はてなキーワード: 動物愛護とは
野生動物は生きるために必要なだけ食べてるとか人は非人道的な方法で大量生産して食べてるってのは、極端に走った典型的な動物愛護者の考え方だと思ってたけど、人の認識って分からんもんだな。
家畜は野生の弱肉強食から保護されて過酷な環境から切り離されてるって考え方もあるけど、俺はそっちの方が現実捉えてると思うし一般的な認識だと思ってたわ。アンケートでもとってみたいもんだな
タイムラインが闇堕ちする仕組み
深津さんのこのエントリ、非常によくまとめられていてわかりやすく、個人的にも高く評価したいのだけれど、インターネットと共に育ってきた身(現在30代)としては欠けてる視点があるなと気付く。
先ず1つ目の欠けてる視点として例えば「2ちゃんねるではディスコミュニケーションを前提とする掲示板もしくはスレッドでしかディスコミュニケーションがほとんど発生していなかった」という点。
この「ほとんど」という部分が重要で、人間がいっぱい居れば口論が発生してしまうことは往々にしてあるので「絶対に発生しなかったわけじゃない」のは当たり前の話。
ディスコミュニケーションを前提とした掲示板って今でも一部で悪名の高い『生き物嫌い板』とかだよね(※動物愛護者はググらない方が精神衛生上良い。これは本当に心からの善意と博愛精神を持って全力強力に要請したい。ググるな知るな見るな)。
そして更に欠けている視点と言えば、これたぶん現在の40代以上にはまったく知らないか、もしくは知っていても下らなすぎて一切関わりを持とうとせず内容を知らないユーザが多いと思うんだ。
それが何かと言えば「過去のインターネットには『喧嘩板』と呼ばれるディスコミュニケーションを前提としたディスコミュニティが存在した」って点。
この喧嘩板はlivedoorしたらば掲示板へ各々のコミュニティに所属するユーザが好き勝手に設置していったもので2ちゃんねるには存在しなかった。
その喧嘩板の黎明期は各コミュニティで口論が発生した際にそのコミュニティの雰囲気を破壊しすぎないようにユーザが各々に自浄作用として「オイちょっと体育館裏に来いやクソボケ!」的に設置するものだった。
まあつまり端的に言えば「口論をするため2ちゃんねるの外に設置された掲示板」ってわけだ。
しかし次第にその当初の目的は薄れていって(ストレス解消のためか)本当にどうでも良い理由で口論することが目的の2ちゃんねるの外の掲示板になっていったんだ。
悪ノリが過ぎる2ちゃんねる運営ですらここまでストレートに口論するためだけが目的の掲示板は設置していなくて、そのためか深津さんは「コミュニティ自浄のためのコミュニティ設立」「ディスコミュニケーションをするためのディスコミュニティ」を認識できていないんだよね。
こういうコミュニティの面白いところは現在のみんなは理解できるだろうけど「現在、喧嘩板は廃れている」ということだね。
現在、2ちゃんねるユーザ数が減っているとはいえ、完全にコミュニティが崩壊したのか?といえばそうではないとみんなは知っているはず。
少なくとも一定の需要があった喧嘩板が廃れ、2ちゃんねるのコミュニティが存続しているという事実は深津さんのエントリでは説明が付かない。
2ちゃんねるが存続している理由、これはおそらくきっと「喧嘩板は口論のたびに設置されることが多く、設置目的からして喧嘩板の寿命は非常に短かった」というのが関係していると思われる。
喧嘩板は2ちゃんねるのコミュニティが崩壊しないよう、まるでアポトーシスのように2ちゃんねるの代わりに早々その役目を終える運命だったんだ。むしろその短命こそが目的だったとも言える。
改めて2ちゃんねるのディスコミュニティ化を防ぐやり方を振り返る良いタイミングなのかもしれない。
つまり2ちゃんねるでは問題が起きるたび枝分かれのように分岐してディスコミュニティ化を防いできたんだ。
ただこれは2ちゃんねるのみで起きたことではない。実は現代(平成終期)のTwitterでも確認している。
それは何かと言えば、Twitterがディスコミュニティ化したと捉えた一部のユーザが分散SNSのMastodonへ移住した件だ。
分散SNSはその大半がオープンソースで提供され、各自が自由に設置できるSNSだ。大小の規模を問わず分散SNS同士が相互接続することでコミュニティを形成している。
