はてなキーワード: 長所とは
元美少女から言わせてもらうと、愛らしい外見という表面上のことだけ楽しめて羨ましいなあって思う。
帰り道すれ違いざまに自転車に乗った男に胸を触られて泣きながら交番に立ち寄ったこともあった。
それが嫌で一時期登校拒否もした。
社会人になって混んでない電車の椅子に座ってる時だって、ついウトウトしてしまったら隣のおっさんが太もも触ってた。
バスに乗った時だって2人がけの席に座ってたら隣に座った挙動不審な人がチンポ(ポロン)したりした。
仕事では取引先の男性に笑顔で接してたら周りのおばさん達に嫌われて嫌がらせされた。
ほとんど喋ったことのない近所のデブス主婦から変な言いがかりつけられるようになったり。
ある程度歳を取っても愛らしい顔のせいで接するお客様から子供扱いされ、私と同じことを言っただけなのに男性が言わないと信じない。
こんな風に書くと性格のせいじゃ?って反論が来そうだけど今回書いたのはほとんど、もしくはまったく接したことのない人達からされてきたことです。
人は見た目が9割っていうけど魅力的だからこそ狙ってくる天敵も多いの。
だからずっと警戒しながら生きてきたの。
顔がわからないネットの世界って本当に気楽。(でもプロフィールに女と書くとちょっかい出してくるウザい奴は必ずいるけどね)
もちろん私以外の多くの女性でも同じようなことを経験してる人はたくさんいると思う。
だからVR美少女のおじさん達が楽しんでるのはいいとは思うんだけど、一方で「可愛らしさ」っていうわずかな長所まで奪っていくのか...と思っちゃって微妙な心境。
こういう話は最近バズりやすいし、私への加害者も一部の変態男性とか一部の心身共にブスな女性だけで全ての人がそうだとはまったく思わないけど、美少女になるなら美少女の苦労もちょっとでいいから理解して、「冤罪だー!」とか「誘ってる方が悪い」とか言わないような人達でいて欲しいです。
「性犯罪?絶対に許せない」「見た目で判断することは良くない」とみんなが言ってくれる世の中ならもっと周りの人達を信頼できて美少女が怯えながら暮らさなくても済むと思うのです。
実は自分も1年前の就活の時に長所は「真面目」って答えてたのですごく親近感がわいて思わず書き込んじゃいました。
今思うと人事の人は長所なんて何でもよくて、ただその長所に対して説得力のある話がどれだけ出来るかがポイントだったんじゃないかって思います。
それだけ資格を持っているなら説得力のある話は自己分析をしっかりすれば必ず書ける。
でも社会人になって泣くことが増えた。
泣くことを我慢できず、仕事中も泣いてしまい、仕事にならなかった。
何があんなに涙をでたのか分からない。ちょっとしたことで泣いてしまう。
もう耐えきれなくて辞めることを決意して、それを上司に言った。
やめた1ヶ月は楽しくてしょうがなかった
今までできなかったことをたくさんした
バイトもする気にならなかった
そのまま8ヶ月がすぎた。
このままじゃいけないと思って、社会復帰するためにバイトを最近始めた。
人間関係も怖い
働きたくない
バイトってこんなしんどかったっけ?こんなになんでビクビクして働かないといけないんだろう
なんで笑ってコミュニケーションがとれる?
