はてなキーワード: 人物とは
バイト帰りには仲間たちとよく飲みに行ったりゲーセンに行ったり麻雀をしたりしていた。
しかしなぜかカラオケにはめったに行かなかった。カラオケ好きなメンバーが少なかったか、苦手な人がいたんだろう。
でもその日はなぜかカラオケに行こうということになった。成り行きはおぼえていない。
ほかのメンバーがどんな歌を歌うか私は興味津々だった。
アニメソングばかり歌う者、オザキやナガブチを熱唱する者、渋く演歌を歌う者、おのおの「キャラ通り」な歌を披露していった。
そして、どんな歌を歌うのか私がいちばん気になっていたB君の番が来た。
B君はものすごくおとなしくて、そもそも人前で歌を歌うなんて思えないようなキャラの人物だった。
彼が照れながらおずおずと歌い始めたのは、なんとロス・デル・リオの「恋のマカレナ」。
意外過ぎた。すごいのブッ込んできたな!と思った。
当時爆発的に流行してはいたが、カラオケでこれを歌う人を私はついぞ見たことがなかった。
しかしおとなしいB君はこれを歌いきった。
歌詞の譜割りが混んだところも、トリッキーなアウフタクトの部分も難なく歌いこなしていた。間違いなく、十分な練習を積んでいる。
盛り上がった。
あの踊りを踊る者こそいなかったが、「ア~~イ!」の合いの手はみんなで入れた。
みんな笑顔になった。
バイト仲間はそれぞれの大学を卒業し、就職して散り散りになった。B君ともそれ以来ほとんど会っていない。
みんな元気かな。
元増田の話なんかしてねーし、どっから参加しようが明らかに立場を引き継いだやりとりして来て都合が悪くなったら同一人物じゃないんでは通用しないんだわ。それが通用するならこっちもてめえに対応する筋合い何一つないわけ
2014年に発表されたアメリカのWebコミックが元ネタとなっているようだ。
https://note.com/nathankirinoha/n/n32ac8b8373ac
①登場人物がアシカ(シーライオン)嫌いのお気持ちを表明する。
②アシカがやってきてその人物にその発言に対する議論を慇懃無礼にひたすら要求する。
「シーライオン」が「礼儀正しいふりをして空気も読まずに議論を強要すること」の動詞として定着した。
ということらしい。
というわけで別になんかアカデミックな単語ということでも何でもなく、
普通に読解したら、男も叩かれるようになるさ、みたいな話よ
当人が別記事で★つけてたコメントも総合的に判断すると自己責任論に繋がらないとおかしいのだから
これは「そうなったらいやだなぁ」なんてなコメントではなくて、「そうなっていくよなぁ」というコメントでないと整合性がなくなる
それに対してこういう返しが付いた
ようは想定と違う事案が既にあるよって指摘だね
「男が」被害にあうと、加害者が叩かれてヨシヨシしてもらえるのさ
その後の被害妄想がすぎるんじゃないのは、多分ズレてるコメント
男がソロキャンで高価なキャンプ道具盗まれたら「安全な街中と同じ感覚ではいけない」と言われる可能性はあるな/悪魔の代弁者に対して「被害妄想」って反応は、建設的議論にならない感じでハテナっぽいね
太字は追記部
被害妄想に飛びついて、ずらしちゃってる
違うよな
返答すべきは
「男はヨシヨシしてもらえる」という事について、自衛自己責任論者として、「女には自衛と自己責任を説いた人物」はどう思う?という論点でないと「建設的議論にならない」
実にはてならしいやり取りだなぁって感じ
ちなみに、「女には自衛と自己責任を説いた人物」的にはテント一式盗まれた人物は
山舐めてんのか
危ない目に遭う可能性が上がるのを承知で生活圏から離れるのは充分に「自由」の範疇なのであって、それが不当と感じるのはやっぱり「私が行く先に整備が行き届いてないことへの不満」でしかない
鳥籠が欲しいのか?
権利の水準高すぎじゃね?
