はてなキーワード: ノーブレス・オブリージュとは
横入りだけと、増田の意見と元の意見、次のように整理できると思う。
なお、比喩がしばしば問題を誤魔化す可能性があることは承知だが、適切に使用すれば、問題の構造を単純化するのに有効なツールだとも思う。だから、あえて比喩を使って整理してみる。
「嫌うこと」=嫌うこと
「差別」=被害が生じるような行為(だから、社会的に許容されない)
「批判」=注意する
これを用いた私的整理
元の意見は、「嫌いな奴を叩いたら痛いでしょと注意された」という人に対して「嫌うのと叩くのは別で叩いたら注意されるでしょ」
……こう整理してみると、問題は2点ある。
(1) 元の意見は、「注意は正当だよ=君は行為を改めるべきだ」と相手を諭す意見。つまり活動家の立場。それに対して増田の意見は「社会的公正さ」に関する話。これは理論家の立場。主張のレイヤーが全然違うので、これはそもそも「議論」にならない。
(2) 元の意見に対する増田の批判を上のように要約すると分かるが、増田の意見が「叩く行為」と「被害が生じる行為」の区別が難しいことを前提としていること。
(1)は理解しやすいと思うが、(2)の問題がどこにあるかを少しだけ付言。「区別できないケースがあること」は「区別できないこと」を意味しない。だから「区別できないケースがあること」をもって「区別した行為」を批判するのは筋が悪い。現代社会で「オレはLGBTが嫌い」を公言することは、明らかに差別になり得るし、それを指摘したこと自体は適切だ。それは、増田も認めるのではないだろうか。
その上で、増田の意図が「区別できないケースもある」だからそういうケースでは当然「手加減すべき」という趣旨にあるのは理解する。(ポリコレ棒を用いて人を殴りまくる行為は、確かに最悪だ。そういう光景に覚える怒りにも共感できる。)たとえ相手が強者であっても、叩かれて被害がゼロというわけではないので、それが受忍すべきものかそうでないか判断が難しいケースもあるだろう。弱者に人殺しのフリーライセンスがあるわけではないのだから。だがそれは、元の意見の人も当然認めるのではないか。
では、問題はどこにあるか。私は、強者は当然のこととして「痛くない程度には叩かれるべきだ」と思っている。多分、このあたりが増田と私の違いではないか。
おそらく、増田は公正さに敏感で、かつ、強弱に関する自己責任論をどこかで軽く前提しているのだろう。それなら、「自分の責任で弱者になっている人間」に少しでも「余計に権力がもたされる」ような行為に社会的不公正さを感じる(言い換えれば「頑張って強くなった人間を、頑張らずに弱者である人間がバチバチ叩くのは間違ってる」という感覚)のは当然かもしれない。それに対して前に述べた私の個人的見解は、強者・弱者は社会が構造的に作り出している部分が大きいという考えをベースにしている。それは、言い換えれば「強者は社会の中で置かれた立場で強者として役割を与えられて振る舞っているだけであって、強者としてのメリットを享受するなら当然そのデメリットを受忍する義務がある」と考える立場である。たとえばノーブレス・オブリージュもその一つだし、なんなら民主主義も(どんな強者も、その権利については弱者と同じレベルまで切り下げられることを認める、という意味で)その一つだ。これについては、強者は泣き言を言うべきではないとも思っている。なぜなら、まず先に社会は構造的に弱者を痛めつけていると考えるからだ。強者が気づきもしない痛みを弱者は日々甘受させられている。ならば、強者もまた同様に痛みを甘受すべきだ。これが私の思う「公正さ」だ。増田は「それなら、誰も強者になろうとしないし社会の発展も無いでは無いか、それは資本主義的ではないではないか」と言うかもしれない。だが、資本主義にも無限の自由が許容されているわけではないし、無限の自由を許容しなければ発展が見込めないというはずもない。むしろ「適切に強者を弱める」方が社会の流動性を高め、健全な競争を促し、社会全体を活性化させることが見込めるという考え方もできるだろう。「だから、その『適切さ』が問題なのだ」……と言うなら、もちろんその通りだ。そしてそれは、個々の場面について論じることでしか解決できないと思う。
だから、元に意見については〈今回の指摘は適切だった〉。だが、増田が言うように〈それは常に批判が正しいことを担保しない〉。それでいいのではないだろうか。
自らを高貴なるものと位置づけ表明するセンスに
違和感を覚える。
高貴な原子
高貴な分子
高貴なアミノ酸
高貴なタンパク質
高貴な精子
高貴な卵子
高貴な受精卵
高貴な胎児
高貴な赤ちゃん
人類は平等である。そこに等差を生じさせるのは
家柄や財産によるのではなく、
ただ徳によるのである。