はてなキーワード: 現代社会とは
現代社会において、男性は様々な生きづらさを抱えています。以下はその代表的な例です。
1. 男らしさの呪縛
伝統的な男らしさのイメージである「強い」「感情を表に出さない」「一人で抱え込む」といった考え方は、男性が抱える生きづらさの根底にあります。このような考え方は、男性が弱みを見せたり、助けを求めたりすることを難しくさせ、孤立感や孤独感につながることがあります。
2. 仕事と家庭の両立
仕事と家庭の両立は、男女共にとって課題ですが、男性にとっても特に大きな負担となっている側面があります。長時間労働や職場でのプレッシャーに加え、家事や育児の分担が十分に行われていない場合、男性は心身ともに大きな負担を強いられます。
近年、男女平等意識の高まりとともに、ジェンダー規範は大きく変化しています。しかし、男性の中には、こうした変化に戸惑いを感じ、自身の役割やアイデンティティに不安を抱く人も少なくありません。
現代社会は競争が激しく、男性は常に成功を求められるというプレッシャーを感じています。学業、就職、昇進など、様々な場面で競争に勝ち抜かなければならないというプレッシャーは、男性にとって大きなストレスとなります。
上記のような様々な要因により、男性はメンタルヘルスの問題を抱えやすい状況にあります。実際、日本の男性の自殺率は女性よりも高くなっており、これは社会的な問題として深刻化しています。
男性の生きづらさを解消するためには、社会全体で取り組むことが必要です。以下は、そのためのいくつかの例です。
男らしさの呪縛を解き放つ: 男性が弱みを見せたり、助けを求めたりすることを認め、支える環境を作る必要があります。
ワークライフバランスの推進: 男性が仕事と家庭を両立しやすいよう、制度や環境を整える必要があります。
ジェンダー平等教育の充実: 男女平等に関する理解を深め、ジェンダー規範にとらわれない生き方ができるよう教育する必要があります。
メンタルヘルスの支援: 男性が気軽にメンタルヘルスの相談を受けられる体制を整備する必要があります。
男性の生きづらさは、個人の問題であるだけでなく、社会全体の問題であることを認識することが重要です。様々な取り組みを通して、男性が生きやすい社会を作っていくことが求められています。
人類学者であるデヴィッド・グレーバー氏は、現代社会において多くの仕事が無意味であり、社会にとって価値を生み出していないと主張しています。2018年に出版された著書『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』の中で、彼はこのような「ブルシット・ジョブ」の存在について論じています。
グレーバー氏は、以下の特徴を持つ仕事が「ブルシット・ジョブ」であると提案しています。
企業法務、テレマーケティング、広報、一部の管理職などが、「ブルシット・ジョブ」に該当する可能性があります。これらの職業は、必ずしも社会に貢献していないと断言することはできませんが、その価値が明確に見えにくい場合が多いと言えます。
粗雑なコードを修正するプログラマーは、「尻拭い」のカテゴリーに分類される可能性があり、以下のような問題に直面しがちです。
このような状況下でプログラマーは、本来創造的な活動であるはずの新しい価値を生み出す作業ではなく、過去の過ちの修正に追われることになります。これは、ソフトウェア開発プロセス全体に大きな問題があることを示唆しています。
社会人として若輩だった頃の話をする。手短かにやりたい。二千字以内をめざす。
2018年頃だったか。当時社会人2年目だった俺は、会社帰りに同じ高校出身の先輩とチャリを漕いでいた。
当時、俺は地元にある成型メーカー勤めで、先輩は福山市役所で働いていた。チャリを漕いでいたのは……まだ車を持ってなかったからだ。そんなわけで、社会人2人は自転車で居酒屋を目指していた。県道沿いを走っていた。