なんかもうわからん。
昔はこんなこと気にしなかったのに
つらい
お金がない
でもわからん
頭も良くない
引きこもってるのも鬱になる
でも実際働いてみると死にたくなる
もうわからん
世の中のみんなは当たり前のことができてすごいな
働いてる人、ほんとすごいよ。わたしにはできない
なんで耐えれるんだろう 私はなんの仕事ならできるんだろう
見つけ方もわからない。
長所がなんにもありません。真面目に考えてみたけど短所しかない。情けなさすぎて早速死にたくなってきました。
思い返せば私は子供の頃から他の人に比べて突出したものとか、特別な才能やセンスとか、そういうものがなんにもない子だったからせめていかなる時も真面目に誠実に取り組むこと、一生懸命努力する事を大切にしてきました。
でも、それって誰にでも出来ることなんですよね。努力なんてみんなが出来てあたりまえのことじゃないですか。最近その事に気付いてしまって、というかこんな簡単なことに今まで気づけなかったという方が正しいですよね、本当に今更になって自分が馬鹿だったなって思うんです。努力家で真面目で偉いねえって言われることを、褒められてると勘違いして満足してたけど、それってほかに私にすごいところがないから頑張ってて偉いって無理やり肯定してくれてただけだったかもしれないのに。
その代わり大学生活の中で頑張ったことといえば資格取得、これは本当に努力したって自信持って言えるぐらい勉強頑張りました。もちろんひとつといわずいろいろ挑戦しました。漢検、英検、TOEIC、日商簿記、FE、AP…正直、これだけ頑張ったんだから絶対評価して貰えるって思ってました。甘えてました。けど、それだって他人と比べて恥ずかしくない?って考えたら微妙だなって気付いてしまいました。別にすごくも何ともない、普通のことを必死に私頑張りました!ってアピールしてるだけなんじゃないかって思うとわざわざ書けるほど偉いことじゃないかも知れない…ってなるんです。
だいいち、本当はわかってるんですよ、結局人間としての価値で負けている私みたいな奴はきっと資格頑張ろうが何をどうしようがダメなんですよね。たぶん私は資格を取ることでみんなと同じレベルに立ててる、周りと比べて劣ってないって思い込みたかっただけなんだと思います。アホですよね。
というか就活っていざ始まってみるとこんなに自分が嫌いになるんですね。初めて知りました。
このままいくときっと親の期待にも応えられないし、それ以前に奨学金も返さないといけないから卒業までに就職先みつけないと借金地獄で絶望しかない状態になるのは予想できてるんですけど、本当どうなるんでしょうかね。就活失敗したら人生終わるって親や周りからずっと言われてて、絶対にそうならないようにしなきゃいけないというのに既にこのざまですからね。いい加減自分がゴミみたいな人間過ぎて何もかも嫌になってきました。クズですよね。本当死んだほうがいいかもしれない。
周りからはこれから自信持っていかないとだめだよって指摘されてしまいましたけど、でも仕方ないじゃないですか。私には本当に長所がなにもないって思い知ったところなのにこれ以上何をどう自信を持てと?って話ですから。
私は女で婚活をしている。婚活を始めて三年目になる。はじめに言っておくとこれはただの覚え書きであり独り言である。
一説では三年婚活して結婚できない女は一生結婚できないとすら言われているらしい魔の三年目だ。
なにせ三年も婚活をしているのだ、しかもその間休止もせず毎週コンスタントにパーティーに通い婚活サイトに登録し相談所に登録し続けてきた。
会った人数は途中で数えるのを止めた。
三年も婚活をすると初めの頃は解らなかったことが解るようになり解っていたことが解らなくなる。
解るようになったことはどんな人にも必ず長所と短所があるという普通なら幼稚園で習うような内容だ。
そんなこと普通なら幼稚園で習っていただろうけれど如何せん三年婚活してやっと気がついたのだ。痘痕も靨、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、隣の客はよく柿食う客だ。
そこまで気がついてじゃあなんで三年も相手が見つからないのかと考えた。
なにせとんでもなくやばい人なんて5人に1人くらいしかいなかった。殆どは真面目な普通の人だった。