その流れの中で生まれたのが「テーマ系サーバ」と呼ばれる分散SNSサーバで、分散SNSを設置する際に音楽テーマやイラストテーマなどお題目を掲げ、ゆるく話題を絞るという試みが起きた(このテーマは絶対基準でなくテーマに合っていない雑談をしても叱られることはない一応のお題目だ)。
2ちゃんのる的に言えば「専門板」に該当し、ゆるく話題を絞ることによって大幅な「板違い」を防ぐことが狙い。あまりにも自由だと怪訝な表情を浮かべざる得ない発言が目立ってしまう可能性があるからだ。
分散SNSは「自由」に関してばかり着目されることが多く「ユーザの自由を縛る中央集権や、ユーザの発言の価値観を中央が判断することへ対してのアンチテーゼである」ということが注目されやすいが、実はそればかりでない。
Twitterを例にすると、Twitter運営やTwitterでなければならずTwitterを愛するユーザは決して認めないだろうが、分散SNSユーザはすでに「Twitterはディスコミュニティである」と見做している。
Twitterを愛する者からすると多くの反論があるだろう。しかし現実として分散SNSへ移住したユーザを代表格として一部のユーザはTwitterというコミュニティを見限っている。
Twitterは喧嘩板のような口論をし他者を罵るディスコミュニティだと烙印を捺したのだ。自身のルールを押し付け合い、自身のルールに反した悪とみなせば徹底的に追い詰める。それがTwitterだと分散SNSユーザは言う。
突然、話は変わるが現在の若者に人気のサブカルチャーコンテンツに「Fateシリーズ」という作品がある。
ゲーム、小説、漫画、アニメと幅広くメディアミックスを展開する作品であり高い評価を若者から受け人気だ。
そのFateシリーズに「アーチャー」と呼ばれる登場人物が居る。
詳細は省くが、アーチャーはもともと正義の味方へ憧れる少年であり、いつまでもその心を待ち続け、いつしか少年は成長し多くの人々を救ったことで正義の味方の代名詞である英雄と称されるようになった。
そんな正義の味方アーチャーが登場するFateシリーズだが、長期シリーズでは付きものの登場人物がどんどん増えていくという長期シリーズの悪習を踏襲している。
そんな中で「オルタ化」と呼ばれる既存の登場人物を再定義する設定が追加された。つまり同一人物ではあるが設定の違う二人目が現れたのだ。
もちろん既存登場人物の「アーチャー」にもオルタ化は適用された。ここでは「アーチャー・オルタ」と呼ぶことにしよう。
アーチャー・オルタはアーチャーの正義の味方たる魂が反転した存在という設定だ。なんだつまり悪役になったのか?と考えるのは誤りだ。
アーチャー・オルタは悪を倒す。それも徹底的に追い詰め手段を問わず悪を殺戮する。悪を倒す正義の味方が反転した存在、アーチャー・オルタは「悪の敵」である。
日本のサブカルチャー界は2000年以降、これまで掘り下げられてきた「正義の味方」というテーマを非常に強く掘り下げてきた。もうそろそろ20年に到達する一大テーマだ。
「ブギーポップは笑わない」「涼宮ハルヒの憂鬱」「とある魔術の禁書目録」「金色のガッシュベル!!」「機動戦士ガンダムSEED」「テラフォーマーズ」「僕のヒーローアカデミア」etc...挙げればキリがないほど様々な正義の味方が考察され描かれてきた。昨今の日本で流行のアメコミもその流れの一環だろう。
そんな正義の味方の考察の中で対比として描かれたのが悪の敵アーチャー・オルタなんだ。
正義に反する者を悪と断じ、正義の味方に反する悪の敵が徹底的に追い詰める。
Twitterはそんな悪の敵が蔓延るディスコミュニティだと分散SNSへと一部のユーザは逃避した。
2ちゃんのるの頃とは逆に喧嘩板を設置するのではなく、Twitterが喧嘩板になってしまったからこそTwitterは最早手遅れだと自らがそんなディスコミュニティではないSNSを立ち上げていった。
しかしnoteは2ちゃんねるやSNSのように分岐してディスコミュニティのアポトーシスができない。可能な方法と言えば中央集権SNSと同様に運営が物事の可否を判断することだ。
我々はそろそろ勇気を持って認めるべきだと思う。
Twitterと利用する多くのユーザは公正、平等、自由、博愛、倫理、法治、人権、平和etc...健全を重視して運営・コミュニケーションしようと模索し続けており、その結果がディスコミュニティ化してしまった現状であると。
これらを訴えるアナタたちは決して悪ではない。しかしアナタたちは正義の味方か?