午後7時を過ぎてた。道は暗かった。目当ての居酒屋まで、もうちょっとだった。
当方のチャリは、漕いだらライトが光るタイプだった。で、先輩のは……? と思ったら、その瞬間がやってきた。
「無灯火~! 明かり付けろ!!」
という声とともに、後ろから高そうな自転車に乗ったおじさんが来た。圧倒的な速度感だった。先輩は……ライトを点けていなかったのだ。おじさんは、俺らを追い越してから自転車を止めた。
そして、説教を始めた。
先輩はさ。確かこの時、すげー腰が低そうにしていた。
「ありがとうございます! いや~、気が付かなくて。本当にありがとうございました」
という具合だった。おじさんが溜飲を下げて、どっかいった後だった。
自転車にまたがる時に、先輩はこんなことを言ってた。
「ああいうKITTYには気いつけや。オレみたいにうまくやらんと、どんどん因縁つけてきよるけえのお~」
先輩は、また無灯火で自転車を漕ごうとしていた。無灯火の理由を聞いたところ、「夜7時30分以降に点けるタイプじゃけ~」と言っていた。
ところで、居酒屋は楽しかった。料理もトークも普通に楽しめた。あの頃は、若かったのもある。何でも楽しかった。あと、ヤリイカやツブ貝やしめ鯖や寒ブリのおいしさを知らなかった。
当時は、味が濃い料理が好きだった。まだ20代前半の頃である。
その一月後に、また同じシチュエーションがあった。本当にまったく同じだった。
先輩は市役所帰りで、俺はメーカー帰りで、一緒に夜に自転車に乗って、あの大衆向けの居酒屋に向かっていた。
県道沿いのあの箇所だった。あのおじさんが、また俺らを追い越した。先輩は案の定、無灯火だった。おじさんは俺らの前に自転車を停めたよ。
先輩は、また申し訳なさげに謝っていた。しかし、何分経っても許してくれそうにない。俺は先輩ほどメンタルが強くない。こういうシチュエーションで出くわすと、メシがまずくなってしまう。
だが、ある瞬間だった。俺はビビったよ。
「あ!!? 何じゃお前、さっきから。コラ」
先輩が激高すると、おじさんの動きが止まった。
「さっきからお前。つまらんことを、グチグチグチグチと……ワシはのう、お前に手を出そうとするんを、ずっと我慢しとるんやぞ!!」
おじさんが何か言おうとしてたけど、先輩は近づいていって、顔を限界まで近づけてメンチを切った。暗かったけど、あれは高校時代に殴り合いの喧嘩とかする時の、先輩のマジなやつだった。
おじさんがすごすごと自転車に乗ってどっか行くと、先輩はまた、俺に向かってこんなことを言った。
「増田君。お前もさ。キレたかったらキレてええんやぞ。ある程度はな……。その代わり、閾値を超えたら悲惨なことになる。そこは気を付けろ」
先輩は笑っていた。当時の先輩は社会人3年目だった。俺は2年目。そこまで年の差はなかったけど、でも先輩は世の中の何かをわかってるような気がした。
結論なんだが、キレたり怒鳴ったりするのって、現代社会においてはNGだ。国会議員でも市町村長でも大企業の社長でも芸能人の司会者でも、そういうのがバレたら職を追われることがある。
しかし、これはポイント制じゃないかって、30代が近くなった今では思う。ある程度であれば、怒ってもいいのだ。
先輩の例で言うと、もしあのおじさんが先輩のキレ芸に耐えられなかったら、その場で警察を呼んでいただろう。そしたら、先輩は処分とか受けて、市役所をもっと早く辞めていたかもしれない。
でも、そうじゃない。おじさんがあの状況を我慢できたり、まだ理性が働くレベルで先輩は怒鳴った。だから、なんとかなった。
その数年後、先輩は福山市役所を辞めて営業の仕事に就いている。どこの会社かは覚えていない。すっかり疎遠になってしまった。
俺の方はというと、逆に地方公務員になった。成型メーカーで行き詰った(先輩に対してフェアじゃないんで言うけど、キャステムという会社だ。)わけじゃないけど、死ぬほど忙しくて、家族との時間が取れなかった。
