はてなキーワード: 小学校とは
自分もこの人のように自信がなくて、人生のあらゆるチャンスを逃した。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44079653
平均的なセックスの初体験は10代後半とされるが、ジョセフさん(仮名)はそうではなかった。現在60歳で寡夫の彼は、童貞であることが非常に恥ずかしく、いら立ちを感じていたという。ジョセフさんが自分の体験を語ってくれた。
30代後半まで童貞でした。どのくらい珍しいことなのか全く分かりませんでしたが、それを恥ずかしく思い、人には言えないと思っていました。
僕はとても人見知りするし、不安を感じやすいのですが、孤立してはいませんでした。いつも友達がいました。しかし、親密な関係に発展することはできませんでした。
小学校から大学進学課程まで、周りには女の子や女性がたくさんいましたが、普通の人が通常するような女の子を誘うことは全くしなかった。
大学に入ると、その傾向はますます強くなった。女性と付き合えないとはおもっていませんでした。自信のなさと、自分を魅力的だと思ってくれる人などいないという気持ちが心の奥底にあったのが大きな理由です。
10代後半と20代前半ずっとデートしなければ、自分が心の中で「ほら、あの子はガールフレンドになったし、あの子もそうだった。そうだよ、お前を好いてくれる人はいるよ」と言えるような証拠が積み上げられません。それで、自分に魅力がないという考えが消えなくなり、強まっていく。
友達に相談したことはないし、聞かれたこともありません。正直言って、もし聞かれたら過剰に自己防衛的になったでしょうね。恥ずかしいという気持ちが強くなっていましたから。
人はセックスをしないと社会で見下されるということはないかもしれないけど、普通じゃないと少しでも思われたら、何か異常だと見られる可能性がある。
女性を「ものにする」ことへの文化的な投資がされていると思うんです。大人になることを扱った有名な歌や映画をとってみても、恋愛関係の始まりがテーマになっているものが多いし、一人前の男になるという文化的な「パターン」がある。フランキー・ヴァリが歌う「あのすばらしき夜」は、女性が少年を受け入れて男にするという感じになっている。
友達のほとんどには彼女がいました。付き合い始めてから、やがて結婚するまでを、傍観者として見ていた。そのことは私の心にポタポタと落ちてきて、自尊心を腐らせていきました。
って何あげたらいいの?
たまたま両親の結婚記念日に家族皆で出かける用事があって、自分はもう家出てるからそういうタイミングでしか親孝行というか、感謝とかを伝えるタイミングがないからなにか渡したいんだけど何がいいんだろう。
ちなみに両親はめちゃめちゃ仲良いからよくあるお揃いの箸とか夫婦茶碗?とかそういうおそろい系グッズはたいてい揃ってるのと、2人で旅行行ってきなよっていうのも考えたけど、一番下の弟がまだ小学校低学年なのもあってせめてそいつが中学生くらいになったらプレゼントしたいなと考えてるから今回はなし。
出来れば実用的なもので、2人で使えるものがいいなと思ってるんだけど何か過去にあげて喜んでもらったものとか、これいいと思うとかアドバイスあれば欲しいです。
色々あれなので暈す
さすがに目無しだとはわかってた。卒業して一般人になったので、普通は完全に撤退するのだろうけど、ほんまに好きすぎてアイドルと一般人よりも一般人と一般人のほうがワンチャンあると思って、条令とかは破れないし、向こうが18歳超えるのをひたすら待ってる(エゴサしてくれたらすぐ見つかる)
今でも普通に会うんだけど、同年代のクズ男に引っ掛かっては騙されて(数万~数十万貢いでそこで貢がされてるのに気づいて)を繰り返してる娘。
最初に出会ってからもう数年経ってるけど、途中何度も冷めつつも(結局男居たんかい! とか、やっぱり金としてしか見られてないとか)、数か月会わないとかはあったけど、ずるずる続いてる。
馬鹿でお人好しで、凄く損する人生歩んでるんだけど、正直なのが好き。
お金払いつつ、いいように使われてるのはわかってるんだけど、見守り枠としての座をキープし続けてる
多分人生で一番好き(ワンチャンのワンチャンがノーチャンではない中で)
C)Bのこに見切りをつけようと思ってた時期に増田を救ってくれた夜のお仕事系のNちゃん
夜のお仕事系のこに入れあげても何にもいいことないって思ってしまった時(まあAのアイドルなんてもっと目無しだが)に出会った人。
全てを受け入れて包んでくれた。
コロナのせいでもう一度会えるかどうかわからない(新幹線で日帰り絶対無理なところの実家に帰ってしまった)けど、どん底から救ってくれた恩人
