はてなキーワード: 差し支えとは
日本にいたころの近所は、端の家から、長男が離婚出戻り自殺、長女は引きこもり、次が家族喧嘩の最中に放火して全焼、次の家が長男が長期失踪中、次の家が若い長女が不倫して離婚、次の家がヤクザに借金して家と庭と田圃を全て売却、次の家は父さんが鬱病になり公務員を退職、離婚。次の家がじいさんが窃盗で収監、次の家が夫婦そろって六十代で痴呆症。いずれも地域では豪農といっても差し支えない家だったが二十年もすれば家も田圃も無くなるようだな。日本に居たころのことを思い出していたらバカンスにならないのであまり考えないようにしていますが。
日曜日は小学校の校庭で小中学生の女の子とドッジボールをしたり追いかけっこをしたりして遊んでました。みんなかわいいのでロリコンの拙者はシアワセ。 アラフォーのオッサンがこんなことしてたら日本では普通に事案。本当にフリーダム。
仕事が苦しいとか、毎日がつまらないとか、将来の年金が不安、とか毒吐いてるくらいなら、日本を出れば良いよ? 三十代のまじめな道程なら一千万くらい貯金あるでしょ? 現地の生活水準でいくなら5倍以上の使い勝手があるぞ。5千万だ。住民票を抜けば年金や健康保険も支払わなくてよくなるからそれもごっそり振り替えればいい。大病をしたら、と覚悟を決めれば、一生働かなくてもいいぞ、働かずに喰う飯がうまいかどうかは別だがな。
リストカッターとは、読んでそのままリストカットをする人のことである。
リストカットとは、カッターや剃刀等の刃物で手首を切る人のことである。
所謂メンヘラと呼ばれる人がする行為であると言って差し支えないだろうが、
世間的にはその印象は二つに分かれる気がする。
一つは「構ってちゃん」、
Twitterで「リスカ」もしくは「リストカット」と検索すると、
いかにも自己顕示欲の強そうな、殺しても死にそうにないSNOW盛り盛りの女の自画撮りか、
病んだ雰囲気の絵ばかりが出て来る。
つまり、Twitterにわんさかと居る、鍵も掛けずに「リスカした」と呟く奴らは大体前者に当たるだろう。
もう片方の「自殺未遂」だが、これには少し誤解がある。
本当に死のうと思ったとき、リスカで死のうと思う人間はあまりいないのではないかと思う。
何故なら確実性が限りなく薄いからだ。
包丁で縦一千に血管を掻き切ればまだしも、剃刀で横に一筋線を入れただけではまるで死ねない。
なので、リスカをしている人間に「自殺したいほど辛かった」と思うのは間違っている、と私は思う。
私は自殺願望がある精神科通院者だが、リストカットは自殺願望とは全く関係がないと思っている。
勿論人によって違うので、死にたいと思って手首を切る人も居るだろうが、それは恐らく衝動だろう。
考え抜いた末に「手首を切って死のう」と思う人はほとんどいないはずだ。
それなら首を吊った方が遥かに確実だと思う。見た目は汚くなるかも知れないが、それはそれだ。
まぁこの記事を書いているからには私もリストカッターな訳だが、切る理由はその時によって様々である。
ただ、何故切るに至るかというと、八割が「我慢」、残りの二割は「癖」だ。
先に「癖」について説明しておくと、これはもう単に、腕を切ることが癖になってしまっているだけだ。
大なり小なり理由はあるにしろ、一度切ってしまうともういいかと言う気分になり、傷が増えていく。
完全に悪癖である。
私の場合、ここ4年ほどその悪癖は鳴りを潜めつつあったのだが、三十手前にもなって今更再発してしまった。
一年に一回程度はしていた気もするが、ここまで腕が傷まみれになったのは久し振りである。
一番病んでいた高校生の頃以来かも知れないし、もしかしたらそれ以上かも知れない。
閑話休題。
さて、ここからは、腕を切るに至るまでの八割を占める「我慢」についてを話そうと思う。
切る理由は様々だと先ほど書いたばかりだが、正直に言って、「切ろう」と思うまでの、
全ての感情が「我慢」に繋がるので、切る理由もまた「我慢」なのかも知れない。
私には、病み始めた小学生高学年の頃から一番病んでいた高校生の頃、
果ては三十手前になった今に至るまで、常に存在していた衝動があった。破壊衝動である。
ただ、それを他人にぶつけるのは憚られた。
武器など買えば良かったのかも知れないが、何故だか買わなかった。
そして、私はかなり早い段階で破壊衝動を他人に向けることを諦め、
本来他人にぶつけたい衝動を、自分にぶつけることで、どうにか逃そうと苦心していたのだった。
何故自分の体を傷つけることで解消しようとしたのかが今の私にも分からないのだが、
幼く馬鹿な割に、人を傷つけてはならないと考えたのではないだろうか。
まぁ、それも、今思えば、というだけであって、切り始めた中学生当時は、
親しい友人に傷を見せてみたりもしていた。
余談だが、この友人は「へー」というだけで心配など何もしなかった。
幸いなことに今も友人なので、機会があったらあの時の馬鹿な私について訊ねてみたい。
それは置いておき、最初は「破壊衝動の我慢」から始まったリストカットは、
範囲が広がっただけだとも言えるが、実はそれは、「切るに至るまでの理由が増えた」ということでもある。
この年になって、と思わなくもないが、苛々の我慢、自分に対する怒りの昇華、時には眠気を我慢する意図でも
腕を切るのだから、まったくもって救いようがないと思う。
だからつまり何が言いたいかと言うと、リストカットをやっている奴は全員紛れもなく面倒なので関わるな。
間違ってでも力になりたいと思うな。
構ってちゃんであろうが本気で死にたい奴だろうが癖でやっている奴であろうが、全員間違いなく面倒だ。
具体的に言えば、夏に長袖を着て暑そうな素振りをするのに決して脱がない奴だ。
そういう趣味嗜好の人だとしてもそれはそれで頑固で厄介だから逃げた方がいい。
もうすぐ夏ですね。暑くなりますね。
私は今年、半袖が着られません。
関心のあることは何ですか?