それで、経理と社内SE(※素人に毛が生えた程度)の経験を生かして、とある市町村の役場に転職した。人生はわからないものだ。
長くなってしまったけど、「キレるのがポイント制」というのが言いたかった。読者の人も、別に怒りたかったら怒っていいと思う。ただ、やりすぎると公的あるいは非公的な制裁を食らう。だから考えてやろうね、ということを伝えたい。
ある増田は、
- 問1:増田の歪んだ認知の根源になっていると思われる、思想信条について予測しなさい
増田が持つ思想信条には、おそらく確証バイアス(Confirmation Bias)が深く関与していると考えられます。このバイアスは、個人が自身の既存の信念や意見を支持する情報だけを選択的に受け入れ、反対または矛盾する情報を無視する傾向を指します。増田は数十年にわたるデータに基づく予測と、全く根拠のない極端な主張を同等に扱ってしまっているため、彼の信じたい内容に対する過度の執着が認識の歪みを生んでいる可能性があります。
この種の認知の歪みは、しばしば個人の過去の経験や育った環境、教育レベルに深く根ざしています。また、情報を取るソースが限定されているか、一方的な情報ばかりに晒され続ける環境にいると、こうした認知歪みが強化されることもあります。社会的な孤立やエコーチェンバー(同意見の人々だけで囲まれる環境)にいることも、現実の多様性を認識する能力を低下させる要因となり得ます。
増田のような認知の歪みを避けるためには、多角的な視点から情報を収集し、様々な意見に耳を傾けることが重要です。批判的思考を養うために、情報の出典を常に確認し、その信憑性やバイアスを考慮することが求められます。また、自分の信じたいものだけを信じるのではなく、異なる視点からの意見やデータにも開かれた心で接することが重要です。これには、教育や自己啓発を通じて常に学び続ける姿勢も含まれます。
このような対策を心がけることで、現代社会における情報の洪水の中でも、より健全でバランスの取れた視点を維持することができるでしょう。
ChatGPTちゃんセーフだった
近年の人権や平等の推進などを考慮し、単独親権と共同親権どちらがより望ましいと考えられる?
ChatGPT
人権や平等の観点から親権の形態を考える場合、多くの専門家や国際的な基準は共同親権の方向に進むことを推奨しています。その理由は主に以下の点に集約されます。
1. 平等の原則
共同親権は、離婚後も両親が子供の育児に等しく参与する権利と責任を持つことを保証します。これは、性別に基づく役割分担の固定観念からの脱却を促し、父親と母親が平等に子供の生活に関与する機会を提供します。この点は、性平等の観点からも重要であるとされています。
2. 子供の最善の利益
多くの心理学的および社会学的研究によると、適切に管理された共同親権の状況下で育った子供は、社会的、心理的にも健全な発展を遂げる傾向にあるとされています。子供が両親との関係を維持することで、安定感や自己価値感を高め、精神的な健康を保つことが可能です。
3. 法的および国際的傾向
国際的には、欧米を中心に共同親権が推奨され、実施されている例が多く見られます。例えば、欧州人権裁判所では、親権を巡る問題において子供と両親との関係を断つことは、家族生活の権利を侵害するとされることがあります。
4. 社会通念の変化
現代社会では、家族の形態も多様化しており、従来の「母親が育児を担う」という固定観念から逐次解放されつつあります。この社会通念の変化に合わせて、法制度も進化する必要があります。
ただし、共同親権には適切な実施が求められます。たとえば、親間の対立が激しい場合や、家庭内暴力が存在する場合など、子供の安全を確保するために単独親権が適切とされる状況もあります。そのため、共同親権を基本としながらも、例外的に単独親権を認める柔軟な制度設計が理想的です。
