はてなキーワード: あまつさえとは
擁護してあまつさえ吉澤観音を「たつきのおこぼれ頂いてる身分」というような言葉で蔑んだくせに
いくら本人に言ってもだめなので吐き出させてください。
有給はまず取れない。持ち帰ってやる仕事が設定されていて、週休完全1日を目指してる。笑えるだろ?
そこで1人めっちゃ気が合うやつがいて、未だに連絡を取るんだが難病指定受けたらしい。
でも月休3日で頑張るんだと。
お前過労が原因の統失少しマシになったとこじゃん。何働いてんだよ。
診断受けた時もさ、できることはやってやるから休職か、せめて仕事減らせって言うの笑って流して、あまつさえ人の尻拭いまで引き受けてたよな。
休んでくれよ、頼むから。
はっきり言うべきだった。まずなんで増田がマタハラになるかもみたいな配慮を勝手にしちゃっている訳?
育児のための時短勤務とかそういう特性を抱える社員を雇用しているA社側が、
本来はうまくマネジメントして、きちっとしたポリシーを持って、外に出しても通用する状態に組み立ててあげる責任があるところ。
そういう調整がイケてない結果として女性社員に過大に押し付けちゃっている状態だったとして、
そうなっている責任を問われた時、A社が自社側ではなく女性のせいにしちゃっていたならマタハラ事案だけれども。
発注している増田側はそれとは関係なく、発注どおりの仕事ができていないなら変な斟酌をせずシンプルにハッキリ伝えるべきだった。
それが誠実な姿勢だよ。伝えることでA社は改善できる、と信用してあげることになるからね。
でも現実にはA社はフィードバックが貰えない状態で、突然足切りを食らった。そりゃ青くなるよ。
はっきり言ってもらえれば、A社側でもまだ調整の余地があったかもしれないじゃないか。
それを勝手に、伝えたら自分がマタハラをかけていることになるのでは?とか、時短社員さんがA社からマタハラを受けるかも?とか考えた。
A社にしてみれば心外なことだと思うよ。失礼なことだ。なぜもっと信頼して、腹を割って話し合ってくれなかったんだと。
その行動は、配慮の末グダグダになったみたいな可愛いものじゃなく、保身のためにすべき事を放棄したチキンな振る舞いだ。
結果、女性に責任を感じさせ辞めさせてしまったし、A社も人材を失う最悪の結果になった。嫌がらせとしては最高の結果だろう。
仮にA社が、どう陳情したところで打つ手なしの状態だったとしても、その事実をA社に自覚させ、責任の所在を明確にし、
穏便に解決を図るためにはきちんと意思疎通を図ることが自分のためにも相手のためにも良かったはずだ。
もし、話し合いを設けたらこじれそうだから一方的に突き放してさっさと乗り換える方が自社の利益になる、と判断したなら、
それはそれでいい。悪役を演じて利を取った自覚があるならそれでも。
でもそうじゃなくて、勝手に忖度して独善的に振る舞った結果を、善人顔であまつさえ被害者ぶって話すのなら、それは邪悪だとしか言えない。
漫画村の一番の問題点は合法か違法かとか開き直っているとかそういうところではない。
海賊版のサイトなんて昔っからあるし、それだけでこんなに問題になることではない。
ではなぜここまで問題が大きくなるか。昔はこういうアンダーグラウンドなことは探す能力が必要だったりとある程度の能力がある人しかできなかったので広まらなかったし、利用者も良くないことは自覚しているのでひっそりとしていた。
が、ここでTwitter。リテラシーや能力のない人にまで広めてしまい、あまつさえそのバカが拡散、バカ理論で正当化までし始めた。
一番の問題は、ひっそりとしているべきものをバカが広めていることなのだ。
ということで私の考えた解決法。
Twitterで漫画村を利用している・拡散しているアカウントをガンガン違法行為で垢BAN申請。
数が集まればTwitterの過去の実績からしてすぐBANされると思われる。
漫画村をTwitterから排除すればバカは自分がバカなことを1mmくらい理解する&新たなバカを抑止。
ぬいママという層は、ほんとTPO考えてほしい
ぬいぐるみがグッズになるのは良い
家で飾るのも、せっかく迎えたぬいぐるみの写真を撮りたくなるのもわかる
でも
子供でさえやらないことをなんでいい年した大人がやりだすんだ????