少年少女の時分で胸に秘めた正義の味方であるアンパンマン、仮面ライダー、ウルトラマン、戦隊レンジャー、セーラームーン、プリキュア、魔法少女が今アナタのような言動を取るか?
そして愛を唱え、自由を訴え、平和を願う者たちをWebサービスはどうやってコントロールすると言うのか。中央集権たるnoteにはそれができるというのか。
ディスコミュニティは悪が蔓延って生まれるばかりでない。ディスコミュニティは悪の敵が蔓延っても生まれるのだ。
この視点が欠けている限り絶対に上手く行かないと警告すると共に、noteが今後見せてくれるであろうイノベーションに強く期待したい。
俺は卵が好きだ。
そして、生でもそのまま食べられる日本の卵が好きだ。
が、世の中の動物愛護主義者、アニマルライツな人に言わせれば、日本の卵は「安すぎる」らしい。
「日本では、ケージ飼いでニワトリを虐待してる、だから卵が安いのであって、日本の卵の安さはニワトリ虐待のせい」というのがアニマルライツ主義者の主張
「ヨーロッパみたいに、ニワトリのケージ飼いを法律で禁止すべき、それで多少卵が高くなるのは必要経費」とアニマルライツ主義者は主張する。
知らんがな。
お前らは勝手にケージ飼いではない、放し飼いのニワトリの卵を食べればよろし。
お前らの食習慣には口を出すヒマはない。
お前らの食習慣には口を出さないから、うちら貧乏人の食習慣に口を出さないで欲しい。
ニワトリのアニマルライツは、貧乏人の動物性蛋白質摂取権より優先されるのか?
未確認情報だが、日本で卵が生食できるのは、ケージ飼いで産卵日を管理してるからで、「放し飼いだと産卵日管理できないから、生食出来なくなる」とも聞いてる。
日本の貴重な食文化、「卵かけご飯」も、つまらんアニマルライツのせいで破壊されるのか?
俺はアニマルライツ主義者、そしてヴィーガン主義者と徹底的に戦うぞ。
卵かけご飯のために。
1パック100円のドンキの卵の為に。
最近「犯罪者予備軍」という概念があちこちで議論になっているので、
便乗して長年「犯罪者予備軍」の第一ファクターとしてやり玉に挙げられてきた
「動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する」ことが
つまり、「動物を愛護すれば人間は穏やかな優しい性格になる」という公益が生まれるので、
「動物を虐待したい」という個人の欲求を制限することも許されるというわけだ。
(この辺りは中学で習う理論。公共の福祉に適うなら、個人の権利を束縛してもいい。)
ところが、昨今のヴィーガンとか動物愛護過激派の行動を見ればわかる通り、
それどころか、動物を守るために人間に対して攻撃的になる例は山ほどある。
また一方、「動物虐待したら人間は悪人になるか」というと、これも非常に怪しい。
よく酒鬼薔薇事件とか佐世保女子高生殺人事件とか、ワイドショーを騒がせた事件の犯人が動物虐待をしていたから、
「動物虐待は殺人にエスカレートする!」と語気を強くして主張する人もいるが、
具体的に「動物虐待者に占める凶悪犯罪率」(凶悪犯罪者に占める動物虐待者率、ではないのに注意)のデータを
「幼少期に動物虐待をした後、殺人を行った人物がいる」というのは
それは「ほとんどの殺人犯は殺人の前の24時間以内にごはんかパンを食べている。よって、炭水化物は殺人犯を生む」と
言っているようなものだ。
というわけで結論。
公益が無いのに「動物虐待が好き」という特定の属性を持つ人種を罰するのは
というかみんな薄々気づいてるでしょ?
