はてなキーワード: 亭主関白とは
祖父の葬式とか〇回忌とか墓参りの際にはいつも象徴的な虫が出現する。季節外れの虫とか、どこから出てきたのかわからないでっかいカマキリとか、「あの虫さ~」ってみんなが覚えてて話題する系の虫。
葬儀の時にずっとハエが飛んでて、祖母に「あのハエ邪魔だったねー」と話したら、お通夜の時からずっといたと。母やら叔母やらもハエのこと認識してて、「もしかしたらおじいちゃんがハエになって遊びにきたのかもね~」って話してた。で、母がはっと気づいて、そういえばおじいちゃんの口癖「うるさい!」だったって思い出して、ハエって漢字で書くと…。
そんな話をしていて、何回忌かでまた親戚が集まって、その時もなんか虫が出て、「おじいちゃん来てるねー」って話してたんですけど、祖母がそれ見てやだ気持ち悪いって踏みつぶしちゃって、一同えーーーーーーーーーー!!!!いやあの話…おじいちゃ…!
祖母は祖父が脳梗塞でぶっ倒れてから10年近く介護していたしバブル期?は公務員で全然贅沢できなかったし寡黙で亭主関白で今で言えば精神的DVな祖父には色々な…思いが…わかんないですが、あの話をしていて、あの流れで踏みつぶしたの、一点の曇りのないまっすぐな行動でした。
父親が亡くなってから、早いもので二ヶ月が経った。肺癌が主な原因だった。
私は父親が嫌いだった。昔ながらの亭主関白な夫と言えばわかりやすいだろうか。母を召使いのように扱い、母がいなければ娘の私を扱き使う父親だった。
例えば夕飯時、口を開けば「早く箸を持ってこい」「飲み物を持ってこい」と偉そうに命令した。反発すれば怒鳴り散らし、机を叩くなどして威嚇する。その影響で私は人が(特に男性が)怒っていたり怒鳴っていたりすると、身が竦むほど恐ろしさを感じるようになったぐらいだ。
父親は典型的なクレーマーでもあった。理髪店で自分の気に入らないヘアカットにされた時は、相手が泣くまで怒鳴りつけたそうだ。同じことを他の店でもしている。本人が武勇伝のように語っていた。相手に落ち度があるのはさておき、そこまで怒る必要は断じてないし、店員にどんなトラウマを植え付けたのか考えるだけで忍びない。
そんな父親ではあったが、小さい頃は私を目に入れても痛くない程に可愛がっていたようだ。記憶は薄れているが、確かに可愛く思っていたのは事実だろう。しかし私はその愛情に、思春期らしい気持ちの悪さを感じていたことを覚えている。今思えば、それは都合の良い人形を可愛がるようなものだったからではないだろうか。
小学生ぐらいの記憶を引っ張り出してくると、休みの日に父親が家にいたことは稀だった。一人もしくは母とパチンコへ行くことが多かったからだ。いたとしても日がな一日ゴロゴロと寝転がっているだけで、家族で出かけるようなことはなかった。泊まりで旅行など、温泉に一度行ったきりだ。
今や定番であり行ったことがないというだけで子供に惨めな思いをさせるというディズニーランドなど、その頃の私には想像もつかない世界だった。ある程度成長するとディズニーランドに言ったことがないのは少数派だとわかり、私は友人と話を合わせたくて「行ったことがある」と何年間も嘘をつき続けた。
「子供を可愛がる」というのは、子供の遊びに付き合い、行きたいところへ連れていき、一緒に経験を積み重ねることではないだろうか。父親からはそういった愛情をもらうことはなかった。
私には兄がいる。私とは違い、高校も大学も両親の期待以上のところへ進んだ、彼らにとって自慢の息子だ。父が兄に対して怒ったのは、小さい頃以外だと私が知る限り大学留年の危機に瀕した時だけだ。また、兄を小間使いのように扱ったこともない。
そもそも兄は私の四つ上で、中学の時は部活や塾で朝早く夜遅く、高校の時は遊び回ってほとんど家におらず、私が中学生の時にはもう家を出ていたため記憶が薄い。仲は悪くないが、まるで他人のように感じる。
そんな兄と私はよく比べられた。よくある話だ。優秀で友人も多くクラスの人気者な兄とは違い、私は特に秀でておらず人見知りも激しく友人は少ない。父にとって私は「理想の娘」ではなかっただろう。よく冗談で「お前は橋の下で拾った」と言われたものだ。私は、先に生まれただけで両親の良いところを全部持っていった兄が憎らしく恨めしく、そして何より羨ましかった。この頃の私は成績にしろ資格を取るにしろ両親が喜ぶだろうと思って行動していた。その成果である様々な賞状がうちには飾ってあり、父はよく自慢していたようだった。