マスメディアのニュースですか、芸能人ですか、Twitter内の炎上案件ですか。
自分がどう見えるか、自分は何ならば成功するか、自分が幸せに生きるにはどうすればいいか。
他者からいかにして関心を向けてもらうか、実態と対策を知るために他者研究を行う。
他者がある別の他者を指摘する時、指摘した自身へどのような眼差しを向けるのだろうか。
分からない。
自分を劣っていると罵った人々は、見ていると、あまり深くは、多面的には考えずにやっていたようだ。
それが分かっても、まだ劣等種と言われるのではないかと、所属集団が変わった今でさえ、びくびくしている。
ここは、いじめ、部落差別、障害者差別、村八分を、多くの場合で端的に悪と述べても差し支えないと考える人々で構成されてるはずなのに。
もうやめよう。
自分はこうであり、人を無闇に迫害していないし、他者より能力が殊更に劣っているわけでは、最早ないのだ。
少し、少しと、自分を信じなくては。
信じるというか、ここまで嫌いで劣っていて、馬鹿にされて当たり前だと、自分を思わなくてもいいと、それに納得したいのだ。
そうしても、苦しくなるだけで何も変わらないし、変えてもらえないし、変えられない。
こんなことが書きたいんじゃないんだけどな。
このままちゅうにとんでいけ。
近年、同調圧力に屈しない事が正しいこととして扱われる傾向があるように思います。
飲み会への参加を断るだとか、学校での同調を迫る雰囲気に辟易して学校へ行くことをやめるなど様々な場面で同調圧力への抵抗が現れています。
話を進めるに先立ちまず前提として言っておきたいのは、わたし個人としては同調圧力が悪しきものだと考えているという事です。
同調圧力に抵抗する事には大抵、抵抗した者を排除する作用が伴います。そして日本においては集団からの排除を受けると、実社会生活が満足いくような形で立ち行かなくなる可能性が高いと言えるでしょう。
そのような意味で圧力に抵抗するということは、個人の意思決定の自由を実質的に奪ってしまうと言えるといえます。
そして人間は皆、自由な内心に従った意思決定をし、その意思決定に基づく行動は社会的法規範および他人の人権を侵害しない限りにおいて、許されてしかるべきだというのが私自身の根本的な思想なので、上記のように同調圧力自体は悪しきものと考えています。
話を戻しましょう。
では同調圧力に抵抗する事は正しいのでしょうか。
もちろん、同調圧力により強い精神的苦痛を受けて死を選ぼうとする人は同調圧力から逃げる事を選ぶべきでそれが正しい手段でしょう。
宗教的な議論はあるにせよ、死んでしまえばそこで何もかも終わりになってしまうのですから、命を終わらせる前にまず同調圧力から逃げてみるべきだからです。
しかし、そのような段階に至る前において同調圧力に屈しない事が正しいと言えるでしょうか?