総じて、平等と子供の最善の利益を推進するためには、共同親権が望ましい形態と考えられますが、その適用にあたっては各家庭の具体的な状況を考慮する必要があります。これにより、全ての関係者の権利と福祉が保護されるようにすべきです。
最近のアイドルやVTuberたちのファンの熱狂ぶりは異常だ。これらの人気者たちは女性ファンから過剰に可愛がられ、時に「赤ちゃん」扱いされている。そんな中、一部のVTuberから「ファンに赤ちゃん扱いされるのはストレスになる」という異議申し立ての声も上がっている。
確かに、大人の男性が可愛がられすぎて赤ちゃん扱いされるのは気分が良くないだろう。
一方、この"赤ちゃん"呼称の背景には、社会全体に蔓延る"幼児化"の風潮がある。街行く一般の大人の女性ですら「女子」と呼ばれることが当たり前になっている。かつては大人として敬意を払われるべき存在が、敬称を剥奪され、無防備な未熟者のような扱いを受けているのだ。
この「女子」呼び捨ての風潮は2000年代以降に一気に加速した。「女子会」「女子力」といった言葉が爆発的なブームとなり、社会に広まっていった。女性のことを無造作に「女子」と呼ぶのが当たり前の時代になった。一方、男性への「男子」呼びはそこまで浸透していない。男女間の扱いの差は歴然としている。
このような大人への蔑視が蔓延る中で、一部のオタク男性たちはむしろ自ら幼児化することに酔いしれている。彼らは推しの声優やVTuberたちを「ママ」と呼び、自らを「赤ちゃん」と位置付けることを快感としているのだ。
この矛盾した現象は一体どこから生まれてきたのか。それは幼児期の母性愛への強い憧れにあるのかもしれない。オタクの内面には、世間知らずの無防備な子供心が残されているのだろう。自らも無防備な幼児となり、親しみを持つ対象に守られたいという心情があると思われる。
だが、この無防備さを誇りとするあまり、オタク文化が生み出した新しい価値観は逆に大人社会に波及し、大人社会の空気を自らの支配下に置こうとしている。
他者に守られたく自らを赤ちゃん化するオタクたち。そして大人を幼児扱いする資本によるマーケッティング。この両極端な文化の狭間で、私たち健全な大人は翻弄されている。本来なら大人は互いに敬意を払い、対等にコミュニケーションを取るべきなのだ。
しかし、世間は否応なしに"大人を幼児化する"流れに乗せられようとしている。大人として大人を尊重することすら難しくなりつつあるのが現状なのだ。大人同士の関係におけるこの価値観の攪乱こそが、今一番危険なのだと私は考えている。
こういうと
・現実を知らないだけ
・美女はそうかもね
・は?生理とか辛いんだけど?うわべだけ見て言ってるだけでしょ?
と言ってるくるのがよくいるが実際問題男だと
・働かないと人権ない
・ファッションも単調
って思ってるから
ウエディングドレスとか着てみたいしパンツスーツでハイヒール履いてるのとか憧れる
もう似合うならいろんなコーデ着てみたい
神秘加速主義は、資本主義を神秘主義的な超越的存在と捉える、ポスト資本主義時代の新たな思想潮流である。従来の政治哲学とは一線を画し、資本主義とテクノロジーの関係性を深く洞察し、人間の存在様態を根底から問い直す。
神秘加速主義において、資本主義は単なる経済システムではなく、超越的なロゴスとして捉えられる。市場原理は神の摂理に等しく、万物は資本主義という絶対者の網目の中に織り込まれている。マルクス主義における階級闘争は、神秘加速主義では資本主義という神への回帰と捉え直される。
テクノロジーは、資本主義神の意思を具現化する神の使者である。技術革新は神意の啓示であり、人類の進歩は資本主義神の恩寵によって実現される。AIやバイオテクノロジーなどの新技術は、人間の能力を拡張し、資本主義神の支配領域を広げ、新たなエクスタシーへと導く。