私にとって父は畏怖の対象でもあり、自分を認めて欲しい存在でもあったのだ。
社会人になってからの数年間も、私は実家にいた。勤め先が実家のすぐ近くであったこともあるが、精神的に自立していなかったからだ。
その頃父との関係は冷戦状態で、口を開けば互いに怒鳴り合うこととなった。私は他人からは怒ることなどない穏やかな人間に見られていたが、それは人見知りを拗らせた内弁慶だからであり、家ではとても口が悪く我儘だった。
父は二言目には喧嘩腰に「なにぃ!?」と眉を吊り上げた。それに恐れをなして怯む自分を気付かれたくなくて、いつも怒鳴り返していた。
家を出てからはほとんど実家に帰っていない。父と口を利きたくなかったし、母とも何を話せばいいのかわからなくなっていた。
その内に私が結婚し、父が定年前に退職して数年後、肺癌が発覚した。他の病気まで併発していた。当たり前だった。あまりにも酷い生活だったのだから。
今まで何年…いや何十年と、私は両親に煙草を止めるよう苦言を呈してきた。それに加えて父は甘いジュースが好きで、見るからに不健康な体型だったが運動はしなかった。そして、職場でほぼ強制的に受けさせられる健康診断も逃げ続けた。恐らく何か見つかるのが怖かったのだろう。
退職後から発熱したり咳が続くことが多くなり、具合の悪さにとうとう病院へ行った時にはもう手遅れだ。他の病気のせいで放射線治療はできず、低血圧のため手術もできないと言われた。
それでも父はめげずに抗がん剤治療を始めた。この辺りのことを考えると気が滅入るので省くが、とにかく辛く過酷な日々であっただろう。
担当医に「今夜が山でしょう」と言われた日から二日ほど過ぎた。付き添い人である母と兄はゲッソリとしていた。父は夜中の決まった時間にパッと目を覚まし、叫び暴れるのだと言う。「痛い」「苦しい」「殺してくれ」と。
モルヒネの量を増やしたため、父は最早会話ができなかった。たまに独り言を呟いたり、かと思えば急に会話に入ってきたりしていた。
私が最後に父を見たのは亡くなる三日前だ。まるで死を待つように、ただベッドに座ってぼうっとした目で息をしている父の姿に、私は何故か涙が込み上げて部屋から逃げ出した。それ以上見ていることができなかった。
寝れなくて辛いから付き添いを代わってくれと兄に頼まれたが、今の姿ですら見ていられないのに暴れ出す姿を見たら更に正気でいられるはずもなく、断るしかなかった。兄はこのことを恐らく恨んでいるだろう。
母からの電話を受けて夜中に病院へ向かった。道中、ずっと涙が止まらなかった。
父のことが大嫌いだった。父そっくりなせいで私は不細工だし、すぐ怒鳴りつけるし、母や私を扱き使うし、我儘で自分勝手で金遣いも荒く、不貞を働いたこともある最低な人だ。何度となく「死ねばいいのに」と思った。
それなのに何故、涙が出るのだろう。何故、苦しんで死んだのだと思うと辛いのだろう。何故、遺品である携帯やタブレットから父の痕跡を辿っては苦しくなるのだろう。
今もまだ、父を思い出すと胸が詰まったような気持ちに苛まれる。
葬式が済めばすっかり日常に戻れるぐらい父に対して思い入れがないというのに、ふとした時に見てもいない死に際を思って胸が詰まるのだ。
きっと父は長生きしても人に迷惑をかける老人になったであろうから、早くに亡くなって良かったのだと思っている。
生きていたら、やはり何度となく「死んでくれないかな」と思っただろう。
今日、もう稼働しなくなった家族全員のグループLINEがふと目に入った。入院中の父が母へ毎日のように「あれ買ってこい」「早く来い」とそこに送っていた。そのやり取りを見て、どうしようもなく誰かに吐き出したくなった。
愚痴です。気分を害する言葉遣いもあるかと思いますがお許しを…
旦那が週4でしか働かず、しかも昼から5〜6時間程度しか働いてくれません(仕事は自営業のような感じです)。手取りもほぼなく私の稼いだお金で生活してます。結婚前から貯めていた私のお金も家族のお金となってしまっています。