まず第一に私が相手にとってとんでもなくやばい奴だったパターンが有る。恐らくこれが理由の8割だけど今回そのことについて考えると三年目の婚活が一年目の終活になるから辞めておきたい。
むしろ三年も婚活した女が真面目に終活出来るとも思えない。終活のことはよく知らないけれどそもそも遺言を残す相手もいないのだからHDD叩き割って首吊るだけで終わる終活をわざわざする必要があるだろうか。
閑話休題、考えるのは2割の、相手の方は良い返事をくれたのに一歩踏み出せなかったパターンだ。そも2割もあっただろうか、0.2割の間違いかもしれない。
とにかく数少ないその良いご縁に乗れなかった理由はなんだろう。
一つはとにかく自分のプライドが高いことだ。プライドが高いから相手によく見せるために兎に角良いことを言いまくる。自分の中で決めている約束事の一つに嘘をつかないがあるので嘘はつかない代わりに本当のことも言わないのだ、もはや詐欺に近い。
休みの日に家から出る用事なんて婚活パーティーに行くか夕飯の買い物(何故なら昼まで寝ているから朝食と昼食がいらないから)かイベントに行くかだ。
イベントといっても勿論DJ(そういえばDJってなんの略なんだろう)がよくわからない何かを回してるようなレーザーがスマホに穴をあけるようなピーポーがパーリーしているイベントではない。
つまりオタクによるオタクのための薄い本の祭典に行くときくらいしか外にでない。
友達もいないのでオフ会すらいかない。オフ会で知り合って恋愛に発展する可能性も0だ。そんな意識の低いオタクは早々に結婚して夫婦仲良くネトゲで遊んでいればいい。
そんな意識の高いオタクもいざ婚活で知り合った男の前では趣味はショッピングだし読書だし料理なのだ。
言えても「最近少しゲームにも興味があって❤ポケモンやってます❤」までで決して厳選の話なんてしない。いや私厳選やったこと無いけど。
そうすれば相手は出社前にスタバでラテ買ってハイヒール慣らしながらカーディガン肩に掛けてお昼は流行のお店のパンケーキ食べてる女子と付き合っている気持ちで告白してくるのは当たり前で、これは相手は何一つ悪くない。
相手は何一つ悪くないからこそ、私はそこまで行ってやっと「ヤバい」と気がつくのだ。
何がやばいってパンケーキは好きだけど写真撮る前にさっさと食べ終わってしまうタイプな事だ。いやこれは別にいいか。
しかも食べ終わってから写真のことを思い出して食べ終わった空き皿をとりあえず写真に撮ってしまうタイプな事だ。これは普通に止めたい。
兎に角私ではない私に告白されて始めて焦るを繰り返している。普通の人なら三人目くらいで気がつきそうなことを三年繰り返しているのだからそりゃ相手も決まるわけがない。むしろ決めなかったことは相手にとって僥倖だったと思う。
これが初めの頃は解っていたことが解らなくなったことの一つだ。
兎に角みんな真面目な普通の良い人ばかりで悪い言い方をしてしまうと特徴があまりない。
いや、最近のブームは競馬に50万突っ込むことですと言われたら印象には残るけれどその特徴は残さない方がいいだろうし。
そして競馬の部分をソシャゲにされると私は何も言えなくなってしまうので(なぜなら私も課金しているから)やはりそんな印象は残さなくて良いと思う。
とにかく選ぶ決め手がないのだ。
これを言うと人生の先輩方に「それは自分が結婚する覚悟が決まってないからだ」と言われる。全くその通りで私は結婚して夫婦としてやっていく覚悟が全く決まっていない。
決まっていない中で三年も婚活してきたという事実に三年目にしてやっと気がついたので筆を取ってみたというのが今回の主題だ。
そもそも結婚して何をしたいという事もない。殊更どうしても専業主婦になりたいわけでもないし絶対に子供が欲しいわけでもない。
ただ一人で生きていくにほ如何せん能力が不足しているので誰かと助け合いたい、位の気持ちで婚活してきた。
よく考えれば自分一人で生きていく能力が無い女が他人と生きる能力があるわけが無いんだけれどそれもまあ三年目にして気がついた。
更に言うと、こんな事に今更気がついたのかという話なのだが、私は多分他人に恋をしたことがない。
この人を好きだとか独占したいだとか自分を好きになって欲しいだとかそういう意欲が全くないのだ。