夜の仕事してる理由が専門学校行く(から学費貯めたい)っていうテンプレで普通に考えたら怪しさ満点だったけど、2年でも4年でも学費と生活費ぐらい出そうと考えてた。それを言いだす前に、実家に帰るって決めてしまった。
ちょうど、お別れのちょっと前がそのこの誕生日で(それに合わせて嘘誕生日の可能性も考えたけど)、何を贈るか、で、結局換金しやすい、強い石と強い金属のアクセサリーを買ってプレゼントした。
今思い出しても泣けてくるんだけど、意地で、「これつけていい?」って言われたけど、拒んで、結局身に着けてるところをみないまま
ダイアモンドだったんだけど、金剛石ってゆったから価値がわかってないかもしれないけど、最後のプレゼントとしてこちらとしては最善を選んだつもり。。
意地はって装着を拒んだのは、もう一回会える時に、その旨で輝くダイアモンドを見たかったから(もうデザインとか忘れたから、言われないと気づかないんだけど)
で、今繋がりがあるのはBのこだけなんだけど、3人とも平行してるっちゃしてるんだけど、全員好き、大好きだった(ていうか現在進行形)のだ
あと、近所に住んでる人妻的なセフレも好きというか、唯一増田に損得とか金勘定無しで接してくれるから妥協点とかいう以上に全然好きなんだけど、コロナ的なのの関係で全然会えてない
小学校中学校時代は顔が不細工だったのと、高校が男子校で全然モテなかったから、初恋とか好きな子は居るけどうまく行く可能性ほぼないっていう若い頃に比べたら、今(40代)のほうがなんとなく可能性というか希望だけはあるのが不思議で幸せ。
おっさんになっても意外とおっさん風貌が好きな若い女子とか、金とか性格(優しさ)で戦えるから、みんな諦めずに頑張って欲しい
増田も頑張る
「早すぎじゃないか」「自費?」
→小学校までは保険が効く+医療費に市の助成がかかるため小学校のうちに手術しておくことになったという大人の事情的な部分もありました(病院がそういって勧めたっぽい)
2021年7月、兵庫県教育委員会はマタニティハラスメントを行ったとして、播磨東地区の小学校に勤
臨時講師は4月、同僚の教諭から、妊娠したため産休と育休を取得すると説明を受けた。その際「(妊
娠したことを最初に自分に知らせなかったのは)失礼だ。何も考えていない」「自分が抜けても仕事が
回ると思っているからそんな勝手なことができるんだ」「今まで通り一緒に仕事しろと言われても無
理」などと暴言を吐いたという。
(コメント)
臨時講師が、マタニティハラスメントをしてしまった原因は何だったのでしょうか。
同僚が産休・育休を取ると聞き、その休業中は自分の負担が増えるのではないかと心配になったのか
もしれません。加えて、日頃から職場内の人間関係に不満や不公平感をため込んでいたとすれば、さ
らなる負担増を予見して感情が爆発し、当事者にぶつけてしまったのかもしれません。
このような事態を防ぐため、管理職は、職場内に深刻な不満や不公平感が蓄積しないよう、日頃から
配慮しましょう。人間関係のこじれには、早めの対処が鉄則です。産休・育休以外にも、病気・事故
・家族の介護など、業務から離れざるをえなくなる状況はいくつもあります。けれども、普段から良
好な人間関係が築かれていれば、いつ誰が業務を離れても、それを引き継ぐために職場全体で協力で
きます。
そもそも戦後からバブルまでが異常だっただけで、実態は可住部の少ない狭い島国で資源もなく気候も厳しく災害も多い、歴史的にはずっと忍耐だけで凌いできた貧困の国やからな。それを抜け出すために世界に戦争を仕掛けなければならないほど詰んでたんだから、本来こんなもんやで。
面白いのは当の本人達にはイマイチ自分が貧困であるという認識がないところ。クソ狭いの我慢すれば世界基準では衛生的な環境に住めるし単一民族だから教育レベルが低くても全員会話と読み書きできて意思の疎通困らないし治安も良い。全力で安い娯楽と安い食い物を開発したからまずくはない飯を腹一杯食ってそこそこ楽しく暮らせる。でも人間として基本的なところの結婚も恋愛もできないし家も車も食洗機も持てない、何より次世代を生み育てられないという社会の破綻を来たしてる。国の数十年後の未来はない(放棄した)代わりに今生きてる人はなんとかコンビニ飯(意外と出来がいい)は食える、今の日本の貧困はそんな形だ。小学校で習ったアフリカのガリガリの子供とはまた違う画の貧困だから気付かないのだ。その痩せ細る子供達がそもそも生まれもしないのだから。
とあることをきっかけに、母とは事務的な会話しかしなくなった。