結婚当初は私が働きに(週5で10〜13時間)出るかわりに家事は旦那がほぼやるという事になっていましたが、結婚当初から家事は半々な感じで、私が育休に入ると家にいるんだからやれよっとやらなくなりました。
家にいるから家事はやりますが、子供ができたら仕事を考えるとも言われていたのに、なんの動きもなく、むしろ仕事のことを言うとキレてきて、私の手当てで生活している今、旦那の存在意義を見出せません…むしろお金がかかる分、邪魔とも思い始めています。
自分はほぼ育児にも参加せず(たまにお風呂に入れたり、お風呂あがりにとりあげる程度。オムツも1日1回変えるか変えないか…)稼いでもこず、家事もほぼせず、家族サービスもしない…クソすぎる。
毎日やっているのはおもちゃの消毒と寝る前に部屋をコロコロしたり、クイックルワイパーで掃除するくらい。それだけなのに、態度はクソでかい。亭主関白の振る舞いができるのはなぜなんだろう?なぜ私はこの人と結婚してしまったんだろう…子供はとてつもなく可愛いですが後悔が大きいです。
今も洗い物を頼んだら、明日お前がやれよと言われ、ならもっと稼いでこいよっと言ってしまいました。旦那はキレてブツブツ言いながら洗い物をしてました。
キレると大声を出し、物にもあたる旦那…
キレすぎて何にキレてるのかも分からなくなってきたので整理する。
思えばご両親にお会いした時も、お父様だけが泊まりに来た時もそうだった。
あなたにはホームでも私にはアウェイであり、何らの配慮がないことにまずキレてる。
そして所詮は家族じゃないからなあと結局そこに行き着いて、関係がどうでもよくなる。
だって私たちの間には情緒的満足しかないのであり、それがなくなったら関係を維持しなきゃいけない理由はどこにもない。
②お礼を言え
連絡なしにお友達を連れて帰ってきていきなりバームクーヘンを切って出せというのはぎりぎり許容できる。
でも何のお礼の言葉もないのはどうなの。
亭主関白なの何なの?
お友達もミソジニストらしいが、それと関係なく二度と私がいるときに来ないでほしい。
整理してみて、侮辱されたと感じてるんだなと。
でもあっちは間違いなく何も気がついていないであろうと。
子供のときはDV夫とまではいかないけど、ど田舎の亭主関白がデフォルトみたいな家庭で育った。
毎日の食事で主菜(肉とか魚とかオムレツとか)は一番大きいのが父親なのが当然、父親の帰り時間に合わせて夕食をとるのが当然で、たまの残業で遅くなった日などは夜10時くらいまで夕食を食べるのを我慢させられたりしてきた。
そういう環境だったから、自分はそんな男とは結婚しない。子供のことを考えた家庭を作ろうと思ってきた。
でも実際に結婚して、子供ができてから自然と夫の好きなおかずを用意したり、なんとなく夫の機嫌を損ねないようにしている自分に気がついた。
子供がまだ小さくて自分で収入がないという引け目もあるし、ここで夫の機嫌をそこねて離婚てことになって複数人の子供を時分が引き受けなければならなくなるということが怖いと思っているからだ。
夫に不満があるということを知人やネットで軽々に相談すると「そんな夫なら別れれば?」と言われるが、子供複数人を抱えて収入と家事の両方を時分が成人年齢まで担っていく自信は自分にはない。
夫が今何を考えているかわからないし、もしかしたら残業と言い訳して浮気をしている可能性だってある。
それでも私は夫の機嫌を損ねるのが怖い。
突然離婚を切り出されて将来に絶望するよりは、今目の前の小さな絶望を我慢していたほうがましな気がして今日も夫の好物を夕食に用意して子供と一緒に遅い帰りを待っていた。
自分は九州のど田舎で、貧乏な家庭の3人姉妹の真ん中として育った。親は亭主関白な父と専業主婦の母。どちらも高卒。
父は癇癪がひどく、酒を飲むと寝てる自分を叩き起こして往復ビンタした。貧しい中、両親共に家におらずご飯が与えられなかったこともある。いつもお腹が空いていて、友人が多かった自分は友人宅でおやつをたくさん食べさせてもらっていた。そのおかげでしっかり成長できたと言っても過言ではない。病院にも行かせてもらえず、ネットが家にひかれているはずもなく子供部屋は6畳で3人一部屋だ。
父に溺愛されている妹、普通の姉、嫌われている自分というあからさますぎて認識できるレベルの差別はあったが姉妹の仲はよかった。