そう言うと上記のよく見せたいと矛盾していると思われそうだけれど私は私をよく見せて相手にイイ女だと思われたいというプライドエベレストでは有るけれどよく見られて惚れられたい訳でなく
学校の先生には良い生徒だと思われたいけれど先生に惚れて欲しいわけではないというか。
お店の店員さんに良いお客さんだと思われたいけど店員さんに惚れて欲しいわけではないというか。
なんというかとにかくそういう奴で所謂独占欲や征服欲やなんかそういうものが全く無かった。
そういうものが全くないから相手の予定も聴かないし積極的に会おうともしない。
むしろ出不精なのでなるべく会わないように済ませようとし出す。
もはや初対面が結婚式でも良いとすら思えてくる程だが本末転倒だしいくらなんでも結婚式場で相手がカメレオンだったりしたら相手のカメレオンが可哀想だからやっぱり結婚前には会っておきたい。
何の話だったか忘れてきた。
要するにとにかく結婚に向いていない女なのだと三年間高いお金を払い続けてやっと理解してきたのだ。
だというのに恐らく三年目、四年目も婚活を続けるのには理由がある。
燃えるような恋がしたい。
少女漫画のような恋がしたい。
目と目が合うと素直にお喋り出来ない恋がしたい。
そんな普通の人が中学生か早けりゃ小学生で終える感情だけで婚活を続けている。
恐らくそんな相手には婚活をしている限り出会えない、これは婚活が悪いわけではなくてシステムの問題で、婚活は綴り書きありきで進むものなのだから仕方がない。
そこまで理解していてもなお婚活を続ける理由はまだ理解できていない。恋がしたいなら婚活では駄目だと理解していてなお婚活にしがみつく理由、もしかしたら四年目に解るのかもしれない。
優しい人って、子供の時分は気付かないけど、社会に出ると結構しんどい思いをする事が増えるんだよね。
社会に出ると、能力を露骨に比較される様になるし、遠慮なくマウンティングしかけてくる人間が増えて来る。そんな中で優しさを保つ為には、強さを身に付けないとならなくなってくる。
強さというか、耐久力というか、自分を軽々しく扱わさせないだけの何らかの得意分野というか。なんかそういう「柱」みたいな物が必要になってくるんだと思う。それは食べて行く為の職業にも繋がるし、自信の根拠にもなるんだと思うんだ。
そういう「柱」って身に付ける為には、まあまあの時間が必要になるのだけど、増田さんは、この先もまだまだ時間があると思うので、焦らずじっくりと「柱」を探して身に付ける事に挑戦してみても良いと思います。
何らかの「柱」が出来て来れば増田さんの優しさは、人を惹き付ける長所担ってくると思うので、どうかじっくりと悲観せずに進んでみてくださいな。と。おじさんは思うのです。
周囲に迷惑をかけないように生きたい。無理難題だけど、根本のある自分の願いは「人から嫌われたくない」だと思う。だからなるべく普通の情緒を持って、嫌われないようにしたいって感じ。
情緒の話はまさにその通りですね...自分じゃなくて周囲の人が決めること。
だからその、「ちょっとめんどうくさい人」って思われることをカバーしてくれるような自分の長所がないから、それが自分が嫌われることに直結してしまいそうで嫌なんだと思う。
言い訳をすると、親しい人にうっかりネガティブな発言をしてしまって、またやってしまったっていう自己嫌悪から先にタイトルをつけて推敲せずにつらつら書いたから、指摘の通りまとまりがない。何がダメなのか書いた本人すら最終的に分からなくなっている始末。
まさかこんな自分の文章を最後まで読んでくれて、しかも掘り下げれるようにコメントをしてくれる人がいるだなんて思わなくて、書き終わって満足して投稿しちゃったって感じ。だからもう書き終わった時点で感情の整理がついたから、何かを整理したくて書いたわけじゃないです。
何がダメなのか?ということは上記の人付き合いにおいての不安もあるんだけど、実は今就職活動を控えてて、こんなネガティブな人間が果たしてこれから社会に出て働けるのか?社会は必要としてくれるのか?っていう将来への不安と閉塞感からこのタイトルにして書き始めてみた。内容とあんまり関係なくなっちゃったけど。
今はとりあえず、多分お世辞なんだろうなっていう言葉に対して否定を交えつつも、でもそう言ってくれてありがとうって言うようにしてる。そのまま受け取れるようになれるように頑張る。