たとえば魚釣りというスポーツは生きた魚に針をぶっ刺して楽しんでるわけで
私欲を満たすためだけに野生動物のフィールドに侵入。不必要に動物との距離を縮めておきながら、狂信的に動物愛護を謳う。矛盾に気づかないそのさまは自分に酔っているとしか思えない。
twitterで餌付け問題に言及し少しバズったhirokiden氏のエゾシカ撮影記https://ameblo.jp/hirokiden/entry-12459311572.htmlにはこのように記されている。
いくらバレないように工夫をしていたとしても、これが野生動物にとってよいことであるはずがない。野生動物保護について熱心ならば、撮影自体をやめるべきだ。
ところで、動物写真家の界隈では、野生動物がよく出るスポットを安易に教えてはならない、そんな暗黙のルールがある。その理由についてよく使われる文句が「動物保護のため」だ。本気で保護したいなら撮りに行かなければいい。
動物写真家は、「動物を気軽に撮れるから」、「良い構図で撮れるから」、「皆が知ると希少価値がなくなるから」という私欲を巧妙に隠す。そして、まじめ腐ったツラで「動物保護のためだ」と言うのだ。笑えるだろう。
餌付け自体は動物にとって何もよいことがないのでもちろん駄目だ。撮影のための餌付けは万死に値する。しかし、動物写真家は彼らを「クソ」だの「バカ」だの糾弾しちゃいけない。あんたらも同じくクソなのだから。
※個人の見解です。善悪を述べていますが、そもそも善人も悪人も人類全てに生きる権利も幸せになる権利も不幸になる権利もあると考えています。ただし俺に被害を与えるものには厳正に対処・抗議します。
# | ラベル | 分かる度(5点満点) | 説明 |
---|---|---|---|
1 | 動物愛護 | 4 | 屠殺が残酷だという理由から動物食を辞める人々。「殺すために育てる」ことに思いがあるのは理解できる。俺はそれでも食いたいから食うが、実際の屠殺場を見たらもしかして思うところがあるかもしれない。 |
2 | 動物愛護(強) | 2 | 屠殺が残酷だという理由から動物食する人を罪人として咎める人々。確かに【屠殺を無くす】のならば人類がせーので肉食を辞める必要がある。しかし生命を食べるのはこの世の定めで、多くの人間の体には動物食が必要であるため、なくすのは自然ではない。「食品ロスの縮退」もしくは「狩猟生活への回帰(ただし非現実的)」を訴えるべきであると考える。 |
3 | 健康理論 | 3 | 動物を食べない方が健康だからと動物食を辞める人々。押し付けないだけいいが、実際には健康を害する人間の方が多い(しかし誘惑と戦うので頑固になり止まらない)。家族友人からすれば当人には健康でいてほしいのでできればやめていただきたいが、人間には個人で死ぬ自由も与えられるべきだと考えるため、難しいところ。 |
4 | 健康理論(強) | 0 | 動物を食べない方が健康だからとインフルエンスし動物食する人を罪人とする人々。ハッキリいって金の亡者。ファッションヴィーガン。最も憎むべき悪。人殺し。 |
# | ラベル | 分かる度(5点満点) | 説明 |
---|---|---|---|
5 | 命の不平等 | 1 | #1,2への反論に「植物は食べてもいいのか」という人々。「牛食と菜食」転じて、例えば「猫を殺すのと花を詰むの」を同等に考えるのはハッキリ言っておかしいと俺は考える。どちらにも本当に同程度悲しみを感じるのであれば、氏の感性には何も言えない。そうでなく反論するための詭弁としているだけなら、ただ人を叩きたいだけの愚か者、議論の邪魔、人類の足を引っ張る者。 |
6 | 嘘やめろ | 5 | #4に対して、人が苦しむ嘘により金を得ようとしている連中に対する言及をする人々。人格攻撃にまで行くのは悪へ足を突っ込むことになるが、問題点のみ毅然と指摘することは必要な活動だと考える。(俺はめんどいからしないけど) |
それはまあ、屠殺場を即刻閉鎖するのは無理だよね。働いてる人もいるし。
(代用肉が安くなれば自然とそうなるという楽観視がないわけではない)
それもある程度同意できる。
人間は野生から始まって、炭水化物に依存した状態など、様々な栄養上の問題を克服してきたし、産業としての食肉文化から脱却することは可能なはずだ。
これは端的に事実だけど、同時にこれを理由として食肉文化に倫理的な利点を見いだすのは、マッチポンプであろうとも思う。
人間は家畜化した動物たちに明確な責任がある。彼らを野生状態に返すべきではないだろう。
一番の問題は、「食べるために殺す」ことよりも、「殺すために産まれさせる」ことだと俺は思ってる。
あと飼ってる猫とか犬に肉をあげないのはやめたほうがいいと思う。
それはそう。ジビエとか狩猟を俺は否定しない。交通事故で死んだシカとか、むしろ食ってやったほうがいいと思う。動物愛護系のヴィーガンには狩猟をやめろっていう人もいるからややこしくなるけど。
あと、野生の大型動物による生態系の破壊は、そもそも人間がその土地のバランスを崩したために起きてる場合が多いはず。
ヴィーガンは人間の幸福を減ずることを推進しようとしている。すなわち、人間の幸福を軽視している。なぜそうなのか? 貴方がたがありのままの人間を愛せないからだと思う。
他の種を搾取することによる一時的な幸福は正しくないし、必ず代わりが見つかると思ってる。
それはわからないし、ありのままの人間でいたいのもわかるが、そうするには人類は進歩しすぎてると思う。
ペット虐待反対運動なら、俺も賛成するよ? フェイクファー推進や象牙禁輸もまあゆるすわ。しかし社会的な肉食の禁止とは!自分と自分以外の他者の人生を嫌悪してないとその発想は出ないんじゃないか。
その間にあるのって「自分に利益があるかどうか」だけじゃない?
