はてなキーワード: 冷戦とは
父親が亡くなってから、早いもので二ヶ月が経った。肺癌が主な原因だった。
私は父親が嫌いだった。昔ながらの亭主関白な夫と言えばわかりやすいだろうか。母を召使いのように扱い、母がいなければ娘の私を扱き使う父親だった。
例えば夕飯時、口を開けば「早く箸を持ってこい」「飲み物を持ってこい」と偉そうに命令した。反発すれば怒鳴り散らし、机を叩くなどして威嚇する。その影響で私は人が(特に男性が)怒っていたり怒鳴っていたりすると、身が竦むほど恐ろしさを感じるようになったぐらいだ。
父親は典型的なクレーマーでもあった。理髪店で自分の気に入らないヘアカットにされた時は、相手が泣くまで怒鳴りつけたそうだ。同じことを他の店でもしている。本人が武勇伝のように語っていた。相手に落ち度があるのはさておき、そこまで怒る必要は断じてないし、店員にどんなトラウマを植え付けたのか考えるだけで忍びない。
そんな父親ではあったが、小さい頃は私を目に入れても痛くない程に可愛がっていたようだ。記憶は薄れているが、確かに可愛く思っていたのは事実だろう。しかし私はその愛情に、思春期らしい気持ちの悪さを感じていたことを覚えている。今思えば、それは都合の良い人形を可愛がるようなものだったからではないだろうか。
小学生ぐらいの記憶を引っ張り出してくると、休みの日に父親が家にいたことは稀だった。一人もしくは母とパチンコへ行くことが多かったからだ。いたとしても日がな一日ゴロゴロと寝転がっているだけで、家族で出かけるようなことはなかった。泊まりで旅行など、温泉に一度行ったきりだ。
今や定番であり行ったことがないというだけで子供に惨めな思いをさせるというディズニーランドなど、その頃の私には想像もつかない世界だった。ある程度成長するとディズニーランドに言ったことがないのは少数派だとわかり、私は友人と話を合わせたくて「行ったことがある」と何年間も嘘をつき続けた。
「子供を可愛がる」というのは、子供の遊びに付き合い、行きたいところへ連れていき、一緒に経験を積み重ねることではないだろうか。父親からはそういった愛情をもらうことはなかった。
私には兄がいる。私とは違い、高校も大学も両親の期待以上のところへ進んだ、彼らにとって自慢の息子だ。父が兄に対して怒ったのは、小さい頃以外だと私が知る限り大学留年の危機に瀕した時だけだ。また、兄を小間使いのように扱ったこともない。
そもそも兄は私の四つ上で、中学の時は部活や塾で朝早く夜遅く、高校の時は遊び回ってほとんど家におらず、私が中学生の時にはもう家を出ていたため記憶が薄い。仲は悪くないが、まるで他人のように感じる。
そんな兄と私はよく比べられた。よくある話だ。優秀で友人も多くクラスの人気者な兄とは違い、私は特に秀でておらず人見知りも激しく友人は少ない。父にとって私は「理想の娘」ではなかっただろう。よく冗談で「お前は橋の下で拾った」と言われたものだ。私は、先に生まれただけで両親の良いところを全部持っていった兄が憎らしく恨めしく、そして何より羨ましかった。この頃の私は成績にしろ資格を取るにしろ両親が喜ぶだろうと思って行動していた。その成果である様々な賞状がうちには飾ってあり、父はよく自慢していたようだった。
私にとって父は畏怖の対象でもあり、自分を認めて欲しい存在でもあったのだ。
社会人になってからの数年間も、私は実家にいた。勤め先が実家のすぐ近くであったこともあるが、精神的に自立していなかったからだ。
その頃父との関係は冷戦状態で、口を開けば互いに怒鳴り合うこととなった。私は他人からは怒ることなどない穏やかな人間に見られていたが、それは人見知りを拗らせた内弁慶だからであり、家ではとても口が悪く我儘だった。
父は二言目には喧嘩腰に「なにぃ!?」と眉を吊り上げた。それに恐れをなして怯む自分を気付かれたくなくて、いつも怒鳴り返していた。
