はてなキーワード: 有効とは
「科学的判断」という言葉に何とも言えない気持ち悪さを感じる。
調べてみると、論理学における「judgement」の訳語として「判断」という言葉を使うこともあるらしい。まあそう言われると納得もする。
しかしここで言う「判断=judgement」とは、「命題の真偽を判定する」ことを指すのであって、決して「今後の戦略の選定」を指しているのではない。
その意味では、少なくとも「ワクチンの接種を推奨する」ことは「科学的判断」ではない。(念のため、私個人はワクチン接種推奨派である。)
「ワクチン接種は生存率を高める手段として有効である」までが「科学的判断」であり、「だからワクチン接種を推奨する」以降は「政治的判断」である。
「科学的判断」という言葉を好んで用いる人々が、そこを区別できているようには思えない。
このような重箱の隅を突くような議論を持ち出すと、「ワクチン反対派に味方するのか!」と言われそうだが、そうではない。(もう一度言うが、私個人はワクチン接種推奨派である。)
この例に関しては、科学的判断の後にシンプルな「功利主義」を援用すれば「ワクチンの接種を推奨する」という「正しい」結論が導かれるから、たしかに細かいことを気にする必要はないかもしれない。
しかし、そうではない場面は世の中にたくさんあるだろう。
例えば、ある特定人種の犯罪検挙率が有意に高いという動かぬ事実を前にして、あなたはどのように「判断」するだろうか?
ここでの「科学的判断」とは、「ある特定人種の犯罪検挙率が有意に高い」までである。
そこから安易に「だから特定人種を排除してもよい」と「判断」することは、いわゆる経済的差別と呼ばれるものである。
そりゃ
こんどはまけない、なぐりっこキャスター スキなし スキがないぞその子供・・・
セイバーしかもアルトリアをすででぶん殴る男の子供で、すででぶん殴る魔術師にもまけたキャスターの子供 雪辱戦!
・・・あの、キャス子さん・//?有効範囲4万キロの大陸弾道トラン○がですね・・・@アーチャー
あのどちらへ?
中国で学ぶキャス子の子供 これは東洋魔術か!?とおもいきやクンフー
西洋古代魔術を使うクンフーマスター あちょー クラスは まぁ歴史的経緯で キャスター
キャス子の子供に魔術で勝てると思えない・・・だが本人はクンフー使い・・・血の勝利・・・設定上もはや生まれた段階で、クラスがキャスター
多くの人が運転中に感情ストレスを覚えるらしいので「運転という環境下では誰しもストレスがかかり、感情的になりやすい」と考えたほうがいい
たしかにあなたの父親には問題があるが、それは運転という状況下によるもので、本人の人格はあえて切り離して対処法を考えたほうがいいかも
・
日本アンガーマネジメント協会の安藤俊介代表理事は、イライラした場合でも、6秒、間を置くことで多くの人は冷静になることができるので、その間に言葉に出して気持ちを落ち着かせるのが望ましいと言います。
その際に有効なのが、イライラする場合を想定して、自分自身にかける言葉をあらかじめ用意しておくことで、「大丈夫」とか「たいしたことない」といった、前向きな言葉を言い聞かせることが大切だといいます。また、温度計をイメージして、自分がどれくらい怒っているのかを客観的に考えることで、怒りを行動に移すのを避けることができると指摘します。
・職業ドライバーにアンケートを取って聞いた対処法の具体例がいくつか載っている
・
対処法としては
変だなと感じたら、運転を控える。
無理のない計画を立て、適切な休憩を取る。
などがあります。
高い遵法意識
・
原因の一つは、車という場所がプライベートな空間と公共の場の狭間に位置するからです。「車に乗っていると、どこか匿名になったように感じるのです」と語るのは、ヴィラノーヴァ大学の社会心理学者であるErica Slotter氏。「匿名感覚により責任を負わなくてはならないという感覚が希薄になってしまうため、時に普段は取らないような行動を取ってしまうのです。」
自制心には限界があり、運転という行為は自分を律する能力に負担がかかります。フロリダ州立大学の心理学者、Roy Baumeister氏は自制心をガソリンに例えました。それを使って衝動や感情をコントロールしますが、いつかは使い切って空になってしまうということです。
そして自制心が空になると私たちは「判断疲れ」を起こし、自分を抑制する能力が低下します。判断疲れが起きると、乱暴な行動を起こそうとする衝動を抑えにくくなるのです。
心理学者のMark Muraven氏は、自制心が疲弊した人でも、その行いが他人の為になると伝えられると、自制が必要な作業をうまく行えるということを発見しました。ということは、「落ち着いて親切な運転を行えば同乗者や他の車を危険に晒さなくて済む」と運転中に言い聞かせることで自制心を強くすることができるというわけです。
動画に内容のある、そして登録者自身が質の高い(この場合の質というのは当人の資質もあるが、それよりもそのコンテンツから受け取る情報を有効に活用する目的を持ったユーザーのこと)チャンネルならそれは驚くべき数なんだけど、Vtuberのようなユーザーがただ気軽に消費して気軽に忘れ去って行くようなタイプのコンテンツとしては全く反応がないに等しい。
https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b
まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼の定義やリベラルの定義の困難さ、特に現在の日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラル」であると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトのポリティカルコンパスでは、
https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php