他の人のことはわからないけど、俺はハンコ作るために殺されるゾウは減ってほしいし、死ぬために生まれるオスひよことかにも減ってほしいよ。家畜たちにも幸せになってほしいんだよ。
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンはインディアンに対する差別や黒人奴隷プランテーションを大々的に行ったから、建国の父として讃えられることは間違っていると主張するニュース記事を見た。
個人的にはアメリカにもワシントンにも思い入れはないので、別に彼を擁護するわけではないのだが、このような考え方には違和感を覚える。あなたが彼だったとして、あの時代に生きて、奴隷制に反対という立場を取るだけの勇気があったのか?と偉そうなことをいってみたくなるのである。よく言う、時代性を考えれば妥当じゃないかというやつである。
どうして時代性という考えが生まれるのか。我々の倫理観はどうして進歩するのか。
人は、環境によってその生き方を変える。アイヒマンという有名なナチ高官がいた。彼はもともとは穏健派でマジメな公務員タイプの人間で、ユダヤ人はアーリア(ドイツ)人と隔離して生活させるべきという思想こそ持っていたが、虐殺することはやりすぎだと当初は考えていた。しかし、他のカリスマある過激派幹部党員たちと討論を重ねた結果、ユダヤ人はやはり根絶やしにするべきだと意見を翻す。
結果としてユダヤ人を虐殺する命令書にサインした彼は、当然のことながら裁判にて死刑を言い渡されるが、のちに、彼と同じような圧迫状態に置かれたときに人間が倫理にもとる行動を取るかを調べた、いわゆるミルグラム実験において、人間の多くは道徳より権威・安全・保身を優先することがわかった。
人を、倫理を、道徳を規定するのは環境だ。では環境を規定するのは何か?一体何が奴隷という怖ろしい制度を肯定する道徳を生むに至ったのか?
ワシントンの時代、奴隷労働による大規模なプランテーションなしにはアメリカの工業化は支えられなかっただろう。リンカンによる奴隷解放だって、北部の工業化が十分に進んだ結果、奴隷の需要が薄くなったのが原因のひとつだとされている。
彼らは、奴隷労働なしには生きられなかったのだ。少なくとも、奴隷労働なしにはアメリカは今日のような巨大工業国に育つことはなく、このグローバルな科学社会もいまほど繁栄することはなかったであろう。
環境を規定するのは科学技術だ。人類の知恵だ。我々の需要を、その時代の科学技術が満たしきれないとき、我々は一部の社会的弱者に負担を押し付けてやり過ごそうとする。これは時代を超えて起こってきたことだ。日本国内を見ても穢多・非人・部落など枚挙に暇はない。
奴隷労働という『悪徳』の恩恵を享受した我々が、そのことによって得た新たな道徳観で彼らを批判するとはなんだか皮肉だ。回顧主義によって昔の人の悪徳を批判するのもいいが、むしろ未来の人間に批判されるべき悪徳が自らに備わっていないか、我々はもっと考えるべきではないか。
非正規雇用労働者、医学部の不正入試問題、保育士や看護師と言った一部の職業の常軌を逸した低賃金労働、過密環境下での畜養エトセトラエトセトラ……これらは、数十年後科学技術が進歩したときにはおそらくほぼ解決されるだろうと私は考えているし、その暁には未来の運動家たちの回顧的な批判にさらされるだろうとも、私は考えている。
貧困にあえぐ非正規雇用労働者が労働者全体の数十パーセントまでをも占めるのはなぜか。会社に正規雇用者を雇って保険料その他の経費を払うだけの経営的体力がないからだ。会社が流動性の高い人手を求めているからだ。正社員がその要件を満たすようにするための仕組みがないからだ。それらの問題を解決し、全ての雇用者たちに十分な生活物資を与えるだけの生産技術を我々が持っていないからだ。
犬や猫といった一部の哺乳類が動物愛護法で手厚く守られているにも拘らず、同じ哺乳類でも豚や牛は毎日おびただしい数が動物愛護という概念につばを吐きかけるような環境で肥育され屠畜され死んでいくのはなぜか。そうしないと我々は良質かつ大量の動物性蛋白質を手に入れることができず、そして動物性蛋白質を手に入れなければ人は健全に成長することが難しいからだ。
