富は神が人類に賜うたまものである。ゆえにもし世が神の御心に合う世であるならば、貧者も富者もないはずである。このような世にあっては以下の状態が普通である。
現実は、「多く集めた者」は「余」り、「わずかしか集めなかった者」は「不足」している。
この神に背きたる不自然な社会にあって、富はたいていの場合において不自然であり不当である。
たいていの富はその所有者が作ったものではなく、社会の多数を占める貧者が作ったものである。
この罪の世にあっては、少数のいわゆる「まわり合わせの良い者」が富者になるのであって、本当に自分の力で富を作り出したという人はめったにない。
①怠惰の結果としての貧:×同情しない
②社会の多数を占める貧者:◎幸いする
③勤勉の結果としての富:○褒める
⑤不当の分配によって得た富:×呪う
以下、①、⑤、②について各論する。
キリスト教は、怠惰の結果、貧を己に招いた者に対して同情を表さない。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ伝19章23-24節)
イエスは目を上げ弟子たちを観て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ伝6章20節)
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました(コリント前書1章26-27節)
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか(ヤコブ書2章5節)
上記理想の状態から見て、貧者は神の賜物のより少ない分配しかあずかっていない。したがって、のちにその不足を補われることになる。
他方、富者はより多くの分配にあずかったものであるから、のちにその余分を徴発される。
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した(ヤコブ書5章1-6節)
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか(マタイ伝6章26節)
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました(ヘブル書13章5節)
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです(コリント後書8章9節)
貧者は緊張の生涯である。そして緊張のうちに信仰も起こり、愛も希望も生じる。貧者は貧にいて主イエスを最も深く知ることができる。
出エジプト記終わった。
「偽証してはならない」のところの説明が、注釈者(内村鑑三)が不敬事件で世間からボコボコにされた経験からか、めちゃくちゃ熱くなってて笑った。俺も小保方さんのことを悪く言わないようにしよう。
出エジプト記の続き。
キリスト教って何となく死刑廃止論のイメージがあったんだけど、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」(21章12節)って書いてあってびびった。
一応同じ出エジプト記に「殺してはならない」(20章13節)ってのがあるのだけど、注釈を読むと、前者は後者の例外らしい。
あと関連して、ロマ書の13章に、政府には従えよ~お前ら~税金もちゃんと払えよ~って書いてあってびびった。反権力的なイメージがあったけど違うんだね。
※ブコメ返信
いつもありがとうございます。相変わらずの博学で大変勉強になります。指定された箇所を見て、こんな記述があったのかと驚いております。
また変なこと書いてたら教えてください。どうぞよろしくお願いいたします。
マタイ福音書に「人を裁くな」っていう言葉が出て来て、注釈者によっていろんな解釈がされているんですが、そういうものを読んでいると、どうもこの言葉の射程は①他人を宗教的に裁く場合だけでなく、②裁判官が被告/被告人を裁く場合にも及ぶらしい。
しかし、ネットに転がっている牧師さんの説教なんかを読んでみると、どうもこの立場を徹底しておられない。どういうことかというと、牧師さんは②の場合にこの言葉を適用することはするのだが、裁判官が合理的な判断をする限りで、この言葉の例外なんだ、罪ではないんだ、ということを言っていたりします。
ただ、ここには2点疑問がありまして、一つは、不完全な被造物である人間同士に起こった紛争に、これまた不完全な人間が作った法律を適用して解決しようとしているわけですから、真に合理的な解決なんか出てきやしないんじゃないかという点。