TPOをわきまえない人が本当に理解できない
こう言うと「TDLやユニバでぬいぐるみの写真とったりする層いるじゃん!」と反論が来そうだけど
同人イベントとかで机上にあったり、鞄につけたりしているのも良いと思う
ただ、普通の、「ぬいぐるみと戯れる」文化がない世界でそれをやられるのがほんとにキツい
けれど、それ以前に人として大切なマナーは守ってほしいと思う
今のぬいママ界隈の何してもいいって風潮、ほんと苦手だ
節度ある楽しみかたをしてほしい
あなたは自己評価が少し低いので、(こんな自分を選ぶなんて)人格器量に優れた夫だ、と思ったのかもしれないが、
夫も自己評価が少し低いので、キラキラ輝いてる女はご遠慮願いたいのだ。
もしあなたが自宅サロンなどを開業し、あまつさえ才能が開花して夫以上にキラキラ輝き始めたら夫はどう思うだろうか?
夫は何者ではないあなたの方が良かったと言うのでは?
わかり手氏のコメントが炎上に近い状態になっており、自分も興味があったのでわかり手氏のツイートをザクっと読んでみた。
以下引用
https://twitter.com/anbakurakoya/status/963574691775447040
https://twitter.com/anbakurakoya/status/964050886040289280
https://twitter.com/anbakurakoya/status/964051192367144961
ここまで引用
要点はここで、「キモさの自覚」というものをどう捉えるか、が肝になる。
私も俗に呼ばれる立派なキモオタなので、自分がキモい、という自覚がどういったものなのか、想像がつく。
ここでいう、キモいことを自覚せよ、というのは、「その欲望を自覚し、公共の世界でそれを表出させないよう注意を払え。」ということだろう。
漫画や小説やアニメは素晴らしいが、まずはそうはいっても、現実に生きる自分は、冴えない集団に属し、替えの利く賃金労働をしており、あまつさえ大っぴらにすべきでない要素で高揚感や幸福感を覚えてしまう。ということを前提にせねばならない。
そしてなにより、人間はそこまで賢くはないので、創作や美談に影響されて、性的であったり、支配的であったりする欲望がリアルでダダ洩れになってしまう。
行くとこまで行けば神の声が聞こえてしまう人がいるように、信心から妄想まで、いつリアルの自分を侵食するかわからないのだ。
ロリコンなので少女を守る、や、YesロリータNoタッチ、という標語はとても正しい視点で、ロリコンがいかに世間から受け入れられない嗜好か、を警告してくれている。
BL業界のような女性に需要が多い萌え業界で、このような警告はあるのだろうか。
BLも、オメガバースも、おねショタも、ロリも、巨乳も、種付けも、触手も、NTRも、何もかもフィクションであるのは誰だってわかっている。
しかしながら、そういった欲望が現実に表れてしまう、というのはみんなわかっているからこそ忌避するし、気持ち悪がる。(これは直感的な事実なので、ソースは聞かないでほしい。)
何も難しいことは書いていない。
要は、善良で無辜なる市民の義務として、それは個性だとか、自分は自分とか言わず、「うわ、こんなんあるんだ。」という態度を社会で示してほしい。
公共と想定されうる場面では、私はまともな倫理観と社会性を持ち合わせています、とアピールしてほしい。
知的な女性はモテない、それは男のプライドが高い・男は自分を上回る女性が嫌い・男に知性を受け止める力がないからだ
なんて言説を信じている人がいるけど、知的だからモテないんじゃないよ。
知性ってのはいろんな能力の総称であって、単純な1方向のパラメータではない。
知識量だったり(さらにその分野は数多ある)、情報をまとめる力だったり、物事を推定する力だったり、
もちろん人間関係をスムーズに保つ力もそうだし、自身を批判的に見たり、数的処理や抽象的な要素を取り出して分析する力など多岐にわたる。