女性が医者になることが嫌われるのはなぜか。女性が妊娠したときに、医療という絶対に穴を開けてはならない業務にできる巨大な穴を埋める方法が現在見つかっていないからだ。そもそも、女性が妊娠したときに長期に渡って休職しなければならないほど、医療技術やリモートワークが進歩していないからだ。
話はそれるが、医学部不正入試の際に、この問題を提起した人が炎上していた。女性が多くなると、その分医療従事者に負担が増えることになり、システム全体が崩れかねないと。日本に生きている以上、誰しもこの構造的な問題の恩恵を受けているはずなのだが、これを一方的に叩いていた人は一体何様のつもりなのか。さぞ時代を先行きする高い道徳心をお持ちなんだろうな、と思いながら見ていた。
もっと直接的な話をしよう。石油資源を燃やさないため、トウモロコシなんかの生物資源から取り出した燃料を使おうという動きはかなり昔からある。だが、もし今すべての車がバイオエタノールを使いだしたら何が起こるか。全ての森林をトウモロコシ畑にしたとしても、我々の消費しているエネルギーを生産するにはとうてい足りないのだ。つまり、バイオエタノール、生物燃料という考え方は(少なくとも現行の技術では)人類を支えるだけの力を持っていない。現在の我々は自らの使うエネルギーを自己生産することすらできないのである。そして、そのつけを払わされる社会的弱者とは、未来人たちだ。彼らは、化石燃料は燃やし尽くされ、大気の汚染され尽くした地球という大きな負担を押し付けられるのだ。
この我々の巨大な『悪徳』に対して、我々は未来人になんと言われるのだろうか。呪詛を投げつけられるのだろうか。それとも、時代性という言葉とともに、やんちゃをしてしまった子供を見るような目で許してくれるのだろうか。いずれにせよ、今のところは物言わぬ存在である彼らからは批判されないのを良いことに、彼らに莫大な負債を押し付けていることは間違いない。
我々は皆、生きていくために必死だということを言い訳に、平気で他者を踏みにじる、巨大な業を背負った罪人なのだ。そして、そうである以上批判されることはあるし、完全に正しく生きてかつみんな幸せにしようなどという幻想は捨てねばならない。様々な意見を取り入れ、熟慮し苦悩した末の自らの選択は批判されないと思ったら大間違いである。皆あなたと同じように苦しんで、罪を背負って生きているのだ。むしろ、我々の権利とは、自由とは、選択とは、もらった批判を受け入れるか、心の中でくさすか、そこにこそあるのだ。
理想論を語るにしろ、現実論を語るにしろ、それを受け入れるところから始めなくては、現代の社会問題に関する議論は的外れなものになってしまうだろう。
いや、新井浩文もマーシーもマッキーもキースもフルシアンテもジミヘンもレノンも今井も勝新太郎もバロウズも、なーんも思ってないだろ世間は。いや、なんも思ってないことは無いにしても、罪人として見ているか?せいぜいが落伍者だろ。しかし、一定の人気を得るまでに至った彼らの才能は凡人のそれではなく才覚と努力はそこにあるため、完全に落伍者としては見れないだろう。
未だに川俣軍司の亡霊に取り憑かれてるのか?
二酸化炭素はいけませんとローマクラブが言ったが彼らのデータは嘘だった。景気は上がってると国が言ったが統計をでっち上げても良しとする国だった。年配の方が偉いから敬えと儒教は言った。神の教えであり愛なのだと司教は曰い少年少女は慰み者にされた。日本はアメリカに勝っていると戦時中は放送された。いざと言うときは竹槍で戦おうとした。日本は優しい人が多い国なんですよ、と誇らしげに言う日本人がいる。
あのさ、アルコールの方が依存の形成は強いワケ。アダルトチルドレンをなくしてくれ。飲酒運転をなくしてくれ。
動物愛護も環境保護も戦争反対も、世の中の問題を誰かに任せて自分は正義の考えを持ってると、世の中は馬鹿ばっかりだと口にするのは楽だし気持ちいいだろう。