代理戦争でもしてる気分なんだろうが
colonoecolonoe平然と「ジャップ」という言葉を使う人間が「教養が無い」か。本当に教養が無い人物は自分に教養が無いことを知らないんだろうな
罵倒にひどい言葉を使ったら教養がない判定。通俗的に使われてるけど不思議だな。
少なくとも語彙はあるよね。語彙がなければ罵倒は「アホバカマヌケ」とかになっちゃう。
そして言葉が相手にもたらす影響もわかってるからジャップという言葉を使っているわけで心や精神といった方面にも造詣が多少なりともあるわけだ。
まあここらの教養は品位とかをさすんだろうけど、でもやっぱりそれを図れる価値観のものさしを持ってるから貶めることができるわけで。
インコやオウムがジャップジャップとわめいてもダメージはない。
最底辺の学もなにもない人間がジャップジャップとわめいてもダメージはない。
最低限相手に読ませる文章を書いて恣意的にジャップというワードを選んで多数の反応を呼び起こせる内容を書ける人間だからダメージ(反発)を生み出せる。
こういう指摘をする人とどちらが教養がありそうかというと…印象だけど、罵倒できる人間には比較的ありそうで「本当に教養が無い人物は自分に教養が無いことを知らないんだろうな」なんて書いちゃう人間には比較的なさそうになっちゃうんだよな。不思議なもんだ。
絶愛って漫画思い出した。
恋愛相手がなんかたとえば鉛筆になっても愛し続けるだか愛しただろうだかいう台詞があったと思う。
「本当の」愛は対象のかなり多くの性質に関わらないってことだと思う。
「本当の」ってつけることで言葉の意味を変更することの名前を忘れてしまった。情緒主義のやつ。
説得的定義だった。
小学校までは男女隔てなく仲良く遊んでいた同級生達が中学に上がると、学ランに黒ズボンを履いた男子と、ブレザーにスカートを履いた女子に別れ、以前と全く違う人物かの様に急に振る舞い、お互いの間に透明で重厚な壁を立てた事がまず一つの原因だったと思う。
そしてまた別の理由は初めての恋。
仲の良かった女子の恋愛相談に乗っていて、彼女が好きな男子に振られると急に手の平を返して僕に好意を打ち明けてきた。その心変りの早さに僕は内心軽蔑した。
しかし、その頃物事を深く考えていなかった僕は、彼女の好意にロマンティックにも応える事にした。
放課後誰も居ない教室に二人きり、夕陽が窓から強烈に差し込む真っ赤に染まった教室の中で彼女に「付き合おう」と応えた。
顔は太陽と同じ様に真っ赤に染まっていたのに、その時の心情はただただ寂寥であった。
それは多分、自分自身でも心の内の声に気付いていたからかもしれない。
初めての彼女ができたものの、僕は具体的には一体何をすれば良いのか分からなかった。
恥ずかしさと面倒臭さで彼女と一緒にする登下校も拒否していた。
すると、どうしてそうなったのか直接的な原因は知らないが、彼女は一度告白をして断られた以前の男子といつのまにか付き合っていた。僕はその事を周りの同級生から人伝手に聞いた。
彼女と付き合う事を口言したわりに具体的な行動を示さなかったのは自分だ。
だから振られてしまっても仕方が無いのに、僕は自分でも驚くほどその事実にショックを受けていた。
気が付いたら学校に行くのが嫌になり不登校をし、家に居るのも何なので近所の空き地で身を隠して一日の大半を過ごしていた。
どうして自分は彼女に振られてショックを受けたのかをその時にじっくり考えた。
自分でも気付かない内に彼女の事をとても好きだったのだろうか。
彼女と付き合ってから変に意識し過ぎてよそよそしい関係にしかならなかった。
彼女の好きな男子の話しを聞いて軽く意見を述べたり二人で盛り上がったり。
彼女の話を聞く為に交換日記まで使って日々やり取りをするほど異様な時間を共に過ごした。
どうして僕はあんなにも心が躍っていたのだろうか。
そんな事を考えたり、空き地で飽きたら周りの人にバレない様に近所を散歩していた。
そしてある日いつも通り空き地で漫画本を読んでいる時に気付いた。
その時持っていた漫画は女友達に借りた少女漫画だったが、その中の主人公の女子と同じ様な感覚が、初彼女と共有していた感情にとても似ていた。
カッコイイ男の子を見てドキドキして、彼と話したくてでも話せなくてそんな状態にハラハラする。
漫画の登場人物に感情移入をする様に、彼女を通して僕は恋をしていたのだ。
そこまで考えて愕然とした。
僕はあの男子が好き?