にも関わらず、自分が知性と認めた(というより自分を肯定するために意図的に取り出した)一部分の能力のみの「知性」の高低でマウントをとって、
あまつさえ自身の視野の狭さという知性の低さは無視しているわけだ。
そんな非常に滑稽である様を醸し出す雰囲気から敬遠されているからモテにくくなる。
というか、もっと言えばモテ非モテ、未婚既婚なんていうのは運の要素の方が大きいわけで、
特定の原因のみに注目して、自分を慰めることは不毛だからやめようよ。
知性という要件を設けることで、余計自分で自分を縛ることになるんだからさ。
なんていうのを「ヘルマンヘッセ読んだことない人間に知性を見出せない」とか、
「食事に興味がないのは人間的に欠陥がある」なんて意見にイイネをたくさんつけている自称知的女性を見て感じていたことを書き綴ってみた。
なぜかhttps://anond.hatelabo.jp/20180210004733を見て刺激されて、
twitter文学賞という賞の投票に
http://yuzukonbu.hatenablog.com/entry/2018/02/05/014146
私はジャニヲタでしかも加藤シゲアキのグループのファンだが投票の呼びかけに違和感を覚えてスルーを決め込んでいた
例えば私は作家では歌野昌午が好きなんだけど、
「歌野昌午に1票お願いします」と拡散させたりしてるのを見たことは無い
(私が見たこと無いだけなのか?)
内容が好きそうな人がいたら個人的に「こういう本があるよー」と薦めはするかもしれないし、
頼んでまで票を入れてもらおうとする文学ファンっているんだろうか?
「なにその賞ー?読んで無いけど入れるー」
「お願いねー」というようなやり取りも見かけた
今日ジャニーズウェブという会員制サイトで加藤シゲアキ氏本人が
Twitter文学賞に敬意をはらいつつ、
要約すると
気持ちは嬉しいがNEWSの加藤シゲアキだからという気持ちで票をいれてくれるな
という内容を投稿した
それを受けてもTwitter上では
「裏でなにか言われたんでしょうね」
「ぶっちゃけシゲが書いた本だから買ってる。それのなにが悪い」
というようなつぶやきも見受けられて悲しくなった
なにより加藤シゲアキがかわいそうに思えた
twitter文学賞の趣旨を含め、投票への呼びかけがなぜ咎められたのかということの本質を考えてほしい
投票の呼びかけなどせずに
どうせジャニーズの書いた本でしょ
どうせゴーストライターでしょ
本を出す度にそのような読まぬ評論家からの批判も甘んじて受けながらも
作家活動を頑張っている人をそのファンがさらに立場を悪くするのか
どんなに文学に真摯に向き合っても支持者がそういう考えだということで「ジャニーズだから」という色眼鏡がさらに色濃くならないことを切に願う
2.5次元作品が狂ってしまった、と嘆き憤る方の言葉を読んだ。
そのことについて思うところがある。
誤解のないよう、まず初めに私の立場を表明しておこうと思う。
私は、ペンライトやうちわなどを持ち込んで応援のできるスタイルの作品が、正直に言って苦手だ。「うちわ」が苦手なのである。
作るのが面倒とか、視界に邪魔だとか、そういうことではない。
ピースして、ウィンクして、というような「要求型」の応援が得意ではないからだ。
ただし、くだんの記事で書かれていたように、こういう客席参加型の作品を狂ったとは思わないし、舞台やミュージカルではないとも思わない。
うちわさえなければ普通に、というかハチャメチャに楽しく観劇するだろう。
客席に降りてきたキャストにファンサを貰ったら嬉しくて飛び上がるし、この色と決めていたペンライトのカラーはすぐに揺らいで、軽率にブロマイドを買ってしまう。
界隈にはよくいるオタクだ。
ただ、気持ちは分かる。痛いほど分かる。