※これは情緒不安定な生理二日目の女の妄言です。文章の手直し一切せずにタラタラ言います
さみしい。
人間はひとりでは生きていけないんだけども結局ひとりで生きていかねばならないっていうのが辛くて悲しくてしんどい。
どこ行ってもわたしは私を甘やかしてくれる人間ばかりでわたしは"私"を持ってないわたしになってしまう、だから1人に置かれた時に一歩すら出せなくなってしまう
私は『いい子』を演じようとしてるけどなりきれない一番『悪い子』なのである。
人のせいにはしてはいけないのは分かってる
でも自分は温室育ち故に甘えてしまい決定権を誰かに委ねて身体だけ大きくなってきた
だからわたしは"私"のことすら分からない 知らない だから自分の魅力にすら 個性や人格、長所すら気づかない
心の底では卑屈で『誰よりもお前は最下位だ』と暗示を掛けないと傲慢と見られてしまう
暖かな環境に身を置くからこそ他人の目や気持ちをエゴで推し量ってしまう
最低な人間すぎる
大人にならなきゃなぁ
少しでも『いい子』になるためには自分の意思をきちんと持たないと
主にカワラバト/ドバト(街によくいるやつ)が嫌いというか恐怖症レベルで苦手で、今日も駅の鳩にギャーってなったから腹いせに嫌いなところ挙げてく。鳩信者はお帰りください。
【鳩の嫌いなところ】
・ひょこひょこした動きが気持ち悪い
・人間の食べ残しにたかり、時にはゲロさえつつくほどの浅ましさ
・そこらじゅうにフン散らかす
・春になるとベランダに来て洗濯物にフンとか羽とか付けていく 絶対に巣だけは作らせない
・なんか人の隙間をスレスレで飛んでいくの頭おかしいとしか思えない
・病原菌いっぱい持ってて不潔、スズメも同様とはいえスズメと比べて大きいから羽ばたいた時いっぱい菌とか飛びそうな気がする(これはイメージです)
・平和の象徴というポジションに胡座をかいて人間の生活圏に寄生している印象(これもイメージ)
・熱出すと夢に出てくるのむかつく
このまま嫌いな要素無限に挙げられそう
【鳩のいいところ】
他ある?なくない?食べられる品種なら食糧として価値あってもドバト食えんし
ドバトは全面的に嫌いだけど中でもうちの近所のゴミ捨て場によくいる二羽、ゴミ袋くちばしで破って中身食ってるの無理すぎ!カラスよりバカだからかそれとも目や鼻が悪いのか、中に食べものがあるのかもわからないまま闇雲に袋引きちぎってるっぽくてひたすら散らかすの、本当に!!愚か!! 鳩の長所教えてほしい。好きになれるかはわからないけど……虐待などの意図はないし人間の傲慢さをぶつけてごめんね……でも嫌い……
以上。
例:
機能Aは簡単に加えられたが、機能Bは難しいというようなことが起こる。
よりよい設計を考えられるところまで踏み込めるとよい。
読みにくいコードがあった場合、えいやっとリファクタリングしてみる。
コードを読み解き、なぜ、そのアプローチに至ったのかを解明してみる。
その他:
ありとあらゆる機能を調べつくす。分からないことは後回しでもいい。
誰かが既にライブラリ化していたら、そっちを使う。コード管理は他人に任せよう。
時間があれば、その二つのプランのコードを書いてみて、長所と短所を比較してみる。
最終的にはプランA,B,C,Dの四種類程度を立てられるように目指す。
幼少期(小学校の低学年頃)に脳に疾患が見つかって、以来十年近く投薬治療をしていた。
また、高校の頃からずっと鬱を患っていた。頭の中が鉛のようになって自由に動けなくなる。生活の上でそういうことが多々あった。
ADHDも併発している。破壊的な過集中を経て朝まで眠れないことが多かった。
バイトのシフトにはちゃんと遅刻せずに行く程度の社会性はあったけれど、やはりと言うべきかミスが多く、恐らく責任者も俺のことを発達障害者として認識していたみたいで、指示を出す時も俺にだけ妙に細かい明確な指示を出してくれたりした。それはそれでありがたかったのだけれど、時々ヒスを起こされることとなった。自分が主原因になっていることは分かっていたから、どちらかと言えば申し訳ない気持ちの方が強かったけれど。
現役で地方の駅弁大学に入学して、卒業が近くなってからは資格試験講座に通っていた。で、途中から引き篭もるようになる。
一応何とか大学は卒業できたけれど、定職に就くことはできなかった。