お迎えの時間、他のお友達は皆が母親に抱き上げられたり手をつないで楽しそうに帰っていく中で、わたしはいつも黙って母の後をついていくだけだった。
幼稚園であった沢山のことを母に聞いてほしくてずっと母の後頭部を見つめていたが、母が振り返ることはなかった。
何も会話がないままに、母は黙々とわたしの世話を繰り返した。
だから身の回りのことは言われるよりも先にやったし、怒らせないように何でも完璧にやろうとした。
ある日、母が起こしに来る前に自分で目覚めて身支度を始めてみた。
絶対に褒められる自信があったが、母はわたしの存在を確認すると何も言わずに振り返って自分の身支度を始めた。
父はわたしのことをこれでもかとかわいがったが、忙しいせいか家にいることはほとんどなかった。
母のことを相談しようとしたことがなかったわけではないが、わたしが眠っているときに普段の父からは想像ができないような剣幕で母に怒鳴りつけている姿を見てしまったことがあり、それを思い出すと躊躇してしまった。
泣きながら謝る母を前に怒りが収まらない様子で手当たりしだいにものを投げつける父の姿は、鬼にでも乗り移られてしまったかのように恐ろしく、心の深いところに爪痕になって残った。
小学校に上がっても、やはり母に褒められるようにと学校のことは何でも頑張った。
幼稚園では人と比べられることは少なかったが、これならわたしは誰よりも優れていることが証明できる。
いくら母だって認めざるを得ないだろう。今までで一番ワクワクした気持ちで家に帰った。
そして溢れんばかりの笑顔でこれまでにないテンションで両手に持った満点の答案用紙を母の前に広げて見せた。
その瞬間母は、まるで道端に轢かれた小動物を見るような目でわたしを見て、声を上げてえづき出した。
しばらくして呼吸が落ち着いてきた母が、喉のそこから絞り出すような声で一言「あてつけか?」と言った。
何のことかさっぱりわからないわたしは、黙って立っていることしかできなかった。
「あてつけなのか!私が母親としてあんたに接せられないことに対するあてつけなのか!」
「わたしはあんたが嫌いだ。でも、死なれたら困るから世話を続けてきた。頼むから余計なことはしないでくれ。あんたが嬉しそうに近づいてくる度に、わたしは胸が苦しくなって死にそうになる。」
現実にまったくついていけていない自分を、視界のずっと奥から見つめているような不思議な感覚だった。
わたしというかわいそうな子を別のわたしになって頭の中から覗いているような感覚で、わたしというかわいそうな子が表情も変えずに立ちすくんだままただひたすらに涙を流している様子を、別のわたしとして頭の中からずっと眺め続けていた。
母が原因で涙を流したのは、今まで生きてきた中ではこれが最初で最後だった。
この日を堺に、わたしは母が嫌いになった。
わたしを嫌いだという母を、どうしたって好きになることはできなかった。
母が理由で道を踏み外すことも違うと思ったわたしは、思春期に湧き上がる特有の苛立ちも、母に見下されたくないという理由で自力でねじ伏せた。
母を見返したいという気持ちはなかった。
ただ、趣味や習い事に時間を使うことで、母よりも劣っていると思われることだけは嫌だった。
その結果、自分に残されていたのは誰のためでもなく黙々と勉強を続けることだけだった。
母はわたしに無関心な代わりに、わたしが持っていくお願いについては基本的に何でも聞き入れてくれた。
そうはいっても父の金であるが、予備校も受験費用も私立の学費も、渋られたことは一度もなかったおかげで、割と良い大学まで進むことができた。
大学に入ったら家を出る。
忘れることが許すことなのかも知れない。母の顔にモヤがかかるように記憶から薄れていくのと同時に母からの呪縛から解き放たれるような気がした。
年に数回、父からの連絡があるついでに思い出す以外、母のことは考えなくなった。
そんなわたしも、人並みに恋をして結婚してもいいと思える人に出会った。
しかし、そう思えたと同時に、突然心の底の方から恐怖が湧き上がってきた。
「もし娘が生まれたときに、わたしは母と違って娘を愛することができるのだろうか。」
その瞬間わたしは、あのとき頭の奥に押し込んだわたしに、再び覗き込まれているような感覚に陥った。
そんな目で見ないでくれ。
わたしだって嫌われたくて嫌われたわけではないのだから、嫌いたくて嫌うのではないかも知れないなじゃないか。
そのことを彼には相談できないでいた。それが理由で手に入れた幸せを手放さなくてはならなくなることが怖くて仕方なかったからだ。
その日からというもの、わたしはいつも頭の奥からわたしに覗かれているような感覚が消えなくなった。
不安を抱えながらも、話は順調に進んでいった。