父から嫌われていた理由は自分で考えるに下記2点。自分は父であろうと間違えていると思うことに同意しなかった。また、勉強がよくできたところも嫌味にうつったのかもしれない。
父は自分に過大な要求と思われるものを突きつけ、自分が達成できると、ふーん、で?といった態度をとり、達成できないと喜んだ。要求内容は中学の頃は常に5教科のテストで490点取れだとか、高校の数学のテストで常に満点取れだとか。
また、父は異様に自分を縛った。溺愛されている妹はそんなことはなかったが自分の門限は高校生になっても17時半だった。
貧乏なので部活はお金がかかると禁止され、読書と勉強だけしていた。私立高校は受験料が高いため受験できず、あわや中学卒業と共に浪人生か、という危機と隣り合わせだったものの、なんとか高校は県一の進学校に入学できた。県立高校であるが授業料が払えず奨学金を借りた。大学もなんとか都内の有名大学に進学できた。もちろん奨学金で授業料や生活費を賄った。
大学に入ってから周りの家庭環境のレベルの高さを知りしんどかった。社会福祉の授業中、貧困層の話になり、自分のこれまでの生活よりはいい生活をしてる例が出てきて苦笑。教授が、ここにいる君たちには想像がつかない生活かもしれないが君たちがこういう日本の現状を変えるんだ、なんて言い出してさらに苦笑。児童虐待の話では、親に叩かれたことはあるか?という話になり、ある子が「一度だけ本当に私が悪いことをして叩かれました。その時は叩いた親も泣いていて、今でもその時のことはちゃんと親も自分も覚えてます」なんて言ってて、ああ、本当に素敵な家庭で育ったんだな、と。
格差はどこまでもあった。格差というのは金銭的な話だけでは終わらないものだ。金銭的な問題だけなら何とか乗り越えられるけれど、教養の壁、人脈の壁、知識の壁が非常に厚かった。パソコンを人差し指で入力する自分と当然ブラインドタッチの同級生、論文の調べ方もわからず、図書館に籠る日々。1年間留学に行く同級生、親のコネで就職先を決める同級生、たくさんのお店を知ってる同級生、たくさんの遊び方を知っている同級生、たくさんの将来の選択肢を知っている同級生。たびたびお嬢様でしょと同級生からからかわれたが、ガチガチに縛られていたから世間に疎いだけで、ただの貧乏人である。心が折れそうな日々を過ごした。
社会人になり、自分は自分の人生を取り戻そうと努力した。自費で歯の矯正をして、運転免許もとり、箸の持ち方も矯正し、家に仕送りをし、奨学金を返済し、働きながら専門職の資格を取得し、給料の高い職に転職し、同じ大学を卒業した同級生と結婚し、都内に家を購入した。結婚後は仕送りを辞め親とは2年に一度しか会っていない。
社会人以降トントン拍子で人生が進んでいったように自分でも思えるが、ひと段落ついた今、自分が何をしたいのか見失っている。
自分は得られなかったものを得ようと抗った結果ここにいるが、それが自分が本当に欲しいものだったのかよくわからないことに気づいてしまった。
今の自分に対し「よっしゃー!私はあの生活からしちゃ、大出世だぞー!!!」なんて充実感はなく、当然あるべきだったものが自分にはなかったから装備した、ような気持ちしかないのだ。
では、装備が整ったからといって自分が向かう先はどこだろうか。
自分はこれが好きだ、とか、こうしたい、とかは特にないまま、得られなかったものを得たいというだけでここまできてしまった。
もし、なんて話は嫌いだ。けど、もし、小さな頃に父親が正常な精神を持っていて自分のことも好きになってくれていたら、何か違っていたのかな、もしお金持ちで教養のある親に育てられてたら、何かちがっていたのかな、なんて。
6年付き合って別れた人のことについて振り返ろうと思う。
私は、仕事を頑張りすぎて鬱になった彼を突き放したひどい女である。
彼はとても頭が良くて、ユーモアがあった。
YouTubeもお笑い番組も、彼が見ていたから私も見るようになった。
私ではとても入れないような優秀な大学の中でもずば抜けて優秀な学科に通っていた。
浪人していたことをコンプレックスにしていたけれど、多浪も多い、しばらく不正入試で話題になっていたあの業界である。
と笑って話していた。