あれほどの感情は持ち合わせていないが、理解と共感ができてしまうのである。
例の記事にはもう少し冷静に、悪感情だけを振りかざさずに話をしてくれればよかったのにと思ってしまう部分が少なからずあるが、何言ってんだコイツ、と切り捨てられてしまうばかりではあまりに悲しいので、今回筆を執るに至った次第だ。
なんだよ老害が、と思った方も、時間が許すばら話を聞いてもらえると嬉しく思う。
先ほど、この応援スタイルの作品は苦手だが、舞台やミュージカルではないと思わない、と申し上げたが、それはおそらく2.5次元より先にそのスタイルに出会っていたのが根源にあるのではと思う。
舞台だけれど、歌って踊ってファンを振りまき、客はペンライトを振ったり声援を送ったりする。そのことに対しての違和感があるかないか。そこが私と彼の方との大きな差であろう。
例を挙げるなら、宝塚なんかが有名ではないだろうか。
1部と2部で分けられた構成で、似たようなものが存在している。観たことのある方も多いのではないだろうか。
それから、四季のマンマ・ミーア!なども、近いものがあるだろう。
2.5次元作品で名前をお見かけする俳優さんたちが出演しているものでいうなら、私は数年前に上演された「ボーイ・バンド」が分かりやすい例ではないかと思う。
劇作家であるピーター・キルターの作品だが、世界中で初めての公演を日本で行ったものだ。
これは2.5次元作品ではないのだが、ミュージカルではなく、けれど歌があり、客はその歌に合わせてペンライトを振る。
(ペンライトを持ってくることについて公式からのアナウンスがあった)
少し時間が経ってしまったためよく覚えていないが、演者が客席に降りてのファンサービスもあったように思う。
歌われている曲は大ヒットしたJ-POPだ。(興行主側が曲を決めるらしく、作品として固定の曲はないようである。)一緒に歌ってほしいなどという煽りもあった気がする。
例の定型にはめるのなら、これらは舞台ではないということになるのかもしれない。
こういった作品は、知らないだけで、きっとずっと前から数多く存在しているはずだ。
ただ、昨今の2.5次元作品という界隈で、アイドルのコンサートと一体化しているようなものが乱立している。
2.5次元作品をかじっていればどうしても目についてしまう。それを苦手だと感じる人がいれば、極度の嫌悪感を抱いてしまうくらいには多いと思う。
おそらくだが、嫌悪までいかずとも、僅かばかりもやもやとしてしまう人にとって、そしてくだんの記事を書いた方にとっても、舞台・コンサート・イベントなどの種別に関わらず、興行というものは全て「参加するもの」ではなく「観るもの」なのだ。
ただ、作品を観賞したい。それに尽きるのだ。
だから、舞台上の出来事を受けて起こる笑い声は演出のひとつと受け入れることができても、客席側から舞台上に向かって存在や要求を主張するようなうちわや歓声は必要ないと感じてしまう。
少々暴力的な言葉を使うなら、邪魔なのだ。余計なものだと感じてしまう。
あれが許せるか許せないか。あったほうが美味しいか、入っている意味すら分からないのか。
けれど、公式的にそれが認められ、あまつさえもっともっとと要求までされているのものだから、困惑するのだろう。
どうして、と思う。
そして、自分が好きだったジャンルが「どうして」で溢れかえってしまう。
パイナップルの入っていない酢豚が食べたいのに、流行のせいで中華料理店はパイナップル入りばかりを提供しているのだ。
こんな酢豚は要らない!私の思う酢豚はこんなものじゃない!と感じるのである。
私自身、この手の舞台にっついては冒頭に書いたように苦手な部分があるので、チケット代分をしっかり楽しめる気がしないから近寄らないでおこう、くらいのスタンスでいるつもりだ。
2.5次元作品も好きだけれど、他にもオリジナルなり古典なり、全然関係ないアーティストのライブなり、あちこち手を伸ばしているというミーハーな側面があるからだろう。