実家への挨拶をどうしようかと父に連絡をしてみると、わたしが聞くより先に父が一人で東京に出てくると言い出してくれた。
母は今どうしているのか聞こうとも思ったが、父からも何も母の話がでない中で切り出せないままに会話は終わった。
もともと友達の少ないことを理由に親を呼ばずに数人の友達と二人だけでの挙式をしたいと彼に願い出た。
普段からこだわりのない彼は特に抵抗もなく、わたしにすべてを任せてくれた。
妊娠がわかったのは挙式の少し前だった。
その嬉しさが、今までの人生の苦しみから、ほんの少しだけ開放してくれた気がした。
相変わらず不安は大きく残っている。でも、少しでも嬉しさを実感できたことは自分にとって大きな救いになった。
式も滞り無く終わり、写真を持って彼の両親に報告に行ったときに、あわせて妊娠を報告した。
お義父さんは無神経に「絶対に男で頼む!」などと要らぬプレッシャーをかけて来たが、わたしも内心男の子を生みたいと思っていた。
娘だとわかったときに、妊娠した嬉しさごと消えてしまう恐怖が、まだ心の底の方にあったからだ。
産婦人科医も最近では聞かれるまで性別を答えないらしく、知るための選択権はわたし一人に委ねられていた。
いよいよお腹も大きくなって、もう準備を始めないと間に合わないという段階になって、意を決して聞くことにした。
断定はできないと前置きされた上で、「おそらく女の子ですね」と言われた。
心臓が大きく一度どくんと脈を打った。
喉の乾きを感じたが、うまくつばを飲み込めずに喉の入り口に痛みが走った。
遠のきそうになる意識の中で、必死の思いでお腹に手を当ててみる。
涙が溢れた。
大丈夫。わたしはこの子を愛することができる。心からそう思えた。
突然の涙に驚いたのか、何かを言おうとして喉をつまらせている夫がいた。
やがて涙目になって抱きしめてきた。わたしの気持ちも知らないで声を上げて泣き始めた夫を見て、少し冷静さを取り戻した。
後で聞いたところ、夫は娘が欲しくてたまらなかったらしい。
それが言い出せないままここまできて、わたしが嬉しそうに泣いているのをみて堪えられなくなってしまったそうだ。
彼も彼で抱えているものがあったのだ。そう思うとおかしくなってきて、バツの悪そうな彼を前に大きな声で笑ってしまった。
「そんな大きな声で笑うことがあったんだね」
驚きと喜びが混じったような不思議そうな彼の顔がおかしくて、さらに大きな声で笑いだしてしまった。
その瞬間、まさに雷に打たれたかのように、わたしは自分が母を許せたかのように思えた。
母は、何も自分から好き好んでわたしを嫌っていたのではないのかも知れない。
母がわたしを好きになる努力をしたかどうかはわからないけど、好きになれなかった自分を誰よりも責めていたのは母本人かも知れない。そう思えたのだ。
好きも嫌いも、自分の意思でありながら、自分ではどうすることもできないときがある。
わたしはたまたま自分の娘に愛情を感じることができただけで、それが当たり前かどうかなんて誰にも決めることはできないはずだ。
それならば、わたしはわたしが嫌いだという理由だけで、母を嫌う必要はなかったのではないか。
わたしを嫌いだという母を、そのままの姿で受け入れることだってできたはずではないか。
これは決して同情ではなく、そして、娘を愛することができた自分からの優越感でもない。
あのときの自分がそれに気がつけなかったことを責めるつもりはない。
今、わたしはそれに気づくことができて、許すことができた。ただそれだけの話だ。
わたしは、わたしを嫌いだと言った母を嫌いと思った日から、母を嫌ってしまったわたしを許せていなかったのだ。
娘を嫌う母以上に、母を嫌う娘が許せなかった。嫌われていることを言い訳に、嫌うことを正当化する自分が、誰よりも許せていなかったのだ。
もちろん嫌わないに越したことはない。
でも、何かの手違いや神のいたずらで嫌ってしまう可能性がゼロではない以上、それが許されない世の中ではあまりにも窮屈だ。
それと同時に、母から嫌われてしまった子供が不幸だなんて、誰一人として決めつけることはできないはずだ。
この日を堺に、わたしはわたしを嫌いである母とも、普通に接することができるようになった。
久々に見た母はただただ老けていた。でも、命あるうちに気がつくことができてよかった。
孫娘を抱く母の顔は、わたしが一度も見ることのなかった嬉しそうな顔をしていた。
その顔を見たとき、頭の奥から覗き込んでいるわたしと、今ここに立っているわたしが一緒になれたような気がした。
母を許せたことで母が許されたことを実感できたと同時に、自分自信も許されたような気がしたのだ。
何かを許さないということは、その何かから許されないことと同じなのだろう。