ともよく言われたけれど、地方国立大の底辺と頂点ではえらい違いだというのはよくわかっていた。
私と彼では業界は違うものの、大学に入ってしまえばもう道が決まっており、選択肢は基本的に一択しかない。それに抗うよりも従った方が効率がいい、というのは共通していた。
とはいえ、できれば従いたくない、抗いたい、という思いも同じだった。
先に従うことを決めたのは彼だった。
命を救うという大それたことに戸惑いを感じながらも、逃れられないのだと覚悟を決めたようだった。
医学部の中でも地元では最高峰の大学を卒業した彼は、初期研修の時期に救急医療の技能を身につけたいと、かなり忙しい病院に就職した。
あとから、全国の中でも忙しさは指折りだったということがわかってきた。
いつ鳴るかわからない携帯を抱えて家に帰ってくる。鳴らない日も多いものの、鳴るかもしれないという緊張感から逃れられない。
大学時代の友人と会って話をすれば、同じ業界にいながらも自分ほどは忙しくない様子になんともいえない虚無感を感じていたようだった。
はじめはその忙しさでさえ楽しんでいるようにもみえたが、どんどん疲労していくのがわかった。
もともと変わった言動の多い人ではあったが、お金を手にし、時間のない中で、それまでの質素な暮らしから変わっていった。
学生時代は通学定期券代を払うために家の電化製品を売るなど、本当にお金に苦労していた彼だったが、
働きはじめてお金を手にすると、
、というから驚いた。
病院では感染予防のために使い捨てのものも多いとは思うが、まさか靴下を使い捨てにするとは。
嫉妬や多忙、疲労が渦巻く闇に彼が飲み込まれていくようだった。
相手を思いやるつもりでかけた言葉なのだろうという上司の言葉でも、選び方が下手すぎて傷ついていく彼がいた。
癒されている余裕はない。
生活を立て直さねばという思いから気晴らしにコンサートに出かけようと計画をしたこともあった。
しかし、チケット購入まではできたものの当日会場に行くことはできなかった。
彼の優秀さに惹かれていたが、医者であってほしいとは思っていなかった。
彼の生活を支えるために、私はなるべく早く仕事を切り上げて、彼の家に向かい、掃除、洗濯、料理など身の回りのことをした。
多いときには週4日は彼の家にいた。
移動だけでもしんどかった。
仕事が終わる時間が夜8時前であれば家に帰らず、高速に乗った。
夕飯の買い物を済ませ、洗濯を回し、時間があれば掃除をして、夕飯を作る。
彼は、10時に帰ってくることもほとんどなく、日付を超えることも多かった。
はじめは起きて待っていたが、体がもたなくなるため、そのうち仮眠をとりながら待つようになった。
彼が帰ってきたらご飯を食べ、片付けをして、夜食を作り、彼が寝てから家に帰る。
次の日も仕事であることを考えれば、夜のうちに帰れば道が空いているため移動時間が短い。
うっかり彼と寝てしまうと、遅刻との戦いになり、冷や汗をかく。
そうすれば、周囲の理解も得られ、少しでも楽になるのではないか。
そう思いながらも、結婚は遠かった。
朝日が昇るかどうかという時間帯に高速に乗って帰る日々は決して楽ではない。
私が住所を置いていた家と、彼の住む家との生活圏は全然違っていた。
自分が苦しいとき、しんどいときに、いつも苦しんでいる彼に頼ることはできなかった。
頼ろうと思ったこともあったが、結果ストレスが増えるだけだった。
風邪で辛いから長ネギと豚肉でビタミンをとろう、簡単に作れるように鍋にしようと買い出ししたのに、あとは切って煮るだけなのに
幸い、職場環境には恵まれており、自分が苦しいときは力になってくれる職場の同僚がいた。
いつか結婚するのだろう
そうすれば、きっと楽になれるはずだ
と未来に希望を抱いていたとき、彼から勧められて読んだのが、闇金ウシジマくんだった。
正直、私はウシジマくんが好きではない。
ウシジマくんよりはナニワ金融道の方がまだ、よい。
勧められて仕方なく読んだのが、洗脳くんだった。
私はそれまでこの事件のことを知らなかったが、内容が衝撃的すぎて、受け止めるのに時間はかかったものの、事件について少し調べた。
親族を殺させ、そのあと処理をさせる。
なぜこんなことに、なぜ、なぜ、…
どうしたら回避ができた?