家を出てからはほとんど実家に帰っていない。父と口を利きたくなかったし、母とも何を話せばいいのかわからなくなっていた。
その内に私が結婚し、父が定年前に退職して数年後、肺癌が発覚した。他の病気まで併発していた。当たり前だった。あまりにも酷い生活だったのだから。
今まで何年…いや何十年と、私は両親に煙草を止めるよう苦言を呈してきた。それに加えて父は甘いジュースが好きで、見るからに不健康な体型だったが運動はしなかった。そして、職場でほぼ強制的に受けさせられる健康診断も逃げ続けた。恐らく何か見つかるのが怖かったのだろう。
退職後から発熱したり咳が続くことが多くなり、具合の悪さにとうとう病院へ行った時にはもう手遅れだ。他の病気のせいで放射線治療はできず、低血圧のため手術もできないと言われた。
それでも父はめげずに抗がん剤治療を始めた。この辺りのことを考えると気が滅入るので省くが、とにかく辛く過酷な日々であっただろう。
担当医に「今夜が山でしょう」と言われた日から二日ほど過ぎた。付き添い人である母と兄はゲッソリとしていた。父は夜中の決まった時間にパッと目を覚まし、叫び暴れるのだと言う。「痛い」「苦しい」「殺してくれ」と。
モルヒネの量を増やしたため、父は最早会話ができなかった。たまに独り言を呟いたり、かと思えば急に会話に入ってきたりしていた。
私が最後に父を見たのは亡くなる三日前だ。まるで死を待つように、ただベッドに座ってぼうっとした目で息をしている父の姿に、私は何故か涙が込み上げて部屋から逃げ出した。それ以上見ていることができなかった。
寝れなくて辛いから付き添いを代わってくれと兄に頼まれたが、今の姿ですら見ていられないのに暴れ出す姿を見たら更に正気でいられるはずもなく、断るしかなかった。兄はこのことを恐らく恨んでいるだろう。
母からの電話を受けて夜中に病院へ向かった。道中、ずっと涙が止まらなかった。
父のことが大嫌いだった。父そっくりなせいで私は不細工だし、すぐ怒鳴りつけるし、母や私を扱き使うし、我儘で自分勝手で金遣いも荒く、不貞を働いたこともある最低な人だ。何度となく「死ねばいいのに」と思った。
それなのに何故、涙が出るのだろう。何故、苦しんで死んだのだと思うと辛いのだろう。何故、遺品である携帯やタブレットから父の痕跡を辿っては苦しくなるのだろう。
今もまだ、父を思い出すと胸が詰まったような気持ちに苛まれる。
葬式が済めばすっかり日常に戻れるぐらい父に対して思い入れがないというのに、ふとした時に見てもいない死に際を思って胸が詰まるのだ。
きっと父は長生きしても人に迷惑をかける老人になったであろうから、早くに亡くなって良かったのだと思っている。
生きていたら、やはり何度となく「死んでくれないかな」と思っただろう。
今日、もう稼働しなくなった家族全員のグループLINEがふと目に入った。入院中の父が母へ毎日のように「あれ買ってこい」「早く来い」とそこに送っていた。そのやり取りを見て、どうしようもなく誰かに吐き出したくなった。
いや無理だろ。確かに『どこが濃いねん』ってトラバが↓に付いてたよ。
https://anond.hatelabo.jp/20190618093950
それは同感だけど、じゃあ本当に『内容の濃い記事』にしようと思ったら色々無理がある。
なんせ、理解の前提となる知識が絶望的に普及してない。ざっと考えても、
に入る前にまず、
で、だ。
1.はまあ、いわゆるムラ社会のことだから多少は説明をショートカットできるけど、
2.は地獄のように分量が増える。ちゃんとしようとすると、どんどん遡っていく必要がある。
ざっと考えても、
2-1-1.なぜそんな構造になったのか~スデイリ7と宗教と石油
2-1-1-1.スディリ7とは何かを説明するためのイブン・サウード(アブドゥル・アジーズ)王の来歴
2-1-1-2.宗教的傾向を説明するためのワッハーブ運動とサウジ建国前後からの略史