小学校4年の時に夏の手持ち花火の余りちょいちょいをほぐして中の火薬を取り出して小皿に集めてた。
言うて手持ち花火じゃん。
多少集めたところでと思うじゃんか。
で、ある日、家で宿題やってるときに「そういえば花火あるじゃん」と思って、取り出してきた。
なんもおきねーwwwwと思ってのぞき込もうとした瞬間小皿が爆発した。
小皿は粉々に砕け散り、ノートと教科書は小皿を中心に焼けこげて散乱した。
爆発を食らった俺は鼻の頭とおでこに裂けるくらいにやけどをし、前髪をと眉毛を半分失った。
目は眼鏡をかけていたおかげで守られた。
医者に「本当に運がよかったですね」と励まされた。
眼鏡は表面が真っ白になって飛び散った火の粉でプツプツになっていた。
親にはクソほど怒られてクソほど怒られた。
吹き飛んだ宿題はなぜか不問にされた。さすがに顔面包帯ぐるぐる巻きで登校した俺を叱る気にはなれなかったのかもしれない。
教科書は買いなおした。
いまだに鼻の頭とおでこはつるつるで毛根まで燃え尽きた前髪と眉毛の中央半分は返ってこない。
いやー、火薬こえーわ。
ぶっし
@bussi_poke
冗談のつもりでもヴィーガンへの偏見を助長するとか引リツで言われて、確かにな〜とか色々考えてたのにファンネルめっちゃ飛んできてヴィーガン怖すぎてワンワン部屋の隅で泣いてる
SIVA
@sivaprod
内輪ノリで面白がるために公共の場で他者の在り様を茶化しておいて批判されたら被害者ぶってみせるいつものあれ。「”オタク”ってひとくくりにするな」というが、するよ。こういうのこそが”オタク”が”オタク”である所以なんだもの。
上記のSIVA氏ツイートに対して、はてブでは有名なリベラル系のブクマカによる賛同のコメントが支持を集めてホットエントリに入っている
だが、ちょっと考えてもみればめちゃくちゃなことを言っているのに気が付かないのか?
もはや、リベラルやはてなブクマカにまともなリテラシーを期待できないのか…?
いいか?ことの発端のぶっし氏の元ツイにある文章は「ヴィーガン給食」だ。批判されているのは「ヴィーガン給食」だ。学校給食という公的機関への批判だ。
上記のリンク先にあるように各方面で批判を呼んでいる東京都の公立小学校の「ヴィーガン給食」に対する批判のひとつが元ツイの画像だ。
その「ヴィーガン給食」への批判が、ヴィーガンへの偏見を助長すると拡大解釈されて、さらにファンネルみたいに攻撃されたとぶっし氏がツイートした結果
元々のツイートにある学校給食という「公的機関への批判」を、単なる「他者の在り様を茶化した」とすり替えているのが上記のSIVA氏のツイートだ。
いいのか?その理屈が通るんだったら、行政や警察など公的機関への批判を「他者の在り様を茶化した」とすり替えるのも可能だがいいのか?
ここ最近ずっと世間もはてブも賑わせている国の統計改竄について批判したら「他者の在り様を茶化した」と言われるがよろしいか?
さらに言えば、上記のSIVA氏のツイートは内輪のノリを公共の場に広げることを問題視しているが
そもそもの話、ヴィーガンどいう個人の主義にすぎない内輪のノリを、学校教育という公共の場に広げたのは「ヴィーガン給食」だ。
内輪のノリを公共の場に広げて、そのノリを批判されたら被害者ぶるなって言うなら、そのまま「ヴィーガン給食」に返ってくるだろうが
内輪のノリを公共の場に広げることを問題視するなら、まず「ヴィーガン給食」を批判しなきゃ筋が通らないぜ
元のツイートをもう一度見てほしいんだけど、どこにオタクだと判断できる要素があるのか、ネットスラングを使えばオタクなら大概の人間がオタクになるぜ
だというのに、オタクに責任をおっかぶせているのがSIVA氏だ。
同日にホットエントリーに入っている、増田を見ると人生の悲哀を感じますね。
みたいな事言うと
みたいな事いわれるんだろうけどそういう所でずっと俺たちは迫害され続けてきたし誰かが言わなければ何も変わらないし言い続けるぞ
上記のオタクへの偏見を助長するような漫才を問題視する増田エントリーに対して賛同のコメントが集まっているが
その一方で上記のSIVA氏ツイートから連ツイでは勝手な理屈と定義でオタクを偏見まみれでバッシングしており、それに賛同するはてなブクマカ
「他者を他者と見ずに消費の対象としか見ないという選択をしたもの」を”オタク”と呼ぶべきではとも思う。他者をちゃんと自分と同じ他者と見られるおとなの趣味者はファンでありマニアでありでいいんじゃないですか。
両方のエントリーに賛同してるブクマカに聞きたいんだけどさ、認知的不協和に気が付かないのか?お前たちに論理的な思考回路はないんか?