という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である。混同している人は気をつけてほしい。
そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。
まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータやエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論やフェイクニュース、似非科学や歴史改竄に代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。
たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者の立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党は本来はワクチンに否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政に要求したりしてきた。しかし副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告を支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判や運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しかし現在出ている科学的検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学的エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。
この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償を適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判の原告団体については、補償の範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党の名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告を支援する左派系政党や団体に共通する問題として挙げた。
しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言に同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。
"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。
しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。
リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"
ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。
イシグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊な場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。
語ることがリベラルの専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的で文学芸術を愛する少数のインテリの世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験を一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリの傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚な発言だとは気づいているのだろうか。
イシグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場が日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼を蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである。
たとえば私は天皇制は廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間をランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇の問題については、過去に右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論の不自由を懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論の不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。
「自由民主主義」の社会を享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。
日本で左翼をやっていると、自分が投票した候補者が当選することも少ない。民族的、性的、その他さまざまなマイノリティの権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界でいかに存在を認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動の第一歩になる。言うまでもない前提だ。
上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者の多様性が重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者の多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票で勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。
また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳の問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家がブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。
しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティの運動の中などでは特に、当事者が自ら語ることを重視する。当事者の心中を非当事者が想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想的立場の違う作家がいかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。
その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステートに洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。
イシグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論、原則としては全くその通りである。しかし現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論やヘイトスピーチへの対処を現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則と現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラルの原則と現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。
"「トランプの陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"
https://finders.me/articles.php?id=2529
私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制の方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当か判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。
また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもイシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情が陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外からの解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報にさらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象は特に感情がからまなくも起きる。平凡な思想を感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論やフェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。
ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究や取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本の記者によるものさえある。
"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"
https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html
イシグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。
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技術革新の最前線をひた走る者達が選別され、誰の目にも明らかになる頃合いだった。
もはや個々人がどうこうしようという幻想は打ち砕かれ、伏兵や道化の付け入る隙なんてものもなく、記録や記憶に残ることすら適わない。
それでも尚もがこうとする者達も、いるにはいた。
「皆さん、来年の2月14日、この町にも施策される条例は悪法です! 我々は断固として反対します!」
その中で未だ情熱に溢れていたのは、未来を憂う若者、意識が高めの大学生達だった。
彼らは何らかの目標を持って勉学に励み、若いうちから自己投資を積み立てている真っ最中の人種。
なのに、それが下手をすれば無駄になるかもしれないとくれば、焦るのも仕方のないことだ。
蠢く価値基準を掌握するのは、現在進行形でトップにいる組織のみ。
自分たちの与り知らぬところで変動していく情勢。
社会現象という、目に見えないけれど確かにあるように思える存在。
どうにかできるものなら、どうにかしたい。
「あいつら、またやってるよ」
「やる気スイッチ的な?」
だが多くの人々にとって、その活動はもはや冷笑の対象でしかなかった。
何の権威も持たない烏合の衆が喚いて、現状を打破しようとするフェイズは疾うに過ぎていたからだ。
当時の風景を知る両親でさえ、この出来事を断片的に語るのみである。
たぶん実を結ぶかどうか以前に、そもそも大したことはやっていなかったのだろう。
当人達も、この活動に労力を割くつもりはなく、漠然とした焦燥感を発散させたかっただけなのかもしれない。