回鍋肉でも麻婆豆腐でも何かおいしそうなものがあれば、気が向けば食べる。
けれど、私が好きで好きで仕方ない漫画やアニメの作品が、うちわを持って応援するスタイルの舞台になってしまったら。
「楽しいと思うしそういうのがあってもいいと思うよ、私は行かないけど」という立場を貫けるのか。正直わからない。
きっとあの記事を書かれた方は、一足先にその憂き目にあってしまったのだと思う。
とにもかくにも、最近このドルステタイプの作品が多いのは紛れもない事実だ。
少なくとも私が2.5次元作品を観るようになったばかりの頃は、ミュージカルかストレートかといった分類だったように思う。
それを証拠に、ある作品が舞台化するという情報が出たときは「ミュなの?ステなの?」なんて疑問文をよく見かけた。
この新たなジャンルは、確かに舞台作品の範疇ではあるが、独特な応援スタイルが存在しており、それを楽しめる人もいればとんでもなく苦手な人もいる。
2.5次元ミュージカルの先駆けのひとつと言われ、多くの動員数を誇るテニスの王子様だって、初めは観客もぽかんとしていたという。
テニミュに触れたことがあれば、知っている人も多いのではないだろうか。あの最初の曲。You Know?
はじめの台詞を言っとき、お客さんが「???」という反応だった、と演者の方が話していた。
けれど、2.5次元ミュージカルがここまでの台頭を見せていなかった当時、「何で急に歌いだすの」「ミュージカルでやる必要ある?」と感じていたファンは一人もいなかったのだろうか。
決してそうは思わない。思わないが、徐々に受け入れられ、ファンが増え、公演数が増え、途絶えることなく3rdシーズン。
その折り返しをすぎた今、世の中には同じように漫画を原作とするステージが数多生まれ、『2.5次元ミュージカル』という言葉が自然発生的に生まれ、すっかり市民権を得ている。
今この時代、チケットを握りしめて劇場にいった人の中に「何で急に歌いだすの?」「ミュージカルでやる必要ある?」なんて疑問を感じる人はいないと思う。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観にきているのだ、という人が殆どだろう。
映画などとは違い、舞台は初日の幕が上がるまでどんなものなのか分からない。
当たり前だが、その通りだ。
先ほどのテニミュ初めての公演のもそうであるし、刀ミュが初めて上演されたときなんかも記憶に新しい。
実質ドルステ。そういうような単語がいくつも踊っていた。分からないのだ、幕が上がるまで。
私が知らないだけで、もしかしたら公式サイトのQ&Aなどで、内容が予想できるようなものがあったのかもしれない。
だが、そこまで下調べをし予想についての情報収集をしていく客の割合は、そう多くはないだろう。
少なくとも「ミュージカル刀剣乱舞」のタイトルとフライヤーだけでドルステだろうなんて、よもや想像がつくまい。
そして、とても現金な話ではあるが、決して安くないチケット代を払い、宿泊先を押さえ、はるばる新幹線に乗って都市部へ足を運んで観る。どうせなら、心から楽しめる演出作品のものを選びたいと思うのが人の心理というものだ。
苦手だなと思う私の立場とは逆に、うちわを作ってペンラを振って推しキャラ・キャストを応援するスタイルが大好きで仕方ない人だっているはずだ。
知人にも数えきれない程いる。舞台には行ったことがなかったけれど、評判を聞いて2.5次元のアイドルを応援しにいった女の子。いつの間にかうちわ制作のプロになっていて、自分の住んでいる県でも上演があるのに、このスタイルの舞台なら!と言って、うちわを持ってあちこち飛び回るようになったお姉さま。
舞台を観たことがない人を、いかに劇場に来させるか。そんなことを、制作側から聞いた。これまた情熱大陸だ。大成功である。そして、すっかり確立された演出方法にもなった。