最近は「飲み会なんて行く必要はない」「学校なんて行きたくなければ行く必要はない」と言った発言がよくされており、このような発言には肯定的な意見がよく寄せられています。
結論から言うと私はこのような考えは「現状では」間違っていると思います。
何度も述べているように、同調圧力は悪しきものです。しかし、実社会に目を向けて見ると、飲み会に参加する人の方が職場での居心地が良くなる傾向があるでしょうし、学校にしっかり行っていた人の方が将来的な選択肢が広がる(すなわち自らが望む進路に進む事ができる可能性が高くなり、その中で報酬としての金銭を得る事ができる)傾向があると言え、同調圧力に抵抗しないほうが良好な生活環境を維持しやすいでしょう。
私たちは社会の中で生きる存在ですから、このような社会傾向から目を背けることはできません。生活にはお金が必要であり、お金を稼ぐには働く必要があります。そして異論はあるにせよ、一般的には良好な生活環境には良好な人間関係を築く必要があると言えるでしょう。
社会的に大多数の人にとっては良好な生活環境を維持する事が重要でそのための選択が「正しい」選択と言うべきでしょう。(自分の信念を貫く事が重要であるという人もいますが、そこまで強い人はなかなかいないものです。)
「現状において」この両者を実現するためには基本的に同調圧力に従うほかないのです。
なぜなら「みんないやいやながらも同調圧力に従っているから」です。
これには他人が辛いからといって自分までその辛さを受忍する必要はないというという批判があるでしょう。しかしこれは綺麗事にすぎません。このような発言は基本的に他人と同じ辛さを受忍させられる側から出るものと言えるでしょうが、人間は聖人でもない限り自分が辛い時に辛くない他人を恨めしく思ってしまうものです。
すなわち、「現状では」同調圧力に抵抗しない事が自身の生活の質を上げるという意味において正しいのです。付け加えるなら、同調圧力に抵抗しつつ良好な生活環境を維持したいと「他力本願的に」望むことはむしろ自分勝手で無責任が過ぎると言うべきではないでしょうか。
では同調圧力に抵抗する事が正しい事だと言えるためにはどうすれば良いのでしょうか。
そんな事できないよ、という声があるかもしれませんそしてその通りかもしれません。
しかし、同調圧力に抵抗し、かつ良好な生活環境を手にしたいのならば、少なくとも社会傾向を変えるなんらかのアクションを起こすべきです。わたし自身はどのようなアクションを起こすべきかについての明確な答えを持ち合わせていませんし、もしかしたら同調圧力に抵抗する事自体がその答えなのかもしれません。それ故、ここまでのわたしの主張もまた無責任なものかもしれません。
しかし、現在の、同調圧力には従わなくても差し支えないだろうという風潮が社会的に広く認容される可能性もありますが、これ以上広がらない可能性もあります。とすれば、仮に後者のようになってしまった場合、結局同調圧力に抵抗した人は良好な生活環境を維持する事ができなくなってしまうことになる可能性が高いでしょう。このように考えるならば「現状において」同調圧力は屈しない事が正しいとは言えないのではないでしょうか?
この問題はわたし自身の「同調圧力は悪しきものだ」という考えと、「しかし同調圧力に従う事が現状正しいのだ」という相反する考えが衝突する場面でもあります。
後者は現在の社会的風潮とは異なるものかもしれませんが、同調圧力に反対する者として、「同調圧力に従わないことが正しいのだ」という「同調圧力的風潮」に抵抗する事が、現在の社会的傾向を変えるための私なりの答えです。
母校のアメフト部は、数年前に部員の不祥事があった。大学側がかなり速やかに関わった学生を何十人もに罰を下した。後で聞いたらそういう不祥事は当然の常態化してたから生ぬるい処分だったらまた同じことやらかして部が空中分解しててもおかしくなかったという話だった。
フェニックスもPL学園ルートたどってもおかしくない。カレッジフットボール自体が関学の一強といっても差し支えがないしフェニックスは強豪とはいえ関東はどんぐりの背比べでしかないから、日大のナンバー系の附属から上がってくるはずの有能な選手がどんどん外に出て行くぞ。以前にもあったんだ。それでフェニックスは弱体化した時期があった。
ええか。
お前らはまだ若いからどんなパンティーにも興奮してしまうだろうがな。
マンションに1階に住むOLは下着だけは室内に干す。ベランダにデーンとほしてあるのは大抵の場合、おばさんだ。
そうなると目を向けるべきは2階なんだ。
2階なら下から見にくいだろうとOLもベランダに干すケースがある。
でも、目隠しの柵の隙間から見えたものならそれはもうカナンと言っても差し支えない。そういう物に興奮を覚えるべきなんだ。
俺がお前らと同じぐらいの頃な、やっすいワンルーム7階建ての最上階に住んでた。