どうしたら、
恐ろしかった。
一般的な家庭で、よくあることだと思っている。
女は男を立てるもの。
ウシジマくんを読むまでは、それでいいと思っていた。
正直、男性に対して少し馬鹿にする意味合いも含んでいたと思う。
従っているそぶりを見せておけば満足するなんて浅はかな人たちだ、くらいに思っていた。
男性は偉そうな態度を取るのが当たり前だと。
でも、それでいいと受け入れている感覚こそが、あの事態を招く可能性を秘めているのではないか…
そう思うようになった。
もし何か踏み間違えたら、わたしはこの渦中にいてもおかしくない。
人を信じることは素晴らしいことで、疑うことはいけないことだ思っていた。
性善説を信じてきた。
でも、世の中には、信じ続けて、従い続けて、それがこんなことになってしまった事例が事実として存在している…。
これまで信じてきたことを覆されたような気がした。
私は彼を信じていてよいのだろうか
その先に結婚はあるのだろうか
北九州連続殺人事件は、主犯である内縁の夫がいなければ起こりえない事件である。
しかし
妻が、盲目的に信じていなければ、もっと早く外に出て意見を求めていれば、思考停止になっていなければ、…
ちはやふるの序盤、小学生時代の話の中で、(記憶がおぼろげなのでセリフは正確ではないことをご容赦願いたい)
ちはやが新に
私の夢はお姉ちゃんが有名になること
と無邪気に話すと、新は
という。
彼が医者として立派に働くことは、彼の夢であって、それを私の夢にしてはいけない。
ほんとうに彼を信じていいのか
その先に幸せはあるのか
2人の幸せを追求するのであれば、私は医者を辞めて欲しかった。
けれど、彼は医者であり続けることを選んだ。
私は人生の最大の危機を、闇金ウシジマくんに学び、ちはやふるに救われたと思っている。
2年前、彼と別れ、今の旦那と出会い、結婚し、もうすぐ第一子が産まれる。
あのとき夢みていた穏やかな生活の中で、クリスマスキャロルを見て、ケーキを食べている。
ときどき、よそのお家の、家事育児に非協力的な旦那さんの話を耳にしては、もしあのまま前の彼と結婚していたら…と想像する。
家庭内を殺伐とした戦場ではなく、落ち着ける安心できる場所にしてくれたのは今の旦那である。
私よりも育児書を読み、妊婦のためのレシピを調べ、作ってくれる。
ほんとうにありがたい。
誰か家庭をみてくれるような人の支えなくしては出来ないような働き方を望む会社はこの先も存続していくのだろうか。
その犠牲となり、苦しんでいる人たちはどうしたらいいのか。
今となっては知る術もないが、身を粉にして働かれている方々に救いのあらんことを。
母がスピリチュアルにハマった。
典型的な亭主関白(精神DV込み)な父と過ごした30年間で溜まったストレスが爆発したようだ。
「30年やってこれたのだから、悪いながらもこの先も同じ調子で行けるでしょう」と言う人は多いだろう。
しかし心身ともに快い状態を知ってしまった人が元の悪い環境に戻れる訳がない。
無理してあと30年頑張るのがいいことなのか。(主に父が)寂しい思いをしてそれぞれの30年を生きるのがいいことなのか。
私は過去の母に同情するし、これからの父にも同情してしまう。どちらがいいなんて言うことはできない。
なので、一方的にスピリチュアルによる分断は悪であるとする言説には違和感を覚える。
偉そうな物言いになってしまうが、母がスピリチュアルに求めているものは私は既に持っていた。
自己決定する力だ。
観測範囲内でしかないが、スピリチュアルにハマる人は環境や人に流され混乱し、自分が分からなくなっている人ばかりだった。
スピリチュアルを見下している人は、恐らく取捨選択できる人だと思う。
五体満足であったり普通に友達がいたりと、人は自分が既に持っているものに対する価値になかなか気づけない。
既に手に入れているものを持っていない人に対して、哀れんだり、蔑んだりしてしまうのは、残念ながらやってしまいがちな感情の流れだと思う。