いいか?整理するぞ
ヴィーガンという個人の主義にすぎない内輪のノリを、学校給食という公共の場に広げた「ヴィーガン給食」が、各方面で批判を呼んだ。
その批判の一つが上記の画像ツイートであり、その画像ツイートに対して、ヴィーガンへの偏見を助長すると拡大解釈されて攻撃されたとツイートした
その結果SIVA氏が、「公的機関への批判」を「内輪のノリ」「他者の在り様を茶化した」と矮小化して、勝手な偏見でオタクに責任をおっかぶせた。
めちゃくちゃな理屈にも程があるでしょ
アラサーの女です。二歳の子供が遊具の役割も果たすベンチであそんでいるところをスマホで撮影していた。動画をとっているときに私が少し後退りしたら誰かにぶつかった。謝って振り向くとマスクをした制服姿の小学校低学年の男子がこちらを見ていた。わたしが後退りをしたから偶然通行人にぶつかったのではなく、少年がわたしのすぐ後ろに接近してたからぶつかったんだとわかった。
え?なんで?もしかして、わたしが背負ってたリュックを開けてすろうとしてたのか?え?
少年は「なにかを撮影してたんですか?ちょっと気になって…」と言った。わたしが撮影してたところに少年がうつりこんだから動画を消してほしいのかな?と思いつつも自分の二歳の子供を撮っていたんだと説明した。説明しながら、そんなこと見てたらわかるじゃん。なんで撮影が気になってなんていうんだろう?知的障害でもある子供なんだろうか?などと想像していた。
少年は「すみません」と謝ってその場を立ち去った。コミュニケーションとして不自然なところばかりで。広い広場でわたしの背後、至近距離までわざわざ接近するのもおかしいし、どうみても我が子を撮影している母親に「なにを撮影してるのか気になって」と話すのもおかしい。わたしは2メートルもはなれてない距離で自分の子供を撮ってたんだからなにやってるのか一目瞭然なのに。小学校低学年の男の子が「この女は隙だらけだ」とリュックからなにかをすろうとするのもおかしいし。公衆の面前で日本でスリってなかなか考えられない。
仄暗い水の底からみたいに子供の幽霊が親が恋しくて赤の他人に接近してきたのか?
22時過ぎの道玄坂はダメな人間しかいない。ポケットに手を突っ込み、ハイヒールでズンズンと駅へ向かう私もその一人。あの男。18年ぶりにTinderで再会し、手コキで果てた神奈川大卒の男。美しい思い出を性欲で汚した愚かな男。そして、彼を見下し、利用しようとして報いを受けた慶應卒の愚かな私。
私は私の人生がかわいかった。腹を痛めた我が子のように。当然だ。様々な苦しみを食べてこの人生は育ってきたのだから。教育ママ。日能研のバッグ。中学受験。女子校の人間関係。大学受験。滑り止めの慶應経済。就職活動。いろんなものをすり抜けて、私のソコソコ幸せなこの人生があるのだ。
中央林間のあたりで生まれて、小学校までは地元の公立に行っていた。色んな人がいた。「じゅんやくん」とは母親同士がママさんバレーの友達で、家も近かったからよく遊んでいた。青い屋根瓦の古い平屋。中に入るとワサビみたいな匂いがした。夏も冬も、いつもヨレヨレのタンクトップを着ていた。
じゅんやくんはモテた。足が早くて、サッカーもやっていた。土曜日に校庭に遊びに行くと、真っ白いソックスを膝まで上げたじゅんやくんが中盤からいいパスを出していた。かっこいい。顔はよく覚えていない。小学生の恋愛なんてそんなもんだ。初めてチョコをあげたのもじゅんやくんだった。
女子学院への進学が決まった。じゅんやくんに伝えると、お前のことちょっと好きやったで(笑)と言われた。ちょっとって何だよ、と思いつつも純粋に嬉しかった。それからの人生で、ちょっとでもいいから私に好きだよと言ってくれる人は他にいなかったから。その日は二人でマックに行っておしゃべりした。
メルアドを交換して多少のやりとりはしたし、全然更新しない彼のアメブロくらいは見ていた気がする。でもお互い新しい環境で新しい友達ができて、思い出話と近況報告以外に特にネタもないし、そして何より、小学生の「好き」なんて、その程度の曖昧なものなのだ。大人のそれも似たようなものだけど。