隣にはまるでワンルームを馬鹿にするかのようなでっかいマンションが立っててな、俺はなんというか、ベランダに出て左手から差す日光浴びながら歯磨きをするのが好きだったから朝はぼけーっと外を眺めながら歯磨きをしていたわけだ。
そこでな、気づいたんだ。真向かいってほどでもないんだけど、確かにでっかいマンションの少し下の方の階、多分5階だ。
眠気がぶっ飛んだ。
それまでは見えてなかったというより、探そうとすらしなかった。むしろ向かいのマンションを見ずに左手にある大きな道路を行き交う車を眺めて朝の活気を楽しんでた。
びっくりしすぎて即部屋に引っ込んだ。
間違いない、あそこには俺好みのライトグリーン色の下着をつける若いOLがいる。ライトグリーン色って時点で若いOL意外ありえない。しかも、ワンルームに住む俺何かと違って結構なエリートだ。これは、凄まじいぞ。
なぜライトグリーンが好きなのか?ど田舎から都会に出てきた俺にとって「緑」とは周りにあって当然のものって認識があった。社会人になって緑が恋しくなったんだと思う。だからライトグリーンが好きなのだ。
そこから向かいのマンションの5階住みのOLに恋をするわけだ。
でな、もしかしたら早起きしてればOLの姿を拝めるかもしれない。幸い俺の職場は10時始業だったので、多分、5時ぐらいから9時まで張ってれば早朝洗濯物を干す人がわかるだろうと。
それからいつも2時に寝て8時に起きていたのを11時に寝て5時に起きた。
流石に4時間も張るわけにもいかないし、逆に4時間もベランダにいたら向かいのマンションから「変な男がこちらのマンションをずっと見ている」と通報されかねない。なのでベランダにいてもおかしくない趣味を始める。それがガーデニングだった。
早速ホームセンターまで自転車を飛ばして小さいプランターや、防虫剤やプランターに被せるビニールや、花の苗を買う。選んだ花はパンジーだ。パンジーなら難しくない、小学校、中学校と園芸のおっちゃんと仲良くなっては手伝いをしていた自分にはカンタンなものだ。乾燥した土でもすくすく育つから水やりを忘れても問題ない。
そこで朝5時に起きて、いそいそとガーデニングを始める。まぁ、小さいプランターなので2時間もかからないうちに終わるが、そこから土をいじってるふりをして待つが、現れない。
その日はもしかしたら選択の日じゃないのかもしれないと思い、出社する。
翌日だ。
朝5時に起きてパッと確認すると、なんともうその部屋に洗濯物がほしてあった。
戦慄した。5時でもだめなのか?
なんどかそんなことを繰り返し、3時に起きたこともあったが、結局暗すぎてわからず。
もしそうであるならばこれ以上残酷なことがあるか。夜にガーデニングをして張るやつは明らかに変質者だ。せっかくパンティーの主を見るためにガーデニングを始めたのに無意味だっていうのかい。
そうやって、心の中にあのライトグリーンのパンティーをしまい込んで、ガーデニングは続けてるうちにきれいなパンジーが咲いた。
そして月日が経った。
俺がいつものようにお花の世話をしていると、例の部屋から女性がでてきた。
スラッとした長身の女性だ。多分自分より少し年上。きれいな人だった。
自分の心臓はバクバクした。あのライトグリーンのパンティーをあんなにきれいな人が穿いている。
奇跡と思った。
奇跡すぎて、勃起はしていなかった。興奮すらしてなかった。びっくりするぐらい。
ただ感じたのは「触れてはいけない何かを見た」ことだ。
それから自分はその隣のマンションの5階の例の部屋の呪縛に縛られることになる。見てはいけないのだ。
意識的に目をそむけ、そのこころにライトグリーンのパンティーなんてもはや存在しなかった。
知らなければよかった。
知らなければ俺の心にはライトグリーンのパンティーがあったのに。
しばらくして、転職をすることになり、くそったれなワンルームから少しはマシな1LDKの1階に引っ越した。
今でもガーデニングは続けている。それどころかベランダがかなり広い部屋を選んだ。今年は自分が育てたカーネションを母親にプレゼントできそうだ。
久しぶりに恋人ができた。
およそ七年ぶりのことで、私にとっては「大」を幾つ連ねても足りないほどの大事件だった。
なぜなら、恋人がいなかった約七年間の間、恋愛関係に発展しそうな付き合いは一切なく、誰かとデートはおろか二人で食事をするシチュエーションすらなかったのだから。
もちろん酒の勢いやワンナイトの類いもなかった。
男女交際一式は過去に経験しているけれど、石橋を叩きすぎて割ってしまうほど慎重かつ臆病なので、恋人になりそうもない相手とスキンシップやセックスを楽しめるほどの勇気や経験値は自分にはなかった。
セックスアンドザシティで「一年間セックスしないと女は再処女化する」というようなセリフがあったけれど(ニュアンス)、七年間とかマジでどうなるんだよ怖えーよと一人頭を抱えたりしていた。
たまに「いいな」と思う人がいても、結婚していたから「いいな」で終わりだった。