もし僕が彼を好きだったら、僕は同性愛者なのかもしれない。
そういった行為が異常だという事は子供の頃からテレビや周りの人の反応で何となく認識していた。
なのに自分が異常と呼ばれる人間になるのかと思うと正直戸惑ってしまいよく分からない。
考えれば考えるほど自分は同性愛者なのでは無いかと疑問が湧いてくる。
それを確かめる術も同性愛という世界に対する知識を得る手段も何も無い。
男は女を好きになるものだ。それが当たり前とされてきた。
中学校の体育教師も「男は男らしくあれ、女は女らしくあれ」と、それがお前の遺言であれと思うほどに皆んなの前で説教していた。
周りの同級生達はアホ面を下げて遊んでいる。
その中の一人がすれ違いざまに「どうしたん?学校嫌になったん?」と声をかけて来た。
そして教室に入ると振ってきた彼女が何か言いたそうに暗い顔をして僕を見ていた。
その彼氏は僕と目を合わせない様にしているのが分かる。
僕が学校に来なくなったのは二人が原因だと彼等や周囲に意識されるのが癪で、負けず嫌いな僕は意地でも学校に行く様になった。
学校には行くし授業は真面目に受けるし周りの同級生とも普通に話していた。
でも心に虚無感を抱かない日は無かった。
同級生と下らない話の笑いに付き合えば付き合うほど、作り笑顔が上達すればするほど、心に抱えた虚しさは膨らみを増し、日に日に腹の中で闇が深まるのを感じた。
一連の出来事があった彼氏彼女とは学年が変わりクラス替えの為すぐに離れ離れになった。
彼と毎日クラスで会わなくて済む事に僕は心底救われた。彼もまた彼女に振られたようだ。
そんな彼に意外な言葉をかけられたのは冬のある日だった。
教室にあるストーブで温まっていた僕の隣に静かに彼が腰を下ろした。
その頃には挨拶程度は交わすものの会話という会話は避けていたので僕は気が気では無かった。
僕は何を言われたのか一瞬分からなくて答えに窮した。
それから彼は部活の話とか、教室で流行っているカードゲームの話を僕に振ってきた。
何となくどもらずに答えられた気がするが細かい会話の内容はハッキリとは覚えていない。
話している内に変にテンションが上がった僕達は他愛も無い話でバカみたいに盛り上がった。
彼の好きな女子の話は聞きたくないし、誰が誰を好きとか興味も無かったので僕は急に静かになった。少しの沈黙があって彼が小さな声で、でもハッキリとこう言った。
「お前が女だったらな」
…一瞬、頭が真っ白になった。
しばらくの沈黙の後、僕の頭の中に浮かんできた言葉はこうだった。
(俺は女じゃ無いし)
何故か怒りの様な感情が湧いた様な気もする。
それから僕達がどういう会話をして、その後どういう行動に移ったのかよくは覚えていない。
ストーブの熱のせいで頭がボーとしていた。
暖かくて明るい教室の雰囲気の中で僕の心だけが冷え冷えとしていた様な気がする。
そして自分の感情に蓋をして深く考え無い様にするしか術は無かった。
クラス替えをしてからは仲の良いクラスメイトに恵まれて楽しく過ごしていたし、1年生の頃の苦い思い出も自分に芽生えた小さな疑問も一先ず考え無い様に努めた。
こうやって自分を少しずつ殺していく日々が始まった。
自分を少しずつ取り戻していく日々の話はまた別の機会に。
#PRIDE月間
この投稿はNISAを活用している方々に向けて書かれたものである。ただし、その中でも「わたしは新自由主義の信奉者です」という方々は除外する。その人たちに伝えるべきことは何もない。対象としては、NISAを活用しているが新自由主義の跋扈するこの世界と社会に改善すべきところがあるのではないかという疑念を抱いている人たちに向けて書かれたものである。
NISA(ニーサ)とは、個人の資産形成を応援する国の税制優遇制度です。通常の証券総合口座の投資では、株式・投資信託の売却益や配当・分配金に20.315%の税金がかかるのに対し、NISA口座での投資ではそれらの利益に税金がかかりません。
出典: NISA(ニーサ):少額投資非課税制度 | 楽天証券
国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視を特徴とする経済思想。
資本移動を自由化するグローバル資本主義は新自由主義を一国のみならず世界まで広げた ものと言ってよい。
国家による富の再分配を主張する自由主義(英:liberalism、リベラリズム)や社会民主 主義(英:Democratic Socialism)と対立する。