きっと今、文化の変遷と定着の、まさに過渡期に立っているのである。
だからそろそろ、この新しいスタイルの演劇に名前をつけませんか。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観に行くのだ。
これを当たり前にするために。
オペラから派生し、最初は格下だと思われ、あんなもの芸術じゃないなどと言われてきたであろう、そして現代ではすっかり格式と市民権を得たミュージカルのように、いつかこのスタイルの演劇も一つの舞台芸術の形としてウィキペディアに載る日がくるかもしれない。
30歳までまともに恋愛経験がなかったので、本腰入れて彼女を作ろうと努力してマッチングアプリ経由
2回とも非常に和やかに時間が流れ夢のような時間を過ごす事ができた。
2回目のデートの時には、次はどこどこに行こうとか暖かくなったら一緒にどこかにいきたいね~と具体的な話をした。
で、二回とも彼女の方から次の予定をどうするか聞いてくれて、僕自身もかなり彼女にひかれていたので嬉しくて
仕方なかった。
正直、ついに念願の彼女がゲットできるのではないかとドキドキしたし、次に会う約束もしたので、きっと告白しても大丈夫だと思ってうきうきして帰宅した。
が、そこから様子がおかしくなった。彼女に送ったラインが既読にならない。
あれだけ雰囲気が良かったのに、一体何が・・・まさか何か事故かとかいろいろ考えたが、一日考えた結果、ふられたのではないかという事実に気がついた。
そしてその日の夜彼女からかなりオブラートに包んであったが、要約すると恋愛対象として見れないので、あなたの恋人にはなれませんというラインが来た。
のりのりで向こうから次の約束をしてきたのに、断りもいれずに音信不通でしかも向こうからまだ何も言ってないのにお断り。
いくらなんでもひどすぎると思う。いくら30歳彼女いない歴=年齢でもここまでこけにされるほどひどい人生を送っていない。何で気もないのに、勘違いさせる言動してあまつさえ次の約束を取り付けたのか意味が分からない。
毎度不思議なんだけど、お前ってなんでそんな記事があるようなまとめサイトとか5chとか、
そんなんばっかり好き好んで見に行って、あまつさえ感想文まで書かなきゃ気が済まないの?
男叩きのネタが切れたら死んじゃうの?
さっさとTogetterに帰れよ
これって前提として「女性が何の心配もなく夜中にアイスを買いにいける街」っていう、思考実験であって、実現可能性は問わないわけでしょ?
だったら「犯罪者のいない街に住みたいなー」でいいんかなと。
犯罪者も善良な市民もひっくるめて、男性すべてを排除しよう、みたいなこと言えば、男性が不快に思うのは当たり前じゃないんでしょうか。「お前たちは犯罪者か、そうでなくとも犯罪者と見分けの付かない連中だから、入るな」と言い渡した相手が、不快に思うかもしれない、という想像ができないのでしょうか。
アパルトヘイトとの比較がよく取りざたされてますけど、「お前たち白人は差別主義者と、そうでなくとも差別主義者と見分けがつかないから、黒人の街に入るな」と黒人がいい出したら、そりゃやっぱり逆差別ですよね。でも「差別のない街に住みたいなー」は、差別主義者以外、誰も否定しないでしょう。
フェミ(本来のフェミニスト、というよりもネットスラング的な意味あいで)と言われている人たちに今ひとつ同意できないのは、このよくわからない攻撃性にあるんですよね。
この例で言えば、実現可能性を問わない思考実験でさえ、「犯罪者」ではなく「男性」を排除し、あまつさえそれは差別ではないと強弁するとこと。
結局のところ、フェミ、と呼ばれる人たちは、女性の地位向上や犯罪の減少などの問題解決の意思が無いか、もしくは薄弱で、男性の非をあげつらって優越感ゲームで遊んでる、としか見えないんですよね。何で相手を攻撃したり不快にさせないよう、穏当に議論や思考を進めようとしないんでしょうか?