2-1-1-3.オイルマネーがもたらした西側との歪んだ関係を、冷戦期から現在まで軽く説明
ぐらいは用意して、その上で、
を書く必要がある。
3.も酷い。イラン革命以後の全史がほぼ必須。パーレビ王朝の説明はサウジの説明を流用して最小限に抑えたとしても、それ以降は、
このぐらいやれば多分、
を書けるようになるはず。あまりにも遠い。
ハイテク戦闘機の話だったと思うのに、核戦争に日本が勝てない話を始めた理由がよくわからんが。
核抑止がチキンレースっていうのは、冷戦下の米ソ間の比較の際には良く言われていたが、各影響下の軍備全般に適応するのは間違いだ。多くの場合、つまり今の日本も、俺たちはチキンレースに参加する前段階みたいな状況にあるからだ。「俺とチキンレースすんのか? お互いにただじゃすまんぞ? お?」と互いに凄みあっているのが核抑止という状況であって、この段階では現実にチキンレースになったときにビビって止まるかどうかなんて関係がない。
流行ってた時期に支配層に食い込んだ度合いで力の強弱に違いがあるくらいかな。
20世紀にリベラリズム、というか人権とか民主主義が流行った背景には、やっぱり、それをやったら社会が豊かになるという考えがあった。
まず王政がクソなことが多かったし、憲法を持って民主主義をやっている国がバンバン戦争に勝ちだしていた。実は日本がそのモデル国で、明治維新の成功と日露戦争の勝利は大いに世界に影響を与えた。
第二次大戦後の冷戦期も、敗戦国が負けたのはファシストだったからということになったし、ソ連社会主義とアメリカ自由民主主義がどっちが開明的で豊かになるかを争っていた。
翻って、今よ。
リベラリズムは俺らを別に豊かにしなかった。リベラルを掲げて政治家になったやつで、国を豊かにしたやつはいない。いや、リベラルが悪いんじゃなかったんだろうが、少なくとも豊かさを増して貧乏を減らす力はリベラリズムにはなかった。
社会福祉は、社会全体の豊かさを増すための理想ではなく、社会の貧しさを押し付けあうための理屈になってしまった。
グローバリズムが人々を豊かにしない、ということが明らかになったあたりがまた決定的だったな。ネットで対話が加速すれば炎上ばっかだし、人助けで難民入れた国には社会不安が増えた。
何が言いたいかというと、我々はたしかに態度が悪いリベラリズムに背を向けるけど、そもそもリベラリズムが流行らなくなってマトモな人間が背を向けたせいで、信者には攻撃的な奴らが多くなっている。
市民、あなたはコンピューター様について何か誤解をされているようです。
パラノイアは1984年に発売された、冷戦下の赤狩りを皮肉るブラックユーモアに溢れたTRPGです。
舞台となるアルファ・コンプレックスは、サンフランシスコ地下にあるコンピューターの制御するシェルター都市である。小惑星の地球への衝突によりネットワークから孤立した各都市のコンピューターは、断片的な情報から共産主義国家の核攻撃中にあると誤認。結果、すべての都市は共産主義者に制圧され自都市だけが正常に営まれていると結論するに到った。以後数百年に渡ってコンピューターは「共産主義の攻撃」と「汚染」から市民を守護するという妄想を達成すべく、都市の人類が外に出られないように隔離し、独裁的・専制的・全体主義的な支配を行っている(ちなみに、XPの時点ではコンピューター歴214年である)。人類の自由を奪うコンピューターの支配体制は、かつてのアメリカが持っていた妄想的な「悪の共産圏国家」のイメージそのものである。共産主義者の攻撃から守るという名目で共産主義的な社会を作り出すというのは大きな矛盾なのだが、コンピューターはすでに狂ってしまっているのでそのことには気づけていない。
つまり、パラノイアでは市民は狂ったコンピュータ様の支配の下、特に存在しない脅威と戦い、どうでもよいミッションを遂行しつつ、適当な人を反逆者として今日も粛清しているのです。(ZAP! ZAP!)