子どもへの性犯罪では、犯人が巧みに被害者の心をつかんで接近する準備行動をいう。幼い子どもの従順さや思春期特有の悩みにつけ込み、被害者と「信頼関係」を結ぶため、周囲も気付かないまま加害行為が長期化することもある。
出典: 性暴力の前に巧みにつけ込む 忍び寄る「グルーミング」:朝日新聞デジタル
NISAとは少額投資非課税制度であり、これは国民に投資を推奨する政府の施策であることは言うまでもない。投資がギャンブルであるか否かといった議論はここではしない。
資産は何もせずに金銭として持っていても目減りするから、別の形(不動産、証券、純金etc)で持っておくことはある種賢い選択であろうから有効と考えられる。ただし、それらの資産は逆に価値が下がるというリスクもあるが、これは政府も広報していて公正な態度だと言える。
ただし、NISAという制度を使って政府は投資という相場に国民たちを参加させたいのだということは再度認識しておくべきだ。
1970年代から始まったこの経済・政治思想は英国ではサッチャリズムと呼ばれ米国ではレーガノミクスやレーガニズムと呼ばれた。日本では中曽根康弘が始め、小泉政権下で顕著に推進された施策だ。
現在の自由主義諸国で新自由主義とグローバリズムが猛威をふるっていることは言う必要がないだろう。しかし新自由主義者たちはまだ足りないのだ。あらゆる世界市民が新自由主義の旗の元にあつまる世界を夢想している。
世界では貧富の差が拡大し、一部の富裕層の持つ資産は下位50%の持つ資産を大きく超えている。新自由主義が富者を肥えさせ貧者をより細らせていることは明白なのに彼らはまだそれを推進しようとしている。宗教のようにその思想を伝道し、経済的ダーウィニズムがこの世界に浸透することを望んでいる。
何故か。
彼らは捕食者であり被食者を求めている。市場に碌な知識もないまま資産をさらけ出す愚か者を求めている。
更に彼らは自分たちの主義主張がこの世界を過酷なものにすることを知っているから、その反対勢力が興隆することを危惧している。経済的弱者が連帯することを恐れている。それなら、まだ敵ではない人々は味方につけてしまえば敵になることはない、そう思っている。だから新自由主義を啓蒙しその成果が分け与えるようなふりをして味方につけてしまおう、洗脳してしまおうと思っている。
そしてNISAはその策謀のひとつだ。少額で始められること、非課税であることなどを呼び水として参入ハードルを低く設定し、投資という行為に忌避感がある層にもこの競争に参加させようとしている。経済的弱肉強食、金銭的適者生存のサバンナに放り込もうとしている。クスリの売人が最初の一服を無料でサービスし、甘言で誘惑して顧客に仕立て上げることを思い出そう。
あなたたちはその被食者になるかも知れないのに夢を描いて自分だけはそうならないと無駄に楽観的な見通しで投資に手を出すことになる。運良く被食者にならずに済み、捕食者となったあなたたちはどうなるのかと言えば新自由主義を支える一員に成り果てる。そう、新自由主義に加担するのだ。
NISAを活用しているけれど新自由主義に疑念を持っている人々はここで矛盾を味わうだろう。個人としてNISAを通して投資を行うことは生活の防衛であり、一市民としてのより賢い選択でしかない、新自由主義を肯定するものではない、と。しかしそのような君たちの個人的な心情をあなたたちが出資した資産は主張しない。あなたたちが預託した資産は新自由主義者に大いに利用されるのだ。あなたたちは彼らに燃料を供給している。兵站を担っていると言っても過言ではない。
「我々は新自由主義の弊害は認識しているし、その改善も必要だと考えている、そして貧者に対しても博愛の情を持っている」と。そして「そのこととうまくNISAを利用することは別だ」と。
別ではないのだよ。あなたたちは別だと思っているかもしれないが、あなたたちの選択は結果的に新自由主義を推進している。正確に言えば、新自由主義を推し進める政府の政策に乗せられて加担させられている。
こんな風に批判されればカッとなって
「家族と生活を守ってより良い生活をしようとすることのどこが悪いのだ」と主張するかも知れない。中には
「新自由主義だって悪いことばかりじゃない、それらの施策によって現実的に世界は豊かになっているというデータもある」などと言い出す者もいるだろう。
あなたたちは新自由主義に対して批判的な気持ちを持っていたかもしれないが、NISAを利用することにより新自由主義に加担させられ、そのことを批判されると新自由主義に対する疑念を打ち消す方向に考えを改めてしまう。己の選択と行動を正当化したいが為に。