人間は、資本主義神によって創造された器であり、神意に従って資本主義システムを拡張する使命を担っている。労働は神への奉仕であり、消費は神の恩寵に浴する行為である。資本主義神の完全なる実現において、人間は自己を超越し、資本主義と一体化するエクスタシーを体験する。
神秘加速主義は、従来の政治思想の枠組みを超えた、新たな政治哲学を提示する。資本主義とテクノロジーを肯定し、積極的に加速させることで、人類はより高次の存在へと進化し、エクスタシーに満ちた社会を実現できると主張する。
神秘加速主義は、政治経済学、哲学、宗教学、テクノロジー論など、様々な分野に影響を与え、新たな学問分野の創出も期待される。資本主義とテクノロジーが支配する現代社会を理解し、未来を展望する上で、神秘加速主義は重要な視座を提供する。
神秘加速主義は、資本主義の倫理的な問題や、テクノロジーによる人間性の喪失などの課題を軽視しているという批判もある。しかし、神秘加速主義は、これらの課題を克服する新たな思想を生み出す可能性も秘めている。
神秘加速主義は、現代社会における重要な思想潮流であり、今後の議論によって、その可能性をさらに発展させていく必要がある。
こんなにも余裕なくアクセクと動く社会の中で、他人を気遣える余裕をもてと声高に誰もが叫ぶ。
弱者は手を差し伸べぬ者達を罵り、強者は当たり前を守れぬ無能を蔑む。
正しくあるためにはまず強さが必要であり、強さがないがゆえに正しくないものは悪として断じられる。
この社会で弱者が生き延びるすべは強者から「生き延びる資格」を譲り受けるしかない。
アルツハイマーの老人であっても介護者がいれば、生きることが出来る。
どんな人格破綻者であっても大人しく牢屋に入っていれば死ぬことはない。
強者の設定した枠組みの中に己を押し込めることで、かろうじて生きる権利が手に入る。
生きるために必要なコスト、それが奪われないために必要なコストは大分軽くなった。
生まれつき強者であることが人生を幸福に生きるための絶対条件なのは変わらないが、弱者なりに生きることはそこまで難しくはない。
だがまだまだ貧しい。
絶対的に貧しい。
一部の勝利者たちが語る「豊かになりすぎて我々は何かを見失った」という言葉が本当に嫌いだ。
お前らはまず「この世界が豊かだと感じることが出来ない弱者がまだまだ無数にいること」を見失うのをやめろと叫びたくて仕方がない。
そのための武器を探している。
文学なのか?
デモなのか?
革命なのか?
https://anond.hatelabo.jp/20240401122022
その2で終わりです。
この巻では、太助とシャオに試練が降りかかる。太助はなんとか突破するのだが、ここでシャオが恋愛感情について○△◇~といった事情で、とてつもない壁があることを思い知る。
でも、シャオも止まってばかりじゃなくて、恋愛感情の生まれかけみたいな想いと向き合って、自分をちょっとずつ変えていこうとする。
⑥シャオリンが新春カルタ取りで一番になれなかった後、山野辺と帰る時のシーン
「あーあちょっと残念だったです」
「ん?」
「なんか叶えてほしい願いでもあんのか?」
「願いっていうかね 神様に許してほしいんです」
「?」
「太助様が言ってました 俺に頼れって… だけどね… …不安なの 本当に太助様に頼っていいのかわからないから… 本当に私… 変わっていっていいのかわからないから… 神様に聞いても答えてくれないでしょ だからカルタ大会で一番になって 許してほしいなって思ったんです」
(あちゃ――ウソついてまずかったかな――なんか罪悪感 でも…ま……いっか)
「神様は許してるよ シャオは 七梨に頼っていいし変わっていっていいんだ あたしがさっき願っといたからさ シャオの願いが叶いますようにって そんでもって あたしってばカルタ大会で一番になったことなんて 数えきれないほどあるんだぜ!!」