JGの新しい友達はみんな「きちんとした子」が多かったし、母もそれを喜んでいた。特にじゅんやくんやそのお母さんの話はしなかった。もしかすると、私の人生を自分の作品のように思い込む短大卒の教育ママである母にとって、あんな公立校の人間関係なんて忌むべきものだと考えていたのかもしれない。
そんな背景もあり、私は次第にじゅんやくんのことを忘れ、何事もなく人生は進んでいった。第一志望の東大は落ちたけど、滑り止めの慶應経済に入った。慶應卒の父はそれはそれで喜んでいた。塾高生の目が届かない弱小テニサーでは、志木高生が俺たちこそが内部生と言った顔でオラついてて可笑しかった。
サークルやゼミの先輩たちに色々手伝ってもらって、リクルートスタッフィングに内定を決めた。キャリアの内定者の何となく見下してくる感じはムカついたが、腐ってもR。腐っても銀座OL。初めての一人暮らし。限りなく浜松町に近い田町の月10万の1K。まいばすけっとで自炊を頑張ってみたがすぐ飽きた。
仕事は楽しかったし、なによりRの空気は私に向いていた。JGと慶應経済の面倒なところを煮詰めたら多分Rのそれと同じような味がする。電話をかける。ビルを倒す。派遣された高時給のエンジニアたちがちゃんとやっているかフォローする。いくつか賞ももらった。私の人生は引き続き順調だった。
唯一の問題は私生活にあった。慶應卒のかわいくない総合職の女の子、ほどの恋愛における弱者はいないんじゃないかと思った。ルッキズムには排除され、オレが養ってあげたい派より年収が高い。共働きで尊敬し合える関係が、とか言ってるやつも、だいたい前掲のどちらかを心に持っている。行き場がない。
入社2年目くらいのときに、三菱商事との合コンがあった。商事の中でも三軍みたいな連中。微妙な顔面。高慢な態度。「派遣とか竹中平蔵じゃん(笑)」「お前はどうしたいの?っておれに聞いてみてよ(笑)」内心分かりやすいハイスペ好きで、今日の合コンのためにまつパに行った自分を殺してやりたかった。
そんな行き詰まりがずっと頭の中にあった。何となく始めたTinderはゴミの山だった。日東駒専大東亜帝国なんて現物と会ったこともない。なんと高卒も!世の中の広さを思い知らされる。この国では生きる世界が何層にも分かれていて、コンビニのレジとか、違う世界の人は目の前にいても透明に見える。
同じ社会に生きる透明な人たち。彼らが可視化されるのが面白くてTinderにハマった。何を売ってるのか、こんな国語力で本当に売れるのか分からない謎の営業たち。ホテルマンと車のディーラーはやけに多い。恵比寿のフレンチで働いてるシェフは何だか好感が持てる。そんな悪趣味なTinderをやっていた。
マッチのゴミの山を漁っていたら、一人の男が目に止まった。神奈川大学卒。神奈川大学?白楽だか東白楽だかの果てにあるらしい。体育会でサッカーをやっていた。今は営業をやっている。また営業。こんな営業が会社に来たら嫌だな。Junya。30歳。Junya?彼だ。
18年ぶりに幼馴染みと再会した。よりによって、このゴミの山で。身分を超えた恋、と言えば美しいので、そう呼ぶことにした。すぐに彼からメッセージが来た。はじめまして😆✨よろしくお願いします❗冷静になった。●●小のじゅんやくんだよね?すぐに返信が来る。当たりだ。
話すことはたくさんある気がするから、私からすぐに飲みに誘った。家も職場も横浜のあたりと言うから、東横線で出てきやすい渋谷にした。店知らんから任せていい?🤣と言われたから任せられた。ラフな感じがいいな、ラフな感じでいいやと思って道玄坂の「どうげん」を予約した。
彼が人生の曲がり角になる気がした。ハイスペを追っては追い返され、低スペは追われる前にドアを閉める。私のかわいい人生が恋愛ごときで躓かないよう、学歴や社名で相手を選んできた。スペックに依存しない私の新たな人生と幸福が、おそろしく低スペな幼馴染との再会で始まるんじゃないかと期待した。
金曜。どうげんに焼肉を食べに行くだけとは思えないほど気合いの入った格好で山手線に乗ってしまった。この日のためにアリエクで買ったスカートは思ったよりピチピチだし安っぽかったが、神奈川大の男にはこれくらいのほうがいいんじゃないかと前向きに履いた。慣れないハイヒールはやっぱり慣れない。
20時。彼は少し遅れて来た。黒のカナダグース。ピタピタの白ロンT。膝の破れた明るい色のピタピタのデニム。ナイキのスニーカー。顔は、調子悪い日の槇野に馬を足した感じ。真っ黒に焼けていた。TikTokで流行っている音楽に詳しそうな雰囲気をしていた。「久しぶり😆✨」発言の末尾に絵文字が見えた。