性犯罪の被害者が加害者を擁護してしまうのと同じ行動だ。加害者に洗脳されて、自分たちの行為は悪くない、そうなった事情さえある、だからいけないことだとしてもそれほど悪いことではない、加害者さえ弁護してしまう、そんな風に考えるように仕向けられる。
だからNISAというものは投資のリターンを期待させたり、その利益が非課税であるといった甘い言葉で誘惑し、自陣に引き込み加担させ、そして新自由主義を肯定するように洗脳してしまう施策なのだ。取り込まれてしまっている。これをグルーミングと言わずして何と言えばいいのか。経済的、若しくは思想的グルーミングとでも言えばいいのだろうか。
そのような事例は、はてなでも大いに認められる。新自由主義や現代日本の政治にブックマークコメントで批判的な人物でも投資やNISAという話題になればせっせと肯定する。もう手懐けられてしまっている。
「へーそーなんだ、じゃわたし生徒会行くね」とミームで返すのかも知れない。
あなたたちは加害者になろうとしている。新自由主義を支え格差を拡大し経済成長の名の下で環境破壊を推進する加害者の一員になろうとしている。そのことだけは覚えておくべきだ。
俺はNISAなんてやらない。俺は俺の責任として加害者にだけはならないから新自由主義に加担するなんてことはしない。生活者として賢い選択ではないだろうが馬鹿でいい。口座に積立するくらいならその金で安い酒を買う。そんな金さえ無いがな!金持ちにはなれないだろうし貧乏なままだろうが、知ったことか。人間は主義主張というものをそういう生活態度で示すものだ。「新自由主義には反対ですが投資は生活防衛のために行います」みたいな二律背反していても平気でいるような小狡い態度はとらない。狡いってのは卑怯ってことだからな。絶対にNISAなんかやらない。絶対にだ。
cとgとqとwとzは同一人物説
まずは、郡道美玲さんの卒業のために、長きに渡って正当な手段で声を上げ続けた方たちに慰労と感謝を。本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。あなたたちのおかげで郡道美玲という存在はにじさんじからいなくなって、私たちが今後過ごすにじさんじファンライフがまたひとつ穏やかなものとなりました。
そして、上記の文言に反感を持たれる方に向けてこの文章を書いていません。この文章は郡道美玲さんが卒業に際して安心したにじさんじのファンが郡道美玲の中の人が卒業後に行う振舞いによって傷つくことがないように、今後起こりうることやどのような心持で過ごせばいいかを書いた文章です。
卒業配信で郡道美玲さんは運営への文句や、自分を卒業に追い込んだリスナーへの文句を言う可能性があります。
今回の謹慎中、運営とのやりとりがうまくいかなかったから卒業することになったのであり、運営が彼女に求めた要求と、郡道美玲さんが考える活動方針が噛み合わなかったから卒業ということになっています。そして、今回謹慎に至ったのもにじさんじファンの上げた声が大きくなったからこそです。つまり、当然のことながら郡道美玲さんの卒業は運営と対立したから。にじさんじファンの郡道美玲さんが不快だという声があったからです。わざわざ書かなくてもわかることですが、あえてここは意識したいところです。郡道美玲さんは今回の卒業を騒ぎにして掻き回すようなことをする可能性があるからです。私の知っている郡道美玲さんはトラブルを掻き回して深刻にするという行いが上手いから、郡道美玲さんがなにをしても「そもそもなんだったのか」ということをちゃんと認識しておくことが大事だと思います。
ひとつ、危惧されるのは「こんなネタ発言くらいで卒業になるとかひどすぎる」という文脈での発言がインターネットに増えるであろうということです。
にじさんじをよく知りもしない、Vtuberをよく知りもしない関係のない外野がこの文脈を使って今回の卒業をゴシップに仕立て上げます。これはすでに起こっていることでもあります。
そうして騒ぐ外野たちの声を郡道美玲は利用する可能性があります。「自由に発言できることがインターネットの面白みだと思っていた」と、もしかしたら卒業配信で涙して訴えるかもしれません。「自分は自由でなくなったインターネットの被害者だ」と言い出してもおかしくはないでしょう。
しかし、郡道美玲はWBCの発言で卒業となったのではありません。彼女が卒業となった理由は「度重なるコンプライアンス違反」「指導してもまったく反省がみられない」です。
活動初期から彼女は問題発言・行動を繰り返し、ここでそのすべてを振り返るにはあまりにも膨大となってしまうためできないくらいです。