アルファコンプレックスではこのような状況が長く続いたため、科学技術も衰退しきっています。
車に乗れば走っている間にタイヤが外れ、エレベーターに乗れば落下をし、銃を撃てば暴発します。
プレイヤーはみな疑心暗鬼です。理不尽なミッションを遂行するふりをしながらお互いに監視をしあい、隙あらば反逆者として仲間を処刑しようとします。
なかなか狂っていますね。でもゲームブックはさらに狂っています。
市民はセキュリティクリアランスに従い情報が制限されています。そしてプレイヤーのセキュリティークリアランス 赤(R: レッド)はルールブックを読むことができないのです! プレイヤーはわけもわからないままアルファコンプレックスに放り込まれまることになります。
ひょっとしたら自分で遊ぶよりも他人が右往左往している姿を見る方が面白いかもしれません。素敵なリプレイを紹介しましょう。
作り込まれたネタと表現力が魅力です。冒頭を抜粋してみます。こんなノリが好きならオススメです。ちなみに太字はプレイヤー名です。
みなさんは、いつものように仕事へ出かける前の朝食をいただくため、食堂に集まっています。
食堂は収容人数3000人ぐらいの、カマボコ型の天井をした、とてつもなく広い体育館のような場所を想像して下さい。
その中央を長いベルトコンベアーが貫いており、その上にはポリカーボネートの皿に乗った灰色のペーストが並んでいます。
直に匂いを嗅ぐと涙が止まらなくなる強い刺激臭と、スチールのスプーンすら溶かす強烈な味がしますが、食べてもすぐには死なない程度の安全性は保証されてい ます。
腹を空かせた市民達は、コンベアーに群がり皿を受け取ると、思い思いのテーブルについて食事を始めます。
食べ慣れていない市民などはスプーンをペーストに長く漬けていたため、スプーンを溶かしてしまうなどといった粗相をするものもいましたが、食事はおおむ ね……失礼しました、完璧に幸福に進んでいきます。
STAR-R:いやぁ、コンピューターのくださるお食事はいつ食べても美味しいですね~
Rese-R:当然だね。疑いようもなく、我々は幸福だ。
食堂には、より幸福に食事を楽しめるよう、娯楽としてテレビまで用意されています。
Rese-R:それにしても、いったいどんな番組が流されているのだろう?
ちょうど食事時の人気番組である「電子顕微鏡の世界」というのが放映されています。
この番組は、様々な金属の電子顕微鏡の映像を延々と流し続けるというもので……ちなみに、今日のテーマはベリリウム(原子番号 4 の元素。記号Be 原子量 9.013)です。
Rese-R:いよいよ、明日は「ホウ素」か、いゃあ~、楽しみだなぁ!!
STAR-R:まったくです。こいつぁ目が離せませんね。
(注: 本来の名前表示は「個人名」-「クリアランスイニシャル」-「ホームセクター」-「クローンナンバー」でしたが、読みやすさのため「個人名」-「クリアランスイニシャル」に変更しました)
雰囲気が伝わったでしょうか。
キモカネオッサンは、大体銃乱射かトラック特攻で、ポリコレババアがアクティビストかエコテロリストになって送電線破壊したり農場や牧場を襲撃して家畜を奪って去っていくとか、そういうのが多いそうだ
何でもテロリストや破壊工作員養成の冷戦時代のアメリカやソ連の古いマニュアルがタダで公開されてるらしくて、それを元にやってるらしい。
国家や社会に喧嘩を売って、破壊工作やゲリラ戦を単独で仕掛けるくらいの根性と度胸があるのなら、彼氏や彼女の一人くらい余裕でその労力の1割でも次ぎこめばできるだろうに、それはできないって理由がわからん
けものフレンズ2が大いに荒れているそうだ。まー見てないけど。
だから振り返って1のおはなし。あと、これけもフレに云々言うのではなくFO3/4への文句なのでご注意。