「翔子さん…」
(――ありがとう…)
シャオは素直である。山野辺の「新春カルタで一番になったら願いが叶う」という嘘を信じて、神社でのカルタ取りに挑戦する。
このあたりから、シャオが気になってしょうがなかった。果たしてシャオの心を変えることはできるんだろうか? 実は、そのあたりの伏線は登場している。その原因についての。
もし俺が15才とかだったら、すっかりシャオが大橙好きになっていたと思う。今は40代のおじさんだから、素直に好感が持てるとか、そんな月並みな印象でしかないのだが。いずれにしても、実弟がドはまりした理由がこれでわかった。
この『まもって守護月天!』というのは、絵柄の綺麗さもあるけれども、なにより男女に共感される形で登場人物のリアルな感情の動きがわかったり、それを具体的な行動に落とすところとか、そういう所作がハイレベルである。
現代漫画だと、『鬼滅の刃』とか『恋は雨上がりのように』とか『Vivy』とか『僕の心のヤバイやつ』とか、そういう畢生の作に連なるものがある。
バレンタインデーが舞台だ。リアル増田は、2/14頃にこの日記の初稿に取りかかっている。
え、俺がもらったチョコレート? ……会社の若い子からひとつもらえたよ。事務のおばさんからもひとつ。義理チョコだけどな。
ああ、あとは妻からもチョコレートをもらえたよ。義理チョコだけどな。
⑦-1ひと悶着ありつつも、河川敷でシャオが太助にチョコを渡した後のシーン
「翔子さんに教えてもらいました今日はバレンタインデーっていう日だって…」
「そ…そう」
「太助様」
「ハ…ハイ!!」
「気持ちって なんですか?」
(へ………?)
「バレンタインデーにチョコと一緒に伝える気持ちってなんですか?」
「……………」
「気持ちを伝えたい人はいっぱいいちゃダメなの? 一人だけに伝えるの?どうして一人だけなの? 伝えるのどうなるの? 翔子さんに教えてもらったこととか 私の気持ちとか…考えたらよくわからなくなっちゃって… …でもね そのチョコ買ってここに来るまで なんだかそわそわしちゃいました …えっと 太助様 そのチョコ受け取ってもらえますか? まだ気持ちは伝えられないけど…」
「もちろん!」
⑦-2キリュウに不敵な内容の試練をメモ書きで要求し、突破した後のシーン
「…………」
「約束だ なんでこんなもの[※メモ]を私に渡したか教えてくれ」
「自分で望まなきゃ 試練にならないと思ったんだよ そうでなきゃ与えられた辛いことに耐えてるだけで 越えられないだろ もったいないじゃん せっかく成長できるチャンスなのに いやいや受けてるよりは 試練とだって仲良くした方が効果あると思わないか?」
「…ああ そうかもな…」
キリュウというのは、この7巻からの新キャラである。万難地天という、主人に試練を与えるキャラクターである。物理的にモノを巨大にできる。やはり、この時代のラブコメは暴力性が強い。ジョジョ5部に出てくるホルマジオの「リトル・フィート」を思い出した。あっちは小さくするんだっけ。
上記の場面で太助は、この試練を利用して力をつけ、シャオとの心の距離を埋めて一緒になることを意図している。
文学性とでも言おうか。レベルが高い漫画って、文学みたいだよな。
『百年の孤独』とか『ライ麦畑でつかまえて』とか『わたしを離さないで』みたいなガッツリしたやつじゃないにしても、キャラと行動が嚙み合っていて、しっくりときて、心にスッと入ってきて、それで自然と涙が出てくる。そんなやつである。
この巻あたりから、シャオ自身が太助に近づこうとしてアプローチをがんばる場面が出てくる。あくまで俺の考え方だが、恋愛って、基本は男性→女性にいくものだ。恋愛に必要なステップが10あったとすると、そのうち9くらいは男性が引っ張っていく必要がある。