彼は私のアジアン隅田似の顔に少しギョッとしたが、お酒を飲むとどうでもよくなったみたいだ。よく飲む人だった。一息でジョッキを半分くらい飲み干した。杯を乾かすと書いてぇ〜😆顔カンパーイ😆✨よく食べる人だった。りんごを巻いた肩ロースを何枚も吸い込んだ。営業は接待で大変なんよ🤣
話は割と盛り上がった。中学高校でもサッカーを続け、インターハイにも少しだけ出場したこと。強豪大からは声がかからなくて神奈川大に進学したこと。プロを目指したがまるでダメで、今は横浜の部品の会社で営業をやっていること。大学時代のマネージャーと付き合っていたが、浮気されて別れたこと。
1時間も経っていないのに、彼はかなり仕上がっていた。てかスカートめちゃエロくない?😍(笑) 急に空気が変わるのを感じる。性的な質問が増える。テーブル席の向こうから、彼の鍛えられた足が妙に触れてくる。ZARAのいつ買ったかも分からない安そうな彼のデニム。昨日きちんとムダ毛を剃った私の脚。
私は変に冷めていた。話が合わない。共通の話題がないとかじゃなくて、会話の技法とか、語彙の辞書がそもそも違うような感覚。ロシア語とポーランド語のような関係。分かるが分からない。目に見えない学校から目に見えない会社に入り、目に見えない人たちとテング酒場で男梅サワーを飲んできた人。
私の期待は外れた。当たり前だ。私たちは同じ国の、目に見えない違う国で育ったのだ。それが交錯するのが首都圏の公立小学校であり、そこを出れば二度と交錯することはないし、交錯すべきでもない。美しい思い出は美しいまま、卒業アルバムと同じダンボールに入れて二度と開けなければよかったのだ。
迂闊にも、実家でホコリを被っていたそれを開けたのは私自身だ。それも、美しい思い出とその中にいる彼を、私は見下し、見下したそれらが私の人生を好転させてくれると期待した。最悪だ。そして最悪な彼は、自分のために着飾ってきたブスに勃起している。彼にはその権利があるような気がした。
例によって、このあとホテルに誘われた。お店に入って1時間余り。モクモクとしたどうげんのテーブル席。私の美しい思い出が、トイレから帰ってきたらこっそり近所のラブホを検索していた彼が、ニタニタと勃起しながら最悪の誘いを投げかけてくる。すべてが面倒になり、割り勘をしてホテルに向かった。
緊張緩和のためか、途中のコンビニで買ったストゼロを彼はガブガブと飲み、結果勃たなくなった。少し待つと復活したからまずは手でしてあげると、アッアッというピトーに脳をいじられたポックルみたいな声を出してすぐに射精した。そうして二度と勃たなかった。手を洗うときに鏡で見た私の無表情な顔。
時計を見るとまだ22時で、なんだか疲れたから私だけすぐ帰ることにした。ライン教えてよ、と言われたけど、ラインやってないので… とそのままドアを閉めた。通りに出るとゴミみたいな人たちがいっぱいいた。何の仕事をしてるのかも知らないが、おそらく一生知ることもない、違う国の人たち。
今年で30歳になります。帰りの山手線、窓ガラスに映った自分の顔にギョッとしました。頑張って生きてきたのに、恋愛で肯定されることがなく、そのことは私の人間的価値そのものが否定されたような気分になります。家につきました。男たちの欲求の狭間で、私は今夜も真っ白な天井を眺めています。
実は― きょう彼にああやって求められたのが、一瞬、少しだけ嬉しかったのです。でも、やっぱりダメでした。致命的な知性の欠如。合わない人とは合わないほうがよいのです。それが分かると見下してしまうから。じゅんやくんのお母さんを何となく見下していたのを思い出します。
当然の報いです。美しい思い出を利用しようと段ボールのガムテープを剥がした私。そんな私の手を汚い欲求で汚した彼。身分を超えた愛?Tinderを開くと彼からメッセージが来ていますが、何も見ずにマッチを解除します。ビールを飲みながら、早慶以上の人にだけいいねを送ります。今年で30歳になります。
出典元:麻布競馬場 @63cities https://twitter.com/63cities/status/1472400671387582467