廃遊園地がモチーフになっているように、世界観方面で不安を煽っていく。
実際作中でも露骨にポストアポカリプス的な要素が散見されて、実際人類は滅んだとまで作中で言われているわけで。
でも、それでも前向きに話が終わっているから、逆にFalloutへの不満が思い出されてしまった。
ちょっと話は変わるが、「ポストアポカリプス」的なフェチめいたものはわりと歴史的にサブカルチャーの中にあり続けた。
たとえば「ヨコハマ買い出し紀行」。最近だと「少女終末旅行」とか。
海外でいえば「マッドマックス」。ただこれはだいぶカルチャーの部分なのでゲームを見てみると、その中には「Fallout」という傑作が燦然と輝いている。
冷戦真っただ中で明日いきなり核兵器が頭の上に落っこちてくるっていうのがまああり得ない話ではなかった時代に生まれた作品が、そうした懸念が晴れた後の世代に影響を与えてできた作品と言えるのかもしれない。
「Fallout」はどちらかといえば「1984」とか「すばらしい新世界」の方向かもしれないが、ジョーク的なレトロフューチャー世界に準じているし、そういうロマンが詰まっている。
ことにこれらの作品に顕著なのが、「破壊のあとに生きる人間」というテーマだ。
「Fallout」の1、2を製作した製作会社の作品には特にこれが現れている。「war never changes」という言葉は「第三次世界大戦は石で殺し合う」という意味もあるのだが、大事なのは「世界が終わっても人びとは生きるために殺し合う」という明確なテーマを指すものだった。
わたしが初めて「Fallout」に触れたのは3だった。もともと「Oblivion」が大好きだったのでこれにも結構ハマったわけだが、もっとハマったのは「New Vegas」だった。そしてあとになってやった「4」は救いようのない駄作だと感じた。
なにが不満かと言えば、結局は「古い世界への郷愁」をわざわざ誘うような展開ばかりだったからだ。そのうえローカライズは「人は過ちを繰り返す」と訳した。
3のマップデザインを見てほしい。廃墟ばっかじゃん。戦争から何百年とか経ってるのに、ビルや建物はあんまり風化してない。
何が言いたいかといえば、「人が住んでない」ようにしか見えないのだ。
レイダーにはまともな拠点とかないし、ウェイストランド人の居留地なんていうのも生活感がまったくと言っていいほどない。
4はもっとひどい。風景が「せいぜい戦後20年とかじゃない?」という程度なのだ。おかしいだろ!
オンラインのヤツはやっていないのだが、正直こんなゲームを出していくのならBETHESDAには二度とFalloutシリーズを作らないでほしい。
まあ、それは無理があるのでわたしはNVのスタッフが作ってる「The Outer Worlds」を楽しみにしておくということで、愚痴おしまい。
冷戦が終結、EUが誕生し、国際的には安定へと向かっていくなかで、
オウム真理教や酒鬼薔薇など「ヤバいことが起きてる」感覚もあった。
アメリカ同時多発テロと世界金融危機により、世界は混迷の時代を迎えた。
一方で日本は、不景気が日常化することでむしろ「底値安定」し、一時的な落ち着きを見せた。
インターネットが本格的に普及したことでオタク文化がメジャー化した。
また日韓関係がクローズアップされることで、ネット上で「嫌韓」「ネトウヨ」が誕生した。
ソーシャルリベラリズムとナショナリズムの対立が急激に立ち上がってきた。
日本でも、左右の対立はネットを越えてリアルへと浸透し、社会のあちこちで対立の構図を作り上げた。
経済的には、日本は立ち直れないところまで凋落し、中国の急激な台頭がそれをより強く印象づけた。
って感じでどう?