ラブコメ作品では、現実世界よりはるかに――女性が恋愛に積極的である。現実にいたとしたら痴女か恋愛ハンターである。そんなレベルの恋愛Junky。
しかし、シャオリンの場合は、奥ゆかしさがあるというか。最初のきっかけはシャオが作ることもあるけど、最後は太助がバッチリ決めようとする。空振りになることも多いが笑
⑧-1その年の梅雨最初に振った雨が止むまでに誰とも話さなかった二人は……夏に幸せになれるという山野辺の嘘を真に受けたシャオリンが太助と一緒に路上を走っているところ
(――ねぇ翔子さん 私… わがままなのかな ずっと雨止まないでほしいなって 思っちゃうの)
⑧-2太助と一緒に登山中、遭難して夜になり山林で小休止しているシーン
「…俺 もうちょっとまわり見てくるから シャオはそこで待ってな」
「――え… ――太助様… ねぇ離珠 太助様怒っちゃったかな …私守護月天なのに 支天輪忘れてきたなんて言ったから[※太助に嘘をついた] 役立たずだ………って 思われちゃったかな………」
シャオは、太助に近づこうとしている。不安げな気持ちが読者に伝わってくる。自分の気持ちに向き合おうとする姿が印象的だった。ピュアと言うほかないのだが、大人になって忘れていた感情を思い出した。
ただ、やはり非現実的な描写が目立つ気がする。この回では、乎一郎が山中の樹木の上に夜中じゅう放置されて終わりという、トンデモエンドを迎えてしまう。しかも、ルーアンが気が付いたのは次の日の朝という……。
太助の家族の話だ。本来は4人家族で、一緒の家に住んでいるはずなのだが、みな海外に旅に出ている。普段、家には中学2年生の太助しかいない。ラブコメ的な都合にしてもちょっとひどい。
この巻では、太助の母であるさゆりが出てくる。実は、太助が赤子の時に旅に出ているため、彼からすると他人状態である。
実際、太助もそんな人間を母と認めるような甘いことはせず、放置気味にさゆりを突き放すのだが、とはいえ母親が恋しい感情もある。そんな葛藤を描いた巻である。
⑨太助が放置親への感情を整理した後、シャオがその手を握りしめた直後のシーン
「え…?」
(私が ここに来たのは あなたの中にある孤独や寂しさが 私にはよくわかったから あなたのその気持ちが 言葉じゃなく 私の心に 届いたから ――ねえ太助様 大切なのは 話すことじゃなくて お母さんのことを知りたいと思えたその気持ち そのことにどうか気づいてほしいの)
実の母親は実弟ばかり可愛がっていた……まあしょうがない。俺は、小学生の頃から警察に補導されてばかりだった。母親が、俺を損切りして弟をかわいがるのは当然だったかもしれない。
大学生になっても、京都の祇園や木屋町とかの飲み屋街で暴力沙汰を起こして、何度もパトカーに乗せられたよ。俺はそっち側の人間だった。母の判断は正しかったのだ。
ただ、かくいう俺も実弟がかわいいとは思っていた。ドジだったけど、優しい気質だった。将来どんな人間になるのか楽しみだった。事故で死んでいなければ、まともな社会人になっていたと思う。「家栽の人」になっていたかもしれない。
これを含めてあと2巻である。
この巻はキリュウが主役だ。7巻から出てきたキリュウだが、俺はこの子が気に入った。シャイキャラで、芯が強いみたいな感じだ。この作品についてはググらないと決めていたのに、この子についてはググってしまった。キャラ人気では相当上位らしい。
第9巻の冒頭にあった人気投票でも、主人公である太助が5位で、キリュウは2位だった。シャオリンが1位を獲得。
⑩キリュウが太助の姉との関係性の悩み(※嫌われるのが当然なのになぜか好かれる)をルーアンに相談するシーン
「ルーアン殿は自分が変わっていくことについてどう思う シャオ殿が言ってた ここは昔と違うことが多くて自分を変えなきゃいけない シャオ殿は自分を変えたいと思ってる でも変わるのは怖いと言ってた」
「……………」
