
状況の理解が進んだところで、ようやく攻撃に転ずることができる。このタイミングは慣れるとわかるようになる。ああ、十分にバフを積めた、という感覚を得られるのである。ここで必殺技を打とう。
そう、必殺技がある。
必殺技は、これだ。
「~(聞き取った状況・出来事)だと、~(予想された感情)ですね」と言い切る。言い切っていい。
コレは本当に有効だ。感情は、悲しいとか、むなしいとか、イライラするとかが当てはまる。状況を聞いていれば理解できることが多い。それでも相手の感情の予想がつかず、イマイチわからないときには「辛い 大変 心配」の3つのどれかが万能である。
たとえば「なるほど……〜〜な状況だと、本当につらいですね。大変でしたね」という。苦労を労うような構造にすると打率が上がる。
相手から「そうなんですよ」が出たら、状況の描写に映る。「だって、〜になって、でも〇〇をしなくちゃいけなくて、なのに……だったんですよねー。いやー、それは辛いなぁ〜」とかなんとかを話してみる。状況描写は基本的に外しづらい。前半に十分にバフを積めば、状況描写を用いて簡単に「そうなんです」を引き出せる。そして「そうなんです」を繰り返し引き出すことを意識するのだ。
うまく引き出せないときにはバフが足りないことがほとんどだ。相手が「そうじゃないんだよな……」という態度を示したら、すぐに状況を理解する作業に急いで戻るんだ!すぐに戻れれば戻れるほど、傷は浅く済む。
「そうなんです」コンボは続ければ続けるほど、ボーナスが乗るイメージを持てるといい。
この「『そうなんです』引き出し作業」を行なっていると、不思議とこちらにも自然と疑問が湧いてくるようになる。
相手も含めた登場人物の想いや行動の理由だ。どうして、そんな行動をとるのか、その時の想いは何か、どんなことを感じ、日々どんなことを大切にしているのか、などが気になるようになるのだ。だって、こちらは状況への理解を深めることが重要だときめたのだ。そこからは共同作業だ。何が起きているのか、どう解釈したらいいかを見出すためにコミニュケーションが取れるようになっていくのである。
敵だと思っていた相手は、状況理解を助けてくれるためのパーティーメンバーになる。
さらにこのように人物や状況への理解を深めていくと、その解釈にときに救われることもある。それは双方にとって役に立つ知見のことも多い。
部活の練習中に膝を痛めた。病院で検査をして、前十字靭帯が切れたのだと分かった。
特定を避けるために競技は書かないが、春の全国大会に団体メンバーとして行くはずだった。でも、行けないと医師に言われた。
おそらく手術が要るとのことで春休みにディズニーに行こうって人と約束していたのも全てだめになった。体育も今年度はできないだろう。
周りの人が気遣ってくれる優しさが痛い。部活の人に怪我の詳しい話をしたくない。残念だねって言われたくない。
これまで漫画が好きで沢山読んでいたけど、怪我してからは登場人物が元気に動いてるのにすら嫉妬してしまうし、上位大会を目指す、みたいなのを見ると「行けるはずだったのに」という気持ちが湧き上がって苦しくて読む手が止まるようになってしまった。スポーツ漫画に限らずなんでも運動するシーンがあると自分の脚を思い出して大好きな物語も楽しめなくなった。
今まで凹んだことがあっても上手くいかないことがあっても推しが頑張っているんだから自分も頑張ろうって思えたのに、物理的に頑張れなくなったらどうすればいいんだろう。
じゃあ勉強すればってさ…そっちもしなきゃだってテスト近いって分かってるけどこんな状況で切り替えられるかよ。無理だよ。なんで今なんだよ。
社内では誰もが知る「要注意人物」。
以下、案。
うちは労組絶対加入で、組合運動も活発なので何かしら相談に乗ってくれる可能性はある。
数年前はストライキしたらしい。
共●党系なので、まぁ左寄りだけど、悪い人たちではないので仲良く接してはいる。
まぁ、考えているだけでは何も進まないのだが。
最近は心理的安全性に配慮した職場づくりを経営側が意識するようになってきた。
(ただし、当の上司はついていけていないが)
ただ、通報したものの軽い懲戒だけで、逆にこちらが不利益を被る場合も無きにしも非ず、、、と危惧する。