この件におけるフェミの人たちの行動って、
思考実験という建前で男性を攻撃しておきながら、反撃を食らったら、「わたし殴られましたー!見ました?わたし殴られましたー!痛いでーす!」
みたいに見えるんですよね。
※個人の感想です。
もっとも、「女だけの街」が、思考実験として、じゃあ力仕事や汚水・ごみ処理、といった比較的男性従事者が多い職業をどうするのか、みたいなことを考えるのは、控えめに言っても楽しい。そういった仕事を率先して担当する女性が出てくるのか、あるいは誰もやりたくなくて街が荒廃するのか、むしろ女性の方に隠れた適性が発現するのか?とか。
「女だけの街」の方が「犯罪者のいない街」よりも、刺激的でおもしろいし、また想像しやすい思考実験だと、個人的には思います。
でも、それならそれで、「これは男性差別が入ってる妄想だけど」という建前ありきじゃないですかね。じゃないと、結局この思考実験って、性別・性差の諸問題を解決するために、何一つ役に立たないと思うんです。
の話をするのもなんであるが、先頃「ああ東大話法だなあ」という会話を経験した
安富先生の東大話法はある種の人に対する正当で的を射た批判であると思うが、一般向けに提唱されたためか、いかんせん書きぶりがフワッとしている
批判の対象が詭弁を駆使する相手である手前これはあまりよろしくない。「それは東大論法だ」などと言ってもあの手この手ではぐらかされてしまうだろう
安富先生のまとめたことは2-1-2以降、および2-2以降に含まれることになるだろう。基本的には批判、あるいは"これからされるであろう"批判を回避するための詭弁であり、それを「議論を"分かりにくく"するための修辞」や「自らの立場を利用した権威的態度、権威論証」が支える形である。
さらに詭弁の形の一つとして付け加えたいのが2-1-1にある「自ら発言の後からの修正、限定」である。これは安富先生の挙げられた中に明示されていなかったように思うが、個人的にはこれこそが実は「東大話法的な」議論の中核を成しているのではないかとさえ考えている
もちろん「発言に対する後からの説明、注釈」は常識的な範囲では普通に行われるし、従って直ちに論理的誤謬であるということはできない。意味が正しく伝わらなかった時に後から「より詳しく」注釈するのは当然のことである
しかしながら、権威的な立場から発せられるがゆえに重々慎重であらねばならない言葉に対して、それが批判にさらされたからといって後から読み手の予想し得ない限定条件を付け加えたり、ある用語が通常用いられない特殊な意味で使われていると釈明したりするのは誠実性の問題であろう
あまつさえ「元の発言は当然そのような(極めて限定された)意味に受け取られるべきで、そのように受け取らなかった読み手が悪い」といったようなことを言うに至っては、まごうことなき詭弁である(「当然」という部分は権威論証的であるし、誤読の責任を相手に転嫁することは「本当に意味の齟齬があった」にしても不誠実である。もちろん大部分は、批判を無効化し回避するための方策として「相手が誤読したことにする」べく、後から意図的に作り上げられたものである)
言葉の意味や文法は辞書や文法書がア・プリオリに定めるものではない。膨大な一対一、多対多の関係の中において得られた広範な"合意"の集成であり、辞書や文法書はそれを抽出しているにすぎない。まして特権的な人物がその意味をなにがしかできるものではない
そのような合意の元に発せられた言葉の意味せんとすることを、批判を回避したい、相手に責任転嫁したいという邪な欲求のために後から自分の恣にしようとすることは、言語活動の中でももっとも不誠実な部類の行為であろう