嫌味な言い方をするならば、政治社会に関心ありますよというポーズだった。
「あの、これ何時ごろ解散するの?」
この活動に参加してはいたものの、どちらかというと仲間の付き合いで仕方なく、人数合わせで立っているだけ。
傍観者を気取って冷笑するほど無頓着でもなかったが、正味やってることに大した思い入れもなかった。
「できれば3時までには帰らせてね。タイムセールに間に合わなくなる」
「待ってくれよ、マスダ。タイムセールは5時までって話だろ」
痺れを切らした母は、いち早く抜けることにした。
何らかの意義ある行為か、安く買える用品か。
比べるものではないのだろうけど、それでも選べというなら迷いなく後者を選ぶ。
もし俺がその場にいても、たぶん同じ行動をしていたと思う。
しかし、この時の判断が、まさか後の不幸を生むことになるとは誰も思わなかっただろう。
それは母にとって間違いなく事件であると同時に、俺たち家族にとって重要なターニングポイントともいえた。
アルコールや薬物、ギャンブル、ゲーム、買い物、スマホ、性などへの依存は、ベースに発達障害があることが多いことが分かっています。
当院で調査したところ、薬物依存症の約半数、アルコール依存症およびギャンブル依存症の約3分の1に発達障害が認められました。
発達障害の中でもADHDの特性が目立つ人は脳の構造上の特徴として、脳内報酬系の活性が低い(ドーパミンが少ない)傾向があることが指摘されています。脳内報酬系は、専門的にはA10神経と呼ばれるドーパミンが関与する神経系です。
人は、脳内報酬系が刺激される(ドーパミンが増加する)ことで、やる気や快感が生じ、集中力を持続することが可能となります。したがって、脳内報酬系の活性が低い傾向があるADHDの人は、刺激が少ないと、やる気や快感を感じることがなかなか出来ず、また、不注意から様々なミスを繰り返すことになります。
そのため、ADHDの人は無意識のうちに、行動し続けること(すなわち多動)や、何かに依存することで脳内報酬系の活性を高めようとしていると思われます。その何かが人によってはアルコールや薬物、ギャンブル、ゲーム、買い物などであり、それらを続けるうちにやめようと思ってもやめられない依存症という状態に陥ってしまうと考えられます。
ADHDに依存症を合併しているケースでは、依存症の治療と並行してADHDの治療も行う必要があります。
しかし、ADHDの治療薬の一つであるメチルフェニデートは脳内報酬系を直接刺激するため、有効な反面、依存性があり、服用に際して十分な注意が必要です。
その点、院長は元々薬物依存症を専門としているため、ADHDの薬物療法に際しても細心の注意を払って、処方の調整を行いますのでどうぞご安心下さい。
薬物療法以外には、認知行動療法的アプローチが有効です。その場合には、WAIS-Ⅳの結果に基づいて助言をすることになります。WAIS-Ⅳは、一昨年9月に発刊された最新バージョンの知能テストで、発達障害の診断には、WAIS-Ⅲより適しています。知能テストは通常、臨床心理士が実施することが多いのですが、IQや群指数の報告だけ医師が見ても分からない部分が実は多いのです。当院では院長自身が行いますので(数回に分けて実施します)、かなり細かいところまで把握することが可能であり、より的確なアドバイスができます。
むしろ、日本は今までのやり方で世界に冠たる優秀な成績を納めた成績優良国家なんだが
この場合の『無敵の人』とは社会に対する憎悪を滾らせ、犯罪を起こすことに何ら躊躇いの無い人のことだ。
表題の通り、地位も名誉も金も無い無敵の人など物の数ではない。
そんな人間に出来るのは精々無差別的に1人や2人襲って殺す程度。
本当に恐ろしいのは、『地位も名誉も金もある無敵の人』だろう。
メンタルは社会を強く憎み、社会の崩壊の為には手段を選ばない、『無敵の人』そのものでありながらすべてを備えている。そんな人間が単純なやぶれかぶれの場当たり的な暴力ではなく、自らの地位・名誉・金を総動員してことに当たるのだ。社会にとってこの上ない脅威である。
こちらではその気のある人物を何人かマークしているが、確証がなく下手に告発しても有効打を与えることは難しいだろう。
何しろ奴等は狡猾で慎重だから尻尾などおいそれとは掴ませない。まして圧倒的な社会的強者なのだ。俺に出来ることは限られている。
今回少しでも社会にその認識を共有しようと、このエントリを書いた。
これを読んだ君。危機感を頭の隅に留めておいて欲しい。
じゃっ👋
血行をよくしてる
https://www.nikkei.com/article/DGXDZO16431240V11C10A0W13000/
プレイ時間で選別とかの優先販売策を掲げる人多いけど、そうやって商売人が客の選別を始めると「自分が思っているほどPlayStationの優良顧客じゃなかった」って現実突きつけられて凹んだ客が逃げるだけだと思う。
デスクトップアプリの処理をいくら自動化しようがクラウドへのデータ連係に約5000円/人月の有償プランが必要だから、正直便利ではあるが影響があるのはIT環境が旧石器時代で止まってるところぐらいだろう。
もちろんブラウザ操作を自動化してクラウドサービスへデータを入力出来なくはないが、
コロコロUIが変わるクラウドサービスへそんな方式でデータ連係するなんて自殺行為だ。
RPA売ってる企業はツールの調達コストを抑えるために乗り換えるところが出るかもしれんが、
RPA導入すら外部ベンダーに依存するようなレベルの企業が相手なんだから価格叩かれる分はツールの調達コスト低減で長期的には相殺されるだろう
座標指定でクリックとかOCRで指定文字列と一致するエリアの座標をクリックとか出来るみたいだからオンラインゲームでマクロツール使ってたのをwindows標準機能で出来るようになってゲーム開発者のストレス要因が増えることの方が影響大きそう
でもどうにもトイレに立つタイミングがなくて、お昼休みまで我慢してた。
もちろん、昼飯を食べる前にトイレに向かったがあいにくと満室だったし、まだ余裕はあった。