でも、部下にパワハラしていた上司が実際に懲戒処分された事例もあるので会社は本気で取り組んでいる。
IT職なんて(特に実務経験があれば)他社でもひっぱりだこなのは体感で知ってるから。
ただ、部長にはお世話になってるし良い人だし、同僚とも仲が良い。
業種、業務内容ともに本当に理想通りの仕事だから、すぐに事を起こして退職もしたくはない。
ぶっちゃけ、それでもいい。
寝る時間も惜しんで働くなんて、別に普通にやってるし、楽しいし。
うーん、難しいな。
昔モンティ・パイソンが「モンティ・パイソン・アンド・ナウ(And Now for Something Completely Different)」を試写にかけたときに観客は最初の50分は爆笑の連続で笑い続けたが、その後20分ほどほとんど笑わなくなって、その後また笑い始めた。
そこで彼らは観客が笑わなかった20分をちょん切って再び試写にかけたのだが、やっぱり観客は最初の50分は爆笑してその後ほとんど笑わなくなった。何度かネタの順番を入れ替えたり編集を変えたりしてみたが、やっぱり観客は最初の50分は笑ってくれるんだけどその後、静かになってしまう。
そこで彼らは「ギャグ」や「ネタ」で場が持つのは50分が限界で、50分以上笑わせ続けるためには必ず次に何が起きるんだろうかと予想させ、期待させるような仕組み(登場人物やストーリィ)が必要なんだということに気づいた。
「なんかお互いのことを思っていろいろ行動してたのにちょっとした勘違いや先入観で嫌い合ってると勘違いしてました。誤解が解けたので万事解決です。」
みたいな話が多すぎて萎える
女ってそういう話好きなの?
登場人物全員「いい人」にしておきたいの?
○ご飯
朝:お椀で食べるチキンラーメン。昼:サラダ。スープ。夜:にんじん、シメジ、お餅の中華スープ。目玉焼き。イワシの缶詰。夜食:みかん。豆菓子。じゃがりこ。コーヒー。レッドブル。お椀で食べるチキンラーメン。(食べすぎでしょ)
○調子
むきゅーはややー。お仕事は普通。今日も母親の家でお風呂を借りた。
○シロナガス島への帰還
・はじめに
探偵の池田と、その助手ねね子が依頼主の元に届いた奇妙な招待状に導かれ、シロナガス島呼ばれる孤島にある富豪の屋敷を訪れる。
4日後の帰りの船が来るまでの間、同じく招待された腹に一物を抱えた面々と、おかしな態度の屋敷の使用人たちと過ごすことになる。
招待状に書かれていた依頼主の恐怖とはなんなのか、シロナガス島にまつわる謎と、そこでおこる事件の謎を解くのだ。
しかし、中身の方は二転三転七転八倒、10時間未満のプレイ時間の中で目まぐるしくストーリーが展開していく。
次から次へと手を変え品を変えて新しい展開が起こる豪快さと、しっかり一個ずつ丁寧に風呂敷を畳んでいく丁寧さが合わさってて、アクセルとブレーキの緩急が素晴らしかった。
探偵、助手、奇妙な構造の館、意味深な招待客に使用人、そして起こる事件。
100回以上は読んできた物語のインストだが、良い意味で裏切られた。
作者としては裏切ったつもりはないだろうし、かなり序盤でそういうことじゃないな、と思わせられるシーンもあるので、ミステリではない。
ただ、ミステリの文脈を踏まえて翻弄してくるタイプの展開があるため、アンチミステリメタミステリと評する人もいるかもしれないかなあ。(僕は思わなかったけど)
登場人物たちの隠された内実が明かされる度に何度も色が変わる不思議な作品だった。
それでいて、シロナガス島への帰還というタイトルに全てが繋がっていくのが一貫していて面白かった。
幾つか複数の意味を持っており、万感の思いがこもったとても良いタイトルだった。
万感ことは言ったが、嬉しいや楽しいといったプラスの感情はほとんどなく、とても悲しくて、とてもやるせない、落ち込む方向の感情が多く、ただただ無力で翻弄される登場人物たちを読むのは辛かった。
幾つかに枝分かれしながら展開していくストーリーが全てこのシロナガス島への帰還という言葉に集約されていくのは、ゾクゾクする恐怖があった。
・エッチ
黒髪ロングで日本の制服を着ていて引きこもりでコミュ障だが、知識と記憶力に長けた助手のねね子。