自分は、根本的に人生はディシプリンというか一種の訓練期間だという固定観念を持っていて、それと同時に、より効率的に自身を訓練できる人間がより優れた人間なのだという価値観を持っていた。だからと言うべきか、高校時代は朝5時に起きてジョギングを繰り返していた。恐らくその頃が、自分の学力のピークになっていたと思う。
確か当時の全国模試の総合偏差値は70を超えていたはずである。
でも、そういう訓練が破綻を来たすのは思っていたよりも早かった。
何年も日課にしていたジョギングが、高校生活半ばに突如として億劫になったのが始まりで、それ以来上手く眠ることができなくなったのだ。
その頃から学力の減退も生じていて、自分で自分がコントロールできない感覚に苛まれるようになっていた。志望校のランクを一つ落として、何とか国立の大学に合格することはできたものの、今にして思えばあれが自分の人生の最盛期だったのではないかと思う。
大学に入ってからは、過密的な訓練期間と白痴のように生活が崩壊する期間を繰り返すようになった。訓練期間には、暇があればジョギングに出かけ、膨大な量の学術書に当たった。また、複数の語学習得を目指し大学のゼミを幾つも掛け持ちしていた。そして、大抵はそのような訓練期間は三ヶ月と持たずに破綻し、再び自分をコントロールできずロクに睡眠も取れない白痴のような生活が始まるのだった。
俺はそうやって訓練期間が破綻する度に、自分の計画の建て方や訓練の方法に恐らくは問題があるのだと考えていた。実際、その考えにはある程度事実に沿う部分もあって、当時の俺はその自分が打ち立てた訓練方法の細部を限りなく修正し続ける作業に集中することとなった。そして、その細部を修正したトレーニング理論に基づく何ヶ月かの訓練タームを集中的に実施し、そしてその訓練タームの後には、訓練タームよりも更に長い破滅的な破綻の期間を迎えるということを繰り返していた。そのような生活は大学を卒業してからも戻らず、そんな具合に二十代の半ばを迎えた。
何かが間違っていることには気付いていたけれど、何が間違っているのかはもはや分からなかった。考えつく限りの細部には工夫を凝らしてきたつもりで、主に食事における栄養バランスの調整には念入りという以上に念入りになった。卵、バナナ、木綿豆腐、牛乳、納豆、青魚、葉野菜。こういうものをバランスよく摂るようにしていた。でも、自分が自分をコントロールしているという感覚はついぞ訪れることはなく、相変わらず愚にもつかない趣味に熱中しては朝を迎え、疲弊しきった精神でバイト先に行き、そして週末は48時間家に引き篭もって過ごすことも多くなっていた。
いわば、この辺りが人生の暗黒期だったと言えるだろう。むしろ、そう言わずして何と呼べるのだろうか? もし他に呼び方があるとすれば誰か教えておくれ。
さて。
いわゆる躁鬱の躁期に入っただけの可能性も有ると言えば有るのだが、しかし実証的に体系的に改善を目指した結果として、根本的に自己をコントロールしているという感覚が数年ぶりに戻ってきたので、そこに関してはある種の信頼を置いている。
原因というべき原因については既に見当がついていて、つまりそれは脳に対する血流の低下である。身体におけるありとあらゆる不調や、自身のコントロールを掌握できていない感覚は殆どの場合、血流の低下に基づいているのである。ADHDや鬱の改善に血流を効率よく増やす有酸素運動が有効であることはとっくに知られていることで、つまり結局は脳の血流の有無が自己コントロール能力の有無へと繋がっているということなのだ。これを改善する為の様々な手段を講じ続けてきた結果、その中で極めて有効なもののみが残ったので、それらについて以下に紹介していきたい。
シンプルながら散歩はADHDや鬱の克服に大変役立つ行為である。普段自転車や原付で移動する距離を、例えば自転車や原付を手で押しながら移動することで、とにかく歩く歩数を増やすことに集中した。iPhoneのヘルスメーターも一応活用しており、実際に散歩した分の歩数が如実に数値として現れることにはかなりモチベーションを刺激されることとなった。
腰の尾てい骨の下に柔らかいタオルを敷いた上での足の上げ下げなど、身体を横にして安定した状態にした上での筋トレは圧倒的に脳への血流を増やすことができる。これで週末の鬱傾向が随分と改善している。なお俺は心肺能力に二十代の半ばからかなり不安を抱えるようになったため、そこまで負荷を掛ける筋トレは実施していないが、自分の体調と相談しながら負荷を増やしていくことが肝要であるようだ。