好意を向けてくれる人がまれに現れても、どうしてもタイプじゃないか、やはり既婚者だった。
その間、合コンとか街コンとか相席居酒屋とか、出会いに繋がりそうな場所に行ったこともない。
そんなこんなで約七年。
それでも、人に恋人の有無を聞かれ、長年いないことを話すと十回に十回驚かれた。
まあ、お世辞というか、お決まりのリアクションなのかもしれないけれど。
顔面は、石原さとみのようなハイパー美人にはほど遠いが別に悪くはない。
きちんと化粧をして何ら差し支えのない洋服たちでJJに載っていそうな系統のおしゃれをする。
ムダ毛は手入れするし、伸ばした栗色の髪の毛のケアにも勤しむ。
前髪も後れ毛も巻く。
社会経験も人並みに積み、良い会社に落ち着いて、世間知らずでもない。
初めましての人と対面しても、しっかりコミュニケーションが取れる。
だから「彼氏いないです」に対して、返ってくるのは「なんで?いそうなのに」だった。(社交辞令かもしr
と、思ってました。思ってたし、実際にそうだった。
私はオタクだ。
推しは天使だから常にありがたすぎて課金するし、イベントなどがあれば北海道から九州まで飛ぶ。
ちなみに「オタクだから彼氏いない=オタク趣味が相手に受け入れられないからモテない」のではない。
オタクだから「オタクごとが楽しすぎて恋人いなくても全然寂しくない」のだ。
オタクというのはアニメ漫画ゲームアイドル同人などのサブカルチャー的な匂いを強く発する言葉だけれど、個人的には「恋人がいなくても何ら寂しくなくむしろ面倒な付き合いがないので自分の時間を圧倒的に優先できて充実したハッピーライフ送れてる」と感じるレベルの趣味やものごとは全部オタクごとだと思っている。
だからシングルで過ごしていた長い間、私が「彼氏ほしい!」と本気で思ったことはほぼなかった。
いなくていい、ほしくない、と思っている人間に恋人ができるほど恋愛は強制的なものではない。
できそう、できなさそう、モテそう、モテなさそう、以前の問題。
オタクでいると、頻繁に会う友達がほとんどオタクになる。(私の場合)
趣味を全力で全うするオタクって、まるで結婚しない。恋人がいる子も少ない。
結婚している全力のオタク友達もいるけれど、その場合子供がいないか、子供がもう大きい。
ある程度の財力と時間の余裕を手にいれたアラサーのオタク活動は、それはそれは楽しくて。
「まだいい」「もう少しこのまま楽しみたい」で、どんどん年をとる。
それは決して悪いことではないのだけれど。
で、私も、気付けば七年も色恋沙汰から遠ざかっていた。
人肌恋しい時は何度かあったけれど、寝て起きたら大体忘れているし、オタクごとで萌えるのに忙しくてすぐにそんな感情は溶けてなくなった。
そんな中、三十路が見えてきて、いつまでもこのままじゃいられないなぁなんて、ようやく焦りを覚えたのが昨年。
結婚願望はあったので、婚活中のオタク友達に相談して、出会いが見つかりそうな場所に、生まれて初めて自らの意思で赴いた。
そんなふうに行動してみたらあっさりと彼氏ができた。
でもって今は半年でふられてしばらく、といったところ。
ズタボロに引きずっている。
とりあえず彼氏がほしかったので、「好きになれそうだな」の段階からお付き合いしたけれど、付き合っている内に見事相手をとても好きになった。
長い間恋愛を休んでいても、良い相手に出会えさえすれば相手を「好き」だと思う感情が、まだ自分の中に残っていることにとにかく感動した。
相手との時間を作るためならライフワークだったオタクごとを後回しにしてもいいと思えた。
そのことに、私は人知れず、ものすごく、本当に、素晴らしく感動した。びっくりした。
所詮、私は恋愛体質で、aikoの歌に共感してトキめいた若かりし日々と大して変わってなかったなぁとか思って、嬉しかった。
だけど、せっかくそんなにも好きになれたのに続かなかった。(ちなみに私がオタクなのが原因ではない)
私が相手を思ってしまったほど、相手は私を思えなかったらしい。重かったんだろう。
推しのためなら諸々重課金する女だから、愛情があっさり系でない自覚は大いにある。
それにしても、オタクごとで生きている喜びを噛み締めてきた自分が、他の感情に大きく左右されて、ごはんが喉を通らないほど苦しむとは思わなかった。
「しようと思えばいつでもできるだろう」と恋愛をさぼった結果、自尊心を守りたいくせに恐ろしく自己肯定感が低い卑屈野郎になってしまっていて、今日日「結局私なんて誰にも愛されないよ〜〜〜うわ〜〜〜〜」と枕に顔を埋めるバカみたいな日々を送っている。自分が嫌すぎる。
長い恋愛ブランクのつけが、今になってボディーブローのように効いている。
付き合って入る最中はブランクなんて問題なくて、むしろ新鮮みがあって楽しかったのに。
経験値低すぎて、防具弱すぎて、失恋の一撃が重いったらありゃしない。
これから傷ついて立ち直ってを繰り返して強くなるのか…って、ため息がでる年齢。