主人公である探偵の池田が力とパワーを担当し、ねね子が知恵とインテリジェンスを担当する見事なチームワークが面白い。
互いが良い意味で依存し過ぎていない点も魅力で、勿論本心では通じ合っているので、やるときはやるし、互いの担当部分を信用しきっているも良き。
そんな真面目な良きシーン以上に、明らかにフェチを感じるシーンが数多くあり、中でも「体臭」「無駄毛」「排泄」の三つについて作者がノリノリで書いており、文章が脈動しているのが強く強く伝わってくる。
かくいう僕もこの三つについては日々Pixvでブックマークを肥やし、DLSiteで作品を購入し、FANZAのモザイク規定に憤りを感じている身なので、ハッキリ言ってエッチ。
本編では真面目な話をしている場面が多くグッと我慢しているのが伝わってくるが、クリア後のアフターストーリーでは全力全開の作者の本気が楽しめる。
エッチな同人誌でみたやつだ…… と、ひとりごちながら興奮しながらプレイした、
・さいごに
魅力的で可愛いキャラクタに、怒涛の展開、そしてタイトルに全てが集約される構造、面白かった。
すごく悲しいお話だったんだけど、それでも前向きに進んでいくのが重かった。
終わりの方に、島の由来にまつわるビジュアル的な表現があるのだけど、物語の余韻と相まって、シンプルな挿絵ながら、とても壮大で、自然の大きさを感じさせる素晴らしい最後だった。
ゲーム的には背景絵の差分に過ぎず、工数的になにかと比較するととても小さいのかもしれないけれど、そこから感じる世界の広さはとてもても凄まじく、文章の力の素晴らしさに打ちのめされた。
・こういう間が長くてその間に
思いこんでたから初登場シーンで驚いた
初見時「ん?絵を飯の種にしてるにしては」
と思わなくはなかったのは事実だけど
・途中のメイン2人と召使いさんの3人ほのぼの
フェーズの穏やかさ、なんかわろた
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより
マンガの登場人物に、しかも主人公に、なんかこの子あんまり好きじゃないな、なんて思うことが増えた気がする
傲慢だな、わがままだな、調子こいてるな、酔ってんな、中2病も大概にしろ、などなど
話はずっと楽しく読んでいたりしたのになあ
詳しくはこの動画を見て欲しい。
[登場人物]
・主の娘: 中2。発達障害者(自閉症スペクトラム)。小学校と中学校が併設された学校の特別支援学級に通っている。兄弟に対する他害あり。パニックになると他人にも他害することもある。
[動画内の他害の経緯]
・小学部と中学部合同で体幹トレーニングをするイベントがあった。
・娘はイベントに参加したくなかったが、無理に参加させられ、始めは我慢していたが、イライラから来る感覚過敏に大音量のBGMと小学生の騒ぐ声が重なり、担任に他害をし始めた。
・担任がそれを無視したため、イライラが頂点に達し、そのイベントを企画した教員に他害し怪我を負わせた。
[投稿主の主張]
・しかし怪我を負わせるまでに、食い止められるポイントがあった(イベントに参加したがらなかった時と、担任に他害し始めた時)。また娘の特性を理解していれば防げたかもしれない。
・そもそも支援学級の教員達の知識が無さすぎる。日本の教育制度全体に問題があるとはいえ、支援学級を担当するなら支援の知識をつけるべき。
・中1の時は授業にきちんと参加出来ていたのに、中2になって授業を受けないことが増えたため、担任に問題があるのではないか。
以上が概要だ。
娘に落ち度はない。したくて他害している訳では無いし、抑えようとしても出来ないのが発達障害なのだから。
しかし昨今、いじめ等の学校の閉鎖的な姿勢に批判が集まる中で、生徒からの教員に対する暴行はどこまで学校内で処理すべきなのか。
教員に支援の基礎的な知識がないのは事実だろうが、そもそも教員は支援の専門家ではない(特別支援学校教諭免許状を持つのが好ましいとはいえ必須ではない)。
教員不足の現状で支援の免許を持たない教員が担任になることもあるだろう。支援の専門家でない人にきちんと支援しろというのは、他害傾向のある発達障害者に他害するなと言うのと同じではないのか。