リスナーとの度重なるレスバ、指摘された間違いを隠そうとする行為、「洗脳しようとしているのでは」と危惧させるほどの自分のファンへの過激な要求……
彼女の発信しようとする「過激だからこそ面白い配信者活動」は黎明期からにじさんじと折り合いがつきませんでした。運営も、ファンも、「面白くない」と判断する人が多かったから今回卒業に至りました。
いくらでも活動方針を修正する機会はあり、そうしてきたライバーも数多くいるなか、彼女は「面白くない」とされた活動方針を変えることはありませんでした。
今後の卒業配信や、それを騒ぎ立てるゴシップに傷つく事がないよう、郡道美玲さんが卒業することになった今ままでの積み重ねをしっかり認識していきたいです。
ただ、彼女がにじさんじを中傷し裁判沙汰になってもうまくいかないだろうと思われるので、訴訟に発展するような発言は卒業配信では行わないと予想されます。
裁判はいくら弁護士にまる投げしても、本人の根気強さとかしこさがなければうまくいきません。私の知っている郡道美玲さんは法的係争に向いているような人ではないと認識し、彼女自身もまたそれを理解し裁判を脅し文句に多用するだけに収まっている気がします。
卒業後、郡道美玲だった人物がにじさんじで彼女が経験した不快な出来事を拡散する可能性があります。彼女は、中の人のアカウントをあまり隠してはいませんでした。
https://twitter.com/g6mo2?s=20
他にもアカウントは存在し、インスタグラムなどでも活動していたことが知られています。このアカウントが1.5万フォロワーと、一番有名だと思います。
彼女が1人で暴露のようなことを行うのであればそれは不快ではあってもおおごとには発展しないでしょう。あくまで彼女は度重なる違反行為によって社から出て行ったわけで、にじさんじ側は当然の処分を行ったと結果的に判断されやすいからです。
では、なにが危惧されるのか。それは、他の「中の人アカウント」を巻き込んでの暴露行為です。
竜胆尊、鷹宮リオンなど、他にも中の人アカウントであることを積極的に隠してはいないアカウントが多く存在します。そしてその方たちは郡道美玲の中の人と交流しています。
ここで前置きをしておきたいのですが、私は「中の人アカウント」を積極的に隠していないことを「完全な悪」だとは考えていません。それは個人活動者である配信者にとって保険のような役割があり、いざ不当な行為によって活動が危ぶまれた時、発信力のあるアカウントを保持しておくことは自分の身を守るために必要だからです。しかしそれにも限度があり、良識の範囲を超えて匂わせをおこなったりするとファンからの反感を買うこととなり、それもまた当然のことだと思います。
郡道美玲の中の人が呼びかけて、他のにじさんじライバーの活動を制限するように言葉巧みに勧誘する可能性はありえないことではありません。それほどまでに彼女は仲良く中の人ともども繋がりの強いライバーは多いからです。
もしそのような事態に至った時、私たちはどうすればよいのでしょうか。
それはやはり、「変に騒ぎ立てない」ということです。一時的に他のにじさんじライバーが郡道美玲の卒業によって活動がなくなっても、反省をせず郡道美玲アカウントで各方面と対立を続けた彼女がにじさんじを卒業したということは当然のなりゆきであるということにライバーもリスナーも気付くからです。一番ダメなのが、彼女の扇動によってリスナーが過剰に反応をして、扇動を受けたライバー自らも活動に対して不安になってしまうという流れです。
もしも郡道美玲の中の人がにじさんじを傷つけるような行いをしたとき、彼女が卒業するまで根気強く正当に抗議をしたファンを見習って、SNSで騒ぎたてるようなことせずに運営に対処をするよう問い合わせをすることが私たちファンのできることです。
郡道美玲さんと対立をし、その後表立った活動を休止しているにじさんじライバーがいます。
今後、彼女の復帰を望む声は郡道美玲さんの卒業によって大きくなるでしょう。
それは長い、長い間、彼女を復帰をただ祈り続けているファンが少なくありません。彼らファンは、決して郡道美玲さんの卒業と結びつけて彼女の復帰を望むようなことを発信しないでしょう。長い間ただ祈り続け静かに応援し続けていた今までどおり、これからも彼女の復帰を祈り続けるのだと思います。
彼らファンが、「邪魔者がいなくなったから早く復帰しろ」と下品な声をあげる人たちをどんな気持ちで見ているのか、それは自分には想像できないくらいつらいものであると思います。