一度でも、二度でも、ほんの少しでも、リハビリしておけばよかったな。
でも少し後悔している。
だから、オタクと呼び呼ばれるそこのあなたが、もし「将来結婚はしたい」「ゆくゆくは相手ほしい」と思うのなら、ちょこっとでも恋愛してほしいなぁと思った。
北原みのりを「フェミニスト」扱いしている以上、メガリアも「フェミニスト」扱いして差し支えないだろ。
https://dot.asahi.com/amp/wa/2015112000022.html
さて、韓国の女たちは、彼女たちに対する過剰な攻撃に、黙っていなかった。彼女たちの行いが正しくなかったとしても、例えばもし、隔離を拒否したのが男性だったら? ここまでされただろうか? こんな目にあっただろうか? そのようなことがネット上で語られるようになり、あっという間に今年8月、メガリアというサイトが立ち上がったのだ。メガリアとは、メルス+イガリアの造語だ。韓国ではマーズをメルスと呼ぶ。またイガリアとは、ノルウェーの作家、ガード・ブランテンバーグのフェミニズムSF小説「イガリアの娘」からきている。小説では、男女のジェンダーが入れ替わり、男性が抑圧された世界が描かれている。
……と言うと、またまた「男性差別か?」と過剰に反応したがる人がいるので、念のために言っておくが、メガリアは男性差別が目的ではない。女性が差別されている現実を「男性にわかりやすく説明する」ために、立場を入れ替えるようなことを敢えてする。いわば、女性嫌悪社会の鏡のような役割を果たしている。
メガリアのサイトを見ると、まずこういう一文が目に入ってきて、泣ける。「大韓民国の女性嫌悪がなくなる日まで、メガリアの努力は続きます。(女性嫌悪に)敏感で、疲れ生きる人々が、これ以上、敏感になり、疲れないために!」と記されている。そしてこうも記されている。あなたの変化を、サポートするよ! と。
> 「企業のシステムを変えずに」の部分がタイトルでは削ぎ落とされている。
https://anond.hatelabo.jp/20180408225447
元増田の言っていることは、論理的には正しい。たしかに、企業のシステムを変えれば、生産性が劇的に向上して、うまく行くかもしれない。
「生産性を向上させれば、労働時間が減って GDP が増える。何もかもうまく行く」というのは、多くの経済評論家が言っている。しかし、「生産性を向上させる」ということ自体が、「天から金が降ってくれば」というのと同様に、根本的に不可能なことなんだ。
・ 天から金が降ってくる
こういうのはすべて、現実にはあり得ないことなんだ。実際、過去の歴史を見ても、こんなことはいっぺんも起こらなかった。どうしてか? 仮にそれが起こったとしても、同様のことは世界各国で起こるから、1国だけが抜きん出て生産性の向上を果たすことはあり得ないんだ。
その例外はある。それは中国だ。中国だけは劇的に生産性が向上していく。しかしそれは、中国の生産性の絶対レベルがきわめて低いからだ。とうてい先進国の水準ではない。先進国には当てはまらない。
まとめて言おう。
「システムを変えればうまく行く」という元増田の主張は、論理的には完璧に正しい。
しかし、「システムを変える(ならば) ⇒ うまくゆく」という論理のうち、前件の仮定が成立しないから、論理としては意味をなさない。「 偽 ⇒ 偽 」という命題は、論理的には完璧に真であるが、意味を持たない空理空論であるにすぎない。
論理が意味を持つためには、仮定の前件が真である必要がある。元増田の主張は、そこを満たしていないから、ただの空理空論であるにすぎない。論理のお遊びだ。何かを指摘したつもりなのだろうが、実は何の内容も含んでいない空っぽの主張であるにすぎない。(間違いではないが。)
(付記)
IT速報などが、「企業のシステムを変えずに」の部分をタイトルでは削ぎ落としているとしても、まったく問題はない。「企業のシステムを変えれば」ということは、あってもなくても、ほとんど影響しないからだ。「企業のシステムを変えれば生産性が向上する」というのは、大きな錯覚である。やってもやらなくても、生産性には影響しないのだから、この部分は削除してもまったく差し支えない。
「企業のシステムを変えれば生産性が劇的に向上する」というのは、企業経営の現場を知らない経済評論家の、夢見る妄想であるにすぎない。
では、生産性を劇的に向上させる方法はないのか? 実は、ある。それは、経営者そのものを交替させることだ。企業のシステムではなく、企業のトップの首をすげ替えることだ。
似た例で言えば、日本を改善するためには、日本という政府のシステムを変える必要はまったくないが、首相の首をすげ替えれば、日本(の政治)を劇的に改善させることも可能だろう。文書偽造などの問題も、システムを変えるよりは、首相や政党を替える方がはるかに効果がある。