そもそも学校教育というのは、画一的な国民を作るシステムだ。「個々人の特性を理解し、良いところを伸ばす」という思想とは相性が悪すぎるし、その余力は現場にはないだろう。
元増田・友人・元増田に暴言を吐いた同級生・6人の踊ってくれた男・父親が登場人物
元増田→中学時代デブでブスで大勢にフォークダンスを拒否された
友人→元増田と学生時代からの付き合い?(現在しかでてこない)
偽りの身分を夢見て上流社会に潜入し、何十万ドルもの金を騙し取る若い女性。その行為が発覚し、何年も刑務所に入ることになったが、彼女は反省していないと言い張る。ある有名なCEOは、人を惹きつける魅力的な振る舞いと魅力的なストーリーで、ある製品を売り込むが、やがてその製品は欠陥品であることが明らかになる。批評家に反論するも、形勢は逆転し、訴訟に発展する。
このような経歴を持つ人物が表舞台に立つと、「この人はサイコパスなのでは」と思ってしまう。
魅力、嘘、操作、反省のなさ、これらはサイコパスの特徴である。社会のルールは理解しているが、自分の利益を優先させる。このような態度は、フィクションの世界でもよく見受けられる。人気テレビドラマ『キリング・イヴ』では、美しい暗殺者ヴィラネルが、目的のために人を自由に利用する。ロンドン大学クイーン・メアリー校の精神医学上級講師で、この番組のコンサルタントであるマーク・フリーストーンは、彼女が人々を目的のための手段に過ぎないと考えていることを指摘している。彼女は「自分の行動に対して後悔の念を持たず、躊躇なく簡単に嘘をつき、非常に歪んだ方法で他人と関わりを持つ」と語る。
2000年代まで、サイコパスに関する研究のほとんどは、研究結果が女性にも適用されると仮定して、男性の被験者を用いて行われた。その仮定は部分的にしか正しくなかった。男性と女性のサイコパスは、共感や後悔の念の欠如といった中核的な特性において類似性を示している。しかし、サイコパスが情報を処理し、決定を下し、行動する方法は、男女間で異なっているように見える。女性のサイコパスは一般的に男性よりも暴力的ではないが、同じように無慈悲で人を巧みに操ることができる。
臨床家は一般的に女性がサイコパスであることを期待していないので、重要なサインを見逃すかもしれない。専門家の倫理観は、専門家が個人的に評価していない人物を診断することを禁じていることに留意することが重要である。しかし、確実な伝記情報がその人物の行動がサイコパスと一致することを示している場合、意見を述べる人もいる。このような場合、その人の人生の詳細が、データ収集者が評価するために十分観察可能でなければならない。
ペンシルベニア州のチャタム大学でソーシャルワークと犯罪学を教えるクリスティーン・サルテスキ准教授は、裁判記録やビデオテープ、書籍などを使って、サイコパスというレンズでジョディ・アリアスを評価することができた。2013年、アリアスは、アリゾナ州メサで2008年に起きた元交際相手トラヴィス・アレキサンダーの殺人事件で有罪判決を受けた。彼女は彼を撃ち、繰り返し刺し、首を切り落とす寸前まで喉を切り裂きました。その傷は、彼が命がけで戦ったことを示唆している。逮捕されたアリアスは、事件に関していくつかの説を立て続けに発表しました。彼女はその場にいなかった、いたけれども武装した侵入者がトラビスを殺した、トラビスを殺したけれども正当防衛だった。彼女はそれぞれの嘘が本当であると誓い、顔写真には満面の笑みを浮かべ(インターネットでの公開を想定して)、尋問官を魅了しようとした。
「彼女の態度はサイコパスのそれと一致していたと思う」とサルテスキは言う。「彼女は嘘をつき、捕まり、そしてまた嘘をつく。常に筋書きや登場人物を変えながら、繰り返し嘘をつくことで自分の真実性を疑われないように振る舞っていたのです」。
サルテスキは、アリアスが表面的な魅力、大げさな自己価値観、操作の傾向、共感性の欠如、性的乱交性を示していることを発見した。アリアスは常に自分の都合のいいように事実を歪曲する用意があり、嘘がばれると簡単に軌道修正した。アリアスは記者といちゃつき、ナルシスト的な権利意識と無防備さを示し、自分を被害者にするためにトラヴィスをバスの下に投げ捨てた。