ドストエフスキーや夏目漱石などといった純文学が望ましい。これらを読む際に脳に鋭い拒否感(としか呼びようのない感覚)が走る人間ほど、読書はうってつけの鬱・ADHDの改善法となると俺は思っている。大抵の場合、活字を読んだ際に訪れる決定的な拒否感は、脳に対する血流が急激に増えることに由来しているのである。そのように活字に対する拒否感が生じる際にはそっと目を閉じて、左前頭葉辺りに意識を集中してみると、はっきりと自分の脳への血流が増大している様子を感じることができると思う。特に、血流を増やす為には身体を横たえた状態でいることが望ましいのだけど、当然屋外や座った状態での読書も随分と効果を発揮する筈である。また、外国語の読解などもこの読書のカテゴリーに加えておく。
基本的に鬱の人間は、日々変化に欠ける生活を送っている場合が多い。
同じパターンというか、悪い意味で安定しきった生活を送っていることが多いのである。
すると行動の多様性や、積極的な行動への意志が驚くほど抜け落ちていくという事態に遭遇した鬱持ち・ADHD持ちの人間は非常に多いのではなかろうか。というわけで俺はどちらかと言えば趣味としては読書や文章を書くことに取り組むことが多く、空間的に物事を把握しそれを描写する絵などにはあまり集中力を払わないことが多かったのだけれど、これがどうやらいけなかったらしい。最近は、漫画のイラストを模写したりだとか、積極的に絵を描く時間を生活の中に設けるようにしている。ファミレスやハンバーガーショップなどに行った時にサッと手帳を取り出して、軽く文章やそれに付する絵を描いたりすることも日課となっている。
ここで言いたいのは、必ずしも絵を描くことが鬱やADHDの改善に役立つといったことではなく、同じ行動パターンや同じ行動に固執することが如何に脳に悪影響であるかということなのである。なので俺は最近は文章を書き、絵を描き、詰将棋を解き、読書をし、と、とにかくやる事を一つに限定せずコロコロと変えることを意識して生活するようにしているのだ。
鬱持ち・ADHD持ちにありがちな、思考の切り替えや行動の切り替えが上手くいかない人間には、是非絵やその他普段行うことのない趣味を増やすことをオススメする。
上で書いた通り、卵や牛乳、青魚といったナチュラルフードが脳のパフォーマンスに影響することは学術的に証明されて久しい(と俺は思っている)。これはもう殆ど記述する必要性がない事実だが、しかし敢えてここに記述するからには、そこには当然ながらそれなりの理由がある。
つまり、俺のような鬱・ADHDの併発した人間には、料理を行う際にとある事柄が圧倒的なハードルとして持ち掛かってくるということなのである。つまりそれは、そう、料理の煩雑さや億劫さである。
基本的に鬱傾向やADHD傾向を持った人間はありとあらゆる行動に億劫さを感じるもので、よほどその行動に高い利益や見返りが見込めない限りは、その行動を行いたくないと思うものなのである。そういった面から言って、料理は味よりも栄養価と手間の少なさを重視するように俺は心がけている。準備や片付けの手間をできるだけ減らすために、単に塩焼きにしたり茹でるだけだとか、できるだけ工程の少ない料理(というか殆ど調理)で済ませられるようにしている。
脳に一定以上の煩雑さや負担を押し付けないことが、ADHDや鬱改善の要点である。時にはサボることも非常に重要だ。
追記。瞑想は効果あると思う。瞑想時に、個人的には脳への血流が如実に感じられることが多く、恐らく脳に対してかなりポジティブな効果が起こっていると思われる。
読書の後など、脳に負荷を掛けた際にその情報の整理や休憩の為に、短めのカジュアルな瞑想を行うことがある。これもまたオススメ。
など
こんなところだろうか。
思い出し次第追記を行いたいと思う。
今年に入って、文学小説の脳に対する効能が非常に大きいことに気付けたのは重要な発見だったと思う。読書の際に襲ってくる倦厭感がむしろ血流の増大と関わっていることに気付けたのは、自分としては非常に大きな発見だったと思っている。というわけで、かなり重篤な症状持ちの人間としては、以上のような改善法を進める次第である。