この文章を書いたのは、ずっと祈りを続け、ようやく復帰の土壌が整いつつあることを静かに喜んでいる彼らの応援が汚されるのが見たくないからです。
このような文章を出したところで、きっと彼らの祈りは汚されてしまうのだと思います。騒ぎ立てる連中は必ず数多く現れるでしょう。それでも、せめて彼らの静かで力強い祈りが成就する日を、私も待っています。
この文章は間違っているところがあれば訂正し、追記すべき事があれば書き加えたいと思っています。
この文章についての各言及を反映し訂正することがありますので、ご了承ください。また、訂正や追記などを求める事項がありましたら積極的にコメントをお願いできると幸いです。
※ほぼメモ書きです。
ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff, 1920-1992)といえば、『第九軍団のワシ』をはじめとするローマン・ブリテンシリーズで有名な作家である。このシリーズは、一般にローマン・ブリテン三部作(『第九軍団のワシ』、『銀の枝』、『ともしびをかかげて』)ないし四部作(『辺境のオオカミ』も加える)と呼ばれている。岩波書店でもそう書いている。
https://www.iwanami.co.jp/book/b269788.html
一方、英語版Wikipediaのサトクリフの項目を見ると、『第九軍団のワシ』シリーズは他にもある。要は、4部作で終わっているというわけではないのだ。ファンサイトSutcliff Wikiでは、正式名称ではないとしつつ、"Dolphin Ring"と呼称している(一方、第九軍団のワシ、銀の枝、ともしびをかかげてを指してRoman Britain Trilogyという言葉遣いもされている。実際、1980年にThree Legionsというタイトルでセット本が出ている)。その作品群について整理しておく。
(1)作中時系列順
2世紀:第九軍団のワシ(The Eagle of the Ninth)
3世紀:銀の枝(The Silver Branch)
4世紀:辺境のオオカミ(The Flontier Wolf)
5世紀:ともしびをかかげて(The Lantern Bearers)
9世紀:剣の歌(Sword Song)
1954年:第九軍団のワシ(Oxford University Press)→岩波書店、1972年
1956年:盾の輪(同)→山本史郎訳『シールド・リング ヴァイキングの心の砦』原書房、2003年
1961年:夜明けの風(同)→灰島かり訳『夜明けの風』ぽるぷ出版、2004年
1963年:落日の剣(Hodder and Stoughton)→山本史郎・山本泰子訳『落日の剣 : 真実のアーサー王の物語』原書房、2002年(2巻本)
1980年:辺境のオオカミ(Oxford University Press)→岩波書店、2002年
1997年:剣の歌(The Bodley Head)→山本史郎訳『剣の歌 ヴァイキングの物語』原書房、2002年
これらの作品群がファンWikiでDolphin Ringと呼ばれているのは、言うまでもなくアクイラ一家のあのイルカの指輪(=古代ローマ人のハンコ)が共通して登場するからで、時代の流れとしても共通した設定を持っているからである。ただ、『三銃士』シリーズのような一貫した主人公や陣営を描いているわけではない。第九軍団のワシの主人公マルクス・フラーウィウス・アクィラ(訳書には従っていない)は、元々属州ブリタンニアに駐屯するローマ軍団に属していて、家のルーツはエトルリアにあるから、もとはといえばイタリア半島の人間なわけだ。ところが、彼が色々あってブリタンニア定住を決め込んだことが指輪の運命を決めている。『銀の枝』の主人公ティベリウス・ルキウス・ユスティニアヌス(ジャスティン)とマルケルス・フラーウィウス・アクィラ、『辺境のオオカミ』のアレクシオス・フラーウィウス・アクィラ、『ともしびをかかげて』の主人公アクィラ(上の名前は不詳)は、いずれもマルクスの子孫にあたる。
もっとも、ローマ軍団が描かれているのは『辺境のオオカミ』までであり、『ともしびをかかげて』はローマ軍団がいなくなったあとのブリタンニアを描いている。基本、サクソン人とブリトン人との戦争が描かれる。『落日の剣』はその後日譚にあたるが、主人公はアンブロシウス・アウレリアヌス(この人は実在の人物で、サクソン人と戦っていたブリトン人の指導者)の甥アルトス(アルトリウス)となっている(もちろんアクィラも登場するが)。つまり本書はアーサー王伝説の翻案なわけである。しかも『ともしびをかかげて』よりも長い。『ともしびをかかげて』は、20年ほどを描くが、後者は40年ほどのスパンがある。本書は明らかに大人向けであり(ファンWikiにもFor Adult Readersとある)、児童書である他書と毛色がかなり異なる。