なので、とりあえず昼飯を先に済ませてからトイレに行こうと思ったわけだ。時間の有効活用な。
竈門炭治郎では無理。
で、今、食後なんだけど。立てない。
立つわけには行かない。
今は無理。
ここで過去の増田になるわけにはいかず、気を紛らすために書いている。
立ち上がるには、レジで店員さんを呼んでお会計をしてトイレに向かうくらいの余裕がもてるくらいの時間を確保する必要がある。
でも波が引かない。
なんだよこの波。
第何波なの?大難破しそう。
油断してたら痛い目見るよ。
リバウンドの波はお前が思ってる以上に強力だ。
はやく、はやかく、はやか
はやくひけ
行けそうだ
また会おう
世の中には、いろいろと差別がある。
日本が貧しかった頃、女性の権利が今より虐げられていた頃はより広く賛同を集めるために平等という言葉有効だったと思う。
しかし、現代に置いては色々なバックボーンを持った人がいる事が認知されダイバシティシティや多様性なども浸透してきた。広くを関心や賛同を集めるために平等では無く公平さが重要ではないかと思っている。
私は、
公平とは出口を同じにすること
と、イメージしている。
例えば、男女雇用機会均等法では、就職差別について禁止していると思う。就職という入口において差別を、禁止しているわけである。これを例えば男女労働機会均等法なる架空の法律を考えてみる。
例えば、今話題なら管理者率を、50%にするだとか育児休業取得率、取得日数の実績を男女同じにするとかそういう公平さが求められているのかなと。
自分はずっとピント来なかったったかど、夫婦別姓の問題も社会の結婚というシステムを使用するためにはパートナーのどちらかにだけ負担を被らないといけないのは不公平だと考えると自分は納得できるんですね。
ただの、言葉遊びですが。
横入りだけと、増田の意見と元の意見、次のように整理できると思う。
なお、比喩がしばしば問題を誤魔化す可能性があることは承知だが、適切に使用すれば、問題の構造を単純化するのに有効なツールだとも思う。だから、あえて比喩を使って整理してみる。
「嫌うこと」=嫌うこと
「差別」=被害が生じるような行為(だから、社会的に許容されない)
「批判」=注意する
これを用いた私的整理
元の意見は、「嫌いな奴を叩いたら痛いでしょと注意された」という人に対して「嫌うのと叩くのは別で叩いたら注意されるでしょ」
……こう整理してみると、問題は2点ある。
(1) 元の意見は、「注意は正当だよ=君は行為を改めるべきだ」と相手を諭す意見。つまり活動家の立場。それに対して増田の意見は「社会的公正さ」に関する話。これは理論家の立場。主張のレイヤーが全然違うので、これはそもそも「議論」にならない。
(2) 元の意見に対する増田の批判を上のように要約すると分かるが、増田の意見が「叩く行為」と「被害が生じる行為」の区別が難しいことを前提としていること。
(1)は理解しやすいと思うが、(2)の問題がどこにあるかを少しだけ付言。「区別できないケースがあること」は「区別できないこと」を意味しない。だから「区別できないケースがあること」をもって「区別した行為」を批判するのは筋が悪い。現代社会で「オレはLGBTが嫌い」を公言することは、明らかに差別になり得るし、それを指摘したこと自体は適切だ。それは、増田も認めるのではないだろうか。
その上で、増田の意図が「区別できないケースもある」だからそういうケースでは当然「手加減すべき」という趣旨にあるのは理解する。(ポリコレ棒を用いて人を殴りまくる行為は、確かに最悪だ。そういう光景に覚える怒りにも共感できる。)たとえ相手が強者であっても、叩かれて被害がゼロというわけではないので、それが受忍すべきものかそうでないか判断が難しいケースもあるだろう。弱者に人殺しのフリーライセンスがあるわけではないのだから。だがそれは、元の意見の人も当然認めるのではないか。
では、問題はどこにあるか。私は、強者は当然のこととして「痛くない程度には叩かれるべきだ」と思っている。多分、このあたりが増田と私の違いではないか。
おそらく、増田は公正さに敏感で、かつ、強弱に関する自己責任論をどこかで軽く前提しているのだろう。それなら、「自分の責任で弱者になっている人間」に少しでも「余計に権力がもたされる」ような行為に社会的不公正さを感じる(言い換えれば「頑張って強くなった人間を、頑張らずに弱者である人間がバチバチ叩くのは間違ってる」という感覚)のは当然かもしれない。それに対して前に述べた私の個人的見解は、強者・弱者は社会が構造的に作り出している部分が大きいという考えをベースにしている。それは、言い換えれば「強者は社会の中で置かれた立場で強者として役割を与えられて振る舞っているだけであって、強者としてのメリットを享受するなら当然そのデメリットを受忍する義務がある」と考える立場である。たとえばノーブレス・オブリージュもその一つだし、なんなら民主主義も(どんな強者も、その権利については弱者と同じレベルまで切り下げられることを認める、という意味で)その一つだ。これについては、強者は泣き言を言うべきではないとも思っている。なぜなら、まず先に社会は構造的に弱者を痛めつけていると考えるからだ。強者が気づきもしない痛みを弱者は日々甘受させられている。ならば、強者もまた同様に痛みを甘受すべきだ。これが私の思う「公正さ」だ。増田は「それなら、誰も強者になろうとしないし社会の発展も無いでは無いか、それは資本主義的ではないではないか」と言うかもしれない。だが、資本主義にも無限の自由が許容されているわけではないし、無限の自由を許容しなければ発展が見込めないというはずもない。むしろ「適切に強者を弱める」方が社会の流動性を高め、健全な競争を促し、社会全体を活性化させることが見込めるという考え方もできるだろう。「だから、その『適切さ』が問題なのだ」……と言うなら、もちろんその通りだ。そしてそれは、個々の場面について論じることでしか解決できないと思う。
だから、元に意見については〈今回の指摘は適切だった〉。だが、増田が言うように〈それは常に批判が正しいことを担保しない〉。それでいいのではないだろうか。