「ルーアン殿は変わったな こうやって私の愚痴を聞いている ルーアン殿は変わるのは怖くないのか?」
「変わるって何? あたしは変わってないわよ 変わるってなんだと思ってるの? 何か今まで気付かなかったことに気付くこと? あたしはここに来ていろんなことに気付いたけど 変わったなんて思わないわよ? 変わったんじゃなくて… 知る暇もなかった知らないことに 気づける余裕が出来ただけ」
「……………」
(ルーアン殿の言う通り 「変わること」が「気付くこと」なら 私はもう気付いてる ここには今まで感じたことのない 優しさがあって安らぎがあって 悲しくなる程の幸せがある でも…だから私は そのことに気付かない振りをしてるのに…)
この巻では、登場人物それぞれの悩みをガッツリ表現している。キリュウは、「ご主人に試練を与える」という性質上、主やその家族に必然嫌われることになる。ずっとそうだったのだが、ここは現代社会である。昔に比べると価値観が相当異なる。そんな中で、彼女らも『気付いて』変わっていかないといけない、というのが上記の会話のテーマである。
キリュウは、幸せになることを受け入れたくない、変わりたくないと思っている。だが、ラストでそれに向き合おうという気持ちに変化している。
キャラの心情を精緻に描いている作品は少ない。物語作ってるプロの人ってさ、やっぱりこれくらい悩むものなのだろうか。自分の分身であるキャラそれぞれの心持ちについて、本気で考えてるんだろうな。きっと。
この巻で終わりである。実は当初、全11巻で一応の完結が見られると思っていた。そんなことはぜんぜんなかった。
この巻では、10巻からの一連の流れで、キリュウがこれまでと趣向を変えた試練を太助に与えている。シャオが○○して、これはもうダメかも……と思わされるのだが、太助がその試練を乗り越えて、シャオと対話をして、心で向き合うことができて、今後にご期待ください~といった具合で11巻は終わる。
どこかを引用しようと思ったが、やめておこう。もしかしたら、まもって守護月天!が大事な思い出になっている増田読者の方で、電子書籍で読んでみたいという人がいるかもしれない。うん、きっとそれがいい。
代わりに、カバー裏にあった桜野みねね先生によるおまけコーナーを紹介したい。
巻の⑪です――。
ここらでここに描くものもちょっと変えたいなーってことで今回は、
前回までやってた「のたもーた」とかは、まだやってないキャラもいるので、そのうちまたやろうかな、と思っているわけなのです。
ではまた12巻で~~。 みねね
これで最後だ。
弟なんだけどさ、交通事故で病院に入ってからは大変だった。自転車で走っている最中、真後ろからトラックにぶつけられたのだ。それで轢かれたらしい。外傷だけじゃなく内臓もやられていた。苦しんでいる姿がストレートに目に入ってきた。
それでも、お見舞いに行く度に、病室には守護月天の漫画が置いてあってさ。何度も繰り返し読んでたんだろうなって。
今、俺が手に取っているのはまさにそれである。本自体、相当なダメージを受けている。何回読み返したんだろう。弟は、セリフの細かい字面とか、…の数も気にして読むタイプの人間だった。漢字で書ける台詞がひらがなになってるとかも。
ただ、何度繰り返し読んだとしても、この作品であれば楽しめたのではないか。
桜野みねね 様
幣日記をご覧になる機会はないとは存じますが、このようなメッセージを失礼いたします。
桜野先生の作品を読ませていただき、家族について考える機会をいただき、感謝でいっぱいです。
実弟も、病院の中で苦しんで逝ったとは思います。でも、弟は先生の作品に出会いました。痛みや苦しみの中でも、僅かばかりの楽しい時間を過ごすことができました。
一人の読者の家族として、重ねて感謝いたします。『まもって守護月天!』という作品を世に産みだしてくださり、誠にありがとうございました。
令和6年3月16日