もう一つは、多数の裁判官に対する取材によれば、実際の訴訟においては結論が先に直観という形で現れ、それに合わせて法を解釈していくというのだから、その判断が合理的な解決であるという保証は何もない(せいぜい国民の常識に適っているかどうかが確認できる程度)んじゃないかという点です。
ロマ書の続き。
道徳がなぜ存在するかという点について、日本の教育現場とキリスト教で、考え方が全く異なります。
日本の道徳教育においては、道徳は、これを”守らせる”ために存在します。
しかし道徳(いわゆる忠孝仁義)を守ることが大変困難、ないし不可能であることを、我々は経験上知っています。
守ることが不可能だと分かっているルールを誰が守るのでしょうか。道徳教育の効果は甚だ怪しく、むしろ他人に対する道徳的批判を鋭敏にしただけではないかという疑問が湧いてきます(増田はネットの小競り合いを観ていて特にこれを思います)。
他方、キリスト教では、人が道徳を守ることをハナから期待していません。
道徳は、これを守らせるためではなく、万人に罪の認識を起こさせるためにあります。道徳を完全に守ることが不可能である以上、「だれ一人神の前で義とされない」のです。
その結果、人は行き詰まります。道徳をいくら守ろうとしたところで罪から逃れられないからです。
おわり
http://anond.hatelabo.jp/20160817222557
・私はクリスチャン歴1週間の超ひよっこクリスチャンなので、以下の話は話半分に聞いてください。私の話と矛盾することを言っている人がいたら、たぶんそっちが正しいです。
・聖書(の中でも特にヨブ記)は多様な解釈を許す書なので、そもそも「自殺を望むのはNGだけど自然死を望むのはOK」というのも一つの解釈(私の読んでる注解書の解釈)です。反対説もあります。
その上で、まず議論を整理します。聖書は何を禁止しているかをまとめます。
(c) 「自然死を望むこと」:OK
*なお、ここでは「自然死」を病死、災害死、事故死、他殺を指す言葉として使います。そのため「自然死を”する”」ということは言葉の定義上あり得ません。
ではなぜ上の結論になるのでしょうか。
(1) まず、(a)「自殺をすること」、(b)「自殺を望むこと」が禁止な理由はクリスチャンの間でも議論が分かれるところなので調べてください。私には、このような深遠な議論をまとめる能力がありません。
(2) その上で、(c)「自然死を望むこと」はなぜOKなのでしょうか。
ア. まず、自然死とはいえ死ぬ点では自殺と一緒ではないかという疑問が生じます。
しかし、両者はやはり異なります。第一に、自然死を望んだところでそれが実現される可能性は低いです。自然死を望んだ直後に、偶然殺人鬼がやってきて自分を殺したり、交通事故に遭ったりすればいいですが、そのようなことが起きる可能性が低いことは統計的・感覚的に分かることだと思います。第二に、自殺は「自分による自分に対する殺人」という意味合いがありますが、自然死にはこれがありません。
イ. 他方、自然死を望むのは、精神的に健康とは言えず、これも禁止すべきではないかという疑問が生じます。
しかし、私としては、ここが聖書のやさしさなのだと思います。人生つらいことがあったときに、そのつらい状態から脱する手段として死を望むことは人間の自然な感情です。この感情を持つことまで禁止してしまっては、あまりに人を追い詰めすぎるのではないでしょうか。
以上をまとめると、「自然死を望むこと」はなぜOKなのかというと、①望んだところで実現可能性が低いから、②殺人の意味合いがないから、③聖書はやさしいから、ということになります。
ヨブ記の続き
だってお前ら苦しまないと聖書読まないし、救世主のことも信じないじゃん。成長を促してやってるんだよ。
そんなときは自然を見よう!創造主の偉大さが分かるし、自分が神の下僕でしかないことにも気づくはず。そうすれば神が与えた苦しみにも何か理由があるということに思い至るはずさ。
一見理不尽に見えるが、神は罪の有無にかかわらず苦しみを与えることがあるとしておけば、自分の今のつらさは(罪の無い者に課せられる)試練であると解する余地が出て来るぞ!
おわり
注解と照らし合わせつつ読む。内容のすばらしさに圧倒されて、1日に(注解書の)10ページぐらい読むと、満足して先に進めなくなる。
こんなすげぇ本が紀元前にあった時点で、神っているんだなって思う。