母が「宇宙がね〜」と話し始めたら、私は脳内でシャットアウトしている。
今の母ははつらつとして楽しそうだ。
https://anond.hatelabo.jp/20181110151336
元増田の対象になる30代前半女だけど、嫌だと思った部分を書く
賛否両論ついてたけども個人的に「ない」と思った部分を上げていく
男性の年齢と容姿は人によるので、どんなブサだと本人が思っていても、相性さえよければ「そこがかわいい!」と思えると思ってるので、その部分は最初から除く。
通勤する程度の清潔感さえあれば、数さえ打てばあなたがピンポイントに好みの人はいる。なんとかなる。
婚活で子供希望の女性から見ても「ない」と思ったことを書いていく
いきなりだけど、これは本気でねぇわ。って思いました。
夫婦単体で幸せになる気がサラサラない奴がどうやって子供作る気なんだと。
もし子供がどうしても産まれなかったら、この人は妻をどうする気なんだ。別れて子供産める女に移るのか。元増田の母親の為に。こええよ。人の情もなんもねぇな。
プロフ写真の解像度・照明がバッチリしすぎてる男性は「婚活への本気度がすごすぎて引く」というのは同年代女性でも多いです。
この「何となく嫌な予感」というのは、
等々が一気に駆け巡ってしまうんですよね。
結婚って日常生活なので、ラフな気の抜けた格好の方が将来がイメージしやすいのかも…と思っています。
いつもフォーマルで美容院行き立ての格好でリビングでTV見るわけじゃないだろうし。
結婚相談所やお見合いならたぶんこの方向性で良いんじゃないかなと。
現在働いてる女性側が婚活で子供希望である時、男性のプロフを見て判断するのは、「いつか子供を産むとしたら良い環境で育ててあげたい・もちろん自分も幸せになりたい」という条件で探す訳ですよ。
・相手が40代→子供が速攻で生まれても60歳超えかあ…でもまあ、高齢出産も多いし、定年延長もあるしOK
で
とはならないんですよ。いま30歳前後の働いてる女からすると。
年収差が大きくなればなるほど、夫から家政婦扱いされる可能性を感じて避ける人が多いと思います。
専業主婦希望の方はその覚悟があるので、男性の年収がストレートに魅力になると思うんですが、
なぜか。
・短大、4大卒の女性が増えて、結婚ではなく就職する人が増えた
・ていうか、働かないとやってけない
・年収差が極端に大きい相手は選びたくない(収入を笠に着てマウント取られそう・家事しなさそう)
・家事分担や育休などの価値観は若ければ若い男性ほどしっかり身に付いている
そうなると、選択肢が
「できれば同年代で、自分も働くから相手年収は少なくても構わないけど、私のことを好きになってくれる男性」ってなる。
それが女性側がストレスにならず育児が出来て、夫婦の愛情を受けた子供を育てる環境に直結する…と考える。
だから、まず愛せる「妻」を探すより先に、
まだみぬ「子供」を見ている元増田は、いったいどういう家庭を目指しているのかが見えない。怖い。
夫婦の愛情という前提を飛ばして、「子供」を親のために作ってどうする気なんだと。
夫婦仲がいい両親がいてこそ良い家庭になる、ひいては「子供」の為になる。
(もちろんそうじゃなくても子は育つけど、そうなると元増田の掲げる相手女性への条件の「両親との仲が良好」は自分の子供では達成出来ないと思う。)
ここ追記ですが、
30代前半女の視点だと、周りに20代で出産をした友人がチラホラいるんですが、
切迫早産で4か月入院したとか、早期胎盤剥離で死にかけたとか、事前にスクリーニング出来ない障害を持った子が生まれて半年以上付き添い入院してる…とか、いろんな大変な話を聞くんですよ。
育児でもとにかく寝てくれない子でもう夫婦ともに死にそうとか。そういう、どうしようもできない時に夫との愛情がなかったら怖すぎる…って思ってる。