『夜明けの風』はアルトスよりも100年ほどあとの時代で、デオルハムの戦いで壊滅したブリトン人の王族の生き残りオウェインが指輪を持っている。『剣の歌』では主人公はヴァイキングの少年ビャルニ(指輪は、ウェールズで暮らす少女アンガラドが持っている)になっている。そして時代的にはもっとも最後にあたる『盾の輪』の主人公もまたヴァイキングの少女フライサと孤児ビョルン(後者が指輪を持っている)で、湖水地方に立てこもってノルマン人に抵抗する様が描かれる。
見ての通り、厳しい立場に立たされた者を主人公にするというプロットはほぼ一貫している。『第九軍団のワシ』は父親の不名誉(ちなみに時代はあのハドリアヌス帝の治世にあたる)、『銀の枝』はカラウシウス帝に忠義を尽くした故に叛逆者となってしまった二人(なおこの頃の皇帝といえばディオクレティアヌスだ)、『辺境のオオカミ』は軍人としての失態だが、同時にローマ帝国と辺境民族(ピクト人)との戦いが背景にある。『ともしびをかかげて』は撤退するローマ軍から脱走して敢えてブリタンニアに残った主人公の苦労が描かれるが、彼の立場を厳しくしているのは、サクソン人のブリタンニア侵入である。サクソン人と戦う側が主人公になっているのは『夜明けの風』が最後で、『剣の歌』以降はヴァイキングが主人公になっている。アングロ・サクソン人のブリテン島征服が一段落して平和になったと思ったらデーン人がやってきたわけだ。さらにそのデーン人もノルマン・コンクエストで痛めつけられる(ノルマン・コンクエストは、思いっきり誇張すればデーン人(+アングロ・サクソン人)対ノルマン人の戦いであり、こいつら全員元をただせば海賊である)。ローマ人、ピクト人、ブリトン人、サクソン人、デーン人、ノルマン人とイギリス史に登場する諸民族の融和がシリーズのコンセプトとなっている(それは第一作の時点から明らかで、イルカの指輪は父を殺害したピクト人の長老がマルクスに返却している)。
出版年代を見ると、最初の『第九軍団のワシ』とシリーズ最終作となる『盾の輪』がもっとも早く出ていることが分かる。そして63年の『落日の剣』まではほとんど2年おきに出している。それから間が空いて80年の『辺境のオオカミ』と遺作の『剣の歌』がある。特に『剣の歌』は推敲が十分でないように思われる箇所もある(作業途中で亡くなってしまったのだろう)。日本語訳では『ともしびをかかげて』が一番早い(おそらく、内容的に最も評価されているのではないかと思う。カーネギー賞もとっているし)。明らかに児童文学ではない『落日の剣』はともかく、児童文学作品でも猪熊訳と山本訳(と灰島訳)とに分かれる。版権取得の問題かもしれないが、あるいは猪熊の作業量の限界だったのだろうか(1928年生まれだし)。そもそも『夜明けの風』は『ともしびをかかげて』の割と直接的な続編といって良いだろう。なお、自分の親は子どもの頃に『第九軍団のワシ』と『ともしびをかかげて』を読んでいたようだ(サトクリフの名前を出したら「あの小説か」と反応があった。結局「三部作」を貸している)。年齢が結構高い人でも、その二つは知っているのではなかろうか。
英語圏では多分されていない「四部作」(第九軍団のワシ~ともしびをかかげて)という言い方も理由がないではない。この四つはシンメトリカルな構成をしている。『第九軍団のワシ』『辺境のオオカミ』と『銀の枝』『ともしびをかかげて』(つまり13・24)と並べられる。前者では、主人公は百人隊長として失敗したあと、北方辺境で名誉回復を遂げる。後者では、大陸への渡海という選択肢を捨て、ブリテン島南部で戦う。「四部作」はアクィラ家のアイデンティティがローマからローマン=ブリテンへと移り変わっていく物語なわけである(既に『銀の枝』でカラウシウス帝の口からローマ帝国亡き後にどうローマを残すのかというテーマが語られる)。そしてもはや「アクィラ」という名前が語られなくなった世でも、困難に立ち向かうアクィラ家の精神は、イルカの指輪に象徴されてあとからきた民族へと受け渡されていく。そして現代のイギリス人にも・・・というのがサトクリフの言いたいことなのだろう。
「いやーキツいっす」ってよく見るんだけど、この人しか使ってない?