これを書いている人は、この3月で大学を卒業し4月から社会人生活を始める。
と言うと、世の大半の人は、人生最後になるかもしれない春休みを友達との旅行などで謳歌しているのだろうと思われるかもしれない。
しかし、卒業旅行や送別会などに全員が行く訳などなく、自分はこの1ヶ月半地元に帰り実家にいた。理由は至ってシンプルだ。あまりにもメンタルがやられてしまい卒業旅行に行く気になれなかったからだ。
ゼミやサークルどこに行っても弄られるキャラを演じる中で、表面上は笑いながらも精神的な負債が少しずつ蓄積されていき、今年の2月のゼミの飲み会でその負債が爆発した。あまりにもしんどすぎた。
その癖に、弄る側の人間は弄られて人はいつも笑いになって美味しいと勘違いしているのだろう、卒業旅行や送別会に行かないと言う連絡をすると「なぜ来ないんだよ?暇なら来いよー」と勝手に暇だし行けるだろという圧をかけてくる。何故卒業旅行に行くことが当たり前と思っているのか、そのスタンスを疑問視したくなった。
はっきり言って面倒この上ない。
行きたくないものに行かないという選択肢すら出来ないのかと思ってしまった。
かと言って本当のことを言って、雰囲気を壊してしまうのも憚られる。さらに、悩みとして打ち明けたとしても、弄られキャラのためにネタにされ、本当の悩みであってもまともなアドバイスを貰えることなんてない。大学生活最後の春休みに、わざわざ精神を削ってまでこいつらの相手をするほど穏やかではなかった。
こういう理由があって、実家に帰ったものの、親と妹が冷戦状態、愚痴を自分にぶつけてくるような状況、さらにはストレスや悩みから全く離れた生活を送っていると思われ、そのような類の話をしても「そんな訳ない」とすぐに遮られる。
大学生活の中で、本当に精神が落ち着くのは、一人暮らしをしている家の中だけだったが実家に帰ってもそれは変わらなかった。
ただ、大学の知り合いと1ヶ月以上離れたことでかなりメンタルが回復した。これほどまでにリフレッシュするのかと初めて帰省の良さを知ったほどであった。
おかげで明後日に控えた、社会人生活のスタートを問題なく切れそうであるのだが、始める上でいくつか言っておきたいことがある。
1.弄られて直ぐに拗ねる奴に弄る資格はない。
小学校の時、「自分が嫌だと思うことは相手にするな」と教わったはずだ。にもかかわらす、守れない輩が多すぎる。ゼミ同期にも精神科通いのクソメンヘラ女がいるが、ツイッター上でメンヘラ垢まで作って、人生辛いとしてるのに、ゼミでは弄る側になる。この矛盾が見てて痛々しすぎる。
2.弄られている役の人の中には悩みがあっても言えない人がいる。
弄られる役の人も、人間である以上悩みを持っている。だが、その悩みを打ち明けたとしても、笑いのネタにされてしまうことも多々ある。そのため、言わないで自己解決を図ろうとする。このやり方で上手くいくこともあれど、どこかで躓いてしまう。(実際に今回の自分がそうだった。)
弄られる側の人の中には、人に本音をあまり言わない方もいるが、リアクションがおかしいなどいずれ表情に変化が出るものだ。周りでその変化に気づいた方がいたら、是非真剣に話を聞くように受け入れることをお願いしたい。
3.弄られる側の人は怒りたくても怒れない。
弄られる内容や弄ってくる人によっては、反撃したいことも多々あるが、やり返したところでその場の空気が変になることくらい誰でもわかる。普段と全く違うリアクションを取っているわけだから。その異常を覚悟してリアクションを取るくらいなら、少々自分が傷付いても全体の笑いになればいいと思ってしまい、いつも通りのリアクションを取ってしまう。この少しの傷が蓄積されるとやがて取り返しのつかないことになってしまう。そうならないためにも嫌なことに対しては嫌と言っておくことも時には必要である。相手に直接言うのが難しい場合には、間に人を介するなどするのもアリだろう。とにかく、取り返しがつかなくなってはもう遅い。
4.辛くなったら休む
無理して弄られるキャラを続けてもやがてガタが来る。その場合には直ぐに休んで1人でいるか、若しくは全く別の関係である友達に会ってみることをお勧めしたい。
4月から社会人として仕事が中心になる生活が始まってしまうが、この文を1人でも多くの方が読み、1人でも弄られるキャラの人の救いになり、1人でも愛のない無責任な悪口や弄りを止める人が増えることをささやかながら祈っている。