上では書かなかったが、俺は重篤なインターネット依存症持ちでもある。
しかしその依存症もこの数ヶ月で劇的に改善した。俺という人間は、言うまでもなく長所よりは短所や欠点の方が随分多く付きまとう人間であるからには、そんな人間にすら効果がある対処法は、恐らく全人類的に効果のある対処法となっていること請け合いである。
是非とも、皆さんにも実行してもらいたい。
自身の病癖を繰り返すようで悪いが、やはり疑いなく、「よい訓練こそが、よい人生」なのだ。
それでは。
ダーリンインザフランキス4話目のキャプ(公式か非公式かわからないけどほぼタイムラグなしで英語字幕つきのものがネットに上がっている)で、02の台詞の「ボクに乗りたいの?」が「You wana ride me, huh?」になってた。
また、02は「ボクに乗りたいの?」とは言うが「ボクに乗りたいのか?」とは言わない。一人称がボクであること以外は女の子の喋り方だ。もし「ボクに乗りたいのか?」だったら喋り方全体がより少年っぽく堅い、ひいては自己決定として少年的なそれの持ち主だということになる。「か」の有無だけでガラリと変わるこういうニュアンスも英語では伝わらない。
02のような自信満々で攻撃的で実力のある女は英語圏では大人気なので02は大ヒットしているが、未だにボクっこだと気付いてない人が大勢いる(日本語音声で観てても結構聴き分けられないらしい)。もっといえば15のようなキャラのニュアンスはもっとわからないのかもしれない。「謝らないで」と「謝るな」と「謝んな」はどれも全く違う。その一言だけでどんな類型のキャラかとか16とどんな関係性かとか情報が大量に入っている。そういうのが英語で翻訳するのが不可能だ。
どうも英語の会話を見ていると、そういうニュアンス表現力の乏しさは声の抑揚や顔の表情で補ってるような気がする。だから日本人だと芸能のクロウト以外はかなり一本調子の抑揚でしゃべるのに対して、英語話者は一般人でも声がかなり乱高下するし顔のジェスチャーが多い。
へび、おろち、だ、み、じゃ、だいじゃ、すねーく、ぼあ、ばいぱー、くちなわ、どくへび、ながむし
英語も蛇は色々あるけど、フィクションで使うには日本語の方がいろんなキャラや技や伝承を表現しやすいと思う
というか英単語をとっくにとりこんじゃってるのはずるい。ずるいけどちからだ。
「くじゃのへびひめことぼあ・はんこっく」とかいうキャラが平然と出てくる。
うーん
これについては最初に「少年のような話し方」と「女の子の喋り方だけど一人称だけボク」の、繊細だけど大きなニュアンスの違いについてをあらかじめ書いたんだけどなあ ゼロツーの台詞の文章を全体的に少年ぽくしても「女の子の喋り方だけど一人称だけボク」なニュアンスは表現されないよねっていう
とか文字でモリモリと凄みとか中二分とか盛っていくこともアルファベットオンリーだと出来ないし
「ボク」と「ぼく」と「僕」で全部人格やイントネーションや示唆するものが違ってくる~なんていう使い分けも出来ないし
アニメくらいでしかみかけない珍妙な一人称や語尾のキャラクターを取り上げてフィクションのくくりで言語の優位性を語ってしまうキモオタ…これが若さか
・アニメの喋りでのニュアンス表現力の話をしてるのに「アニメくらいでしか見かけない!」って
・ボクっこを例に取ったけど珍妙な語尾のキャラの話なんて出てきてない気がする
例えばふつーの社会人男性キャラの一人称について、ワタシかワタクシかボクかオレかだけでも
人格やニュアンスにグラデーションが出るしハイコンテクストデータベースへの接続も開かれる
珍妙な一人称や語尾に限った話をしてる訳ではないし、読み取る能力がある他の人は既にそれは理解してると思う
この人もそうなんだけど、
一応こちらとしては広く適用できる具体的な用法・長所を述べているのだから
反論も具体的な英語の長所や日本語の短所の提示でなければ反論たり得ないのでは
具体論に対して具体的な反論なく「ネイティブだからそう思うだけ!」とか「キモオタ!」では
読む価値が無い
正直言うと、
こういう乱暴なエントリを書けば英語に造詣の深い人が具体的な反論でビシバシとしばいてきて英語についての勉強が出来ると思ったんだけど、どうも自分(英語苦手です)と同程度までの英語力の人しかいないっぽいな