何でもかんでもシステムの責任にするのは、経済評論家の悪しき妄想だ。企業や経営の統治というものは、トップの人格や能力に大いに依存しているのである。
────────
トラバへの回答。
> この主張が正しいなら先進国の生産性は横並びのはずなのだけど、現実はそうじゃないよね。つまりその主張は間違いあるいは不完全なんだよ。
本項は、1国について、(短期的には)「システムの改善は生産性の伸びがない」と言っているだけで、異なる国同士の比較はしていない。豊かな地下資源や肥沃な国土がある国は生産性が高いが、その違いを無視して、「先進国はみな同じ」なんていうことがあるはずがない。アメリカのようにシェールガスも肥沃な穀倉地帯もある国と、国土が山ばかりで平地がろくにない日本とを比較して、「同じ生産性になる」なんて思うのは、よほどの現実無視だろう。
というか、そもそも本文中に「トップしだいで生産性は大きく変わる」と書いてある。トップしだいで企業ごとの差異が多く出るのに、まして、異なる国同士で同じになるはずがない。日本国内だって、優良企業と駄目企業がある。なのに、異なる国同士で同じになるはずがない。
1ヶ月タダ働きというのが下記に相当するものなのかが不明です。
締切日と支払日が1ヶ月以上離れていても、直ちに労働基準法(以下、労基法)違反とはなりません。ただし、支払間隔が不当に長い期間となる場合は、労基法に趣旨に反する。労働基準法(24条)が定める賃金の支払いに関する5つの原則です。通貨払い、直接払い、全額払い、毎月1回以上払い、一定期日払いの5原則です。毎月1回以上払い、一定期日払いの原則を一つにまとめて、賃金支払いの4原則という場合もあります。具体的には
賃金は通貨で支払わなければならないという原則です。「通貨」とは、国内で強制的に通用する貨幣(銀行券、鋳造貨幣)のことです。外国通貨や小切手は、換金の不便さや価値の変動リスクから「通貨」とは認められません。また現物給与は換金が不便な上、換金により価値が減少するおそれがあるため支払い手段としては、原則利用できません。ただし、賃金を労働者の同意を得た上で、労働者が指定する金融機関へ振り込む場合、労働組合と労働協約を締結して現物給与を支給する場合などでは、通貨払いの原則の例外が認められています。
2.直接払いの原則
賃金を直接労働者本人に支払わなければならないという原則です。労働者の親権者などの法定代理人、労働者の委任を受けた任意代理人への支払いは、いずれも違反です。ただし配偶者、秘書など単なる「使者」に支払うことは差し支えありません。
3.全額払いの原則
賃金は、その全額を支払わなければならないという原則です。賃金の一部をかってに差し引いたり(控除という)、積立金、貯蓄金等の名目で賃金の一部の支払いを留保したり、貸付金との相殺を行うことは許されません。ただし社会保険料や源泉所得税など、法令に基づく控除は認められています。また事業場の労働者の過半数で組織する労働組合等と労使協定を締結した場合は、賃金の一部控除が可能となります。
4.毎月1回以上払いの原則
賃金は、少なくとも毎月1回以上支払わなければならないという原則です。臨時に支払われる賃金、賞与等については、この原則は適用されません。
賃金は毎月一定の期日を定めて、定期的に支払わなければならないという原則です。賃金の支払日が毎月変動すると、労働者の生活が不安定になることから定められた原則です。例えば、支払期日を「毎月第3月曜日」とするという定め方は、月により支払日がずれるので適切ではありません。
大丈夫、これだけ資格持ってたらうちの会社入れる。長所は真面目って言って差し支えないと思う。
「努力」は誰でもできるって言ってるけどそんなことない。歩みを止めている人もたくさんいるよ。
最近、周囲で結婚した人たちに出会いのパターンを聞くと、たいてい以下の4つのどれかだ。
1.職場の同僚
4.居酒屋で隣にいて知り合った
1は「仕事に差し支えがある、公私混同したくない」という心理が働いて難しいと思った。そもそも同僚の恋愛事情を知らん(相手が居るかどうかとか知らないし、知ってもその情報が1年も2年も自分の中ではアップデートされない)
で、3と4について考えた。
3について、正直友人関係は希薄だ。年に1、2回程度、同級生とか昔からの知り合いとかで会うくらい。職場のメンバーでの合コンが過去数回あった。その程度。
かといって4は、友人関係は希薄だからといって、1人でわざわざ飲みに出たりしない。というか夜の街が苦手だ。居酒屋に足を運ぶのは、職場の飲み会か、前述の年数回のだれかと会うときくらい。
別に休日完全にひきこもるタイプではないけれど、出かけるなら昼間。それも明確な趣味はなくて、適当にドライブがてら買い物を済ませるのが主。夜は家で静かに過ごす。
こうなると、やっぱり婚活パーティーくらいしか手段がないんだろうな。
それとも、俺の気づいてない問題点があるのかな?