私は20代の時に一度40代の人と付き合ったことあるんですが(いま私が30前半なので相手はアラフィフの域)、顔も年収もそこまでじゃなくても、話が合うし楽しいし、熊みたいに大きなボディで付き合ってるとき楽しかったです。
別れた理由は色々あるけど、1つは亭主関白な面をみてドン引きしてたんですよね。同年代の男性だといわないような。
ただこれ、私より10歳上の世代の女性だったら、あまり気にならなかったかもと思う。
今20~40代は年代によって男女の価値観がかなり激変するゾーンだと思ってて、昔なら年上がいい!って言ってた子でも、上記の理由で極力同年代を選んでる人が周りでも多いです。
元増田も、ほんの少しだけでも相手女性の希望年齢を上げた方が価値観が近いと思うし、共通の話題も通じやすくなると思う
あと、相手女性への希望年齢の項目は、対象になってる女性でもかなり見てる。ボリュームを広く取ってない男性は「あっ…(察し)」になる。そう言う意味でも対象年齢広めの方が、いい人に見られる効果ある。
東京医大の件がきっかけですごく私は怒っている。というより、自分が味わってきた、世の中の女性が味わってきた不当な扱いに怒っている。
私の子供の父親は、亭主関白的に何かを押し付けるタイプではなく、私が好きなことをやっていることを認めて好きにさせてくれる人であった。彼自身も好きにしたかったのだからお互い好きにやろうぜって。そういうところに惹かれたとも言える。
でも子供が生まれて、お互い好きなことやるために融通しようねっていう話にはならなかった。デフォルトで私が子供と24/7いっしょにいることになった。彼は好きなようにあちこちへ行って、いつ現れていついなくなるのかわからず、結局子育ての戦力には全くならなかった。
そんな状況で私はフリーランスの仕事はほとんど納期に間に合わせられなくて自己嫌悪に陥り鬱になった。仕事ができないから生活も苦しい。目の前で子供が泣いている。トイレにも一人で行けないし、睡眠不足で暖かい食事なんてできない日々。息抜きができたのは友人とか、近所のカフェでお店の人が子供の面倒を見てくれたりしたりした時や、今ではお金払って頼んでいるナニーちゃんで、そういう人的リソースを手配するのも私の仕事であって、彼はあまり当てにならなかった。
彼は子育ては女がやるべきだ! っていうアグレッシブな考えを持っていたというよりも、子育ては自分もやらなくてはいけないものだっていう意識が皆無だったんじゃないかと思う。わたしが友達や他人に頼っているのを見ても、多分ほのぼのした気持ちで見てたんじゃないかと思う。子供は作ったらご飯食べさせて、死なないように面倒見なきゃいけないっていうことがたぶん今でも理解できていないし、それをするのは本来は自分の役目だってのもわかってない。
私も当時は、自分がやるものだと思っていたし、働いていないのにご飯食べさせてもらって申し訳ないと思っていた。今思えば、私が子育てしているから彼は好きなように働けて貯蓄も投資もできるのに、当時の私は子育てをして仕事ができないからお金がないし、結婚してないから彼が稼いだお金は私の財産ではないとおもっていた。
子供って二人で作るものなのに、父親はいつでも好きなように出張に出ることができ、家にいたりいなかったり、連絡しなかったりしても平気なのに、母親の私は美容院行くにも誰かに「お願い」しないといけない。しかもそれが父親であっても「お願い」なんだ。
でもそれを、仕方ないと受け入れてきた自分がそういう悪習に加担していたのかもしれないとも思う。
まあそんな男とは別れたのだけれど、別れた今も私は彼に「娘とあってください」「養育費払ってください」ってお願いしてる。でも全部無視されてるけど。別れた女にくっついている子供は自分ともう関係ないとでも思ってるんだろうか。
東京医大の件も、世の中にある女性差別も、アグレッシブに差別してやろうとしているのではなく、それが当然のことと思っていいる男性と、それに慣らされた女性によるものじゃないかと思う。