まだ知り合ったばかりなんだけど彼の仕事の関係で一緒にいる時間がすごく長かったのと彼が全く女っ毛のない生活だったらしくてあっという間に私のことを好きになってくれて私はそんなつもり全くなかったし急展開にびっくりしたけど可愛い子だしまぁ悪い気はしなくてでも直接何かされたわけでも言われたわけでもないから(彼も自分の気持ちが何なのか理解できていなかったようなので)私は彼からの片思いを気付かない振りでいじり倒して楽しく過ごしていたんです。私に触れられるとゾワゾワするとか言うからごめんって謝ったら嫌ではないとか(かわいい)。頭撫でると嬉しそうにするから撫でくり回していたらペット扱いされたいわけじゃないとか言ってネコはふわふわで可愛いけど俺は固いからとか張り合ったりして(大丈夫私はネコアレルギーだ)。楽しかった。でもそのうち彼が何をしてても私のことを考えてしまう仕事が手につかないって言い出して。それでも仕事はキッチリこなしていたのでスルーしてたんだけど、今思うとこのときもう少し何かしていればまた違った結果になったかもしれないです、もう遅いけど。とにかく彼が、目に見えて病んじゃって、しまったやり過ぎたって思ったんだけど遅くて、もう相当思い詰めてしまっていて、彼は仕事が自分の存在意義だって言ってとても仕事を頑張っている子だったんだけど、その仕事に差し支えるからって、私への、自分の気持ちの記憶を、消すって。これは恋だよ、分かった、って、言って、やっと言ってくれたのに、その直後、私への気持ち、その恋の記憶を、消してしまって。何が起こっているのか理解できなくて呆然としている私の前には、さっきまでの鬱々とした雰囲気がきれいさっぱりなくなった、ただ楽しかった頃と同じ、だけどちょっと違う、爽やかな笑顔の彼がいたのでした。彼は本当に、恋、だけを、忘れてしまって、私とは元のビジネスライクな関係に戻った。いま、その彼と一緒にいるのがとても辛いです。あ、このアプリなんですけど。http://make-s.jp/app ネタバレごめんね
母子手帳には出生時の記録を医師が記入するページがあるんだけど、そこには本当の事は書かれないのだ。何故かというと、出生時にトラブルがあった事などを正直に書いてしまうと、お受験に差し支えるからなのだという。
お受験が行われているような名門幼稚園では、願書に母子手帳のコピーを添付するか面接の際に母子手帳その物を提出させられるらしい。そして母子手帳の記載内容がお受験の合否判定の一材料となっているそうなのだ。
そんなわけで、母子手帳に医師が本当の事を書いてしまうと、あとで「これではお受験に通らない」という苦情をもらうおそれがあるので、今は出生時の記録を母子手帳に詳細に書くことはないのだという。
これはネットのどこかで読んだ話で、私自身は胡散臭ぇ話だなぁと思う。
しかし現に、うちの次女の分の母子手帳には、次女が産まれる際に死ぬか生きるかの瀬戸際だった事がわかる様な記載は一切無いのである。
私は単に担当の医師が大雑把な性格故に必要最低限の事しか書かなかったんだろうなんて思っていたが、どうなんだろう。
ところで、次女誕生からもう数年経つのだが、分娩方法が帝王切開だった為に私が自分にかけている保険から、大した額ではないが保険金がおりると知ったので、請求申請をしてみた。
私のお世話になった産院は、出産当時まだITが導入されていなかった為に、申請に必要な書類の「診療明細書」を出すことが出来なかった。そのため、診療明細書のかわりに医師の診断書を提出する必要がある。
それで診断書を書いて貰った訳だが、その用紙の「手術の原因となった疾患」の欄には次のように書かれていた。
あの緊急帝王切開を受けた時、医師は私にそんな病名は言わなかった。
「赤ちゃんの心拍数がちょっと下がってるんですよね。このまま自然に産まれるのを待ってもしも万が一何かあったら大変だから、早めに出しちゃいましょうか?」
と、そんなに焦る風でもなく言われたのだが、私がじゃあお願いしますと答えるや否や、怒濤のごとくに手術の準備が調えられ、5分で出します!という医師の宣言通りに次女は産まれて来た。
次女は一応元気な産声を上げたが骨と皮だけに窶れており、一ヶ月くらい元気が無く寝てばかりいた。
そうだったんだよなぁ、あのとき次女は本当に危なかったんだ、と、診断書を見てしみじみ思った。
母子手帳にはやけに小さい身長体重の数値と「母体の出血量 少量」「分娩方法 腹式帝王切開術」それに担当スタッフの名前くらいしか書かれていない。